『おかあさぁん、どこいくの?』
『ちょっとご用事があるの。すぐに済むから、ここで皆と遊んで待ってて。』
『すぐおわる?』
『すぐよ。終わったらすぐに迎えに来るから。』
― すぐに迎えに来るから・・・・・
「・・・様、お客様。」
「ぅ・・・ん・・・・・・・、っは、はいっ!?」
驚いて飛び起きると、微笑を浮かべた乗務員の女性と目が合った。
「到着致しました。どうぞお降り下さい。」
彼女に言われて周りを見てみると、大勢居た乗客が、もう殆ど残っていなかった。
「は、はい・・・・。」
「有り難うございました。お気を付けて。」
手早く荷物を抱え、はそそくさと飛行機を降りた。
「はぁ・・・・・・」
長時間窮屈なシートに座っていたせいで、身体のあちこちが強張っている。
入国手続きを終えたは、今、申し訳程度に腕を曲げ伸ばししたり首を回したりしながら、到着口に向かって歩いていた。
あちこちから聞こえて来る言葉は大半が日本語で、まず目に付く文字も日本語。
そう、とうとう日本に帰って来たのだ。
荷物を抱えて土産を買い込み、更に増えた荷物を携えてギリシャでの最後の食事を済ませ、飛行機に乗り込んでから約1日。
途中の乗り継ぎや食事などを除く大半の時間を、はウトウトとまどろんで過ごしていた。
前日の徹夜が祟ったのか、飛行機に乗り込んだ途端に、急に猛烈な疲労と眠気に襲われたのだ。
それらは幾ら眠ってもしつこく身体に纏わり付き、食事もそこそこに、眠っては起き、起きては眠りを繰り返していた。
その間、幾つもの夢を見た。
浅い眠りの合間に短い夢を、幾つも、幾つも。
全く知らない誰かや、自分や、自分の良く知る人間や、おぞましい怪物が入れ替わり立ち替わり出て来た後、最後に出て来たのは母だった。
幼い頃、母と別れた時の、あの光景だった。
「・・・・・・・もう来てるかな・・・・・」
腕時計を見れば、午後の1時を回ったところだった。
そろそろ、母がここのロビーに迎えに来てくれている筈である。
到着口を出たは、きょろきょろと辺りを見回した。
「あ・・・・・・」
母の姿は、拍子抜けする程すぐに見つかった。
到着口に一番近い席に座っていた彼女は、と目が合うや否やゆっくりと席を立ち、に向かって歩み寄って来た。
「お帰りなさい。」
「・・・・・・・ただ・・・・・いま・・・・・・」
微笑む彼女の顔を見て、は一瞬、さっきの夢の続きを見ているような、そんな錯覚を覚えた。
だが、これは紛れもない現実だった。
の母は、夢の中でのように儚く消えたりはせず、ヒールの音を鳴らしながら、の隣を歩いた。
そして空港の外に出ると、さっさと手近なタクシーを拾い、運転手に頼んでの荷物をトランクに積ませた。
「さあ、乗って。」
言われるまま先に乗り込むと、後から続いて彼女も乗り込んだ。
「取り敢えず、荷物があるから、一度家に帰りましょ。」
「はい。」
彼女が運転手に行き先を告げると、車は静かに走り出した。
まだ見ぬ我が家に『帰る』為に。
「さあ、着いたわ。ここよ。」
それから数十分後に着いた場所は、都心の所謂『一等地』だった。
目の前にそびえ立っているこの高級そうな雰囲気の高層マンションが、どうやら母の住まいらしい。
沙織の屋敷とは流石にレベルが違うだろうが、このマンションだって、十分に一般庶民には手の出ない物件に違いない。
現に、聖域に行く前に住んでいたアパートとは、明らかに格が違う。
一般庶民であるは、下世話にもつい値段を想像してしまい、思わず呆然となった。
「・・・・ふふっ。」
すると、の母は可笑しそうに小さく笑った。
「あ・・・・、ご、ごめんなさい・・・・!」
「さあ、ついていらっしゃい。」
何を考えていたか見透かされた気がして、は恥ずかしくなったのだが、彼女は特に何も言わず、の荷物を半分持ち、マンションの中へと入って行った。
豪華な造りのエントランスを抜けてエレベーターに乗り、12階まで上った。
その階の一室が、の母の住まいだった。
玄関のドアは重厚な感じで、隣室との距離も十分に空いている。
恐らくは量より質、部屋数は少なく、一室一室が広い、贅沢な造りになっているのだろう。
やはり、外観通りの高級マンションのようだ。
しかし、そんな事よりも気になる点が、にはあった。
「今日からここがあなたの家よ。何も遠慮は要らないわ。好きに過ごして。」
ドアを開けた母に付き従って中へ入るその前に、はもう一度、それを見た。
「はい、これ合い鍵ね。忘れない内に渡しておくわ。」
「は、はい・・・・」
母がキーケースから取り出して渡してきた鍵を受け取りながら、は尋ねた。
「あの、一つ聞いても良いですか?」
「何?」
「表の表札、名前の頭文字がどうして『S』なんですか?」
そう、この部屋の表札は妙だった。
はローマ字できちんと明記されているが、名前は頭文字だけ、それだけなら何もおかしくはないが、その頭文字が間違っているのだ。
彼女の名は『レイコ』、ならば頭文字は『R』になる筈なのに。
「表札、間違ってるんじゃないですか?それとも、他に誰か同居している人が・・・・」
入る部屋を間違ったとは考えられない以上、考えられるのはこの2つだった。
そして問題なのは、2つ目の推測が当たっていた場合である。
もしも母に同居人が居たとして、万が一にもそれが彼女の夫や恋人だったら、居場所がない。
それに、これは限りなくゼロに近い可能性だが、実の父親であるかもしれない。
もしそうだったら、尚更どうすれば良いか分からない。
何しろ、父親に関しては、全く何の記憶もないのだから。
「ああ。何かと思えばそんな事。」
だが母は、不安げなを見て、事も無げに笑っただけだった。
「安心して。この部屋には私しか住んでいないわ。それに、表札も間違ってない。」
「え?でも・・・・」
「『レイコ』は通称なの。本名は『セツコ』。礼節の『節』と書くの。地味でしょう?」
同意を求められても、今初めて知った事実に驚いているには、返事をする事が出来なかった。
一方、彼女は、唖然としているをよそに、一人で喋り出した。
「本名は気に入らないの。だから、礼節の『レイ』の音を取って、麗しいって字を当てて、『麗子』にしたの。この方が華やかで良いでしょう?大抵はこの名前で通してるのよ。さあ、いつまでも立ち話も何だから、中に入って。」
先に入って行く母親の後ろ姿を見ながら、は改めて、彼女との距離を思い知らされた気がしていた。
「ここがお風呂と洗面所。トイレはそっちね。」
廊下を歩きながら指を指して簡単に場所を教えると、の母は廊下の突き当たりにあったドアを開け放った。
「リビングはこっちよ。」
「わ・・・・!」
ドアを潜ったは、思わず感嘆と驚きの声を上げた。
ちょっとしたパーティーなら十分に開ける程の、広いリビングだ。
聖域の家のリビングも広かったが、ここまでではなかった。
このリビングなら、黄金聖闘士達が全員集って来ても、おしくらまんじゅうのようにはならないだろう。
しょっちゅうひしめき合って飲み会や食事会をしていた、あの楽しかった日々を思い出し、密かに口元を綻ばせていたに、彼女が不意に声を掛けた。
「そうだ。お腹空いてない?」
「は、はいっ!?」
「お昼まだでしょ?夜に、私の行きつけのレストランを予約してあるんだけど、若い娘はそれまで持たないわよね。」
「い、いえ・・・・」
「近くのカフェで、コーヒーと何か軽い物でも取るわね。すぐに持って来させるから。」
おたおたと曖昧な返事しか出来ないとは違い、彼女は素早く決めたようで、早速注文の電話を掛け始めた。
電話を掛けている彼女を暫し途方に暮れた目で見ていたは、ふと思い出したように急いで荷物を漁り、紙袋を一つ取り上げた。
そして、彼女が受話器を置いた後、おずおずとそれを差し出した。
「あ、あの・・・・」
「何?」
「これ、ギリシャのお土産です。お口に合えばと思って・・・・」
「まあ、有り難う!気を遣わせて悪かったわね。」
「いえ、ほんのちょっとした物ですから・・・・。」
「あら、ワインね!嬉しいわ、ワイン好きなのよ!」
はにかむの前で紙袋から中身を取り出すと、彼女は満面の笑みを浮かべた。
その笑顔を見て、は安堵と共に、嬉しさを感じた。
正直なところ、彼女がこんな土産を喜んでくれるとは思っていなかったのだ。
「後で一緒に飲みましょう。」
「はい。」
「冷やしても構わない?私、冷たい方が好みなものだから。」
「ええ。どうぞ。」
「そうそう、案内がまだ途中だったわね。あっちがキッチンなの。これを冷やしに行くついでに、案内するわ。」
「はい。」
相手の事を殆ど何も知らないのは、お互い様だ。
これから一つずつ知って、一つずつ積み上げていかねばならない。
血だけが繋がった他人から、本当の親子になる為に、これから一つずつ、ゆっくりと。
母と微笑み合いながら、は内心で自分にそう言い聞かせていた。
「わあ、綺麗なキッチン・・・・・!」
案内されたキッチンは清潔で広く、まるでモデルルームのように整然としていた。
「殆ど使ってないからね。」
「そ、そういう意味じゃ・・・・!」
慌てて弁解しながらも、このキッチンが殆ど使われていない事は、一目瞭然だった。
汚れているどころか、調理器具さえ満足に揃っていないのである。
「ふふっ、分かってるわよ。でも本当の事だから。私、家事は殆ど何もしないの。仕事で疲れて帰って来るのに、面倒な家事なんてやってられないでしょう。そんな事する暇があったら、寝ていたいじゃない?」
「は、はあ・・・・」
「食事はいつも外食か出前。このキッチンは、お茶を淹れる時かごく簡単な物を作る時位しか使わないわ。使っていると言える物も、冷蔵庫と電子レンジ位よ。」
「でも、勿体無くないですか?折角こんな立派なキッチンがあるのに・・・・。このオーブンなんか、とても良さそうですよ。こんなのでローストビーフとか作ったら、凄く美味しく出来そう・・・・・。」
が独り言のように何気なく呟くと、の母は意外そうに目を見開いた。
「あなた、お料理上手なの?」
「人並みです。私は基本的には自炊ですから。」
「そう。」
「・・・・・あの、もし良かったら、これからは私が食事を作りましょうか?」
は少し考えてから、こう申し出た。
口ではああ言っても、この広い家の中がこれだけ綺麗なのだから、彼女が少ない余暇を削って部屋の掃除に勤しんでいる事は容易に想像出来る。きっと、かなりの綺麗好きなのだろう。
だから炊事にまでは手が回らないに違いないと、はそう思ったのである。
「それから、掃除や洗濯もやります。そりゃ、完璧に出来るとは言えませんけど、少しはお役に立てると思います。」
は、いきいきと瞳を輝かせながら言った。
住まわせて貰う見返り、そういう意味も確かにある。
しかし、それだけではない。
折角縁があってこうしてまた一緒に暮らす事になったのだから、助け合って支え合って暮らしていきたい、それがの気持ちだったからだ。
しかし、の母は、小さく笑って首を振った。
「あなたの手料理は是非一度食べてみたいけど、家事はしなくて良いわ。」
「え・・・・」
「掃除は週に2度、業者に頼んで来て貰っているの。洗濯物もその時に、業者が引き取ってクリーニングに出してくれるわ。だからあなたも、何もしなくて良い。洗濯物は、洗面所のランドリーボックスに放り込んでおいてね。他に急いでクリーニングしなきゃいけない物が出たら、私に言って。すぐに業者を呼ぶから。」
「は・・・あ・・・・」
「それから、あのドアの向こうが私の寝室。あなたの部屋は、反対側のあのドアの向こうよ。ついて来て。」
彼女は、が唖然としているのに全く気付いていない様子で、先にキッチンを出て行った。
「ちょっと殺風景だったかしら?あなたの好みが分からなかったから、無難な感じで纏めておいたんだけど。」
「いえ、そんな事・・・・」
これから自室になる部屋を見て、はまたもや目を見開く事になった。
『殺風景』という言葉が、謙遜にしか聞こえない部屋だったからだ。
「何が必要かも分からなかったから、取り敢えず最低限の物しか揃えてないの。必要な物があったら買い足すわ。何か足りない物はある?」
「い、いえ、これで十分です・・・・・!」
明るいグレーを基調にしたモノトーンで統一されている部屋には、セミダブルのベッドと机と椅子、本や小物を収納するラックにドレッサー、そしてTV、エアコン、電話、ノートパソコン、コンポまで備えられていた。
これ以上欲を言うなどとんでもない、もし言えば罰が当たりそうな、十分すぎる部屋だった。
「そう?なら良いんだけど。・・・・それから、こっちも見て。」
だというのに、この部屋にはまだもう一つ、を大いに驚かせるものが備わっていた。
の母が開いて見せたドアの向こうに。
「これ・・・・!」
ドアの向こうは広々としたウォークインクローゼットで、その中には既に、ドレスやスーツが数着掛かってあった。
しかも、そればかりではない。
片隅には幾つかの真新しいバッグが置かれ、ジュエリーボックスの中にはアクセサリーや腕時計が詰まっており、彼女が次々と開けていく箱やチェストの引き出しからは、靴や洋服やランジェリーまでもが出て来たのである。
「全部あなたの物よ。どう、気に入った?」
「服や下着まで用事してくれてたんですか・・・・」
「好みじゃなかった?」
「いいえ、違います。ただ、身の回りの必要な物は、一応一揃い持って来たから・・・・」
驚きの余り呆然としているに、彼女は苦笑して見せた。
「それであんなに大荷物だったのね。全部こっちで買い揃えるって言ったのに。」
そして、を頭から足の先まで値踏みするように眺めると、小さく溜息をついてこう言った。
「子供じゃあるまいし、安物を着るのはおやめなさい。洗練された本物を身に着けなければ、女としての品格が上がらないわ。良い服を着るのも、自己啓発の一環よ。」
そう断言してから、彼女はいそいそとクローゼットの中を物色し始めた。
「サイズは多分合う筈よ。商売柄、女の子のサイズを当てるのは得意なの。良かったら、早速着てみて。これなんかどうかしら?」
彼女はその中から淡いローズピンクのドレスを手に取り、に差し出した。
しかしは、渡されたドレスを前にして、はしゃぐどころか困惑していた。
確かに素敵なドレスだ。素敵すぎて、着て行く場所が思いつかない。
しかし、そんな事はどうでも良い。
母は『商売柄』と言ったが、彼女の商売とは一体何なのだろう。
いや、それも気になるが、何より先決なのは、身に余るこの贈り物の数々を辞退する事だ。
「・・・・困ります。」
「え?」
「こんな高そうなものを、それもこんなに沢山、頂く訳にはいきません。」
このクローゼットの中身は、全てが高級品だった。
ドレスやスーツ、バッグは言うに及ばず、普段着らしき服にさえ有名ブランドのタグがついており、下着やパジャマはシルク製らしかった。
靴もアクセサリーも腕時計も、全てが見るからに一流品である。
こんな高価な品、自分の収入ではとてもこんなに沢山買い揃えられない。分不相応も良いところだ。
幾ら自分で買った物ではないとはいえ、いや、だからこそ、身に着ける事は出来ない。
そう思ったは、静かながらも毅然とした口調で言った。
「お気持ちだけは有り難く受け取りますが、私ももう社会人です。一緒に暮らすと言っても、養って貰おうとは思っていません。私の生活費は、私が支払います。必要な物も、自分で買いますから。」
無言になった母に、は微笑みかけた。
「私、早速明日から職を探そうと思ってるんです。勿論、ここから通える場所で。丁度良い機会ですから、私の負担分を、今、決めて貰えませんか?そうして貰った方が、職探しの目安が出来て、私も助かりますし。」
には勿論悪意などなく、ただ大事な話をしただけのつもりだった。
そして、口調にも気を付けて、明るく屈託なく言ったつもりだったのだが、彼女は少し気を悪くしたように低く呟いた。
「・・・・何も来て早々、お金の話なんかする事ないんじゃないかしら。」
「気を悪くさせたのなら謝ります。でも、大事な事ですから。」
「私に甘えようとは思わないの?」
「結果的には甘えさせて貰う事になると思います。本当は全部折半にするのがベストなんだろうけど、こんな凄いマンションのお家賃、私のお給料じゃきっと半分も払えませんから。」
「・・・・・・」
「でも、可能な限りは払います。足りない分は家事労働で払わせて下さい。家事を業者に任せるのは、私には贅沢すぎるので、自分でやろうと思うんです。だからついでに・・・」
「必要ないわ。」
彼女はの話を遮ると、きっぱりと言い放った。
「何も必要ないのよ。さっきも言った通り、家事なんかしなくて良いし、お金も受け取らないわ。」
「な・・・・」
が困った顔をすると、彼女はふと優しく微笑んで、幼子を諭すように話し始めた。
「あなたが来る前から、私はこのマンションに住んで、この暮らしをしているの。そこにあなた一人が来た位で、支出はそう変わらないわ。」
「でも・・・・」
「思ってた以上にしっかり成長していたみたいで嬉しいわ。でも、水臭い事は言わないで。あなたは私の好意に甘えれば良いの。甘えるのに理由が必要なら、昔の罪滅ぼしだとでも思っておけば良いわ。」
「そんな・・・・・!」
取り乱したならともかく、落ち着いた微笑を浮かべてそんな自虐的な台詞を口にされては、には最早何も言えなかった。
何も昔の事を当て擦って、彼女との間に一線を引こうとしたのではなかったのだが。
「こんな程度で、そんなに恐縮しないで。」
は気まずそうに黙り込んだが、彼女は別段傷付いた様子もなく、話を続けていた。
「ここにある物は、全部当座に必要な最低限よ。今度の休みにでも、改めて二人でゆっくりショッピングに行きましょう。あなたに似合うもの、私が見立ててあげる。ああ、それから、地下の駐車場に車があるわ。私は最近運転しないから、あなたが好きに使って。」
「私、免許持ってませんから・・・・」
「そう。なら、免許を取ったら好きに使って。」
その時、チャイムの音が鳴った。
「あら、出前が来たみたいね。はいはい・・・・」
スリッパを鳴らしながら部屋を出て行った彼女を追って、もすぐに部屋を出た。
幾ら自分の物だと言われても、この夢のような小部屋はやはり分不相応すぎる気がして、居心地が悪かった。