第一部 連雲港で日本語教師をして
10.連雲港・淮安講演旅行(08年5月及び10月)

「現代日本の若者像」


 淮海工学院での日本語教師は
2005年8月~06年1月の半年で終わったが、帰国してすぐの06年の春に再訪し、その後も、07年の春、そして、今年(08年)の5月と、大学を頻繁に訪れている。特に先月(5月)下旬には、「現代日本の若者像」という題で、二つの大学、淮海工学院ともう一つ、周恩来総理の故郷淮安市の淮陰師範学院で講演するという機会を得た。
 06年1月の帰国後も、淮海工学院外国語学院(最近、学部から学院に昇格)のT院長から、「もう一度、日本語教員をしませんか」と誘われていた。しかし、基本的には健康不安から、更に又、授業の準備、小テストの採点、期末テストの問題作成・採点・成績処理などなど、仕事量の予想以上の多さから、「もう一度」という決心がつきかねた。
 でも、授業をするということ自体、嫌いではなかったし、中国の学生たちとの交流、地方都市での生活など、楽しいことはいっぱいあった。そんなわけで、T院長の誘いに、「学期に1、2回、学生に話をするというのだったら喜んで行きますよ」と答えると、「それで結構です」と即決した。
 その第1回目として、5月20日、淮
淮海工学院での講演風景
海工学院、5月22日、淮陰師範学院と日程が決まり、この二日を中心に据えた今回(08年5月後半)の旅行となった。右の写真は、5月20日、淮海工学院での講演風景である。日本語科の3年生を中心に約百人が出席した。
 淮陰師範学院は、初めての訪問であった。淮海工学院も淮陰師範学院も共に学生数が1万6、7千人で、同規模の大学である。今回の講演については、両大学とも、大学の行事として扱い、講演前夜には歓迎会を開いてくれた。私は、こういう招待の席は概して苦手であるが、今回は料理も口に合い、雰囲気も和やかで、楽しい時間を過ごすことができた。講演そのものについては、日本語科の3年生中心ということで、日本語で、しかも、通訳なしで行った。学生の理解の程度に多少の不安があったので、事前に、かなり詳細な、およそレジメらしくないレジメを作成しメールで送っておいた。学生は、これをダウンロードして、当日、持参していた。
 下の写真は淮陰師範学院でのものである。このときは、2年生も出席し、百七、八十人の出席になった。
 今回は、大学の正式な招聘ということもあって、手続きや関係各方面への根回し・配慮等、そうでなくても多忙なT院長に余分な仕事を作ってしまい、申し訳なかった。「次はいつ来ますか」と言ってくださるが、そう度々お願いできることではない。次は、T院長の授業を、非公式にこっそり貰って話をさせてもらおうと考えている。
淮陰師範学院の正門前で 講義棟ロビーの案内板
淮陰師範学院での講演風景 話を聞く学生の様子



「日本留学への助言」

 上述、5月の講演のホームページの最後の行に、「次は、T院長の授業を、非公式にこっそり貰って話をさせてもらおうと考えている」と書いたが、T院長に、そのように依頼して、昨年(‘08年)1028日に2回目が実現した。

  私の話を聞いてくれたのは、5月のときと同じ学生だった。5月のときは、まだ3年生だったが、今度は4年生になっていた。
  50分を二コマ貰って、「日本語メールの基本的心得」と「日本留学への助言」の二つを話した。前者では、教え子たちから頻繁に届くメールについて、普段、気になっていたことを話し、後者では、これも、このところ私への相談の多い日本留学の心得について話した。私は、「T院長の授業を、非公式にこっそり貰って」のつもりだったのだけれど、教室に入ると、「“日語交流的基本知識”学術報告会」と白抜きの赤い横断幕がかかっていたし、あと、私の授業の記事が大学の新聞やホームページに載っていたので、私が思っていたような「こっそり」ではなかったようだ。


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