それから数日が目まぐるしく過ぎた。
世話になったお礼と、今後の親睦を兼ねた食事会も無事終わった。
また、細々とした片付けも終え、執務に当たっての準備や語学勉強にも励んだ。
そしてとうとう月曜日がやって来た。
「おはようございます。」
は些か緊張した面持ちで、既に来ていたサガに挨拶をした。
サガはに軽く微笑んでみせると、自分も挨拶を返した。
「ああ、おはよう。ここまで上がるのに疲れなかったか?」
「ええ、大丈夫です。」
「そうか、それは何よりだ。では今日から宜しく頼む。」
「はい、こちらこそ宜しくお願いします。」
改めて頭を下げた後、はサガの指示を待った。
「あの、私は何をすれば?」
「ああ、そうだな・・・。執務に関する話はもう聞いたか?」
「はい。」
特殊な団体(?)だけあって、一般企業のように『鉄のルール』という訳ではないが、それでもやはり聖域にもいくつかの規則はあった。
それらや勤務時間・業務内容等は、先日非番だった者達数人に説明して貰ったところだ。
「ふむ、そうか。では・・・・」
サガが思案に暮れていた時、本日の当番数人が出勤してきた。
口々に朝の挨拶を言い交わすと、サガはに向かって最初の仕事を言い渡した。
「ではまず、皆にコーヒーでも淹れてきてくれないか。」
「はい。給湯室はどこですか?」
「ああ、案内させよう。毎朝の習慣だから、色々聞いて覚えて欲しい。」
「はい。」
は、サガの指示を素直に受けた。
サガは一番近くに居たアフロディーテを指名すると、をダイニングへ連れて行くよう命じた。
アフロディーテに促され、は執務室を出て行った。
「コーヒー豆はこの缶、紅茶の葉はこっちの缶だ。」
「はーい。」
テーブルと椅子のセットがいくつかと、宮にあるものより幾分簡素なキッチンがついたダイニングに通され、は早速与えられた仕事をこなしていた。
アフロディーテはそれを手伝いつつ、に室内や備品の説明をして回る。
「何か切れたらサガに言うと良い。」
「分かったわ。」
「尤も、買い物役は押し付けられるかも知れないがね。私もよく行かされる。」
「そうなの?」
「ああ。雑兵達に頼んでも良いが、彼らは今一つ気の利いたものを買って来ないからな。自分で行く方が良い物を手に入れられる。」
「ひどーい、雑兵さん達に悪いわよ?」
「フフッ、仕方ないさ、事実だからね。」
他愛のない会話を織り交ぜながら、アフロディーテの説明は続く。
「昼食はここで摂るんだ。」
「キッチンは使ってもいいの?」
「勿論。だがあまり器具や食器が揃っていないからね。簡単なものしか作れないと思うが。」
「そっかー。ねえ、ここで食べる決まりなの?」
「いや、違うよ。外でも構わないし、自分の家に帰っても良い。」
「皆はどうしてるの?」
「私は自分の宮へ帰る。すぐ隣だからね。帰るのを面倒がって昼食を持参する者もいるし、近くの宮に雪崩れ込む者もいる。」
「アフロの所とか?」
「ああ、しょっちゅうだ。邪魔な時は追い返すがね。だが、君ならいつでも歓迎だよ。」
執務前の数日で、と彼らとの交流は日が経つにつれて深くなっていた。
こうして愛称や呼び捨てで呼び合える程度に。
「本当?ありがとう。」
「どういたしまして。君が来るのを首を長くして待っているよ。」
『こんな風にね』などと言いながら、アフロディーテはそわそわと落ち着かない素振りをしてみせる。
その陽気な仕草に、は軽やかな笑い声を立てた。
「あ、お湯が沸いた。」
は火を止めて、熱湯をコーヒーメーカーやティーポットに注いだ。
「えーと、お砂糖お砂糖、と・・・・」
「ああ、私が。」
「ううん、いいの。毎朝の仕事になるんだし、早く覚えたいから。」
アフロディーテの申し出を断って、は一人でいそいそと支度をした。
「それにしてもサガ。いつの間にそんな習慣が出来たんだ?」
達が出て行った後、アルデバランはサガに問いかけた。
サガは表情一つ変えずに、何気なく返答する。
「別に。大した意味はない。」
「思いつきか。貴方にしては珍しいな。」
「しかし、にばかり毎朝面倒を掛けるのも悪いな。手伝いに行った方が良いか?」
「好きにしろ。」
サガは話の輪から離れると、デスクに向かって執務を始めた。
無言で書類にペンを走らせる彼の様子に、一同は小さく肩を竦める。
「相変わらず腹の底の見えぬ奴だ。」
「シャカ、貴様も大概同類だと思うが。」
「そういう意味ではない。」
アイオリアの言葉にやや憮然としながらも、シャカは話を続けた。
「私は最も神に近い男。君ら如きに理解出来る筈はないだろう。」
「全くもってその通りだな。」
「私が言いたいのは、性格云々の話ではないのだ。」
「では何だと言うのだ?」
カミュがずばりと話の本質を問いただす。
シャカは勿体ぶってしばらく間を置いた後、静かに口を開いた。
「それはまだ分からん。」
途端にがくりと脱力する3人。
「ならば言わなければ良いだろう!」
「私は別に君らに話しかけた訳ではない。只の独り言に、君らが勝手に反応したに過ぎない。」
シャカは言いたい事を言い終えると、自分のデスクに向かった。
そして誰にも聞こえない程の小さな声で、再び独り言を呟く。
「判断するには時期尚早、という所か・・・・」
無駄話もいつの間にか終わり、執務室に静かな空気が流れている。
黙々とそれぞれの執務をこなしていると、不意にドアが開いて芳しい香りが漂ってきた。
「お待たせしました。」
柔らかなの声で、場の空気が再び和む。
「ああ、済まないな。」
「ありがとう。」
「いいえー、どういたしまして。」
にこやかにカップを手渡すに微笑を返す一同。
給仕も終わったところで、は次の指示をサガに仰いだ。
「次は何をすれば良いんですか?」
「そうだな。ではまず、女神の仰っていた『翻訳ソフト』とやらの使い方でも覚えて貰おうか。」
「はい。」
「君のコンピューターはあれだ。先日女神がお送り下さったもので、OSとやらも日本語版になっているそうだ。」
「そうなんですか。」
は、また一つ沙織の気遣いに感謝した。
サガはを連れてその端末の前まで行くと、椅子に腰掛けるよう促した。
「恥ずかしながら、ここに居る者は私も含めてこの手の機械の扱いが不得手なのだ。女神が説明書を下さったので、申し訳ないがこれを見て覚えて欲しい。」
「はい。」
サガはに一冊のマニュアルを渡すと、自分の席へと戻った。
は早速端末を起動すると、それを開いてオペレーション研修に勤しみ始めた。
最初は誰も頼れない状況に少々不安を感じていたが、マニュアルはそれを見越したように懇切丁寧な作りであった。
様々な操作方法が分かりやすく網羅されているのは勿論、シミュレーション用の例文も多数あり、はいつしか最初の不安を忘れて、無我夢中で取り組んでいた。
ふと気付くと、外はもう茜色に染まっている。
「精が出るようだな、ミス。」
「・・・あ、はい。」
サガに声を掛けられて、はふと我に返った。
「どうだ、操作は出来そうか?」
「はい。まだマニュアルは手放せませんけど、何とか。」
「それは良かった。だがそろそろ終業の時刻だ。今日はもう上がって構わない。」
「はい。」
はキリの良い所で手を止めると、デスクの周辺をざっくりと片付けて帰り支度を始めた。
周りを見れば、他の者も帰る素振りを見せている。
もう少し残るというサガを残して、一同は執務室を後にした。
双魚宮でアフロディーテと別れ、は残りの者達と下へ続く階段を下っていく。
「どうだ?慣れそうか?」
「そうね。早く覚えて実務が出来るようにならなくちゃ。」
「凄まじい集中力だったな。よくあんなに何時間も画面を見ていられるな。」
アイオリアが心底感心した風に話しかけてきた。
「仕事だしね。日本でやってた仕事も一日中パソコンに向かうものだったから、その点に関しては慣れてるから。」
「なるほど。」
「だが根を詰めるのも程々にな。では私はここで。」
「ありがとうカミュ。またね!」
労いの言葉を一つ残して自宮に帰っていくカミュを見送ると、達は再び階段を下り始める。
何気ない話を楽しみながら、一宮一宮通り過ぎて行く。
途中シャカが抜け、アイオリアが抜け、そして金牛宮へと差し掛かった。
下まで送ろうかと言うアルデバランの申し出を遠慮して、は残る道を一人で辿った。
まだ日中の熱の余韻を含む、ほんのり温かい風が頬を撫でる。
日本とは違う匂いがする。
生まれ育ったかの地を恋しく思わないではないが、それでも今自分はこの聖域に居るのだ。
居る限りは、出来るだけの事をしよう。
「頑張らなくちゃ、ね。」
そびえ立つ十二の宮を見上げて、は決意を新たにするように一人呟いた。