午前6時。
まだ『早朝』と呼ばれる時間帯にも関わらず、双児宮では人の動く気配がしていた。
「・・・・あ〜あ、良く寝たぜ・・・・。」
床からムクリと身体を起こし、爆発気味の銀髪を乱雑に掻き乱しているデスマスクの近くでは。
「・・・・全くだ。寝過ぎで馬鹿になりそうだ。」
そのデスマスクの独り言に、これまた独り言のように同調しながら、ミロが欠伸をしている。
だが、その独り言も欠伸も、少々わざとらしかった。
そもそもデスマスクは、自他共に認める夜型人間だ。
こんな朝早くにスッキリと目覚める事など、普段はまず無い。
ミロにしてもそうだ。寝過ぎと言う割には、目の下が少しくすんで窪んでいる。
「ああ、ああ、そうだろうとも。」
いつもと違うのは、何も二人だけではない。
次々と身を起こしている他の黄金聖闘士達も、皆似たような状態だった。
例えば、今、デスマスクとミロに対して、苦笑しながら適当に相槌を打ったアルデバラン。
彼の目とて、少々充血してしまっているのだ。
皆、昨夜はろくに眠っていない。
眠りたくても眠れなかったのである。
「・・・・いよいよ、だな。」
アイオリアが神妙な面持ちでそう呟いた途端、一同は水を打ったように静まり返った。
そう。
あと何時間もしない内に、は聖域を出て行く。
刻々と迫るその時の事を考えると、朝から気が沈むのも無理からぬ事だった。
が、唯一人、彼だけは違っていた。
「お前達、いつまで寝ている!?さっさと起きろ!」
突然、リビングの扉が勢い良く開け放たれたかと思うと、ウルトラ寝不足の頭に止めを刺しかねない大声を張り上げながら、サガが入って来た。
「・・・・って、何だ、皆起きていたのか。珍しいな、こんな早くに。」
「心外だなオイ。俺達だって、偶には早起きする事もあるんだぜ。」
「いつもしてくれると助かるのだがな。特にデスマスク、遅刻常習犯のお前は。」
デスマスクの反論を嫌味でサラッと切り返して、サガは忙しげに一同を追い立てた。
「さあ!飯にするから支度を手伝え!うちは旅館ではないのだぞ!上げ膳据え膳だと思ったら大間違いだ!それから、食ったらさっさと身支度だ!を見送ってやらねばならんのだからな!」
その勢いについていけている者は、一人も居ない。
只でさえ早朝で、一応といえども寝起きの状態である上に、今は皆、サガの言う『見送り』を目前にして、多少なりとも気が沈んでいるのだ。
それは恐らくサガとて同じ筈なのに、どういう訳かサガは特に落ち込んだ様子もなく、一同を不思議そうに見て首を傾げた。
「ん?どうした、お前達?朝っぱらからやけにテンションが低いな。それにカノン、その目の下のクマはどうした?」
「お前こそどうした。朝っぱらから何でそんなハイテンションなんだ。それに、クマならお前の目の下にもくっきり出ているぞ。」
ひとまず呆れ顔で突っ込でおいてから、カノンは探るような目付きでじっとサガを見た。
「・・・・どうせろくに寝ていないんだろう?」
「・・・・良いから、飯の支度をするぞ。さっさと手伝え。」
「・・・・フン。」
サガは、カノンの視線をはぐらかすように避けた。
カノンもまた、それ以上は食い下がらず、口を閉ざした。
弟には兄の強がりが、兄には弟の言いたい事が、それぞれ分かっている。
そういう事のようだった。
「本当だぁ。サガとカノンだけ、クマがあんなにくっきりはっきり。二日酔いかなぁ?」
「二人共、もういい歳ですからね。如何に黄金聖闘士と言えども、寄る年波には勝てないのですよ。」
『何か言ったか、羊共?』
悪気はない貴鬼と明らかにふざけているムウの陰口に揃って振り返り、キッと睨み付けてから、サガとカノンはキッチンに消えた。
それから暫くして、双児宮では男だらけのムサ苦しい朝食タイムが始まったが、
その席では取り立てて会話もなく、昨夜の事を口にする者も誰一人として居なかった。
「・・・・・・・そろそろ支度しなきゃ・・・・・・・・」
泣き濡れた頬を拭い、時間を確認すると、もう朝の8時だった。
結局一睡も出来なかったが、今のところ目はしっかり冴えている。
もうこうなったら、飛行機に乗るまで起きている事にしようと決めて、は立ち上がった。
キッチンに行って水をグラスに一杯飲み、洗面を済ませ、服を着替えて、念入りにメイクをした。
泣いて腫れた瞼と、目の下のクマを、出来るだけ隠せるように。
それから髪を整えて、ムウに貰ったブローチを胸元に留め、アフロディーテに貰った香水を一噴きした。
後は戸締りをし、荷物を持って家を出るだけだ。
「この家とも、もうお別れね・・・・・・・・。」
戸締りと点検をしながら家中を歩き回っていると、この家で過ごした日々の事が次々と思い起こされた。
居心地良く、住み慣れたこの家には、こうして改まって振り返ってみると、思い出が沢山詰まっていたのだ。
毎日食事を作ったキッチンにも、一番安らげた寝室にも、
一人でのんびりと寛いだ、そして、誰か彼かと楽しい時間を過ごしたリビングにも。
家中の至る所に、沢山の思い出が詰まっている。
表に置いてある鉢植えの花は、母と再会する少し前に貴鬼と植えた。
寝室のフローリングの小さな傷は、模様替えをしようとして付けてしまった。
一人で四苦八苦していると、ムウがサイコキネシスで手伝ってくれて、ものの数分と掛からぬ内に終わった。
ソファの下に転がった指輪が取れなくて困っていた時、アルデバランがひょいとソファを持ち上げて助けてくれた。
カノンは、飲んで来た夜には、よく『双児宮まで帰るのが面倒だから』と押し掛けて来て、リビングの床に転がって眠りこけていた。
それを読んでいるサガがカノンを連れ戻しに来ては、二人で夜中に大喧嘩を繰り広げてくれた。
デスマスクの煙草のヤニで、真っ白だった壁紙が少し黄ばんできた。
大きな蛾が入って来てピンチだった時、アイオリアが追い払ってくれたお陰で事無きを得た。
日光の良く入るリビングの掃き出し窓の前はシャカの特等席で、彼はよくそこに座り込み、静かに瞑想をしていた。
トイレの壁に造り付けられた棚は、あれば便利だろうからと、童虎が作ってくれた。
TVのクイズ番組を一緒に観ながら、どちらが多く正解出来るか、よくミロと白熱した戦いを繰り広げた。
いつだったか、得意料理でまさかの失敗をしてしまって落ち込んだ時、焦げたその料理をシュラが黙々と平らげてくれた。
暑い日は、よくカミュに我侭を言って、部屋の中を冷やしに来て貰った。
家の中は、アフロディーテに貰った美しい薔薇の花がいつも絶えなかった。
沙織が忙しいスケジュールを調整して偶にこの家に泊りに来た時は、敢えて男子立ち入り禁止にし、気の置けない女同士で存分に甘い物を食べ、夜通し色々な事を喋り明かした。
男である黄金聖闘士達は、『飯の直後に何でケーキが入るんだ』とか『何をそんなに喋る事があるんだ』などと言って呆れていたが。
どれもこれも、何気ないけれども大切な思い出だ。
この家は、単なる建物ではなく、大切な思い出の詰まった宝箱のようなものだ。
だが、宝箱の中身は、もうこれ以上増える事はない。
「・・・・・さようなら。」
玄関から家の中を見回して別れを告げた後、は荷物を手に、家を出た。
すると。
「。」
「皆・・・・・!」
家の前に、聖衣を纏った黄金聖闘士達が、ずらりと並んで勢揃いしていた。
「あ・・・・あははっ・・・・、皆、本当に見送りに出て来てくれたの・・・・・!?」
「約束しただろう?」
「それにその格好、どうしたのよ・・・・・!?」
「まあ、一応な。この方が格好がつくだろう?」
泣き笑いのような顔になっているの質問に、カミュとミロが笑って答えた。
「プッ・・・・・、あはははっ!なーんか、ここに来た最初の日を思い出しちゃう!ほら、初めて会議室で皆と会った時!あの時もこんな感じで、私、すっごく緊張したんだからー!」
笑って饒舌に喋るを見て、黄金聖闘士達は柔らかい微笑を浮かべた。
は、いつもこうして明るく笑っていた。
だからこそ、あんなにも楽しい日々を過ごす事が出来た。
これまでの事を思い返しながら、一同は一人一人、に歩み寄った。
「道中、お気をつけて。」
「有難う、ムウ。」
ムウは穏やかに微笑んで、と握手を交わした。
「オイラの事、忘れないでね!」
「勿論よ、貴鬼!私の事も忘れないでね!」
貴鬼は今にも泣きそうな顔で、にしがみ付いた。
「元気でな!」
「うん、アルデバランもね!」
アルデバランは、勇気づけるようにの肩を叩いた。
「十分用心して帰れ。ボケッとしていたら、変な奴に酷い目に遭わされるぞ。」
「ふふっ、カノンみたいな人に?」
カノンは冗談めかした笑みで、
「その通り。カノンのような輩には特に要注意だ。スリ、置き引き、引ったくり、マフィア、ドラッグの密売人、人攫いetc・・・・・、危険な輩はごまんと居るのだからな。無事日本に着くまで、決して気を抜くのではないぞ。」
「あははっ!サガってホント心配性ね!大丈夫よ、安心して。」
サガは真剣そのものな表情で、それぞれの道中の安全を案じた。
「スリよりマフィアより、まずは迷子の心配だろうよ。のドン臭さと方向音痴っぷりには凄まじいものがあるからな。乗り継ぎ間違えてとんでもねぇ所で泣くハメになるなよ、ケケッ。」
「だ〜から大丈夫だってば!っていうか一言多いのよ、デスは!」
デスマスクは、最後までいつもの調子でをからかった。
「ははは。まあ、とにかく長い旅だ。気をつけて帰れ。」
「うん。有難う、アイオリア。」
アイオリアは大らかに笑って、の手を力強く握った。
「それから、機内食の食いすぎにも気をつけたまえよ。欲を出してがっついて、腹など壊さぬようにな。」
「あら。シャカこそ、食べすぎには気をつけてね。お腹壊しても知らないわよ?」
シャカはが言い返してきた冗談を、満足げに微笑んで受け止めた。
「ホッホ。ともかく身体は厭うのじゃぞ。達者での、。」
「うん。童虎も、元気で長生きしてね。・・・・って、見た目私より若い人に、こんな台詞も可笑しいわよね、ふふっ。」
童虎は深い温かさに満ちた表情で、と笑い合った。
「男を作るなら、よーく人柄を見極めてからにしろよ!目安は、『俺の眼鏡に適いそうな奴』だ!」
「あははっ!漠然としすぎてて分からないわよ、そんな目安!・・・・・でも、肝に銘じておく。」
ミロは、名残惜しげにをハグした。
「頑張れよ、。お前なら、きっと何処でも立派にやっていける筈だ。」
「うん、頑張る。・・・・有難う、シュラ。」
シュラは、心からの激励をに送った。
「君のこれからの人生が、幸多きものであるよう祈っている。」
「有難う、カミュ。」
カミュは、真摯な眼差しでを見つめた。
「お母さんは、きっと首を長くして待っているだろうね。折角なのだから、この際うんと甘えると良いよ。」
「そうね、そうする。有難う、アフロ。」
アフロディーテは、の頬に軽く口付けた。
いつも明るかったの笑顔。
どうか、どうか。
これから先も、がこの笑顔を絶やさぬように。
口にこそ出さねど、一同は皆、心の中でそう願っていた。
「・・・・・・・皆、有難う。本当に有難う。」
いつまでもこうして皆と笑い合っていたいのは山々だが、そろそろ出発しなければならない。
後ろ髪を引かれるような切ない思いを何とか断ち切って、は荷物を抱え直した。
「皆も・・・・・、皆も元気でね!」
自分から一歩を踏み出さねば、離れ難くなってしまいそうだ。
「さよなら!」
だからは、自分から黄金聖闘士達に別れを告げ、彼らに背を向けて歩き始めた。
去って行く自分の後ろ姿が、彼らの目に少しでも頼もしく映るように、胸を張って、颯爽と。
彼らとの別れの為に作った笑顔が寂しさで崩れそうになるのを、唇を噛み締めて堪えながら。