「・・・・・・ちょっとぉ・・・・・・」
困惑顔で呟くに構わず、男達は席に着くや否やサクサクと酒やツマミの注文を済ませ、勝手に水割りを作り、手際良くグラスを回し、そして。
「では、銀座の夜に。」
『乾杯!!』
サガの音頭でグラスを掲げ、とっとと宴を始めてしまった。
「『乾杯!!』じゃないわよ!ちょっと皆、本気なの!?」
「何がだ?」
目を吊り上げているを宥めるように、アイオリアが水割りのグラスを渡した。
しかしにしてみれば、それを陽気に飲み干す気分にはとてもなれなかった。
『飲みに行くから店に案内しろ』と言って聞かない彼等のしつこさに根負けした、という言い訳があるにせよ、結局のところ、拒みきれずに店に連れて来てしまったのは自身であるし、連れて来てしまった以上、こうなる事も目に見えていたが、それでもどうしても気掛かりな事があったのだ。
「何がって、本気で飲んで行く気なのかって訊いてるのよ!ここ高いのよ!?」
『Venus』は、オーナーである母のポリシーで、質も高いが値段も高い。
はそれを気にしていたのだが、アイオリアは全く頓着していない様子で微笑んだ。
「ああ、そのようだな。」
「そのようだな、って・・・・・・、それだけ・・・・・?」
アイオリア以外の男達に至っては、この会話を聞こうともせずにグイグイと良いペースで飲んでいる始末である。
もう今更何を言っても全く無駄のようだと、は呆れて溜息を吐いた。
すると、そこにの母が顔を覗かせて来た。
「いらっしゃいませ。ようこそお越し下さいました。ご挨拶させて頂きたいのですが、少しお邪魔しても宜しくて?」
「ええ、どうぞ。」
「オーナーの麗子と申します。どうぞ宜しく。」
ムウが微笑を浮かべて頷くと、母は彼等全員に名刺を配って挨拶を始めた。
「ああ、貴女がオーナーでいらっしゃる。店の名に相応しい、美しい方だ。」
「まあ・・・・、フフ。日本語もお世辞もお上手ですこと。」
「まさか、とんでもない。本心ですよ。さあ、こちらにどうぞ、マダム。」
「はい、失礼致します。」
名刺を受け取ったミロは、にこやかな顔で彼女を讃え、宴の席に招き入れた。
リップサービスかと言えばそうだと言えるし、また、正直な感想かと言えばそうとも言える。
艶やかな和服に身を包んでここに居る彼女は、事実、まだまだ現役の女としての魅力に溢れていた。
「お近付きのしるしに、どうです?シャンパンでも。」
「まあ、本当に?嬉しいわ!何になさいます?」
デスマスクがシャンパンを勧めると、彼女は優美に微笑んだ。
反応は決して露骨ではないのだが、彼女はきっと内心で驚き、そして喜んでいるのであろう。
客足は遠のく一方で、羽振りの良い固定客もごく少数しか居ないというのに、ある日突然フラリとやって来た一見の客、しかも外国人の団体客が、突然高価な酒を注文してくれるとは、まさか思ってもみなかったに違いない。
「ドンペリはお好きですか、マダム?」
「どっ・・・!?!」
しかし、まさかいきなりここまでの大盤振る舞いに出るとは、にも予想がつかなかった。
「ええ、勿論!」
「貴女のその着物と同じ、心が蕩かされるような甘く誘惑的なピンクにしようかと思うのですが、如何ですか?」
「まあ・・・・!・・・・・ふふっ、光栄ですわ。有難うございます。」
「じゃあ決まりだ。ドンペリのロゼを。」
デスマスクは伊達男気取りの涼しい微笑を浮かべているが、にはとても正気の沙汰とは思えない、いや、むしろ馬鹿にしか見えなかった。
「どうしたの、ちゃん?」
「・・・・いえ、何でも・・・・・・」
思わず呆然としているところを母に気付かれ、は慌てて卒のない笑顔を作った。
銀座の女たる者、立ち居振る舞いは常に優雅にスマートに。
そして、商売に徹しきれなければ銀座の女とは言えない。
常日頃、ホステス達にそう教え諭しているオーナーの前で、ワーストNo.1ホステスが堂々と商売を妨げるような言動に及べる訳がなかった。
「それにしても皆様、本当に日本語がお上手ですのね!お仕事は何をしていらっしゃるのかしら?」
乾杯の後、母はしきりに感心する素振りを見せつつ、黄金聖闘士達に職業を尋ねた。
無論、これも商売の一環だ。
職業は、金払いが確かな客かどうか、更にはどの程度のランクの客かを見極める為の、重要な判断材料の一つという訳である。
しかしアフロディーテは、その詮索をサラリとかわした。
「ここは美の女神達の楽園で、僕らはその甘い香りに惹かれてやってきた旅人。それだけでご容赦願えませんか、マダム?」
「・・・・・フフ、ごめんなさい。野暮な事をお訊きしてしまって。」
並みの男の口から出てはギャグにしか聞こえないこんな台詞も、溜息の出るような美丈夫の唇から紡ぎ出されると、傍で聞いているだけでも思わずドキッとしてしまうほど様になる。
「余りにも素敵な方達ばかりだから、どんな方々なのかとつい興味が湧いてしまって。大変失礼致しました。」
彼女が引き下がると、アフロディーテはとどめとばかりに思わせぶりな微笑を浮かべて、彼女の手の甲に軽い口付けを落とした。
「それはこちらも同じ事。この美しき女主人は一体どんな女性なのか、それを考えるだけでワクワクしてくる。謎めいたものに想いを馳せる楽しみというのは、また格別でしょう?」
「・・・・・フフッ。そうですわね。どんな方々なのか、想像する楽しみをゆっくりと味わうのもまた良いものですわね。・・・・・じゃあ、どうぞごゆっくり。ちゃん、後は宜しくね。」
「はい・・・・・。」
彼女が去っていったのを見届けてから、サガはに話しかけた。
「あれがの母上か。美しい人だな。」
「うむ。少々若作りなのは否めんが、それを差し引いても、成人した娘が居るようにはとても見えんな。あまり君とは似ていないように思えるが、本当に血が繋がっているのかね?」
「ちょっとシャカ、それどういう意味?」
「冗談だ。軽く流したまえ。」
が横目で睨むと、シャカは涼しげな微笑を浮かべた。
この掴み所のなさは相変わらずである。
しかし、今は母の話で盛り上がっている場合ではない。
「っていうか、そんな事どうでも良いのよ!皆、バッカじゃないの!?このお酒、幾らするか知ってるの!?」
は、周りに聞こえないよう声を落としながらも、黄金聖闘士達を叱責した。
ボトルはもう空っぽで、今更言っても仕方がないのも分かっているし、そもそも従業員という立場にある者が、客に対してこんなお節介を焼くべきでない事も承知している。
それでも言わずに居られなかったのは、どうしても彼等を客だと割り切る事が出来ないからだった。
「まあまあ、良いじゃないか!細かい事は気にするな!」
「細かくないから気にしてるんでしょうが・・・・!」
しかしアルデバランは、そんなの叱責を軽く笑い飛ばしてしまった。
「それにしてもアフロディーテ、お前、良くまぁあれだけペラペラと舌が回るな。」
「それは感心したという意味かな?」
「まあ、感心もしたし、呆れもしたし・・・・・。横で聞いているだけで背筋がむず痒くなった。」
「ホッホ、アフロディーテはほんに芝居が上手じゃのう。」
「何かそれ、ガキンチョ褒めてるみたいで微妙っスよ老師。」
アイオリアも、アフロディーテも、カミュも、童虎も、デスマスクも。
黄金聖闘士達全員が、心苦しく思っているとは正反対に、他愛ない会話に花を咲かせているだけだ。
人の心配を他所に全く呑気なものだと、が憮然と黙り込んだその時、店内に新しい客が入って来て、一同は何となくそちらに目を向けた。
「、あれは誰だ?」
「え?どっち?」
「女の方だ。あの赤いワンピースの。」
シュラが指差したのは、その客に寄り添っているホステスの方だった。
「ああ、あの人はここのNo.1よ。梓さんっていうの。」
が答えると、一同は一瞬静まり返って、遠巻きに彼女を一瞥した。
「ほう、あれが・・・・・・。」
「お〜、イイ女。俺結構タイプかも。」
「貴方の好みのタイプは一体何種類あるんですか。」
サガは納得したように呟き、デスマスクは軽く口笛を吹いてみせ、ムウはそんなデスマスクにツッコミを入れつつも、観察するような冷静な目で客と談笑しながテーブルに着く彼女を見つめた。
彼等がこうして納得し、注目するのも無理はない。
何しろ彼女は、名実共に押しも押されぬこの店のトップである。
その上品な華やかさや美しさもさることながら、落ち着いた物腰から滲み出る堂々とした雰囲気が、他のホステスとは明らかに一線を画しているのだ。
「あの女を追い落とさねばならんのか?」
「うん。」
「お前がか?」
「うん。」
カノンの質問に頷いて答えていると、シャカが至って冷静沈着な声で呟いた。
「無理だな。諦めたまえ。」
「分かってるわよ!だから自分でも無理だって言ってるじゃない!」
改めて彼等に言われずとも、とてそんな事は最初から分かっていた。
幾ら母が望んでも、叶えてやれる事とやれない事がある。
店を盛り返す事も、不動の地位に立つNo.1を追い抜く事も、およそこんな落ちこぼれホステスに出来る芸当ではない。
ただ一つ、叶えてやれる事があるとすれば、それは、彼女の気が済むまで無いに等しい力を貸し続ける事だけだ。
他の誰が去って行っても、たとえ自分一人になろうとも、娘として、最後まで彼女の、母の側に居て。
「・・・・・だから、もう本当に良いのよ。私は、私に出来る範囲で頑張っていくつもりだから。」
只の意地かも知れない。或いは親子の情かも知れない。多分、半々位だろう。
確実なのは、彼等には関係のない話だという事だけだ。
彼等の優しさを利用してまで母の望みを全て叶えてやりたいと思う気持ちは、にはなかった。
「だからもう・・・・」
帰って。
そう呟きかけたに、サガは言った。
「ボトルがもう空だ。、もう1本頼む。」
「って聞いてる!?人の話!」
返事の代わりに渡されたのは、空っぽのシャンパンのボトルだった。
そう。
誰もの話など、聞く耳持ちはしなかった。
反対し、オロオロし、青ざめるをよそに、彼等は懐具合を一切気にせず実に豪快に飲み続け、そして。
「・・・・・・どうも有難うございました。閉店まで本当に長々と。」
結局、閉店まで居座っていたのだった。
店先まで黄金聖闘士達を送りに出たは、呆れ顔で彼等に頭を下げた。
「ホッホ、言葉の割には少しも嬉しそうな顔をしておらんのう。」
優しげな童虎の笑顔を見て、は堪らずに彼等に詰め寄った。
「だって皆・・・・・、一体幾ら使ったと思ってるの!?何でこんな馬鹿な事をする訳!?」
「くどいぞ、。」
「っ・・・・・!」
すると、ミロが真顔でそれを制した。
「俺達が好きでやっている事だ、俺達が良いと言ったら良いんだ。」
冗談を飛ばして陽気に笑っている時とは、まるで別人のように鋭く厳しいミロの顔と口調。
その有無を言わせぬ迫力に押し負けて思わず黙り込むと、ミロはまたいつもの朗らかな笑顔を浮かべて言った。
「そんな事より、この後付き合わないか?『アフター』とか言うんだったかな、確か?」
「それは良い。腹が減っただろう。何処かで一緒に飯でも食おうじゃないか。」
ミロとアルデバランの誘いを拒みきれずに黙っていると、彼等はそれを承諾のサインと受け取り、早速何処に何を食べに行くかの相談を始めた。
「スシ行こうぜ、スシ!回ってねぇやつ!」
「俺はヤキニクが良いな!あそこの店もヤキニクの店なんだろう?あの匂い、空きっ腹には堪らん・・・・!」
「・・・・・・・どっちも却下。」
しかし、デスマスクやアイオリアが力強く主張するのを、はいともあっさりと拒否した。
「私の希望を聞いてくれたら、付き合うわ。」
彼等に向かってそう告げたの気迫は、先程のミロに勝るとも劣らないものだった。
「ごめんね〜!今あんまり持ち合わせがないからさ〜!」
夜の女が1人と個性の強い外国人男性が12人という、傍が見ると全く繋がりの分からない奇妙な団体客がズラリと並んで店の大半の座席を占領し、牛丼だのカレーだのと対峙している様を、店員や他の客が唖然として見ている。
「だけどここなら大丈夫!皆、遠慮しないでお腹一杯食べてね!ここは私がご馳走するから!」
そんな視線を尻目に、はニコニコと笑った。
「いや、俺達はそんなつもりじゃ・・・!」
「私の希望を聞いてくれたら付き合う、って言ったでしょ?」
シュラが何やら遠慮がちな声を上げたが、聞き入れる気はにはなかった。
さっきの仕返しだ。
言葉を詰まらせて、渋々大人しく食べ始めるシュラ達黄金聖闘士を見て、は満足げに微笑んだ。
「・・・・・本当にごめんね。出来れば皆の食べたい物をご馳走したかったんだけど、回ってないお寿司屋さんとか有名人御用達の焼肉屋さんとかは、ちょっと厳しくて。」
ここは大通りに面した、某有名牛丼チェーン店のとある支店。
安くて美味くてボリューム満点という、三拍子揃った庶民の味方である。
何本もの高級な酒や高価な珍味の礼が特盛りの牛丼では、少々割に合わないのは承知の上だが、実権を握っている財布が命じるのだから仕方がない。
とは言え、やはり申し訳なくて、はこうして詫びたのだが。
「・・・・・・別に構わん。このギュウドンなるものも、なかなか美味だ。生卵がまた良く合う。」
「スープが多めの方が美味いな。」
「カレーもいけるぞ。」
「シュラ、儂の納豆を半分食うか?美味いぞ。」
「いえ、折角ですが遠慮します。その匂いはどうも・・・・・」
シャカも、カミュも、カノンも、童虎も、シュラも。
黄金聖闘士全員、誰も不服そうな顔をしたり、嫌々食べている様子もなく、着々と食べ進めている。
そんな彼等を眺めながら、も箸を取り、牛丼を一口頬張った。
「ハァ〜・・・・・・、美味し・・・・・・・」
深夜、これと同じ物を一人でかき込んで帰る事は割と頻繁にあるが、今夜の牛丼は格別に美味い気がするのは、『懐かしさ』という一味が加えられているからだろうか。
狭苦しい東京とは大違いの、広く高く青いギリシャの空の下で、こうして彼等と賑やかに過ごしていた時の、悲しくなる位楽しかった思い出が。
「・・・・・・皆と食べるご飯、やっぱり美味しい・・・・・・」
が思い出を噛み締めながら一言呟いたのを最後に、それきり食事が済むまで、もう誰も何も言わなかった。
長居してゆっくりと語り合える時間帯でも場所でもなかったのは、果たして幸か不幸か。
いや、多分幸いだった。
名残惜しくはあるけれども。
「今日は本当に有難う。嬉しかった。あれだけお金使わせたのに、お礼が牛丼でごめんね。」
が苦笑しながら謝ると、アフロディーテは優しく微笑んだ。
「ミロも言っていただろう。あれは私達が好きでやった事なんだ、見返りなんて求めてないよ。だけど食事はご馳走様。焼き魚のコースは口当たりがさっぱりとしていてなかなか美味しかったよ。ギュウドンはやや美的センスに欠けていてどうも食べる気がしなかったが。」
「ふふっ、だよね。アフロが丼抱えてガーッと牛丼をかき込む姿、ちょっと見てみたくはあったけど。」
「、家まで送りましょうか?」
「あっ、ううん、平気!そこでタクシー拾うから大丈夫!」
ムウの申し出を断って、は彼等から少し離れた。
「本当に今日は有難う!皆も気を付けて帰ってね!」
向こうの通り沿いに、停車中のタクシーが見える。
このままいつまでもグズグズしていたら、行ってしまうかも知れない。
「また会えて嬉しかった。・・・・・じゃ、さよなら。」
は笑顔で手を振り、小走りで駆け出して行った。
早くあのタクシーを拾わねばならなかった。
彼等とまた会えた嬉しさにこれ以上浸りすぎていたら、過ぎ去った筈の日々が恋しくなりそうで、怖かった。