絆 40




「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。どうぞこちらへ。」
「ご指名有難うございます!」
「うわぁ、今夜も来て下さったんですね!嬉しい!」

程良いボリュームのBGMをバックに、人々の声が賑わっている。
マネージャーの品の良いテノール、ホステス達の匂い立つような甘く華やかな声、そして客達の楽しげな笑い声。
それを聞いていると、口元に思わず安堵の笑みが浮かんできた。



あれから更に季節は移り、本格的な夏が到来していた。
Venusは今、最盛期の頃と全く同じとはいかないまでも、次第にかつての活気を取り戻しつつあった。
ほんの少し前までは、連日のように閑古鳥が鳴いていたのが嘘のような盛況ぶりだ。
店が盛り返し始めた訳は、地道に営業努力を続けた結果でもあったが、何よりもライバル店『Aphrodite』が銀座から突然姿を消した事が一番の理由だった。

サガに『更生』させられた本城は、あの後すぐさま店を手放した。
彼がその後どこへ行ったのかは知らないが、とにかくAphroditeの閉店によって、
これまではそちらに流れていた、或いは流れていたであろう客足が、またVenusに向き出したのだ。
新規の客も然り、そして、古い馴染み客もまた然り。
一度はVenusを去って行った客達がまたちらほらと戻って来始めたのを見て、は改めて黄金聖闘士達や沙織の助けを有り難いと思い、そしてまた、あの時の自分の決断はやはり間違っていなかったと感じていた。


そう、あの時。
彼等に『帰って来い』と言われたあの瞬間、思わず駆け出しそうになった。
すぐにでも彼等の手を取りたかった。
だけど実際にはそうしなかった。出来なかったのだ。
ただ自分に正直に心の赴くままに動きたい、そう思った一方で、それを許そうとしない自分が、彼等に駆け寄ろうとする足を掴んで止めたのだ。

母は、自分の全てであり人生そのものだった『Venus』を託す事が、母親として娘にしてやれる唯一の事だと最期まで信じていた。
彼女は遺書の中でそれを『責任』と表現していたが、恐らくはそれが不器用な彼女なりの、精一杯の愛情だったのだろう。
たとえ彼女自身は自覚していなかったとしても、はそう受け取っていた。

だからこそ、中途半端な形で投げ捨てる事が出来なかった。
彼女の母親としての気持ちを踏みにじる事になるようで、どうしても出来なかったのだ。
彼女が心から喜んでくれそうな、安心して眠れそうな形で解決をつけねば一生後悔する、そんな気がして。


ただ、問題なのはその解決のつけ方だった。
幸いにも経営は少しずつ持ち直してきているが、どうする事が『Venus』にとって最良なのか、その答えは依然として出ないまま、は今日も仕事に励んでいた。



「しかし、梓ちゃんが居ないと、何だか味気ないね〜・・・・。っと、こりゃママに失礼だったかな、わはは。」
「いえ、とんでもありません。私がまだまだ至らないものですから・・・・・。」

は恐縮そうにはにかんで、空になった客のグラスにウイスキーを注ぎ足した。
その時、同席の別の客が何気なく口を開いた。


「梓ちゃんと言えば、俺、この間会ったぞ。」
「え?」

驚いたは水割りを作る手を止め、その客の方を見た。


「今、取引している会社の窓口の奴がケチな野郎で、こないだやっと貧相なスナックで接待してくれたんだけど、そこで会ったんだ。」
「まさか〜!あの梓ちゃんがショボいスナック勤めぇ〜!?」
「俺もそう思ったから、訊いてみたんだよ!『梓ちゃんか?』って。そしたら否定されたんだがな・・・・・。」
「じゃあ人違いだろ。他人の空似ってやつだ。」
「だよな〜。あの梓ちゃんが、下品な酔っ払いのジジィに尻触らせて、キャアキャア媚びた笑い声を上げる筈ないもんな。梓ちゃんなら、そういう客はうまく捌いて追い帰してるだろうし。」
「そうそう。俺だって触れるもんなら触ってみたかったけど、結局無理だったもんな〜。ツンツンしてる訳じゃないけど、隙がないというか媚びないというか・・・・・。でもそういうところが堪らなく良かったんだけどな〜。」
「ああ、分かる分かる。でも、他人の空似にしちゃ、似すぎてた気もするんだけどな〜・・・・・・。」

連れ同士、梓の話題で盛り上がる二人の会話に、は黙って耳を傾けていた。
事実なのだろうか?
梓はこの業界そのものから足を洗うと言って、Venusから去っていったのに。


「・・・・それ、どこの何ていうお店だったんですか?」

話題が変わってしまわない内に、は尋ねた。
すると客は、暫し考え込んでから答えた。


「え〜と確か、○○町だったな。名前は・・・・・・、う〜ん・・・・・・、思い出せないなぁ・・・・・・・。」
「そうですか・・・・・・・」
「・・・・・あ、ちょっと待てよ。確かマッチが・・・・・・、ほら、あった。」

要らないからやる、と言われて受け取ったマッチには、店の名前や所在地・電話番号が小さな文字で印刷されていた。












とうに辞めた人間の事を今更詮索したところで、どうなるものでもない。きっと相手にも迷惑だろう。
それは分かっていた。
分かってはいたが、は確かめずにはいられなかった。
嘘を吐いたのかと責める為ではない。
ただ本当に梓がそこに居るのか、居たとすれば、それはどんな事情があっての事なのか。
それを確かめたくて、は店を早めに抜け出し、現在梓が勤めているらしいスナックの前まで来ていた。

そこは煌びやかな繁華街という訳ではなく、何処となく薄暗くてしなびた場末の飲み屋街といった感じだった。
近隣には似たようなスナックや居酒屋が連なっているが、銀座に比べると規模はまるで小さく、どの店も一様に狭小で古びていた。多分、昔からずっとあるのだろう。
とにかく周辺の店も含めて、Venusと比べると格段に見劣りのする店だった。

やはりあの客の勘違い、他人の空似だったのかも知れない。
到着して店構えを見た時、はそう思った。
あの梓がこんな店で働いているとは、到底信じられなかったのだ。

しかし呆然としていたその時、店の中から一人の女が出て来て、店先に立ててある電飾看板を片付け始めた。
明らかに店の者だと思われるその女の横顔は、紛れもなく。


「・・・・・梓さん。」

彼女だった。


さん・・・・・・・!?」
「やっぱり、貴女だったんですね。」

片付けの手を止めて驚いている梓の表情は、暫く見ない間に冴えなくなっていた。
無論、顔立ちは変わっていないしきちんとメイクも施されているが、覇気がないと言おうか、くたびれ果てたと言おうか、とにかくVenusに居た頃とは印象が変わっていた。


「貴女、どうしてここに・・・・・・!?」
「お客さんに教えて貰ったんです。梓さんらしき人がここで働いているのを見た、って。」

梓は黙したまま、気まずそうに視線を逸らした。
あの時の言葉は嘘だったのか、それともやはり何か事情があっての事なのか、どちらかは分からないが、ここまで来た以上、これで帰る気はにはなかった。


「・・・・・・・お腹、空いてませんか?私もさっきまで仕事だったから、お腹ペコペコなんです。」
「え・・・・・?」
「またおうどん、食べに行きませんか?」

そう言って、は梓に微笑みかけた。
















二人で並んでカウンターに座り、いつかと同じように熱いかけうどんを啜りながら、は梓の様子を伺った。
梓は相変わらず黙ったまま、丼に視線を落としてうどんを啜っていた。
一見、食べる事に集中しているように見えるその横顔は、話を切り出されるのを待っているようにも見える。
は箸を置くと、静かに口を開いた。


「・・・・・・訊いても良いですか。」
「水商売から足を洗うって啖呵切って店を辞めた癖に、どうしてあんな所で働いているのか、でしょ?」

すると、梓も手を止めて答えた。


「昼の仕事だけじゃ、やっていけなかったからよ。」
「・・・・・・」
「勿論、Venusに居た時程の収入なんか、最初から期待していなかったわ。だけど、どんなに就職活動しても、長年水商売にどっぷり浸かっていた子持ちの女をまともに雇ってくれる所なんて、やっぱりなくてね。取り敢えず、スーパーのレジ打ちのパートで食い繋ぎながら諦めずに職探ししているんだけど、それだけじゃきつくて、週に3日だけ、あのスナックでバイトを始めたの。」
「そうだったんですか・・・・・・」
「馬鹿みたいでしょう?笑いたければ笑って良いわよ。水商売から足を洗うなんて啖呵切っておいて、結局それしか出来ないのねって。」

そう言って、梓は薄く自嘲の笑みを浮かべた。
Venusに居た頃の彼女はいつも優雅で、堂々としていたのに。
自分を卑下する今の梓の姿が余りにも痛々しくて、ショックで、は何度も首を振った。


「そんな事・・・・・・!」
「子供にも全く構ってあげられない、仕事にもやりがいを見出せない、ついでにろくな収入もない・・・・・・、自分で自分が情けなくなるわ。」
「梓さん、そんな風に自分を責めちゃ・・・」
「本当に情けないわよ・・・・・。スーパーじゃ、店長が私の経歴をペラペラと人に喋っちゃって、同じパートのおばさん連中に陰で後ろ指さされて・・・・・。中には、自分の旦那が何処かのホステスに入れ込んでるからって、私をその女に重ねて泥棒猫呼ばわりする人まで居てね。」
「酷い・・・・・・・」
「スナックじゃ、お客に散々セクハラされて・・・・・。所詮商売女なんだから、何を言おうがしようが許されると思っているのかしらね。勘違いもいいところなのに。・・・・客層もだけど、店の質も悪いのよ。目先の小金を稼ぐのに必死だから、質の向上なんて考えてもいないのよ。だから客だって、安っぽいのしか集まって来ない。」

確かに夜の仕事をしている女は、自分の色香を餌に男を誑かして稼いでいると悪く思われがちだが、皆が皆、少なくとも梓は、『泥棒猫』と蔑まれたり、『商売女』と軽んじられても仕方のないような女ではなかった。
の知る限り、梓の客は何より彼女の巧みな会話、プロとしての接客技術に満足し、それを求めて通って来ていたのだ。
決して身体を武器に客を取るような真似はしていなかったし、また店側も、亡き母のポリシーでそのような下衆な勘違いをする客には、毅然と接してホステス達を守っていた。
そしてその方針は、勿論今も変えていない。
売り物にするのはあくまでも美味い酒とそれを楽しむ為のより良い空間であって、女の身体ではないからだ。
だから梓の言う事は、には至極正論に聞こえた。


「・・・・・だけど、分かってるの。一番悪いのは私だって。」

ところが梓は、また卑屈な笑みを浮かべた。


「子供と二人、食べていかなきゃいけないもの。どんなに見下されても安く見られても、お金の為に耐えなきゃいけないのよ。まして、自分で選んだ道だものね。何の得にもならないプライドなんか、さっさと捨てなきゃいけないのよ。じゃなきゃ、自分で自分を苦しめる事になる。」
「・・・・・・」
「だけど実際は、どうしても捨てきれない・・・・・・。プライドが捨てきれなくて、現状にグズグズと不満ばかり募らせて・・・・・、こんな自分がいい加減に鬱陶しくて、情けないわ。」

梓の抱えているジレンマは、の心にダイレクトに伝わって来た。
生きていくという事は、決して楽ではない。プライドや理想論だけでは食べていけない。
それはも良く知っていた。
だがそれでも、人はプライドを失くしては生きていけない。
強い信念を持って生きてきた人程、たとえどれだけ苦労しようとも辛い思いをしようとも、それを捨てる事は不可能だろう。
亡き母もそうだったように。


「・・・・・ごめんなさい。貴女にこんな愚痴を零すつもりはなかったの。忘れて頂戴。」
「いいえ・・・・・・」

我に返ったのか、梓は決まりの悪そうな笑みを浮かべて謝り、それっきり何も言わずにまた食べ始めた。
もまた、それ以上何も言わずに黙って食べた。
掛けるべき言葉が、何も見つからなかったのだ。
一体この場で彼女に何を言えただろうか。
優しいだけの同情は、恐らく彼女のプライドを却って傷つけてしまうだろうし、まして叱責や冷淡な正論など。

梓は梓なりに思うところがあって、Venusを去ったのだ。
そして彼女は今、想像以上に厳しかった現実を必死で生きている。
彼女はそこから逃げたいとも、助けて欲しいとも言っていない、ただこれまでに積もり積もった疲れを吐き出しただけなのだ。
朝になれば、彼女はまた黙って今日と同じ一日を始めるだろう。
そんな彼女に掛けるべき言葉など、何も見つからなかった。
















それでもは、梓の事を考えずにはいられなかった。
現実に打ちのめされている彼女を気の毒に思う気持ちも確かにあったが、それよりも彼女の『Venus』に対する深い思い入れが、今更ながらどうしても気になったからだ。
梓の新生活が順風満帆なものだったのならともかく、そうでないと知った今、出来ればVenusに戻って欲しい、戻るように再度説得したい、それがの本音だった。
亡き母の次に『Venus』を愛していたと言える人は、間違いなく梓なのだから。
しかし、ストレートに説得を試みたところで、あのプライドの高い梓がすんなりと首を縦に振る筈もないであろう事は容易に想像がついた。

何より梓は、亡き母の事を、雇い主としても一個人としても心から慕っていた。
彼女自身は否定も肯定もしなかったが、店を辞めたのも恐らくは彼女が敬い慕った亡き母の為、亡き母への恩返しのつもりだったのだろう。
だからこそきっと簡単には説得出来ない、そんな気がした。

は考えた。
梓にとって、亡き母にとって、Venusにとって、そして自身にとって、
どうする事が一番良いのか、それを考え続けた。
そしてようやく、ある一つの結論を導き出す事が出来た。

















真昼の店内は、夜とはうって変わって侘しく薄暗い。
開店準備どころか、まだ誰一人として出勤して来ていない時間帯にも関わらず、は今、一人の客を迎え入れていた。
差し出されたコーヒーカップを受け取ってふわりと微笑む一人の少女、城戸沙織を。


「お店を手放す事、お決めになったんですね。」
「ええ。」

沙織に連絡を入れたのは、結論を出してすぐの事だった。
これから自分のやろうとしている事に、迷いは一片たりともなかった。
ただ、それが結果的に実現するかどうかは今後の展開次第であるのだが。


「但し、私達の間でうまく折り合いがつけば、の話だけど。」
「分かっています。これはビジネス、余計な気遣いはなしであくまでも公正に・・・・・、でしたわね?今日はそのつもりで準備をして参りましたわ。」

にっこりと微笑む沙織に、も安堵の微笑を見せた。
この件はお互いのビジネスとして進めていきたいというのが、の考えだったのだ。


「では早速。この書類が、お店を詳しく査定させて頂いた結果です。まずはご覧下さい。」

は、沙織が差し出した大判の封筒を受け取り、中の書類に目を通し始めた。
突然かつ実際に売るかどうかは今後次第という甚だ不確実な話だったにも関わらず、沙織は有り難い事に出来得る限りの準備をして来てくれたようだ。
書類はどれも現時点の段階で可能な限り詳細に、そして正確に作成されていた。


「その評価額の欄に記載されている金額が、当方の提示額なのですが、如何でしょうか?相場通りの妥当な額だと思うのですが。」
「・・・・・そうね。私もそうだと思うわ。だけど・・・・・・」

評価額の欄を見つめながら、は言葉を濁した。
そこに記されてある金額は、確かに沙織の言う通り、相場通りの妥当な額だった。
しかしとしては、その額で二つ返事に了承する訳にはいかなかったのだ。


「ご不満ですか?では、お幾らならご検討頂けますか?」
「そうね・・・・・、私の提示額は・・・・・・、これ位。」

は手元に置いてあったペンで評価額を打ち消すと、その下に小さく数字を書き込んだ。
それを見た沙織は、驚いて目を丸くした。


さん、幾ら何でもこれはちょっと・・・・・!」

流石の沙織も呆気に取られたようだ。
普段見られない彼女の珍しい表情に、は思わず吹き出した。
しかし、沙織がこうして驚くのも無理はない。
自分が提示した金額は、それ位にとんでもなく馬鹿げた額だという自覚はあった。


「そうよね、自分でも分かってる。こうして数字だけを見ると、馬鹿みたいよね。」
「・・・・一体、どういうおつもりでこの額を?」

自覚も、そして理由もあった。
その理由を沙織が理解してくれるかどうか、それも、個人的にではなく取引相手として、納得し承諾してくれるかどうか、そこが第一のポイントだ。
自分の出した『結論』が最終的に実現する保証は今の段階ではないが、まずは沙織との間で話がつかなければ、この件そのものが内々に消えてなくなる。
はやや緊張した面持ちで、傍らに用意しておいた書類にそっと手を触れた。
それは勿論、その『理由』を記載した文書であった。
枚数はごく少ないが、内容は考えに考えて纏め上げてある。
それを読んだ沙織が、果たしてどういう反応を示すか。


「条件があるの。」

は祈るような気持ちで、困惑している沙織の目の前にそれを差し出した。




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後書き

ラスト間近というのに、黄金聖闘士が一切出てこなくて済みません(汗)。
次回からはジャンジャン出てきますので、もう少しお待ち下さい!