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付録1

<ハイデガー言語論の批判>
                      参照:西洋的思考様式の意義と限界


第5-2章 現象学批判U(ハイデッガー)

 季路,鬼神に事(ツカ)えんことを問う。子曰く,「未だ人に事うること能わず,焉(イズク)んぞ能く鬼に事えん。」曰く,敢えて死を問う。曰く,「未だ生を知らず,焉んぞ死を知らん。」 (孔子『論語』先進第十一)

 「しばらく前に私は,実にぎこちないながら,言語を存在の家と名づけていました。人間が自分の言語によって存在の呼び求めの中に住まうなら,私たちヨーロッパ人は,どうやら東アジアの人間とはまったく別の家に住んでいることになります。」 (ハイデッガー,M.『言葉についての対話』 P16)

 「ハイデガーもまた、実存主義・現象学のことばで、人間の状態の特質を説いている。人の三つの不変の側面は、事実性、実存性、および頽落である。事実性ということでハイデガーが意味しているのは、われわれはある種の必要と要求と習慣を与えられて「世界内」に存在し、各人にとってそれぞれ独自のものであるこの世界を用い、また世界に用いられているということである。これが現象学につながる糸である。まり私にとっての世界は私の世界であり、この世界で目立つ対象が、つまるところ、志向的対象なのである。
 このことは私の実存性に関係する。実存性は、私が私についての、直接の、即時の、そして本体的な知識を持つものだという事実をいう。つまり私が何をしようと計画しているのか、そしてそれをどのように行おうとしているのかを知っているのは私だけなのであるから、私は結局、私にとって予期するのがもっともだと思われることだけを予期するのだということである。
 しかし最後に、頽落もある。世界を用いているこの存在は,まもなく世界によって使い尽くされ、実存性によって使い尽くされ実存性によって与えられていたまさにその自己を喪失(頽落)するに至る。
 頽落の問題にたいするハイデガーの解決は、実存主義の文献にある程度定着している。われわれが自己自身を回復し、もう一度真の存在になるのは、われわれが遂に生の普遍的事実、すなわち死と取り組むようになるときである。われわれは真の自己を、まさに死の恐れつまり不安のなかに見出す。不安は、われわれの良心を呼び起こして、各人の生活の営みのなかに再び自己の優位を確立させる。われわれは、良心により自己として解放される。ここに、サルトルのことばを借りれば『なにものにも還元不可能な・・・・・、心理学者の公理としては表されない』人間がいる。」           (ロビンソン, D. N.『現代心理学の体系』邦訳p 240)

はじめに

 フッサールと同様,ハイデッガーにおける現象学的方法の難解さは,非専門家が「人間とは何か」,「如何に生きるべきか」を考える哲学の道に大きな障害をもたらした。しかしこの難解さは,同時に西洋思想の限界を浮き彫りにしており,その克服は人間理解を深め広め,より普遍的なものにしてくれるであろう。彼の飽くなき西洋思想への固執,その該博な知識による自己肯定と合理化,彼の著作を読めばわかる同じ主張の繰り返しと堂々巡り,そしておしゃべり(Gerede)で構成されている現象学的方法とは,人間存在の意味の混乱を増幅する否定的役割をになっている。
 私は,西洋思想の限界を克服することは容易であり,すでに前編において半ば以上は克服に成功したと考えている。簡単にいえば,自らが生命であること,自らが生きていることを感じること,生きるために言葉は有効な道具であり,言語によって生命が有意義に統合されてこそ人間存在の主体的な生き方が可能になるというものである。しかしながら言語を「存在の家」として,自然と生命から切り離し,またロゴスとして絶対化し神を復権しようとした彼のしつこさ,徹底癖,博学さが問題の理解を困難にしている。繋辞としての「ある(sein)」は,存在ではあっても絶対的な存在ではなく,言葉としてのひとつの存在である。言葉を単純(自然的)に対象化し,その生物学的人間的な意味を解明し,有るべき言葉の体系、すなわち人間としての生き方在り方(人生観・世界観)を構築するのがこれからの哲学の課題なのである。われわれは西洋的な思考様式の限界を乗り越えなければならない。
 さてハイデッガーを批判するにあたっては,主著『存在と時間』を始めに取りあげるわけにはいかない。それは彼自身も認めるように,「言語と存在の関係」の考察が不十分だったからである。存在が時間性において理解し,時間性から存在を確立するという構想が挫折してしまった。なぜか,言語の問題が『存在と時間』執筆時から自覚されていたからである。そこでまず彼の存在論の基盤にある言語観を批判し,その後に『存在と時間』の批判に移りたい。

第1節 存在と言葉

 本章の冒頭に引用した「言語は存在の家である」という命題は,ハイデッガー哲学の本質と限界をよく示している。この命題は『ヒューマニズムについて』(1947)に見いだされるが,その意味は,「存在があって人間の言葉がある」ということであって,西洋的な発想の逆転をよく表している。つまり「存在の規定」は,「存在 Sein」という言語があって初めて成立しているにもかかわらず,彼にあっては「存在が人間をして語らしめている」ということになる。そこでは単に言語は「語りRede」の道具であるにすぎない。これは『存在と時間』における彼の言語に対する立場でもある。
 さらに「言葉と存在についてよく考えてみることが,早くから私の思考の道筋を規定していたものですから,そのために,その二者[言葉と存在]を論究することは,逆に,いつまでも背後にとどまったままになっていたのです。『存在と時間』という書物の基本的な欠陥は,あまりにも早く,遠くまで行き過ぎてしまったことかもしれません。」(『言葉についての対話』p106 なお全集における Sein とZeit の邦訳は,それぞれ「有」と「時」になっているが,わかりやすくするため「存在」と「時間」に改める場合がある。その他 Seiende も存在者と改めたところがある。)
 
 彼は主著である『存在と時間』の欠陥に気づいていたが,その欠陥を克服することはできなかった。その後,言語の論究を深めている1950年の論文『言葉』では,彼の立場をより明確にしている。まずその冒頭の言葉を引用してみよう。
 
 「人間は語る。我々は,覚めていても,夢をみていても語っている。我々は常に語るものである。たとえ,一語も声に出して発することなく,ひたすら耳をすませて聴いていたり,何か読みふけっているときでさえもそうであるし,さらには,聴いたり読んだりする代わりに,仕事に打ち込んでいたり,余暇を楽しんで我を忘れている場合でも,語り続けているものである。・・・・・・語るものとして,人間は:人間たり得る。ヴィルヘルム・フォン・フンボルトはこう述べている。ところが,一体,この:人間とはそもそも何であるのかをよくよく考えてみなくてはならない。」(『言葉への途上:言葉』邦訳p3 強調や下線は引用者による―以下すべて同じ)
 
 ハイデッガーがいかに言語に関心を抱いていたか,また問題を感じたかがわかる。前の引用のように,彼自身は『存在と時間』の限界が,言語の論究不足にあったことを述べているが,それでは後の言語論において十分に解明が行われているのかというと,むろん否である。彼は「言葉とは人間にとって何であるか」とは問わない。彼は,「言葉は言葉としてどのように真にあるか」と問い,「語るとは一体何か」という問いに対して「言語が語るのである(Die Sprach spricht.)](p5)と答える。そして,言語を人間主体から分離し,むしろ,「人間は言葉に応答するときにのみ語る」ということになる。
 彼は,上記の引用文中の省略した文中に,さりげなく「人間は生まれながらにして言葉をもつと言われている」と述べる。しかし,事実は,言語はア・プリオリなものではなく,生まれたままでは言葉はもたない。人間は人間として生まれてくるが,言語は生後の学習によって初めて獲得される。その意味で人間は,他の人間(養育者)から言語を獲得することによって人間になる。言語は,個人にとってはもちろん種にとっても前提ではない。つまり「初めに言葉ありき」ではないのである。しかし,これに反し「初めに言葉ありき」というのが,彼の不変の言語論の立場である。彼にとってはJ.ハーマンが陥った深淵と同じ言葉の深淵に出くわす。にもかかわらず,彼は強弁する。『存在と時間』においてそうであったように・・・・。
 「言葉は:言葉である。言葉は語り出す。今ここに述べた命題が言い表している深淵の中へ我々が敢えて陥るとしても,我々は空虚の中にすっかり呑み込まれてしまうわけではない。我々は高みに落ち込むのであり,この高みのもつ高さが深みを開いてくれるのである。・・・・・・・・・・・・・・
 言葉を追いつつ思いめぐらすとは:言葉の語り出す働きの中へ何らかの仕方で我々が入り込むことでありその入り方たるや,人間なる死すべきものの本質に対して,留まり住みつく居場所を与えるものとして,言葉の語る活動が生起してくる,といった具合なのである。」(同上p6

 彼は,言語の科学的解明による言語観を,「正しい言語観」と認めながら,「異様な役割」をもつものとし,「言葉としての言葉に達することは決してない」と断言する。言葉の真の存在は「語ること」にあるから,語るという働きを完結させ,凝集した「純粋に語られたもの」である「詩」を検討することで,その本質を見いだせるとする。何とも現象学的な論理の飛躍――確かに言語という「事象そのもの」に対する追求にはなるであろうが,言語を対象化することを拒否し(彼自身はフンボルトの言語観を高く評価しているが),人間の活動の結果としての言語(詩)を問題にしようとする。これは人間にとっての言語を考察するのでなく,内面化された言語そのものを,言語を話す人間よりもさきに問題にしようとする本末転倒の議論である。
 「そもそも,言語はその本質に即してみると,表現でも,人間の活動でもない。言葉そのものが語るのである。ここで我々はいま言葉そのものが語り出しているところを詩の中で探し求めてみようと思う。そうすれば,我々がいま探しているものは,語られたものの内なる詩的なものの中に,潜んでいるはずだからである。」(同上p14)

 彼は「冬の夕べ」という詩を選び分析をする(是非本書の閲読を希望する)。その分析の中で重要なのは,言葉における対象(もの,事物,Ding)を指示する場合の「区別」についてである。人間は無限の対象から,自己が関心をもったある対象を区別し,それに名前をつける(言語化)。区別は特定の対象を認識し言語化する出発点である。彼は対象の区別を世界(ロゴス)の一体化と関連させる。
 世界とは,ロゴス的存在であり,区別とは対象をロゴス的存在に一体化する唯一者としての「存在」である。彼はこの区別をUnter-Schied(区ー別)と名づける。「区ー別そのものは,自らが中点となって世界と事物を見いだしてはそれを有らせる,すなわち,二者を相互に連関するようにさせるのであるが,この連関の統一性を熟させるのは,何といってもこの区-別なのである。」(同上 p22)ということになる。
 「区ー別」という語は,そういうわけで,我々の表象が対象の間に打ち立てるひとつの特徴の差を意味するものではないし,また,この区ー別は,世界と事物の間に存するひとつの関係でもない。そういう関係はそれを見いだそうとする表象によって確立されるものである。区ー別というものは,世界と事物によって,その関連性として後から際立って見えるようになってくるものではない。世界と事物に対する区ー別は,事物を生起させて世界の身のこなしたらしめ,世界を生起させて事物の有ることを許すようにさせるのである。」(同上p22 )
 「区ー別が生起してくることで,言葉――静寂の響き――が有るようになる,言葉というものは,世界と事物に対して生起してくる区ー別として現前しているわけである。」(p28)

 終わりに近づくにつれて『存在と時間』との親近性が濃厚になる。
 「いま人間の語るという活動に専ら注目することにして,語るとは人間のうちにあるものを声聞かせることとして捉え,このように考えられた語るという働きが言葉であるとすれば,その時は,言葉の本質は表現であり,人間の活動としかみられないことになってしまう。しかし人間の語るという働きは,実は,死すべきものが語ることなのであって,それだけ切り離されて自立しているものではない。死すべき者の語るという活動は,言葉そのものが語ることとの関係においてのみあるのである。」(同上p2太線は引用者)

 さて以上の説明を理解されたであろうか。彼によれば,実際に語っているのは,ハイデッガー自身の思考・認識・判断であるにもかかわらず,言葉(すでに存在するもの――存在の家として)が,彼の口を通して,また詩人の言葉を通して,死すべき人間の存在を開示し顕現するものなのである。「死すべき者の語るという活動は,言葉そのものが語る」というこの主体性のなさ・無責任性こそ現象学的解釈学の本質なのである。

 以上『言葉』の分析において示したように,ハイデッガーは,言語を対象化し,科学的に解明する(「言葉について Uber語る」)ことによって言語の本質を究明することを絶対に拒否する。つまり「事象そのものへ」という方法にしたがって,意識(心)内部の言語を解明しようとする。とすればどうなるか。言語はすでに意識内部にロゴスとして,論理として獲得されている。従って,人間として言語を獲得してきた生物学的,進化論的背景を解明する余地はない。ここに現象学的解釈の限界性だけでなく,生物学・進化論を受け入れない学問的反動性を露呈する。彼は言語自身に「言語から(von)」言語を語らせようとする。その手段として対話以外にないと考える。『言葉についての対話』から少し長くなるが引用してみよう。(以下の引用中「問」はハイデッガー、「日」は日本人である)

「問 言葉について(uber)語れば,言葉をひとつの対象としてしまうことはまず避けられません
日 そうなると,言葉の本質は消え失せてしまいますね。
問 われわれは言葉から離れたずっと上のところに(uber)身をおいてしまったことになるのです。言葉から(von)聴こうとする代わりに。
日 そうだとすれば,あるのは,言葉から聴いて語ること(ein Sprechen von der Sprache)だけでしょうね・・・・・・。
問 その場合,語るとは言葉の本質の方から呼びかけられ,言葉の本質に向かって導かれていく,という仕方においてでしょう。
日 どうすれば,そんな具合にできるのでしょうか。
問 言葉から聴いて語るとは対話(ein Gesprach)としてのみありうるでしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・
問 その対話は,言葉に「ついて」(uber)の対話ではなく,言葉によって(von)促されたもの,つまり,言葉の本質に用いられて(gebraucht)言ったもの,ということになりましょう。」(『言葉についての対話』邦訳p180ー184 太字は引用者)

 この引用には,現象学の誤りを示す重要な表現が示されている。言葉を対象化し,言葉について語っても,言葉の本質が消えることはない。「言葉から聴いて語る」という方法には,現象学的解釈学の根本的な誤りがある。われわれは自らを生命であると自覚(自己認識)する。しかし現象学は「自覚の過程」を見抜いて(認識して),自らを自覚の過程そのもの(生命の認識過程――自らを対象化して認識する)とすることができない。すなわち,言語による表現が自らの意図を表現するだけでなく,自らの立場を世界の中に位置づけていることを自覚していない。言葉とは生命の生存にとっての手段であり,それ自体がロゴスとしての存在ではない。
 言語は世界の対象を命名(名詞化)し,世界の状態を主語+述語(動詞,形容詞等)として表現する。言語によって表現された世界は,ギリシア的思考においてはロゴスであり,存在そのもの(存在者の根拠)であった。しかし,言語は対象化(相対化)することなくして,本質を究明することはできない。言語の現象学的解明は,その本質において,人間存在の根源となる言語を解明できず,循環論に陥り神秘化するにすぎない。「循環論」については,後に述べる『存在と時間』の中で自己の「解釈学的循環」を肯定的に評価し,循環を極めることの必然性を主張していた。しかし,『言葉についての対話』では,この考えを放棄し「対話」の中に逃避しようとする。しかもその対話は「言葉によって(von)促されたもの,つまり言葉の本質に用いられて」なされる対話なのである。

 「存在と言葉」について論ずる場合,言葉にはその意味・内容としての対象がある。当然「存在」という言葉にも対象がある。「存在」における対象(事象)とは何かについて考えてみよう。
 「一般に言葉,語は体験をあとから表現し,また同時に表現するものであるとされている。この体験において事物および事象が体験されているかぎり,言葉はまた間接的に体験された存在者の表現でもあり,いわば再現である。たとえば,《時計》という語には,周知のような三つの区別ができる。
(一)聞くことのできる,見ることのできる語形という観点から,(二)人々がその言葉によって一般に表象する意味。第三に,事象,すなわち,一つのこの個別的な時計。そのさい,(一)は(二)に対する記号であり,(二)は(三)を指示するものである。それだから,われわれは,多分,《有(存在)》という言葉においてもまた,言葉の形と言葉の意味と事象を区別できるだろう。そうするとすぐ分かることだが,われわれが語形とその意味だけに留まるかぎり,存在へのわれわれの問いによって,われわれはまだ事象へは到達していないということだ。
 もし,われわれが,言葉と言葉の意味の単なる究明によって,すでに,事象と事象の本質を,それ故,ここでは存在を,把握しようと意図したとすれば,これは,明白な誤謬であるだろう。そういう誤りに陥ることは,ほとんど許されないだろう。・・・・それ故,《存在》という言葉と意味は,いかなる事象とも対応していない。」(『形而上学入門』邦訳p96ー97 ) 

 言葉は何らかの事象を前提として創造されたものであり,だからこそ意味を持つ。しかし《存在》については意味はあっても事象はないことが可能である。つまり,「有る(存在するsein)と存在(Sein)」とは,文法の問題であり,命題表現における断定的意味をもつ。断定とは,対象の状態を主体が確認することである。その意味で,「存在すると存在」には,事象が存在しないのは当然である。つまり,「存在」とは人間が意味づけ創造した言語的世界なのである
 だがなぜハイデッガーは存在から事象をなきものとしようとしたのか。それは存在に対する過剰なまでの思い入れからきている。そしてその思い入れとは,彼も指摘するように「存在」と「存在の問」を問うことは,「ヨーロッパの精神的歴史の運命」なのである。つまり有る(存在する)という述語(ロゴス)によって対象と自己を確立することがなければ,自己の存在性を確信することができないというヨーロッパ的精神の特殊性(限界)なのである。

 言語についての彼自身の世界や意図を明確にするために,さらに言語についての論文(講演)からいくつかの文を引用し,説明を加えておこう。まずは『言葉の本質』における,詩人S.ゲオルゲの詩句,「語(ことば)の欠けるところ ものあるべくもなし」についてのハイデッガーの解説である。

 「ものにふさわしい語が見いだされたとき,はじめて,そのものはひとつのものであるのです。そのようにして,ものははじめて有るのです。そうすると,我々が強調しなくてはならないのは:語(ことば)が欠けているとき,すなわち,名が欠けているとき,いかなるものも有ることはない,という点です。語(ことば)がものに始めて有(Sein)を付与することになります。」(『言葉の本質』邦訳 p197)  

 彼は存在(有)と言葉とは密接な関係があることを示しているが,「言葉」なくして存在はありえないと,明確に言葉あっての存在であることを示している。しかし,生物学的な存在論にあっては,存在とは言葉のない存在を前提となければならない。彼においては,言葉とは何であるのかを明確にすることはできないのであるから。 でなければ,上の表現は,確実な論証もなく言語と存在を迷宮入りにし,「存在自体」を絶対化し,そのことによって人間を神秘化してしまうことになるからである。
 「何らかの有るもの(存在者 Seiende)の存在(Sein)は,語[ことば]の中に住みついている。それ故,言葉は存在の家である,という命題が成り立つ。」(同上 p199)  
 『ヒューマニズムについて』(1947)で述べられた有名な表現を含むこの文は,彼の言語観,存在観をより明確に示すことになった。つまり「有るもの(存在者)」すなわち「対象」は,「語の中に住みつく」すなわち言語的規定(言語化・命名)を受けて,始めて他の「有るもの」と区別され明確になり「存在」として確立される。『ヒューマニズムについて』では「存在の家」は、「言葉は存在から生まれ,存在で組み立てられた存在の家」(p48)とされ,やはり存在が主体であって言語はその容器となっている。しかし,これは正しくはない。存在は言語という家の中に住むのではなく,存在は言語そのものなのである。
 言語を正しく対象化しないために,人間にとっての「存在」という絶対的な想像物(実は言語の別名)を想定せざるをえない。彼は自己の想定を弁護して「文法からの言葉の解放」「思考の技術的な解釈からの解放」と強弁し,言語や思考を対象化し,科学的に分析することを「生物学主義の迷妄」(『ヒューマニズムについて』)と排除するのである。

 「問われるべきことの方が語りかけてくるのに耳を澄ます。」(同上 P210) 「言葉はすでに我々にとって常に先立ってあるものです。我々は不断に言葉の後を追いつつ語っていることになるのです。」(同上 p215)
 
 これら2つの引用は,西洋的思考様式の背景にある,思考主体の受動性――すなわち認識や思考の根源を有限な人間主体に置くのではなく,神などの絶対的な外的存在に置く思考態度――をよく表している。人間が生きるとは,様々の困難や問題を自ら問いかつ解決していく営みである。決して「問われるべきこと」が我々に語りかけてくれるのではなく,我々自身が問題を知覚・認識・思考して解決していく。
 様々の問題を解決していくための手段として言葉を獲得し,情報を伝達・構成・創造・記憶して,より適応力を向上させる。言葉は人間が進化の過程において獲得してきたものであり,今日もまた新しい言葉を創造している。
 このような自然科学的に確認できる事実は,ハイデッガーの雄弁をもってしても否定しようのないものであり,その事実が彼自身の言語認識の誤り,さらには言語認識の誤りからくる形而上学的世界観・認識論・存在論そして彼の哲学の全体――それは西洋的思想の根本的様式を代表している――を崩壊させるのである。  

 さらに彼の言語理解の倒錯性,限界性を明確にするために『語(ことば)』(1958)と『言葉への道』(1959)の両論文から2つの文を引用してみる。

 「語(ことば)の支配力は,ものをものとして有らせること(Bedingnis)として閃くのです。語(ことば)は,現にあるものが有るという性質を得るように凝集させる力として輝き始めるのです。」(『語(ことば)』邦訳 p293)
 「言葉をあれだ,これだと言って説明し宣言する代わりに――そんなことをしても,本当は言葉から逃避してしまうだけのことです――,言葉への道は,言葉を言葉として経験して欲しいと願っているのです。・・・・・ここでいまや,言葉に通ずる道は,あの:言葉を言葉として言葉へもたらす(die Sprache als die Sprache zur Sprache bringen),という公式に則って,一層厳格にこの公式の与える導きの糸に沿って歩を進めようとしているのであります。」(『言葉への道』p308ー309)
 
 前者の引用文は,『言葉の本質』と同じように,詩人(S.ゲオルゲ)の言葉を引用することによって,「語(ことば)の秘密」を説明しようとする。とりわけ「語(ことば)の欠けるところ,ものあるべくもなし」は,ハイデッガーの「言語と存在」の関係を明確に示している。彼にとって言語とは,ものを存在たらしめる条件であり制約であり,ものに対する支配力をもっている。
 「語(ことば)は,ものをしてものたらしめる(be-dingen)」また「語(ことば)は,ものをものとして現前させる(anwesen lassen)」という説明がなされる。これを彼は「語(ことばの)支配力」という。このことは言葉によって対象が把握され,世界に位置づけられるという意味では正しい。しかし,誰が言葉を用いるのか,何のために用いるのかについては明確な解明はない。彼にとっては「人間が操るものとしての言語」という捉え方ではなく,「存在者を存在させ関連づける」能動的な働きをもつものである。そこでは,言葉が発せられる人間の欲求・関心や感情・情動は捨象され,言葉の合理性・ア・プリオリ性が強調されることになるのである。  
 後者の引用について,「言葉をあれだ,これだと言って説明し宣言する」ことと,「言葉を言葉として経験する」ことと,どちらが正しいのか。ハイデッガーが結論づけるのとは逆に,「言葉を言葉として経験する」現象学的方法こそ,言葉からの逃避,真理からの離脱,現実の隠蔽につながる。換言すれば,彼の方法は西洋的思考方法や言語観への執着であり,言語の神秘化への道に他ならない。「言語に通ずる道の公式」とされるものは,彼自身が否定せざるを得なかった「現象学的循環」を端的に示すものである。
 
 さて言語について系統的に述べている最後の論文は『言葉への道』と題されているが,その内容は「言葉への挫折の道」ないし「言葉という迷宮の道」ともいうべきものである。哲学や思想は本来的に自己の立場を合理化し,正当化しようとするものであるが,ハイデッガーをはじめ現象学的認識論は西洋的思想の立場の最後の合理化であるといえる。それは神と,その神を創造した人間の言葉の合理化,ハイデッガーの場合は「神・存在・言葉」三位一体の神秘化である。  
 この論考は,言語の自然主義的研究――つまり言語を対象化して科学的に究明し体系化すること――の代わりに,現象学的方法として「言葉を言葉として経験すること」つまり「事象そのものとして」言葉を追求することを目指している。言語を対象化することなく言葉そのものへ到達することを目指す。表題における『言葉への道』とはそのような意味である。
 少し長くなるが,言葉を神秘化するハイデッガーの方法を,跡づけることによって,彼の哲学全体の自己崩壊の道――それは彼の限界を了解できない人にとっても,あくまで西洋思想を擁護しようとする彼の頑迷さ,というよりも西洋思想への執着とその誤りを明示してくれるであろう。  
 まずハイデッガーは,W.フンボルトの言語理論を述べた『人間の言語構造の相異性と人類の精神的展開に及ぼすその影響について』(1836 邦訳表題『言語と精神――カヴィ語研究序説』)を高く評価する。とくに言語が,言語の根源における精神と言語の相互影響という「精神のもつ力の内的な活動」によって作り出されたものであり,また「作り出す活動そのもの」であると述べることに同意している。次の引用文は,ハイデッガーが,フンボルトに共感する命題として紹介している。

 「言語というものは単に相互理解のための交換手段であるばかりでなく,精神が自己のもつ力の内的な活動によって,精神自身と対象との中間に定立する真正な一個の世界である,という感情が本当に心の中に目覚めるとき,言語の中に含まれているものがいかに多いかに気づき,更に多くのものを言語の中に盛り込もうとする正しい道程を,言語は辿っていることになる。」(『言葉への道』邦訳 p306)
 
 しかしハイデガーは,フンボルトの主張に半ば共感しながらも,フンボルトが精神内的力に原動力を求めている点に疑念をもつ。『言語への道』とは,「まず人間をめざす方向をとり,言語を通り抜け言語とは別のもの,すなわち人類の精神的人間の基礎づけとその記述を目指している」のであって,フンボルトは「言葉というもの(das Sprach wesen)」を示していないと考える。それではハイデッガーにとって言葉の本質とは何か。――それは彼の場合,言葉のあり方として現象学的に捉え直される。
 すなわち「そもそも言語のあり方とは,言葉が言葉として現前することすなわち,言葉が言葉として統べられて続いてゆくこと,すなわち,言葉が言葉としての本来の固有のところに到達するように言葉そのもののところに送り届けてくれるもの,そこにいつまでも凝集していること,これが言語のあり方なのです。」(『言葉への道』p308)と述べている。ハイデッガーにとっては,言語考察の通常のやり方(言語の対象化――フンボルトの方法)を「無駄」であるとして放棄する。

 「言葉をあれだ,これだと言って説明し宣言する代わりに――そんなことをしても,本当は言葉から逃避してしまうだけのことです――,言葉への道は,言葉を言葉として経験して欲しいと願っているのです。言葉の本質の中には,成程,言葉が把−握されているかもしれません。しかし,その場合でも,言葉以外の何か別のものによって,言葉が摘み取られているのです。これとは逆に,我々が言葉としての言葉だけに注目するということになれば,今度は言葉の力で我々に要求して,言葉としての言葉に帰属しているものを,細大もらさず,すべて述べることを求めてくるのです。」(同上p308)
 
 言葉は説明するものではなく,言葉として経験すること,言葉としての言葉だけに注目すれば「言葉のほうで我々に要求して」言葉としての言葉に帰属しているものをすべて述べることを求めてくる――何という空想であろうか。
 まず言葉を説明した上で説明の困難さを述べるならまだしも,そのような努力も見通しもなく,言葉自体に沈潜し言葉だけで論理的確実性を求めても,せいぜい循環論法に陥るだけである。精神に主体性をもたらすフンボルトは,まだ言語の本質と人間精神を探究できる可能性を残す。しかし,ハイデッガー的現象学では,死すべき人間を持ち出すことによって人間の有限性を自覚せよと警告を発すだけで,人類的諸問題に対し解決するすべを見いだすことすら(ナチス的暴力を用いることを除いて)できない。西洋的思考の限界は,人類的思考の限界では決してない。  
 話をもとに戻せば,ここでハイデッガーは前に引用した「言葉に通ずる道の公式――言葉を言葉として言葉にもたらす」を持ち出す。彼は言葉に固有のものとして「言う(sagen)」こと,そして「言(こと Sage)」をあげ,それらが自らを「示す(zeigen)」ことによって「経験すること」が成立する。彼は「言葉は言うことにより,つまり示すことによって言葉としての活動を行います。」(同上p314)とするが、それでは,言葉としての活動の「根拠」は何か

 「言葉というものは,人間の語るという活動を必要としておりますが,それにも拘らず,言葉は人間の語るという活動が作りあげたものとのみは言い切れないのです。それならば,言葉というものは何処に依拠しているのでしょうか,すなわち,何処にその根拠をもっているのでしょうか。我々はこの根拠を探し求めながら,実は,言葉を尋ねつつ,その傍らを通り過ぎてしまっているのではないでしょうか。」(同上 p316)
 
 我々にとって,言葉の活動の「根拠」はすでに前編で科学的に論証しているように,生命がそれぞれの環境の中で適応し生きるための「認識と行動の様式」を根拠としている。言葉は主体の欲求や意図を「伝達・思考・記憶」し,主体が環境をどのように把握し,自らの意図を構成し表現するかをより的確に行うための手段として,音声表現が進化して形成されたものである。
 決して言葉自体が,生命活動から遊離して活動することが根拠でも本質でもない。(しかし,言語的思考が空想や妄想を生じさせ,生命活動の目的をそれることになるのも言語的思考の必然的な帰結であった。人間は必ずしも,事実とその原因,運動の法則を正しく認識できるわけではない。ハイデッガーを含む過去の宗教的哲学的な認識・知識や思想もまた言語的思考のなせる結果であった。)  
 さて,彼にとっての言葉の「根拠」は「言(こと)としての言葉の中に道のごときもの有り続ける(wesen)」という思索の中から現れてくる,(根拠の乏しい)語りかけに存している。すなわち,言葉の活動に通ずる道は,言葉そのものの中に潜んでおり,それらが現前していると考える。

 「言(こと)そのままが道なのであり,道としての言(こと)が言(こと)を聴く人々を言葉へと到達させてくれるのであります。我々は言(こと)の中に入り込んで住みつくとき,いま述べた聴く人に慣れるのです。」(同上p 317)
 
 このような「道としての言(こと)」の能力は,前述のような「示すという活動」の中にある。そして「言(こと)の示す働きを語りの中で生き生きと動かしているもの」は,何と天地創造の神話におけるような造物主によるものであり,「最早論究の許されないもの」ということになる。「論究が許されない」とは,最早言語の根拠を追求するのを中止するのかと思いきや,「古い言葉」をもちだして論証しようと試みる。すなわち,その「古い言葉」とは,

 「言(こと)の示すという働きの中で動いているものは,固有の性質をおのがものとすることである。(Das Regende in Zeigen der Sage ist das Eignen)」(同上 p319)
 
 一体,das Eignen という言葉が「固有の性質をおのがものとすること」になるのであろうか,ドイツ語学者でない私にはわからない。しかし,とりわけこれ以降の論考が了解不能に近い(近いというのは控えめな表現であるが)のは,彼の思考(論考)の挫折を意味している。読者は自らこの論文(講演)を読まれるとよい。彼の強がりの性格が,ゲーテやヘルダーリンを引用させ,再びフンボルトを登場させ「死すべき人間」を自覚させようとしているが,最早説得性は皆無である。そのことを承知されながら,彼の創作話,言語構成の恣意性を味わっていただきたい。  
 さて,彼によれば,言に固有の性質としての適応能力(das Eignen)が,示すという働きの中で言を動かしているが,この能力を発揮することが生起(das Ereignen)と言われる。「生起の働きが,言(こと)を通して生じさせるもの」は,何らかの原因に基づく結果ではないし,何らかの根拠から生じた帰結でもない。

 「生起とは,なにか別のものから生じた成果(結果――Ergebnis,Resultat)ではなく,与えて得られたもの(die Ergibnis)であり,この与えるという力が十分のとき初めて「与えて有らせる・有る」(Es gibt――Es とは存在のこと)というようなものが保証されるのであります。」(同上 p320)
 
 このことは,何を意味するのか。「創作話」にもそれなりの背景や説明が可能である。もし「生起」が何らかの成果であれば,生起には原因があるはずである。しかし現象学では,言語を対象化しないから,生起もまた原因でなく,結果を生じることもなく,ただ適応性や固有の性質を発揮し,言の示す働きの中においてのみ把握し,許し与えるもの(das Gewahrende)として経験する。

 「死すべきものである我ら人間は,生涯を通じてこの生起の中に生き続ける」(前出p320)のである。そしてその背景には絶対的に存在する存在が,存在者(das Seiende)を与え存在させるものとして存在するのである(『ヒューマニズムについて』p49〜参照)。
 
 つまり,現象学的思考においては,言語を対象化してはいけないから,知識としての因果関係を拒否し,秘密の解明を断念することを強いている。知識とは,「何がどうあり,どのように為すべきか」の探究である。にもかかわらず,彼によれば,言葉においては,死すべきものとして永遠に,言葉の探究を放棄するところに,「言葉への道」は拓ける「だろう」というのである。
 道についての公式(言葉を言葉として言葉へもたらす)は,言葉について(uber)考える指示ではなく,単に「生起の中に根拠をもつ言葉というものが,自ら活動しつつ道を作ってゆく仕組みの姿を語っている」(同上 p324)と言うにすぎない。そして,この公式が「言葉とはこれであると提示してやろうと思うような可能性などは棄ててしまって一顧もしなくなるだろう」つまり,ハイデッガー的言語への探究の道は,「言葉とはこれこれであると提示すること」を放棄させる,と誇らしげに語る。実はもともと,現象学的方法で言語を探究することは,存在を探究することであり,言語とは存在そのものであるから,方法上循環論法に陥らざるを得ない。このことは,彼自身が言語について一顧もできなくなった理由であり,現象学にとって不可避の限界なのである。  
 生起は根拠(原因)ではないと言いながら,「言(こと)のもつ示すという働きは,生起の中に根拠をもつ」(同上 p329)とされる。また言葉の固有の特徴は,その「生起するところから基本的な規定を受け取っている」と言いながら,「基本的な規定」については述べることはできない。言葉に固有な特徴(生起すること)は,「言葉のもつ特殊な性質に比べると知識の対象にはなり難い」というのである。

 「我々は言葉というものを全体として見まわすことはできません。その理由は,我々は言のあとを追って語ることによってのみ語ることができるのであり,したがって,我々は言の中に組み入れられているからなのです。」(同上 p329)

 確かに,言葉は人間の本質であり,あまりにも言葉が人間存在を覆っているという意味で,上記の引用文は意味をもつかもしれない。しかし,言葉を語ることができるのは,人間の生存欲求としての認識・理解と意図の伝達,および自己の存在の位置づけと行動の方向を定めるためである。彼の現象学的言語論のように発話自体を無視して,言葉自体に発話の根拠を求めることは,西洋的観念論の基調であった。言葉――それは言語的思考によって創られるイデアの構成要素である――を主体に置く観念論は,実存としての人間(主体)を不確実なもの,死すべきものとして,二次的な役割しか与えなかった。上の引用文はこのことを端的に示すものである。

「何かを示して見せる言(こと)が,言葉のために道を拓き,言葉を動かして,人間の言葉の活動と化します。言(こと)は語(ことば)における音声を必要として音声を用います。しかし,人間は言(こと)に帰属しつつ,言のあとを追いながら言を語ることができるようにと,言に耳を傾けるときにのみ,人間は語ることができるものなのです。」(同上 p430)

 このような言語を主体に置く非科学的発想を最もよく示す彼の言葉は次の文である。

 「我々人間が,我々が現にあるものとしてあるためには,言葉というものの中に入れてもらってその中に居続けなくてはなりませんし,そのために,この言葉というものの外に出てどこか別のところから言葉を展望するわけには行かないのですから,我々が言葉をみるとはいっても,我々が言語そのものから見つめられ,言語の中に我々を委ねているときにのみ限られるのです。」(同上 p330)
 
 我々は,言葉を獲得することによって直接的感性的認識を越えて自己を対象化し,世界を客観的に見つめられるようになった。人間の本質をなす言語についても当然のごとく対象化することができる。我々は独り暮らしを強いられたとしても,一旦言語的行動様式を獲得すれば,言語から離れることは困難である。
 この言語を自己の言語で対象化しなくとも,他人(例えばハイデッガー)の言語活動を対象化することができる。人間としての種は,言語に関して共通性をもつことは明らかである(ハイデッガーとフンボルトの対象とする言語はその様式において同一であり,そうであるが故に意志疎通が可能である)。
 自己の用いる言語で,他者の用いる言語を十分に対象化し得るし,その後その知識を自己に当てはめてみることが可能である。そうであるが故に,我々はハイデッガーの誤りを指摘することができる。
 ハイデッガーと私の言語が了解不可能であるはずはなく,そうであるが故に,彼の誤った理論の根拠を,我々は了解しうるのである。  私は彼の言語論を了解不能と言ったが,彼の言語論が誤っているという意味で使用している。私は,上に示した彼の誤った言語理解の根拠を理解できる。  
 彼は,なぜ誤ったのか。「言葉の中に入れてもらって居続けなくてはならない」のは,「神や絶対者(の言葉)」があって,彼自身が存在すると信じているからであり,もし神は人間が作り,言葉は進化の過程で生存のために人間が獲得した生存手段であることを理解すれば,彼のような誤った考え方は起こり得ない。彼は病的なまでに根源的に西洋思想の限界の中に執着している。確かに人間は,過去に多くの言葉を作り,それらを構成して様々の世界を創作した。神話,宗教,説話,おとぎ話,哲学,倫理,社会観――それらの思想はすべて歴史的・社会的・心理的背景をもつ。現象学,実存哲学,マルクス主義もそうである。
 ハイデッガーも,言葉による新たな世界理論を構築し,創作しようとした。しかし彼の思想は根源において「西洋的限界」を背負っている。

 彼はこの講演の最後にフンボルトの言葉を引用して終わっている。本節を終わるにあたり,彼が期待するのとは異なる意味で,すなわち「西洋思想の限界の克服」という意味でこの引用を示しておこう。

 「言語の音声を変化させることなく,ましてや,言語の形式や様々な規則を変えることもせずに,時が,理念を展開させ,思考能力を昂め,さらに,感受の能力を深めていって,その言語がかつて所持していなかったものをその言語にもたらすことが往々にしてあるものである。そのときには,同じ器であっても,新しい意味が盛られ,同じ徴しであっても今までとは異なったものが与えられ,同一の語の結合の規則に従ってはいても,従来とは違った段階での理念の歩みが示されることになる。」(同上 p324)

 今や言語の新しい意味として,生命(いのち)という言葉で我々自身の存在が示される時代が始まる。神が生命を創ったのではなく,生命が言葉と神を創ったのである。

第2節 『存在と時間』批判の観点

 前章カント批判において導入をしておいた「存在」を解明するために,ハイデッガー自身も「言語」の重要性に気づいていた。いやむしろ後に『ヒューマニズムについて』で、彼は次のように述べている。

 「『存在と時間』で初めて述べようと試みられている思考が,得たいと思うただ一つのことは単純なものです。存在は,単純なものとして,秘密に満ちたものですし,押し付けがましく支配するものでない単純な近さです。 この近さは言葉そのものとして現成します。」(『ヒューマニズムについて』邦訳p47)

 しかし彼は存在を確定することに完全に失敗した。言語の本質をまったく理解し得なかったからである。彼の言語観は根本的に転倒していた。彼は「言語はもともと存在に属している(die anfangliche Zugehorigkeit des Wortes zum Sein)」(UBER DEN HUMANISMUS, S.10)と述べているが、そうではなく、逆に存在が言語に属している。さらに言えば、存在(〜ある)とは人間による対象の言語的判断であり、その結果なのである。


 本節では彼のもっとも述べたかった「世界観」について,根底的な批判を加えておこう。

@ 方法上の問題点
 現象学的研究方法の失敗――彼に根源的に欠如しているのは,「問うこと」そのものを問うことの欠如,すなわち「問いの意味」を問うことの欠如である。彼は「存在の意味」を問うたが,「問うことそのものの意味」は問わなかった。存在とは何かを問うよりも先に「問うことそのもの」を問うことが,人間存在の本質を解明することになる(根源的疑問の意味については,すでに前編で述べた)。人間は認識の意味を問うことなくして存在を問うことはできない。「認識論は存在論に優先する。」存在の開示(Schlossenheit 解明)は,存在を解明する人間の認識能力を問うことによって始めて可能となる。人間の認識能力は生物学的言語論的視点に立ってはじめて明確に説明しうる。  存在一般の意味解釈・解明のために彼がとった方法の欠陥は,次の方法的態度表明に端的にあらわれている。

 「その(存在するものの解釈の)困難さは,主題である対象(現存在)の在り方と主題化する態度そのものに基づくのであって,わたしたちの認識能力の欠陥だらけの天性,或は見たところたやすく埋められそうな適切な概念化の不足に依るものではない。」(『存在と時間』 邦訳上p41ー42)
 
 すなわち西洋的存在論の起源が,人間の言語的認識能力に対する偏見(非合理性に対する恐れと完全性の追求)に基づいているということである。人間存在の解明には,たとえ欠陥があっても,認識能力と人間的認識の根源をなしている概念の相対化こそ不可欠なのである。現存在(人間)の在り方は,認識能力の批判を必要としているし,またそれを主題化する態度は,現象学的態度ではなく,存在を「問うこと」,「思考すること」そのものの人間的認識論的意味を問わねばならないのである。

A 人間論の誤り
 生物学的方法と言語論の欠如――人間を「可能的存在」「被投性(過去)」「投企性(未来)」として捉えるのは正しいが,その根拠――すなわちなぜ可能的であり,過去と未来において捉えるべきなのか,の解釈は正しくない。人間は言語を獲得することによって過去を保存・蓄積し,未来に生きるのであり,また生存の可能性を拡大することになった。
 その意味で人間存在を「時間性」において捉えようとしたのは充分な意味があり間違いではない。しかし,時間性がなぜ人間において問題になるのか,を究明することはできなかった。彼のように人間存在を時間的限界性においてのみ捉えるのは,人間存在のあり方を誤らせることになった。時間的限界性を強調すれば,それは永続的な生存への挑戦ではなく,排他的閉塞的な「死」の問題に行き着かざるをえない。それが西洋的ドイツ的伝統の墨守につながり,ナチへの協力的態度にもつながったのである。  
 また可能性は,実存的カテゴリーとして「思考の前提」にはならない。言語的思考があってはじめて可能性が認識され自覚される。人間が存在可能性(すなわち時間性)を自覚しうるのは言語的創造的認識においてである。したがって,可能性が現実性に優先することはあり得ない。可能性は一つの理念であり,理念とは人間の言語的創造的認識能力の所産である。また,すべてハイデッガーの思想も『存在と時間』の著作も,人間の生物学的言語論的認識能力の結果的所産である。人間の有限性(死,不安,転落等)だけから道徳性(良心)を考察するのではなく,生命的生存そのものから道徳を構築しなければならない。
 現代は,地球的規模での人類的生存のための道徳が求められている。生命の生存は、個体死を論じるだけでは不十分である。個体維持とともに種の生存は生命論の絶対条件である。  
 彼は基本的に人間存在の否定的側面(死,不安,転落,気味の悪さ等)を強調し,肯定的側面を軽視している。「死の実存論的解釈は,すべての生物学および生の存在論に先立って在るのです」(同上 中p227)という彼の主張は,良心論が否定的側面から現象学的に捉えられており,良心の経験的情緒的側面や積極的側面が隠蔽されている。
 
生の哲学との違い――ハイデッガーは,自らも述べるようにディルタイの「生の哲学」の強い影響を受けている。周知のように生の哲学は,理性を強調する合理主義の哲学に対し,知性だけでなく意志や情緒を含む精神的な生を重視するものである。この点で生の哲学は西洋的合理主義を批判しており,我々の立場と軌を一にする面はあるが,西洋哲学における解釈の枠内にあり,生の哲学もまた我々にとっての批判の対象である。我々の立場は,いわゆる生の哲学に由来する解釈学とは異なり,人間存在や人間歴史など人間文化のすべての解釈ではなく,新しい生命観,人間観・歴史観,すなわち人間に関するすべての価値判断の根源を批判的に創造し確立しようとするものである。

B 認識論の誤り
 カントとの比較において,ハイデッガーは,「存在」を確実なものとして構築するため,「開示性」という概念に見られるような主体性なき認識論に陥っている。彼にとって,認識の解明は,現象学的方法という偏見のために認識主体に光が当てられない。つまり,人間は「関心(Sorge)」のもとに「関心」を前提として,存在的にすでに「開示」されている。「存在」が認識(関心)のもとに「押しつけられている」にもかかわらず,彼はその過程を認識しない。つまり,現存在は主体の認識によって開示されるが、彼にあっては開示の過程(認識過程)が欠如しているのである。

 「現存在の存在を関心とする解明は,こしらえられた一理念を,現存在に押しつけるのではなくて,存在的=実存的にすでに開示されているものを,われわれのために,実存論的に概念にもたらすのです。」(同上 中p135)
 
 西洋思想における主体性なき存在論とは,ギリシアの神話,ホメロスの叙事詩,そして自然哲学以来の伝統である人間を被造物として合理的存在として捉える立場である。それは人間の感性と情動を対象化する認識的態度,すなわちそれらを知的合理的対象として言語化する認識的態度である。この態度は,カントにとっても克服できなかったが,しかし,カントが試みたように、認識論は存在論の前提にならねばならないのである。

C 存在論の西洋的限界
 「ある(存在する)」は人間の言語的判断である。命題は言語によって成立するが,これは人間の言語によって構成されたものであり,人間の問題意識や関心(何がどうある、何をどうする等)の対象を表現したものである。従って「真理は認識と対象の一致である」というのは幻想である。赤いバラを「あのバラは赤くある」と表現するのは,単に赤いバラに対する社会的・平均的表現、すなわち情報の開示・表現にすぎない。つまり真理を絶対的なものと考えるのは正しくない。言語表現はすべて人間的所産であり,時間的空間的限界(個人的経験に支えられているという限界)を持つ。だが端的に「存在とは何であるか?」に答えようとすれば,彼のように補足しがたい「問いの循環論法」に陥るのではなく,次のように言うべきである。意味論的に答えれば、「存在とは,生命を支え,人間の生存を支えるもの――すなわち言語である。」これは言語の本質を述べたものではないが、言語の解明が西洋的限界を克服することになるのである。

D 自我(Ich)論の限界
 上記の批判の観点を補強するために,<自我論>について述べなければならない。いずれも近代の西洋哲学において中心的な問題となったものである。

 自己(個体的人間)の存在をどのように無限の世界の中に位置づけるか。中世以前は神の存在によって自己の存在を合理化した。デカルト以降は「考える自我」(肉体・延長・物質・空間性と分離したものとしての精神・理性・思考)をどのように意味づけるかが哲学上の大きな課題となった。イギリスにおける経験論ないし唯物論は「自我」を観念的なものとして切り捨てた。
 ハイデッガーにおいても「自我」とはどのようなものか,ということは難問であった。彼はデカルト的単純さを「世界をもたないたんなる主観」(第25節)ないし「無世界的な思考するもの」(第43節)と否定しているものの,明確な自我論を構築し得なかった。彼のしたことは,人間を「共同存在」「世界内存在」(社会的存在のこと)として自覚し得た者(人 das Mann)が,日常性を克服して「本来的な現存在」(人間)になりうることを示したことのみである。
 
彼はデカルトを批判して,「人間の<実体(本質)>は,心と肉体の総合としての精神ではなくて,実存なのです」(第25節)と言う。しかし,我々は――説明を要する表現であるが―端的に次のように言うことができる。「自我(私という個体を言語的に表現する存在)とは,言語的に構成された身体と精神(情動・感情と思考)の総体である。」

第3節 方法上の問題

――現象学的方法の批判,認識論に対する存在論の優位の批判,言語論の欠如の批判――  

 彼自身の主張の引用によってその問題点を説明してみよう。

 「たとえばメガネをかけている人にとっては,メガネそのものは距離的にははなはだ近く,彼の「鼻にのっかかっている」が,この使用中の道具は,彼にとっては,真向かいの壁にかかっている絵画よりも環境的には遥かに遠いのです。」(『存在と時間』邦訳 上p205)「たとえば歩いていくときに,街路は一歩ごとに触れられていて,およそ手もとにあるもののなかで最も近いもの,最も実在的なものだと思われています。いわば街路は,肉体の特定の部分すなわち足の裏に沿って移動するのです。それにもかかわらず街路は,こうして歩いている人に「路上」二十歩「距てて」出会う知人よりも遥かに遠いのです。環境的にまず手もとのものの近さと遠さとを決定するのは,見まわしによる配慮の働きです。」(邦訳 p205 下線部引用者)

 つまり,現象学的な見方は「事象そのものへ!」であるから,「遠近の判断」は現在意識化されている事象(真向かいの壁)に向かっておれば近く,普段意識しない「メガネ」は,より遠い。同じように路上を歩いているがそのことを意識せず,離れて見いだした知人のほうが近い。つまり,現象学的方法にとっての事象とは,事象を意識するその意識にとっての存在だけが優先的に存在し,意識していない存在(対象)は事象としては,可能的存在である。このような見方のどこがおかしいのか?誤っているのか? これはフッサール批判でも解明したように,「事象を意識(認識)する過程」の解明を捨象することを前提としている。現象学的方法は自らの方法として,認識の過程すなわち「事象そのものへ」があるにもかかわらず,その認識の過程を捨象し,そのことによって認識した結果のみを存在とみなす誤りを導く人間は対象を認識するときすでにその対象が「何であり」「どのようにあるか」を判断している。しかもその判断は意識すると否とに関わらず「言語によって表現される」のが人間の認識の特徴である。

 「ひとは「自然」とか「客観的に」測られた事物の間隔とかに予め方向を定めることから,このような<距たりの解釈>や見積もりを「主観的」だと称する傾向をもっています。しかしながらこのことは,ひとつの「主観性」ではあるが,それはおそらく世界の「実在性」のなかで最も実在的なものを発見する主観性であるけれど,「主観的」な気ままとか,「それ自体」では,他者である存在するものへの主観主義的な「把捉」などとは何の関係もないのです。現存在の日常性の見まわしによる,<距離を取りさる働き>は,「真の世界」の自体存在を,すなわち,実存しているものとしての現存在のもとに,すでにつねに存在しているものの自体存在を,見いだすのです。」(同上p204)
 「現存在が空間的なのは,見まわしによる空間発見という仕方においてであって,つまり現存在はこのように空間的に出会う存在するものに対して,つねに距離を無くしながらかかわっているのです。」(同上 p207ー8 )
 「見まわしによる配慮作用とは,方向を定めながら距離を除き去ることです。」(同上p208 )
 「<距りを無くすること>と<方向を定めること>とは,内・存在の構成的両性格として,現存在の空間性をすなわち配慮しながら見まわしをつうじて,発見された内世界的に<手元にあるもの>の空間性と,世界・内・存在の空間性とを規定しています。」(同上 p211)
 
 ハイデッガーにおいては,空間への自己の位置づけは,客観的な基準によっておこなうのではなく,「見まわしによる空間発見」「配慮作用」という主観的基準による。しかし<距離を無くすること><方向を定めること>と,他者との関係の認識・確認というのは,生物学的根拠によって明らかにすることができる。すなわち,第二章のカント批判でも明らかにしたよう(ハイデッガーでは配慮)に,人間にとって空間とはまずは物質的感性的な存在であり,その空間の認識は感性を通じて行われる。決して論理的に構成されてはじめて空間ないし空間性があるのではない。  
 ハイデッガーは自らの主観的世界ないし空間解釈を,現象学的方法という認識過程を無自覚にさせる神秘的思考操作によって解明しようとする。つまり,「メガネ」と「真向かいの壁」についての遠近を「配慮しながらの見まわし」によって判断し,配慮しておれば近く,配慮していなければ遠い。ここで問題は,どのような配慮であるか――遠近を問題としながら距離を無くすることは,一種の意図が無自覚的に行われている。自ら意図しながら,意図を無視するところに現象学的方法の欠陥がある。「事象そのものへ」と言いつつ主体の判断過程(意図)を無視しているのである。
 人間存在の認識能力を解明しないこのような非科学的方法によっては人間存在を解明することはできない。むしろ自らの現象学的方法の生物学的根拠すなわち人間的言語的認識能力をこそ徹底的に究明するべきであった。そうすればギリシア的西洋的伝統における「存在」「ある」が人間の認識・思考によって判断され,言語的に規定されたものであることが確認されたであろう。ホッブス以来の経験論の系譜が言語の解明を徹底できなかったのもまた西洋的限界ではあろう。

<実証科学とハイデッガー的存在論>

 ハイデッガーの問題意識は,フッサールの現象学の問題意識を継承し,アリストテレス以来試みられてきた学問(知識の体系 Wissenーschaft)を基礎づける存在論の確立である。フッサールは学問の基礎づけのために,実証科学の方法にみられる科学的判断(自然主義的態度)を中止し,「事象そのものへ」と探究の道を進み,認識や存在を可能にしている「理念」とは何かを「純粋意識」のなかに探究しようとした。しかし「判断中止」もまた認識であり、「判断」であることに気づこうとしなかった。判断とは認識の過程であり,認識論は存在論に優先するべきであるにもかかわらず,認識を超越しうる存在(理念)があると考えた。このように現象学の出発点における誤りは,数学の基礎づけや,『イデーン』の挫折,そして『諸学の危機』の叙述によくあらわれている。『存在と時間』に次のような記述がある。

 「これらの(あらゆる学問を成立させる根拠となる)根本概念は,その真の証示と「基礎づけ」とを,ただ当の事象領域の前もっての徹底的な研究のなかにだけもっているのです。けれどもこれらのそれぞれの領域が,存在するもの自身の区域から得られるかぎり,このような先行的な,また根本概念を創り出すところの研究は,存在するものを,その存在の根本構えにおいて解釈することにほかなりません。このような研究は,さまざまの実証科学に先行せねばならず,また実際それができるのです。プラトンやアリストテレスの業績がその証拠です。」(同上p32)

 この引用における「前もっての徹底的な研究」「先行的な,また根本概念を創り出すところの研究」「実証科学に先行せねばならず,また実際それができるのです」という表現は,西洋的確信にもとづいたハイデッガーおよび現象学一般の研究の特徴である。現象や現実に先行してこれらを支配する神やイデアの存在を主張する哲学は,古来から観念論として批判されてきたが,そのような批判であっても観念論の根拠(言語の究明)まで根本的に究明し批判したものはなかった。
 実証科学を含めた学問の基礎づけをめざすこの研究方法は,今までの論証から明らかなように,フッサールを含めて失敗してきた。実証科学に先行する根本概念とは何か,つまり「存在の意味への問い」を解明すること,存在を時間性によって解明(了解)すること,ハイデッガーにとってはこれによって問題が解決できると考えた。しかし『存在と時間』によって目論まれたこの意図は,人間の限界性とそれによって確認しうる人間の実存性を自覚しうることにとどまり、所期の目的を実現することはできなかった。学問の基礎づけすなわち存在の意味の解明を目指す彼の試みは,彼の意図からやや離れて人間の実存の解明を可能にしたのみで,逆に存在の意味の解明を混乱させるにことになったのである。
 
 『形而上学入門』からも引用してみよう。「なぜ一体,存在者があるのか,そして,むしろ無があるのでないのか?――これは明らかにすべての問いの中で第一の問いである。」(『形而上学入門』邦訳 p11)これは「形而上学の根本の問い」としてハイデッガーが指摘した,「最も広く,最も深く,最も根源的な問い」である。我々はこの問いに端的に答えることができる。つまり、まずはこのように「問うことができるのはなぜか」、「人間は何ゆえに問いをもつのか」,ということがより根源的であるということである。そしてその答えは,問いを成立させるのは動物としての生物生存の基本構造に由来する。前編第1章で述べたように,動物は厳しい自然環境に適応し生存を維持し続けるために,自らに適した環境と食物を見いだし選択しなければならない。人間は進化の最終段階において,生命の最も根源的な生存手段としての言語を獲得した。人間の言語的思考能力が,「存在」や「存在者」,「神」や「無」などについての問いを可能にさせているのである。  
 ではなぜハイデッガーは上記のような「問い」を究明するにいたったのか,この問いの解答は,西洋哲学的存在論の方法すなわち形而上学においてではなく,実証科学における人間の言語能力の解明と西洋思想の特殊性の解明によって氷解する。

<言語と存在>

 言語は,基本的には音声記号と,それが表す社会的平均的意味(つまりイデア的理想的意味内容)をもち,対象(主語名詞)の状態や判断を述語で表現する論理形式をもつ。つまり、何がどのようにあるか,何が何とどのような関係にあるか,何が何をどのように判断するか・・・・等々を表現するのが言語である。しかし西洋的思考様式においては,このように言語を対象化し相対化することが容易ではなかった。言語表現のなかに論理学の基本が含まれていることに着目する哲学者も出現しなかった。これは言語表現が思考の形式でもあることに気づかなかった哲学者の思考の怠慢でもある。しかし,より根源的には,人間が被造物であり,言語化された世界(ロゴス,観念,イデア界)を確実な存在と考えた西洋的思考の伝統が,言語を相対化することを困難にしている。そこで,今までも述べてきたように,今日における西洋思想の限界性については,言語の問題を解明するとき始めて明らかになる。  
 言語の表現するイデア的意味を「存在」とみなすハイデッガーの哲学理論構築の特徴は,言語はその主体となる人間が使用するものであるにもかかわらず,言語そのものを一人歩き(自己開示)させ,ハイデッガー個人の思考の結果(思想)を一般化,イデア化しようとすることである。例えば,以下のような表現はその典型例である。

 「将来的に自分に帰来することによって,覚悟性は,現前しながら自分を情況のうちに持ち込みます。既在[性]は,将来から起こるので,さらに詳しくいえば,つまりこの既在した(より適切には既在している)将来が,現在を自分のうちから起こしてやるのです。わたしたちは,このように既在的=現前的な将来として統一的なこの現象を,時間性と名づけます。現存在が時間性として規定されている限りにおいてだけ,現存在は,自分自らに対して,先駆的覚悟性という目印をつけられた本来的な全体存在可能を可能にするのです。時間性は,本来的な関心の意味として露われます。」(同上 p52 )
Zukunftig auf sich zuruckkommend, bringt sich die Entschlossenheit gegenwartigend in die Situation. Die Gewesenheit entspringt der Zukunft, so zwar,das die gewesene(gesser gewesende) Zukunft die Gegenwart aus sich entlast. (Z326)

 「覚悟性」という『存在と時間』の基礎概念――「良心によって証言された本来の開示性」「最も自己的な<責め在ること>への沈黙的で不安を用意している自己投企」――は,本来は人間の意志の状態であり,意志の形容(覚悟をして何かをする)のための抽象名詞であって,「覚悟性」が何かをしたりするものではない。ハイデッガーは,「覚悟性」を人間の1つの特性または機能をもった主体であるかのように意味づけ,主体化(主語化)して表現する。「将来」「既在」「現在」という概念についても副詞的にあるべきところ,「将来」が主語になっている。「時間性」についても同様である。
 つまり主体の「覚悟性」は人間の意図的反応であるにもかかわらず,主体として一人歩きしてしまう。そして「覚悟性」の主体である人間が,「情況」の中に入るにもかかわらず,「自分=覚悟性」を主体として,その上位概念である人間を越えて持ち込むことになる。さらに「将来」は人間主体の想定したものであるにもかかわらず,主語となり「現在」を「将来」から「起こしてやる entlassen」のである。  
 このような人間の判断の一部(ほかにも曖昧性,意欲性等が考えられる)を主体とする表現は ,哲学的文学的には許されても,人間の存在を科学的心理学的に究明するためは許されるものではない。なぜなら何事かをなすために決断するのは人間の判断であり,その判断は「覚悟性」が行うものではなく,覚悟性の主体としての人間(私個人)が行うものである。人間の判断を捨象して人間から離れた対象を分析抽象し,概念化したことによって,その概念(覚悟性)が,主体となって自律的に扱われる実は,ヘーゲルは,「概念の自己運動」という概念を創造して壮大な哲学体系を構築したが,これこそ西洋的合理的思考方法の転倒した究極の姿なのである。(「学を現存させるものは概念の自己運動にあると,私は考える。」『精神現象学』序論)

<自己開示>

 「存在がわれわれに対して多様な仕方で自己を開示している。」(『形而上学入門』 p146 p152)というハイデッガーの問題意識は西洋思想の根本的存在理解であり,これほど大きな誤りはない。「存在」が主語になるのではなく,「人間(われわれ)」が主語となって「存在」を区別・判断し,表現する。つまり,「存在(あること)」は,人間主体が対象を言語によって判断・断定・限定・定義したもの(結果)であり,「存在が自己を開示する」という倒錯した発想は,彼自身が反語的に述べる「西洋の精神的歴史の運命」にすぎない。また彼による形而上学的な問い――「なぜ一体,存在者があるのか,そして,むしろ無があるのでないのか?」は,存在者を問う以前に,「なぜ」という問いが,「何が」「どのように」という問いとともに,「なぜ」あるのかを問うべきであった。この問いを問う前に,彼には問いそのものにたいする問いが,もっとも根源の問いとして欠如していた。以下に現象学的思考によって再生し,ハイデッガーにおいて挫折した存在論的考察をより詳しく解明していこう。

 まず一般読者にもわかるように,「存在」について何が問題になっているのか,を明らかにしよう。西洋において「存在」すなわち英語の being, ドイツ語の Sein, フランス語の etre, 等は,日本語の「〜である」のように文を表現するための単なる手段ではない。日本語ではbe 動詞(sein動詞)は必要なくとも,対象の状態を表現できる。「このばらは赤い」(this rose is red)とは表現するが,「このバラは赤くある」と表現する必要はない。つまり,言語表現の本質は,対象の状態(と主体の意図)を表現することであるのに,西洋では「存在」を表現している。なぜか。西洋では言語は本質的に所与の「存在」(世界の存在は人間が言語化したものではなく,ロゴスの秩序として与えられている――与えられた結果としての「存在」)を示し,人間の判断を越え「超越的」に存在しているものだからである。
 
 言語は確かに人間にとってはア・プリオリであるかにみえる。しかし事実は,言語の獲得は人類的にも個人的にも,社会的に発明され個人的に実現されるものなのである。この「西洋における言語の所与性」を理解しておけばハイデッガー理解は明確になる。「存在がわれわれに対して自己を開示している」とは,世界の存在は,死すべき有限の人間を「媒介して」言語的表現をするという意味なのである。実に彼はギリシア的西洋的伝統に忠実なのである。

<存在と存在者(Sein und Seiende )>

 恐らくほとんどの読者はハイデッガーの書物など読まれないだろうし,読まれても容易には理解されないだろう。彼の哲学で特に重要な概念は「存在と存在者」であろう。両者の関係については,彼の哲学の基本的概念であり,『存在と時間』を理解するために必要な概念である。彼自身もそのことに配慮している。『形而上学入門』で次のように存在と存在者を説明している。

 「理解を助けるために少し例を示そう。この通りの向かい側に高等実業学校の建物が立っている。それは何か<存在者>である。われわれはこの建物を外から四方八方窺い探ることができるし,中へはいって地下室から屋根裏に至るまで歩き回り,そこにあるもの,廊下,階段,教室およびその備品などをすっかり見定めることができる。到る所でわれわれは<存在者>を見つけ出す,しかもきちんとした秩序をもって。ところで一体どこにこの高等実業学校の<存在>があるというのか?そんなものはどこにもないように思えるけれど,しかしこの学校はあるのだ。その建物はある。この<存在者>に何かが属しているとすれば,それの<存在>こそそうである。にもかかわらず,われわれはその<存在>をこの<存在者>内部で見つけ出すことができない。」(『形而上学入門』邦訳 p62 < >は引用者)
 
 この引用において<存在者>とは,建物,備品等具体的事物であり,<存在>とは実業学校である。「存在者」は知覚的対象であるが「存在」は,脳内に記憶されている実業学校のイデア,観念,内容である。そして,彼によれば両者の関係は,「存在」は「存在者」に属していることになるが,「存在者」の内部に見いだすことはできない。上の例であれば,建物等の「存在者」に対する「実業学校」という命名は,人間の介在によって成立している。つまり感覚的存在としての「存在者」は,人間の言語化とともに「存在」の性格すなわち意味づけがなされる。「存在者」は感覚的対象であるが,「存在」はその対象を言語化し意味付けたものなのである。
 ではなぜ,そのような解釈が彼にとって可能でありまた必要であるのか。それは彼が「存在」を言語記号とその意味に分解することができず,人間の言語化やその意味づけを理解することができないからである。それはプラトンが,言語の解明を目指したにもかかわらず,イデアとの関係を解明できなかったことと同じである。このことは言語やイデアをア・プリオリなものとして理解してきた西洋的ギリシア的伝統に正確に一致するものである。

<言語における発想の転倒>

 「始源的思考は,存在の好意の反響であり,その好意において唯一なるものは自らを生起せしめる。それは存在事物(das Seiende)が存在するということに外ならない。この反響は,存在の音声なき声の言語に対する人間の答えである。この思考の答えは人間の言語の根源であり,その言語が,それを諸々の言語に音声化することとしての言葉を初めて成立させたのである。」(『形而上学とは何か』邦訳 p78)  

 ハイデッガーの「存在」と「思考」と「言語」の関係はこの引用文に見られるとおりである。つまり彼にあっては存在がまず存在して,その好意によって,存在が自らを生起させ,それによって具体的存在事物(存在者)が現象し,人間の思考を通じて言語化される。具体的事物への興味・関心→区別・思考→存在の確定ではなく,まず存在があって,それが人間の思考を経過することによって言語化される。彼によるこのような転倒した思考の過程は,ギリシア的西洋的思考に多かれ少なかれ共通している。彼らにとって,人間的思考は,言語によって成立していることが見えない。つまり「自己の思考」と「人間的思考を成立させる言語」を相対化することができないのである。    私はこの背景をかつて『西洋思想批判試論』において,人間の真の主体,人間存在の核心は欲求の表現形態である「情動ないし感情」であること,そしてギリシア的思考は,その感情・情動を言語化・合理化する(喜怒哀楽の感情を行動の動因として言語化する――「怒りが私を奮い立たせる」のように)ことによって人間の核心(人間は感情的な存在であること)を見失ったことを解明しておいた。その意味でハイデッガーは,ギリシア的心性(人間の主体・核心となる情動・感情の合理化)にもっとも近いということができる。しかしそのような思考様式を克服しない限り人間存在を解明することはできないと言うことができるのである。

<存在を問うこと>

 「このなぜと問う−問いは存在者のために,存在者そのものと同種類で同一平面にあるにすぎないような原因を求めているのではない。このなぜと問う−問いは,平面とか表面とかいったような所で動いているのではなく,「根ー底」に横たわっている領域へ,しかもその究極にまで,極限にまで突き入るのである。この問いは深みをめざし求めているので,あらゆる皮相と浅薄とに背を向けてしまっている。この問いはもっとも広い問いであると同時に,深い問いの中でももっとも深いものである。」 (『形而上学入門』邦訳 p15)
 
 彼は,問いそのものの意味について問いかける。前編の言語論でも述べたように,問いには基本的なものとして「何が,どのようにあるか」という問いがあることを示した。そして「なぜ」という問いがもっとも哲学的な問いとして検討されるべきであることを示唆しておいた。端的に結論からいえば,「なぜ」という問いは,ハイデッガーも述べるように,対象とその状態の根源・根拠を追究する問いである。しかし彼にあっては,この問いがどこからくるのか,人間はなぜこの問いを発することができるのかについては,その根拠の解明に失敗している。彼には「問いの言語的起源」についての問題意識がないからである。問いの言語的起源は,動物の認知・行動の様式,対象がどのようにあるか,なぜあるのかの根拠(原因)への問いが,人間的な高度の問いとして言語化されたことに対する問題意識の欠如があるからである。

 「「ある」(存在すること)という言葉でもって,わたしたちはいったい何を考えているのか,と問われたばあいの答えを,わたしたちは今日,用意しているでしょうか。いやいや決してそんなことはありません。それだからこそ,存在の意味への問いを,改めて提出する必要があるのです。」  (桑木務訳『存在と時間』岩波書店 1960 上巻 P15)
 「むしろ現存在は,自分の存在において,この存在そのものを問題とする存在するものであることによって,存在論的に優位をみいだすのです。」(同上 P34)

 われわれは問いを立てるとき,何らかの「答え」すなわち「存在」を前提としている。「答え」「存在」を前提としない問いは虚しい問いである。なぜなら,「何があるか,如何にあるか(Was ist ? wie ist ?)」という問いは,生物学的な根拠を持った,人間にとって最も根源的な問いであり,この問いは「あるか?」という問いの形式からもわかるとおり「存在」を前提としている。またこの問いに対する答えが存在しないことを仮定すれば,この問い自体も成立しない。
 重要なことは,問いを立てること自体が生物としての人間の特徴なのであり,存在の意味を追求する以前に,問いを立てることの意味を根拠づけることが必要なのである。つまり,問いを立てることは,人間にとって生きることにほかならない。生きることは自己の存在を世界に位置づけることであり,我々は言語によって世界を構成し,その世界の中に自らを位置づけることなのである。

第4節ハイデッガーの問題意識

 これまでの記述からわかるように,現象学的方法の限界ないし誤りは,言語(概念)を認識論的に正しく位置づけ対象化することができず,確実性の根拠を求めようとしたことである。言語という事実の解明は,直接に認識論や存在論そしてそれらの基礎となる論理学の解明につながる。しかし,現象学的方法は,言語的事実を究明するのにア・プリオリな論理を「言語的に」構築しようとした。論理自体を,言語的事実にもとづいて解明しているのに,論理の中で循環してしまう。それはまるでコンピュータのCPUの内部で論理が循環して暴走している状態と同じである。コンピュータの暴走は,電源を切ってプログラム自体を初期状態に戻す以外にない。しかし,プログラムが誤っておれば,同じ暴走を繰り返すだけである。現象学的プログラムは,現象学的思考の根源にある言語自体を一旦対象化して,科学的に解明し再構成しなければならない。しかし,現象学には,自らを訂正するプログラムはない。ハイデッガーの良よき解説者であるM.ゲルヴェンは,的確に彼の方向を要約している。


 「事実の説明は,事実の結果ではありえない。それは,まさに,論理的に事実に先行しなければならないのである。このようなわけで,ハイデッガーの実存論的分析とは,自己の存在の認識を可能とするア・プリオリな諸条件の分析なのである。」(『ハイデッガー『存在と時間』注解』邦訳 p31)
 
 彼は「事実を説明すること」「論理的であること」「存在の認識」の生物学的な意味を理解していない。事実を説明するために,説明を成立させる条件を論理的に(ア・プリオリに)確立することは不可能である。経験を可能ならしめるものは生命の存在そのものである。生命の存在をこえて超越論的なものは存在しない。つまり,事実に先行するア・プリオリな条件というものはない。条件を「問うこと」,そのような疑問をもつこと自体が,言語的な制約を受けている。そして言語を問うことは,言語的事実を問うことである。問うことが論理的なことであり,問うことを可能にする条件は言語的事実の分析によって初めて可能になるのである。

<カント批判の失敗>

 方法上の問題点の分析から,ハイデッガー哲学の意図が「自己の存在の認識を可能とするア・プリオリな諸条件」であることがわかった。この問題意識は,カントの,認識を可能にするア・プリオリな条件(形式)の解明と同じである。カントは,現代の西洋哲学にとってつまずきの石である。カントが認識を成立させる純粋悟性概念(カテゴリー)を,析出したことは,認識論から言語を排除する決定的な原動力となった。概念を操作する主体がそれによって隠蔽され,人間の認識を超越したところに,認識成立の条件があると思わせることになった。つまり,特定の概念としてのカテゴリーが絶対的なものとされ,その概念(因果・質・量など)が認識を支配するという誤まった認識過程が成立した。つまり時間・空間・因果・質・量などが,自然を認識するための人間の創造物であることを覆い隠すことになった。このような事実をハイデッガーはどのように理解したかを『カントの純粋理性批判の現象学的批判』(以下『カント批判』と略記)から見てみよう。  
 まず,彼はカントの問題意識における根本的な難点が,「世界という現象を誤解しており,世界概念が彼のもとでも彼の後継者たちのもとでも解明し尽くされていない,」(上記 P32)ということにあると指摘する。これはカントが認識論を確立することによって,絶対的道徳を構成しようとしたことと関連している。彼は普遍的認識論を確立しようとしたが,ハイデッガーは人間の自覚的実存(自由な決意)にとって存在が成立すると考えた。つまり人間にとって世界とは次のようである。

 「みずから決意することができ,自己自身に対してこれこれの仕方ですでに決意してしまっているような,そういう有るもののみが世界をもちうるのである。世界と自由は人間的実存の根本規定として,きわめて密接な連関のうちにある。
 学の本質を現有の有の様態――すなわち実存――からして解釈する,というわれわれの意図にとっては,以上に挙げられた現有の諸規定――世界・内・有と自由――だけで十分である。」(『カント批判』邦訳 P23)

  そして,存在者(自然)に含まれる「それ自体における存在(自然を規定する存在)」を規定(実は捏造)しようとする。それこそが彼にとっての学問である「存在論」なのである。その存在論は「存在者がそれ自体において存在する存在者として存在させる」ことであり,存在者の露開性(自己開示性)を構成する契機は何か,を解明することである。しかし,学問的解明は,存在と存在者の関係の知的解明であり,両者を「対象化」することが不可避となる。
 ここで対象化とは何か。彼の問いは,この問いの中で循環せざるを得ない。この循環論証は『存在と時間』の第2節「存在への問いの形式的構造」においても,現象学的方法の特性として弁解がましく述べられている(彼は後に『言葉についての対話』でその誤りについて述べている)。

<「企投 Entwurf」の問題点>  

 『存在と時間』において重要な意味をもつ実存的用語の「企投 Entwurf」について,引用しながら批判的に解明しよう。

 「有るもの(存在者 Seiende)をその覆蔵性から奪取すること,そしてまさにそのことによって有るものにその<独自の>権利を与えるということ,すなわち有るものを有るものとして,それがそれ自体において有る(存在する sein)ところの有るもので有らしめるということ,このことにのみ戦いは向けられることになる。
 われわれは問う。このような関わりを――すなわち,有るものをその露開性における有るものだけのために露開することを――構成している本質的な構造契機は何であるか。前学問的な関わりから学問的な関わりへの態度転換がそれによって行われるような,そういう根本作用は何であるか。
 われわれは,それによって学問的な関わりが学問的な関わりとして構成されるようなそういう関わりのことを,対象化(Vergegenstandlichung)と名づける。では,対象化とは何を意味するか,そして,対象化の遂行の根本制約は何であるのか。」(同上 p29)

 彼は対象化の本質を「存在するものが何であり,いかに有り,どこから有るのかという問いに対して釈明するという仕方で,有るものは露開しつつ問いかけることに“対面して立つ(entgegenstehen)”のである」と表現するように,人間が存在について問いかけると同時に,存在するもの自体が,自らを釈明するかのごとく,対面して立つこととしている。これは一体何を意味するのか。彼はこのことで学問のあり方を述べている。すなわち,学問の対象としての「存在するもの(例えば自然)」は,露開することや露開しつつ規定することの対象となることである。ある領域(例えば物理,生物等)の対象化は,存在理解を形成し根本概念を獲得することである。例えば,物理学生成の必然的な本質には何が属しているか。彼は述べる。

 「自然は,それが何であるかということに関して先行的に境界づけられ,それによって自然は,時間のうちにおける物質的物体の場所の変化の閉じられた連関として問いかけられ,規定されうるようになっていなくてはならない。自然を自然として限界づけているもの――運動,物体,場所,時間――は,数学的規定可能性が可能になるような仕方で思惟されなくてはならない。
 自然はその数学的体制に向かって,あらかじめ企投されておらねばならないのである。・・・・[すなわち,ガリレイやケプラーの業績は「自然の数学的企投」があり「自然の有の体制の企投」なのである。]つまり「自然の数学的企投の光ののうちで,すなわち,物体,運動,速度,場所,時間,といった根本概念によって境界づけられることのうちで初めて特定の自然の事実が自然の事実として通路が開かれたものとなる。自然の数学的体制が露開されることにもとづいて初めて,自然を尺度や数や重さにしたがって認識しつつ規定することはその権利と意味とを獲得するのである。」(同上 p33-34)

 この論法の誤りは明らかであろう。ハイデッガーにとっては,物理学における数学の位置づけは自然的対象の手段としてではなく,自然的対象そのものが数学的であり,「有の体制」とされる。しかし,数学は,自然における定在ではなく,人間自然から自然を構成するために創造したものであり,自然の存在そのものではありえない。数学は自然に限りなく接近しうるが自然的対象ではないのである。  このことから,学問は対象化によって成立するものではあっても「数学的企投」や「有の体制の企投」ではありえない。そこで彼の説明の限界が見えてくるし,彼自身もその限界を認めざるを得なくなる。西洋的な学の基礎づけ(根拠づけ)は,前述したような循環論と挫折に陥るか,何らかの絶対的な存在(神)を前提しなければならなくなる。
 
 これに対し,我々の立場は,言葉による問いそのものが,対象化そのものであり,問うことは人間の欲求であってその実現は自己を世界に位置づけ安定的に維持するという目的をもつということである。しかし,ハイデッガーの,存在者(世界・自然)に対する学的認識は違う。認識主体の認識や判断を越えたところに学的認識を求めようとしている。認識における限界性を前提とすべきであるのに,彼は現存在の有限性から出発して,存在者が自ら学的真実を露開するものとみなしている。その上で,「対象化」が問われる。  しかし,これは彼にとっては不可能な問いであり,彼には答えはない。だから彼における対象化は,人間主体の認識における対象化ではなく,存在者自体の対象化ということになる。つまり,彼にとっての対象化とは,「有の体制の企投」ということになるのがうなずける。認識主体の分析を排除しているのだから,対象化遂行の根本制約など解明できるはずもないのである。
 
 「企投(Entwurf)」とは認識作用でありそこには認識主体が介在しなければならない。しかるにハイデッガーにあっては有[存在]は主体が規定するものであるにもかかわらず,また彼自身がそれをなしているにもかかわらず存在の「自己根拠づけ」とみなすように,自己とは認識主体のハイデッガー自身ではなく,彼の認識の結果としての「有[存在]」なのである。従って彼は当然のことながら,限界に突き当たる。すなわち「学のうちで遂行される自己根拠づけは,すなわち学によって達成される学の領域の有の体制の投企は,いかなる意味で必然的な限界に突き当たるのか。」と問う。
 
 しかしこれはまたもや循環論法に陥っており解答不可能な問いである。学(Wissenschaft)の根拠づけは知識そのものの根拠づけであり,知識の根拠づけは人間的認識の根拠づけであり,人間的認識の根拠づけにはその手段として道具としての言語の解明が必要であり,言語の解明には人間の生命としての認知と行動の存在様式の解明が必要なのである。  彼は自己の方法が限界に陥っていると知りつつ,問題意識は明確である。彼の不満は,自然現象を分析する概念(空間,時間,質量,因果関係)の由来・根拠が曖昧なまま放置されていることである。「学の自己根拠づけを根拠づけるという必然的な営みこそ,学の本来的な基礎づけである」と言うように「存在」の探究を続行しようとする。

 「<物理学者の>問いの設定や研究は,彼の対象――物理的な有るもの――に関しては独自の規定性と確かさをもってはいるが,空間や時間や運動に関して考究しようとすると,物理学者は不確かになる。なぜならこの場合には彼の方法が役に立たないからである。」(同上 p36)

 学の基礎づけのためには「問いそのもの」の基礎づけが必要である。我々にとって「問い」は,高等動物が対象(環境世界)を的確に認識し自己の行動を方向づけるための情報操作の端緒であること,「問い」は,そのような生物学的根拠があることをすでに論証している。しかるに,自然科学の根拠づけをしようとしたハイデッガーは,次のように道を踏み外す。

 「学の自己根拠づけの根拠づけは,すなわち学の基礎づけは,前オントローギッシュな有(存在 Sein)理解を表明的でオントローギッシュ[存在論的]な有理解へと作り替えることのうちに存している。このオントローギッシュな有理解は,有の概念と,有の体制そのものの概念とを主題的に問う。学の基礎づけは学に外から添付されるようなものではない。有るものについての学の基礎づけは,その学のうちにそのつどすでに必然的に存している前オントローギッシュな有理解を,有の探究へ,有の学へ,すなわちオントロギーへと形成しあげることなのである。」(同上 p38[ ]は引用者)

 つまり彼によれば,学(知の体系)は,学の外部から添付されるものではなく,学の内部にそのつどすでに必然的に有している前オントロギッシュな存在理解を出発点として存在を探究することである。しかし,この探究は,認識自体も言葉も探究の対象にしない。現象学的方法として対象化自体を拒否するのである。
 しかし,そもそも学として学の根拠を探究すること自体が対象化であり,基礎づけや探究自体に言語的論理を含んでおり,認識の基礎を構成している。彼等現象学者はその点を理解しない。現象学的な「事象そのものへ」というスローガン自体が,事象そのものが「何であり」「どのように」探究するべきかという「存在の学」すなわち「オントロギー(存在論)」を生成するには,このように「認識のもつ論理性」を前提しなければならないのであり,それを無視して「存在」を探究し,学を根拠づけることは不可能である。彼らが構築しようとした「有(存在) の体制」なるものは,言語を相対化し得ない西洋的創作話にすぎない。

 「因果律のうちでわれわれは,自然それ自身に関して何事かを認識する。それによってわれわれの認識は拡張され,綜合的認識となる。なぜなら,有るものの一切の変化においてあらゆる変化は原因に続いて起こる,という仕方で自然という有るものがその有に関して規定されているというということは,「原因」という概念からも「結果」という概念からも,純粋に分析的に引き出してくることができないからである。しかし他方,こうした綜合的命題は,経験によって初めて根拠づけられるものではなく,有るものについてのあらゆる経験の根柢に,あらかじめすでに自然に関して言表された命題として,存しているものである。したがってこのような命題は,アプリオリでありながらしかも綜合的であるような判断である,あるいは,綜合的であってしかもアプリオリであるような判断である。」(同上 p53下線は引用者)

 因果関係の生物学的根源は,原因や結果の概念にあるのではなく,刺激に対する反応とその記憶という事実に由来する。我々は不断の運動の中で,ある部分を認識しそれを刺激として反応し,記憶する。刺激・反応・記憶の連鎖が原因と結果として了解されるのである。従って,「存在者についてのあらゆる経験の根底」にあるのは,刺激と反応・記憶の連鎖であって,命題としてあるのではない。命題は,刺激・反応・記憶という神経過程を言語化したものである。ア・プリオリなものはあるとしても命題としての判断ではなく,刺激反応性と記憶から大脳前頭葉の連合中枢がもたらす判断である。
 対象自体と他の対象との関係における運動や変化は物理化学的な作用反作用であり,生物学的認識論の観点から言うと,認識に直結する細胞の刺激反応性そのものが因果性を意味するものとなる。すなわち,経験の根底に存すると言うよりも,経験そのものが刺激すなわち原因,反応そのものがすなわち結果なのである。従ってカントやハイデッガーの言うように,因果関係の認識(すなわち経験)を成立させる純粋悟性概念が経験に先立って存在するのではなく,認識そのものが因果関係の表現形態なのである。(ただし因果関係の認識は対象を空間的時間的の特定の位置に確定することができて始めて成立するのであって,量子的運動のようにそれが困難な場合には因果的把握も困難であると言える。)
 しかし因果関係の必然性の認識が常に真理であるとは限らない。認識には常に誤りが付きまとう。例えば人間は死後どうなるか。宗教や哲学は死後の世界や苦しみの原因をさまざまに想像し,人間の存在の不安定性(不条理性)から逃れるために,その存在をを意味付け,合理化してきた。人間は,結果に対する原因や理由を追求する存在であるということもできるが,それは言語を獲得する以前の動物的認識・行動様式を起源としている。ただ,なぜ(why,warum)という問いに対する解答は,言語的思考によってのみ可能になったのである。

 「直観作用は認識する存在者(Wesen)から自由に発源するものではないし,いわんや,直観されたものそれ自身もまた認識する存在者を根源として眼前に有るようになる,というわけでもない。このような直観可能な有るものは,それ自身からして自己を告知しなくてはならない。すなわちこうした有るものは,認識する存在者それ自身に関わってきて,それを動かし,いわばそれに働きかけて心を動かし,おのれ自身に注意を向けさせる――つまり,認識する存在者を触発するものでなければならない。有限な直観としての人間の直観には,出会われるべき有るものが認識する存在者を触発し,襲来する,ということが属している。」(同上 p92)

 認識主体の役割を批判的に確立しようとしながら,カントと同じく(先験的感性論 緒言 B33)ハイデッガーは主体の選択的役割を捨象してしまう。西洋的認識論の限界の典型的な例である。「認識する存在者」は自己の問題意識や関心にしたがって直観すべき対象刺激を主体的に選択することも認識の他の側面なのである。
 次ページの「存在と存在者」と名付けた図は、http://www.eonet.ne.jp/~human-being/sub2.html 前編で掲載したものであるが、この図を見てもらえば容易に理解される。「あさがお」という存在者は,引用文にもあるような「認識する存在者(認識主体)を触発するもの」としての刺激対象である。しかし,認識主体にとって刺激対象は,あさがおに限られるものでなく,自然環境のすべてであり,それは文字通り無限である。その無限の対象の中から特に「あさがお」を選択している。それが主体の選択適役割りである。直観の対象は「あさがお」という概念で示されるものだけではない。しかし,西洋的思考にあっては,概念化されたものだけが「存在」であるから,「あさがお」という概念が記憶にあるために,それが認識主体を「触発し襲来する」ように見えるのである。

  図「存在と存在者」http://www.eonet.ne.jp/~human-being/sub2.html ページの下の方

 しかし,直観作用は概念に触発されることはあっても,すべての無限の対象が概念化されているとは限らない。概念化されていない対象も直観の対象となりうる。概念化された対象だけが,直観の対象になるのではない。
 さて,ここまで来れば,ハイデッガーの主著『存在と時間』の欠陥と限界を読み取ることは容易になるであろう。彼はどのように「存在」を意味付けようとしたか。

<カント批判の限界>  

 K.ヤスパースは,「カントは,われわれ人間的状況における真理性と現実性を確証するために,存在論をまったく放棄している。」(『カント』邦訳 p402)と述べているが,この点はハイデッガーも同様の見解である。少し長くなるが引用してみよう。

 「学問的な関わりも前学問的な関わりも,いずれも,以前被覆されていたものを露開すること,前は覆い隠されていたものを発見すること,従来閉ざされていたものを開示すること,という意味での認識作用である。しかし他方,学問的な認識というのは,次のようなことによって規定されている。すなわちそれは,実存する現有[人間]が,それまでにもすでに何らかの仕方で通路が開かれていた有るものを,特にその露開されてあることのために露開するということを,自由に選択された課題として自己自身に課す,ということである。こうした露開作用の可能性を――実存の課題として――自由につかみ取るということは,有るものの露開作用を自己自身のうちにつかみ取ることとして,露開されるべき有るものとしての有るものに自由な仕方で自己自身を結びつけることである。
 このような課題設定によって有るものそれ自身は,研究するという仕方で関わることを今や規則づけるにいたった唯一の決定機関として,それが何で有り,いかに有るかということにおいて,自由な仕方で受け取られるのである。このことによって,関わりのもっていた一切の目的志向,露開されたものや認識されたものの利用を目指す一切の目的志向は,停止する。あらかじめ計画された技術的な意図のうちに研究を制限してしまう一切の限界は,脱落してしまう。――そして闘いは有るものそれ自身にのみ向けられることになる。すなわち,有るものをその覆蔵性から奪取すること,そしてまさにこのことによって有るものにその<独自の>権利を与えるということ,すなわち有るものを有るものとして,それがそれ自体において有るところの有るもので有らしめるということ,このことにのみ,闘いは向けられることになる。  
 われわれは問う。このような関わりを――すなわち,有るものをその露開性における有るものだけのために露開することを――構成している本質的な構造契機は何であるか。前学問的な関わりから学問的な関わりへの態度転換がそれによって行われるような,そういう根本作用は何であるか。」(『カント批判』 p28ー9 下線は引用者)

 問い(何であるか,いかにあるか)自体の意味を問い直すことが必要である。つまりハイデッガーには認識が認識主体によってなされるという観点がなく,存在がそれ自体によってあらわれるという西洋哲学上の誤解があるのである。カントは神の存在を前提としたが,そのために認識主体の認識形式を構築することで満足した。しかしハイデッガーは,神を創造した人間が認識と創造の主体であることを無視して,新たな神となる「存在」の構築を企図した。言語を媒介とした人間の判断と創造の産物であることを認識できずに,「存在」を確実なものとしようとした。しかし「存在」を構想する生命としての人間は,未来永劫その存在の確実性が保証されるわけではない。

 「結論としてわれわれは確認しておく。特定の眼前に有る物,特定の空間的な関係のうちに秩序づけられた物に対する経験的直観のうちには,空間そのもののもつ純然たる空間的な関わり合いへと先行的に――対象化するという働きかけはいまだ離れた仕方で――眼差しを向けているということが,必然的に含まれている。非対象的に露開された空間へとこうして先行的に眼差しを向けるという働きが,特定の空間的に眼前にあるものの経験的直観を可能にする。――」(同上 p138)

 人間の眼差しは,根源的に生命の生存という目的に支配されている。眼差しは対象化を離れてはあり得ない。現象学の根本的な誤り,つまり西洋的な思考方法の根源的な誤りはここにある。人間の経験的直観は,生命的生存にとらわれて初めて成立している。認識が,眼前にあるものに「先行的に」眼差しを向けることはあり得ない。

 「くりかえし自己を告知してこざるをえなかった問いは,次のような問いであった。すなわち,空間と時間は客観的なものなのか,それとも主観的なものなのか。」(同上 p162)

 客観性とはある意味で一つの主観的判断である。その意味で言語的概念は人間存在を前提としなくては語れない。つまり,空間・時間は,我々が客観的なものとして主観的に約束しているものである。それで相互に理解することができれば十分なのである。しかし,ハイデッガーの問う「主観性と客観性」の違いは,彼だけでなく西洋思想を考える上できわめて重要である。主観(Sub-ject)とは,本来「下に投げられたもので,「従う」という意味から出発している。神から見れば人間は従うべきものであり,人間自身としては主体である。西洋言語には常に主体とは,神に対する被造物としての立場が示されている。
 
 これは現象学的認識論(方法論)に端的に表れている。すなわち「事象そのものへ」というのは,与えられたままに認識しようという態度である。しかし,生命は,地球環境に誕生し,その生命状態を維持していくものとして,それ自体が主体的な活動を始める。人間はそのような生命主体として,言語によって世界を再構成し,自らをその中に位置づけるのである。
 人間以外の動物は,自然世界を対象化する前に,刺激反応性の原理で認識し行動する。しかし,それでもその動物固有の生理的適応条件によって,特定の環境条件を主体的に認識し選択している。決して生命の対象認識は,ありのまま判断を加えずに,また対象化もせずに認識しているわけではない。  
 ハイデッガーの問い,「空間時間は客観的なものか,主観的なものか」について言えば,空間も時間もともに人間の構成物である。空間・時間は客観的に存在し,それをここの人間が秩序づけている。客観的(objective)とは,主体の反対に投げられたもの(対象,客体,目的物)であり,人間に対しての反対概念である。しかし,客観性という概念は本質的に混乱を招く要素をもっている。つまり,人間にとっての自然的物理化学的「対象」であるのか,自然的物理化学的対象を,人間の主観によって認識された結果としての「対象」なのか,という問題である。
 
 対象には人間の認識以前の客観的対象(自然的対象)と,認識した結果としての対象(観念的知的対象)との二面性がある。前者はカントによって「物自体」とされ,神や道徳もこの対象に含められた。後者はどのように理解するか,後者は直観的認識や知的認識であるが,言語的に表現されるすべての概念がこれに含まれる。そして西洋的認識・思考にあっては,認識した結果こそが人間にとっての知識であり,「存在」そのものなのである。人間の認識の結果はすべて主観(的認識)であるはずであるが,西洋的認識ではこれこそ真実の確実な存在なのである。
 
 従って,客観性という主張は,ヘーゲルを頂点とするように本来的に主観的産物であるにもかかわらず,知識としての対象であるがために「客観的観念論」という表現も作られた。しかし,カントにおいてもヘーゲルにおいても,知的対象を構築する手段となる「言語」を対象化することはできなかった。自己の知識体系(哲学)を言語の構成物とすることは,絶対性・確実性を放棄することになるからである。言語による知識は,つまるところ客観的対象にはなり得ても,絶対的確実性はあり得ない。このことを前提として社会は成立し,その上で諸個人の了解や同意を追求せざるを得ない。そして,我々はそれで満足しなければならない存在なのである。
 現象学において,言語をありのままに追求すれば,哲学における確実性の追求は挫折への道を辿らざるを得ない。なぜなら,現象学の根本が生命から出発しているのではなく,与えられたものとしての言語から出発しており,そのことを自覚しえないで,西洋的思考態度を克服することは不可能なのである。空間や時間の認識は,感性的直観の形式によって可能になるのでは決してない。生物学的認識論は,心理学的認識論と異なり生命的生存を前提とした認識論であり,これを越えることはできない。

 西洋哲学は,自らの存在の危うさ脆さを繕おうと確実性を求め,言語(ないし概念)の相対化に失敗した。しかし,我々は,まず感情・情動的存在であることに思いを致すべきである。我々は断片的な言語的知識(現代の諸哲学)に惑わされず,我々自身を見つめ直し,自己をそこから確立しようではないか。

<ギリシア的伝統について>  

 ハイデッガーは,ギリシア的伝統に立ち戻ることによって哲学の再建を目指す。その分析と探究は天才的な深さと的確さを持つが,自ら(とギリシア精神)を相対化して新たな哲学的基盤を確立することには失敗している。「ギリシア人にとって存在には現象が属しているということ,そしていかにそうであるかということ,もっと鋭い言い方をすれば,存在は現象においてその本質をともに持っていること,そしていかにそうであるかを示そうとしたのであった。」(『形而上学入門』邦訳 p172 )
 
この分析は正しい。しかし存在を確実な前提とし,それをイデアとして絶対化するところから乗り越えることができないことが限界であった。すなわち存在を客観的なもの,人間を越えたものとして前提していること,つまり「存在を考える人間にとって存在するもの」として相対化しなかったことがギリシア的特性でありまた限界であることに気づかなかったことである。 この引用文を含む第40節の表題(全集の編集過程で付加された)が「ドクサの多義性――仮象に対して存在を求めての戦い」となっていることの意味が,この節の前後における彼の問題意識を示している。

<西洋語の存在観>  

 ハイデッガーの存在論の由来を,言語論に求める考え方は特異なものではない。オーストリア系ユダヤ人の文芸批評家J.スタイナーは,ハイデッガーを批判的に?解釈して,『存在の思考』が,英語を除く多くの西洋語の文法上の特徴から由来していると考える。

 「ハイデガーの思想,ハイデガーが65年余を費やして展開した存在論ないし『存在の思考』は、ドイツ語および多くの西洋語にある――ただし英語はそうではない――文法上の特徴から由来していると言ってもさほど誇張した言い方にはなるまい。ドイツ語では『存在』という名詞は Sein で、『ある』という動詞は sein である。
フランス語の etre と etre も同じで,名詞と動詞の不定形とは同一である。英語では,名詞 being は動詞の分詞形と同じである。換言すると,『存在』をあらわす動名詞 Sein は,その統辞論的基底において,一つの過程,活動,『そこにあること』なのだ。その名詞はいわば一つの活動の一時的な休止ないし仮構であり,活動がそのなかで十全に作動しているがゆえに同じ言語的形をもっている。
 この動的なノミナリズムがハイデガーの実存論的現象学,その言語理論の根底にあるものである。しかしながら,われわれが出発点としなければならないのは,ドイツ語の語根ではなく,ギリシア語の語源研究である。それというのも,『ドイツ語とともにギリシア語は(思考のための可能性という点で)あらゆる言語のうちもっとも強力かつ精神的なものである』からである。」(『マルティン=ハイデガー』邦訳 p119)

 
 私にギリシア語まで遡る余力はない。しかし,スタイナーの指摘は正しいと思われる。西洋語において「ある」こと,つまり,対象(主語)の状態を「・・・である」と叙述・規定・言語化することは思考の前提である。東洋的に「不立文字」という概念は西洋思想にはない。やはり西洋においては「初めに言葉ありき」なのである。
 
 また,スタイナーにとっては,ハイデッガーが「存在の驚き」「存在への問い」を提示したことを,「明白なるものの道」における「輝かしい障害物」と肯定的に評価した。しかしこれは,克服されるべき障害物である。「存在」とは,人間の判断や思考の前提であるように見えて,実は,人間自身や自己自身を対象化・相対化することによって,人間の創造物であることが見えてくる(※注)。ハイデッガーは,「問いを問い」「存在を問う」ことにおいて卓越した西洋的能力を示した。しかし,その問いが人間にとって「何のために」なされるのかについては問わなかった。
 それは西洋思想が,「知識」の基本的構成要素である「言語」を生命の生存手段として理解できなかったからである。ハイデッガーの「問い」を肯定することは,人間を永遠の迷妄の中に留めることに等しい。

 「存在とは何ですか。それはそれ自身です(Es ist Es selbst)。将来の思考はこのことを経験し,このことを語ることを学ばなければなりません。<存在>――それは神でもなければ世界の根拠でもありません。存在はすべての存在者より以上のものであり,どのような存在者よりも人間に近いのです。」(『ヒューマニズムについて』邦訳 p44 UBER DEN HUMANISMUS,S.23一部改訳)
 
 彼の言う「将来の思考」は,確かに「存在」について経験し,語らなければならない。しかしそれは彼の考えようとするように経験し語るのではない。「存在自身」というものが人間の創造物,とりわけこの場合ハイデッガーの創造物であることは今日では最早明らかである。問題は,彼がなぜ存在を存在者(岩石,動物,芸術作品,機械,天使,神等々)から区別し,存在を優位なもの,人間に近いものとしたのかを説明できることである。そしてすでに説明は終えている。彼は存在が,言語との深い連関があることは見抜いていた。しかし,言語を対象化できなかったために,「言葉は存在から生まれ,存在で組み立てられた存在の家」と結論せざるを得なかった。彼の説明に擬して表現すれば,正しくは「言葉は生命から生まれ,人間存在を組み立てる人間の家」なのである。

(※注)すでに述べたように,種として進化論的に言語を獲得したことによっても,個体として乳幼児期に言語を獲得することによっても,人間は自己の経験に基づいて創造的に言語を獲得するのである。

第5節 現存在と時間性  

 先に第1節でも述べたように,「時間性」によって人間存在を規定することは誤りではない。なぜなら,時間を自覚し規定しうるのは,言語を持つ人間の特性だからである。しかし,時間は言語を持つ人間にとっての結果であり,根本的な存在の解明にはつながらない。

 「存在が時間から捉えられ,また存在の種々の様式や派生語がそのもろもろの変化と起源において,実際に,時間を念頭において了解されるならば,それをもって存在自身は,――たんに「時間のうちの」存在するものというのではなくて,その「時間的」性格において明らかにされるのです。
・・・・・・・わたしたちは,時間からもってする存在とその性格並びに様相の根源的な意味規定性を,存在の存在時間的規定性と名づけます。それゆえ,存在そのものの解釈という基礎的存在論の課題は,存在の存在時間性の検討を含んでいます。存在時間性という問題提起をはっきりさせると初めて,存在の意味への問いに対する具体的な解答が与えられるのです。」(『存在と時間』上巻p46 )

  しかしながら,彼はこの解答を得ることに失敗し,その意図を放棄せざるをえなかった。『存在と時間』の執筆継続を断念せざるを得なかったことがそのことをよく示している。そもそも,『存在と時間』という題名から,何を述べようとするのかを直接に理解するのは難しい。ハイデッガーにとっては,彼自身の人間観・価値観を示すために,時間によって人間存在を規定しようとする。『存在と時間』は,不死なる神々に対して,我々人間は死すべきものであることを自覚すべきであると迫っている。彼のいう「存在時間性」とは,時間的経過の結果としての死を自覚して,世界の中に生存する人間こそ世界内存在としての本来性を獲得できるという意味での時間性である。

 『存在と時間』の後編第二編は「現存在と時間性」について述べられている。現存在(人間)の存在の意味の問いのために,現存在の時間性の解明が必要となる。ではハイデッガーにとって,なぜ現存在の全体性を解明するために,時間性の解明が必要になるのか。結論は上記のように,人間存在は,死を自覚しつつ生きることによって本来的な生き方が可能になる,ということである。彼の人間観は誤りとはいえないが,一面的である。まずは彼の主張を概観してみよう。

 「存在するものを,それに固有の存在の構えに関して展き示すところの存在論的解釈は,主題となっている存在するものをば,最初の現象的性格づけをつうじて以後のすべての分析の歩みが適合するような,予めの取り上げ(Forhabe)へと,持ち込むことに懸けられています。」(同上中巻p199)

 西洋的存在論の前提では,存在とは言語的に認識され把握された対象であるが,言語は個人的認識主体にとって前提であるため「予め」与えられているという理解となる。従って,存在論的解釈は,「予めの取り上げ」(予持,予視,予握)を必要とし,それが完了しているかどうかを確認する必要がでてくる。そのような予めの取り上げの根源性の確認は,どのようにしてなされるのか。そのような全体存在可能への問いは,次のような実存的な関心から始まると,彼は考える。

 「世界・内・存在の『終わり』は,死です。存在可能にすなわち実存に,属しているこの<終わり>は,現存在のそのつどの可能な全体性を限定し規定します。しかしながら,死における現存在の<終わりに=向かって=在ること>従ってこの存在するものの全体存在は,存在論的に充分な,すなわち実存論的な,死の概念が得られるならば,そのときにかぎり,可能的な全体存在の究明へと,現象的に適応して繰り込まれることができるでしょう。」(同上中巻 p202)

 人間の存在は,個体的存在としてだけでは正しく理解できない。人間としての生命存在は,個体の生から死によって完結するものではない。人間存在は,「すべての生命」とのつながり(人間のみの共同存在ではない)と,人間の共同存在としての種族の維持の両者を含む「生命の永遠の存続」として理解されねばならない。

 「そのように初めて充分に明らかにされた関心という現象をば,わたしたちはさらにその存在論的な意味について問いただすのである。このような意味の規定が,時間性を展き示すこと(Freilegung)になります。・・・・現象的に根源的に時間性は,現存在の本来的な全体存在すなわち先駆的覚悟性(vorlanfenden Entschlossen)という現象において経験されるのです。」(同上 下巻 p12)

 「覚悟性とは,もっとも自己的な責め在ることへと,不安を覚悟して沈黙して自己を投企することと特徴づけられました。」(同上下巻 p14)
 「覚悟性が,本来的に,自分が在りうるところのものに成るのは,終わりへの了解的存在として,すなわち死への先駆としてです。
 ・・・・覚悟性は,自分自身の本来性の(Eigenlichheit)可能な実存的な様相として,死への本来的存在を自分のうちに含んでいます。この「連関」を現象的に明確にすることが,大切なのです。」(同上下巻 p15)

 ハイデッガーにとって,望ましい人間(本来的人間)とは,死を先駆的に了解する存在である。つまり,死までの時間を了解しうる覚悟を持てることが本来的人間の条件なのである。『存在と時間』における存在とは,本来的存在であり,本来的存在であるためには死に向かってある時間性を自覚する必要があるのである。

第6節 『存在と時間』

<1>存在の問いを繰り返す必要について  

 すでに『存在と時間』の批判の要点は述べたので,著書の論述に則しながら詳細にその誤りと背景を探ってみよう。  
 従来の「存在の問い」が必要でないというさまざまの偏見に対して,ハイデッガーは批判する。その論点は三つある。彼の誤りは言語の無理解から生じているので,長くなるがこれらを引用することによって批判してみよう(第1節「存在の問いを繰り返す必要」p19~21)。

1.存在は「もっとも普遍的な概念である」といわれるとき,「存在」を木や花,植物や動物のような「類」という抽象化概念とは考えられないから,むしろ「最もはっきりしない概念である」というべきであり,さらに解明の必要がある。・・・・・・・これについては,彼が言語の本質が対象の表現手段であると理解できないことによる結果である。

2.「存在」という概念は,定義することができない。・・・・・・・「存在(ある)」は、言語的表現(判断)を規定する文法的概念として存在する。つまり、対象を言語的に規定(断定)する単語である。西洋人はこの規定なしに対象を表現することができない。彼はパスカルをもちだして、「定義の中に定義せらるべき語<ある>を用いなければならない」というが、日本語では「空は青い」(Sky ,blue)と表現する。西洋語では Sky is blue といわなければならない。しかしこれはあくまでも、西洋的対象表現の特殊性にすぎない。

3.「存在」は、認識や叙述のすべてに、また、存在するものへの自分自身に向けての関わり合いのすべてに「存在(ある)」という語が用いられる。・・・・・・・「存在(ある)」の表現に対し、人間主体の判断思考があることを洞察するならば、「存在」に関わるすべての謎は氷解する。

<2 >存在への問いの形式的構造について

 「問うことはすべて、探し求めることです。探し求めることはすべて、探し求められるものから、あらかじめ方向を決定されています。」(『存在と時間』邦訳上p22)
 「問うことは何かを問うこととしてその『問われていること(Gefragtes)』をもっています。」(同上p22)
 「問うことは、探求することとして、探求されるものからのあらかじめの導きを要します。」(同上p23)
 
 ハイデッガーは、存在への意味の探求のため、「問い」についての問いを吟味する。しかし、彼の問いは、何者による問いなのか、彼には問いを発する人間主体が見えない。「問うことは、すべて探し求めることです」と言いながら、「探し求める人間主体(それはハイデッガー自身でもある)」を素通りして、「探し求められるものから、あらかじめ方向を決定されている」「探し求められるもの」とは、探し求めるべき対象であるが、対象から方向を予め一方的に決定されているというのである。ここには、探求における認識主体の役割は排除されている。人間が、問うべき「対象」である「探し求められるもの」からすでに、ア・プリオリに決定されているのである。

 彼のすべての問いは、西洋的限界の中における自己の思考の内部を叙述しているにすぎない。「わたしたちは、いつでもすでにある種の存在了解の中で動いています。この存在了解からして、存在の意味へのはっきりした問いとその概念化への姿勢が育ってきます。」(同上p23)と言うとき、彼の「存在了解」には、彼自身が考え、構成していることを相対化していない。つまり、彼自身を一般化してしまって、彼自身が問うていることの意味を理解していない。「・・・ある(ist)」の意味は、人間が対象を規定したことであるのに、そこに人間(ハイデッガー自身)が介在していない。「存在とは何であるか?」と問うとき、彼自身の判断(規定)を無視して、彼自身(の判断)を越える「存在」として「・・・ある」を規定する。問うことの根源を問うには、まず自己自身(主体)が問うていることを自覚するべきであるのに、それができていない。彼にとっての「いいかげんな、あいまいな存在了解」(同上p24)とは、認識する主体、問う主体を確立できない、ハイデッガー自身の現存在の不確かさ、現象学の基盤のもろさを示している。

 さてそこで彼は、我々人間存在をどのように考えたか。彼は、人間存在に対して「現存在 Dasein 」という術語を与える。それは「存在への問い」を問う可能性をもつ存在するものだか、つまり現存在は、存在を問うことにおいて「そこにある存在者」だからである。しかし、ここで問題がおこる。現存在(人間)は存在を問う存在者であるのに、まだ存在において規定されていない。「存在」と「現存在としての存在者(人間)」との関係が明確にされておらず、まだどちらも規定されていない。彼自身「循環論証」の虞がないかと考える。  しかし彼は、特有の優れた存在者である現存在は、「前もって」存在の意味を明確にしておく必要はないので、循環はないと考える。

 「存在するもの(現存在)」は、その(存在の意味を問う)場合、前もって存在の意味について明確な概念が取り扱われていることなしに、その存在において規定されることができます。さもなければ、従来なんらの存在論的認識もあり得ないはずですが、このような認識が事実成立していることを人は否認しないでしょう。」(同上p27)

 つまり、現存在(人間)は、従来から「存在」について認識し、哲学してきたのだから、その事実によって存在への問いが可能であったことがわかり、存在は前提とされてよいとみなす。まず問うこと、「問われているものに本質的にぶつかること」が、存在の問いの固有の意味だというのである。

 「存在の意味への問いの中に、『循環論証』はふくまれていないというものの、ひとつの存在するものの在り方としての問うことに対する、問われていること(存在)の注目に値する『前後の関係』が、存在の意味への問いの中に、含まれているのです。問うことがその問われているものに本質的にぶつかることが、存在の問いの最も固有の意味に属しています。」(同上p28)

 何とも強引な論法である。「現存在の優位」「問うことの優位」が、何の論証もなしに前提とされ、(ためらいがちであるが、彼はそれを前提とせざるを得ない)『存在と時間』の叙述が進んでいく。もちろん、まずは、問うことが「現存在」にとってどのような意味をもつのか問われないし、また、存在そのものの意味が解明されていないのに、彼の存在の意味の解明が、成功するはずもないのである。

<3> 存在の問いの存在論的(ontologisch)優位について  

 「存在の問い」が、すべての学問(実証科学はもちろん)の基礎付けとなる存在論的(ontologisch)問いであり、「高貴な伝統」をもっている。存在論的問いは、実証的な諸科学の存在的(ontisch)問いと違い、さらに根元的である。

 「(あらゆる学問を成立させる根拠となる)これらの根本概念は、その真の証示と『基礎づけ』とを、ただ当の事象領域の前もっての徹底的な研究の中にだけもっているのです。けれどもこれらのそれぞれの領域が、存在するもの自身の区域から得られる限り、このような先行的な、また根本概念の創りだすところの研究は、存在するものを、その存在の根本構えにおいて解釈することにほかなりません。このような研究は、さまざまの実証科学に先行せねばならず、また実際それができるのです。」(同上p32)

 以上のことは、フッサールの問題意識を踏襲している。そして、科学の基礎となる根本概念を規定しようとするのは正しい。しかし、カントの『純粋理性批判』を批判して「カントの『純粋理性批判』のもつ積極的な収穫は、自然一般に属するところのものの検討に手をつけたことにあるのであり、認識の『理論』に基づくのではないのです」という指摘は正しくない。現象学は「事象そのものへ」と言うことによって、認識の過程を捨象することに特徴があるが、まず究明するべきは、カントのように、自然の一部であるところの人間の認識の過程とその形式の解明である。カントは、言語的認識の結果としての悟性形式のみを明らかにしたが、さらにその根源である言語的認識を「過程」として解明すべきであった。これに対し、ハイデッガーは、「学問の可能性の先天的な条件」または「基礎づけ」としての存在の意味(存在論)の確立という仮想根拠を求めているのである。

<4> 存在の問いの存在的(ontisch)優位について

 ハイデッガーは、存在するもの(存在者――自然などの対象)のうちで、人間のみを「現存在」と表す。これは、人間だけがその本質を定義的に示すことができず、自己の存在を「存在了解」することによって自己規定し、自己の存在を自己のものとして存在させなければならないので、純粋な存在表現として「そこにあるもの das dasein」と記されるのである。

 「現存在は、自分の存在において、この存在そのものを問題とする存在するものであることによって、存在的に優位をみいだすのです。しかしながらこの現存在の存在構えには、現存在が自分の存在の中に、この存在に対して、ひとつの存在関係をもっている、ということが属しているのです。このことはさらに、現存在は何らかの仕方と明瞭さにおいて、自分の存在の中で自分を了解している、ということを意味します。この存在するものにとって独自のことは、その存在とともにまたその存在を通じて、自分自らに、存在が開き示されている、ということです。存在了解は現存在の存在自己規定ですらあるのです。現存在の存在的な優位さは、それが存在論的であるということに在るのです。」(前出p34)

 この引用を、言語論的に解釈すると、人間は自らを問題とする存在として、他の自然的存在(対象)と異なっている。従って、人間は、人間の内面において自己を了解している。「存在了解は、現存在の存在自己規定である」というのは、人間は自己を自然と人間の文化的対象(存在者)の中に、言語的に位置づける存在である、ということを意味している。しかしそれは、あくまでも可能性であって、人間は必ずしも自らを自己規定する――すなわち存在論的存在であることを自覚していない。
 このため、自己規定がなされず、何らかの態度をとっている当面の現存在は「実存(生身の人間)」と名づけられ、そのつどの現存在自身だけによって決定される。従ってまず、基礎的存在論は、現存在を他の存在するものに先立って存在論的に第一義的に問いかけるべきものとして、実存論的分析論という形をとるのである。

<5>現存在の存在論的分析論について

 「現存在は、彼自身に存在的には『最も近く』、存在論的には最も遠い、けれども存在論以前の立場には決して縁遠くないのです。」(同上p41)
 
 主体としての現存在(人間)が、なぜ「存在的には近いもの」でありながら「存在論的には最も遠いもの」なのか。ハイデッガーの問いは、問いそのものが虚構であることを示している。「存在的」とは事実的な捉え方であり、「存在論的」とは論理的(すなわち言語論的)な捉え方である。「最も近い」とは言語的存在である現存在(人間)を<前提>としているからである。存在論的であることは、前提としているが、その根拠である言語の意義を解明していないために、神秘的、謎的なのである。存在論を言語論に置き換えれば、現存在は近いものとなる
 しかし、彼はその証明を、「存在論以前の立場」すなわち「存在的な構え」としての「先存在論的な存在」が属している立場の究明――すなわち「時間性」の解明にあると考えた。そのために時間は「現存在が一般的存在としていたものを漠然と理解し解釈している根源」(同上p44)であることが示される必要がある。
 しかし彼の時間解釈は、基本的に西洋的であり、人間存在を越えたものとして捉えられている。「『時間』は久しい以前から、存在するもののさまざまな領域を素朴に区別する存在論的な、むしろ存在的な標識として働いています。」(同上p45)しかしこれは事実に反する。なぜ「時間」が「標識」として働いているのか。彼は、「時間が、存在領域を分かつ標準として働く」という存在論的機能をもつにいたったか、また、標準として働くのかなどは問われたことはなかったと述べる。これは重要な正しい指摘である。

 「存在が時間から捉えられ、また存在の種々の様式や派生語が、そのもろもろの変化と期限において、実際に、時間を念頭において了解されるならば、それをもって存在自身は、――たんに『時間のうちの』存在するものというのではなくて、その『時間的』性格において明らかにされるのです。」(同上p46)

 しかし、もちろん「存在」には何らかの前提、先存在を想定せざるを得ない。つまり、「存在」とは、言語によって規定されることであるから、この言語がどのように人間に獲得されたか解明されることなくして、「存在」の解明はない。だから、彼は何とか前提となる「言語」すなわち「存在」を、その前提性において、つまり、時間性において説明せざるを得ないし、それを存在論と想定しても、循環論証にならざるを得ないのである。

<6> 存在論史を解体する課題について  

 この項では、ハイデッガーにおける存在論の存在意義について哲学史の上から解明しようとする。特に近代合理論におけるデカルト、カントの主観主義的認識論的立場立場を一定評価しつつも、存在論的意味づけの欠如について批判を加える。
 ハイデッガーにとっては、西洋的思考様式におけるように、「存在」(すなわち言語的存在ないし理念)を、人間の認識を超越した「前提」として捉え、そこから現存在が時間性や歴史性によって意味づけられると考える。つまり、前提(すなわち存在)とは時間的には過去性であるから、前提すなわち過去からのみ現存在(人間)を意味づけることができるのである。従って、この前提は、人間の歴史を作るものであっても、人間の歴史そのものではない。
 
 このことの無理解からギリシア古代の存在論が、プラトンによって解体され現在にいたる「古代存在論の解体」(p52)の意味が了解されない。つまり、イデアと神によって存在を示し、存在そのものへの問いを怠ってきた。その中でカントは、存在時間制を問題意識として捉えたが、デカルト的主観を前提においたために、存在論よりも認識論を重視してしまった。つまり、存在を時間的に規定することができず、時間を単なる直感の形式(という前提)と考えてしまったことを批判する。然しこれは、プラトン、アリストテレス以来の伝統であって、これを解体し、存在を新たに規定するために、過去・未来を含めた時間の中で位置づけようとしたのである。
 では具体的に、ハイデッガーにおいては、直接、批判克服の対象となるデカルト、カントをどのように把握したのかみてみよう。
 
 ハイデッガーの問題意識は、認識論的な「われ思う」よりも、存在論的な「われ在る」が優位であるという前提から出発し、存在論を確立することである。しかし、これは根本的に誤っている。「在る」というのは、ひとつの判断であり、判断は認識論を徹底することによって初めて解明される。そのためには人間の認識をその根本で規定する言語にまでさかのぼらなければならない。これは、西洋思想においてプラトン以来試みられイギリス経験論や啓蒙思想などにおいても追求が進められてきたが未だに成功せず、ハイデッガーにおいては先に批判しておいたとおりの混迷の状態なのである。
 彼にとって、デカルト、カントの限界性は、「われ思う」(主観)が先にあるのではなく、存在論的「われ在り」が先にあって、その存在(現存在)の問いが十分に解明されていないことにあると考えた。カントは「存在の問いを一般に怠っていること、これに関連して現存在を主題とする存在論が欠けていること、すなわちカント的に言えば、主観の主観性に先立つ存在論的分析論を欠いている」(同上p54)ということになる。

 そこでハイデッガーは、「存在への問い」に答えるために、人間を「現存在」として時間的に規定し、その本質が「言葉(ロゴス)をもつ動物」であることを示すことによって、カントの図式論を克服しようとする。ちなみに、我々にとってアリストテレス、カントに共通するカテゴリーとは、与えられた前提ではなく、自然をはじめとするすべての対象を把握するための手段としての「言語」であることは、すでにカント批判において述べたところである。
 例えば「時間性」について、彼はカントの時間概念がアリストテレスと共通のカテゴリー論であることに言及し、ギリシア的限界をもつとしている。

 「アリストテレスの時間概念の分析から、カントの時間理解がアリストテレスによって取り出された構造の中で動いていること、つまりカントの存在論の根本方向がギリシア的なものにとどまっていることが同時にさかのぼって明らかになります。」(同上p58)

 彼はカント的認識論の前提となる存在論を確立するべく『存在と時間』を執筆するのであるが、もちろん挫折することになる。ギリシア的カント的時間概念を批判することは正しいが、その時間が言語的起源をもつことに思い至らず、人間を与えられたものとして時間に規定される現存在性(実存性)にのみ拘泥したことが、迷路から抜け出る道を閉ざしたのである。西洋的思考様式の中でミイラ取りがミイラになったのである。

<7> 現象学的研究方法について

 「存在の意味への問い」が、現象学的であり、現象学とは方法概念であることの説明として、「哲学的研究の諸対象の事実的な何か(das sachhaltige Was)をではなくて、そのものがいかにあるか(das Wie dieser)を特徴づける」(同上p60)としている。しかし、「何か」と同時に「いかに」という問いそのものの意味(生命にとっての意味)を問うことが重要なのである。問いの答えとしての命題「SはPである」は、人間の認識であり、判断の結果である。「事象そのものへ」と言うとき、まずそこに認識の過程が成立していることが自覚されればならない。事象は、認識の過程――すなわち問いの過程、判断の過程を通じて言語的に表現されるのである。

現象という概念について  

 彼はまず「現象(Phanomen)」という概念を、古代ギリシアに遡って解明する。彼によれば、現象は<自分を示す sich zeigen>という意味の動詞ファイネスタイから導かれ,そのもとは<明るみにだす>を意味するファイノーの中動態である。中動態とは西洋語にみられる再帰動詞(代名動詞)と類縁関係にありその起源ともなっているものである。言語の表現様式(文法)は、その語族の思考様式をも示すものであるが、この中動態ないし再帰動詞的思考様式こそ西洋的思考様式本質であるといっても過言ではない。つまり、西洋語においては他動詞中心主義であり、動作主体が動作をするときに、自らを客体化(目的化)して受動態化するのである。<現象>の起源が<自分を示す>ということは、現象を動作の言語表現における表現主体(人間)の認識・判断を排除することを意味している。

 
 彼によれば、「現象」の意義は<自分を自分自身に示すもの(das Sich-an-ihm-selbst-zeigende)>(同上p62)であり、その結果明るみにだされたものは、存在するもの(das Seiende)である。なぜなら、ギリシア的思考にとっては、言語的な表現(イデア的なもの)があって自然的現象である存在者(das Seiende)が存在するとみなされるからである。そのように考えて初めて、存在者は「自分から自分を示す」ことができる。
 つまり、言語的表現のあらわす全体像として<言語記号と知覚的実体>(大脳中に記憶されているもの)を示すからである。そして「人間主体」に示されたものをハイデッガーは、「この種のみずからを示すことにおいて、存在するものは《あたかも何々であるかのように》、《見える》(In diesem Sichzeigen 《sieht》das Seiende《so aus wie ・・・》)」(同上p62)もの、すなわち「仮相(Scheinen)」と名づける。この引用において、<自らを示すこと Sichzeigen>は、実は存在(Zein)による現象であり、人間主体に《見える》ものが結果としての「仮相」なのである。
 この違いを捉えることが最も重要である。つまり、存在→存在者→自己示現→現象(原因)→仮相(意識結果)となり、その全体が現れ(Erscheinung)の過程なのである。
 このように判断主体が介在しない意識過程を前提するのがハイデッガーの特徴である。ではなぜそうなるのか。まず彼らには、言語が人間にとって何であるかがとらえられていない。捉えられているとしても、ギリシア的思考様式を受け継いだ「初めに言葉ありき」という聖書の言葉に呪縛されている。
 聖書の言葉はギリシア的言語観の反映でもあるから、彼らにとっては、言語的表現(いわゆる概念)が、与えられたもの、既定のものであるため、すでに人間主体が介在する以前に、確実なものとしての前提としか捉えられない。ハイデッガーにおいては、まず言語へのギリシア的西洋的先入見(誤解)があり、『存在と時間』の時間性の解明は、その先入見にもとづく西洋的思考様式の合理化にすぎないのである。

(※注)(言語の表現様式を思考や生活様式――精神活動と関連づけることは、かのフンボルトが試みたことである。しかし彼は屈折語である印欧語優越主義の立場から分析したのであり、自らの言語を相対化することはできなかった。論理的であることは、非論理的存在としての人間主体を軽視していることでもあることが重要である。

再帰動詞の非主体性について  

 最後に、大部の書である『存在と時間』のすべてを論述する余裕はないので、締めくくりとして彼の存在論哲学のギリシア的背景を取り上げて、ハイデッガー批判を終えたい。そのために、西洋語のもつ再帰動詞(古代ギリシア語やサンスクリット語の中動態 middle voice。英語については一部のみ残存している enjoy oneself, seat oneself etc.)について触れておかなければならない。
 再帰動詞は、西洋語の他動詞中心主義に由来している。他動詞は目的語をとるが、この目的語が、主語となる動作主と同一である場合(例えば、Er setzt sich auf die Bank. 彼は自分をベンチに座らせる→彼はベンチに座る )には受動的自動詞となる。インドの文法学では、能動態を「他人に対する言葉」というのに対し、中動態を「自分に対する言葉」と呼んでいる。これは受動態にはなっていないが、動作の目的語自体が主体(彼Er)によって目的(自分sich)とされるので受動的な扱いを受けている。そこで古代印欧語では、能動と受動の中間的表現として中動(中間)態としたのである
 
 ここで重要な点は、なぜ動作主が、自らを目的語として対象化したか、つまり、なぜ私(自己)がすることであるのに、私が私を対象化して動作することになるのか、という点である。我々の立場からは、西洋語の表現様式(それは同時に思考様式でもある)の特徴は、自己を対象化ないし目的化することによって、主体自体の存在を客体化し、それによって主体自体の思考や判断を過小評価すること――つまり、実際には、言語表現は、表現主体(動作主体でもある)の判断・思考・行為であるにもかかわらず、そのことを自覚できないことにつながっているということである。
 
 「主体が主体自身を操作する(自分が自分をベンチに座らせる)」とはどういうことなのか。なぜ「主体が動作する(自分はベンチに座る)」という自動詞で表現しなかったのか。一般には、動作主は主語として存在している、と言うかもしれない。しかし主体は主語と目的語に分裂している。この点が最も重要である。主体は客体化されることによって、実は全体的な統一性を奪われている。表現の対象となっている人間を主体と客体に分断することによって、主体自体の個体性を喪失している。これは、西洋的思考が自然(客観的対象)を対象化するのと同じように、自己自身をも対象化する西洋的慣用に由来している。
 
 この背景としては二つのことが考えられる。一つは、自然と対峙することが、自然と調和するのではなく、絶対的な(と考えられた)第三者(神々)を想定し、判断させることが、自己自身をも対象化することになったということである。自己自身が判断の主体であるにもかかわらず、またそれゆえに、自然の構成員として自然的対象に責任を持たせなければならないにも関わらず、自己自身の存在を第三者によって合理化するという思考様式が、他動詞と再帰代名詞による自動詞的表現を可能にしたのである。他の一つは、一つ目の要因と深く結びついているが、アリストテレスが指摘する「対象をそれ自体として把握する」認識態度である。ギリシア的思考態度は人間の価値判断の根源となる情動や感情をも対象化する。これはホメロスの叙事詩に頻出する言語表現であり、愛や怒りなどの激情を人間の判断の全体性から分離する精神的態度である。これら二つの精神的態度は、科学的精神の源泉ではあるが、同時に人間の個体的全体性としての主体性を崩壊させる源泉でもある。このような精神的態度によって人間主体を分断的に言語化することは、絶対的な神の存在を前提としてのみ安定的であるが、神の存在(神とは言語そのものでもある)を喪失するとき人間存在の依拠する前提をも喪失するのである。  
 ニーチェはこのこと(神の死)を最もよく見抜くことができた。彼は、神亡き後の超人を創造しようとしたが、神を創造した人間の本質が言語であることに思い至らず、普遍的人間としての主体を統一することはできなかった。彼の結末は明らかであった。「神は死んだ」のであるから、超人で神を代替することはできなかったのである。
 
 ハイデッガーはどうしたのか。存在を時間によって規定しようとした。認識以前に結果としてそこに<ある>ものとしての存在は、時間的にしか規定できないと考えた。そして彼は『存在と時間』においてこの試みに挑戦した。しかし、当然のことであるが失敗した。時間もまた人間が、世界を構成し、自らを世界に位置づけるために、言語的に考案したものにすぎないからである。言語表現の本質を見抜けないままに、西洋的思考方法にもとづいて「人間存在」の根拠を確立しようとしても不可能な試みである。人間の本質とは生命性と言語性にあり、これは自然主義的に規定することができる。人間は言語的に自らを規定する動物なのだから。
 
 ここで以前にも触れたことであるが、あらためてギリシア的思考の根源を示しておくことは、上記の見解に疑問をもつ人にとっては重要であろう。それはギリシアの神話的世界におけるホメロスの言語理解とアリストテレスの『形而上学』冒頭の一文である。これらは、ギリシア的(西洋的)思考理解の出発点となるものである。

 「怒りを歌え、ペ−レウスの子アキレウスの、
 その怒りこそ 数限りない苦しみを アカイア人らにかつは与え、
 また多勢の 勇士らが雄々しい魂を 冥王が府へと
 送り越しつ、 その骸をば 犬どもや あらゆる
 餌食としたもの、 その間にも ゼウスの神慮は 遂げられていった」
                (『イリアース』p9)

 「すべての人間は生まれつき知ることを欲する。その証拠としては感官知覚への愛好があげられる。というのは、感覚は、その効用をぬきにしても、すでに感覚することそれ自らのゆえにさえ愛好されるものだからである。」   (『形而上学』邦訳上 p21)

    参照:西洋的思考様式の意義と限界

<第5章 引用文献 >

アリストテレス『形而上学』出 隆訳 岩波書店 1959
ゲルヴェン, M.『ハイデッガー『存在と時間』注解』 長谷川西涯訳 筑摩書房 2000
スタイナー, J.『マルティン=ハイデガー』生松敬三訳 岩波書店 2000
デカルト.R『方法序説』野田又夫訳 中央公論社 1974
ハイデッガー, M.『存在と時間』桑木務訳 岩波書店 1960
Heidegger, M. Sein und Zeit 7., unveranderte Aufl Tubingen : Niemeyer 1953
ハイデッガー, M.『カントの純粋理性批判の現象学的批判』石井,伸原,ミューラー訳
 全集25 創文社 1997(『カント批判』と略記)
ハイデッガー, M.『形而上学とは何か』大江精志郎訳 理想社 1961
ハイデッガー, M.『言葉への途上』全集12から『言葉への道』『言葉についての対話』
        『語(ことば)』亀山健吉訳 創文社 1996
ハイデッガー, M.川原栄峰訳『形而上学入門』平凡社 1994
ハイデッガー, M.『ヒューマニズムについて』佐々木一義訳 理想社 1974
Heidegger, M UBER DEN HUMANISMUS, Vittorio Klostermann,Frankfurt a.M. 1949
フッサール, E.『イデーン : 純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想』渡辺二郎訳 みす ず書房 1979-2010 (『イデーン』と略記)
フッサール, E.『論理学研究』立松弘孝訳 みすず書房 1968.10-1976
フッサール, E.『デカルト的省察』浜渦辰二訳 岩波書店 2001 p69
フッサール, E.『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』細谷恒夫, 木田元訳 中央公論 社 1974. (『諸学の危機』と略記)
ホメーロス『イリアース』呉 茂一訳 岩波書店 1968
メルロ=ポンティ, M.『意識と言語の獲得』木田・鯨岡訳 みすず書房 1993
メルロ=ポンティ, M.『見えるものと見えないもの』 滝浦,木田訳 みすず書房 1989
ヤスパース, K.『カント』重田英世訳 理想社 1962
ロビンソン, D. N.『現代心理学の体系』大久保幸郎訳 誠信書房 1983