スニオン岬から望むコバルトブルーの海は、今は漆黒の闇に染まっている。
崖から覗き込んでいると、不意に吸い込まれてしまいそうだ。
心を塗り潰しているのと同じ、この闇色の海に。
「ん〜〜ッ!夜の海も気持ち良いもんだな!」
波が岩にぶつかる音を聞きながら、麻生が運転で疲れた肩を大きく伸ばしている。
『海が見たい』と言ったのは、の方だった。
食事の席で、話を切り出す事がどうしても出来なかったのだ。
最後の晩餐になるかもしれない時に、悲しい話題は口にしたくなかった。
「静かだね。」
「ええ・・・・・・」
「ここでなら、話もしやすいかな?今日電話をくれたのは、僕に話があったからなんだろう?
この間の返事だったら嬉しいんだけど。」
返事の代わりに沈黙したを、麻生は優しげな表情でそっと抱きしめた。
「そんな悲しそうな顔しないで。やっぱりあんな話を聞かされちゃ、信用出来ない?」
「・・・・・・・」
「もう一度言うけど、僕は本気だよ。初めてなんだ、こんな気持ちになったのは。『YES』と言って欲しい。それとも、もう僕の事が嫌いになった?騙してた僕が憎い?」
「違う・・・・・!」
嫌いになれたら、憎めたら、どんなに楽か。
この腕の中に全てを預けてしまおうとする自分を必死で抑えるより、遥かに。
「だったら、僕の気持ちを受け入れてくれるね?」
「・・・・・・・・」
「きっと幸せにする。・・・・・・・だから、それにはまず君の協力が必要なんだ。僕に協力してくれるね?」
協力とは、即ち女神と全ての聖闘士を裏切る事だ。
まだ会った事のない聖闘士達も、沙織も、小さい頃から弟のように可愛がってきた星矢も、そして。
いつも隣に居てくれる、黄金聖闘士達も。
「貴臣さん・・・・・、私・・・・・・」
「愛してる、。きっと幸せにするよ。」
「私・・・・・・・・」
麻生がゆっくりと口付けを迫ってくる。
このキスを受け入れたら、もう抗う術はない。
まだこんなにも愛しているのだから。
だが、本当にそれで良いのだろうか?
縫い止められたように動けないに、麻生が口付けようとしたその時だった。
「うちの大事な秘書をこれ以上たぶらかすのは、止めて貰おうか。」
「カノン!?」
「君は・・・・・・、あの時の・・・・・」
を放した麻生は、驚いたように目の前の男達を見た。
そこに居た彼ら、アルデバラン、カノン、アイオリア、シュラ、アフロディーテは、皆黄金聖衣を纏った姿であったのだ。
「俺達の了解もなく、勝手にを連れて帰られては困る。」
「シュラの言う通りだ。が居なくなっては、俺達が執務をサボれなくて困る。うちの愚兄の風当たりもきつくなるだろうしな。」
「カノン!貴様そんな事を考えていたのか!?」
「冗談だ。拳を引っ込めろ、アイオリア。」
「今が冗談を言える場合か!?全く・・・・・!アソウ、俺はお前を見損なった。女の真心を踏みにじるような男に、は断じて渡さん。」
「同感だね。ミスター・アソウ、君にはを預ける気になれない。」
「という訳だ。諦めてくれ。」
黄金聖闘士達に牽制された麻生は、それでも涼しげな笑みを消さなかった。
「ちょっと待ってくれ、君達。随分好き勝手な事を言ってくれるが・・・・・、これは僕との問題だ。友達だか何だか知らないが、部外者は引っ込んでてくれ。一体何の権利があって・・・」
「部外者ではないからしゃしゃり出てきたのだ。それに、権利ならある。少なくとも、偽りの愛を囁いて女を騙す奴よりはな。」
「偽り?」
麻生が不愉快そうに顔を顰める中、カノンは己の纏っている双子座の黄金聖衣を見せつけるようにして、一歩前へ出た。
「日本に出向いて、お前の事を色々と調べさせて貰った。お前の目的は俺達なのだろう?察しの通り俺達は聖闘士、聖闘士88の頂点に立つ黄金聖闘士だ。」
「よくぞここまで嗅ぎつけた。だが、ここから先はそう簡単にはいかんぞ。」
「私達や女神の事を調べ上げて何をするつもりか知らんが、女性の気持ちを弄ぶような男のする事だ。どうせろくでもない事だろう。君にこれ以上嗅ぎ回られる訳にはいかない。」
「どうしても知りたいというなら、俺達を締め上げて力ずくで吐かせてみろ。」
カノンが、シュラが、アフロディーテが、アルデバランが、それぞれに隙のない態度をみせた。
顔こそ余裕だが、彼らの声は静かな怒りに満ちている。
彼らの言葉に麻生は少々怯んだが、それでもすぐに口の端を吊り上げた。
「ふっ・・・・、そんな事するまでもないさ。やっぱり君達は、快く取材に応じてくれる、という訳にはいかなそうだしね。・・・・・・・、こっちにおいで。」
「行くな、。」
麻生の声とアイオリアの声が、ほぼ同時に左右の耳から飛び込んでくる。
両側から強く引かれ、心が真っ二つに引き裂かれそうだ。
けれど。
「、君も僕を愛してると言っただろう?」
「駄目だ、!」
けれど。
「さあ、。」
「・・・・・・!!」
両の頬に浮かぶ笑窪が優しいこの笑顔。
忘れない、忘れる事なんて出来ない。
だから今、しっかりとこの目に焼き付けて。
「・・・・・・・・してない。」
「え?」
「愛してなんかない・・・・・・、私はあなたを愛してなんかないわ!」
は麻生に向かってそう叫んだ。
麻生は勿論の事、黄金聖闘士達も唖然としている。
何しろ、あれ程惚れ込んだのだ。
麻生は絶対的な自信があったし、黄金聖闘士達は、もしかしたらは彼を取るかもしれないと、心の何処かで覚悟をしていた。
にも関わらず、は彼との決別を選んだのだ。
誰もが驚くのも当然と言えよう。
「ごめんなさい、麻生さん・・・・・・。あなたのプロポーズは・・・・・・、お受け出来ません。」
「・・・・・・・麻生さん、ね。」
恋人になる前のように、また苗字で自分を呼んだに、麻生は諦めたような溜息をついた。
「そう、こんなに言っても駄目か。君となら上手くやっていけると思ったんだけどな。残念だよ。」
「ごめんなさい・・・・・・・」
「もう良い。分かったよ、。ここでさよならだ。」
麻生はきっぱりとに別れを告げると、カノン達黄金聖闘士に向き直った。
「おめでとう。ひとまずは君達の勝ちだ。だけど、これで終わったと思わないでくれ。」
「終わりさ。君はもう私達に顔が知れた。二度とここには近付けないだろう。」
「妨害する気か、望むところだ。受けてたってやる。いつか必ず、君達と城戸沙織の全貌を暴いてみせる。」
麻生は不敵な宣言を残すと、最後にを一瞥して去っていった。
「・・・・・追うぞ。」
「カノン・・・・・・、それではが余りに・・・・・!」
に聞こえないように小声で呟いたカノンを、アイオリアは止めた。
「奴の妨害なら、殺さずとも幾らでも手立てはある。女神にご報告した上で奴の調査を阻めば・・・」
「それでは俺の気が済まん。」
「それは・・・・・・、それは俺とて同じだが・・・・・」
「アイオリア、お前はについててやれ。」
「お前一人で行く気か?」
「そうだな・・・・・、アルデバラン、お前も来てくれ。」
「分かった。」
「おい、お前達・・・・・!」
アイオリアの呼びかけを無視して麻生の後を追おうとする二人に、それまで俯いていたが不意に顔を上げて叫んだ。
「殺さないで!!」
「・・・・・・・・」
「お願い、命だけは・・・・・・・・」
今にも泣き出しそうな顔のを見たアルデバランとカノンは、苦々しい表情を浮かべたまま無言でその場から消えた。
「ちくしょう、もう少しだったのに・・・・・!でも、まだきっと方法はある。ひとまず日本に戻って、もう一度洗い直しだ・・・・・・!」
ハンドルを乱暴に切りながら、麻生は暗い夜道を走り続けていた。
その時だった。
今まで何の問題もなく走っていた車が、突如進まなくなったのは。
「何だ!?うわっ、お前・・・・!」
車の走行を邪魔していたのは、あの場に居た一番身体の大きな聖闘士だった。
走っている最中の車を素手で止めるなど、到底人間業では出来ない。
これは、聖闘士が人知を超えた恐るべき者だという何よりの証拠だ。
その実態を調べる為にこんな所までやって来たのだが、今は流石に悠長に分析している余裕はない。
麻生は忌々しそうに舌打ちすると、車を降りた。
「何をする!?そこを退いてくれ!!」
「断る。このまま貴様を無事日本に帰してやる訳にはいかん。」
「何だと!?」
身の危険を感じた麻生は、咄嗟に後ずさった。
だが、その背後に居たのはあの男、カノンと呼ばれていた聖闘士だった。
「お前は俺達の事を知りすぎた。そして・・・・・・、俺達を怒らせすぎた。その報いは受けて貰う。」
「っ・・・・・・!僕がいつ君達を怒らせるような真似をした!?」
「己の胸に聞いてみろ。お前はあいつの気持ちを踏みにじったんだ。」
「・・・・・・の事か?」
「お前に見せてやりたかったぞ。お前の事を語る時の、あいつのあの嬉しそうな顔を。・・・・・・思わずこっちが惚れそうになるような笑顔だった。」
小さく笑ったカノンは、また一歩麻生との距離を詰めた。
同時にアルデバランも。
「あいつは馬鹿な奴だ。お前と会う時に着ていく服一つ選ぶのに、まるで小娘のようにはしゃいだり、下らない事を気にして落ち込んだり。単純でお人好しで時々説教臭くてついでに男を見る目もない馬鹿だが・・・・・・・、俺達にはかけがえのない女だ。泣かせた罪は重いぞ。」
「ふざけるな!!冗談じゃない!俺は本気だった!だけど、彼女がそれを拒んだんだ!!言い掛かりはやめ・・・」
「ならば何故、その気持ちを一番大事にしなかった?」
アルデバランの鋭い言葉に、麻生は黙り込んだ。
「お前も本気でを愛していたのなら、何故その気持ちに応えてやらなかった?そんなに己の仕事が大事か?愛する女を悲しませてまで。」
「これは只の仕事じゃない!これは俺の成功を賭けた大事な・・・」
「ならばお前は、己の成功という野心とあいつを天秤にかけたんだ。その程度の気持ちが『本気』だとは・・・・・、フン、笑わせてくれるわ。」
「くっ・・・・・・!」
小馬鹿にしたような物言いのアルデバランに、麻生は憎々しげに罵声を浴びせた。
「黙れ!お前達のような化け物に何が分かる!?偉そうに説教されてたまるか!」
「化け物、か・・・・・・。フッ、そうだとも。俺達は普通の人間では考えられない事が出来る。」
「な、何をする気だ・・・・・・!?」
すぐ目の前まで迫ったカノンを見て、麻生は恐怖の色を露にした。
咄嗟に逃げ出そうとするものの、後ろはアルデバランに阻まれて逃げ場がない。
ならばとやみくもに拳を振るってみたが、それも一発も当たらずに終わった。
「ハァッ、ハァッ・・・・・、何なんだ、お前達は一体・・・・・!?」
「聖闘士だ。お前が一番良く知っているんだろう?」
「ち、近付くな!これ以上俺に近付くな!!」
「もしお前があいつの気持ちに応えてやっていたら、こんな真似はしなかったが・・・・・・。お前には全てを忘れて貰う。の思い出ごとな。」
そう言ったカノンは、怯える麻生の額を躊躇いなく撃ち抜いた。
「あ・・・・・・、か、は・・・・・・ッ・・・・・・」
麻生の身体はゆっくりと折れ、やがて地面に膝をついて、重い音と共に崩れ落ちた。
「・・・・・後は頼む、アルデバラン。車ごと何処か適当な場所に放ってきてくれ。」
「なんだ、俺は後始末係か。」
「そう言うな。頼んだぞ。」
「仕方ないな。町の病院の前にでも放り出してこよう。それで良いだろう?」
「ああ。」
アルデバランが軽々と抱えた麻生に向かって、カノンは呟いた。
「・・・・・あいつに免じて命だけは助けてやる。これ以上、あいつの悲しそうな顔は見たくないんでな。」
その場に立ち竦んだまま動こうとしないを、シュラはそっと腕の中に抱き入れた。
「、帰るぞ。」
「・・・・・・・うん。」
「忘れろ。嫌な夢を見たと思って忘れるんだ。」
「・・・・・・・うん。」
小さく頷くだけのを案じたシュラが、俯いたままのその顔を覗き込もうとした時、の口からようやくまともな言葉が出た。
「・・・・・・ごめんね、シュラ。皆も・・・・・・、ごめん。」
泣きもせず、喚きもせず、ただ沈んだ声でそう呟いたに掛ける言葉を見つけた者は、誰も居なかった。
微かな虫の音だけが唯一聞こえる夜の聖域は、静かすぎて淋しい。
こんな夜には特に。
は相変わらず、一言も発しない。
そんなを心配したアイオリアは、恐る恐るの顔色を伺った。
「・・・・・・、一人で平気か?何だったら、皆で酒でもどうだ?」
「うむ、そうだな。パーッと飲んで騒いで。それも良いかもしれん。」
アルデバランも、アイオリアに賛成する。
だがアフロディーテは、静かに首を振った。
「いや、それはまた今度にしよう。おやすみ、。」
「ん・・・・・、おやすみ。」
力のない微笑を浮かべて自宅に入って行くの背中を見送って、アイオリアとアルデバランは心配そうな顔をした。
「おいアフロディーテ、良いのか!?もし変な気でも起こしたら・・・・・」
「そうだ、こんな時に一人じゃあんまり・・・・」
「良いんだよ、これで。」
アフロディーテの言葉が、その場にまた沈黙を引き戻す。
その直後風に乗って聞こえてきたのは、よく耳を澄まさないと分からない程度の、女の泣き声だった。
とても哀しそうな、身を切るような、の慟哭だった。
「好きなだけ泣かせてやれ。一人で泣きたいんだよ、彼女はきっと。」
アフロディーテがそう言った直後、アイオリアが鼻を啜り上げる。
「・・・・・・おい、君まで泣かないでくれ。野郎の涙のフォローなど私はしたくない。」
「ばっ、馬鹿を言うな!俺は泣いてなんか・・・・・、泣いてなんか・・・・!」
「・・・・・・やりきれんな。おいカノン、偶には一緒に酒でもどうだ?」
「良いな、シュラ。但し、朝までとことんだぞ?」
「望むところだ。」
「面白そうだな。私も交ぜてくれ。今夜は思いっきり酔いたい気分だ。」
「・・・・・よしアイオリア、俺達もやるぞ!ひよこ饅頭のやけ食いだ!」
「グスッ・・・・・・!よし、その話乗ったぞ、アルデバラン!」
静かな聖域の夜は、五人の男達と一人の女を包んで、ゆっくりとゆっくりと更けていった・・・・。
そして、陽がまた昇った。
「おはよう!」
「あ・・・・・、ああ、おはよう・・・・・・」
カノン達が目にしたのは、いつもと変わらないであった。
「ごめんね、ちょっと遅くなっちゃった!」
「あ、ああ、いや・・・・・・」
「サガはまだ?」
「あ、ああ・・・・・・」
「良かった〜!セ〜〜フ!!」
呆然とするアイオリアとアルデバランににっこりと微笑みかけて、は自分のデスクに着いた。
「さ〜て、今日はやる事が一杯あるからね!サガが来る前に準備しちゃわないと!」
「そ、それは良いがお前・・・・・・」
「何?」
きょとんと訊き返すに、シュラは困惑を隠せない表情で言った。
「その・・・・・、もう平気なのか?昨夜随分泣いていただろう?」
「泣く?何の事?」
「すっとぼける気か?聞こえてたぞ。」
カノンの一言に詰まったは、一瞬苦々しい顔をして、それからすぐに淋しげな微笑を浮かべた。
「・・・・・・もう忘れる事にしたの。」
「・・・・・そうか。なら良い。」
「でも・・・・・・、一つだけ訊かせて?」
「何だ?」
「あの人・・・・・・・、助けてくれた?」
忘れる事にした割には、まだ未練が山程残っている顔だ。
そんなに苦笑を投げ掛けて、カノンは小さく頷いた。
「特別だぞ、あんな事は。良いか、あの事は俺達だけの秘密だからな。他の連中には口が裂けても言うんじゃないぞ。特にサガの奴には。」
「分かってる。・・・・・・・・有難う。」
やはり淋しそうな、しかし心から安堵したような笑顔を浮かべたに、カノンは小さく笑って言った。
「・・・・・今夜空けとけ。飯でも食いに連れてってやる。」
「カノン・・・・・・・・」
「アフターケアだ。何でも好きな物を奢ってやる。今回は特別だぞ?」
カノンのさり気ない気遣いに、心がじんと熱くなる。
まだ尽きてはいない涙が再び浮かびそうになるのを堪えて、は笑った。
「えっ、いいの?やった〜!」
「ああ。」
「えっ、良いのか?」
「良いのか?」
「良いのか?」
「良いのか?」
「阿呆、良いわけあるか。お前らは自腹だ。」
場を和ませる為にの真似をしたアルデバラン、アイオリア、シュラ、アフロディーテに、カノンが冷ややかな眼差しを向ける。
そんな彼らのやり取りを見ていたが、突如可笑しそうに腹を抱えて笑い出した。
「・・・・・・ぷっ、あははは!」
「・・・・・・フッ」
「クックック・・・・・」
「ははははは・・・・!」
皆その軽やかな笑い声に釣られて、次第に笑い声を上げ始める。
もう間もなくすると、サガがいつものように気忙しくやって来るだろう。
そうすれば、また今日もいつもと変わらぬ一日が始まる。
けれど。
痛みを知った今日は、昨日よりももっと良い日になるに違いない。