梅雨時の蒸し暑い夕暮れ、一人の女が人込みの中を歩いていく。
その後を追っていくと、女はある高層ビルに入っていった。
世界中のめぼしい都市に支店を持つ、某高級ホテルの建物だった。
尚も追っていくと、女はロビーを通り過ぎ、エレベーターホールに向かっていった。
エレベーターホールには女の他に誰も居らず、女は一人でエレベーターに乗り込んだ。
2F、3F・・・・・・、エレベーターは止まる様子を見せず、順調に上っていく。
女の目指す場所に向かって、着々と進んでいく。
デパートなどとは違って、大勢の客がひっきりなしに上へ下へと移動する訳ではないから、女の行く先を特定するのは簡単だった。
やがてエレベーターはある高層階で停止し、暫くしてから再び下がり始めた。
つまり、女がそこで降りたという事だ。
館内案内図で確認すると、女が降りたフロアはレストランやバーの集中するダイニングフロアだった。
しかし、集中していると言っても、その数はたったの数軒。
一軒一軒覗いて回ったところで、さほど手間という事もない。
二人の男は顔を見合わせ頷き合うと、女を追ってエレベーターに乗り込んでいった。
そして数分後。
「・・・・・まだ日も落ちきらない内から、高級ホテルのバーとはな。」
二人の男の内の一人、シュラは、ウイスキーのグラスを微かに揺らしながら、口をへの字に曲げていた。
その視線の先に居るのはターゲットとして追って来た女、である。
しかし、来た時には一人だったには今、連れが居る。
どうやらこの店で落ち合う約束をしていたようだった。
「何処までも嫌味な男だな。いけ好かねぇ。」
二人の男の内のもう一人であるデスマスクは、その連れの方を一瞥して顔を顰め、面白くなさそうに煙草の煙を吹き出した。
そう、の連れは男であり、ついでに名を本城と言う。
『Aphrodite』のオーナーである、あの男だ。
沙織から『二人が会う事になっているから、後をつけて様子を見張れ』という緊急かつ極秘の命を受け、デスマスクとシュラは遠く聖域からはるばる駆けつけて、城戸邸を出たをここまで尾行して来たのである。
「・・・・・どうでも良いけど、ここの支払い、経費で落ちるんだろうな?」
「シッ、静かにしてろ。」
シュラはデスマスクのぼやきを遮って、カウンター席の端に座っていると本城にさり気なく注意を払い始めた。
離れた席に着いた為、何を話しているのかまでは分からないが、二人は今、何かのやり取りの最中らしかった。
いや、やり取りというよりは、押し付け合いと言った方が相応しいだろうか。
本城は何やら封筒のようなものを差し出し、はそれを恐縮そうな顔で必死に断っているのだ。
「一体何やってんだ、ありゃ?」
「さぁ・・・・・・・」
デスマスクとシュラは、怪訝な顔で首を傾げた。
一方、この二人に見張られ・・・・、いや、見守られているとは露程も知らないと本城は。
「いや、本当に気持ちだけだから、遠慮せずに・・・・」
「いえ、折角ですがご遠慮させて下さい、お気持ちだけ有り難く頂きますから・・・・!」
「そういう訳にはいかないよ。」
「いえもう、本当に・・・・。お香典は全て辞退させて頂いているんです。弔いは出来る限り内輪で質素にというのが、故人の意志でしたから。」
の押しの一言が決め手となって、ようやく香典攻防戦が終結したところだった。
「・・・・そうかい?じゃあ、失礼して・・・・・・」
本城は香典袋を渋々収めると、居住まいを正した。
「・・・・・しかし、麗子ママは本当に気の毒だったね。まだ若かったのに。」
「ええ・・・・・・」
「君も、店を継いですぐ母親が亡くなって、さぞ心細いだろうね。」
「・・・・・・・え?」
は、驚いて本城を凝視した。
すると本城は、苦笑を浮かべた。
「誤解しないでくれ。何も嗅ぎ回った訳じゃない。こんな商売をしていると、あちこちから噂話が入って来るんだ。ただそれだけだよ。」
ホステス同士の噂話を小耳に挟んだのか、或いは誰かからわざわざ訊き出したのか。
いずれにせよ事実は事実であるし、母が亡くなった今となってはその情報の出所を深く追究する必要性も感じられず、はそれ以上本城を問い詰めるような事はしなかった。
「しかし驚いたよ、まさか君が麗子ママの娘さんだったなんて。彼女と余り似ていないものだから、思いもしなかった。」
「そうですか・・・・・・。」
「悪い意味に取らないでくれよ。私は何も君と麗子ママを比べて、君が劣っていると言いたいんじゃない。むしろその逆だ。君は、麗子ママには感じられなかった純粋さがある。」
本城はふと優しげな微笑を浮かべ、まるでの反応を待つかのように言葉を切った。
その沈黙は、にとって絶好のタイミングだった。
「・・・・・・本城さん。一つ、お訊きしても良いですか?」
「どうぞ。」
「本城さんはどうして、『Venus』が欲しいとお思いになったんですか?」
率直に尋ねると、本城は僅かに驚いたような、そして困惑した表情になった。
「今日は仕事の話をするつもりじゃ・・・・」
「答えて下さい。お願いします。」
本城にそのつもりがなくても、が今日ここに来た目的は、『Venus』に対する彼の真意を問う事に他なかった。
たとえ彼が本心から母の死を悼んでくれているとしても、それとこれとは話が別、一歩も譲るつもりはなかった。
すると本城は、諦めたような顔で煙草に火をつけ、話し始めた。
「・・・・・・・私は昔、北海道でホストをしていた。自慢じゃないが、これでも結構有名でね、随分稼いだよ。当時、あの界隈で私を知らない者は居ないんじゃなかったかな。」
「・・・・・・」
「だけど色に関しては、女より男の方が遥かに欲望が強い。私はホストの仕事に見切りをつけて、更に大きな富を掴む為に、それまでに稼いだ金で『Aphrodite』を開いた。店は順調に大きくなって、支店も出来て、遂に東京にまで辿り着いた。そして、今後の拠点に銀座を選んだら・・・・・・、君のお母さんの店があったんだ。」
「・・・・・・」
「私にも経営者としてのプライドや欲がある、来たからには何としてものし上がりたかったんだ。」
「有名なお店は『Venus』だけじゃないのに、どうしてうちを・・・・・・?」
が尋ねると、本城は薄く笑って首を振った。
「地位が欲しかったんだ。」
「地位?」
「昔、銀座で『美の女神』と言えば『Venus』だった。銀座でそう言われるという事は、東京中にその名が轟いているという事だ。私は、同じ『美の女神』という名の店を持つ者として、絶対に負けたくないと思った。銀座の『美の女神』の地位を、何としても手に入れたかったんだ。」
「それでうちを・・・・・・・」
野心の強い者は、金のみならず地位をも求める。よくある話だ。
むしろ、野心が強ければ強い程、金よりも地位に固執するものかも知れない。
本城とは違う価値観を持つには、彼の話に共感する事は出来なかったが、それでも理解する事は出来た。
「だけどそれは、この間までの話だ。」
本城は煙草を揉み消して、再びに向き直った。
「この業界で、君みたいな女性に出会ったのは初めてだった。野心というものがまるでなさそうな、私や麗子ママとは全く違う何かを見ているような・・・・・。理解に苦しむと同時に、気になって気になって仕方がなかった。」
「・・・・・・・」
「先日のパーティーの夜、二人きりで話して、君が思った通りの純粋な人だと分かった。私や麗子ママが金や地位に執着して躍起になっている横で、君は危なっかしい位にまっすぐで純粋だった。気が付いたら私は、いつもなら絶対にしないお節介な忠告を君にしていた。商売敵を親身に心配したって、私には何の得もないというのに。」
自嘲めいた苦笑を浮かべながらも、本城の視線はまっすぐの瞳に向けられていた。
そう、は今、本城に見つめられていた。
肩と肩が触れ合う位の距離で、無遠慮な程にまじまじと。
しかしどういう訳か、照れや困惑といった感情が湧いて来なかった。
「だけど、不思議と損得勘定は湧いて来なかった。何だか・・・・、牙を抜かれた、とでも言うのかな。君を相手に駆け引きしちゃいけないような気になったんだ。」
本城に対して、恋愛感情や憧れがなかったというのも、多分にあるだろう。
だが、それだけではなかった。
はこの一瞬の間に、何かを悟ったような気がしていたのだった。
「今はもう、『Venus』を売って欲しいなんて思っていない。君に余計な忠告もしない。ただ、君の力になりたいと思っている。亡くなったお母さんの代わりに、私が出来る限り君を支えていきたいと思っている。」
「本城さん・・・・・・・」
彼は恐らく、何気なく口にしただけだろう。
だが、何気ない一言というのは、時にその人の考えや本心を語る。
確かに明確な根拠は何もないし、否定されてしまえばそれまでの話だが、しかしは確信していた。
「私・・・・・、私も今、どうするのが一番良いのか、考えているんです。」
「何でも相談してくれ。力になろう。」
「・・・・いえ。お気持ちは有り難いですけど。」
が首を振ると、本城は傷付いたような顔で微笑んだ。
「・・・・・それは、私を信用出来ないという事かな。寂しいな。」
「そうじゃなくて、今日、本城さんとこうして話してみて、一つ見えた気がしたんです。だから。」
「・・・・・・」
明確な根拠もなく、結論も出ていない以上、これより他に言い様がなかった。
しかしは確信し、心に決めていた。
この先、店をどうする事になろうとも、本城の手は借りない、と。
『Venus』は単なる欲望の産物ではない、母の生きていた証なのだ。
勿論、母にも金や地位に執着する気持ち、それなりの野心や欲望はあっただろうが、『Venus』は単にそれが具現化しただけのものでは断じてない。
それを理解していない本城を頼るような真似をしては、『Venus』が『Venus』でなくなってしまう。
母が全身全霊をかけて愛し抜いた『Venus』が、まるで違うものに変わり果ててしまう。
そんな気がしたのだ。
「今日、お話を聞かせて頂けただけで、私にとっては十分です。本当に有難うございました。」
結論は出ずとも、迷いは一つ晴れた。
それだけでも、今日ここに来た甲斐があったというものだ。
は丁寧に一礼すると、席を立った。
すると本城は、『待ってくれ』との手を掴んで引き止めた。
「じゃあせめて、一杯だけ奢らせてくれないか?君とはこれからも良い関係でいたいんだ。ライバルである事に変わりはなくても、良い意味で競い合ってお互いを高めていけるような、そんな関係でいたいんだ。だから、その誓いの杯という事で。」
「はぁ・・・・・、でも・・・・・・」
「いいからほら、座って座って。」
困惑するを半ば強引に着席させて、本城は酒を注文した。
程なくして2つのグラスが運ばれて来ると、本城は1つをに渡し、もう1つを自分の手に取って、軽く掲げて見せた。
「私達のこれからに。乾杯。」
「乾杯・・・・・・」
断る事は出来なかった。
店を譲るつもりはないが、Venusの今後を考えると下手に角を立てる訳にもいかず、は本城に促されるままグラスを触れ合わせ、中身を飲んだ。
「ぅっ・・・・・・!」
よりにもよってきつい酒だった。
しかし本城は、まるで水でも飲むようにグイグイと飲み干していく。
この1杯の意味合いを考えると一舐めして終わる訳にもいかず、かと言って彼のように軽く飲み干す事も出来ず、は顔を顰めて四苦八苦しながら、本城の何倍もの時間をかけてどうにか3分の1程度の量を飲んだ。
「ご・・・・、ご馳走様でした・・・・・・」
「ははは、少しきつかったかな。」
「いえ・・・・・・・」
口先で否定はしてみても、平気な振りにすらなっていないのは自分でも分かる。
心臓が早鐘を打ち、喉から点いた火が全身を駆け巡っているようだ。
「この酒は、確かに少々きついが香りが抜群に良くて、私の一番好きな酒なんだ。是非君にも味わって貰いたかったんだが、何だか無理強いしたようで悪かったね。」
「いえ、大丈夫です・・・・・、済みません・・・・・・」
「水、飲むかい?」
「どうも・・・・・・・」
本城はウェイターに水を1杯注文すると、不意にの顔を見て吹き出した。
「あ、あの、何か・・・・・?」
「顔。真っ赤になってる。」
「え!?そ、そんなに?」
頬を押さえて動揺するに、本城は笑いながら『かなり』と答えた。
一体どんな顔になっているのだろうか。
こんな風に笑われては、今すぐ確認し、白粉の一つもはたかずには居られない。
はバッグを掴み、ソワソワと席を立った。
「済みません、私ちょっと・・・・・」
は小さく頭を下げ、そそくさと化粧室に向かった。
が出て行ったのとほぼ入れ替わりに、ウェイターが本城の元に酒か水と思われる無色透明の液体が入ったグラスを運んで来た。
本城が不可解な行動に出たのは、そのすぐ後の事だった。
「・・・・・・・うん?」
「・・・・・・・何だ?」
本城はそのグラスを受け取りはしたが口をつけようとはせず、ウェイターが去った後、スーツの上着の内ポケットから小さな紙包みを取り出し、中の粉末を混ぜ入れたのだ。
「おいデスマスク、今の見たか?」
「ああ、バッチリな。」
二人は油断のない表情で目を見合わせた。
尚も様子を伺い続けてみても、本城は相変わらずそのグラスの中身を飲もうとはしない。
そればかりか、の席の前に置いたではないか。
つまり本城は、得体の知れないものを混ぜ入れた飲物を、に飲ませる気なのだ。
それ以外には考えられない。
二人は無言で席を立つと、本城に歩み寄って行った。
「おい。今、そのグラスに何を入れた?」
「な、何だお前達は!?」
只でさえ眼光の鋭いシュラが益々険しい目付きで詰め寄ると、本城は若干怯みながらも負けじとシュラを睨み返した。
「いきなり他人の席に割り込んで来て不躾な事を・・・・・。何の話か分からんな。」
「俺等は見てたぜ、バッチリ。テメェがこのグラスに怪し〜いナニかを入れたところをな。」
「何の話か分からんと言ってるだろう。」
デスマスクが例のグラスを掲げてみせても、本城はとぼけ続けた。
「これ以上訳の分からん因縁をつけるつもりなら、警察を呼ぶぞ。」
「ああ是非呼んでくれ。俺達はこう答えるだけだ。お前が、連れの女が席を外した隙にグラスに何かを仕込み、女の席に置いたのを目撃した、と。」
「俺らの言う事が本当かどうかは、警察が調べて判断してくれるだろうよ。」
しかし、シュラとデスマスクが脅しに屈せず平然と受け答えると、本城は顔色を変えた。
「オラ、どうしたオッサン?呼ばねぇのか、警察?」
「っ・・・・・!」
「このグラスに何を入れたんだ?言え。」
二人が更に詰め寄ると、本城は目に見えて狼狽し始めた。
「クソッ・・・・・、一体何なんだお前達は!?」
「只の善良な目撃者だ。さあ言え、何を入れた?」
「言えねぇなら、テメェでこの中身、飲んで見せてくれよ。」
厳しい表情のシュラと冷笑を浮かべるデスマスクに追い詰められて、本城は目を泳がせた。
「どうした?飲めねぇのか?テメェで飲めねぇようなモンを女に飲ませようとしてたって事か?」
「ぐっ・・・・!」
「毒か?それとも麻薬か?はたまた・・・・・・、一体何だろうな。」
と、二人が畳み掛けたその時、が戻って来た。
「え・・・・・・、シュラ!?デス!?何でここに!?!?」
は目を丸くして驚いたが、男3人の雰囲気が只ならぬものである事を悟り、不安げな表情になって二人に『どうしたの?』と小声で尋ねた。
しかし二人はそれには答えず、本城をじっと見据えたままだった。
「さあ、言え。に何を飲ませる気だった?」
「一服盛って、コイツをどうするつもりだったんだよ?」
「え・・・・?え・・・・・?何って・・・・・、一服って・・・・・、どういう事?ねぇ?」
は益々不安を募らせ、シュラとデスマスクの腕を交互に軽く揺さぶった。
周囲では、この席の異変に気付いた他の客や店の従業員達が、何事かと遠巻きに眺め、ざわついている。
本城はその隙を突くようにして、突如駆け出した。
「あっ!ほ、本城さん!?」
「・・・・俺に任せろ。」
「ちょっ・・・・、シュラ!?」
そして、その後を追ってシュラも。
残されたは、呆然とデスマスクの顔を見た。
「ねえちょっと・・・・・、一体何があったの?」
「説明はしてやるけど、後にしようぜ。ここじゃ話せねぇだろ。周り見てみろよ、ジロジロ見られてんぞ。」
「そ、そういえば・・・・・・。な、何で?本当に何があったの一体・・・・?」
「ビクビクすんな、落ち着いて堂々としてろ。別に暴れたりした訳じゃねぇんだ。とっとと金払って出て行きゃ、警察沙汰にはならねぇよ。取り敢えず、女神のお屋敷に引き上げんぞ。話はそれからだ。」
「う、うん・・・・・・」
デスマスクは、狐につままれたような顔をしているの腰をさり気なく抱いて、颯爽とにその場を去ろうとした。
「・・・・・・・ちょっと待てよ。」
だが、ある物が彼の歩みを阻んだ。
― ・・・・・・・ここの支払い、もしかして全部俺持ちか?
そう。
それは、自分とシュラ、そしてと本城、2席分の伝票だった。