新版(1998.3)
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友達に勧める藤沢さんのまず最初の一冊は、『夜消える』です。■比較的新刊で書店に並んでいる可能性が高い
■コーヒー一杯くらいの値段(420円)で楽しめる
■短編で読みやすく、いろいろの傾向の作品がある
■市井物でとりつきやすい(武家物というと抵抗を感じる人もいる)
■藤沢さんの小説を読む楽しさを満喫できる
などの理由です。
この作品を読んで「おもしろかった」「よかった」という人には次に『うらなり清兵衛』をお勧めします。こんどは、武家物です。
市井ものの『夜消える』のなかの特にお気に入りの3編を紹介します。
おばあさんを残して夜逃げしてしまう話は、今でもあるかもしれない。でも、このような話は現代小説で書くとなんとなくウソ話のようになるのではないでしょうか。ところが、時代小説として書くと、不自然さを感じることもなく読ませてくれる。
藤沢さんの作品は、時代小説と思いつつ現代小説とも読める。唯一の現代小説『早春』も、舞台を江戸にしても不自然ではない。「人は結局はこのようにひとりになるのか」との主人公のつぶやきは、藤沢さんの他の作品でもいくつか読んだ。
さて、「踊る手」。裏店(うらだな)で夜逃げがあった。なんとばあさんがひとり残された。
近所で世話をするが、残されたばあさんはものも言わず、食事もしない。そこでばあさんの孫娘と遊び友だちだった信次君(10才)が裏店代表として派遣される。かたくななばあちゃんも、枕もとで涙する信次君をみてやっと口を開き、食事をするようになる。
それからだいぶんたって、ばあちゃんを背におんぶした男が家から出てくる。ばあちゃんの息子の伊三郎だ。サラ金の取立の監視の目がゆるくなったすきにばあちゃんを迎えにきたのだ。
「よう信公。話は聞いたぜ。世話になったな。おとっつあん、おっかさんに、よろしく言ってくれよ」
伊三郎は、そう言うと、背中のばあちゃんをゆすり上げて、ばあちゃん行くかと言った。
ほい、ほい、ほいと伊三郎はおどけた足どりで、路地を遠ざかって行く。その背に紐でくくりつけられたばあちゃんが、伊三郎の足に合わせ、さし上げた両手をほい、ほいと踊るように振るのが見えた。
-------ばあちゃん、うれしそうだな。
と信次は思った。すると腹から笑いがこみ上げて来てとまらなくなっていた。母親の(帰りが遅いとの)説教もこわくなくなっていた。信次も両手をさし上げて、おどけた足どりでほい、ほいと言いながら路地を家の方に歩いた。
息子の背で踊るように手を揺らすばあちゃんの情景が見えてくる。うまいもんだ。ばあちゃんよかったねえ。信次君ありがとうよ、と私も声をかける。
こういう情景は時代小説だから、書けるのかもしれない。今なら、車でサーと去ってしまうかもしれないね。
10年前に妻のはつさんに死なれた喜左衛門さん(37才)は、亡妻の仏壇をぴかぴかに磨いている。なんせはつさん死んでるのに、何でもお見通しで、いつも話かけてくるから。喜左衛門さんも話しかけ、相談をしたりする。
と聞くと、「へえ」と身を乗りだします。
このはつさん、死んで10年になるのにあの世から旦那をコントロールするのは、「かなわんなあ」と思う一方、「なかなかいい夫妻だな」とも思う。このはつさんはなかなかの人で、とにかくあの世にいるのに夫に説教・嫉妬?・生活指導までする。夫の再婚の邪魔をしたりもしたらしい。
そのやりとりが実におもしろい。ラストの「遠ざかる笑い声」の終わり方も見事なものです。
小料理屋の通いの女中のおなみは、昔は客の酒の相手をしたあと、客と寝るような店を転転として、親のいない弟を育てた。この十年は今の店にいてそういうことはしていない。
そのおなみは、今日はうれしいことがある。大工をしている弟がいっしょになろうとする娘さんを連れてくる日だ。いつもより早く店をで家に帰る道。
町を横切って堀ばたに出たところで、目の前をすいとかすめすぎたものがあった。そのものはあっという間に白く濁ったいろをしている春もようの空に駆け上がり、日射しをうけてきらりと腹を返すと、今度は矢のように水面に降りてきた。
-----おや、つばめだよ。
となみは思った。立ちどまって、水面すれすれに八幡橋の方に姿を消すつばめを見送った。今年はじめて見るつばめだった。今年どころか、何年もつばめを見たこともなかったように思える。
この文を読んで、はっとする。私ももう少し若いころは、つばめもうろこ雲も、道のたんぽぽも「見たことがなかったような」ときがあるのに気づく。
「見たことがなかった」のではなく、見えなかった、見なかった。まわりの自然のうつろいを目にいれ、感じる余裕のない、ただただ仕事に雑事に、ささやかな悩みに追われて一日が終わる、そんな日々のときもあった。
おなみさんは、つばめが見えた。おなみさんの今までを少ししか知らない読者の私だのに、ここでほっとする。私はおなみさんに感情移入する。読者がその登場人物に感情移入できる、「俺も同じだよ」と思えるときがあるのも、藤沢作品のよさだと思う。
小説のなかには、およそ感情移入のできない人物がいて、作者の思いいれとは離れ、「俺、こんなん嫌いだな」と読むのがいやになるのもある。どうも幼稚な読者ではある。たとえば、映画にもなった外国の推理小説『私家版』の主人公など、最後まで彼の報復行為に同情できなかった。困ったことだ。
つばめを見たおなみさん、ところがなんとまあ。 ねえ、おなみさん、弟さんと彼女は若いからさ、そう怒らなくてもさあ。あれ? おなみさんは34才、あなたも若いなあ。これからいいことあるとおもいますよ。
----三十四か。
三十四の女がたった一人残されちゃったねえと思った。(略)
さびしさがひしと身体をしめつけて来て、なみはわが手で強く胸を抱いた。そうしないと胸の中のすすり泣きが外に漏れてしまいそうだった。
誰かが戸を叩いている。
ほら、ごらんなさい。
おなみさんの心の動き・変化が見事に描かれている。これは、やはり映像でなく活字で読みたい人の心のおもしろさです。
【脱線】 藤沢さんは、「転転とする」「家家のあかり」と律儀に書く。そのたびに私の目は瞬間止まる。なぜかなあ、どなたか教えてください。 小学3年生に「人々」と書いたら、「人マ」と読んでくれました。