運良く、それから数分と経たない内にタクシーが到着した。
は、梓と共に両側から母を抱えるようにして支えて外に出た。
「さん、あと頼むわね!」
の母を乗せた後、梓は当然のように一緒に乗り込み、を置いて行ってしまおうとした。
しかしにしてみれば、「はいそうですか、行ってらっしゃい」と送り出せる訳がない。
「ちょ、ちょっと待って下さい!私も行きます!」
「何言ってんの!?No.1が店を空けてどうするのよ!」
「それなら梓さんが残って下さい!肩書きだけのNo.1が居たって、店は回りません!」
「貴女が行っても何の役にも立たないでしょう!?私が行かなきゃ駄目なのよ!」
「私だって心配なんです!」
ついて行くと言い張ると残して行こうとする梓の口論は、短いながらも激しいものだったが、最後はの気迫が勝り、梓は言葉に詰まった。
「・・・・じゃあもう、さっさと乗って!」
そんな口論をいつまでも続けている暇がない事は、彼女とて分かっていたようだった。
が乗り込んで来ると、梓は一番近い救急病院の名を運転手に告げ、かくしてタクシーは、夜の銀座を可能な限りの速さで走り始めた。
病院に到着して容態を告げると、間もなくストレッチャーを引いた看護士達が、の母を迎えに来た。
依然ぐったりとしたままの彼女を乗せて診察室へ運んで行く看護士達を、と梓は小走りに追いかけた。
その最中に、は梓の先程の言葉の意味を知る事となった。
「彼女、3年前に重い胃潰瘍を患って、手術してるんです!良く診てあげて下さい!」
「分かりました。後でお呼びしますから、待合室でお待ち下さいね。」
遠回しに『これ以上ついて来るな』と言われてから、ようやく二人は立ち止まり、運ばれていく彼女の姿を見送った。
ばかりか梓までもが、まるで我が事のような悲壮な顔で。
3年前の胃潰瘍の手術、そんな話は初耳だった。
まだ治りきっていなかったのか、それとも再発してしまったのか。
だからいつもあんなに小食だったのだろうか。
心配と、今の今まで何も気付かなかった自分の馬鹿さ加減に対する怒りが、を苛んでいた。
そして、もう一つの感情も。
そんな大事な事を打ち明けてくれなかった母と、色々と事情を知っていて、まるで実の娘のように母を案じている梓。
考えてみれば、店の中でも彼女達は深く結びついている。
銀座屈指の名店と言われるまでの店を立ち上げ経営してきた母と、そこで長くトップを張ってきた有能なホステス。母にとって、梓は片腕のようなものだ。
まるでこの二人こそが実の親子。
血の繋がりなど彼女達の絆の前では全くの無力、そう思い知らされたようで。
自身認めたくはなかったが、まるで、そう、嫉妬のような感情が、の心の奥底でどす黒く渦巻いていた。
そんな事を悶々と考えながら、は梓と二人で長い時間を待ち続けた。
待合室の同じソファに少し離れて座り、お互いに口を固く閉ざしたままで。
時計の針だけがどんどん進んでいくのを見守りながら、母の処置が終わるまで、ただ黙って。
声が掛かったのは、真夜中に近くなってからだった。
「先生!」
「どうなんですか!?」
詰め寄ると梓に、医師は淡々とした口調で説明を始めた。
「胃炎ですね。随分疲労も溜まっているようですし、貧血にもなっていましたから、暫く入院して安静にして貰います。本人にはもう伝えてありますから。」
「3年前に重い胃潰瘍を患ったんですけど、これは再発という事なんでしょうか?また手術をしなければいけないんでしょうか?」
梓の不安げな顔を見た医師は、静かに息を吐いた。
「それとはまた違います。手術の必要もありません。ともかくは投薬治療で、症状の緩和を図ります。」
「本当ですか!?」
「今は落ち着いていますから、面会して来て下さっても結構ですよ。」
「有難うございます、先生!」
「有難うございました!」
見る見る内に安堵に顔を輝かせた梓とは、医師に深々と頭を下げて、早速母の病室へと向かった。
「ママ・・・・・・!」
「大丈夫ですか!?」
彼女の病室が個室だったのは幸いだった。
と梓は、ベッドに横たわっている彼女の側に、文字通り駆け寄った。
「ちゃん、梓ちゃん・・・・・・、心配かけたわね、ごめんなさい・・・・・・。」
「そんな事良いんですよ!」
彼女の様子は、まだ青い顔をして腕に点滴の針を痛々しく刺してはいるものの、店で倒れた時よりは幾らか落ち着いて見えた。
そんな彼女を見て、梓は今にも泣き出しそうな顔で安堵したように笑った。
折角のクールな美貌をくしゃくしゃに歪めて、いつもの彼女からは考えられない程、感情を剥き出しにして。
梓も本当に、心の底から彼女を心配していたのだろう。
「胃炎だそうです。だけど、手術の必要はないって。」
そんな梓を見ていると、何故かどんどん気後れしてしまい、は静かな声で医師の診断を告げる事しか出来なかった。
娘ならもう少し気の利いた愛想の良い台詞が出ないものかと思ったが、何も思い浮かばなかったのだ。
「ええ。聞いたわ。それと、疲労と貧血でしょ?」
「本当に良かったです、大した事なさそうで・・・・・!」
「ふふ、有難う、梓ちゃん・・・・・・。」
梓は、母の点滴をしていない方の手を取り、ぎゅっと握り締めた。
そこに自分の入り込む余地はない。
「・・・・・とにかく、暫くはゆっくり休んで下さい。お店の方には、ちゃんと報告しておきますから。」
は微かな寂しさのようなものを感じながらも、それを表面に出さないようにして母に労りの言葉をかけた。
「そうさせて貰うわ。でも、すぐ退院出来るだろうから、お見舞いは不要だって皆に言っておいて。」
「分かりました。」
「・・・・ああ、そうだわ。ちゃん、お願いがあるの。明日で良いから、私の着替えとか洗面道具とか持って来てくれるかしら?これ、家の鍵だから。」
「はい・・・・・。」
彼女が自分のバッグから鍵を取り出してに渡したのを見て、今度は梓が表情を変える番だった。
尤も、それはほんの一瞬の事で、彼女もも、それに気付く事はなかったが。
「梓ちゃんも、迷惑かけるけど宜しくね。」
「任せて下さい、今度もちゃんと留守を守りますから。」
彼女が再び梓の方を向いた時には、梓は先程と何も変わらない、優しい微笑を浮かべていた。
それから程なくして、と梓は病院を出た。
すぐさま電話でマネージャーに無事の報告を入れると、店でやきもきしながら営業を続けていた彼は大層安堵し、喜んだ。
そして、もう時間も遅いし客も来そうにないからという事で直帰を許された二人は、タクシーを拾おうと大通りを歩いていたのだが。
「・・・・・・・ねぇ。」
ずっと黙りっ放しだった梓が、不意にに呼びかけた。
「はい。」
「お腹空かない?」
「・・・・・はい?」
それは、思わず面食らってしまう程に意外な誘いだった。
しかし、それも当然の事。
が入店してかれこれ4ヶ月以上経つが、こうして梓にプライベートで誘われたのは初めてだったのだから。
だが、意外なのは誘ってくれた事自体だけではなかった。
が誘いに応じると、梓は偶々目についた小さなうどん屋を指差したのだ。
としては別に文句はなく、むしろ高そうな店に連れて行かれなかった事に安堵して梓の後について入り、二人して熱いかけうどんを1杯ずつ注文した。
安さと早さが売りなのか、うどんはあっという間に出て来て、二人は早速箸を取ったのだが、
さっさと食べ始めたのは梓一人で、はその姿を暫く呆然と見ていた。
高い店で、高い物しか口にしなさそうなイメージのあの梓が、
こんな小さな、どちらかと言うと貧相な感じのするうどん屋でかけうどんを啜っているとは。
店内での彼女を知る人間の一体誰が、彼女のこんな姿を想像出来るだろうか。
「・・・・・良かったわ、胃潰瘍の再発じゃなくて。」
「えっ!?あ、ああ、そうですね!」
急に話し掛けられて我に返ったは、取り繕うように笑いながら、自分も慌ててうどんを啜り始めた。
は、不躾にも思わず凝視してしまった事を気付かれなかっただろうかと内心案じていたのだが、
梓は幸いにも気付いていなかったのか、或いはどうでも良かったのか、全く意に介す事もなく、
食べ始める前にも既に入れていた七味唐辛子をまた追加して、の隣で引き続き淡々と食べ続ける・・・・・かのように思われたのだが。
「・・・・・ママね、自分の事は何にも言わない人なの。苦しい事とか痛い事とか、何にも表に出さない。前もそうだった。ある日突然、私とマネージャーだけ呼び出して、『胃潰瘍の手術を受ける、暫く入院する事になるから』って・・・・・・・。吃驚したわ。全然気付かなかったもの。」
梓はそのまま箸を止めて、丼の中に視線を落としたまま、独り言のように話し始めた。
「そうだったんですか・・・・・・」
「手術しなきゃいけない位に切羽詰った状態だったのに、留守する間の店の事を凄く気に掛けていてね、色々と準備していってくれた。ママが長く留守していても、私達スタッフが困らないようにって。噂が広まると体裁が悪いから、他のスタッフ達とお客さんには『ソムリエの勉強中だって事で通してくれ』って、言い訳まで考えていってくれて・・・・・。」
「・・・・・・・・」
「それなのに、自分は何も要求しない・・・・・。心細くて、色々不便な事もあった筈なのに、本当の事を知っている私とマネージャーにさえ、見舞いは要らないなんて言い張って・・・・・・。ママは本当に、凄い人よ。」
「そうですね・・・・・」
「私は、同じホステスとしてあの人を尊敬しているし、一人の人間として、あの人に感謝しているわ。」
梓はそう言うと、ようやく顔を上げてを見た。
「私ね、表向きは27歳って事で通してるけど、本当は32なの。しかも子持ち。」
「え・・・・、ええっ!?」
「10年前、銀座の街で生まれたばかりの息子を抱いてフラフラしてたところを、ママに拾われたのよ。」
梓のまたしても意外すぎるこの発言には、流石にもう平静を装う事など出来なかった。
思い切り表情に出して驚いてしまったが、口の中の物を吹き出さずに済んだだけ、まだましだっただろう。
「付き合っていた彼との間に子供が出来て、私は親の猛反対を押し切って大学を中退までして彼と結婚したんだけど、1年と経たない内に捨てられてね。絶望してたわ。彼も、男を見る目がなかった自分も許せなくて、おかしくなりそうだった。おまけにお金もないし、実家にも帰れなくてね。乳飲み子抱えてもうどうしようもなくて、自棄を起こしたの。ともかく何でも良いからお金を稼がなきゃって風俗の店に飛び込もうとしてたところを、ママに声掛けて貰ったのよ。」
「そう・・・・だったんですか・・・・・・・」
「ママは、泣きじゃくる私を店に連れて行ってくれて、ご飯を食べさせてくれた。話を聞いてくれた。そして私に、Venusで働かないかって言ってくれたの。風俗で働く気があったのなら、ホステスになるぐらい訳ないでしょ、って。私、すぐに承諾したわ。そしたらママ、何て言ったと思う?」
「何て・・・・・言ったんですか?」
母は何と言ったのだろう。
若かりし頃の自身とそっくりな境遇に陥っていた梓に。
その時の梓が若い頃の母と、そして梓の赤ん坊が昔の自分と重なるように感じて、は切実な表情で梓の答えを待った。
「思った通り見込みがある、って。負けっ放しで泣き寝入りするような情けない女だったら、拾わなかったって。」
「・・・・・・・・」
「私、それを聞いて決めたの。過去はすっぱり忘れて、この人の恩に報いて期待に応えよう、って。何があっても、この人について行こうって。」
傷付き絶望している人間に掛けるにしては、些かドライすぎる言葉に思えたが、母もきっと、梓と昔の自分が被って見えて、放っておけなかったのだろう。
ならば、子供の顔も被って見えたのだろうか。
だから梓を助けたのだろうか。
自分は捨ててしまったが、梓には子供を手放さないで欲しい、と。
「それでこの10年、私なりに一生懸命やってきた。ママの期待と信頼に応えようと、必死に頑張ってきたわ。ママもそれを分かってくれてると思ってた。ママも私を認めてくれて、信頼してくれているんだと思ってたわ。・・・・・だけど私の10年は、貴女の4ヶ月ちょっとに負けたのね。」
10年もの間、恩義に応えようと必死に勤め、店にとって欠かせない存在にまで上り詰めた梓を、幾らオーナーの実の娘とはいえ自分が負かせる訳がない。
梓のこれまでの功績は、母とて決して忘れていない筈なのだ。
梓の自嘲めいた言葉を、はすぐさま激しく否定した。
「梓さん、それは違います!私、断言出来ます!どう考えても今の状況が変・・・」
「勘違いしないで。私のママに対する気持ちは、今も何も変わっていないのよ。」
「え・・・・・・・?」
しかし、必死で否定し弁解しようとするを、梓は冷ややかに制した。
「ママには本当にお世話になったわ。お陰で息子も大きくなった、暮らしにも困ってない。今の私があるのは、全部ママのお陰だと思ってる。だから、ママの決めた事には逆らわないわ。」
「・・・・・・・」
「・・・・・だけど、貴女を認めた訳じゃない。私は貴女に何の恩も義理もない。それは忘れないで。」
がその言葉を黙って噛み締めている間に、梓はすっかり冷めてしまったうどんの残りを綺麗に平らげて、お茶を一口飲んだ。
「じゃ、お先に。」
そして、自分の分の勘定をテーブルに置くと、を置いて行ってしまおうとした。
「・・・・待って下さい、梓さん!」
その背中に、は問いかけた。
「もし・・・・・、もしこのまま私が新しいオーナーになったら、梓さん、どうするんですか・・・・・・・・?」
しかしその答えは、店の引き戸が開閉するカラカラという小気味良い音で返された。