板垣退助
Itagaki Taisuke
(1837-1919)
君、
諱は正躬。のち正形と改む。幼名は猪之助。字は退助と称し、無形はその号なり。土佐藩士 乾榮六正成の嫡子。母は山内(林)傳左衛門勝重の女、俗名幸。君は初め乾氏を称し、のち氏を板垣に復す。乾氏は甲板垣氏の支流にして旧土佐藩の名士なり。
君、天性豪勇にして才知は人に勝れ、尤も軍略に長ず。
山内容堂侯の愛臣たれば、國事に心血し維新に功を顯し、朝より参議に任せられ、のちつひに伯爵を賜ひ諸侯に列す。
従一位勲一等旭日桐花大綬章を叙せらる。
君、天保8年(1837)4月17日土佐國高知城下中島町に産す。
幼にして人と為り、性良く武を好んで甚だ文事を悦ばず、童を聚めて自らその首魁と為る。而してかの魁童、弱きを援け強きを挫き、義を通しては臆せず、その口論の盛んなること屡々なり。
大人その係争を見て仲裁せる処と為りても、君、是非に就て理を論じ、正論を通して之を曲すること無し。
以て日毎 童々喧嘩をするに及びて、遂には石戰を起し、或ひは竹槍を以て相争ひ、大ひに郷里の患を為すに至る。
依て之を疎んずる人は皆、之を愚兒・狂童と称せるも、君、只管に軽輩に情厚く、朋友に信を重んずるに依りて、君の下衆に於いては須るに人氣を博す。
ある時、吉田東洋なる一賢者ありて君を視て曰く、「世人、彼を愚なりと云ふ。吾按ふに猪之助は愚ならず。
猪之助の意地を通せるは、イ周イ黨にして大ひに志の有りたるが為なり。屡々人の説に因て志操を遷すは、
眞成の大志に非ず。他日天下に大名を顯さん者は、必ずや斯の如き不動心を以て大志を立つ人に有る乎」と。
依りて君の親戚を説きて、勧めて學事を勉勵せしむ。
君、之を受けて江戸に往て游學す。而して、山内容堂侯の寵用する処となれり。懇ろに書を讀むに天下の大勢を知り、
四方の俊傑に交わりて、盟友の契を交わして、以て藩邸に勤皇志士を保護せり。
戊辰之役なるや、伏見の初めより土藩は之に参戰し、奥пE北越の戰場に赴き、参謀と成りて、會津若松の城に向ひ、
搦手より攻入りて終ひに之を降伏なさしめ、明治2年(1869)王政復古の功臣となりて、
位を従四位に陞し、職は参議に任ぜらる。
同6年(1873)6月君、先見之明ありて、魯西亞の南下の虞を鑑み、
東洋平和確立の策を西郷隆盛らと議して、征韓之大義を唱ふ。
民意は之を支持したるも、
大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、黒田清隆ら韓に媚ねきて此論を入れず、巧みに暗策を弄して閣議の決裁を棄る。時に迄ひて義人皆憤り10月25日遂に之を辞して野に下る。
君の無念は如何ばかり乎。即ち之に従ひて職を辞する官僚600餘名に及べり。
即ち維新御誓文の大御心を究き極め、民意を聚めて政軆に映しむるに、
民撰議院の設立が最良の策ならんとて、後藤象二郎(旧土佐藩士)、副嶋種臣(旧肥前鍋嶋藩士)等諸公と共に企つて愛國公黨を設し、之を同7年(1874)左院に建白す。
而して高知に帰し、立志社を立て、天下に周游して、民権と自由の説を唱へ、
朝野に啓蒙して諸士の賛同を募り、以て政黨の團結に盡力せらるゝは、今日世人の能く知る処なり。
而して建白の實るや自由黨を結し、推されてその総理と成す。これ本邦政黨結成の草創なり。
同20年(1887)5月9日故に維新の功を賞せられ、爵位を御下賜あらんとの御沙汰ありし時、
君は再々辞退を致せしも、三顧之禮を諭す人あらば、君も之を固辞し得ず、
遂に同7月15日に及びて、伯爵位を賜ふ。
振り返り見ゆるに、斯かる天才は、卓絶の姿を以て千軍萬馬の間を駆逐し、
無二の高名を顯さんは實に易々しき事ならざる可し。その功績の著しきは、
人口に膾炙して明晰たり。
大正8年(1919)7月16日83歳にて薨去。
特旨を以て位記を追賜せられ、従一位勲一等旭日桐花大綬章に叙す。
法名 邦光院殿賢徳道圓大居士
墓は東京品川東海寺高源院に在り
君の遺言に従ひ、後嗣は爵位を返上して位を継がず、以てその清廉潔白たる遺志を嗣ぎたるや。
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