第一部 連雲港で日本語教師をして
9.別離、そして再会

別離 

1222日に最後の授業をして以来、1月18日の帰国までの1ヶ月、私の生活は基本的に帰国モードだった。「高級日語(一)」の考査とその採点は残っていたが、授業のない点、気分的には楽だった。でも、非常に忙しかった。学生たちは、いろんなグループで送別会を開いてくれた。私は、授業のないこの期間に、今まで行きたくて行けなかった花果山や東海県に行った。2度目の淮安旅行もした。郊外の村に学生の家を訪ねることもできた。そして、その合間に、日本へ送り返す衣類などを荷造りし、何度も郵便局へ運んだ。
 次の手紙は、大晦日に学生がくれた年賀状兼別れの挨拶である。原文のまま活字に直した。
                   
  元旦、おめでとうございます。
  故郷千里の中国で、元旦を過ごすのは寂しいかもしれません。でも、旅行が好きな先生は、どこへ行って、旅行したり、友達と一緒にご飯をして、そんなに寂しくないかもしれませんね。そして、学生の私たちも先生のことを思います。先生が元気に、楽しく元旦を過ごすことを祈っています。
 先生はとてもやさしい。優れていると思います。特に仕事に対して、まじめな態度です。そういう上品な資質がいつの間にか私たちに伝わってきます。私たちも将来、先生のようにまじめに働きます。これは、教科書の中に勉強になれないことです。
 先生のおかげで、私たちはいろいろ勉強になりました。誠にありがとうございます。先生の帰国は私たちにとって、ほんとうにつらいことです。仕方がないのに、こういう気持ちはずっと心の中にあります。先生に「さようなら」を言うしかありません。しかし、私たちはこんないい先生のことを絶対、忘れません。
 先生、私は書いた日本語が正しいかどうかちょっと分からないですけど、間違い所が必ずあると思います。ほんとうにすみません。でも、これから、きっと日本語をもっとまじめに勉強します。上手に身に付けるように頑張ります。
 最後、先生が道中無事に日本に着くことを祈っています。
                       2005.12.31  Y.W
 
                  
 個人的な別れの挨拶やプレゼントの他、クラスからも、寄せ書きや記念品をもらった。次の文は、そんな学生たちへの私からの挨拶状である。3年1組と2組の委員長に渡した。

              
  3年生の皆さんへ

 思い返せば、昨年の8月下旬、新しい仕事に対する期待と生活への不安を持って、この淮海工学院に来ました。あれから、はや、5ヶ月が過ぎ去りました。
 この5ヶ月を振り返って、その感想を一口で言うと、「無茶、楽しかった」と言えます。いろいろ、いやなこと、不安なこともありましたが、明るく親切な皆さんに助けられ、今日までやってこられました。いま、記憶に残っているのは、授業中のことや、皆さんとの交流など楽しかったことばかりです。ありがとうございました。
 学生に渡した私の写真あと、一週間で帰国しますが、早ければ夏までに、遅くても、皆さんが卒業するまでには再会できると信じております。
 徐福の里の茶楼で撮った写真を添えます。この写真を見たら、私を思い出して下さい。
 皆さんの健康と学業の達成を祈ります。「さようなら」と、文字通り、「もう一度会う」との意思を込めて、「再見!」

 2006111  
職員住宅7号楼204号にて                          橘雄三学生たちとの記念写真

1月12日、私の「高級日語(一)」の考査があった。私と学生全員が一緒に会うのはもうこれが最後である。誰いうとなく、教学主楼の玄関に集まり記念写真を撮った。右の写真はこのときのものである。

1月18日、帰国の日の朝、まだ明けきらない宿舎前の道に、先生や学生が見送りに来てくれた。7時になって、外事弁公室が手配してくれた大学の車で空港へ向け出発。車が、連雲港の市街地を通り抜け、隴海線の鉄路に沿って走り出すと、小春日和に徐福の里を訪ねたこと、雪の残る花果山に登ったこと、学生たちのあの顔この顔・・・、楽しい思い出の一こま一こまが次々と蘇り、ドライなB型人間の私にしては感傷的になっていた。

再会

帰国後、学生からのメールが頻繁に届いた。そんな中、「先生、今度いつ来るの」というメールがいくつもあった。中には、「暖かくなったら、また来ると言ったでしょ」と、私の再訪を催促するメールまであった。記憶は定かでないが、別れ際にそう言ったのかもしれない。もしそうなら、その言葉をかりそめのものにしてはならない。それに、そう言ってくれるうちが花である。
  私は3月28日、連雲港へ出発した。その日遅く連雲港に着き、大学の招待所に六日間滞在した。翌日、知り合いの先生の授業時間を少し貰い、学生たちに再訪を告げた。学生は歓声を上げて喜んでくれた。この後、六日間、招待所の私の部屋は学生との交流の場となった。また、この期間、届いたメールは百を超えた。
4月3日。大学構内の公園「欣園」で3年生と  学生たちとの会話は、単なるおしゃべりの他、具体的な内容のものもあった。一つは卒業論文のテーマの選定で、もう一つは留学のことだった。卒業論文については、テーマの妥当性と適切な日本語資料の有無に関するものであった。これは、時間がかかることで、引き続きメールでやり取りすることにした。もう一つ、留学の方は緊急を要した。私の住んでいる明石市から車で半時間ほどのところ、三木市に関西国際大学という大学がある。規模的には、淮海工学院の10分の1ほどの小さな大学である。淮海工学院はこの関西国際大学と留学生の交換について契約を結んでいる。そして、学生は、今が申し込みの時期で、申し込みはしたいが情報不足で不安だというのである。私は高校の教師をしていたので、関西国際大学という名前は知っていたが、一度も行ったことはなかった。帰ってきて、大学を訪問し、写真と大学案内等資料を学生に送った。
  再訪の一週間、学生との交流の他、徐州と淮安へそれぞれ日帰り旅行を楽しんだ。これについては別に記す。         4月3日。図書館前の八部咲きの桜   
 私の、月々3,500元の給料は中国農業銀行の口座に振り込まれていた。今年1月の帰国時、円に換えて持ち帰ろうとしたが手続きが難しかったので、そのままにしておいた。今回の再訪でも、2千元ほどしか減らなかった。まだ、かなりの元が残っている。これを使い切るまで連雲港訪問を続けようと思う。