初版(1997.12.)

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私の好きな作品と・・・(1)


龍を見た

「弾む声」(新潮文庫・『龍を見た男』から)





 藤沢作品のなかでは、ひょっとするとこの短編がいちばんお気に入りかもしれない。





隠居した武士とその妻(40半ば)の話

 その声を、はじめて聞いたのは、去年の夏の終わりごろである。
朝の食事がおわって夫婦でお茶を飲んでいると、家の外でいきなり子供の声がした。
「おせーきちゃん」
と、その声は呼んでいた。元気のいい弾むような声だった。初老の夫婦が、思わず顔を見合わせて微笑したほどの大きな声だったが、声は女の子である。歳は十かそこらだろう。その歳ごろ相応の甲高い声だった。
「大きな声だの」
「おせきちゃんというのは、お隣の娘の名前ですよ」
と満尾(妻)が注釈をいれた。


にぎやかな子どもの声

平和なほほえましい出だしである。

 私の家のまわりではもう子どもの声は聞かれなくなった。築後25年にもなった住宅地の住人たちは、ぼつぼつ定年を迎えた夫婦が多くなってきた。息子・娘夫妻と同居できるほど広くなく、したがって孫さんたちの姿もない。

 その中年・老年の住宅地に賑やかな子どもたちのいる家族が転居してきた。そこは 会社の持ち家で転勤者の住まいとなっていて、子どものいる若い夫婦がはいるときもある。
 その家族は全員大声で賑やかだったが、子どもがが格別すごかった。家族は引っ越しトラックで到着した。さっそく降ろされた自転車に幼稚園と小学3年生くらいの男の子が乗り新しい土地の探険に走り去った。

 小1時間すると、外で子どもたちの声がする。なんと、ふたりはどこからか呼び込んでできた6,7人の子たちと群れて遊んでいる。今どき珍しい子どもたちだ。父親は優秀なる営業マンかな。ひさしぶりに子どもたちの声が町内に聞こえた。

 それからは、わが家の前の道が彼らの乱暴な遊び場となった。彼等は自転車はそこらの塀にぶっつけて止めるのが流儀らしく、そこがそのまま駐輪場となった。庭にボールが入ったときはしおらしい顔をするが、道であっても知らん顔、というより彼等は交通人の存在は無視し、道路を競輪場・野球、サッカー場として大声で喚き続けた。その内にガラスを割られるであろうと思ったが、その前に転勤していった。

 私はこの兄弟が好きだった。(完全に無視されたが)

  職場ではウルサイ子どもたちの声に閉口することもあったが、家で聞く近所の子どもたちの声はまた別でにぎやかでほほえましかった。





弾む声の少女と隣の少女は寺子屋に通っているのだ。

 夫婦はいつの間にか、子どもの呼び声を心待ちするようになった。
風雨の強い日など、子供の声はきれぎれに、かぼそく聞こえる。耳をすませながら助左衛門は言う。
「えらいものだ」
「ほんとうに、けなげな」
満尾がそういうとき、傘を持ってつきそって行ってやりたいような顔をするのである。助左衛門にも満尾にも、少々の風や雨など苦にしない子供の時期があったのだが、それぞれ身体をかばうようになったいまは、もうそのことは忘れていて、子供の強さ、けなげなさに、ただただおどろくのである。おどろき、かつ心をゆさぶられる。

平易な日本語です。やや歳をとった夫婦を見事に描いています。次の文がまたいい。藤沢作品を読む楽しみのひとつにこんな文を読むことにある。うまいなあ。

 子供の声を聞くようになってから、それまでは終日声を出さない日もあった夫婦の暮らしがいくらか変化したようであった。外からの子供の声が聞こえてくると、自然に何がしか、言葉をかわさないでいられない気持になるのである。
 助左衛門がふっふっと笑い、満尾が、これも笑いながら、元気な声とつぶやくだけのことである。それだけでも、家の中がなんとなくいっときはなやぐような気がするのであった。


 その子供が、ぷっつりと姿を現わさなくなったのである。
と、物語ははじまる。
 
 哀しいが、いい物語である。家庭頁をつくるために読み直してみて、話は十分にわかっているのに、またまた目がうるんできた。
ラストがまたいい。ほっとする。藤沢周平はいい。




トトロのメイちゃん

小学校の教師はやかしまい生き物が服を着ているような人と生活をしている。

 例えば、図工の時間に好きな人といっしょに作業をしていたりすると、すぐにおしゃべりに熱中し、いい機嫌ということがわかる。話に熱中すると声が高くなる。鼻唄もでる。教室の端と端で会話がはじまる。ますます、ご機嫌。「ちょっとちょっと、手は動いてるの」と声をかけるタイミングをはかる必要がある。

 でないと、おしゃべりのご機嫌が身体ご機嫌に転化し、“授業時間”でなくなるから。

というわけ子どものうるさい声には慣れている私が、驚愕した子どもの声がある。

 宮崎アニメの「となりのトトロ」のメイちゃんの口と声だ。だだをこねた、迷子になったメイちゃんは、顔中を口にして大声でワアワアと泣く。

 この泣き顔と声にはまいってしまった。ひさしく見なかった、聞かなかった人間の子どもの子どものまんまの表情と声だったからだ。現代の子どもはもうあんなに大口をあけて、思いっきり泣くことができないのでは、と感動的にそのシーンを見た。



というのも、私が「弾む声」の助左衛門さんに近づいてきたかもしれない。
 小説を読みながら、こんなことも考えたりもする。


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