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  念仏申す生活 その1


【三帰依文】

 まず、三帰依文を唱和したいと思います。皆さんも一緒に、声を出して読んでいただきたいと思います。
人身、受け難し、今、既に受く。仏法、聞き難し、今、既に聞く。この身、今生において度せずんば、さらにいずれの生においてか、この身を度せん。大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし。
自ら仏に帰依し奉る。まさに願わくば、衆生と共に、大道を体解して、無上意をおこさん。
自ら法に帰依し奉る。まさに願わくば、衆生と共に、深く経藏に入りて、智恵、海のごとくならん。
自ら僧に帰依し奉る。まさに願わくば、衆生と共に、大衆を統理して、一切、むげならん。
無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し。われ、今、見聞し、受持することを得たり。願わくば、如来の真実義を解し奉らん。
南無阿弥陀仏。
 三帰依文といいますのは、仏教徒の誓いの言葉です。仏教というのは何ですかと聞かれたら、三帰依ですと応えてもらったらいいかなと思います。高校野球では選手宣誓をしますが、三帰依文は、仏教徒の選手宣誓です。私は仏教徒ですと、高らかに誓いの言葉を宣誓するのが三帰依文であるというように教えていただきます。
その三帰依文は何かといいますと、三つに帰依すると書いています。三つとは何かといいますと、既に皆さんはご承知だと思いますが、仏・法・僧です。これを三宝といいます。三つの宝ということです。自ら仏に帰依し奉る。自ら法に帰依し奉る。自ら僧に帰依し奉る。仏・法・僧の三つを三つの宝といいまして、三宝といいます。「至心に三宝に帰依し奉るべし」と書いてあります。
 皆さん、この赤い本を持っている方は、74ページを開いていただいたらと思います。
そこに三帰依というのが載っています。この三帰依というのは、ここにパーリ文と書いていますので、インドの言葉です。インドの、昔の言葉です。そのパーリ語の三帰依がこの74ページに書いてあります。
 ブッダン サラナン ガッチャーミ、
ダンマン サラナン ガッチャーミ、
サンガン サラナン ガッチャーミ
とあります。サラナンガッチャーミが皆、付いています。「サラ」とは、心からという意味です.「ナン」はナム、帰依または帰命、大切にするとか拠り所とするという意味です。「ガッチャーミ」は、私は〜へ行きますとか、私は〜しますという意味です。
最初のブッダンサラナンガッチャーミというのは、先ほど皆さんと読みました所でいいますと、自ら仏に帰依し奉るという所になります。仏、つまりブッダをブッダンと、ここでは表現しています。つまり、仏様を大切にして、よりどころとします。それが、自ら仏に帰依し奉るということと、ブッダンサラナンガッチャーミということです。
 二つ目が、ダンマンサラナンガッチャーミです。先ほど、皆さんと読みました三帰依文の所では、自ら法に帰依し奉るという所になります。法です。法は仏様の教えです。それをダーマといい、ここではダンマンと表現しています。仏様の教えのことをダンマンといいますので、自ら法に帰依し奉る、ダンマンサラナンガッチャーミというのは、仏様の教えを大切にしてよりどころとしますという意味です。
 三つ目は、サンガンサラナンガッチャーミです。先ほど、皆さんと読みました所では、自ら僧に帰依し奉るという所になります。僧は僧侶の僧です。漢字を見ると、お坊さんを大切にしてよりどころとしますということだと思いますが、実はそうではありません。それでしたら非常にうれしいですが、違います。
昔むかし、仏教がインドから中国に伝えられます。三蔵法師さんをはじめ、孫悟空が一緒ではなかったと思いますが、三蔵法師さんたちがインドから中国へお経、教えを運ぶわけです。そのときに、インドから中国へ仏様の教えが伝わったときに、中国にちょうどふさわしい漢字がなかったので、このサンガという言葉を、そのまま音を漢字2文字で表しました。「僧」と「伽」という漢字です。これでサンガと発音しました。「お好み焼き」が、アメリカでも「おこのみやき」なのと一緒ですね。これを音写といいます。音で写す、音写です。
ですから、サンガンサラナンガッチャーミは、先ほど、皆さんと読みました所では、自ら僧に帰依し奉るという所になりますが、実は、このサンガという意味はお坊さんという意味ではないのです。京都に、京都パープルサンガというサッカーチームがあります。京都パープルサンガというサッカーチームのサンガは、三帰依文のサンガと一緒です。サンガというのは、仏教徒という意味です。仏教徒とは誰かを、皆さんは知っていますか。誰でもない、皆さんです。皆さんのことをサンガといいます。つまり、サンガンサラナンガッチャーミ、自ら僧に帰依し奉るということは、今、皆さんの隣にいる人を大切にします、よりどころにしますということです。
 今日、皆さんは、ここに来られました。何度も来ている方は、この人は○○さんでどこの人かということはご存じかもしれませんが、知らない人もいますね。たまに会いたくない人もいるではありませんか。そういう人はいないですか。いなかったら幸せですが、僕はよくあります。この人とは会いたくないけれども、横に座らなくてはいけないことがあります。そういう人も全てサンガです。
 ところで、「私は、死んだらお浄土へ行きますし、お浄土には私より先にあの人もこの人も行っているので、私も行かしていただきます。」と、よくそういうように言う方がいます。しかし、僕は、そのときに「お浄土という所は皆がいる所ですから、嫌いな人もいますよ」と言います。僕たちは浄土と聞くと、好きな人だけがいるように皆さんは思いますが、違います。好きな人も嫌いな人も、皆が一緒にいるのがお浄土ですから、大きな勘違いです。
 サンガというのは、仏教徒という意味です。ですから、今、隣にいる人、また、その隣にいる人、私のご縁のある人、全ての人を大切にしている所にしますというのがサンガンサラナンガッチャーミであり、自ら僧に帰依し奉るという意味です。仏様を大切にし、仏様の教えを大切にし、今、隣にいる人を大切にするということです。今、隣にいる人だけではなくて、全ての人を大切にしていきましょうと、よりどころとしましょうということです。これが、仏教徒の誓いの言葉です。仏様を大切にする、仏様の教えを大切にするということは、頭では分かります。しかし、一番難しいことは、最後のサンガンサラナンガッチャーミ、自ら僧に帰依し奉るということではないでしょうか。
 ということで、ついでにサラナンガッチャーミの意味だけ、少し付け足しておきます。先ほど申しましたように、サラというのは、心からの意味です。ナンは、インド料理のナンではありません。ナンはナム、南無阿弥陀仏の南無です。これは帰命という意味です。帰依です。ナンというインドのパーリ語の言葉が中国へ移ったときに、漢字2文字が当てはめられました。南に無いと書きます。南無阿弥陀仏の南無です。これも音写です。ナンというのは、大切にする、よりどころとするということです。ガッチャーミというのは、私は何々します、どこどこへ行きますという意味があります。つまり、私は心から、仏様、仏様の教え、そして私にご縁のある人、全ての人を大切にして、よりどころとします。こういう意味です。
 先ほど、茨城県の常総市のほうの、水害の話が出ましたが、皆さんもご存じのとおり、インドにも大きな川がたくさんありまして、洪水がよくあります。そのときに、インドの人たちは、「サラナンガッチャーミ」と言って、小高い丘に逃げるそうです。僕も、これをお聞きして驚きました。つまり、私という1人の人間が生き永らえる所へ皆逃げましょうという掛け声が、サラナンガッチャーミです。
このことから教えられますが、私たちが、この私がいただいた人生を本当に生ききっていきたいと思うなら、サラナンガッチャーミだと、三宝のサラナンガッチャーミだということです。三帰依でないと、いただいた私の人生を本当に生き切ることはできないということです。
 子供たちは、お寺に来ると、まず、「三つのちかい」を唱えます。
一つ目は わたくしたちは ほとけの子供になります。
二つ目は わたくしたちは ただしい教えを聞きます。
三つ目は わたくしたちは みんな仲良くいたします。
子供たちの三帰依文で、同じ意味です。
仏様とともにという三帰依文は非常に大切な教えでありまして、最初に確かめさせていただきました。


【禿】

少し自己紹介をします。禿(かむろ)と申します。なかなか呼んでいただけなくて、頭がはげるという字です。しかし、つるつるの人は失礼ながら、かむろ・はげではありません。少し残っている人です。つまり、中途半端という意味です。稲刈りをした後に、根っこが少し残っています。あれを禿といいます。
 最近、時代劇のテレビがなくて、話しても、分からない人が多いですけれども、花魁道中の一番先頭を歩く、おかっぱ頭の女の子がいませんか。あれを禿といいます。露払い役ですが、同じ意味で言うと、京都の祇園祭です。祇園祭に鉾が巡行しますが、毎年、先頭の鉾が決まっています。長刀鉾と決まっていまして、そこに小学校6年生か5年生の男の子が乗ります。これを禿といいます。中途半端、大人になり切れてないという意味があります。
 なぜこのような名字が付いたかというと、親鸞聖人はずっと愚禿釈親鸞と名乗られていたわけです。親鸞聖人の名乗りからいただいた名字です。最近、わが家のルーツを探る等とよくテレビでしていますが、わが家の禿という名字は明治に入ってからです。つまり、名字帯刀です。名字を付けましたけれども、時の明治政府から命令されてからだといわれています。
 それまでは大体、浄土真宗のお寺の多くは、武士の出かお公家さんの出でない限り、ほとんど名字は付いていません。例えば、何々寺の何々と、お寺の名前と仏弟子の名前である法名で呼びました。名字は付いていません。お寺以外のかたがたも、多分、名字は付いてなかったと思います。明治時代に名字を付けなさいという、時の、政府の命令です。そのとき、明治政府が採った方法は国家神道を広めるということですので、逆に言うと、坊さんの堕落説を幾つか進めました。それは、表向きは文化的に世界に認められる日本にしようということで、女人禁制の山を女人禁制でなくす、それから洋服を来てもいい、肉を食べてもいい、結婚してもいい、さまざまな坊さん堕落策をしました。その中での一つが、名字を付けなさいということです。
 ある先生が「この本を読みなさい」と言われました。私も禿という名字のいわれを知りませんでしたが、その本によりますと、明治政府が名字を付けなさいというように言ったときに、何人かのお寺さんが絶対に付けないと大反対していました。それでもどうしても付けなくてはいけないというようになって、反対したお坊さんたちが付けた名字の中に、禿という名字があると書いてありました。親鸞聖人にご縁がある名字になりますので、非常にありがたい名字と思っています。
 私の、寺の門徒さんは、特に高齢のおじいちゃんたちは、このお寺に跡を継ぐ者がいなくなって誰かが入っても、禿という名字だけは絶対に変えさせない、どのような名字の人でも禿に変わってもらうというように代々言い伝えています。親鸞聖人は先ほど言いましたように、愚禿釈親鸞と名乗られました。愚は愚かです。禿は中途半端です。こういうように名乗られています。非常に大切な名乗りであるといただいています。


【念仏申す生活】

「仏様の心をいただく」

私は、なるべく身の回りに起きた出来事というものを大切にして、仏法いただきたいというようなことを思っていますので、あまり仏教の言葉を使わないかもしれません。本当に気楽にお聞きいただいていたらいいと思います。
 きょうのテーマでありますが、「念仏申す生活」としています。最近、念仏が聞こえないね、念仏しないねという言葉を聞きますので、今日は「念仏申す生活」というような題にしました。お念仏というのは何なのかということです。
以前教えていただきましたが、念仏というのは、この漢字の意味をある先生が取られて、「今、私の心に仏様の願いをいただきますということです」と、教えていただいたことがありました。
 今、私の心に仏様の願いをいただきますということですが、お念仏するときは合掌します。手を合わします。今日も皆さんは、来られてから何回ぐらい合掌しましたか。普段はしていない方も、お寺に来たときは、しつこく何回も合掌します。今日も、皆さんはなんまんだぶつと合掌していたと思いますが、「私の心に仏様の願いをいただくとき、いただくのはこの胸でいただきます」と言われます。隣に両国国技館がありますが、お相撲さんでも胸を借りるというようにいいます。ですから、仏様の心をこの胸でいただく、この身でいただくということだと思います。合掌するときは、みぞおちで手を合わしましょうということです。口の所ではありません。「口の所で念仏している人は、大体、願い事をしている人」と、「口の所で念仏している人は、横から見ていると、よく分かります。何か願い事しています。なんまんだぶつと口では動いているけれども、心の中ではよろしくお願いしますと言っています」と言っていました。みぞおちで手を合わします。この合わす手の中に、仏様の心をいただくというように教えていただいています。


「なぜ最近、お念仏を言わなくなったか」

 そこで、まず、なぜ最近、お念仏を言わなくなったかということを確かめたいと思います。アンケート調査がありますので、皆さんに、少し紹介したいと思います。最近、お念仏が聞かれなくなりました。それはどこに原因があるかということで、まず、全く仏法にご縁のない人に聞いてみたら、このような答えが返ってきました。
 念仏は葬儀や法事、墓参りのときに僧侶が唱えるものです。
念仏を唱えるのは、格好悪いです。
日常生活の中で、念仏を唱えている人に会ったことがありません。
僧侶に念仏のわけを聞いても分かりません。ドキッとします。
念仏は死を連想するので、唱えません。
病院で念仏をする人はいませんから。
念仏で救われるという話は、子どもだましのように思います。
僧や僧侶が寺の人さえ、日常は唱えていません。ドキッとします。
阿弥陀さんと言われても、架空の人だから信じません。
葬式、法事等がセレモニー化しています。
念仏の声が聞こえないのが、なぜ問題になりますか。「念仏の声が聞こえないのは、問題です」と言っているけれども、なぜ問題なのかということです。
 タクシーに乗って念仏したら、運転手から「心配せんといて、安全運転しますので」と言われました。よく分かります。生活に必要を感じません。毎日、生活しているけれども、念仏は必要だと思いません。よく分かります。葬式さえ無宗教化が進み、念仏不要時代が来ています。日常生活が順調なのに、唱えるほうがおかしいです。分かるけれどもという感じです。まだあります。
 家に仏壇がないから、念仏は無関係です。
無宗教のほうがかっこいいです。
老人さえ、念仏しなくなっています。
まるで、お念仏があの世の道案内かのような意見ですが、説経を聞いても念仏の意味が分かりません。ドキッとします。
死後のことは考えないので、念仏は要りません。
遺骨さえ海にまく時代だから、葬式も念仏も不要です。
樹木葬というのがあります。
念仏は古くさいです。
念仏も呪文です。
念仏しなくても、死ぬのは一緒です。
念仏は心の中で唱えていればよいです。
日常の悩みに対して、即効性がありません。
念仏は死者を弔うためのものです。
念仏するのが恥ずかしいです。
念仏している人に、魅力がありません。
テレビやドラマで念仏をちゃかしているので、唱えたくありません。
これが、全く仏法にご縁のない方が、なぜ最近、念仏が聞かれなくなったのか、その理由を教えてくださいというアンケート調査の答えでした。
 皆さんも、納得する答えが幾つかありましたね。タクシーに乗ったらのところの話で、すごく受けていましたけれども、呪文という話です。身の危険が迫ったときに、なんまんだぶつという人いますけれども、一緒ですので。

次に、よくお寺に話を聞きに来る人、今日の皆さんです。門徒の人、話を聞く人にアンケート調査をしたということで、その答えもあります。
 少しだけ紹介しますが、
寺でも本山でも合掌礼拝と号令を掛けるので、号令のないときは何もしなくてよいです。いろいろ言う人がいます。法話を聞いても、難解な専門用語を使い、話が難しいので、寺へ行くのが苦痛になりました。
寺も事業と同じで、もうけ主義の傾向があります。
僧侶の話は独善的、排他的カラーが強いので、念仏もしたくありません。
寺に参っても、念仏している人が少なくなりました。
寺は風景の一部にしか見えなかったという、オウム信者の言葉には考えさせられます。浄土真宗なのに、浄土の話は聞いたことがありません。これらのことは、お坊さんの責任です。
僧侶が、倫理・道徳に外れたことをしています。僕も少し危ないです。
価値観の多様化で、宗教への関心度が低くなっています。
念仏について尋ねるとすると、真宗は報恩の称名ですとのことです。何のことかさっぱり分かりません。
念仏していたら、「いよいよぼけてきた」と言われました。人間は生まれたときから、ぼけ始めるといいます。念仏したらぼけが進むということはないですから、安心してください。生まれてからこの方、人間は順調にぼけています。
念仏しなくてもよい宗教もあります。僧侶界の俗化に接すると、念仏したくなくなってきました。
寺に参っている人が参らない人の悪口を言っているので、念仏するのが嫌になってきました。皆さん、どうですか。寺にお参りに来ている人が、お参りに来ない人の悪口を言っているので、念仏するのが嫌になってきました。このように書いて、答えたということです。本当にドキッとします。
 
このように、数え上げたら切りがないぐらい、なぜ最近、お念仏が聞かれなくなったかという理由を述べています。アンケート調査の内容には、皆さんにも、心当たりのあることが多々、あると思います。「私もそう思う」と言う方もいますし、「それは違うよ」と言う方もいるかと思います。先ほども言いましたように、皆さんは、お念仏とまでいかず、手を合わすことはあります。ご飯をいただくときに、いただきますと手を合わします。
 皆さんの所かは分かりませんが、私は、先ほど言いましたように、滋賀県の長浜という所です。昔はご飯を食べるときに、食べるときには必ずお箸が要りますが、お箸は必ずお内仏、仏壇にあるという所がありました。ですから、朝にご飯を食べようとしたら、目の前には箸はありません。必ずお内仏、仏壇に行って、手を合わさないといけません。そこに箸があるということです。箸をそこから持ってきて、ご飯を食べたという風習がありました。今は、そういう所はほとんどありません。ということもありますが、皆さんも、いただきますと手を合わすことはありますね。
 こういうようにいわれていますが、お念仏といいますと、なかなか日頃の生活の中で、どうですか。最近、大切な方が亡くなって、仏壇、お内仏の前で手を合わすとき、南無阿弥陀仏と称えるということはあるのかと思います。お彼岸の後も、浄土真宗のお寺でしたら、報恩講とお念仏を申すこともあります。皆さんは、今日の、お勤めの中で、お念仏も申しました。


「念仏の意味」

 問題は、お念仏が聞かれなくなったということは、お念仏の意味を大体、皆、誤って考えているからです。何か願い事のように、呪文のように考えています。願いをかなえてくれるのが、お念仏です。つまり、助かりたい、南無阿弥陀仏と一緒です。宝くじに当たるように、なんまんだぶつと一緒です。願い事がかなうための念仏ですので。僕は、昨日、京都の駅で、オータムジャンボ宝くじを買いました。別に仏壇に納めはしませんよ。机の上に置いていますが、宝くじが当たりますように、なんまんだぶつも一緒です。お念仏を利用しているだけですから。では、お念仏はそうではないということです。
 そこで、お念仏の意味も含めて、少し考えていきたいと思いますが、ヒントになる言葉を少し紹介して、皆さんもお聞きになったような言葉を紹介して、考えてみたいと思います。有名な言葉です。
「お念仏は請求書ではありません。領収書です」
という言葉です。お念仏は、お願いしますという請求書ではなくて、いただきましたという領収書です。
 ここで大切なのは、方向が逆ということです。何の方向が逆かというと、ポイントは念仏は、あれをお願いします、これをお願いしますという請求書、つまり、私から仏様に対するお願い事ではなくて、仏様から私たちがいただきましたというものだということです。つまり、方向が逆ということです。これが大切です。
そこで、なぜ請求書になるかということです。それは、分かっています。なぜ請求書になるかというのは、何でもかんでも私が先だからです。


「私が先」

 私の身の回りで幾つか起きたことを、まず、話します。私にはありがたいことに3人の子どもがいまして、長男が、この3月まで静岡県の会社に、3年間、勤めました。そして結婚を機に会社を辞めて、滋賀県のお寺に帰ってくることになりました。滋賀県のお寺に帰ってきて、お坊さんの資格を取るために、今、大学に1年間、通っています。その長男とばあちゃんの、台所での会話です。そこに、ちょうど僕もいました。ばあちゃんが、孫、私の長男に聞きます。「引っ越しの荷物はいつ着くの」、つまり、静岡から滋賀県の家に、引っ越しの荷物はいつ着くのかと聞いたわけです。孫は「3月16日に、静岡から荷物が滋賀県の家に荷物が着く」と言いました。その途端に、ばあちゃんは何を言うたかといったら、「3月16日は、私の誕生日よ」と言いました。そしたら、私の長男、孫が何と言ったかですが、「何、それ。自分のことか」と言いました。
私は、この会話を聞いて、こう思いました。まず、ばあちゃんです。何日に引っ越しの荷物が着くと言ったら、私も力もないし弱っているけれども、少しでも手伝うからとなぜ言えないのか、なぜ自分の誕生日が先に出てくるのかと思いました。次に、僕の息子、孫が、「何、それ。自分のことか」と言いましたが、そこで孫はなぜ「ばあちゃんおめでとう」と言えないのかと思いました。
 それは全部、私が先だからです。ばあちゃんも孫も、どちらも自分が先ということです。皆さんはどうですか。このような話は、家の中で、いくらでもあります。全部、自分が先です。私が先です。
 このようなことはよくありますけれども、そこには大事な問題があります。それは自分がいくら自覚していても、何を考えていようとも、私が先というのは、自動的に、無意識に全部、出ます。これが問題です。
この間、テレビを見ていましたら、「5人いたら1人ぐらいしかできないこと」というシリーズをしていました。幾つもしていましたが、その中に、じゃんけんがありました。じゃんけんといったら、普通、勝った者がいます。しかし、5人で1人しかできないというじゃんけんは、負けなくてはいけないじゃんけんです。「じゃんけん、ほい」と言ったら、負けないといけません。それをしていますが、それは5人に1人しかできません。その他の人は無意識で勝ちます。そうです、無意識で私が先です。私たちは、そうなっています。皆さん、一回、じゃんけんをしたらいいかもしれません。絶対に勝ちます。無意識に勝とうと思っていますから、これが負けないと逆に罰となるといわれてもできません。人間はそうなっているからです。テレビを見ながら、なるほどというように思っていました。このような話は、いくらでもあります。
 しつこいようですが。あと二つぐらい紹介します。本山の財務部という所です。本山にも13ぐらい部署がありまして、全国で630人ぐらい職員がいますが、京都駅前の、東本願寺の建物の中に、300人以上の職員がいます。その中に財務部という所がありまして、私はそこにいますが、つまり、皆さんから頂いたご懇志、お金をあちらこちらといろいろなことに使っています。そうすると、毎日、支出の処理が回ってきます。支払いが、年間、1万件ですから。毎日、見ています。
 お客さんというのは銀行さんが多いです。この間、三井住友信託銀行の京都支店長さんがごあいさつに来て、このような話をしました。私の三井住友信託銀行は、銀行業務は全てします。普通の大手の銀行さんでも、信託業務はできません。しかし、私の所の、三井住友信託銀行は大手の銀行さんがする、銀行業務プラス信託業務をしています。「信託業務というのは何ですか。人の金を預かって運用するのではありませんか」と言ったら、「それだけではありません。最近、多いのは、相続信託です」。相続信託というのがあります。銀行の商品です。相続信託です。つまり、皆さんがたくさんお持ちであろう財産を信託銀行が預かって、もし自分に何かあったら、これをどういうように分配するかというところまで全てする商品、相続信託という商品です。「相続はもめますから」と言っていたら、「銀行の中で何て言っているか、教えましょうか」と言います。「争う争続です。本当です。相続のそうは争うです。争続です」、つまりみんなが私が先なのです。本当に相続の相の意味を考えて相続しないといけません。という話をしていました。
 もう一つだけ紹介しておきたいと思います。きょうは10月3日です。昨日、新聞に載っていました。女性の逮捕された人ですが、厚生労働事務次官の村木厚子さんです。逮捕されて、無罪が証明されて、厚生労働省に戻りました。トップの事務次官までなって退官した人の記事が載っていました。その中に、全省庁を通じて、女性として2人目の事務次官ですが、村木さんは、こういうように話されてます。「逮捕・勾留の経験を通じ、初めて自分は支える側にいるという間違った優越感があったと実感しました」。キャリアで、国のため、人のため、私は人を支えている立場だという人間が、逮捕・勾留されたときに思ったことが、「私は支える側にいるという間違った優越感があったと実感しました」ということです。「復職後は、より気持ちを込めて仕事ができるようになったと思います」と書いてありました。
 国のキャリアといったら、すごい人です。頭もいいし、仕事もできるし、そういう人が、知恵があるから余計に気が付かないということもあります。逮捕されてようやく分かったことが、自分は支える人と思っていたけれども、実はそうではなかったと気が付かされたという話でした。私たちは、いつも私が何でも先です。私が支えてあげています。こう書いています。
 人間の人という字です。皆さんも聞いたことがありますでしょう。人という字は、こちらの長いほうがA、こちらの短いほうがBです。よく言われます。人間の人という字をA、Bと、「Aですか。Bですか」とよく言います。厚かましい人は「B」と言います。謙虚な人は「A」と言います。私たちは、やはり常にBのほうに思いが先走っていると、よくいわれています。
 それが、私たちが仏法を学ぶ、学び方にも表れます。これは、私たちが念仏、仏様の話を知識として、私の生活に役立つものとして聞くのか、私の姿をあからさまに見せてくださるものとしていただくのか、ここに表れてくると思います。私が先であれば、お念仏さえも利用していくという、私たちの在り方です。
 しかし、親鸞聖人はそう言っていませんし、仏様もそう言っていません。仏法というのは、私のありさまを見せていただくものですので、利用するものではありません。仏法はいただくものであるというようなことを教えていただいていまして、知識で聞くのではなく、身体で聞きくといいます。頭で聞くと、大体、利用しようと思います。ではなくて、生活の中で聞くと、多分、聞いたことないと思います。
 ですから、今日は聞法会です法を聞くです。仏様の教えを聞く、聞法会です。しかし、法に聞く、仏法というものを聞くのではなくて、仏様の教えに私の生きざまを聞いていくことが聞法というように教えていただいています。つまり、私たちのいろいろな頭の考え方も全て、一回、逆にしたほうがいいということです。俺がしてあげている、僕がしましたというように言います。思ったら、そうではなく、してもらったと、このように考えるということです。

 そこででありますが、私のお寺で壮年会と、同朋婦人会というのがありまして、同朋婦人会というのは女性ばかりですが。この前、ある女性が、いただき物等について、尋ねられました。誰かに何かをいただいて、そのいただき物をお仏壇に供えます。が、「なぜお供えするのですか」といきなり言われました。
私の所は田舎ですから、朝に取れた野菜を、畑から家へ帰る前にお寺に持ってこられます。いただいた物はお盆に乗せて、仏様にお供えします。きょうもきちんとお供えしています。しばらく考えてからこう言いました。「お供えすると、お供えしたものが変わります。どう変わるかですが、私がもらったもの、私が畑で育てて取ったものを、お供えしたら、その後からは拝んでいただくものに変わります。誰かに何かをもらっても、お供えします。お供えした後からは、合掌して、頂く物になるのではありませんか」というように答えました。
 つまり、私たちが合掌する、仏様の前に座る、亡き人を思うことで前に座るということは、私が先ということが逆になるといったらいいですか。方向に逆になるということです。仏様の願いをいただくということは、そういうことを私たちが教えられるということだと思います。ぜひ皆さんもいただき物は、その場で中は何かと見たり、日付を見ないで、きちんとお供えしてからいただくということで、ぜひしお願いしたいと思います。

休憩







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