第一部 連雲港で日本語教師をして
6.私の生活−学生との交流&ちょっと遠出−

赴任早々病院へ

異国で病気になるほど不安なことはない。特に、ことばの不自由な者にとってはそうである。スーパーで買い物をするのとわけが違う。医者に病状を正確に伝え、症状を正確に聞き取らなければならない。赴任早々の8月末、右腕腋の下にビー玉ほどの腫れ物ができ、日本語の上手な学生Wに付き添われ、連雲港で一番大きな病院、第一人民医院へ行った。汗をかいて黴菌が入って化膿したのだろうとの診断にほっとする。2週間分の薬をもらって帰る。診察費4元。びっくりするほど安い。スルファ剤63.1元。これは高い。腫れ物は、2週間分の薬がなくなる頃、触ってもわからないくらいに小さくなった。
  この後、幸い、病院へ行くことはなかった。私は、これまで、肩こりから、よく風邪をひいた。風邪をひいてしまうと、市販の薬では治らず、かかりつけの医者で抗生物質を貰うのが常であった。そいうことで、今回は、特に頼んで2週間分の薬を貰っていた。連雲港滞在中、3回風邪をひき、貰っていた薬を飲みきって帰ってきた。この他、老眼が進んで字が読み辛くなったり、足の痺れが続いたりはしたが、なんとか、治療を要するような事態には到らず帰って来れた。

教師節のプレゼント

教師節プレゼントの壁掛けの前で3年生の学生たちと 授業が始まって間もなくの9月9日、3年生の学生から、「師恩難忘」と記したカードと壁掛けを貰った。中国には、師に感謝し、師の恩に報いる「教師節」という日があって、それが、9月10日(孔子の誕生日に由来)、明日だというのである。まだ、そんなに授業しておらず、プレゼントを貰うのは心苦しく思ったが、学生の厚意に感謝し受け取った。
 帰国してから知ったことだけれど、韓国にも「先生の日」(5月15日)があって、カーネーションを贈るとのことだ。「教師節」や「先生の日」の有無は、教師に対する尊敬の念の強弱と相関関係があるのかどうか。

学生の案内で、防寒着を買いに街へ

  学生たちは、よく、「先生は薄着だ。もっと温かい服装をしないと風邪をひくよ」、と気を遣ってくれた。
  私は、日本から持ってきている冬服でなんとか済まそうと考え、今ならこれくらいと、真冬に着る服から逆算して着ていた。しかし、11月中旬、薄着だけが原因ではないが、風邪をひいてしまった。私は、見舞いに来てくれた4年生のOから、薄着を改めて注意された。そして、彼女と一緒に、“羽絨服”(羽毛の入った防寒着)と厚手の肌着を買いに行く約束をした。
 風邪が大分よくなった二日後の午後、二人は歩行街へ出かけた。連雲港の中心、新浦区で一番の繁華街を歩行街といい、たくさんの洋品店が並んでいた。まず、羽絨服だ。Oはいくつもの店に入り、私に似合って、しかも、妥当な価格の品物を探してくれた。店員の「昨シーズンの品物なのでお買い得です」との言葉通り、258元と安かった。このあと、百貨大楼で厚手の肌着を買う。上下セットで55元。若い女性に男性用の肌着の品選びまでさせて申し訳なかった。

学生と一緒の食事

 学生が作ってくれたり、私が招待したり、よく一緒に食事をした。
 学生が、私の宿舎で、初めて料理をしてくれたのは国慶節の黄金週間のときだった。中国でも黄金週間という言い方をし、5月1日のメーデーからの1週間と、10月1日の国慶節からの1週間の二度、黄金週間がある。
 昼食を一緒に食べようということになって、3人の学生が10時ごろから準備を始めた。頭を落とし、毛はむしってあるが、鶏一羽を提げてきたのにはびっくりした。この鶏のスープ、鶏のから揚げ、ワンタン等々、テーブル一杯にご馳走が並んだ。昼食というより、立派なディナーであった。おしゃべりをしながらの食事は楽しい。学生たちが、後片付けをして帰ったのは、3時を過ぎていた。「先生は何もしなくていい。見ていて」と言ってくれたけれど、鶏一羽を含め、たくさんの食材を使い、油を使っての料理である。後片付けを中心に、フォローがなかなか大変だった。大晦日。帰国が近づき、4年生の学生たちと食後の記念撮影
 こんなことがあった。やはり、わが家で、学生の調理で食事をした。学生たちが帰った後、台所へ入って、みりん(味醂:料理酒)がすごく減っているのに気がついた。翌日、学生にそのことを告げると、「あれ、油でしょう」。これには、魂消た。
 三つ目の話。12月25日の夕方、学生から夕食の誘いがあった。今日はクリスマスなので、寮で一緒に食事をしましょうというのである。学生と学生食堂で一緒に食事をすることはよくあった。しかし、女子寮へは一度も行ったことがなく、覗いてみたい気持ちもあって、誘いに乗った。「女子寮へ男子が入れるの?」「先生なら大丈夫」。「先生」だから大丈夫なのか、私の「人格が高潔」だから大丈夫なのか、私が「高齢」だから安全なのか、この、「先生なら」に拘りながらついて行った。料理は、大きな炊飯器に、野菜や茸やソーセージを一杯に入れたごった煮であった。さしずめ、炊飯器でつくる“火鍋(フオグオ)”といったところか。男子禁制、煮炊き禁止の女子寮での学生と一緒の食事は、多少のスリルもあって、なかなか楽しかった。(このときの写真は、「3.学生は一に勉強、二に勉強」の学生寮のところに掲載)
4年生の学生たちが開いてくれた忘年会兼送別会  四つ目の話。12月30日、卒業論文を指導した4年生が、市街地の料理店“大宅門”で忘年会兼送別会を開いてくれた。卒業論文の作成について、赴任してすぐの9月から指導しているが、学生たちは、「日本語能力試験が終わったら書く」、「1学期末考査が終わったら書く」と次々延ばし、12月末のこの時期になっても、何ら進んでいなかった。しかし、学生たちは、このようなことになると、すぐに話をまとめてきた。  

秋晴れの郊外

 天気のよい週末には、よく、郊外へ出かけた。天気がよくて気が向けば、ふっと一人で出かけた。ここでは、その内の2回について報告する。学生と一緒の計画的な遠出・小旅行については別に記す。

10月15日、南城鎮城門見学

 ここには、古い時代の城門があるというので行った。連雲港の市街地からバスを乗り継いで30分ほどのところである。最初、見つからず困っていると、中学生らしい女の子が3、4人、「何処から来たの?」「何をしているの?」と近づいてきて、私が、「古い城門を探している」と言うと、城門まで案内してくれた。

古い城門 現在の一条街

 現地の石碑等に刻まれた文字から判断すると、六朝時代の一条の道路に沿った街並みが、今に残っているということのようである。当然、建物は何度も建て替えられたのだろうけれど。

10月29日、竜苴鎮古城探訪

 『連雲港市地名概覧』によると、竜苴鎮について、次のような記述がある。
「竜苴は蘇北で知られた古鎮である。《淮安府志》には、次のように記されている。漢楚の相争時、韓信の攻撃に備え、項羽はこの地に指揮下の大将司馬を派遣し、大小三つの塁を築いた」。漢楚の抗争といえば、紀元前の出来事であるが、地図には“古城”という地名まであるのだから、何か残っているだろうと思い出かけた。
  バスを乗り継いで一時間余りかかった。 この日は、好天で、道路の両側、どの田にもコンバインが入り、取り入れの真っ最中であった。道路の半分は、刈り取ったばかりの籾の干し場となり、危険極まりない。

秋の収穫が進み、道路の半分は籾干し場 途中のバス停と車掌
村の古老に聞くと、この丘が古城の跡と言う 脱穀をする親の横で、一人で退屈そうな子供

  “古城”というバス停で降りて、近くの村に入り、古老に聞くと、遥か向こうの丘陵を指差し、その辺り一帯がそうだという。近くにいた若者が細い畦道を先に立って案内してくれる。若者は、あちこちに落ちている焼き物の欠片のような物を拾い、これが古城の遺物だと言う。眼で見て、興味を惹かれるようなものは何もなかったが、この地であったかもしれない韓信と項羽の争いを思い描くと興味が尽きない。秋日和の一日、豊かな時間を持つことができた。