それから更に数週間が過ぎて、聖域での生活や執務にも大分慣れてきた。
慣れてくれば、自分の置かれている状況を省みる余裕が出来る。
そしてその状況こそが、の心に最近小さな蟠りを生み出しつつあった。
「ミス、これを双児宮に持って行ってくれないか。カノンが居る筈だから奴に渡してくれれば良い。」
「はい。」
サガから預かった書類の束を持ち、は教皇の間を出た。
誰も居ないのを確認すると、は大きく溜息をついた。
執務を始めてからずっとこんな調子だ。
仕事と言えば一に雑用、二に雑用。
まるで子供の使いのような仕事が大半を占めている。
沙織から聞いていたような仕事は殆どなく、あっても大した用件ではない。
それでもあるだけ良い方で、時には『休憩』と称して何時間も休憩室でぼんやりさせられる事もある。
そうして空いた時間は語学勉強などに費やしてはいるが、やはり釈然としないものを感じる。
海外生活を送ることについて気負い込んでいた部分があるだけに、尚更そう感じるのかもしれない。
「ま、仕方ないか。」
もやもやとする気分を吹き飛ばしてしまおうとするかのように深呼吸して、は階段を下り始めた。
「どうした?お前がここに来るなんて珍しいな。」
「サガさんに頼まれたの。これをカノンに渡せって。」
カノンは宮の入口で書類の束を受け取ると、早々に戻ろうとするをリビングへ上げた。
「ひとまず座れ。コーヒーぐらい出すぞ。」
「でも執務中だから・・・・。」
「少しぐらい構わんだろう。休憩だ。」
落ち着かない様子のを半ば無理矢理ソファに座らせて、カノンはキッチンへと向かった。
しばらくして、彼はアイスコーヒーのグラスを二つ手に戻って来た。
「丁度一人で退屈していた所だ。ゆっくりしていけ。」
「いやいや、そうはいかないんだけど・・・・」
「生真面目な奴だな、お前は。他の連中などしょっちゅうやっているぞ。」
「そういう問題なの?」
「もっと肩の力を抜かんと、サガのようになるぞ。」
カノンはからかうように笑うが、は時計ばかりを気にしている。
「早く戻らないと、サガさんに怒られちゃう・・・・」
は消え入るような声で呟いたが、カノンはそれを聞き逃さなかった。
他の者達とはもうすっかり打ち解けて親しく振舞うのに、はサガに対してのみ一線を引いている。
尤も、それはサガとて同じ事であるのだが。
サガは気難しい部類の人間であるし、も少し人見知りする所があるようだ。
だからこそ、この二人が最初から上手く打ち解けるとは思っておらず、いずれ時間が解決するであろうと呑気に構えていたのだが、いつまで経ってもこの調子だと流石に少し気になる。
「奴が怖いか?」
「怖いとかそういう事じゃなくて・・・・・」
「奴の下ではやりにくいか?」
は口を閉ざして俯いてしまった。
「・・・・やりにくいとか、そんなのじゃないわ・・・。」
「まあお前の気持ちは分かる。いけ好かん奴だからな。」
「好きも嫌いもないわよ。だってあの人は上司だもの。執務中は従わなきゃ。」
「『上司』、か。」
カノンは諦めたように小さく笑いを零した。
「悪かったな、長々引き止めて。執務に戻るが良い。」
「・・・・ごめんね、折角誘ってくれたのに。」
「構わん。」
カノンは階段を上がっていくの背中を見送ると、小さく溜息をついた。
一般社会とは大きく隔てられたこの特殊な空間を、はまだ己の持つ常識で測ろうとしている。
物心ついた頃からこの世界に生きてきた自分達と違って、ごく普通の社会で生まれ育ったにとっては無理もない事なのだろうが。
そしてその事を、多分サガは・・・・・。
「遅くなって申し訳ありませんでした。」
執務室に戻るや否や、はサガに頭を下げた。
しかしサガは、を咎める事どころか気に留める様子もない。
「構わん。他に特に用もないからな。外は暑かっただろう、ゆっくり涼んでいなさい。」
「でも・・・、他に何かありませんか?」
「いや、今は特にない。用が出来たら呼ぶから、それまで休憩でも取っていなさい。」
「・・・・はい。」
執務室を出ながら、は心の中の靄がより濃くなっていくのをはっきりと感じ取っていた。
それから数日後のある夕方。
「サガさん。少しお話があるんですが、お時間を頂けませんか。」
執務が終わった後、はある行動に出た。
サガはペンを置くと、の方に向き直る。
「ああ。何だろうか?」
「執務の事です。」
「分かった。向こうで座って聞こう。」
サガはまだ残っている者達をちらりと見ると、を連れて執務室を出た。
そして休憩室のソファに腰掛け、に話の続きを促した。
「それで、執務の事とは?」
「私に仕事を与えて下さい。」
「仕事なら今でも十分やって貰っているが。」
サガははぐらかすように笑いかけたが、はそれに流されずに話を続けた。
「私はここに遊びに来たつもりはありません。未熟なのは重々承知していますが、仕事をさせて欲しいんです。」
「君は何か勘違いをしているようだ。」
「勘違い?」
サガは苦笑すると、悠々とした口調で話し始める。
「聖域は公的機関や営利主義の企業ではない。ここには元々、君が考えているような仕事が山積みにある訳ではないのだ。」
「本当ですか?」
「ああ。まだ来て間もない君が戸惑うのは分かる。だがここはそういう所だ。もっとゆったり構えていなさい。」
「でも、女神は私に・・・」
「ああ、確かに情報機器の類は我らの手に負えん部分がある。それは君に任せている筈だ。」
「ですが、殆どその作業はありませんよね?」
「それも元々数少ないのだ。君には物足りないだろうが、致し方ないと思って欲しい。」
「・・・それは分かりました。でも何かさせて頂かないと、何のお役にも立たず無駄に時間を過ごすのは申し訳なくて。」
「君はそう思うかもしれんが、他の者は私も含めて全く気にしていないから、安心しなさい。」
サガはそう言って優しげに微笑んだが、は依然として納得がいかなかった。
確かに彼の言う通り、他の者達も気楽そうにしているのは事実だ。
普通の職場では考えられないぐらい、慌しさがない。
だがそれでも皆、何かしらの仕事をこなしているのだ。
何かは分からないが、少なくともがやっている仕事とは全く違うものである事だけは確かであろう。
その程度の観察は、今までの執務で既に出来ていた。
「本当でしょうか?」
「何がだね?」
「本当は何らかの仕事があるんじゃないですか?ただそれを私にさせないだけで。」
サガの顔から笑みが消える。
「何故そう思う?」
「サガさんや皆を見ていれば分かります。皆何かの仕事をなさっていますよね。」
「・・・・・・」
「正直に仰って下さい。どうして私にはさせて頂けないのですか?私はそんなに役に立ちませんか?」
の核心をついた質問に、サガは返す言葉を失った。
そして視線を逸らすと、これ以上の追及を避けようとするかのように席を立った。
「君の考えすぎだ。済まないが私はこれで。急ぎの用があるのでな。」
「あの・・・!」
立ち上がり呼び止めるに振り返る事なく、サガは部屋のドアを開けた。
そして立ち去り際、重苦しい口調ではっきりとに告げる。
「ミス、これだけは忘れないで欲しい。君はごく普通の女性で・・・・、私達は聖闘士だ。」
それだけを言い残すと、サガは後ろ手にドアを閉めて行ってしまった。
後にはただ、呆然と立ち竦むだけが残されていた。