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 藤沢目次総目次

私の好きな作品と・・(4) エッセイから

「再会」『小説の周辺』(文春文庫)
「死と再生」『半生の記』(文春文庫)


 藤沢さんのエッセイは、ごく自然に書かれていてなにか安心して流れについていける。
わざとらしさがないといえばいいのか。うんうんとうなずきながら読める。
その中で、今再読しても目頭があつくなるいつくかの話を書こうと思う。



「先生どこへ行っていた!」「再会」より

 「藤沢さんと私とふたつの共通点がある」と書くのはおこがましく、かなり恥ずかしいが、-----。
 ひとつは、教師をしていたこと。藤沢さんは、わずか2年くらいでやむをえず転職したが、私は35年もほとんど無為に続けた。

 ふたつめは、結核。藤沢さんはそのために教師をやめざるをえなかった。私は15才のころと54才。戦後しばらくは、死亡率の一位は結核であり、国民病とも呼ばれたものだ。中学生のときは、軽いもので幸い通学しながら治すことができた。歳をとり体が弱ってきたせいか、こんどは手術を要する珍しい結核にかかり、これもなんとかしのいで、そして数年して退職した。だから、少しはやいめの退職も結核が直接の理由ではなかった。
 だから藤沢さんのように療養所生活は経験していないし、転職の必要もなく平凡に勤め続けることができた。


 さて、回復した藤沢さんは、故郷鶴岡で教職に復帰するつもりだったが、当時の結核に対する世の中の対応は復職の道を閉ざすものであった。藤沢さんの小説にも結核(労咳=ろうがい)の市井の人が登場し、世間から忌避されたりしている。

 おそらく療養中の輸血などが藤沢さんの死を早めた原因のひとつだと思う。残念なことです。

  これは藤沢さんにとって不運なことだ。「でも、藤沢周平という作家をえた私たち読者にとっては幸運なことだ」と書くのは不謹慎なことだろうか。

 東京で業界紙に就職し、そして幼い子を残して奥様が亡くなられる。不運はかさなる。藤沢さんはそれを小説に昇華していく。やがて、直木賞を受賞し、作家として独立する。故郷から呼ばれて講演をすることにもなる。


 「二十数年前に教師をしていた中学校(在職2年)にも行った。
 そこで私は、いきなり胸がつまるような光景に出くわした」


 会場の聴衆の前列にそのときの教え子たちがいた。男の子も女の子も、 四十近い齢になっていた。それでいて、まぎれもない教え子の顔を持って いた。

 私が話し出すと女の子たちは手で顔を覆って涙をかくし、私も壇上で絶句 した。おそらく彼女たちはそのとき、帰ってきた私をなつかしむだけでなく 私の姿を見、私の声を聞くうちに二十年前の私や自分たちのいる光景をあり ありと思い出したのではなかったろうか。

 講演が終わると、私は教え子たちにどっと取り囲まれた。あからさまに 「先生、いままでどこにいたのよ」と私をなじる子もいて、「父帰る」という 光景になった。教師冥利につきるというべきである。

  愚鈍な教師であった私は、このエピソードを読み、正直いってうらやましい。藤沢さんは他のエッセイでも教え子のことを昨日のように書いている。
 いや二十数年前のことだけでなく、子どもたちが大人になってからの今日のことも書かれている。
 いい先生だっただろうし、いい生徒たちだっただろう。いいお話だ。

 生徒たちが大好きだった藤沢先生は、初めての生徒が最後の生徒になってしまわれた。突然生徒たちと別れ、長い療養生活に入る。安静のベットの上で、子どもたちの顔と声を反芻されたことだろう。藤沢先生の心のなかに子どもたちひとりひとりがしまわれていたことだろう。

 私などは千人をはるかに越える子どもたちと接してきた。もともと名前と顔を覚える能力のひどく弱い私は、正直いって名簿を見てもイメージがわかない人の方が多い。申し訳ないことである。

 ときたま「先生、私のことわかる? 私は誰でしょうか?」なんてもうおじさん・おばさんになった教えたらしい人から声をかけられて、あせりまくったりする。おまけに彼・彼女たちは、「先生、昔と変わらんねえ。頭が白くなったのと、お腹がでてきたのだけが違うねえ」なんてからかわれてうろたえる。
  という私でも初めて担任した子どもたちなら、突然出会っても失礼なことにならないとの自信はあるが、はたしてどうだろうか。


   


「私も妻も年老い、
 死者も生者も秋の微光につつまれている」

「死と再生」より



 このエッセイは藤沢さんの療養生活と業界紙の記者時代の話、小説を書き始めたころという半生の記録に最初の奥様との結婚、奥様の死、そして再婚された奥様とのあれこれが書かれている。
   そのエッセイの最後。


 先妻と死産の子供の骨を納めた墓は、高尾の墓地群の一角にある。そこに時 どきお参りにいく。墓を洗い、花と線香を上げてから家内が経文をとなえる。

          ----中略----

 私と結婚しなかったら悦子は死ななかったろうかと、私は思う。胸にうかんでくる悔恨の思いである。
だがあれから三十年、ここまできてしまえば、もう仕方がない。

背後で 後始末をしている妻の声が聞こえる。二十八だったものねえ、かわいそうに。さよなら、またくるからね。私も妻も年老い、死者も生者も秋の微光に包まれている。




そして、藤沢周平さんもそのお墓に。
作品を残し。



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