「あら、美味しそう!」
出来上がったばかりの料理の皿が幾つも並んでいるテーブルを見て、の母は感嘆の声を上げた。
「そうですか?良かった。」
彼女が申し出てくれた祝いを、自宅でささやかにしたいと決め、せっせと手料理を準備したのはだった。
大した物は作れないが、その大した物が出て来る高級レストランには未だ慣れておらず、どうにも気後れするというのが、その理由だった。
「あ、ワインはこれで良かったですか?」
「ええ。さあ、乾杯しましょう。座って。」
「はい。」
は母と共にテーブルに着き、冷蔵庫から出して来たワインの栓を抜いた。
「Venusの新しいママに。乾杯。」
「乾杯・・・・・・・。」
ワインを少しずつ注いだグラスを触れ合わせて、共に飲む。
好きな銘柄という事もあり、母は一息で飲み干したが、は1口、2口と口をつけてグラスを置いた。
母の好きなこのワインは、には少し渋みがきつく感じられるのだ。
しかし、理由はそればかりではない。
はやはり、後継者に選ばれたと手放しで喜べる心境にはとてもなれなかったのだった。
「・・・・・・・ところであの・・・・・、その事なんですけど・・・・・」
「何?」
「私をオーナーにする本当の理由が訊きたいんです。まぐれみたいなものでたった1回トップになっただけで後継者だなんて、どう考えても変です。本当は、私が娘だから・・・・・なんじゃないんですか?」
が率直に尋ねると、彼女は事も無げに答えた。
「・・・・・もしそうだったら、どうなの?」
「気持ちは有り難いですけど、辞退させて下さい。店の皆も納得いってない・・・・というか明らかに不満そうだったし、私も心苦しくて・・・」
「納得なら私がさせたわ。違う?」
確かに皆、最終的には母の決断に従ったが、あれは明らかに渋々だった。
心から納得した上での事ではない。
彼女はそれに気付いていないのだろうか。
それとも、そんな事は百も承知の上で、敢えて知らぬ振りで強引に押し切ろうしているのだろうか。
「本当に、思ったより早くトップになってくれて助かったわ。お陰で皆を説得し易かったし、私も安心して貴女に店を任せられるもの。同じ娘でも、見込みがないよりある方が良いに決まっているものね。」
「・・・・・・・私、見込みなんてありません。」
は、母の言葉をきっぱりと否定した。
謙遜ではない。母の意図がどうであれ、それが明らかな事実だったからだ。
「大体、何で今このタイミングなんですか?まだ入って日も浅い上にずっと成績も悪くて、誰の信用も得られてないのに、何で今なんですか?皆が反発する事ぐらい、ママにだって分かっていた筈・・・」
「子供が親の跡を継ぐのは当然の事でしょう?他に誰が継ぐっていうの?」
「・・・・・・」
「この商売はね、若さが擦り切れて容色が衰えればそれで終わり。皺くちゃのお婆ちゃんになるまで続けられる仕事じゃないし、そんな姿を客の目に晒したくもない。だから私は、潔く引退するのよ。まだこの若さと美貌を保てている内にね。」
しかし彼女は、の訴えをまるで聞き入れず、冗談めかした笑みさえ浮かべて見せてから、ワインのボトルを手に取った。
「まだ若い貴女が、これからのVenusを背負って立つのよ。私が人生を懸けて築き上げてきたVenusを受け継ぐのは、貴女しか居ないわ。さあ、もう1杯どうぞ。」
「いえもう・・・・・!」
が断ると、彼女は苦笑した。
「駄目ねぇ!本当にお酒弱いのね、貴女って!」
「はぁ・・・・・・・・」
「全く、誰に似たんだか・・・・・と言いたいところだけど、言うまでもないわ。あの人にそっくりだもの。」
「あの人って・・・・・・・もしかして・・・・・・」
「・・・・・そうよ、貴女のお父さん。」
その口調が余りにも何気なさ過ぎて、驚きは僅かに遅れて訪れた。
これまでは、自ら進んで昔話をしようともしなかったどころか、そんな話を持ち掛けるのが憚られる程完璧に過去と決別している様子だった彼女が、一体どういう心境の変化なのだろう。
「どうして・・・・・・、急にそんな話を?」
「別に深い意味はないわ。ただそう思ったから口にしただけよ。」
が探るような目で見つめると、彼女は苦笑を浮かべた。
「・・・・・ふふ、なぁにその顔?嘘じゃないわよ、・・・・・半分は。」
「半分・・・・・?」
「本当は、最初から話してあげるつもりだった。この日が来たら話してあげようと思ってたの。だって貴女、前に私に言ったでしょ?『弁解ぐらいはして欲しい』って。多分、今でもそう思ってるんじゃないかなと思って。」
「弁解する気は・・・・・なかったんじゃないんですか?」
「ないわよ、今でも。ただ昔話を聞かせてあげようと思っただけ。尤も、もう興味がないのなら話題を変えても一向に構わないけど?どうせ大した話じゃないしね。」
にとって過去の話は、彼女が言うような取るに足りない話では決してなかった。
彼女の主観では大した話でなくとも、そして実際にそうであったとしても。
たとえどんな話でも、にとっては抜け落ちている人生のピースなのだ。
「・・・・・・・実は私、聞いたんです、ママが私を捨てた時の事を。」
「・・・・・・・誰から?」
「星の子学園の園長先生からです。だけど、その・・・・・・・、お父・・・・さん・・・・の事は園長先生も何も知らなくて、聞けませんでした。」
「そう。」
「・・・・・・・・教えてくれませんか?私の・・・・・・・お父さんの事。」
集められるものならば、1つでも多くのピースを拾い集めたい。
これからの為に。
はその一念で、母に話をせがんだ。
「高校3年の夏休みの時だったわ。あの人と、私の故郷で知り合ったの。当時、彼は25歳で、私は18になって間もなかった。あの人は東京から来た写真家の卵で、撮影旅行であちこちを回っている最中だったの。小汚い漁船が停まっているだけの港の写真を一心不乱に撮っていてね、そんな彼の姿がひたむきで純粋に感じて、何も知らない田舎娘には、とても新鮮で素敵に見えたのよ。」
薄く笑った母の唇から、煙草の煙が細くたなびいていく。
まるで、過去へと流れていくかのように。
「私の育ったところはね、海の他には何にもないちっぽけな漁村だった。世界が狭くて考えも古くてね、若い娘がちょっと男の子と並んで歩いていただけで、ふしだらな娘だってたちまち近所中に悪い噂が広まるの。息が詰まりそうに狭苦しい世界だった。男も女も、仕事と言えば漁に出るか漁港で働くかしかなくて、何の夢も希望も持てなかった。そんな村を嫌って飛び出す人も少なくなかったわ。私もそうだった。あんな村、早く出て行きたくて、毎日ウズウズしていた。」
母の少女時代は、驚く程に意外なものだった。
「そんな時にあの人と出会って、私はたちまちあの人に夢中になった。彼の全てが魅力的に見えたわ。写真家という垢抜けた職業も、夢を追う姿も、地元の人間にはなかった自由な都会の空気も、何もかもが。私達の仲はあっという間に深まって、離れられなくなったわ。1ヶ月程して彼が東京に帰る事になった時、私は迷わず高校を辞めて彼について行く事に決めたの。」
「反対・・・・されなかったんですか?」
「勿論されたわよ。そんな何処の誰だか分からない根無し草みたいな男に、学校を辞めてついて行くなんて死んでも許さない、ってね。うちは、漁師だった父を早くに海の事故で亡くして、母・・・・、貴女のお祖母ちゃんと母一人子一人で、貧乏な家だったの。母が毎日毎日朝から晩まで働き続けて、どうにか人並みに高校ぐらいはって、やっとの思いで私を高校へやってくれていたのよ。そして、高校を卒業したら母を助けて働いて、婚期が来たら地元の男と結婚して平凡な家庭を持って欲しい、それが私に対する母の夢であり願いだったわ。だから、そりゃあ許せないわよね。無理に無理を重ねて必死で頑張って育ててきた娘に、そんな好き勝手されちゃ。」
そして、育った環境も。
今の彼女の雰囲気からは、とても想像のつかないものだった。
「だけどそれは、今になって思う事。あの時の私には、母のそんなささやかな願いが煩わしくて重荷だったの。恩を着せられて、あの魚臭い海辺の村に一生縛り付けられそうな気がしていてね。だから私は母の言う事に全く耳を貸さず、家を飛び出してあの人について行ったわ。」
若かった父と母の、無謀なまでに純粋なラブ・ストーリー。
はそれにじっと聞き入った。
「東京に来て、彼のアパートに転がり込む形で、私達は一緒に暮らし始めたの。1間きりでお風呂もなく、トイレすら共同の古くて狭いアパートだったけど、何の不満もなかったわ。あの人は次々と写真を撮って雑誌やコンクールに応募しながら、車の整備工場でのアルバイトと時々貰える撮影の仕事でお金を稼いで、私もパン屋や食堂なんかで1日中アルバイトして、二人で肩を寄せ合って暮らしていた。月に1度、お給料日に1本ずつ飲む缶ビールが唯一の贅沢でね。だけどあの人はお酒に弱くて、いつもその1本で顔を真っ赤にして眠ってたわ。」
遺伝、そんな単語が頭を掠める。
これが、顔も名前も居所も生死すらも分からない男との間の、確実な接点。
しかし、それを知ったところで、には何の実感も湧いては来なかった。
「綱渡りみたいなギリギリの生活だったけど、幸せだと思っていたのよ。あの人は、写真1本で食べていけるようになったら結婚しようって言ってくれて、立派な写真家になるというあの人の夢は、いつしか私の夢にもなっていた。・・・・・・だけどね。」
「けど・・・・・・?」
「同棲し出して1年程経った時に、思いがけず貴女が出来たのよ。」
その言葉に、の心臓がドクンと跳ねた。
「私は、当然結婚して貰えるものだと信じて疑っていなかった。だって、元々私達は結婚するつもりだったし、その筈だったんだから。それが予定外に少し早まっただけで、何の問題もないと思っていたのよ。彼もきっと喜ぶと、そう信じていたわ。」
だけど、と彼女は呟いた。
「あの人の反応は思っていたより悪かった。突然の事だから戸惑っているだけだと言われて、最初はそれを信じたけど、私の妊娠を機に、私達は明らかにすれ違い始めていったわ。だんだん笑顔が減って、だんだん会話が減って、次第にアパートにもあまり帰って来なくなった。子供が生まれるんだから今までよりもっとお金を稼がなきゃいけないんだ、なんて尤もらしい事を言っていたけど、そうやって夜通し稼いで来た筈のお金を私が目にする事は、結局なかったわ。」
「・・・・・・・・」
「そしてとうとう、あの人は逃げた。ある日突然、バイト先も辞めて、アパートもそのままで、身重の私を一人残して。」
母が『だけど』と言葉を接いだ時から、何となく薄々予感はしていた結末だった。
いや、本当はもっと前に分かっていた事だった。
星の子学園の記録に、父と母は自分が生まれる前に別れていたと残されてあったのだから。
「心当たりは全部当たったけど、あの人は何処にも居なかったし、あの人の居所を知っている人間も居なかった。彼の実家も何も知らなくて、それ以上捜しようもなかったわ。そこで私は、初めて気付いたの。あの人に騙されたんだって。ひたむきに夢を追う情熱的な人だと思っていたけど、彼は結局、自分の事しか考えていない、無責任で卑怯な男だったのよ。」
ただ、今初めて知ったその経緯には、憤りを感じずには居られなかった。
置き去りにされた子供として、そして今、一人の女として、は父という男を軽蔑せずには居られなかった。
「だけど、そうと分かった時にはもう遅かった。その時貴女はもう、私のお腹をしきりに蹴る位、大きく育っていたわ。もうどうしようもなかった。だから私は、必死の思いでお金を工面して、何とか貴女を産んだ。」
「それから・・・・・どうしたんですか?」
「実家に帰ったわ。不本意だったけど、現実を思い知らされた私には、実家に帰るしかなかったもの。だから、生まれたばかりの貴女を連れて、頭を下げに帰ったわ。」
「それで・・・・・?」
「だけどね、母の怒りは、思っていたより根深かったみたいだった。まあ、当然よね。苦労して苦労してやっとの思いで育てていた一人娘なのに、恩を仇で返すような出て行かれ方をして、近所中に散々嫌味や陰口を叩かれて、肩身の狭い嫌な思いをして・・・・・。」
「受け入れて・・・・・・貰えなかったんですか?」
「門前払いよ、話すら聞いて貰えなかったわ。私は天涯孤独の身だ、娘なんか居ないってね。生まれたばかりの孫の顔を見れば蟠りも解けるかも知れない、なんて考えていたけど、甘かったわ。私と母の親子の縁は、それですっぱり切れたの。」
「じゃあその後、・・・・・・・あの・・・・・・、お祖母さん・・・とは・・・・・・?」
「会っていないわ。連絡先も教えていない。さあ、今頃は生きているのか死んでいるのか。」
あっさりとした口調の割に、母の微笑は何処か寂しげに見えた。
事情は違えども、彼女もまた自分の母親と決別していたとは。
自分と母、そして、母とその母。
3代に渡って途切れ続けてきた、親子の絆。
それを思うと、喩えようのない切なさに胸が締め付けられた。
「ともかく、私は仕方なくまたあのアパートに帰ったわ。そしてすぐに夜の仕事を始めた。学歴も手に職もない私が貴女と二人で食べていく為には、それしかなかったから。だけど、幾ら頑張っても、生活はどん底だった。いつまで経っても暮らし向きは一向に安定しないし、楽にもならなくてね。」
「そう・・・・・ですか・・・・・・。」
「あの頃はとても貧しくて、食べるのもやっとだったわ。その内、親子心中にでもなりかねない位、本当に苦しくてね。ある日、ふと思ったの。私、何をしてるんだろうって。」
「・・・・・・・・」
「必死で這い蹲って働いても、それでも貧乏なままなんて、田舎に居た頃と何も変わっていない。私は、こんな生活をする為に田舎を飛び出して来たんじゃない、って。負けっぱなしで絶望したままなんて御免だった。何としても這い上がりたかったの。」
「・・・・・・・・」
「貴女もそうだと思ったわ。私のように貧乏のどん底で育つより、施設に入って、いずれ何処かちゃんとした家の娘に貰われていく方が、きっと貴女の為になると思ったの。たとえ離れ離れになっても、お互い生きて這い上がれる道を選ぼうと思って、貴女を捨てたのよ。」
不意に彼女の手が、の手をふわりと包み込んだ。
「・・・・・だけど今、私達はまたこうして一緒に居る。」
「・・・・・ママ・・・・・・・」
彼女がこうして時折チラリと見せる、『母』の顔。
時折だから、戸惑ってしまう。
いつでも『母親』であってくれるか、或いはいっそ他人も同然なら、こんなに心が不安定に揺れる事はないのに。
「私の築き上げたものを貴女が引き継いでくれる、こんなに心強くて嬉しい事はないわ。大丈夫、経営なら必ず立て直せるわ。『Venus』は、銀座にこの店ありと謳われた名店なのよ。私が長い年月をかけてそこまでにしたの。『Aphrodite』なんかにそんなに簡単に潰される程、脆くないわ。」
「は・・・ぁ・・・・・・」
「今は追い風に乗っているみたいだけど、張り切りすぎは長続きしない。その内無理が出て来るものよ。それに、あんな上っ面だけのサービスでは、いずれ客は飽きて離れていくわ。そんな程度の店は、そこら中に星の数程もあるのだから。それに引き換え、Venusの輝きは本物よ。うちの客はそれを知っている。離れていった客も、いずれそれを思い知って戻って来るわ。Venusは必ずまた立ち直る。」
「そう・・・・・ですね・・・・・・・」
「貴女はともかく、Venusの品格に相応しいママになる事だけを考えて。大丈夫、私も出来る限りサポートするから。」
「・・・・・・・はい・・・・・・・・。」
ふと気付けば、料理の皿から立ち昇っていた筈の湯気が消えている。
随分話し込んでしまっていたようだ。
「あ、そろそろ食べませんか?お料理冷めちゃう・・・・。」
「ああ、そうね!ごめんなさい、折角作ってくれたのにね!あらぁ、どれも美味しそう!頂きまーす!」
が促すと、彼女はいそいそと料理を取り分け始めた。
いつもの通り、ほんの少量だけ。
しかし、彼女自身が食べようという気にならない以上、はそれを諦め顔で一瞥し、気付かぬ振りをして食事を始めるしかないのであった。