第一部 連雲港で日本語教師をして
5.私の生活−宿舎・食事・買物−

私の身分・給与・宿舎

私は淮海(わいかい)工学院の「教師」という資格で、「外国専家証」を受け、外国語学部日本語科の3年生2クラスに、週12コマ(1コマ50分)の授業と、4年生10人ほどに卒業論文の指導をし、月三千五百元の給料をもらい、2LKの職員住宅が与えられていた。電気代と水道代は大学持ちであったがガスと飲用水は自己負担であった。ガスボンベ85元。これは2ヶ月近くもった。飲用水は19リットルのタンクが5元だった。これは1週間でなくなった。 
  私の給料、月三千五百元、これは高いのか安いのか、いまひとつよくわからない。淮海工学院の外国語学部長の給料はこれより高く、それ以外の中国人教師の給料はこれより低いということであった。また、中国での日本人日本語教師の給料であるが、蘇州大学へ転勤された先生は2千元と言っておられた。「どうしてそんなに低いの?」と聞くと、「蘇州へは、みな来たがる。需要と供給の関係です」との返事だった。‘06年2月9日の朝日新聞の朝刊に、上海で職を得たある中国人大学新卒者の記事が出ていたが、彼女の月給は約二千元と記されていた。

7号楼204、不安だったオートロックドア

 私の宿舎、教職員住宅7号楼204で忘れられない大失敗は、鍵を持たずに出て、入れなくなってしまったことである。玄関のドアが自動ロックになっているのには最初から不安があった。1回目、まだ赴任して間もなくのことである。授業から帰ってくると、玄関のところで、妻(最初、三週間ほど連雲港に居た)を含め数人がわいわい言っている。話の顛末はこうであった。妻が、階段の踊り場の掃除をしているとドアが閉まってしまった。日本人のA先生に連絡し、大学の事務室からスペアキーを借りて来てもらってやっと開いた。そこへ私が帰ってきたのである。このことがあって以来、事務室が持っているスペアキーの一つを常時、借りて置けるようになった。そして、これを同僚のA先生に預かっておいてもらった。この措置で、ずいぶん気持ちが楽になった。そして、こちらの対策として、いつも、鍵を玄関ドアのノブに掛けて置くようにした。これだと外出のとき必ず鍵を目にするので、はずして身につけてから外出することになる。その後、A先生に鍵を借りに行ったのは一度だけだった。
2階部分、左半分が私の家。この写真、見える部分を攀じ登った  ところが、年末、A先生が帰国されるのでスペアキーも私が持つことになった。やばいな、と思ったその翌日、大失敗をしてしまった。考え事をしていて、ドアのノブに掛かっている鍵を見ていながら持たずに玄関を出てしまった。ドアがバタン!背筋がゾクッ!既に遅かった。1225日、クリスマスの日だった。この日は日曜日で、事務室保管のスペアキーを借りに行くことはできない。いろいろ考えたが妙案はなかった。私の出した結論は台所の窓から入ることだった。それさえ、窓のロックの外れている確証はなかった。見たところ、台所の窓は閉まっていた。建物の壁面を走っている水道管を伝って登りかけたが腕力のない私にはなかなか登れない。1階の住人、中国人の先生が見かねて足場になりそうな材木を探してきてくれた。その上に上り、水道管を握る腕に力を入れる。63にもなってなんとも情けない格好である。それでも、少しよじ登ると空調の室外機に足が掛かり、何とか2階の窓まで達することができた。「ロックが掛かっていませんように」と祈るような気持ちで台所の窓を引く。開いた!2、3日、腕の筋肉が痛かった。  

これも困ったシャワー・トイレ・台所

大学の構内、いたるところで大規模な建設工事が進んでいた。その関係か、停電、断水が頻繁にあった。それも、予告なく突然なので、非常に困った。こんなことがあった。夜、十時半頃、シャワーを浴びようとしたが湯が出ない。裸のまま、震えながらシャワーの電源などいろいろ調べたが原因が分からず、仕方なく、服を着た。後になって、断水が原因とわかった。
  水周りではいくつもの不都合があった。まず、トイレの逆噴出である。時々、便器の周りの床がびしゃびしゃに濡れる。ひどい時には、洗面所の方まで濡れている。原因がわからなかった。トイレの隅には剥き出しの太い排水管が通っていた。しょっちゅう、「しゃわしゃわしゃわ!」と汚水の流れる音がする。尾篭な話で恐縮。ある朝、便器に座っていると、この「しゃわしゃわしゃわ!」に続いて便器内の汚水が噴出、私の下半身はびしゃびしゃ。シャワーを浴びてやっと収まった。このことがあって、便器の周りのびしゃびしゃの原因も判明した。5ヶ月の滞在中、逆噴出は月に2、3度あった。特に、トイレ使用中、私は咄嗟の対応ができるように、この「しゃわしゃわしゃわ!」に神経を集中した。しかし、この後も2回失敗、シャワーを浴びる破目になった。

洗濯機、洗面台、トイレ、その奥はシャワー 安らぎのサンルーム

台所ではこんなことがあった。1230日夜、宿舎に帰って来てびっくりした。台所の床に、野菜の切れ端やらご飯粒やら黒くどろどろした配水管の汚れやら、汚水がいっぱい溜まっていた。もちろん、わが家の生活排水ではない。原因が良くわからないまま、バケツと雑巾で溜まった汚水を除き、その日は寝た。翌朝、また、昨夜と同じ状況だった。この日は大晦日で、4年生3人が夕食を作ってくれることになっていた。こんな状態ではとても無理なので、その旨、連絡すると、学生の一人、Oがすぐに来てくれた。しかし、この日は土曜日で、大学の事務室も工事事務所も休みだった。彼女は、携帯電話で事務職員と連絡を取り、更に、構内の工事事務所へ足を運び、親身に対応してくれた。その甲斐あって、昼過ぎ、工事担当者が大掛かりな道具を持ってやって来た。彼らは、いっとき、電動ワイヤーを回転させながら排水管に入れたり出したりした後、「これで大丈夫でしょう」ということばを残して帰って行った。何とか夕食の間に合って、私と学生は大晦日の夜を楽しむことができた。
  翌日、元旦は、台所への浸水もなく無事に過ぎた。前日の作業の効果があったかと喜んでいると、翌2日、また浸水。この日やってきた工事担当者は、床に浸水しないように排水管と流し台の水槽とを直結してしまった。しかし今度は、逆流してきた上の階の臭い生活排水が水槽に溜まり、なんとも惨めな結果となった。これでは、とても台所は使えない。3回目やってきた工事担当者は、レンガの壁をぶち抜き、わが家だけの排水管を別に作るしか方法はないと言った。そしてそれは、スケジュールを取っての大掛かりな工事になるとのことだった。私は間に合わせに、汚水が逆流しないよう、排水管を根元で塞いだ。これで、浸水がない代わり、わが家の排水を流すこともできなくなった。私は一日に何度も、シャワー室横の排水口へ台所排水を運んだ。この状態は、1月18日の帰国の日まで改善されなかった。
  中国の地方都市での生活に、何処まで求めるかということがある。’06年5月20日の朝日新聞の夕刊トップに、「豪華客船 ため息航路」という見出しで、「飛鳥U」で、客室の浴槽やトイレの水が逆流する不具合が相次いでいるとの記事が載っていた。日本一の豪華客船でさえそうなのである。また、同僚の日本人教師の一人は、淮海工学院へ来る前、青海省で一年間、電気も水道もない生活を経験したと言っておられた。私は修行が足りない。

安らぎのサンルーム

ベランダはガラス窓で囲まれており、冬はサンルームとなった。書斎が北向きで寒かったので、冬はここで、みかんを食べながら本を読んだり、学生からのメールに返事をしたり、時には、昼寝をしたりと、私のくつろぎの空間であった。

辛い食事は苦手!

私は朝食のすべてと、週に一、二度の夕食は自分で作った。あとは職員食堂を利用し、たまに、学生と一緒に学生食堂へ行った。味噌、醤油などの調味料は日本から持って行っていた。米は、中国の東北地方産の蟹郷米が値段は高かったがおいしかった。朝食はご飯と味噌汁。味噌汁の具は、大根、さつまいも、南瓜などさまざま。夕食は、連雲港に20日ほどいて帰国した女房が残して行ったレシピを見て作る肉じゃが、肉と白菜のスープ、肉と冬瓜のスープなど、三、四品の繰り返しだった。ここでいう肉はすべて豚肉。スープを多めにして、日本から届いた餅や、時代超市で買った中国の餅を入れるのが得意の料理だった。学生に振舞うと、「おいしい、おいしい」と、スープまで残さず食べてくれるほど好評であった。
職員食堂の昼食  職員食堂の料理には最後まで慣れなかった。もともと品数が少ない上、辛い料理などを避けるので、私の食事はワンパターンであった。特に夕食は、食堂の女の子が私の注文を覚えてしまい、私が「一個・・・」と言いかけると、「一個饅頭、一個鶏蛋、一碗粥」と後を続け、先々、装ってくれるほどだった。ご飯2角(角は1/10元)、粥1角、肉が入っているおかずは2元、野菜中心のおかずは11.5元、卵や海草の入ったスープは0.5元、ほんの少し野菜が入っただけのスープは無料。ということで、ほとんど、一食4元ほどですんだ。
  ビールは好きだけれど、夜の学生の訪問もあるし、授業の予習もあるので、普段はほとんど飲まなかった。しかし、1222日、授業が終わってからは毎日のように飲んでいた。特に、自分で作った夕食を食べながらのビールはおいしかった。時には、夕食のテーブルに学生も加わった。中国には多種のビールがあるが、私の口には、サントリーが連雲港で製造している「王子」ビールが一番合った。私は果物が大好きで、りんご、みかん、ぶどう等を毎日、欠かさず食べていた。さすが、中国は広い。好物のスイカが夏から冬まで、ほぼ同じ値段で店頭に並んでいるのはうれしかった。

郵電局

郵便物は構内の「郵電局」へ着いた。車体に大きく「中国郵政」と書いた集配のトラックが毎日、決まった時間にやって来た。日本から、私宛に急ぎの郵便物が来るときは、このトラックの到着を宿舎の窓から見張っていた。トラックが到着する度に様子を見に行き、私宛のダンボール箱やEMSが着いておれば、パスポートを持って受け取りに行った。そうしないと、送り状が、大学の何ヶ所もの関係部署をまわり、教員室の私の机に届くまでに2、3日かかってしまった。
  一度、日本へEMSで手紙を出した。121元(約1,700円)かかった。日本から、同じものを中国へ出すと900円だ。日中双方の物価からして、むしろ逆のような気がする。EMSだと、連雲港と明石、どちらからどちらへも同じで、4日で着いた。
  日本へ送る大きな荷物はこの郵便局では扱っておらず、タクシーで遠い郵便局へ持ち込む必要があった。私は赴任時、衣服、本、食料品、靴等々、ダンボール箱を5個送り、帰国時、同じ個数を送り返した。食料品を食べて減った分、学生や知り合いになった多くの人々からもらった、茶、陶磁器、竹細工、織物等々のみやげが増えた。15kgの荷物をエコノミー航空のSALで送ると515元(約七千二百円)かかった。これは、日本から送るよりは少し安かった。どちらからも、同じく7〜9日かかった。

連雲港一のスーパー、“時代超市”

時代超市(スーパー)日常の買い物は、ほとんど、大学構内のコンビニで済ませたが、週に一度は、3キロほどある街へ出かけて、時代超市という大きなスーパーで買い物をした。行きはバスを利用した。バスは、たくさんの路線があったが、どのバスも1元。帰りは荷物があるのでタクシーに乗った。タクシーは3キロ5元で、あと1キロ毎に1.2元。時代超市から大学までは6元。
  食料品、その他、日常品の価格をまとめてみよう。1元は約14円。

米(蟹郷米) 5キロ    24
 王子ビール  1缶(355ml2.3元 
 鍋用の餅   1袋(500g  6元
 白菜大    半分(1.5kg 2.3
 南瓜     半分(600g 2.5
 大根    1本(600g 1元
 豚肉     500g     7.5元 
 鶏卵      3個         1元
 ヨーグルト  1個          1.8
  サンキスト・オレンジ1個   4.2
 りんご      1個          1元
 みかん     4個         1.4
 ティッシュ   1箱         5.6
 トイレットペーパー  1巻    2.2