絆 35




「『へ』・・・・・・、これだわ・・・・・」


ムウの声とドアがノックされる音を聞きながらも、は今、母の机の引き出しから探り出した一通の手紙を食い入るように読み始めていた。






突然の事で驚いているでしょうね。
今頃、貴女にはきっと随分迷惑を掛けている事だろうと思います。
そして、スタッフ達にも。
病気の事、最期まで黙っていてごめんなさい。
弱みを見せたくなくて、ずっと隠していました。弱みを見せては、この世界渡っていけませんから。
スタッフ達には、迷惑を掛けて悪かったと、貴女から謝っておいて下さい。

私は3年前、子宮癌に罹りました。
その時は一応手術を受けましたが、去年の秋に再発が分かりました。
どうやら私は病気を克服しきれなかったようです。
相変わらず一向に生活を改めなかったからか、それとも罰が当たったのか、多分両方でしょうね。

3年前、子宮を失って、初めて私は貴女の事を思い返しました。
命をこの世に生み出しておきながら、育て上げずに無責任に捨てた罰が当たったのだと、そう思いました。
それまでの私は、惨めな暮らしに戻りたくない一心で死に物狂いでしたから、正直、貴女の事を思い出す暇もありませんでした。
でも貴女もきっと、私の事など覚えてはいないだろうし、思い出す事もないだろうと思っていました。

私はいつか、貴女に言いましたね。
お互いが生きて這い上がる為に、貴女を捨てたのだと。
それ自体に偽りはありません。当時の私は、確かにそう考えていました。
ただ、今頃になってようやく気付いた事があります。
それは私の無責任な思い込みだったんだ、と。

お互いが生きて這い上がる為に、といっても、私は貴女の行く末など全くと言って良い程何も考えていませんでした。自分の事だけで精一杯でした。
貴女の事は、施設にさえ預ければその内誰かの養子にして貰えるだろう、そんな程度にしか考えていませんでした。
だけど去年、貴女を探して星の子学園を訪ねた時、園長先生からそれまでの貴女の事を聞いて、私は驚きました。
貴女は何処にも養子に行かなかった。
裕福な里親の下で贅沢な暮らしをするどころか、貴女は自分で学校を出て、ずっと一人で、
自分で生活していたんですね。
あんな何の役にも立たない安物のオモチャのバッグを大事にしながら。
そんな事、何も知りませんでした。思ってもみませんでした。

私ほど『母親失格』という言葉が相応しい女は、多分居ないでしょう。
私は本当に身勝手でした。
貴女を産んだのも、いつか言った通り、産むしかなかったからでした。
親になる覚悟なんて出来ていませんでした。
自分もどうなるか分からないのに貴女の人生までも背負う自信がなくて、決定的に親になるのが怖くて、出生届も出せなかった卑怯で身勝手な女でした。

貴女には、もう二度と会うつもりはありませんでした。
ずっと一人で生きていくつもりでした。
その考えが変わったのは、癌の再発を知った時でした。
貴女は多分、こう思っている事でしょうね。
私が今になって貴女を探し、一緒に暮らしたいと望んだのは、結局は最期を看取って貰いたかっただけなんだろう、と。
死を間近にして不安に耐え切れず、身勝手にも貴女を頼ったんだろう、と。
ですが、それは違います。信じて下さい。

再発を知った私は、一切の治療を拒否しました。
放っておけば余命は半年程度だと宣告されましたが、医者の言う通りに治療を受けても治る見込みはなさそうでしたし、心の何処かで『これが私の天命だ』と思ったのもあって、私の気は変わりませんでした。
残された時間がいよいよ長くないと分かった瞬間、私が望んだ事は、命の長さに拘る事ではなく、私が生み出したものへの責任を果たす事でした。
私がこの世に生み出した2つのもの、Venusと貴女に対して。

Venusは、必要としてくれるお客様やスタッフ達の為にも、今のまま変わらずに存続させる、それがオーナーとして果たすべき責任だと思いました。
そして、貴女を捨てて手に入れたものが『Venus』であり、貴女を踏み台にして得たものが今の人生ならば、Venusは貴女の手にと、そう思いました。
私はもう今更どんな事をしても貴女の母親にはなれないし、過ぎてしまった時間も戻りませんが、
本来なら貴女に捧げるべきだった時間で得たものはせめて貴女に還そう、私の人生そのものである『Venus』を貴女に捧げよう、それが私に果たせる生みの母としての唯一の責任だと思ったのです。

貴女に何も話しておかなかったのは、余計な事を考えて貰いたくなかったからです。
私は貴女の世話になりたいのではなく、ただVenusをどうしても貴女に受け取って貰いたいだけ、
ただ自分の果たすべき責任を果たしたいだけだったんですから。
頑なに店を手放さなかったのも、そして、今更『親子』や『血の繋がり』なんて白々しい言葉を使ってまで貴女を縛りつけ、強引に店に引き込んだのも、全てはその為です。
貴女を厳しく仕込もうとし、No.1になれと発破をかけ続けたのも、スタッフ達に不満や不信感を持たれては、私が居なくなった後の貴女の立場が苦しくなると考えての事でした。
傾いた店を押し付けられても迷惑なだけだ、と言われれば返す言葉もありませんが、
それでも私はどうしても貴女に店を譲りたかったのです。
何も母親らしい事をしてこなかった女が唯一遺せるものが、それだけなのですから。

Venusは私が人生を懸けて築き上げてきた唯一の財産、私の生きてきた証、
貴女を生んだ女の全てです。
どうか受け取って下さい。
貴女に掛ける迷惑が最小限で済むよう、出来る限りの準備はしてあります。
相続に関する一切の手続きは、同封してある名刺の事務所に既にお願いしてあります。
これを読み終わったらすぐに連絡して下さい。
葬儀は出来るだけ無駄を省いて、内輪でささやかに簡潔に済ませて下さい。
お墓も建てなくて結構です。弔いに関しては、私には何の拘りも興味もありませんから、万事、貴女の都合の良いようにして下さい。
また、服や宝石など私の身の回りの品も、貴女が欲しい分を除いて全部売ってしまって構いません。
少々の足しにはなると思います。

最期にもう一言。
貴女の母親になれなかった事、どうか許して下さい。


 節子






文末のサインは、母の本名だった。
記されている日付は、彼女が初めて店で倒れて病院へ運ばれた日の直前になっていた。
彼女は一体いつこんなものを書いていたのだろう。
この日付の日に、一気に書き上げたのだろうか。
それとも、何日にも渡って、少しずつ少しずつ書き進めていったのだろうか。
病気の事をひた隠しにして気丈に振る舞いながら、少しずつ人知れず、死ぬ準備を整えていったのだろうか。


「ママ・・・・・・・・」

は母の遺書を握り締めると、部屋を出た。
そして、ドアのすぐ向こうで心配そうな顔をして立っていたムウに、『今すぐ病院に戻るわ』と告げた。


「今すぐって・・・・・・、ちょっとお待ちなさい。」

が横をすり抜けようとすると、ムウはその腕を掴んで止めた。


「放して、お願い。」
「放しませんよ。そんな青い顔をして足元をふらつかせたまま駆けつけてどうしようと言うんです。貴女が倒れでもしたら、それこそお母様はどうなるんですか?」
「大丈夫よ。私、身体だけは丈夫なんだから。」

微笑んで見せても、ムウの厳しい表情は変わらなかった。


「駄目です。せめて食べる物を食べてからにして下さい。老師からはまだ何も報せは入っていませんから、今はひとまず安心して、気を落ち着かせて・・・」
「良いから行かせて!」
「行かせません!!」

焦燥感に駆られたは苛立ち、ついヒステリックに叫んでしまった。
だがムウは、そんなを逆に一喝し、腕を握る手に益々力を込めた。
いつもの冷静沈着で物静かなムウからは考えられないような強引さで阻まれたは、思わず身を固くし、呆然と彼の顔を見つめた。


「万が一の報せが入った場合は、この私が必ず責任を持って病院まで送り届けます。私を信じて下さい。」
「・・・・・・ムウ・・・・・・・」

穏やかで思慮深い、その口調と瞳。
ムウは無責任に安請け合いをする人間ではない、そんな事は分かっていた。
信じていなかった訳ではない、ただ、焦りすぎて周りが見えていなかったのだ。
力になってくれようとしている、優しい人の気持ちが。


「さあ。」
「うん・・・・・・・」

はそれまでの勢いを失くすと、ムウに肩を抱かれるまま、大人しくリビングに戻った。
リビングのテーブルの上には、ムウの作った食事が既に並べられていた。
野菜や卵の入ったリゾットのようだ。
人の温もりのような優しい湯気の立つそれを見ていると、限界にまで張り詰めていた心が少し緩んだ気がした。
正直、食欲はなかったのだが、はムウ勧められるままそれを口に運び始めた。


「・・・・・・・・急にどうしたのです?」

ゆっくりと噛み締めて食べていると、それまで黙って見守っていたムウが静かに口を開いた。
はスプーンを置くと、握り締めてクシャクシャになってしまった手紙をムウに手渡した。


「・・・・母の遺書。」
「遺書?・・・・・見つけたんですか?」
「前に・・・・・、母から言われていたのを思い出したの。いよいよになったら読んでくれって。」
「私が読んでも宜しいのですか?」

頷くと、ムウは手紙を開いて読み始めた。
黙ったまま手紙の文字を目で追う彼をぼんやりと見つめながらも、の心は病室で眠る母親の元へと飛んでいた。
消えゆく命は、どうにも出来ない。
ならばせめて、最期に話がしたかった。
母の遺書を読んで、ようやく分かったのだ。
長く空白だった二人の時間、失われた親子の時間を取り戻したいと強く切望していたのは、多分母よりも自分の方だったのだ、と。













「おお、。早かったのう。」

食事を済ませ、付き添いの準備を整えてムウと共に再び病院へ戻ってみれば、童虎が正面玄関の前で待っていた。


「母御はまだ目覚めんようじゃ。一応は落ち着いておるようだが・・・・・。」
「有難う、童虎・・・・・・。でもどうして外に居るの?」
「少し前に、お主の店の者達が来てのう。」
「そう・・・・・・・」
「お主が来るまで居ると言っておった。早う行ってやるが良い。」
「うん。」

童虎に促され、は一人で病室に戻った。


「マネージャー、梓さん、皆さんも・・・・・・」

着いてみると、マネージャーや梓、そして他の従業員数名が、依然として目を覚まさないの母親を悲痛な面持ちで見守っていた。


「済みません、一度着替えに帰っていたものですから・・・・・・」

が小さく頭を下げると、マネージャーはしんみりとした口調で呟いた。


「梓ちゃんから聞いたよ。まさか君がママの実の娘だったとは知らなかった・・・・・・」
「・・・・・今まで黙っていて、済みませんでした。」
「いや、別に責めている訳では・・・・・・・」

マネージャーは、俯いて黙り込むを前に暫く困惑した表情を浮かべていたが、やがて優しい微笑を浮かべた。


「・・・・・さて、ちゃんも戻って来た事だし、私はそろそろ失礼させて貰うよ。ずっとついていてあげたいのは山々なんだが、店の準備があるから。新オーナーの就任パーティーが済んだ早々、休業する訳にはいかなくてね。悪いね、何も手伝ってあげられなくて。」
「とんでもありません。こちらこそご迷惑をお掛けします、済みません・・・・・」
「私達も、これで失礼するわ。」
「梓さん、皆さんも、本当に済みません。済みませんでした・・・・・・」

は帰る素振りを見せた店の者達に、再度深々と頭を下げた。
すると梓は、振り返って行った。


「こっちからも連絡するけど、何かあったらいつでも連絡して来て。」
「はい。」
「店の事は気にしないで。お客さん達にはこっちでうまく誤魔化しておくから。」
「有難うございます、お願いします。」
「それから・・・・・、実の娘さんにこんな事言うのも変だけど・・・・・、ママの事、お願いね。」
「・・・・・・・はい。」

梓の顔は、きちんとメイクは施されているものの、何となく憔悴して見えた。
彼女がどんな気持ちで帰って行くのか、それを思うと、は居た堪れない気持ちになった。
しかし、今すべき事はただ一つ。
任せてくれた店の者達の為にも、母の最期を見届ける事。

それだけだった。
















昼を回り、夕方が来て、やがて夜になった。
日中は人の出入りが激しかった病院も、今はしんと静まり返っている。
そこに人目を忍ぶようにして、一人、二人と男がやって来た。
暫くして、また一人、二人。
そしてまた。
もう診察も面会も出来ない時間だというのに、続々と。


「・・・・・・何だ、結局全員集合か。」

サガは勢揃いした黄金聖闘士達に、苦笑を浮かべて見せた。
今夜の付き添いはサガ一人の予定だったのだが、どうやら他の者達もわざわざ付き合いに来てくれたようだ。
城戸邸の暖かいベッドと、寒くないとはいえ吹きさらしの屋外、夜を過ごすのにどちらが快適かは考えるまでもないというのに。


「女神のお屋敷でじっとしていても、気が落ち着かなくてな。」
「どうせ同じやきもきするなら、の近くでやった方が、まだ幾らか意味のある気がしてね。」

シュラやアフロディーテが、同じように苦笑を浮かべた。


「・・・よし、ならば今夜は、全員ここで夜明かしといくか。」

サガの言葉に、一同は静かに微笑んで頷いた。



付き添いと言っても、は何も知らない。
全ては黄金聖闘士達の独断でやっている事だった。
長く離れ離れだった母と娘の残り僅かな時間を邪魔したくはなかったが、
死を間近にした母親と一人で向き合っているのすぐ近くに、せめてついていてやりたかったのだ。

彼等は一晩中、外から病院を見つめていた。
身体は側に置けなくても、その心はに添わせていた。
また朝が来て、日が高く昇っても、彼等は病院の側から離れなかった。
時折、交代で抜け出して買い出しに行き、飲み物やパンなどの簡単な物を口にしながら、彼等はその場に居続けた。







「・・・・・もう夕方か・・・・・・・」

ぽつりと呟いたアルデバランは、オレンジ色の夕陽を受けてきらめく病棟の窓ガラスを、目を細めて眺めた。
今のところ、からはまだ何も連絡がない状態である。
まだ何事も起きていないから連絡がないのだろうが、自身は大丈夫なのだろうか。
アルデバランはそれが気に掛かって仕方がなかった。
『ちょっと様子を見て来たい』と言えば皆に止められるだろうかと暫し考え込んでいると、
唐突にカミュが話し掛けてきた。


「・・・・・、今日は一歩も外へ出て来ていないようだな。」
「あ、ああ、そのようだな・・・・・。」
「子供ではないのだから余計な心配なんだろうが・・・・・・、食事くらいはちゃんと摂ったんだろうか。」
「・・・・お前も気になるのか?」

同志を得たり。
アルデバランは一瞬目を丸くしてから、嬉しそうな笑みを浮かべた。


「実は俺もさっきから気になっていてな、ちょっと様子を見て来る!」

言うが早いか、アルデバランは『善は急げ』とばかりに駆け出して行った。
そして、突撃の口実に病院内の自動販売機で買ったジュースを携えての母親の病室に辿り着いたのは、それからものの何分と経たない内だった。



・・・・・・」

は椅子に腰を掛けて、夕陽を灯にクシャクシャの手紙を読んでいた。
疲労困憊という様子ではなかったが、その表情が余りにも切なげで、アルデバランは思わず唇を噛み締めた。


「・・・・・一息ついたらどうだ?ほら、差し入れだ。これでも飲んでちょっと肩の力を抜け。」
「有難う・・・・・・・」

持って来たジュースを差し出すと、は微笑んで受け取り、一口二口と飲んだ。


「・・・・腹は?減っていないか?」
「うん、大丈夫。」
「ちゃんと食べたのか?」
「うん。お昼に売店でパン買って食べたから平気。」
「そうか。」

の様子は落ち着いており、アルデバランを安堵させた。
だが、母親の方は相変わらずな状態のようだった。


「・・・・・もう夕方ね。」
「ああ。」
「もうすぐ丸2日になっちゃう・・・・・・・・」
「もうそんなになるか・・・・・・」

ここに担ぎ込まれてからもう丸2日が過ぎようとしているのに、彼女が目を覚ましそうな気配は依然としてなかった。
このままの状態であと何日、或いは何時間、もつだろうか。
そしてその後は?
血を分けたたった一人の娘に何一つ言葉を掛けてやれないまま、彼女は逝ってしまうのだろうか?
アルデバランは、無念そうに唇を噛み締めた。


「このまま・・・・・・・、目が覚めないのかしら・・・・・・」
・・・・・・・・」
「このまま・・・・・・、何も話せずにお別れする事になるのかな・・・・・・・」

それではの母親も、も、余りにも気の毒だ。
今にも消えようとしている命の灯火を再び燃え盛らせる事は出来なくても、せめて最期に一言くらい、交わさせてやりたい。
医者も薬もあらゆる医療機器も、何の役にも立たないのなら。


「・・・・・・ちょっと待ってろ。」

アルデバランはを一人でその場に残すと、仲間達の元へ足早に戻った。
そして、黄金聖闘士達全員を引き連れて、再び病室を訪れた。



「ど、どうしたの!?皆して・・・・・・」
「私達の小宇宙を、母上に与えてみる。」
「え・・・・・・・!?」




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後書き

前回から引き続きまして、ムウ様ドリームの後編をお送りしました(笑)。
ここは何となくムウの出番だという気がしたのでモリモリとムウを出してみたところ、
ムウの独壇場っぽくなってしまいました。