数十分後、はデスマスクに連れられて、再び城戸邸を訪れた。
「さん!無事で何よりでしたわ!」
「沙織ちゃん、心配掛けてごめんね。」
応接室に通されるや否や、安堵の表情で出迎えてくれた沙織に、は済まなそうに微笑んで応えた。
沙織はいつもこうして心配してくれていたのだ。
沙織のその気持ちは勿論嬉しいし有り難いが、それと同時に、何かにつけてこんな風に心配をかけてきた自分が情けなく思える。
「ここに来る途中のタクシーの中で、デスから聞いたわ。私の事を心配した沙織ちゃんに頼まれて、聖域からガードしに来た、って。・・・・・ううん、今日だけじゃない。もうずっと、皆で私を密かに見守ってたんだ、って。沙織ちゃん、ずっと私の事を心配してくれてたんだよね。本当に有難う・・・・・・。心配ばっかり掛けて、本当にごめんなさい。」
「良いんです、お礼なんて・・・・・。私がそうしたかっただけなんですから。彼等だってきっと、私に命じられずとも・・・・・・・、いえ、たとえ私が禁じようとも、彼等自身の意思でそうしたでしょうから。」
すると、背後で誰かが『その通りだ』と言った。
振り返ってドアの方を見てみると、そこにはシュラが立っていた。
「シュラ!いつの間に来てたの!?本城さんは!?」
「あの後すぐ、ここに連れて来た。お前達の来るのが遅すぎるんだ。」
「そんな事言ったって・・・・・。これでもすぐにタクシー捕まえてまっすぐに来たのよ?」
「それじゃあ仕方がないな。俺はテレポーテーションで来たから。」
ああなるほど、と納得しかけたのも束の間、は驚いて目を見開いた。
同じ平凡な人間でも、はシュラがどんな能力を持つ男なのかを知っているが、本城は何も知らないのだ。
何も知らない者がいきなり聖闘士の力を目の当たりにすれば、一体どんな騒ぎになるか。
「え・・・、それ大丈夫だったの!?本城さん連れてそんな事・・・」
「問題ない。気絶させて連れて来たからな。」
と焦ったのだが、シュラは事も無げにこう答えた。
「じゃあ今は!?」
「ああ、今はサガが・・・・」
「終わったぞ。」
シュラがそう言い掛けた時、今度はサガが入って来た。
そして、その後に続いて黄金聖闘士達が全員、続々と。
「皆来てたの!?」
再び驚いて目を見開くに、サガは微笑んで頷いて見せた。
「もう心配は要らないぞ、。あの男は、私の力で見事更生させてやったからな。」
「え・・・・、どういう事?更生って・・・」
としては、黄金聖闘士全員がここに集結していた事にまず驚いていたのだ。
そこにいきなり更生だの何だのと言われても、何が何やら、さっぱり訳が分からない。
するとアフロディーテが、可笑しそうな笑い声を僅かに上げた。
「フフ、幻朧魔皇拳で操って洗脳したんだよ。全ての煩悩を捨てて出家しろ、とね。」
「は!?出家!?仏門!?」
そう言われても、益々訳が分からない。
すると、開け放たれたドアの向こうを、1人の男がフラフラと歩いていくのが見えた。
それは紛れもなく本城だった。
「あっ、本城さん!」
は反射的に、彼に呼びかけていた。
しかし、応接室の方にゆっくりと向けられた彼の顔は、先程までとはまるで別人のようだった。
精気が抜けて、一瞬違和感を感じる程、落ち着いた静かな表情になっていたのだ。
驚きの余り唖然としていると、本城は軽く会釈した。
その仕草は、とても知り合いに対する態度には見えない程、感情の篭らない儀礼的なものだった。
そしてそれ以上は、一切何の反応も示さずに歩き去っていった。
が驚いた顔のまま目を向けると、サガは誇らしげに口の端を吊り上げた。
「私達の事は全て忘れるように、暗示をかけておいたからな。ついでに店も売り払って、その金を恵まれない人々に寄付し、身一つで出家するようにしっかりと洗脳しておいた。」
「ついでに、その『恵まれない人』ってのは俺の事だって洗脳しといてくれりゃ良かったのによ。」
「調子に乗るな、蟹。俺だって同じ事を言いたかったのをグッと堪えたんだぞ。俺が辛抱したんだからお前も辛抱するべきだ。」
「どんな理屈だよそれ!カノン、テメェどんだけ自己中なんだ!?」
「強靭な精神力を持つ聖闘士ならばともかく、あの男ではまず一生解けん。奴の精神はもはや私の手中にある。奴は私に操られるがまま、私の意思に従って、残る一生を清く正しく慎ましく生きていくだろう。」
その横でデスマスクとカノンが呑気に軽口を叩き合ったが、サガは全く気に留めず、誇らしげに説明を続けた。
ゾッとするやらしないやら、何だか妙な話だったが。
「つーかサガ、高級ホテルのバー2席分の会計を1人で持たされて、俺の財布空っケツなんだけど?大至急速やかに精算してくれや。ほれ、これ領収書だから。」
「と、こういう訳だから、あの男はもう二度とお前やお前の店に関わってくる事はない筈だ。」
「オイ無視かよ!」
更には、デスマスクが差し出した領収書さえ鮮やかにスルーを決め込んで、を安心させるように優しく微笑んだ。
「本当に有難う・・・・・・・・・」
ようやく訳が分かってから、ははにかむように微笑んだ。
強制的に出家させられ俗世を捨てさせられた本城には気の毒だが、煩悩と財産以外は無事のようであるし、ホッとしたというのがの本音だった。
するとサガは、小さく笑って首を振った。
「何の。これしきの事、お安い御用だ。」
「ちなみに出家の案を出したのは私だ。これで君の目の上のコブは綺麗さっぱり消えてなくなる。名案を出した私に感謝したまえよ。」
横からシャカが尊大に言い添えたが、言われるまでもない事だった。
こうしてあまり後味の悪い思いをしなくて済むのも、偏に彼等黄金聖闘士達の恩情に違いない、
今こうして無事で居られるのも、彼等全員のお陰に違いないのだから。
「俺としては、始末出来るものなら一思いにそうしたかったがな。その方が手っ取り早いし。けど、万が一にもに迷惑を掛ける訳にはいかんから、グッと堪えたんだ。おまけにシュラとデスマスクも、公衆の面前であの男に詰め寄ったらしいしな。」
「得体の知れない国籍不明の外国人2人組なんて、怪しまれて当たり前ですからね。殺人容疑で全国指名手配などという事になったら、こちらも困りますから。」
「だーかーらー!あの場は仕方がなかったと言っているだろうが!!」
ミロとムウに冷ややかな目で一瞥されて、シュラが冷や汗を掻きながら必死で弁解している。
それを沙織や他の黄金聖闘士達が、笑って見守っている。
いつもと同じ、賑やかで楽しい人達。
強くて優しい人達。
「本当に皆、有難う。それから・・・・・・・、ごめんなさい・・・・・・。」
はありったけの感謝を込めて礼を言い、詫びた。
「私の断り方が生ぬるかったんだね、きっと。自分じゃ毅然と断ったつもりだったんだけど・・・・・・」
は、ホテルのバーで本城と話した内容を全て彼等に話した。
「・・・・それで、何となく思ったの。ああ、この人は母の事も店の事も、何も分かっていない、って。そうしたら、自然と1つ答えが出たの。この人には何も相談出来ない、少なくともお店を売り渡す事だけは絶対に出来ない、って。たとえちゃんとした売買契約を結べたとしても、あの人に譲ってしまったら、『Venus』が『Venus』でなくなっちゃう気がして・・・・・・・」
本城との会話の内容と、その時に感じた事を、ありのままに話した。
すると、アフロディーテが僅かに首を振った。
「・・・・生ぬるかったとか、そんな問題じゃない。君がもっとストレートに拒絶していたって、あの男は同じ事をした筈さ。いや、君の取った態度は、彼にとっては十分に手厳しかったんだと思うよ。君につけ入る隙がないとはっきり悟ったからこそ、あの男は強引な手段に出たんだから。」
「アフロディーテの言う通りだ。何せ本人がそう言っていたんだからな。洗脳状態で本音を喋らせたから、間違いはない。」
「そ・・・かぁ・・・・・・」
アフロディーテの言葉を裏付けるように、カノンが口添えをした。
本城の本音は、つい今しがた、カノンのみならず、ここに居る黄金聖闘士全員が己の耳でしかと聞き届けてきたのだ。
一同は目を見合わせてから小さく頷き合い、本城から聞き出した全てをに話して聞かせた。
本城は、を口説き落として自分に惚れさせる気だった事。
ところがうまくいかなかったから、に酒と睡眠薬を飲ませて前後不覚にしてからホテルの部屋に連れ込み、まずは既成事実を作ってしまおうと考えた事。
その後、巧みに騙してを夢中にさせ、がすっかり気を許したところで『Venus』に入り込み、侵食し、最終的には『Venus』を丸ごと手に入れるつもりだったという事を。
「君と前オーナーが実の親子である事を知って、思いついたらしい。彼女が死んで君が店を相続した今、何もわざわざまともに高い金を払って買収せずとも、君を惚れさせる方が得策だとな。」
カミュがそう言うと、デスマスクも真顔で頷いた。
「ま、それにはお前が身も心もあのヤローの虜になるっていう大前提が必要なんだが、テメェの手練手管によっぽど自信があったんだろうな。何しろ、ソッチ方面には随分と長けていそうな男だ、さぞかし年季も入っているだろうしな。そんな奴にとっちゃ、独りぼっちになった寂しい女を落とす位、朝飯前だ。」
「なるほど。流石、同じ穴のムジナが言うと説得力があるな。」
「何だとシャカ!?」
デスマスクとシャカの下らない小競り合いを見ても、は笑う気になれなかった。
恐らくデスマスクの推測通り、本城が己の手練手管に自信があった事は確かだろう。
しかし、きっとそれだけではない。
自分が元々、相当甘く見られていたのだ。だからこそ彼も、そんな策を巡らせたのだろう。
黙って唇を噛み締めていると、サガが諭すような口調で話し始めた。
「・・・・つまり、がどう出ようとも、あの男は黙って引き下がりはしなかったという事だ。向こうの方が1枚も2枚も上手だったんだ。あの男は、お前が思っていた以上に強欲な男だったのだ。そして、そんな人間は何もあの男1人ではない筈だ。」
「それは・・・・・・」
「店を続けていく限り、これからもそんな輩と度々渡り合う事になるだろう。負けない為には、お前が変わらなければならん。もっと強く、もっとしたたかに。時には卑劣とも言える手段に出て、先手を打たねばならんならん事もあるだろう。だが私は、私個人的には・・・・・・、そんな風に変わっていくを見たくない。」
「サガ・・・・・・・」
サガの悲しげな瞳を見て、は言葉に詰まった。
「お前が、私の知っているでなくなっていくのかと思うと、私は・・・」
「だぁぁぁっ!!じれったい!!!」
その時、不意にミロが大声を上げた。
「回りくどい言い方をするな、サガ!聞いているこっちが苛々する!!」
ミロは目を吊り上げて怒鳴ってから、をキッと見据えた。
「!」
「はっ、はいっ!?」
叱責されると思ったは、思わず身を固く竦めた。
しかし。
「・・・・・帰って来い。今すぐ聖域に帰って来い。」
「・・・・・・・え?」
「俺は今日、お前を連れて帰るつもりで来たんだ。他の連中はどうなのか聞いていないが・・・・・、しかし多分、俺と同じ気持ちだろう。だから・・・・・」
そうではなかった。
ミロは真剣な顔をして、『帰って来い』と繰り返した。
「・・・・・私は、ミロのように強引な誘い方は出来ませんが・・・・・、帰って来ませんか?貴鬼が随分寂しがっているんですよ。」
すると、ムウも静かに口を開いた。
「お前が居ないと、机仕事の苦手な俺はどうにも困って仕方がないんだ。帰って来てくれないか?」
アルデバランも頭を掻きつつ言った。
「やはりお前には今の仕事は向いていない。それよりはせっせと地味なデスクワークや雑務に励む方が、お前には余程向いている。帰って来れば、お前は自分に適した暮らしが出来るし、俺も楽が出来て一石二鳥だ。ここは一つ、お互いの得になるように考えようじゃないか。」
カノンは飄々と言った。
「お前みたいなドン臭い奴は、またいつ騙されたり、今日みたいな目に遭うか知らねぇぞ?その内バカを見る前に、店、手放した方が良いぜ。そんなモンがなくたって、お前には身一つで帰って来られるところ・・・・・、あんだろうがよ?」
デスマスクはわざとらしい気障な笑みを浮かべて、自分の胸を親指で指して見せた。
「お袋さんだって、最期にああ言っていただろう。の人生だ、自分の意思で、好きに生きれば良い。だから何も無理強いは出来ないが・・・・、それでも俺は、自身の意思で聖域に帰って来て欲しい・・・・・、そう思っている。」
アイオリアは言葉を選ぶようにゆっくりと、しかしはっきりと言った。
「君も本当は気付いているのだろう?あの店は、君の居場所でない事を。人にはそれぞれ居場所がある。君は君の居場所に帰りたまえ。君が本心から居たいと思う所に。」
シャカは全てを見透かしているかのように言った。
「お主はのう、自分では気付いておらんだろうが、儂等にとって必要な人間なのじゃ。全てはお主の気持ち次第じゃが、儂はお主が聖域に帰って来るのを待っておるぞ。」
童虎はあの静かで思慮深い微笑を浮かべた。
「聖域から日本まで、そうちょくちょく助けに来るのは面倒だ。俺達だっていつも暇を持て余している訳ではないのだからな。だから・・・・・・帰って来い。お前が聖域に帰って来て、俺達の側に居ろ。」
シュラの口調はぶっきらぼうな命令調だったが、その目は優しく穏やかだった。
「君の家は、君が出て行った時のまま残してある。結局、何一つ処分出来なかった。」
カミュは小さく苦笑を洩らして、『だから、いつでも帰って来るが良い』とつけ加えた。
「はだよ。他のどんな人間にもなれはしない。サガの言ったような女に、君はきっと変われない。そんな君だからこそ・・・・・・、側に居て欲しいんだよ。」
アフロディーテは優しく微笑んだ。
皆、望んでくれていたようだ。
あの日々をもう一度、と。
「・・・・・・・・私・・・・・・・・」
まっすぐに自分を見つめてくる彼等の顔を見ていると、の脳裏にギリシャの青い空が浮かんで来た。
そこだけ時が止まっているかのような聖域の風景も。
初めはカルチャーショックの連続だったあの場所が、今、懐かしくて懐かしくて仕方がない。
帰りたい。
あの日に。
あの場所に。
は今、初めてはっきりとそう思った。
今抱えている様々な事情や誰かへの思いでなく、自分の気持ちだけを、今初めて素直に見つめる事が出来た。
「私・・・・・・・・」
一同が見守る中、は震える唇を小さく開いた。