第一部 連雲港で日本語教師をして
1.連雲港ってどんなところ

        私は ’05年の8月下旬から06年の1月中旬までの5ヶ月、江蘇省連雲港市の淮海(わいかい)工学院に日本語教師として勤務した。また、赴任前の下見旅行と帰国後の再訪を合わせると、約半年、連雲港で過ごしたことになる。ここに記すのは、この半年の連雲港暮らしの報告である。
 私が知人に、「連雲港市にある大学で日本語教師をすることになった」と言うと、例外なく、「連雲港って、どこにあるの、どんな町、どうやって行くの?」という問いが返ってきた。この3つの問いに答える形で連雲港市を紹介しよう。
 連雲港市は黄海沿岸、青島と上海との間、青島寄りにある。面積は7,444平方キロメートル、人口は460万人。兵庫県より少し狭く、人口も少し少ない。

こうして見ると、連雲港は日本から近い

          江蘇省は13の地級市から成り立っている。南から、蘇州、無錫、常州、鎮江、省都南京、長江を北へ渡って、揚州、泰州、南通、塩城、淮安、宿遷、そして一番北、山東省に接しているのが徐州と連雲港である。江蘇省はこの13の地級市でその全域が塗りつぶされる。これら地級市に、さらに下位の市や県が含まれる。
  連雲港市でいえば、連雲区、新浦区、海州区で市街地を形成し、この範囲の人口は7080万人である。この周辺部に、東海、灌雲、灌南、カン楡の4つの県がある。
  連雲港市は、渤海と黄海を分ける山東半島の南側の付け根に位置する。連雲港は文字通り港であり、年間三千万トンと神戸港と同規模の荷扱い量を誇る。この連雲港を出た列車は、中国、カザフスタン、ロシア、白ロシアと、ユーラシア大陸を一路、西に向かってひた走り、ポーランド、ドイツを経て、オランダのロッテルダムに到着する。つまり、連雲港は、全長10900qの鉄路、「新シルクロード」の東の起点である。
連雲港港のコンテナバース  連雲港市は、1984年に指定された14の沿海開放都市の一つで、経済発展が著しい。日本企業では、味の素、サントリーなどが進出し、また、韓国企業も多い。
  searchina.ne.jp、つまり、中国情報局のホームページに要人探訪というページがあり、その第34回(20056月)に連雲港市の副市長、馬建国氏の東京での投資説明会の記事が載っている。その中で馬氏は、「連雲港市に土地問題と電力問題はない」と発言している。現在、中国では農地の転用などが規制されている。そのため、新規のプロジェクトを立ち上げることが難しいケースもあるが、連雲港市では、塩田跡地を利用して工業団地を建設したので、豊富に土地を供給できるというのである。
 では、電力問題はどうか。馬氏は、「連雲港市には中国四大原子力発電所の一つ、田湾原子力発電所があり、この電力を地元優先で供給するという取り決めがあるので、連雲港には現在だけでなく将来にも電力問題はありえない」と強気な発言をしている。
田湾原子力発電所  この原子力発電所は、ロシアの技術で建設が進められている。連雲港市の市街地には二つの中心がある。海に近い方を連雲区、海から遠い方を新浦区・海州区という。淮海工学院があり、私たちの生活圏になっているのは後者である。原子力発電所は連雲区の雲台山隧道という長いトンネルを抜けたところ、三方を山に囲まれた海岸にある。
  連雲区の街を歩いていると多くの白人に出会う。学生に聞くと、原発で働くロシア人とその家族ということだ。「核電専家村」というバス停と、それに続く団地があることからも、原発で働くロシア人の多さが分かる。政府は運転開始予定を2004年から2006年にずらせた。今年は運転開始の年だ。黄砂が日本にまで及ぶ昨今、安全第一で運転してほしい。
  現代の連雲港について述べてきたが、連雲港は、また、歴史のある都市である。海州区には、“海州古城”と呼ばれる一角がある。秦の始皇帝は中国を統一すると、ここに、対外開放の門戸として“秦東門”を置いた。この“秦東門”の遺跡のほか、古い街並みが残っている。
海州区の古い街並み  秦の始皇帝の時代の話をもう一つしよう。連雲港市には、東海、灌雲、灌南、カン楡の4つの県があると言ったが、カン楡県には、この時代、童男童女三千人を連れて日本へ来たという徐福の故郷、徐福村(金山鎮)がある。徐福村は連雲港市街地から車で北へ時間ほどのところ、山東省との省境近くにある。私は、大学の近くに住む徐福研究家の案内で12日、ここへ行く機会を得た。
  また、連雲港市に属する4つの県の一つ、東海県は列車で西へ半時間ほどのところにある水晶と温泉の町である。10日、寒い日であったが、学生と一緒に小旅行を楽しんだ。
  もう一つ、話を加えよう。連雲港市の市街地から、そう遠くない所に、「西遊記」の孫悟空が生まれた「花果山」がある。「西遊記」の作者といわれる呉承恩の大きな石像、古い寺院などがあり、観光地として整備されている。
  花果山、徐福村、そして、東海県については、改めて別に報告する。
  最後は、日本から連雲港への交通機関である。中国入国後の方法としては、次の4つが考えられる。
   1. 北京〜連雲港 夜行列車13時間
     北京西17:02 → 連雲港6:18
   2. 上海〜連雲港 列車11時間
    上海6:50 → 連雲港18:06
  3.青島〜連雲港 長距離バス4時間
  4. 上海〜連雲港 飛行機1時間
  このうち、淮海工学院で働く日本人教師が最もよく利用するのは1の経路である。しかし、1または2の経路を利用する場合、前もって列車の切符を購入しておく必要があるが、日本の旅行業者では入手できない。3の経路は途中休憩がなくトイレに困る。私は毎回、迷った挙句、4の経路を利用した。この経路も、決して便利ではなかった。
 連雲港飛行場は連雲港市街から西へ35キロ、工事中の悪路を車で50分ほど走った田んぼと雑木林の中にある。自分が乗る飛行機以外、機影が見当たらないといった小さな空港である。通常、1日1便であるが、季節によって発着の時刻が異なる。それも、飛行場が市街地から遠い上、極端に朝早かったり、夜遅かったり、不便この上ない。
  こんなことがあった。朝8時の飛行機に乗るのに、6時半に空港に着くと空港ビルの玄関がまだ閉まっていて入れない。寒さの中、震えながら待っていると、6時45分、従業員送迎用のマイクロバスで服務員が到着し、やっと玄関が開き、チェックインが始まった。逆に、遅い便も困る。連雲港発が夜の10:55などという時があった。これだと夜中に上海に着くわけで、虹橋空港近くのホテルで1泊して、翌日、浦東国際空港へ移動し、帰国した。
 
また、こんなこともあった。最初、中国の知人に、「安全性は大丈夫でしょうね」と念を押すと、「アメリカ製のボーイングです」と、いかにも、「馬鹿にするな」と言いたげな口ぶりだった。しかし、今年1月の帰国時、私の乗る飛行機は「乗務員に発熱者が出て、クルーが組めない」との理由で欠航になってしまった。私も、パイロットの風邪による欠航までは考えなかった。この時は幸い、3時間後に上海行きがもう一便あり、携帯電話で私の窮状を知った学生の親身な配慮と機転で、上海→関空の夕方の便が予約でき、その日のうちに帰国することができた。
 連雲港市の中心、新浦区の目抜き通り 旅行をすると、いろんなことがある。その時その時は、とても困り、とても不安だ。しかし、あとで思い起こすとみんな懐かしい思い出である。
 結論を言うと、連雲港は、日本からの直線距離の割には不便である。しかし、不便なだけに却って、北京や上海にない緩やかな時間の流れと人の温もりがあった。