それが無い事に気付いたのは、日曜の昼になってからだった。
「あ〜〜、やっちゃった・・・・・!」
家中何処を探しても、愛用の腕時計が見当たらない。
恐らく、麻生の部屋に置き忘れてきたのだろう。
別にそれがないと暮らしていけないという訳ではないのだが、家から出る時はいつもしている物だ。無いとどうにも落ち着かない。
「貴臣さん、部屋に居るかな・・・・・」
携帯を鳴らしてみたが、珍しく電源が切られているようで繋がらない。
次に会う時まで我慢しても良いのだが、は彼の部屋に取りに行く事を選んだ。
腕時計を早く手元に戻したいだけではない。
彼に会いたい。
ちりちりと痛む心を癒せるのは、皮肉な事にその原因である彼だけなのだから。
定期的に電話を鳴らしていれば、その内繋がるかもしれない。
最悪繋がらなくても、いくら何でも夜には戻って来るだろう。
そう考えたは、手早く支度を整えると、もうすぐ来る予定のバスに乗り込むべく駆け出して行った。
ホテルに到着しても、電話はまだ繋がらなかった。
フロントで尋ねても、彼は留守だと言う。
だが幸いな事に、フロント係の初老の男性は、先日訪れた時に居た人と同一人物だった。
ほんの一日二日前の事というのもあり、彼は麻生と共に居たの事を覚えていて、忘れ物をしたと告げたら快く通してくれた。
借りたキーで部屋を開けてみると、彼の匂いがふわりと漂ってくる。
心が甘く疼くのを堪えながら、は心当たりの場所を探し始めた。
「あった!こんな所に置いたっけ!?全然覚えてなかったわ。」
独り言を言いながら見つけた時計を腕に嵌めて、はふとテーブルの上を見た。
出かける前に片付けなかったようだ。
テーブルの上には、開いたままのノートパソコンや原稿か資料と思わしき紙、簡易アルバムなどが散らばっている。
「あ〜あ、こんなにしちゃって。掃除の人に間違って捨てられちゃっても知らないんだから。」
は苦笑しながら、写真をパラパラと見た。
どれも良く撮れている。
澄んだ空や紺碧の海、白い壁の家並みなど、旅行雑誌の記事にするにはどれももってこいだ。
施設やレストランの従業員と思わしき人物の写真は、観光スポットの紹介文と共に載せるのだろうか。
「本が出来たら私も買おうかな。取り寄せとか出来るよね、きっと。」
にこにこと笑いながら、アルバムの次のページを捲ろうとした時だった。
今開いているページの写真の裏に、もう一枚写真が隠されている事に気付いたのである。
「あれ、何だろ?」
ポケットの裏側に隠された写真をそっと取り出して、は目を大きく見開いた。
そこに映っていたのは他の誰でもない、自身だったのである。
「え・・・・・・、どういう事・・・・・・!?」
了承済みで撮って貰った写真でない事は間違いない。
彼に写真を撮って貰った事など、一度もないのだから。
それに、写真の中の自分は、明らかにカメラのレンズではない別の方向を向いている。
それは即ち、この写真が隠し撮りされた物である事を否が応にも物語っていた。
「何なのこれ・・・・・・・」
写真の日付は、麻生と出会う少し前のものだ。
つまりこの写真を撮られた時点では、は麻生の存在を知らなかった。
なのに何故、麻生はこの時の自分の写真を持っているのだろう。
頭を酷く叩かれたような、激しい衝撃がを襲う。
そこにとどめを刺したのは、数枚の紙の束だった。
「何これ・・・・・!?」
そこに書かれていたのは、沙織やグラード財団の事だった。
正確に言えば、彼女と聖闘士との関わりについて。
銀河戦争の事は勿論、一体何処でどうやって調べたのか、星矢達青銅聖闘士の大まかな素性まで書かれている。
は無我夢中でページを繰り、そこに書かれている大半が真実の調査結果を、絶望的な眼差しで読み進めた。
「なんで・・・・・・・・」
報告書は、聖闘士の本拠地が聖域だという所で終わっていた。
ここから先の調査はまだ未完という事なのだろうか。
だとしたら、何としてもここで止めなければならない。
サガ達黄金聖闘士に言えば、彼らは秘密を守る為に、麻生を殺さなければならなくなるから。
それだけは避けねば。
「何してるの?」
「貴臣さん・・・・・・!」
突然背後から麻生に声を掛けられ、は飛び上がる程驚いた。
だが麻生本人は何ら動じる事なく、に歩み寄った。
「見られちゃったね。」
「・・・・・・ごめんなさい、見るつもりはなかったの。」
「言い訳ならいいよ。それよりその時計、あった場所分かった?」
の手首にある腕時計を指差して言う麻生の顔は、いつも通りの優しい顔だ。
なのに、近付けない。
は彼から距離を置くように二・三歩後ずさった。
「ははっ、なに?そんなに警戒しなくても良いだろう?」
「どうしてこんな・・・・・。どうして!?私に近付いたのも、これが目的だったの!?」
「・・・・・男はね、成功してこそなんだ。」
麻生の声が、急に柔らかさを失った。
「企業の歯車じゃ物足りない。かと言って、独立しても成功しなけりゃ意味はない。これはね、そのチャンスなんだ。」
「チャンスって・・・・・・」
「銀河戦争、あれは凄かった。そこらの格闘技大会なんて目じゃない。しかも闘ったのは、まだ10代半ばの少年達だ。やらせだという声も大きかったが、それならそれでどんな舞台裏があるのか・・・・・。それを知りたがる奴らは山程いるんだ。あの大会の主催者・城戸沙織嬢を財界のトップから引き摺り下ろそうと、てぐすね引いて待ってる連中なんか特にね。」
「そんな・・・・・!やめて!」
その時の惨事を想像して、は悲痛な叫びを上げた。
「僕に言われても困るな。僕個人は彼女に何の恨みも妬みもないんだから。考えてもみなよ。財界のトップなんて、皆60や70の爺さんばかりだ。そんな所に世間知らずのお嬢ちゃんが混じっているんだぞ。しかも群を抜いた財力を振りかざして女帝気取りでだ。疎まれるのも当然だろう。尤も、あの世界的な豪商、『海商王』と呼ばれるソロ家とタメをはれるのは、日本では城戸家ぐらいのものだからね。当然と言えば当然だけど。」
「あの子はそんなんじゃない!財力なんて、あの子が欲しくて手にしたものじゃないわ!あの子は人も羨む地位や財産と引き換えに、普通の女の子らしい夢や生活を犠牲にしてるのよ!?なのにそんな・・・・・!」
女同士の会話の合間に、時折沙織が零す憂いを良く知るは、必死になって彼女を庇った。
だが、麻生の返事は何とも素っ気無いものであった。
「勘違いしないでくれ。僕の目的は只一つだ。ここまで調査してきた事を、記事にして売り込む。きっとセンセーショナルな話題になる!世界屈指の財力を誇るグラード財団の若き女帝・城戸沙織が密かに抱え込んでいる謎の私兵集団、聖闘士。その知られざる実態を掴んだのは、俺だけなんだ!きっと成功する!いや、これだけ時間と労力を費やしたんだ。絶対に成功させてみせる!」
熱く語る麻生の瞳は、今まで見た事がない程に輝いていた。
これが他の事なら、一緒になって喜べたのに。
出来る事なら、何だって協力したのに。
「どうして・・・・・・・!?」
「女の君には分からないだろうね。男の野心なんて。」
「他の事じゃ駄目なの!?話題になりそうなニュースなんて、世界にはごまんと・・・・」
「馬鹿を言わないでくれ。ここまで来るのに、莫大な時間と金と労力を費やしたんだ。今更後に退けるか。」
の切実な訴えを鼻であしらって、麻生はまたとの距離を縮めた。
「調査を進めていく内に、あそこが聖闘士のアジトらしいと分かった。どうやって飛び込もうかと張っていた時・・・・・・、君が現れたんだ。」
「じゃあ、あの写真は・・・・・・・・」
「その時に撮ったものだよ。おかしいと思ったんだ。あんな人里離れた場所に、どうみても普通の、しかも日本人の女の子が居るなんて、ってね。君はきっと色んな情報を持っている、僕の直感がそう告げた。」
「そんな・・・・・・・」
麻生の言葉は、容赦なくの胸を引き裂いた。
この人は、何と残酷な事を言うのだろう。
『愛してる』と囁いてくれた時と同じ声で、何と酷い事を。
「情報を引き出すなら、得体の知れない聖闘士なんかより君の方が遥かにやり易い。だから僕は、ターゲットを君に絞った。」
「・・・・・・やめて、聞きたくない・・・・・・」
「意外に口が堅いのには驚いたよ。でも、城戸沙織を『あの子』呼ばわりするあたり、彼女と相当親しいんだね?やっぱり僕の直感は間違ってなか・・・」
「やめて!!!」
抱き寄せようとした麻生の腕を力任せに振り解いて、は涙を零しながら悲鳴のような叫びを上げた。
「そんな言葉聞きたくない!!あなたは最低よ!!」
「酷いな。話は最後まで聞くものだ。」
「これ以上聞く事なんて何も・・・」
「君に近付いたのは、確かに打算だった。けど、今もそうだと思っているのか?」
麻生は、微かに震えたの肩をそっと抱きしめた。
「今は違う。打算のつもりが、本気になったんだ。馬鹿みたいだろう?」
「嘘・・・・・・」
「嘘じゃない。だから、君にバレてほっとしてる。これ以上、君を欺かなくて良いんだからね。」
「嘘よ・・・・・」
「嘘じゃない。信じるも信じないも、こればかりは君次第だけど・・・・・。けど、一つだけ、これだけは言わせて欲しい。僕は本当に君を愛してる。君と離れたくない。」
「え・・・・・・?」
「今はケチなライターだけど、成功したら莫大な収入が得られる。君に苦労をかける事はない。」
「どういう・・・・・・意味・・・・・?}
「プロポーズのつもりだよ。日本に帰って、僕と結婚して欲しい。」
は言葉もなく、麻生の顔を見つめた。
こんなにも心乱れている時に、更に追い討ちをかけるようなこの台詞。
本当に、何と残酷な人なのだろう。
まだ愛しているのに。
二つに割れた心が、『忘れなければ』『忘れられない』と泣いているのに。
それから数日後の夜。
内輪の中で一番の家に近い金牛宮で、一同は頭を寄せ合っていた。
その中心に居るのは、さっき東京から帰ってきたばかりのカノンだった。
他の面々は今、その報告を聞き終わったところである。
「間違いないのだな?」
「ああ。あのアソウという男は嘘をついていた。奴と付き合いのあった企業全てをあたってみたが、旅行雑誌の記事を依頼した社は一つもない。勿論、奴が元居た出版社もだ。」
シュラの念押しに、カノンは厳しい表情で頷いた。
「それに、奴がここ一年以上書いている記事は、殆どが経済誌のものだ。その中でもグラード財団に関するものが圧倒的に多い。おかしいと思わんか?」
「そこへ来て、あの時の食い下がりよう、か。確かに怪しいね。」
「怪しいなんてものじゃない!奴が女神や俺達の事を嗅ぎまわってるのは明らかじゃないか!」
アフロディーテの呟きを待っていたように、アイオリアが拳を握る。
「まあ落ち着け、アイオリア。ほら、これでも食って気を鎮めろ。」
そう言ってカノンが差し出したのは、東京名物ひよこ饅頭であった。
普段ならば熱い日本茶と一緒に美味しく頂きたいところではあるが、事態はそんなどころではない。
「ふざけるな!男ばっかりで呑気にひよこ饅頭なぞ食ってる場合か!?
俺は茶会をしに来たのではないぞ!」
「まあそう怒鳴るな。案外美味いぞ。」
「アルデバラン、お前もか!ええい、お前達はが気の毒だと思わんのか!?きっと奴は・・・・」
「分かっているさ。お前に言われなくともな。だが問題はそこじゃない。」
「アルデバランの言う通りだ。問題は・・・・・・、にどう切り出すか、だ。」
ひよこ饅頭を一口で食べ切って、カノンはそう呟いた。
暫く議論を展開したところで(決してひよこ饅頭を貪り食ってた訳ではない)、一同はの家を訪ねた。
何故か日曜日以来、はずっと塞ぎ込んでいる。
麻生に嘘をつき続ける事を時折気に病んではいたが、それとは明らかに違う感じだ。
何しろ何を訊いても、曖昧に笑ってろくに答えてはくれないのだから。
「奴の始末はすぐにでもつけられる。だが問題はの気持ちだ。」
「分かっている。極力傷つけないように、遠回しに、だろう?」
アフロディーテに相槌を打ったシュラは、玄関ドアの真正面に立って、間もなく出て来るであろうを待った。
「シュラ。皆も。どうしたの?」
「いやなに、大した用じゃないんだが、カノンが遊びに行ったついでに土産を買って来たのでな。皆で一緒にどうかと思って。」
シュラは微笑を浮かべると、口実用に持って来ていたひよこ饅頭の箱を差し出した。
「ひよこ饅頭?もしかして東京に行ってたの?」
「まあな。ま、細かい事は良いだろう。上がらせて貰うぞ。」
「あ・・・・・、ごめんシュラ。」
中に入ろうとしたシュラを、は申し訳なさそうに阻んだ。
「どうした?駄目なのか?」
「ちょっとね・・・・・・。これから出掛けるの。あ、別に家でお茶飲んで行ってくれても良いんだけど、私はちょっと留守にするから・・・・・」
言い難そうなの言葉に、一同はぴん、ときた。
行かせる訳にはいかない。
これ以上あの男に深入りしたら、が負うであろう傷が、より深いものになってしまう。
「この俺が折角買ってきてやったのだぞ。つれない事を言うな。」
「ごめんねカノン。でも今日はどうしても駄目なの。」
「あの男に会うのか?」
カノンの厳しい表情に一瞬口を噤んだは、やがて視線を足元に落とした。
「・・・・・・・・ごめんね。」
「おい、待て!!」
横をすり抜けて逃げるように出て行くの背中に呼びかけても、が振り返る事はなかった。
「おい、どうするんだ!?」
「決まってるだろう。後を追うぞ!」
かくして、男達の大追跡が始まった。