第一部 連雲港で日本語教師をして | ||||||
2.授業でついつい関西弁が | ||||||
授業始まる 8月29日(月)、新学期が始まった。1学期は、8月29日から2006年1月22日までの21週間で、このうち通常の授業は、第1週から第16週まで、あるいは、第2週から第17週までの16週間である。私が担当する3年生の「高級日語(一)」は第2週から始まる科目で、毎週、月、火、水、木の授業なので、9月5日(月)に始まり12月22日(木)に終わる。その後、学生たちは、第21週まで、1学期末の試験とその準備に忙しい。試験が終わると半年ぶりに故郷へと帰って行く。そして、家族一緒に春節を祝う。 私は、3年生2クラスに、各6コマ(1コマ50分)、「高級日語(一)」を教えた。3年1組は43人プラス聴講生7人、合計50人、3年2組は43人のクラスだった。 私が担当する「高級日語(一)」には、1984年上梓とかなり古いが、立派な教科書があった。内容を紹介する。 鑑真をテーマにした「めくらになった名僧」、日本人の生活に浸透している「時候のあいさつ」、魯迅の「藤野先生」、金田一春彦の「日本語の特質」、日本のことわざを扱った「おけらの水渡り」、小田実の「なんでも見てやろう」など12課からなっていた。 各課には、本文の後、まず、著者の紹介、地名・人名など固有名詞の説明、時代背景の説明など、その作品を理解する上での基本的知識の説明・解釈を記述した[注釈]があり、次に、新出単語の説明・解釈の[新しいことば]があり、その後に[学習の手引き]と[ことばの学習]があった。[学習の手引き]と[ことばの学習]はどちらも、本文の読解に必要な文章構造、慣用句などの文法面からの説明を中心としたものであった。更に、[練習]、[課外読物]と続き、最後に、[付録]として、「ことばの窓」、「ことばの研究室」などがあった。「ことばの窓」は、例えば、「目が高い」「目がない」など、「目」の付くことばを集めて紹介するようなコラムで、学生は興味を示した。このように、至れり尽くせりの内容で、教える教師として、ありがたいようで、又、負担でもあった。 私は、授業が1時間目からある日は7時40分頃に宿舎を出た。私が授業する教室のほとんどは、N楼と呼ばれる教学主楼にあり、一部、その隣のC楼にあった。どちらも宿舎に近く、途中、「欣園」と呼ばれる小さな池のある公園を横切ると10分とかからなかった。 ![]() 次は遠近両用の眼鏡である。ここ数年、老眼と乱視が進み、手元を見るのも、遠くを見るのも、眼鏡なしではすまなくなった。教師という仕事は、教科書と生徒の顔、つまり、手元と遠くを交互に見るのでどうしても遠近両用が必要である。赴任に先立って、急遽、遠近両用を作った。 次は電子辞書である。中日辞典、日中辞典、広辞苑、漢字源、英和辞典等々、20冊以上の辞書が入っている優れものである。私は最初、日中辞典と中日辞典があれば十分と考えていたが、結局、一番良く利用したのは広辞苑であった。この電子辞書は重宝した。よく売れているのはカシオとシャープで、実勢価格は共に3万円代である。私はこの両方を持っていたが、一長一短があった。学生の中にも各クラス2、3人ずつが電子辞書を持っていた。 次は、「明解日本語アクセント辞典」である。関西生まれ、関西育ちの私には、これは必携であった。これについては別に記す。 その他、長時間しゃべるので水筒はいつも持っていた。学生もほぼ全員が水筒を持っていた。私はお茶を入れていたが、学生は湯を入れていた。最後は、濡れタオルである。まず、これで、チョーク塗れの教卓の上を拭いてから教科書類を広げた。運動靴を履き、これらを入れたリュックを肩に掛け、職員宿舎と教室棟を往復した。 私は、いつも、始業の十分か十五分前に教室へ行き、生徒と雑談をしたり、その日の授業内容を前もって板書したりした。チャイムが鳴ると、生徒は起立し、私は、教卓の横で姿勢を正す。先ず私が、「おはようございます」と挨拶する。これを受けて、学生は、大きな声で、「先生、おはようございます」と挨拶を返し授業が始まる。授業の終わりも同じく、起立して、「今日はこれで終わります」「先生、ありがとうございました」と挨拶した。これが、中国の学生のマナー・慣習とのことである。高校教師を長く勤めた私は、一斉に起立しての挨拶を日本の高校で経験していたので、特に違和感はなかった。 ![]() 3年2組に王涛という学生がいた。発音はwang tao である。私が、点呼で、この学生の名を呼ぶと他の学生が一斉に笑うのである。なぜ笑うのか、最初、わからなかった。そして、そういう状況が来る日も来る日も続いた。察するところ、どうも、私の発音が正しくないようなのだが、wang tao など、日本人にとっても、そんなに難しい発音ではない。ある日、今日こそはと意識してはっきりと大きな声で呼ぶと、又、一斉の爆笑。一人の学生を指名して説明を求めてやっと理由が分かった。私の発音はwang dao に、つまり「王涛」が「王刀」になっていたのである。「t」は有気音、「d」は無気音ということは、私にも分かっていたし、日本人にとって無気音は難しいが、有気音は普通に発音していていいぐらいに軽く考えていたが、もっと意識して息を前へ出さないといけなかったようである。しかし、この件以来、私と王涛はもちろん、クラスの全員と打ち解けることができた。まったく、怪我の功名であった。 ところで、学生は、ほぼ全員が寮生活をしているので欠席はほとんどなかった。教室の席は特に指定しなかったので、仲のよい者がいつも一緒に座っていた。最前列に座るのは2クラスとも、授業に積極的に参加する学生で、愛想も良い。授業は、基本的には日本語で行ったが、時には、意図的に中国語を交えた。そんなとき、最前列の学生は、「先生の中国語、よく通じているよ」と言わんばかりに大きく頷いてくれる。特に発音が良いと、親指を立てて腕を前へ突き出し、「グッド」のサインを出してくれる。私の授業は、こんな調子で、なんとか順調にスタートを切った。 不正行為と学生の意識 ついつい関西弁が この俳句の解釈として、次にあげるような説明が必要であった。
私は、生まれも育ちも関西である。生活の場が関西を離れたことは、今回の連雲港暮らし以外になかった。明石に生まれ、小中高はもちろん、大学も自宅通学であった。大学卒業後、就職し、一時、寮生活をしたが、それも大阪であった。やがて結婚し親元を離れたが、兵庫県を出ることはなかった。したがって、私の話す言葉は、純粋の関西弁、それも、あまり評判のよくない播州弁といわれる明石、加古川、姫路など播磨地方の言葉である。当然、アクセントは関西アクセントである。といって、私は長く高校の社会科の教師をし、人前でしゃべることを職業としてきたが、自分の話す言葉を意識したり、他から咎められたりしたことは一度もなかった。また、神戸の大学で学ぶ中国人留学生に日本語を教えたこともあったが、そのときも、自分の関西弁・関西アクセントはそれほど気にならなかった。 |