「ムウ!」
「やあ、やはり帰っていましたか。」
開いたドアの向こうで驚いた顔をするに、ムウはにっこりと微笑みかけた。
「どうしたの!?寝てたんじゃなかったの?」
「ええ、まあ。ふと目が覚めたら貴女が居なかったものですから、もしやと思いましてね。」
本当はずっと二人きりになれるチャンスを伺っていて、眠ってなどいなかったのだが。
「とにかく、こんな時間に玄関で立ち話も何だから、上がって上がって。」
「いえ、ここで結構。すぐに済む用ですから。」
の誘いを断ったムウは、ズボンのポケットから小さな木箱を取り出した。
「・・・・・・・これを貴女に。」
「有難う・・・・・。何だろ、開けても良いの?」
「ええ。」
勿論だ。にプレゼントする為に用意した物なのだから。
「わぁ・・・・・・!」
は、ムウの目の前で木箱を開け、中身を包んでいる硫酸紙を取り払って目を見開いた。
「アクセサリーなどを作るのは初めてなので、あまり好みに合っていないかもしれませんが。」
「そんな事ない!凄く素敵・・・・・・!」
嬉しそうに瞳を輝かせながら、は早速それを身に着けた。
クリーム色のブラウスの胸に、細く柔らかな軌跡を描いて流れてゆく、小さな黄金の流星群が留まる。
「・・・・・・それは、貴女が確かにここに居た証です。覚えていて下さい。ここで過ごした時間を。私達の事を。」
「ムウ・・・・・・・」
の胸元でしっくりと深い黄金色に輝くこのブローチは、黄金聖衣の素材と同じ、オリハルコンを使って作った。
聖域を、共に過ごした日々を、に覚えていて欲しくて。
「そのブローチを見たら、時々は私の事を・・・・・・、思い出して下さい。」
「・・・・・・・・ムウも・・・・・・・、私の事、覚えていてくれる?」
「ええ。」
小さな島国の大都会から遠く離れた、地図にさえ存在しないこの聖域という場所に、の幸福を願うムウという一人の男が確かに存在する事を、忘れずにいて欲しい。
「・・・・・では、私はこれで。」
「ブローチ、有難うね。大切にするわ。」
「ふふっ、どういたしまして。おやすみなさい。」
「おやすみなさい。」
たとえ、もう二度と会う事はなくても。
アルデバランは、最初に出て行った男が帰って来たのを感じた。
部屋が暗い為、姿形はおぼろげにしか分からないが、小宇宙の感じからすると、その男はどうやらムウらしい。
ある法則に則って考えると、一番手がムウなら、二番手は・・・・・・
― 俺、だな・・・・・・。
アルデバランははっきりと目を開けると、他の誰かが法則に逆らって動き出さない内に、そっと身体を起こした。
「アルデバラン!」
「やっぱり帰っていたか。まだ起きていたのか?」
「うん・・・・・、ちょっと眠れなくてね。」
出迎えてくれたは、眠そうな表情もしていなければ、パジャマにすら着替えていない状態だった。
多分、ちょっとどころか全く眠くないのだろう。
その理由は、聞かずとも容易に察する事が出来る。
「それより、どうしたの?」
「いやあ・・・・・・、その、何だ・・・・・・」
「良かったら、上がる?」
「あ、ああ・・・・・」
刻々と迫り来る別れの時、それを迎える前に、どうしても二人きりになりたかった。
ほんの短い時間で構わない、と二人だけで話がしたかった。
その為に、こうして人目を忍んでやって来たのだ。
が何か飲むかと勧めてくれるのを丁重に断って、アルデバランは口を開いた。
「今の内にな・・・・・、別れを済ませておこうと思って来たんだ。明日の朝では、慌しくてろくに会話も出来んかも知れんし。」
「そうね。」
「あー・・・・・・、その、何だ・・・・・・。」
「うん。」
だが、いざ二人きりになると、言おうとしていた事がうまく言葉になってくれない。
「今まで、ご苦労だった。には色々世話になったし、色々な事を教わった。本当に感謝している。」
こんな形式的な別れの挨拶がしたかったのではない。
「それは私の台詞よ。私の方こそ、色々と有難う。私、アルデバランと知り合えて良かった。」
「・・・・・」
アルデバランも、と同じ思いだった。
と知り合えて良かった。は良い友人だった。
これからも、たとえ会えずとも、この友情は不滅のものとなるだろう。
「俺は・・・・・・、俺は・・・・・・・、」
違う。
不滅なのは友情だけではない。
「お・・・・・・」
それだけなら、胸の奥がこんなに熱くなるものか。
「・・・お袋さんと仲良くな!大丈夫だ、きっとうまくやっていける!血を分けた実の親子なんだ!親の居ない俺の分まで、親孝行してくれよ!」
「・・・・・・うん!」
胸の奥をこんなにも熱くさせているものの正体は、何となく分かっている。
しかしアルデバランは結局、最後までそれを直視しなかった。
「・・・・・・・元気でな。」
「アルデバランも。」
差し出した手を、の小さな手がぎゅっと握ってくれる。
これで良い。これで正解だ。
時には自分の気持ちに気付かないままでいる方が良い事もある。
その方が、自分にとっても、そして相手にとっても、良い時がある。
そう信じて、アルデバランはの手を握り返した。
アルデバランが帰って来た。
ムウ、アルデバランと続いたのなら、このままある法則に従って考えると、次は双児宮の住人という事になる、そうカノンは考えていた。
現在、双児宮には、その名の通り双子が住んでいる。
つまり、カノン自身と、カノンの兄のサガだ。
そして困った事に、そのサガだけがこのリビングにおらず、一人、自室に帰ってしまっているようなのだ。
しかし、ここはやはり弟として、順番を兄に譲るべきなのだろうか?
― ・・・・・どうやって譲れというのだ?
そう、譲りようがない。
この場を支配している暗黙のルールは、この場に居る者にしか分からないのだ。
一人場外に居てルールを知らないサガの動向を下手に待てば、最悪、ムウとアルデバラン以外の全員が、男だらけのむさ苦しい朝を虚しく迎える破目にならないとも限らない。
それを恐れたカノンは、自分が三番手になる事をあっさりと決めた。
「カノン!」
チャイムを鳴らしてすぐにドアを開けたは、驚いたように目を丸くしていた。
こんな時間に続々と客がやって来たのだから、無理もない事だが。
「人が寝ている間に、黙って帰るとは随分だな。」
「ご、ごめん・・・・」
冗談で軽い皮肉を飛ばすと、は決まりが悪そうに謝った。
只のジョークなのに。
「・・・・・・いよいよ今日だな。」
「・・・・うん。」
「お前は、本当にこれで良かったのか?」
「え?」
「これで良かったと、本当に思っているのか?」
の表情がどんどん曇ってゆくのが気に入らない。
無理にでも引き止めたいのに、そう出来ない自分が腹立たしい。
やり場のない苛立ちを持て余すかのように、カノンは次々と辛辣な言葉をに浴びせ始めた。
「・・・・・俺がお前なら、帰らなかった。幼い頃に別れたきりの母親になど、今更用はないからな。」
「・・・・・・・」
「大体、自分から捨てておいて、今になってまた一緒に暮らしたいとは虫が好すぎる。もしかしたら、何か裏があるのかも知れんぞ?歳を取って心細くなってきたから面倒を看て欲しい、とかな。」
「そんな・・・・・・」
ふと気付けば、はすっかり困惑しきった表情になっていた。
そう言えば、いつだったかも、はこんな表情をしていた。
あれは確か、聖域に来る事が決まった夜、初めて出会った夜だったか。
聖域という未知の場所に、異国の地での生活に、間もなく劇的な変化を遂げる自分の状況に、は戸惑い、怯んでいた。
「・・・・・何だ、その情けない顔は!そんな顔をするな!」
「ひやっ・・・・!何ふんの!?」
カノンは、の頬を軽く掴んで引っ張った。
その途端、の心細そうな表情が、笑いを誘う感じに歪む。
「全く、これ位の事を言われただけで動揺するな!俺の言葉に惑わされているようでは、この先が思いやられるぞ!」
「あいたっ!」
カノンはそれを面白がるように、散々の頬を捏ね回してから、ピンと手を離した。
痛そうに顔を顰めて頬を擦ってはいるが、はもう顔を曇らせていない。
それを見て、カノンは小さく溜息をついた。
「・・・・・・・・決め手が何だったにせよ、結果として、お前自身も納得して帰るんだろうが。」
「う、うん・・・・・」
もしあのまま、沈んだ表情のままだったら、苛立ちは治まらなかった。
それどころか、きっと益々苛立って、自分で自分を抑える事が出来なくなっただろう。
やっとどうにか心の底に閉じ込めた本心を曝け出して、どんな手段を使ってでも、を引き止めた。
「だったらもっとシャンとしろ。何の迷いもない表情で帰れ。・・・・・でないと許さんぞ。」
「カノン・・・・・・」
どうせ出て行くなら、晴れやかな顔で行って欲しい。
それが今のカノンの望みだった。
「・・・・・分かったらもう寝ろ。」
「ん。・・・・・・・有難う、カノン。」
「・・・・・・フッ。」
迷いを見せないで欲しい。一片たりとも。
でなければ、その隙を突いてしまいたくなるから。
カノンが行ったという事は、あの法則によると、次は自分という事になる。
デスマスクはカノンの帰りを待ち、暫くして戻って来たカノンがまた元の位置に横たわるのを確認してから、静かに双児宮を抜け出した。
「おう。」
「デス・・・!」
「何もこんな時間に帰るこたねぇだろう?」
「ごめん・・・・」
「・・・・でも、ま、お前とサシで話したきゃ、この方が都合良くはあったか。」
デスマスクは、薄い微笑をその口元に湛えた。
「本当にお前って奴はよ、来た時も出て行く時もいきなりだよな。」
「・・・・ごめん・・・・」
「ったくよぉ・・・・・、どうせいつかこんな事になるから、あの時黙って俺に任せといてくれりゃ良かったんだ。」
いつからだろうか。
にはずっとここに居て欲しいと、真剣に思い始めたのは。
そして、いつからだろうか。
がここから居なくなる事を想像すると、無性に苛立つようになったのは。
もしも、万が一、がこの聖域を出て行きたいと言い出したら。
それを考えると、寂しさを通り越して、自分でも訳の分からない焦燥感に駆られるようになったのは。
「な、何を?」
「・・・・やっぱ、殺しときゃ良かった。」
を失うのが、怖いと思うようになったのは。
「な・・・・」
が怯えている。
思えば、初めて出会ったあの夜も、は命の危機を感じて、酷く怯えた顔をしていた。
「殺しときゃ良かったぜ・・・・・・」
今更失う位なら、最初から出会いたくなかった。
あの夜、助けずに殺していたら、精々その夜の夢見が悪かった程度で済んだ筈だ。
こんなに心が痛む事はなかった。
「・・・・・・って言ったら、どうする?」
「ど、どうって・・・・」
「・・・・なんてな。冗談だよ、冗談!がっははは!!ビビってんなよ、オイ!!」
「な・・・な〜んだぁ!吃驚させないでよもうっ!」
わざと馬鹿みたいに大きな声で笑い、肩をバシバシと叩いてやると、ようやくに笑顔が戻った。
あの時と今の違いは、がこうして屈託のない笑顔を見せてくれるようになった事だ。
何の疑いもなく、心から信じきった目で、まっすぐに自分を見つめて笑ってくれるようになった事だ。
「例えば、そうだなぁ・・・・・。フライドチキンは何の躊躇いもなく食う癖に、ペットの小鳥は絶対に殺せねぇチキン野郎の心理・・・・・、って言やぁ分かるか?」
「な、何よそれ・・・・。何か微妙な喩えなんだけど・・・・」
「お前を手に掛けられる奴は、ここには誰一人居ねぇってこった。皆、チキン野郎なんだよ。・・・・・・・・俺も含めてな。」
今更失う位なら、いっそ何もかも最初から無かった事にしたい。
だが、それも今更出来ないのだ。
「デス・・・・・」
「・・・・・だから、安心して帰れ。ああ、一応念押ししておくが、くれぐれも聖域や俺達聖闘士の事を、人にベラベラ喋るなよ?皆、お前を無条件に信用してるんだからな。」
「・・・・・分かってる。」
「・・・・・なかなか楽しかったぜ、新鮮で。考えてみりゃ、ここで聖闘士じゃねえ普通の女と暮らすなんて、有り得ねえミラクルだよな。」
只の不運な事故が、実は信じられないような運命の始まりだったなんて。
その運命のもたらした時間が、奇跡と呼びたくなる程、平和で楽しいものだったなんて。
そんな事は、あの夜には想像もつかなかった。
「・・・・・私も。ここでの生活は、私の人生の中で有り得ない程のミラクルだった。凄く楽しかったわ。」
「お互い、こんなミラクルは、この先もう二度とねぇだろうな。」
「そうね。」
この先もう二度と、あの夜のような事は起こらないだろう。
もう二度と、聖域に一般人がふらりと入り込んで来る事はないだろう。
未来は分からないものだが、多分、もう二度とない。
そして、これだけは断言出来る。
「・・・・・ま、精々女を磨いて、イイ女になれよ?」
「・・・・・ふふっ、デスもね。頑張って男を磨いて、イイ男になりなさいよ?」
は特別だった。
もしも、万が一、また同じような事が起きたとしても、
その時、どれ程美しく有能な女が現れたとしても、
きっとのようには受け入れない。
「俺ぁいつだってそうしてるぜ?っていうか元からイイ男だし。」
「あははっ、また出た!デスの自惚れ!」
「バーカ、事実だよ。俺がどれだけモテると思ってんだぁ?」
少なくとも、自分は。
と過ごした時間がなまじ楽しかったが故に、今、こんなにも苦しい思いをしているのだ。
こんな思いは、もう二度と御免だ。
「・・・・・じゃあ、俺、そろそろ行くわ。」
「・・・・・うん。」
「あばよ、。」
「じゃあね、デス。」
ドアが静かに閉ざされた。
の優しい微笑が、閉ざされたドアに阻まれて見えなくなってしまった。
その前で、デスマスクは煙草に火を点けた。
煙草はいつもの銘柄で、匂いにも煙にも慣れているのに、どういう訳だろう。
今夜はやけに舌に苦く、煙が目に滲みた。