絆 30




翌日の面会開始時刻になるとほぼ同時に、は早速母の身の回りの物を一揃い持って病院へ向かった。



「どうですか、お加減は?」
「ええ、随分良いわ。何なら今からでも退院出来そうな位よ。」

病室のベッドに身を起こしている彼女は、確かに昨夜の苦しみ様からすれば随分回復したように見えたが、それでもまだ青い顔をしていた。


「でも、幾ら何でも昨日の今日じゃ・・・・」
「ふふ、分かってるわよ。幾ら何でもそれは先生が許してくれそうにないし。でも、少し休んだらすぐ退院するつもりよ。こんな辛気臭い所に長居してると、気が滅入って治るものも治らないわ。」
「それはまあ・・・・・、気持ちは分かりますけど・・・・・・・」

病院が大好きで、病室に居るとホッとする、という人間は多分少ないだろう。
彼女の気持ちは良く理解出来るし個人的にも同感なのだが、だからと言って昨日の今日で早速にも退院したがっている彼女を煽り立てるような迂闊な事も言えずに言葉を濁すと、彼女は目を細めて微笑んだ。


「わざわざ朝早くから有難う。お陰で寝不足でしょ?帰ってゆっくりしなさい。夜はまたお店なんだし。」
「でも、ついてなくて大丈夫ですか?」
「フフ、子供じゃあるまいし。貴女だって、1日中こんな所でボーッとしてても仕方ないでしょう。私は大丈夫だから、もう帰りなさい。」
「じゃあ、また来ますから・・・・・・。何かあったら、いつでも連絡して下さい。」
「はいはい。じゃあね、気をつけて。」

母に追い出されるようにして、は早々に病院を後にした。







ともかくひとまずは落ち着いたようで良かった、などと思いながら、はのんびりと歩いて帰途を辿っていた。
日本に帰って来てからというもの、すっかり夜型の生活になっていて、こうして日中に散歩などするのは実に久しぶりの事である。
うららかな陽気を浴びながら体を動かしていると、頭がスッキリしてきて、今まで気付かなかった事に色々と気付かされる。
空が少し青さを増して高くなっている事や、いつの間にか薄紅色の桜の花が散って、青々とした葉桜に変わっている事などに。
そう、季節は春を通り過ぎ、初夏へと移り変わろうとしているのだ。
このコンクリートで固められた街の中にも、良く目を凝らせば季節の移り変わりのサインがちらほら見受けられる。

それを1つ、また1つと見つけながら歩き、自宅のマンションがすぐ目前に見えてきた時。



「・・・・・・さん。」
「え?」

誰かに呼び止められた気がして、は辺りを見回した。
しかし、辺りには誰も居ない。
道の片隅に、黒塗りの車が1台、停まっているだけだ。
すると、その車のドアがおもむろに開き、中から人が降りて来た。
その人を見て、は目を大きく見開いた。


「・・・・・・沙織ちゃん!?」
「ご無沙汰しております。」

その人・城戸沙織は、唖然としているに向かってはにかんだ。



















「お待たせ〜。どうぞ、楽にして寛いでね。」

2人分の紅茶のカップを載せたトレーを持ってリビングに戻って来ると、沙織は窓の向こうに投げかけていた視線をに向けた。


「有難うございます。素敵なお部屋ですわね。」
「有難う・・・・・って私、居候なんだけどね。」

はクスクスと笑いながら、ソファに腰掛けている沙織に紅茶を差し出し、自分も沙織と向かい合わせになるように座った。


「でも、本当に驚いたわ。まさか来てくれるなんて思わなかったから。」
「・・・・・さんに、お手紙のお返事をどうしても直接口で伝えたくて。」
「手紙?あの、童虎に預けた手紙?」
「ええ。」

沙織が頷くと、は恥ずかしそうに笑った。
あの手紙の内容に偽りはないが、こうして面と向かって口に出されると、どうにも照れ臭かったのだ。


「一方的な手紙だったでしょ?返事なんて求めてなかったから、本当に好き勝手書いちゃって・・・・・。ごめんなさい。」
「謝らないで下さい。私は嬉しかったのですから。」
「え・・・・?」

しかし沙織の笑みは、のそれとは違っていた。


「嬉しかった・・・・・。さんが、私の事を妹だと・・・・・家族だと思って下さるのが。貴女にそう思って貰えたらどんなに良いだろうかと、私も思っていましたから。私も・・・・・・・、貴女に家族の安らぎを求めていましたから。」
「沙織ちゃん・・・・・・・」
「それに、一方的というなら、私の方こそが正にそうでした。あんな言い方しか出来ない私を、嫌うどころか家族だと言って下さった貴女に、いつかまた会えたらどうしても自分の口で言いたかったのです。・・・・・・有難う、と。」

沙織の微笑みは、どこまでも真摯だった。
だから余計に照れ臭くて、は益々明るい声を出して笑った。


「・・・・い、嫌ね〜、そんな事でお礼言わないでよ〜!も〜、そんな真剣な顔しちゃって!久しぶりに会ったんだから、もっとパーッと明るく笑ってよ!ねっ!?」
「・・・・ふふ、そうですわね。」

沙織が楽しそうに目を細めたのを見て安心してから、はハッと気付いた。


「・・・・・って、ちょっと待って。ここの住所ってどうやって知ったの?調べた?それとも・・・・」
「黄金聖闘士達から聞きました。」
「・・・・・・じゃあもしかして、あの人達が最近こっちに頻繁に来てた事も・・・・」
「存じております。様子がおかしかったので、問い質して聞き出しましたの。」
「聞き出した、って・・・・・」
「ええ、全てを。貴女の置かれている今の状況、大体は把握しているつもりですわ。」

久しぶりに会ったのだから、もっと明るく笑って。
つい今しがた自分自身で口にした言葉が、の耳の奥で虚しく響いた。






「お店の次期オーナーになられるそうですね。まずはおめでとうございます。」
「・・・・・有難う。だけど実は今、それどころじゃない騒動が起きて・・・・」

つい昨日起きたばかりの母の入院騒動の件を話して聞かそうとしたその瞬間、沙織が先に口を開いた。


さんがオーナーになる事が決まった矢先に、ライバル店『Aphrodite』のオーナーがお店に現れて、そして昨夜、お母様が病院に運ばれた。」
「知ってたの!?・・・・・あはは、全部筒抜けなのね・・・・・・。」

が思わず苦笑すると、沙織は申し訳なさそうに顔を曇らせた。


「ごめんなさい。嗅ぎ回るような真似をして。ですが、どうしても気になって放っておけなくて・・・・・・。本当は色々ともう少しはっきりしてから、さんに会いに来ようと思っていたのですが、お母様の話を聞いて、居ても立ってもいられなくなったものですから・・・・・・。」
「そう・・・・・・、有難う。心配してくれて。」
「お母様のお加減は如何ですの?」
「胃炎だって。疲労とか貧血とか、色々重なってるみたいだから、少し入院しなきゃいけないみたいだけど、取り敢えずは元気そうにしているわ。」
「そうでしたか。大事に至らなかったようで何よりですわ。」

沙織はひとまず安堵したように微笑んだが、すぐに真剣な表情に戻った。


「ですが、さんもくれぐれもお気をつけ下さいね。」
「うん、有難う。でも私は大丈夫よ。何たって元気だけが取り得だし!」
「いえ、お体の事も勿論ですが、それだけではなくて、ビジネスの面でも。」
「ビジネス?・・・・って、店の事?」

沙織は頷いてから、一つ一つ確認するようにゆっくりとした口調で話し始めた。


「Aphroditeはこれまで、Venusの営業を妨害し続けて来た。問題になって自分の店が不利にならないように、敢えて間接的なやり方で時間を掛けて。その結果、Venusの経営は悪化の一途を辿る事になり、今ではもう風前の灯火。借金も随分かさんでいるようですね。」
「・・・・・・」

確かに、沙織の言う通りだった。
これまでVenusとAphroditeとの間に起きた確執の具体的な内容は、自身もそう詳しくは知らなかったが、Venusの現在の経営状態についてはその通りだった。


「そんな中、さんが新しいオーナーになる事が決まり、昨夜、ライバル店のオーナーがお店に現れた。向こうにしてみれば、オーナー交代で混乱するこの時期が、『Venus』を完全に破綻させる絶好のチャンスです。何か良からぬ話をされたのではないですか?・・・・例えば、脅しのような。」
「脅しなんて何も・・・・・。それらしい事は何も言われなかったわ。ただ・・・・」
「ただ?」
「店を・・・・・・、売ってくれと言ってきたわ。私にじゃなくて、母にだけど。」
「お店を・・・・・・・、そうですか・・・・・・・。」

沙織は暫し何事かを考え込んでから、に尋ねた。


「それで、お母様は何とお返事を?」
「母は頑として応じなかったわ。私にもそうしろって。だけど・・・・・・」

言い掛けて、は口を噤んだ。
幾ら次期オーナーだの何だのと言われても、その実感がまるでないままに、どうして店の先行きを決める事が出来るだろうか。
幾ら全ての権限を譲ると言われていても、そんな権利が本当に自分にあるとは到底思えないのに、どうして。


「・・・・・・さんが、自ら進んで今のお仕事に就いた訳ではないらしいという事は、彼等から聞いています。お店のNo.1になった事も、オーナーになる事についても、余り嬉しそうではなかった、と。・・・・・・そして、その気持ちは今もまだ変わらない。違いますか?」
「・・・・・・・」
さんの本心はどうなのですか?」
「・・・・・・・・分からないの、自分でも・・・・・・・・・」

にはそう答えるのがやっとだった。
自信も実感もないままに、周りだけがどんどん動いていく今の状況では。


















屋敷に戻った沙織を、二人の男が恭しく出迎えた。


「お帰りなさいませ、女神。」
「如何でしたか?」

その二人、ミロとカミュに出迎えの労を労ってから、沙織はから聞いて来た話の報告を始めた。


さんのお母様はひとまずご無事のようでした。胃炎とお疲れが重なって、少し入院なさるそうですが。」
「そうですか、それは良かった。安心しました。昨夜、病院に運ばれてからあの後どうなったのか、ずっと気に掛けておりましたから。」
「大事に至らなかったようで本当に何よりです。もさぞ安堵していた事でしょう。」
「ええ。」

安堵の笑みを見せたミロとカミュに、沙織もまた微笑でもって答えた。


「貴方達もご苦労様でした。昨夜からずっと眠らずに待っていたのでしょう?聖域に帰る前に、少し仮眠を取っていったらどうです?」
「お気遣い有り難く存じますが、どうかご心配なく。これしきの事で疲れるようでは、黄金聖闘士は務まりませんので。」

カミュは、沙織の厚意を丁重に断った。
確かに昨夜は、ミロと二人で『任務』に当たったきり一睡もしていないが、一晩の徹夜くらいでどうにかなる程、二人共ヤワではない。
それよりも二人は、早く聖域に帰って、首を長くして待っている連中に報告をしてやりたいと思っていたのである。


「して、昨夜Venusに現れたあの男、Aphroditeのオーナーが何をしに来たのか、お聞きになれましたか?」

ミロが尋ねると、沙織はコクリと頷いた。


「ええ。Aphroditeのオーナーは、さんのお母様に店を売るように言って来たそうです。尤も、彼女は応じなかったそうですが。」
「そうですか・・・・・・・」
「単にVenusを潰す事だけが目的ではなく、手に入れたかったという訳ですか・・・・・・。」

沙織の話を聞くと、カミュもミロも、複雑な表情を見せた。
何故なら、Venusのめぼしい客と従業員は殆ど全て、既にAphroditeに移ってしまっているのだ。
大方吸い尽くして抜け殻にも等しくなってしまったVenusの店を今更わざわざ買い取って、その決して安くない投資額に見合うだけの特筆すべきメリットが果たしてあるのか、二人には理解し難かった。


「オーナーの本城毅という男は、昔、北海道屈指の歓楽街で上り詰めたホストだった。その彼が現役を引退して地元で立ち上げたのが『Aphrodite』。店はどんどん大きくなり、幾つか支店が出来るまでになった。そして遂に東京へと進出して来て、本店を銀座に移転させた・・・・・と、調査の結果はこうなっているのですが・・・・・」
「Venusをライバルと見なしている事は確実でしょうが、何故そこまでVenusに拘るのかが解せませんな。トーキョーには星の数程も同じような店があり、名店と謳われる店はVenus1軒だけではないでしょうに。」
「私も同感だ。何故Venusだけを執拗に狙うのだろう。」

沙織、ミロ、そしてカミュは、揃って首を捻った。


「ともかく、一つ確実なのは、そのホンジョウという男がいけ好かない男だという事だけですな。女を食い物にして得た金で店を構え、今度は女に男を絞らせ、その上前をはねてまた金を稼ぐ・・・・・、ろくでもない奴だ。」
「控えろ、ミロ。うら若き乙女の前で話す話ではないぞ。」
「良いのです、カミュ。」
「は・・・・・・」
「何にしても、まず第一に優先されるのはさんのお気持ちです。私達は、今の私達に出来る事をしながら、さんが何らかの答えを出すのを待つしかないのです。」
「ご尤もです。」

カミュが畏まると、沙織はほんの僅か何事かを考えるように間を置いてから、再び口を開いた。


「私はAphroditeの調査を進めます。それから、財団の管轄の部署に掛け合って、Venusの買収を打診してみます。」
「あの店をお買いになるおつもりですか!?」

驚くミロに、沙織は頷いてみせた。


「場合によっては。尤も、この件に関しては財団としてのビジネスになりますので、結果が出るには暫く時間が掛かりますし、私の要望が全て通る保証もないのですが、出来る限りの事はしてみます。貴方がた黄金聖闘士には、引き続き交代でVenusの見張りと、さんの身辺警護をお願いします。何かあったらすぐに私に報告するように。」
「御意。」
「お任せ下さい。」

ミロとカミュは沙織の足元に跪いてから、ふと顔を上げて表情を和らげた。


「ときに女神、は我々が側に張り付いている事に気付いていましたか?」
「いいえ。全く。」

沙織がミロの質問に答えると、二人は小さく笑った。


「フッ、やはり。」
「だと思いました。」

苦笑するミロとカミュに釣られて、沙織もほんの一時、微笑みを浮かべた。
しかしそれはすぐに消え、沙織はまた真剣な表情に立ち返り、二人に命じた。


「これからも、こんな調子で『それとなく』警護を続けて下さい。私の取り越し苦労で終わるかも知れない事で、無用にさんを怯えさせたくありませんから。」
「心得ております。」
「もし本当にAphroditeがを狙うような事があっても、我々がついている以上、万に一つの間違いも起きはしません。ご安心下さい。」

その命を、カミュとミロは真摯に請け負った。
取り越し苦労、骨折り損で終わるなら何より。
ただの人生を迷いなく歩いていけるように、ほんの僅かにでも間接的にでも力を貸したい。
それが、この二人を含めた黄金聖闘士達全員の気持ちだった。




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後書き

女神とヒロインの再会の巻、でした。
お久しぶりの黄金聖闘士もやっと登場です!
・・・・・といっても、ヒロインとの絡みはありませんが(滝汗)。