が聖域を去る日、それは。
「明日、か。随分急だな。」
「うん。でも、準備はもう出来ていたし。それに、執務も手伝えないのに、いつまでも居たって仕方ないでしょ。」
「・・・・・そうだな。」
窓から差し込む明るいオレンジ色の夕陽に染まっている、いやにさっぱりとしたの横顔を、ミロは探るようにチラリと一瞥した。
その表情の下で何を思っているのかを推し量ってみたところで、もう無駄なのだが。
ミロとしては、今でもを帰したくはなかった。
出来る事なら、のパスポートを破り捨ててやりたいとさえ思っている。
だが、それが出来ないのは、ミロ自身も分かっていた。
沙織が命じ、が承諾し、帰国が明日に迫った今、もうどうしようもなかった。
「しかし、たったの1週間ちょっとで、よくここまで綺麗に出来たなぁ!電光石火の早業だ!」
ミロは、殊更明るい声を出して笑い、すっかり片付いてしまったの家のリビングを見回した。
「ふふっ、そんな事ないよ。全部纏めて置いておいただけだから。」
「いやいや、上出来上出来。」
の言う通り、部屋の中の物は全て、ダンボールに詰められたりビニール紐で纏められた状態で、まだ室内にある。
家具や家電は言うまでもなく、そのままの状態で置かれている。
こんな風に、完全な空き家になっている訳でもないのに、何故か片付いて見えるのは、清掃・整頓が行き届いていたからでもあるが、様々な物が元あった場所から消えて、生活感が失われた為でもあった。
「本当はもっとちゃんと片付けて行けば良いんだろうけど・・・・、ごめんね、中途半端な状態で置いて行く事になって。何か欲しい物があったら、遠慮なく持って行って。」
「ああ。そうさせて貰うよ。」
「後は・・・・・、宜しくお願いします。」
よくが昼寝をするのに使っていたクッションも、
愛用のエプロンも、
壁に掛かっていた時計やカレンダーも。
全てが消えてしまっている。
今は多分、この部屋に沢山ある無愛想なダンボール箱に納まっている。
が居なくなった後にそれらを処分している自分を想像したミロは、その寂しいビジョンを打ち払うかのように何度か瞬きをした。
「・・・・今夜さ、久しぶりに飲まないか?」
「え?」
「ここの所ご無沙汰だったし。出発の前日だから疲れるか?」
「・・・・・・ううん。嬉しい。」
は、少しはにかんで首を振った。
明日の心配をしてくれるミロの気遣いも嬉しかったが、最後にもう一度、楽しい夜を過ごせる事が嬉しかった。
送別という寂しい名目ではなく、以前と同じような理由で、同じように気軽な感じで、何気なく誘ってくれた事が嬉しかった。
「ね、場所は何処にする?うちはもう片付けちゃったから無理なんだけど・・・・」
「じゃあ、俺の所で。」
「良いの?」
「・・・・・俺と二人だけで・・・・・、どうだ?」
ミロは一瞬、ハッとする程真剣な瞳をして言った。
「・・・・・と、言いたいところだけど、それをすると他の奴等に命を狙われそうだからな。」
だが、それはほんの一瞬の事で、ミロはすぐに冗談めいた笑みを浮かべた。
「連中も全員誘うよ。場所はそれから考える。それで良いか?」
「・・・・うん。」
「決まったら呼びに来るよ。じゃあ、また後でな。」
「分かった。後でね。」
ミロは口元だけで軽く笑ってみせて、小さく手を振るに背を向けた。
多分、あと1〜2時間以内には、またミロと顔を合わせている。
話ならまたその時に幾らでも出来る、別れの挨拶は明日の朝で良い。
「・・・・・待って、ミロ!」
それなのに、はミロを呼び止めずにはいられなかった。
呼び止めたところで何を言えば良いのか、自分でも分かっていなかったのに。
「あの・・・・・」
衝動的に呼び止めただけなのに、立ち止まってくれたミロの背中を見つめながら、は必死で何を言うべきか考えた。
「・・・・・有難う。」
小さな声でそう呟くと、ミロは背中を向けたまま、片手を軽く挙げて出て行った。
― 有難う・・・・・
この言葉が、訳も分からないまま口をついて出た。
言い終わった今、改めて考えてみても、この感謝が何に対してのものなのか、やはり分からない。
ただ、『有難う』と言いたかったし、それ以外の言葉も思い付かなかった。
そして、予想通りの約2時間後。
「待たせたな。さあ、行こうか。」
約束通り、ミロが迎えに来た。
そして、連れて行かれた先は。
「待っていたぞ、。我が双児宮へようこそ。」
「おいサガ、ここは俺の双児宮でもあるのだぞ。・・・・まあ良い、とにかく上がれ。」
サガとカノンの兄弟が住む双児宮だった。
リビングには、宴の支度が既に整っていた。
湯気の立つ料理はいつでも食べられるようになっているし、ワインは見るからに良く冷えている。
そして、甘い香りの紅薔薇が中央に鎮座するテーブルを囲んでいる黄金聖闘士達。
彼らは一人も欠ける事なくこの場に集結しており、そして・・・・
「わぁ、もう出来上がってる;」
既に飲んで騒いでいた。
「あっ、お姉ちゃんだ!」
「おお!やっと来たか、!」
「先にやってるぜー!」
に気付いた貴鬼とアルデバランが早く来いとばかりに手招きし、デスマスクがもう空きそうなグラスを掲げてみせる。
何一つ特別な要素のない、本当にいつも通りのドンチャン騒ぎだ。
「・・・・さぁて、俺達も飲むか!」
「うむ。今夜は無礼講でいこう。」
「無礼講はいつもの事だがな。今日は久しぶりにとことんまで飲むぞ。」
エスコートしてくれたミロも、迎え出てくれたサガとカノンも、それ以上敢えてを気遣う事はせず、陽気な輪の中に入って行った。
そんな彼らを見ていると、知らず知らずの内に笑みが零れてくる。
別れは明日。
今はまだ、何気ない毎日の楽しい一夜。
今夜を目一杯楽しまねば勿体ないし、彼らにも申し訳ない。
「皆、ピッチ早ーい!」
は楽しげな声を上げて、彼らの中に交ざっていった。
楽しい夜が、どんどんと更けていく。
それに比例して、弾ける人の笑い声。
次々と無くなっていく料理。
増えていく酒の空き瓶や空き缶。
そして。
「っよぉぉぉーーしッッ!!!ここらで一発、何か面白いゲームでもやろうじゃねぇか野郎共!!!」
『うおおおーーーーっ!!!』
異様なまでに盛り上がる、無礼講なムード。
この勢いと止められる者は、いや、止めようとする者は、誰も居なかった。
「・・・・は良いが、具体的には何をするのだ?ポーカーか?」
「しりとりか?」
「ビンゴか?」
「王様ゲームか?」
「福笑いか?」
と言っても、面白いゲームは幾らでもある。
カノン、カミュ、アイオリア、ミロ、そして童虎が、それぞれに思いつくものを挙げた。
が、言い出しっぺのデスマスクは、まるで唾棄するが如き勢いで、それら全てを却下した。
「どれもこれもありきたりだ!つーか老師、福笑いってアータ、正月じゃねぇんですから!」
「じゃあ、何をするんだ!?」
「うーーん・・・、分かんねぇけど何かこう・・・・、斬新で面白いやつ・・・・・・」
アルデバランにそう訊かれたデスマスクは、眉間に皺を寄せて悩み始めた。
自分から口火を切った割には、何一つ具体案を考えていなかったらしい。
典型的な無責任男である。
「そうだっ!デスマスク、オイラ良い物持ってるよ!」
不甲斐無い大人達のピンチを救ったのは、貴鬼だった。
「お、何だよ小僧?」
「ちょっと待ってて!すぐに取って来るから!」
貴鬼は溌剌とした瞳を輝かせると、身軽な動きで双児宮を出て行った。
そして、待つ事暫し。
「じゃーん!!オイラがこの間作った、『聖闘士すごろく』!」
双児宮に戻って来た貴鬼は、筒状に丸めて持参して来た大きな画用紙と、おはじきやらサイコロやらを一同の前に広げて、誇らしげに胸を張った。
「駒はこのおはじき。全部色が違うから、皆ちゃんと区別出来るよ!それから、サイコロも持って来たし!」
「あら?このサイコロ、変ってる感じね。何か不思議な素材・・・・。」
「へへっ、鋭いね、お姉ちゃん。このサイコロもオイラが作ったんだよ。ムウ様の作業場に落ちていたオリハルコンの欠片で作ったんだ!」
「えーっ!?凄ーい貴鬼ーー!」
「えへへ〜。」
に褒められて満足そうに笑っている貴鬼には可哀相なのだが。
「これまた正月かよ!」
「冬休みの小学生みたいですね。」
「大の男がサイコロ転がして双六ぅ〜?」
「どうせならサイコロ賭博の方が良い。」
「子供の手作りというところが、如何にもチープで興醒めだ。」
黄金聖闘士達には、概ね不評であった。
双六の内容は、ざっと見た限りでも確実に健全度100%、大人の男女が酒の席で楽しめそうなテイストは全く盛り込まれていない。
こんな幼稚なゲームで盛り上がれる訳がない、むしろテンションが急降下しそうなのだが。
「・・・・・・オイラ・・・・・、皆に楽しんで貰おうと思って、折角持って来たのに・・・・・」
「貴鬼、そんなにしょげないで・・・・・」
テンションなら、もう既に急降下し始めていた。
デスマスクに鋭く突っ込まれ、師であるムウに苦笑され、アルデバランに不満そうな顔をされ、カノンに呆れられ、アフロディーテに馬鹿にされた貴鬼は、今にも泣きそうな顔で項垂れてしまっていたのだ。
そして、そんな貴鬼を慰めるの、
「・・・・・皆、酷い。」
非難と軽蔑の篭ったジト目を見て、黄金聖闘士達はぐっと詰まった。
「良いじゃないの、双六。何が悪いのよ?ねえ、デス。言ってみなさいよ。」
「いや、べ、別に・・・・」
「双六、楽しいじゃないの。しかも、只の双六じゃないのよ。聖闘士よ、聖闘士。皆の為の双六よ。そうでしょ、アフロ?」
「や、ま、まぁ、そう・・・・なのかな・・・・?」
「じゃあ、やるわね?双六。」
『・・・・・・はい、喜んで。』
の勢いに押し負けるようにして、一同は頷いた。
「だって!良かったね、貴鬼♪」
「うん!有難う、お姉ちゃん♪」
「・・・・・ったく、最後まで色気なしかよ・・・・・ん?待てよ・・・・」
気を取り直している貴鬼とを見て溜息を吐いていたデスマスクは、何か閃いたように貴鬼に向かって言った。
「おい小僧。」
「何だよ?」
「双六やってやるから、一つだけ俺に手ェ加えさせろ。」
「えー!?それオイラの自信作なのにー!」
「駄目ならやらねぇぞ。」
「うぅ・・・・、分かったよ。でも、一箇所だけだぞ!」
クリエイターとしてはプライドの傷つくところだが、そこはまだ子供。
折角の作品を他人にいじられる悔しさよりも、作った作品で皆と一緒に遊ぶ楽しさの方が勝るらしい。
一箇所だけという約束の下、補作を許されたデスマスクは、そこら辺にあったペン立てから赤いボールペンを拝借すると、ゴール近くにあった空白のマス目に大きくハートマークを描き込んだ。
「ハート?デス、これって何のつもりなの?」
「どうでも良いが、お前が書くと気味の悪い記号に見えるな。」
「ほっとけ。」
茶々を入れた(いや、本人は至って大真面目に発言したのだが)シュラを横目で睨んでから、デスマスクは不敵な笑みを湛えて説明を始めた。
「良いか、野郎共!このマス目に止まった奴は、に何でも言う事を聞いて貰えるってルールにしようじゃねぇか!勿論、ピンクなお願いもOKだ!!」
『うおお・・・・・!』
デスマスクの説明に、一同がどよめく。
「ねー、お姉ちゃん。ピンクなお願いってなぁに?」
「・・・・・・・・」
貴鬼の質問は鋭い。
本当に、ピンクなお願いって何だろう。
は少し考えて、激しく動揺し始めた。
「ちょっ、ちょっと待ったーーーっ!
何で私!?何でピンクOK!?何で勝手に決めるわけ!?」
「これ位しねぇと、俺らはつまんねーだろうが。なぁ、ミロ?」
「まあなぁ。それに、止まれるかどうかも分からないし。なぁ、カミュ?」
「ああ。仮に止まっても、どんな願いをするかは、止まった奴次第だ。実際にはが恐れているような事にはならないと思うが。なぁ、ムウ?」
「まあ、そうですね。貴鬼も居ますし、そんなに如何わしい要求はまず出ないでしょう。そう警戒しなくても大丈夫ですよ。」
次々と黄金聖闘士達に説得され、当初の勢いを失いつつあるの耳に、カノンが止めの一言を囁いた。
「嫌なら双六やめるか?お前が嫌がっているから諦めるように、俺から貴鬼に言ってやっても良いぞ?」
流石はカノン、神をも誑かした男。何とも卑怯な台詞だ。
あんなに貴鬼を喜ばせてしまったのに、今更『やっぱりやめた』なんて出来る訳がないではないか。
「ぅ・・・・・、わ、分かったわよ!やれば良いんでしょ、やれば!!!」
かくしては、ヤケクソ気味にそのルールを承知した。
だが、そのルールには一つ、不明瞭な点があった。
「よーし、んじゃ早速・・・」
「ちょ、ちょっと待ってよ!もう一つ質問!」
「あん?何だよ?」
「もし、そのハートのマス目に私が止まったらどうするの!?」
そう。本人が止まった場合の事だ。
「あ?あ〜っ!そういやそうだ、うーーん・・・・」
質問を投げかけられたデスマスクは、明らかに『盲点でした』というような顔をして悩んでいる。
もしかしなくてもこの男、に言う事を聞かせる事しか考えていなかったに違いない。
「ん、よっしゃ!そん時はお前の言う事を俺達が何でも聞いてやるよ。これで良いか?」
「う、うん・・・・・」
「おーし!つー事で、早速おっ始めようぜ、ピンク双六を!!!」
「『聖闘士すごろく』だよう!」
ともかく、デスマスクの咆哮と貴鬼のツッコミで、ゲームは始まった。