【越智宿禰姓 拝志(林)氏(伊藤氏)系図】

【始祖】林淡路守通起  【本貫】伊予國越智郡拝志郷

【世系】拝志(林)氏は越智姓河野氏より出づ。越智刑部少輔通尭の子孫、稲葉(河野)通兼の長男通裕・ 次男通村が伊予國越智郡拝志郷を領して拝志(林)氏を称す。 伊藤博文の家は、伊予 河野氏の族にして系譜は次の如し。

【歴史】伊藤博文公は、周防國熊毛郡束荷村字野尻(現 山口県光市束荷字野尻)出身にて、實家の林氏は越智河野氏なり。 依て公は、幼少の頃 越智斧太郎と号す。而して公の父 林十蔵信吉は、長州藩の蔵元付の中間 水井武兵衛の養子となり、「水井氏」を暫時称したるも、水井武兵衛が 安政元年(1854)周防國佐波郡相畑の足軽 伊藤彌右衛門の養子となり、伊藤直右衛門と改名したるにより、十蔵信吉も「伊藤氏」を称し足軽となる。公もそれに伴い「伊藤氏」を称す。

明治42年(1909)3月16日松山を訪れた伊藤博文は「道後公園歓迎会」の演説で自らの出自に就いて 「遠祖は河野通弘の裔、淡路ヶ峠城主 林淡路守通起であった」と述べている。その演説は次の如し

「予の祖先は當國より出でたる者にて、伊豫には予と同じく河野氏の末流多しと存ずるが、 予の祖先は300年以前に於て敗戰の結果、河野一族の滅亡と共に中國へ移りたる者で通起(みちおき)と称し 慶長16年(1609)5月26日に死歿したるが故に、明年にて恰も300年に相当す。彼は「林淡路守通起」と称し、予は其れより第11代目に當れり。 通起は敗戰の後、毛利氏に頼りたるも、毛利氏もまた敗軍に属し、頗る艱難を極めたる時なるが故に、 遂に村落に埋歿落魄して、真に僻遠なる寒村に居住し、其子孫此処に存続して、今や一族60餘軒を算するに 至れり。予も即ち其一人にして、明年を以て齢70に達するが故に、恰も周防に移りたる通起の死後230年に出生 したるものなり。予が父母に擁せられて萩の城下に出でたるは僅に8歳の時にして、爾来幾多の変遷を経て、 今日に及べり。近來家系の事について當國の諸君が頗る調査に尽力せられたる結果、周防移住以前の事蹟、 大に明確となりたれば、明年は周防において親族を集め、通起の為に300回忌を営む心算なり。 今次当地に於ては、諸君が頗る厚意を以て来遊を歓迎せられたるは、右の縁故に基くものとして、予は殊更に 諸君に対して感謝の意を表する次第なり。顧ふに古來成敗の跡に就て考ふれば、予が祖先は當國より出でたる ものなれば、當國は即ち祖先の故郷なり。今や祖先の故郷に來りて斯くの如く熱誠なる諸君の歓迎を受く。 胸中萬感を惹かざるを得ず。加之、本日は諸君が我過失を論ぜずして、唯々微功を録せられたるに至ては、 深く諸君の厚意を心に銘して忘却せず(『海南新聞』明治42年(1909)3年3月18日号)」と演説したるも、 翌年宗廟の落成を見ずして、朝鮮人刺客安重根に暗殺さるといふ (『伊藤博文傳(1940年)』春畝公追頌会)。



   河野
(48)通有(1250-1311)
   |弘安之役(1281)時為河野水軍大将
   +――――――――+
   |河野(通治)   |河野
(49)通盛(  -1364)  通朝(  -1364)
            |細川氏與戦而討死
            |
            |河野(通直)
(50)         通尭(  -1379)
            |細川氏與戦而討死
            +―――――――――――――――――+
            |河野               |河野
(51)         通義(  -1394)           通之(  -1415) 細川氏與和睦之砌
            |病死於京洛            |  細川頼之為養子 后戦而討死
   +――――――――+――――――――+        |
   |河野      |稲葉      |稲葉      |河野
(52)通久(  -1435)  通弘(1369-1420)  通則(  -  )  通春(  -1482)
   |大内氏與戦而討死 応永2年遷於美濃 |        |
   |                 |        |
   |                 |稲葉      |河野七郎左衛門尉
(53)■■(  -  )           通兼(1383-1442)  通兼(1383-1442)
   |                  實河野通春六男 |稲葉通則為養子
   |                          |
   |河野                        |林
(54)■■(  -  )                    通祐(1408-1468)
   |                          |
   |                          |
   |河野刑部少輔                    |稲葉
(55)通直(  -1500)                    通以(1433-1493)
   |                          |
   |                          |
   |塩塵道鉄                      |塩塵道鉄    ∴林佐渡守
(56)通貞(1448-1538)                    通貞(1448-1538)  通村(  -  )
    稲葉通以為子                     實河野通直男  |仕 義澄公賜美濃國大野本巣両郡
    寛正2年美濃来住                            |
    同國池田郡白髭城住                          |林
(57)                                    通安(  -  )
                                       |
                              +――――――――+
                              |林 佐渡守    |
(58)                           通勝(  -  )  通具(  -  )
                                      |
                                       |
                                       |林
(59)                                    通忠(  -  ) 仕 土岐政房
                                       |室織田藤左衛門信清女
                                       +――――――――+
                                       |林       |@林 淡路守
(60)                                    通政(  -  )  通起(  -1609) 淡路ヶ峠(道後湯築城砦)城主(松山桑原畑寺町)
                                                |初河野伊豫守通直家來后仕 毛利氏住於周防國熊毛郡束荷村
   +――――――――+――――――――+――――――――+――――――――+――――――――+――――――――+――――――――+
   |林市郎右衛門  |林五右衛門   |A林孫右衛門  |曽利源之允   |行納喜代四郎  |門田孫三郎   |土井七郎右衛門 |倉光平左衛門
(61)通元(  -  )  通代(  -  )  通重(  -  )  通好(  -  )  通定(  -  )  通形(  -  )  通永(  -  )  通季(  -  )
    法名東善坊   ↓(土井)林氏祖  |
                     |
                     |B林孫三郎
(62)                  信勝(  -  )
                     |
                     |
                     |C林
(63)                  信吉(  -  )
                     |
            +――――――――+――――――――+――――――――+
            |D林孫右衛門  |林作左衛門   |林惣十郎    |
(64)         信顕(  -  )   某 (  -  )   某 (  -  )  |
            |                          |
            |                          |
            |E林半六                      |林又左衛門
(65)         信久(  -  )                     某 (  -  )
            |                          |
   +――――――――+                          |
   |林惣左衛門   |F林平治兵衛                    |林源蔵
(66) 某 (  -  )  某 (  -  )                    某 (  -  )
            |                          |
   +――――――――+                          |
   |G林利八(半六) |林利右衛門                     |林與一右衛門           ∴伊藤彌右衛門
(67) 某 (  -  )  某 (  -  )                     某 (  -  )            某 (  -  )
   |                                   |                 |
   |                                   +――――――――+        |
   |H林助左衛門                             |林益蔵     |林助左衛門   |伊藤直右衛門
(68) 某 (  -  )                              某 (  -  )   某 (  -  )   某 (  -  )
   |養子實與一右衛門二男                                   林利八為養子  ↓
   +―――――――――――――――――――――――――――――――――――+――――――――+
   |I伊藤十蔵 安政元年(1854)萩藩の中間水井武兵衛(後に伊藤直右衛門と改名) |林新兵衛室   |守田直吉室
(69)信吉(1816-1896) の養子となり、伊藤姓を名乗る。             女子(  -  )  女子(  -  )
   |母守田通種女
   |
   |J伊藤俊輔 公爵
(70)博文(1841-1909)
   |母秋山長左衛門長女
   +――――――――+――――――――+――――――――+――――――――+
   |K伊藤勇吉公爵 |伊藤(木田)男爵 |伊藤      |末松謙澄室   |西源四郎室
(71)博邦(1870-1931)  文吉(  -  )  真一(  -  )  女子(  -  )  女子(  -  )
   |実井上光遠四男  木田幾三郎養子
   +――――――――+――――――――+――――――――+――――――――+――――――――+――――――――+――――――――+――――――――+――――――――+――――――――+――――――――+――――――――+
   |L伊藤公爵   |清水      |伊藤      |伊藤      |伊藤      |伊藤      |林       |伊藤      |伊藤      |伊藤      |        |永富謙一室   |塩原祥三室
(72)博精(1899-1962)  博春(  -  )  博通(  -  )  博約(  -  )  博忠(  -  )  博臣(  -  )  博則(  -  )  博経(  -  )  博孝(  -  )  博英(  -  )  女子(  -  )  女子(  -  )  女子(  -  )
   |         清水資治養子
   +――――――――+――――――――+――――――――+――――――――+――――――――+
   |M伊藤     |西浦昌男室   |中山忠敬室   |千家達彦室   |廣瀬和榮室   |松平定純室
(73)博雅(  -  )  女子(  -  )  女子(  -  )  女子(  -  )  女子(  -  )  女子(  -  )
   |
   +――――――――+
   |N伊藤     |
(74)智明(  -  )  女子(  -  )
   ↓