「私は、このちゃんを私の後継者にしようと考えているの。」
彼女がそう言った瞬間、場がしんと静まり返った。
どよめきさえ起こらなかったのは、この場の誰にとっても余りに予想外すぎる話だったからに違いない。
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
その沈黙を最初に破ったのは、本人だった。
「あの、それって・・・・」
「そうよ。あなたがこのVenusのオーナーになるの。」
は、何かの冗談か聞き間違いかと思いたかったが、母はにっこりと微笑んで頷いた。
聞き間違いでも冗談でもない、彼女は本気のようだった。
「勿論、今日明日にって訳じゃないのよ。だけど、なるべく早い内に。これからちゃんには、接客の仕事とは別に、経営の方の仕事も覚えていって貰うから、そのつもりでしっかり頑張ってね。マネージャー、梓ちゃん、それから皆も。ちゃんの力になって、支えてあげてね。お願いします。」
彼女はを励ましてから、唖然としているマネージャーやホステス達に頭を下げた。
しかし。
「・・・・・・納得いきません。」
梓が冷ややかな口調で、反対の声を上げた。
「入って日も浅い、そんな素人同然の人に、ママは何故Venusを託せるのですか?ママにとってVenusは、何よりも大切なものだったんじゃないんですか?」
梓がそう言い放つと、それをきっかけにして、次第に周囲からも梓に賛同する声が上がり始めた。
「そうですよ、ママ・・・・・、梓ちゃんならまだ話は分かりますが・・・・・」
「そうよそうよ!」
「ママ、何でその娘なんですか!?」
「こないだまで売上最下位だったんですよ!?それが何でいきなりママになるんですか!?」
「納得のいく説明をして下さい!」
マネージャーやホステス達は、口々に渋り、反対した。
どれも辛辣な意見であるが、しかしにとっては、正論以外の何物でもなかった。
誰に言われずとも、自身が同じ事を思っていたのだから。
「・・・・・お黙りなさい!」
母は暫く黙って聞いていたが、やがて突然鋭い口調でそれを制した。
「梓ちゃんはトップになるのに半年かかったわ。かたやちゃんは3ヶ月。梓ちゃんの半分よ。それは即ち、梓ちゃんよりも才覚があると言えるんじゃないかしら?」
違う。そうではない。
は必死で否定する素振りを見せたが、皆、母の方に注目しており、誰もそれに目を留める者は居なかった。
「キャリアの長さから言えば、まだまだ梓ちゃんには敵わないけど、経験を積んでいけば、梓ちゃん以上の優秀なホステスになれるに違いないわ。私の後継者に相応しい器に。」
「・・・・・本当にそう思ってらっしゃるんですか?」
梓がそう問いかけると、母は躊躇いなく即答した。
「そうよ。私はずっと、こういう才覚のある娘に跡を継がせたいと考えていたの。」
「・・・・・・・良く分かりました。」
「納得してくれたわね?」
「はい。」
「マネージャーも、皆も、これで良い?」
『・・・・・・はい・・・・・・』
梓が引き下がると、他の従業員達も『それなら・・・・』とばかりに彼女に倣った。
VenusNo.1の座に長く君臨し続けた梓の実力と信頼は、相当のものであるらしい。
誰かが言っていた通り、どうして彼女ではなく、自分なのだろう。
誰がどう見ても、オーナーの器を持っているのは、梓の方に違いない筈なのに。
「じゃあ、そういう事でお願いね。話は以上よ。後は宜しく。」
娘を捨ててまで手に入れた宝物ならば、今更妙な情になど絆されずに、それを確実に守り育てていける人に託すべきなのに。
は何かに弾かれるようにして、事務所に戻っていく母の後を追った。
「ママ、待って下さい!」
階段の踊り場で母を呼び止めたは、彼女に詰め寄った。
「急にあんな事言われても困ります!私、お店の経営なんか分かりません!」
「この何ヶ月、実際に仕事をしてきて、お店の中の事は分かったでしょう?それで十分よ。経営と言ったって、税金や何かの難しい事は税理士さんにお願いしているし、あとは仕入れや経費の管理や人事なんかで、覚えてしまえば何て事ないわ。ふふ、そう力まないで。案外何とかなるものよ。」
「無理です、そんな!」
「・・・・・・やりもしない内から無理だ無理だと言うのはどうかと思うわよ。」
「っ・・・・!」
母の目が一瞬、咎めるように険しくなり、は口を噤んだ。
「あのね、ちゃん。経営者の皆が皆、大学で経済学を勉強してきたような人間ばかりじゃないのよ。かく言う私もその一人。私も一から独りで覚えたのよ。」
母は再び表情を和らげると、の肩を励ますように優しく叩いた。
「大丈夫、きっとあなたにも出来るわ。ともかく、早速お祝いしなきゃね。丁度明日はお店休みだし、二人でゆっくり食事でもしましょう。予定、空けておいてね。」
「は・・・い・・・・・・・」
経験者を前にして、それでも私には無理だと言い張る事は、には出来なかった。
すごすごと店に戻ってみると、いつものテーブルに今夜もまた黄金聖闘士達が集っていた。
今来たばかりらしく、テーブルの上にはまだ何もない。
が彼等に視線を向けると、それに気付いた彼等は揃って微笑を浮かべて軽く手を挙げてみせた。
「こんばんわ、。」
「今宵も来てやったぞ。料金分、しっかり勤めたまえ。」
「はいはい・・・・・・・・」
覇気のない顔でテーブルに着き、ムウとシャカに気のない生返事を返したを見て、黄金聖闘士達は不思議そうに首を傾げた。
「どうした?今日はいつも以上にテンションが低いじゃないか。何かあったのか?」
「何か悩み事でもあるのか?誰ぞに嫌味でも言われたか?」
「他の客に尻でも触られたのか?」
「違うわよ・・・・・・・・。」
シュラが様子を伺うと、童虎とカノンもそれに便乗してきたが、悩みはそんな事ではない。
は深々と溜息をつき、首を振って否定した。
「・・・・・私ね、今月、No.1になったの。」
「・・・・・・本当か!?」
「奇跡的にね。それもこれも皆のお陰よ、有難う。」
アルデバランが目を丸くしたのに少しだけ笑いを零してから、は改めて一同に礼を言った。
「・・・・・でね。さっき、開店前のミーティングでね。母・・・」
と言いかけてからハッと口を噤んだは、辺りを注意深く見回して、声のトーンを落とした。
「・・・・オーナーが私を後継者にするって言い出して・・・・・・・。」
黄金聖闘士達は黙り込んでしまった。
全員、何とも言えない顔をしているが、それは即ち喜んでくれてはいないという事。
それだけは確かだった。
しかし、それも当然と言えば当然の事。何しろ本人が手放しで喜んでいないのだから。
「・・・・・・・とにかく、折角来てくれたんだから飲んで行って。これまでのお礼に、今夜は私がご馳走するから。そして、今夜限りでもうここには来ないで。」
は改めて、彼等にそう告げた。
いや、告げるというよりは、懇願と言った方が正しかった。
「これまで一杯助けて貰って、本当の本当に有り難かったけど、これ以上はもうきりがないわ。」
これからは、いよいよ本当に先が見えなくなっていくだろう。
何処でどうなっているかも分からない真っ暗な道に、違う道を歩いている彼等を引き摺り込む事は出来ない。
もうここで、引き返して貰わなければ。
「・・・・この店の状況は、皆知ってるんでしょう?正直に言うとね、私にはこの店を立て直せる自信なんてないの。これ以上助けて貰っても、焼け石に水になっちゃうかも知れない。だから、もうやめて。これ以上、無駄な労力と時間とお金を使わないで。お願いします。」
は深々と頭を下げた。
それ以外に、今の気持ちを伝える術が見つからなかった。
「・・・・・・お前、この店を継ぐ気なのか?」
母はああ言っていたが、心の中は100%の不安で占められていて、正直、継ぎたくないという気持ちの方が大きい。
今のこの気持ちを正直に吐き出せば、彼等はまた何らかの形で力を貸してくれるかも知れないが、これは自分の問題なのだ。
これ以上彼等を頼ってはいけないと、はデスマスクの問いかけに沈黙で答えた。
翌朝。
聖域の教皇の間に、黄金聖闘士達が集結していた。
定例となっている女神との謁見の為、黄金聖衣を着用の上、彼女の到着をこうして全員で待っているのだが。
『・・・・・・・・・ハァ・・・・・・・・』
この通り、全員揃って溜息などをつきながら、沈んだ顔でぐったりと床に座り込んでいる有様だった。
「・・・・・・・・・撃沈だ・・・・・・・・・・」
「完っ全に裏目に出ちまったな・・・・・・・・・」
「まさか店ごと任される事になるとは・・・・・・・・」
「全てはの為だと思ってたんだがな・・・・・・。」
これから女神との謁見だというのに、サガもデスマスクもカミュもアルデバランも、誰もがの行く末を案じ、結局はを解き放ってやる事が出来なかったという結果に打ちひしがれていた。
「・・・・・・どうして誰も反対しなかったんだ。みすみす苦労を背負い込まされるだけだという事ぐらい、分かっていただろうに。」
アイオリアが、誰に言うでもなく呟いた。
昨夜、あの場では誰も何も言えずに早々に帰って来てしまったが、今となってはそれが彼の中でしこりとなって残ってしまっていたのである。
話を聞いてすぐに反対しておけば、或いは結果も変わっていたかも知れないのに、と。
「じゃあ何故お前が反対しなかった?」
「それは・・・・・・・!」
シュラにそう訊き返されて、アイオリアは口籠った。
全ては後になって思った事だ。
昨夜、もう来ないでくれと頭を下げたを前にしていた時には、アイオリア自身、何も思い浮かばず、何も言えなかった。
「そう、だから誰も反対しなかったのだ。皆同じなのだよ、アイオリア。自身がそれを承知の上で、それでも母親の力になりたいと思っているのなら、私達にそれを止める権利はない。」
シャカが話すのを、皆、神妙な面持ちで聞いていた。
止める権利も、止めようもない。全てはが決める事だ。
本人が望まない事をこれ以上し続けても、それはただ厚意を押し付けてしまうだけ、却って余計にを悩ませる事になるだろう。
彼等は昨夜、それを悟っていた。
「・・・・・・・もうこれきり、には会いに行けませんね。ただ会いに行っても、いたずらにを困らせてしまうだけ。彼女の為にはならないでしょう。今度こそ・・・・・・、お別れですね・・・・・・。」
「そうじゃのう・・・・・・・・・」
ムウが視線を床に落として呟くと、童虎もひっそりと目を閉じて頷いた。
最早これ以上、自分達に出来る事は何もない。
これが本当の別れとなるのだろう。
誰もが予感していた事だったが、こうして改めて言葉になると、思った以上に切なく耳に響くものだった。
「あぁ・・・・・、急にドッと二日酔いが・・・・・・・・。頭が痛い・・・・・・・・」
「俺もだ・・・・・・、吐きそうになってきた・・・・・・・」
アフロディーテが額を押さえて蹲り、ミロが青い顔で胸を擦っていたその時。
「・・・・・・・まあ、何ですか皆さん。揃いも揃ってだらしのない。」
『女神!?!?』
扉が開いて、秀麗な眉を顰めた沙織が入って来た。
黄金聖闘士達は驚き慌て、だらけきっていた己の身体を叩き起こして直立不動の姿勢を取った。
「ず、随分とお早いお着きで・・・・・!予定では確かあと30分後のご到着だった筈では・・・・」
サガがおずおずと尋ねると、沙織は厳しい表情で彼を一瞥した。
「少し早めに着いただけですが、いけませんでしたか?」
「い、いいえ滅相もない・・・・・!」
平伏さんばかりの勢いでサガが引き下がると、沙織は端整な顔を僅かに顰めて一同に問い質した。
「それよりこの匂い、その蘇ったばかりのゾンビのような顔・・・・・・。一体何事です?」
決まりが悪そうに押し黙った黄金聖闘士達を見て、沙織は呆れ顔で溜息をついた。
「私は、皆さんのプライベートにまで必要以上に口を挟むつもりはありません。時には皆さんでお酒を召し上がって、日々の疲れを癒したり親交を深めたりする事も必要でしょう。その事自体を咎めはしません。ですが、この12宮を護る黄金聖闘士全員が、揃って廃人と化す程羽目を外すようでは、流石に口煩い事を言わざるを得なくなります。事と次第によっては、皆さんを罰する必要も出て来るかも知れないのですよ?」
「は、それはもう・・・・・・!」
「真に申し訳ございません・・・・・!」
「面目次第もございません・・・・・!」
カミュやアフロディーテやシュラが、何の弁解もなく只々平謝りするのを見て、沙織は溜息をついた。
「こんなに覇気のない貴方達を見るのは初めてです。一体何があって、こんなに深酒をしたのですか?」
「それは・・・・その・・・・・」
「正直に言いなさい。私への嘘は許しませんよ。女神を欺く聖闘士など、前代未聞の裏切り者です。」
「っ・・・・・!!」
裏切り者。
この言葉が、脛に大きな、大ーーーーきな古傷を持つ男の胸にクリティカルヒットした。
「・・・・・・・・じ、実は・・・・・・・・・・」
その男・サガは、沙織の前で冷や汗を掻きながら、事の次第を素直に白状し始めた。
「・・・・・・・・・・何ですって・・・・・・・、さんが・・・・・」
「今まで黙っていて申し訳ありませんでした・・・・・・。」
「・・・・・・・・本当に。どうして今まで黙っていたのです・・・・・。」
跪いて詫びるサガから目を逸らして、沙織は小さな声で呟いた。
すると、サガの横に並ぶようにして、カノンも沙織の前に跪いた。
「全ては私達が独断で行った事。いえ、元はと言えば私一人が勝手にした事。聖闘士としてではなく、このカノンの個人的な考えで実行した事です。それに場所柄、未成年の貴女様をお連れする訳にも参りませんでした。申し訳ございません。」
「の解雇は、貴女様のご命令。私達は聖闘士として、再び一般社会に戻ったとはもう二度と関わるまいと、そう思っておりました。しかし結果的には、聖闘士としての立場より、己の個人的な感情を優先させてしまいました。弁解の余地もありません。このサガをどうぞ如何様にでもご処分下さい。」
「・・・・・・・・・・分かりました。」
一片の後悔も見当たらない、そっくり同じ二つの真剣な顔を暫しじっと見つめてから、沙織は一同に向かって告げた。
「まずは、今現在分かっている情報を、もっと詳しく説明しなさい。どんな細かい事も一つ残らず。」
「・・・・・・・は?」
「それから、引き続きさんやそのVenusという店の状況を調査するのです。」
「・・・・・・・・は・・・・はっ!」
「御意!!」
沙織が次々と指示を与えるにつれて、彼等の間に活気がみなぎり始めた。
初めは面食らっていたアフロディーテやカミュも、沙織の意向を察すると改めて姿勢を正し、ミロが深い感謝をその表情に湛えて、彼女の前に跪いた。
続いて、残る黄金聖闘士達も。
誰もが皆、沙織の意思に感謝し、喜んでいた。
そんな彼等を前にして、いつしか沙織自身も、久しぶりにすっきりと晴れた表情になっていた。
「・・・・・・これで、さんの力になって差し上げられる・・・・・。私は今日ほど、祖父から引き継いだグラード財団総帥という立場を有り難いと思った事はありません。」
「女神・・・・・・・」
童虎は、そう呟く沙織の顔を嬉しそうに仰ぎ見て言った。
「・・・・・調査の方は、万事我々にお任せ下さい。」
「頼みます。私の方でも、早速段取りをつけるようにしますから。」
「はっ。」
「・・・・・・・・目処がついたら、折を見てさんに会いに行こうと思います。お手紙のお返事をしなければ・・・・・・ね。」
「・・・そうですな。」
何の事だろうと合点のいかない顔をしている一同を見て、沙織と童虎は小さく笑い声を上げた。