微かな人の気配と共に、何やら鼻につく苦い匂いがした。
聖域内の致る所で嗅ぐ事が出来るこの匂いは、デスマスクの煙草の匂いだ。
― わざわざ小宇宙を探らなくても、この匂いですぐに分かるな。
アイオリアは小さく笑いながら、例の法則に従って、デスマスクと入れ代わりにの家へと向かった。
「や、やあ。」
「アイオリア・・・・・。」
「済まんな、こんな時間に。」
「ううん。まだ起きてたし。」
それはそうだろう。
立て続けに4人もの客が押し掛けて来ては、眠れる訳がない。
あとほんの数時間後には、遠く離れた日本への帰路に就くの事を考えると、申し訳ない気持ちで一杯になる。
「その・・・・・、にどうしても言っておきたい事があってな。」
だが、それでもこうして来てしまった。
が聖域を去る前に、どうしてもに伝えておきたい事があって。
「俺は、の決断は正しかったと思っている。」
「・・・・・」
「色々と話は聞いた。の宝物の事もな。」
「・・・・・そう。」
只の子供騙しの玩具のバッグと、幼い自分しか写っていない写真が、親に捨てられて一人で厳しい世の中を生きていかねばならない子供の助けになるとは、到底思えない。
それらはきっと、これまでのの人生において、何かの役に立つ事はなかっただろう。
「だから・・・・」
しかし、何の役にも立たなくても、何の助けにもならなくても、それらは紛れもなく『宝物』だったのだ。
万人が価値を認める貴重な品ではなくとも、にとってそれらは、
何の打算もない、
純粋な、
『絆』という名の宝物だったのだ。
の過去を聞いた時に、そう思った。
そして、それはきっと、の母親も同じだったのだろう。
でなければ、今頃現れる筈がない。
彼女もを忘れられずに、との絆を捨てきれずにいたのだろう。
「これで良かったんだ!過去は過去、もう済んだ事だ!・・・・そう思って、これが新しい人生の始まりだと思って、前向きな気持ちで帰って欲しい。」
そして今、色褪せて古ぼけていた絆が、甦ろうとしている。
その為には、悲しい過去の影を振り切らなければならない。
「アイオリア・・・・・」
それをに、どうしても言っておきたかった。
「・・・・・と言っても、の事だから、大丈夫だろうけどもな。」
「・・・・有難う、アイオリア。」
「いや、礼など。」
言うべき事は、これで全て言った。
後は自分の問題だ。
胸を締め付けるこの寂しさは、自分自身で何とかせねばならない。
「元気でな。」
寂しさなど微塵も感じさせない穏やかな微笑を残し、アイオリアはの家を出た。
暑苦しい小宇宙が帰って来た。
いや、彼の小宇宙が暑苦しいのはいつもの事なのだが、小宇宙がやけに弱々しいというか、不安定に揺れているというか、何とも頼りない。
皆似たようなものだったが、アイオリアもまた例外ではなかったようだ。
別れなど、さらりと済ませれば良いものを。
シャカは皆に聞こえないように小さく溜息を吐くと、そっと寝床を抜け出した。
「夜分遅く失礼する。」
「シャカ・・・・・。」
「君に頼みたい事があって来た。」
「え?」
拍子抜けしたようなの声を聞いて、シャカは僅かに笑みを浮かべた。
がどんな展開を予想していたか、大方は察しがつく。
『今まで有難う』『元気で』といった、スタンダードな別れの言葉の掛け合いをする、そんなところだろう。
だが生憎と、そんなやり取りをするつもりで来た訳ではない。
「君がここへ越して来た時に、読ませて貰った本があっただろう?」
「本?え・・・、越して来た時??」
「覚えていないのかね。ほら、あれだ。泥棒と赤子の話の。」
「あ・・・・、あぁ!あれね!」
「そう、あれだ。あれを譲って欲しい。」
の引越しを手伝っていた最中、息抜きのつもりで何気なく手に取ったあの本。
あれが欲しくて来たのだ。
「良いわよ。本はかさばるから、どうせ殆ど置いて行くつもりだったし。えぇっと、本はね、
『Book』って書いてある段ボール箱に入れてあるから、もし他にも欲しいのがあったら遠慮なく・・・」
「いや、あれだけで良い。」
の本棚は、今まで幾度となく見てきたが、他に欲しいと思う本はなかった。
ファッション誌や漫画には全く興味が無いし、小説やエッセイも、面白そうなのは幾つかあるが、譲り受けたいと思う程ではない。
「そう?」
「あの一冊が、今すぐ欲しい。」
「・・・・今すぐ?」
「今すぐだ。」
あの本だけを、今、この場で。
「あの・・・・、箱の中身って結構多いから、探すのにちょっと時間が掛かるかも・・・」
「構わん。待っている。」
「あ・・・・そう。じ、じゃあちょっと待っててね。」
どうしても、の手から直接貰い受けたかった。
そして、暫く後。
「ごめん、お待たせ〜!これで良いんだよね?」
「うむ。手間を取らせたな。」
予め言われていた通り、『ちょっと』待たされたが、は目的の本を持って来てくれた。
「ふふっ、どう致しまして。おシャカ様の我が儘には慣れっこですから。はい、どうぞ。」
「うむ。」
から手渡されて、それを受け取る。
これで十分。これで満足だ。
シャカはあっさりと踵を返し、に背中を向けた。
「・・・・帰る。邪魔をしたな。」
「う、うん・・・・」
茶の一杯も出ないどころか、玄関先で待たされていたのだが、文句を言う気は一切無かった。
目的は本を譲って貰う事で、何かしらのもてなしを期待してやって来た訳ではなかったし、
もしも部屋へ招かれたとしても、断るつもりだったのだから。
「どうしたの、シャカ?機嫌悪いの?もしかして・・・・・、何か怒ってる?」
だから、怒りなど湧く筈がないというのに、どうしてはこうも気に病むのだろう。
わざわざ振り返らずとも、が今、どんな表情をしているか、手に取るように分かる。
瞼の裏に浮かぶの顔を見て、思わず苦笑いが込み上げて来た。
そんなに気難しい男だと思われているのだろうか。
いや、きっとの性分だ。些細な事を深読みして気にするところがあるから。
「。」
そんなが、決して嫌いではなかった。
の居る生活は、自分でも意外に思う程、悪くなかった。
「は、はい?」
だがそれも、今夜で終わり。
これでお別れだ。
寂しさを煽るような別れの言葉を口にするつもりはないが、最後ぐらいは、この心の中を素直な言葉で表そう。
「・・・・・・・・有難う。」
そして、がこの聖域に居た証、が居た日々の思い出にと貰い受けたこの本は、
生涯大切にすると約束しよう。
― やれやれ、落ち着かぬ夜じゃのう・・・・・・。
皆がコソコソと入れ替わり立ち替わり出入りするものだから、少しも眠れない。
つい今しがた戻って来たのはシャカだろうか、とにかくこれでもう6人目だ。
童虎は密かに苦笑を浮かべて、ちらりと周囲の様子を伺った。
7人目になろうとしている者は、まだ誰も居ない。
もしかしたら、皆はその『7人目』の座を自分に譲ろうとしているのかもしれない。
何人か起きている気配はあるというのに、一向に誰も立ち上がろうとしないのは、つまりそういう事なのではないだろうか。
― 儂は別にいつでも良かったんじゃがのう・・・・・。
何なら一番最後でも良かったのだが、皆が譲ってくれているのなら、行くしかない。
ここでじっとしていても皆の気配で眠れやしないし、それ以前に、の事が気になって元々眠れなかったのだ。
「遅くにあい済まぬ。少々良いか?」
訪ねてみれば、もう大変な時間だというのに、の目も自分と同じく、しっかりと冴えているようだった。
「童虎・・・・。うん、何?」
「世話になった礼を、一言言うておかねばと思うての。色々世話になった、有難う。」
「そんな・・・・。私の方こそ、色々有難う。」
「それと・・・・、もう一つ、話があるのじゃが。」
「何?」
「女神の事じゃ。」
これまで世話になった礼は口実、とは言わないが、本題は沙織の事だった。
が解雇を言い渡されてからというもの、沙織との間は何となくぎくしゃくしていた。
以前は、会えなくてもちょくちょくメールや電話で連絡を取り合い、仕事の話は勿論、
雑談などにも花を咲かせていたようだったが、あれ以来、そういうやり取りは無いようなのだ。
それに近頃、沙織の表情が、以前と比べてどことなく浮かない。
聖域内での執務よりも、護衛などで沙織に付き添い、あちこちを共に飛び回る仕事の方が多い童虎には、沙織のその僅かな表情の変化がはっきりと分かっていたのである。
「・・・・今まで懸命に働いてきたのに突然解雇されては、腹も立つやも知れん。じゃがのう、あの方にはあの方のお考えがあったと思うのじゃ。」
元々、大人顔負けの落ち着いた振る舞いをし、年頃の少女らしくはしゃぐ事などない沙織だが、近頃の彼女の表情は少し暗すぎる。
多忙による疲れのせいにも見えない事はないし、本人も何も言わない。
仮にこちらから尋ねたとしても恐らく否定されるだろうが、第一の原因はきっととの事だと、童虎は確信していた。
「だから・・・・、分かってやってくれ。女神を恨まないでやって欲しいのじゃ。」
沙織にとって、は大切な人間だった。
少し歳は離れているが、沙織にとっては、気の置けない付き合いの出来る、唯一の女友達だった。
そのに恨まれては、沙織が余りにも不憫だ。
「その方が、きっとお主の為にもなる。お主の立場になってみれば、理不尽な願いかも知れぬが、儂の今生の頼みと思うて聞いてくれぬか?」
そして、も。
あんなにも良かった二人の仲が、二人がこれまで育んできた信頼と友情が、これでひび割れて崩れ去ってしまうのは、傍で見ている者としても惜しくて仕方がない。
ましてや、もう二度と会えなくなるのなら尚更。
「もしも腹の虫が治まらんのなら、理不尽な頼み事をした儂を恨め。じゃが、どうか女神の事は恨まんでくれ。女神の為にも、お主の為にも・・・・・、これまでの思い出は大切にして欲しいのじゃ・・・・・。」
女神と教皇補佐としては勿論、一般社会に生きる者同士としても、二人はもう二度と会う事はないだろう。
が一般社会に戻れば、二人の接点は無くなる。
一般社会での二人の立場は、元々余りにも違いすぎるからだ。
仲違いしたまま、心にしこりを残したまま、永遠に別れてしまう。
これ程悲しい事があろうか。
「・・・・ふふっ。」
だが、は笑った。
怒る訳でも悲しんでいる風でもなく、可笑しそうに笑った。
「言われなくても、恨んでなんかないわよ。ちょっと待っててくれる?」
「?う、うむ・・・・」
その笑いの理由は、が持って来た物が教えてくれた。
「・・・・これ、沙織ちゃんに渡しておいてくれる?誰にお願いしようかずっと迷っていたんだけど、やっぱり童虎にお願いするのが一番良さそうだから。」
「それは構わんが・・・・、何じゃ、これは?」
受け取った薄っぺらな封筒を見て、童虎は首を傾げた。
「この間、沙織ちゃんが置いて行った小切手と、沙織ちゃんへの手紙。そこに、私の気持ちが書いてあるから。」
「そうか・・・・」
「読んでも良いわよ。」
「・・・・構わんのか?」
童虎は驚いてを見た。
普通、そんな手紙は人に見られたくないものだろうに。
「うん。童虎に心配掛けたままなのも何だし。」
「いや、儂の事は気にせんでも良いのじゃが・・・・・」
「そういう訳にはいかないわよ。それに、口で説明するとゴチャゴチャして纏まらなくなっちゃいそうだから、手紙にしたのよ。だから、これを読んで貰った方がちゃんと伝わると思うの。」
「・・・・・・そ、そうか?では失敬して、読ませて貰うぞ?」
「どうぞ。」
まだ封のされていない封筒を開けて、童虎は恐る恐る、中の紙切れを取り出した。
の言った通り、一枚は500万の小切手、そしてもう一枚は、の文字が並んだ便箋だった。
童虎は小切手を再び封筒に入れ直すと、その便箋の文字だけを、ゆっくりと目で追い始めた。
そして、暫く後。
「・・・・・・・」
「そういう事。だから、心配しないで。」
手紙を最後まで読み終えた童虎に、は屈託のない微笑みを見せた。
どうやら、取り越し苦労だったようだ。
二人がもう二度と会えなくなるのは残念でならないが、二人がこれまで育んできた信頼と友情は残る。
「・・・・手紙と小切手、確かに預かった。儂から女神に責任を持ってお渡ししておこう。」
「お願いします。」
沙織と、自分にとって大切な二人の人間の、大切な思い出が壊れずに済む。
もう二度とに会えなくなるのは寂しいが、せめてそれが分かっただけででも良かった。
童虎が戻った。
これでようやく順番が回って来た。
早く、早く、朝が来る前に。
に伝えに行かねば。
「よう。」
「ミロ・・・・・・」
「・・・・・・・どうしても、行くのか?」
出迎えたに、ミロは真剣な表情で問い掛けた。
「・・・・・・・うん。もう決まった事だし、決めた事だから。」
「そう・・・・・だな。そうだよな。」
答えはやはり、心の何処かで分かっていた通りだったが。
だが、いや、だからこそ伝えたい。この心にある想いを。
もう二度と、会えなくなるのだから。
「・・・・あ〜あ!結局、のハートを頂き損ねたな!」
「あははっ!なぁに、さっきの双六の話?ハートのマス目なんて、そんなに惜しむ程のものじゃないわよ〜!どうせ私、大した事なんか何も出来な・・・」
「そうじゃなくてさ、現実の話。」
冗談めかしていた口調を真剣なものに変えたら、は驚いて押し黙った。
その頼りなく揺れている視線から、が動揺しているのが手に取るように分かる。
「なあ、。もし俺達が恋人同士だったら、お前は日本に帰らずにいてくれたか?」
の心は今、動揺して弱くなっている。
よりにもよって今ここでこんな事を訊くのは、卑怯というものだ。
「・・・・・・分かん・・・・ないよ・・・・・。だって、いきなりそんな仮定・・・・・」
が困惑するのは、この通り、目に見えていたというのに。
「・・・・・フッ、だよな。悪かった。無理に答えなくても良いんだ。」
「・・・・・・ごめん、ミロ・・・・・・。」
「いいや、俺の方こそ悪かった。こんな時間に押しかけて来て、訳の分からない事を訊いたりして。もう帰るよ。」
だが、卑怯と分かっていても、望む答えが返って来ないと分かっていても、訊いてみたかった。
卑怯な質問を通して、この心の底にあった想いを、最後にに伝えておきたかった。
「・・・・・・今まであんなに時間があったのに、俺は何をモタモタしていたんだろうな。もっと早く、の心を奪っておけば良かった。俺と離れるなんて考えられなくなる位、俺に夢中にさせておけば良かった。」
今更伝えたところで、もう遅い。
今更どうにもならないと分かっている。
だからこそ、こんな展開になる位ならもっと前にこの想いを打ち明けておけば良かったと、今となっては悔やまれてならない。
だが、が聖域を出て行く事など、少し前までは思いもしなかったのだ。
は、ずっとずっと聖域に居て、
何気ないけれども、穏やかで楽しい日々がこれからもずっと続くのだと。
「・・・・・・・出来る事なら、ずっとこの聖域に居て欲しかったよ。」
そう信じていたのだから。