グラスに注がれたばかりのシャンパンが、細かな泡をシュワシュワと立てている。
「さあ、乾杯しましょう。」
彼女はそれを満足げに見つめた後、グラスを掲げ持った。
「これからの私達に。乾杯。」
「乾杯。」
グラスを軽く触れ合わせ、との母は、ゆらゆらと軽やかに揺れる淡いピンクの液体をゆっくりと飲み干した。
ここは、都心の華やかな夜景を一望出来る高層ビルの最上階にあるレストラン。
母の行きつけだと言うこの店は、料理も酒も雰囲気も、全てが洗練されていた。
気安い雰囲気の店ではない上に、母との初めての晩餐という事もあって、は緊張の余り、つい無口になってしまっていた。
しかし、食事の間中、ずっと何も喋らないのも気まずい。
立ち食いの蕎麦ではあるまいし、出された物をそそくさと無言で胃に流し込んで、さっさと出て行くという訳にはいかないのだ。
少々間延びしてしまうような長いディナータイムには、何らかの会話がやはり必要不可欠である。
「あの〜・・・・」
ともかく何か会話の糸口を掴もうと、がおずおずと話し掛けたその時、彼女は不意に苦笑を洩らした。
「いい加減、それやめない?」
「え?そ、それ・・・・、って?」
「その話の切り出し方。何だか他人行儀で余所余所しいわ。あなた、努めて私の事を呼ばないようにしている感じがするけど、もしかして、私に抵抗感がある?」
「あ、ご、ごめんなさい、そんなつもりじゃないんです!ただ、何て呼べば良いか分からなくて・・・・・。」
図星を指されたは、慌てて弁解した。
しかしその弁解は、決してこの場を取り繕う為の嘘などではなかった。
感覚の違いには大いに戸惑っているが、は、彼女を恨んだり、憎んだりしている訳ではなかった。
無論、過去は決して消えないし、彼女を恨んだ時期がなかったと言えば嘘になるが、全ては遠い昔の事。
これからもそれを引き摺って生きて行こうとは考えていなかった。
でなければ、初めからこうして彼女の下になど来てはいない。
はただ、本名と通称を使い分けている母をどちらの名で呼ぶべきか、判断がつきかねていたのである。
そして、親子の実感もない今は、『お母さん』と呼びかけてみる勇気もまだ持てていなかった。
「・・・・ふふっ。良いのよ、謝らないで。」
彼女は、そんなの心の中を見透かしてでもいるかのように、微笑んで言った。
「そうよね、あなたにしてみれば、そう簡単に『お母さん』なんて呼べないわよね。」
「そ、そんな事は・・・・・」
「良いわ、無理に距離を縮めようとしなくても。このまま、敢えて一線を引いて付き合っていきましょう。実を言うと、こちらもその方が都合が良いの。」
「え・・・・」
「これから、私の事は『ママ』と呼んで。私もあなたに、他の娘達と同じように接するから。」
「は・・・・・・はい??」
再会してからまだ僅かな時間しか共に過ごしていないが、その間、驚きと困惑の連続だった。
しかし、意味を図りかねるこの言葉が一番、を困惑させたのであった。
「私ね、銀座でクラブのオーナーをしているの。」
「く、クラブ・・・・?」
は、スープを掬ったスプーンを口元に持っていった所で、思わず手を止めて訊き返した。
するとの母は、上品な仕草でサラダを食べながら、何気なく答えた。
「そう。『Venus』というのが店の名前。名刺に書いてあったでしょう。」
「あ・・・・・・」
確かに。
そして、『Venus』というのが一体どういう業種の企業なのか、気になってもいた。
まさかそれが銀座のクラブであったとは。
だが、それなら母が言った事にも納得出来る。
「・・・・・だから、『商売柄、女の子のサイズを当てるのは得意』って・・・・」
「そういう事。私は何十人、何百人というホステスを見て来ているからね。一目見れば、大体分かるわ。」
素朴かつさほど重要ではない疑問が解決したのはひとまず良かったが、彼女の話はまだ終わった訳では、いや、むしろここからが本題であった。
「自分で言うのも何だけど、うちは銀座でも指折りの高級店で、店の立地、雰囲気、サービス、客層、何もかもがそこらの店とは比較にならなかったわ。別格だったのよ。」
「は、はあ・・・・・」
「でもね、最近・・・・・・、恥ずかしい話なんだけど、危うくなってきてるの。」
「それはその・・・・・、『別格』という立場が?それとも、経営自体が・・・・・・、ですか?」
「両方よ。」
「あ、そ、そうですか・・・・・」
余りにもあっさりと返されたので信じ難かったが、彼女の話は嘘ではなかった。
「原因は、数ヶ月前に銀座に現れた『Aphrodite』という店なの。」
「アフロディテ・・・・・・」
その名を聞いた瞬間、遠くギリシャの地に居る魚座の黄金聖闘士と、美しい薔薇で飾られた彼の守護宮が思い起こされ、感傷が微かな波となっての胸の中に押し寄せて来た。
だが、その波に浸る暇もなく、彼女の話は続いた。
「その店は、少しずつ少しずつ、うちの店に迫って来た。初めは、うちに良く似た、それでいてうちより安価なサービスを提供したり、大々的に宣伝したりパーティーを開いたりして、必死にお客を掻き集めているという印象だったけど、最近は段々と大胆になってきてね。」
「どういう事なんですか?」
「女の子達の引き抜きよ。No.2、No.3の娘達をはじめ、目ぼしい女の子達を次々と引き抜き始めたの。これがどういう意味か分かる?女の子達と一緒に、貴重な上得意様もゴッソリ持って行かれたって事なの。」
「そんな・・・・・・」
感傷を打ち消したは、思いつく限りの対策を懸命に考え始めた。
「何か手はないんですか?ホステスさん達を説得して引き止めるとか、向こうの店にそういう事はやめてくれって頼むとか。それで駄目なら、他の店とも相談して何か手段を考えるとか・・・・・、そうですよ、他の店だっていつ同じ目に遭うか分からないんだし、相談すればきっと協力してくれると思います!それでも駄目なら、いっそ訴えるとか。大体、そういうのって営業妨害に当たるんじゃないんですか?出る所に出ればきっと・・・」
「無駄よ。スカウトは自由だもの。する側もされる側もね。そして勿論、お客様が何処の店で飲むかも自由。そうでしょう?」
「で、でも・・・・・」
「この世界はね、生存競争が激しく厳しいの。皆、自分が勝ち残るのに必死で、人の事なんて構っていられない。同情や協力なんて、誰もしてくれないわ。負ける方が悪いのよ。」
「そんな・・・・・・」
厳しい世界の現実を突きつけられて、が途方に暮れていると、彼女は安心させるようにふと口元を緩めた。
そして、丁度運ばれて来たばかりのステーキを食べるよう、に勧めた。
「勿論私だって、むざむざ負ける気はないわ。やっとの思いでここまで這い上がったのに、築き上げてきたものを全て失って惨めな負け犬に戻るなんてまっぴらよ。だから私も、色々と策を講じたわ。新しい女の子を入れて、店も改装して、より質の高いサービスを提供したりして。」
は、勧められるままに湯気を立てているステーキを切り分けて口に運び始めたが、彼女はシャンパンだけをゆっくりと飲みながら、更に話を続けた。
「・・・・・でも、結果は失敗だったわ。投資や経費がかさんだだけで、売上は伸びなかったの。正直に言って、今のうちの経営状態は火の車。このままじゃ店の存続が危ういという所まで来ているわ。」
「で、でもあの・・・・、生意気な事を言いますけど、お得意さんがゴッソリ減った状況なら、そういう結果になる事はある程度予想出来たんじゃ・・・・・。むしろ、価格を下げて新規のお客さんを沢山集めた方が良かったんじゃないかと・・・・・思うんですけど・・・・・」
おずおずと口を開いたを真顔で見据えると、彼女は頷いた。
「そうね。だけど、うちの店はそこらの安いキャバクラとは格が違うの。特別なのよ。『Venus』は、その地位に相応しい品格の店でなければいけない、安売りなんて出来ないわ。お客も同じよ。質の違いが分かる、品のある客でなければ駄目。うちの女の子達を欲望の目でしか見ないような下品な客は、うちには必要ないわ。店の格が落ちるもの。」
「・・・・・そう・・・・ですよね・・・・・・・」
は、彼女の気迫に押し負けた。
厳しい口調で己の信念を語る彼女の表情は、どこまでも真摯だったからだ。
初めはやはり怒らせてしまったかと思ったが、多分そうではない。
腹を立てるも何も、彼女は誰に何と意見されても、己の意志を決して曲げない人なのだろう。
彼女の真剣な眼差しを見て、は何となくそう思った。
「今は、No.1の娘の売上だけで、辛うじて持っているようなものよ。他は中途半端で余り見込みのない娘達ばかりで、店の状況を立て直せる程の売上は望めないわ。」
「じゃあ、誰か他に見込みのある人を雇えないんです・・・・か?」
「見込みのある娘自体が少ないのよ。幾ら教育したって、ものになるかならないかは本人次第。この世界で生き抜く覚悟が出来ていなければ、幾ら教育したって一人前のホステスにはなれないのよ。そして、その覚悟が出来ている女は、残念ながらごく僅かだわ。」
「そ、そういうものなんですか・・・・・・」
「そういうものよ。」
こっくりと頷いた彼女は、ふと微笑を浮かべてを見た。
「そこで、あなたに頼みがあるの。」
「な、何ですか・・・・?」
思わず身構えたに、彼女はこう言った。
「うちの店を手伝って欲しいの。」
「手伝ってって・・・・・・、ほ、ホステスになれって意味ですか!?」
「普通、他に意味はないわよね。」
「そ、そうですけど・・・・・・」
「勿論、お給料はきちんと払うわ。だからあなたも、職探しなんかしないで、うちの店一本で頑張って欲しいの。バイト気分じゃなく本業として。」
「・・・・・い、いやっ、無理っ!無理です、無理無理!!」
再会してからというもの、会話の主導権はいつも母に握られがちだが、こればかりは流されるまま頷けない。
は、必死になって頭を振った。
「私なんか全く見込みありません!そういう仕事した事ないし、というかそれ以前の問題で、私、お酒弱いんです!だから無理です、絶対無理!わざわざお給料を払うなら、もっと良い人が他に幾らでも居ますよ!」
「お酒は、飲んでいればある程度強くなるわ。それに、苦しい経費の中からわざわざ高いお給料を払うからこそ、信用出来ない赤の他人じゃなく、娘のあなたを雇いたいの。あなたなら信用出来るから。」
「う゛っ・・・・・!」
「自分の血を分けた子供程、信用出来る人間はこの世には居ないわ。母親というのはそういうものよ。」
「で、でも・・・・・」
「。」
「っ・・・・・!」
「お願い、助けて欲しいの。あなたの力が必要なのよ。」
彼女に名を呼ばれ、懇願されて、は言葉に詰まった。
この時初めて、母が近付いて来てくれた気がした。
今ならば、さり気なく呼べるかも知れない。
お母さん、と。
「お・・・」
「『Venus』は、私がこの身を削って一生を懸けて築き上げてきた、たった一つの財産なの。それを失いたくない。守りたいのよ。お願い・・・・・!」
だが、が口にしかけたその言葉は、彼女によって遮られた。
「たった・・・・・一つの・・・・・」
「お願い、私の力になって。娘でしょう?私達、親子でしょう?」
なりふり構わず、とまでは言わないが、ここまで必死に頼み込んで来るのだから、店に対する彼女の愛着心や執着心は、並大抵のものではないのだろう。
でなければ、いや、だからこそ、彼女は藁にも縋る思いで頼って来たのだ。
こうして、昔捨てた娘にまで。
「・・・・・・・・・・分かりました。」
何かが突き刺さったような胸の痛みがピークを越え、痛みの余韻が細く尾を引いて消えていくのを待ってから、は静かに答えた。
「どれ位お力になれるか分かりませんけど、やれる限りは頑張ってみます。」
「・・・・・有難う、。」
礼こそにこやかに言ってくれはしたが、彼女には、に対する要求がまだあったようだった。
「でも、やるからには半端な気持ちじゃ駄目よ。No.1の娘が認める位、いえ、あなたがNo.1の座を奪う位のつもりでいてくれなければ困るわ。」
「・・・・・・ごめんなさい。私、ちょっとお化粧直してきます。」
母の要求は、彼女にとっては当然の事を言っただけに過ぎないのだろう。
しかしにしてみれば、それは『無理難題』というものだった。
彼女の要求に満足に応えられる自信は勿論の事、再びざわつきはじめた心を彼女の前で何食わぬ顔をして鎮められる自信もなく、は逃げるようにして席を立った。
「・・・・・・でなければ困るのよ・・・・・・・」
そそくさと化粧室に逃げて行く自分の背中を見つめて彼女がこう呟いていた事など、には勿論気付く由もなかった。
食事を済ませて帰宅すると、もう夜も遅い時間になっていた。
長時間のフライトと、慣れない環境への戸惑いや驚きのせいで、身体は勿論疲れている。
しかしは、一人で自室に篭り、早速荷解きを始めていた。
「私達は親子・・・・・・か・・・・・・・」
ぼんやりと手を動かしながら食事の席での事を思い出し、あの時の母の言葉を思わず呟いた瞬間、ドアがコンコンと鳴った。
「お風呂沸いたわよ。お先にどうぞ。」
ノックの後、部屋に入って来たの母は、床に広がっているの荷物を見て、目を丸くした。
「・・・・・・あら、こんな時間に荷物の整理?」
「あ、ごめんなさい!遅くにガタガタして・・・・。でも、今しか時間なくて・・・・・」
「構わないわ。気にしないで。」
の明日の予定は、昼も夜も埋まっていた。
昼は星の子学園に帰国の挨拶がてらお土産を渡しに行き、夜は母の店に初出勤するのである。
それが決まったのは帰宅途中のタクシーの中、決めたのは例によっての母だった。
「・・・・・・・あら、それ・・・・・・」
の母は、ふと床にあった物に目を留めると、苦笑を浮かべた。
「ふふ・・・・・、まだ持ってたの。」
それは、が小さな頃から持っていた、子供用のハンドバッグだった。
大事な物が入った、宝物のあのバッグだった。
「宝物・・・・・だから。」
「そう。」
それが唯一の母との繋がりだったのだ。
それを捨てる事は、には出来なかった。
訳も分からず、ただひたすら母の迎えを待ち続けた日々も、
捨てられたと理解した後も、
自分の境遇を憂い、少なからず母を恨んだ多感な頃も、
全ては過去の事だと割り切れるようになった今も。
「・・・・・・・どうして」
「何?」
「どうしてあの時・・・・・、私を捨てたんですか?」
「・・・・・・・やっぱり、知りたいわよね?」
「まあ・・・・・・、一応は。」
全ては過去の事だと割り切って生きてきたのは事実だった。
しかし、こうして再会してしまった今、化石のようだった過去の時間が再び息を吹き返すのも、
そして、時間と共に葬られていた真実を知りたいと思うようになるのも、無理はなかった。
「理由は至って単純よ。あなたを育てきれなかったから。」
しかし、余りにもあっさりとした母の言葉は、には少々物足りなかった。
「怒らせちゃったかしら?」
「・・・・いえ。訊いたのは私ですし、もう済んだ事ですから。ただ、弁解ぐらいはして欲しいと思っています。」
「弁解なんてする気はないわ。私は、自分と娘を天秤にかけて、自分を選んだ。要はそういう事だもの。私が憎ければ、憎んでも良いわよ。」
彼女はそれまで、微笑混じりで余裕の態度を示していたが、不意に真剣な顔付きになると、まるで助けでも求めるような、悲痛とさえ言える口調で言った。
「でも、出て行かないで。憎んでも恨んでも良いから、私を助けて頂戴。」
「・・・・・・・私、分かりません。どうして私をそんなに必要とするんですか?」
「娘だからよ。」
は、いよいよ彼女が分からなくなってきた。
幾ら自分の大切な店が経営難に陥っているとはいえ、遠い昔に捨てたきりの娘を、何故わざわざ捜して呼び戻したのか。
過去の事を弁解するどころか、『憎んでも良い』とまで言うのに、何故一緒に暮らしたがるのか。
全ては店の為、なのかもしれない。
だが、それにしては合点のいかない事がある。
店の為なら、生活の面倒を看るどころか、給料さえ出し渋られてもおかしくない。
「片付けが一段落したら、お風呂どうぞ。」
ならばやはり、捨てきれない母親の情故なのだろうか?
しかし、決して感情を剥き出さない母を見ているとそうとも思えず、は無言のまま、部屋を出て行く彼女を見送った。