それからの数日間は、慌しく過ぎていった。
もう執務には出ていないのに、一日中執務に明け暮れていた時よりも忙しい。
荷造りや掃除といった煩雑な作業を、来た時とは違い、今度は一人でやっているからだろうか。
だがは、黄金聖闘士達に手伝いを頼むつもりはなかった。
が解雇された事により、毎日メインで執務に携わる人間が一人減ったという事は、その分彼らの執務スケジュールが詰まるという事だ。
更に、各々に課せられている任務や作業もこなさなければならない彼らに、どうして引越し準備の手伝いなど頼めようか。
それに黄金聖闘士達とも、あれ以来妙な雰囲気になってしまっている。
決して険悪ではないのだが、何となく顔を突き合わせる事が気まずく、ろくに話も出来ない。
その辺りで会っても、せいぜい挨拶程度の短い会話を交わすだけだ。
そして、彼らの方もそれ以上何も言って来ない。
こんな風にぎくしゃくしたまま別れるのは、確かに寂しい。
が、考え方を変えると、少し気は楽になる。
別れはただでさえ悲しいものだから、さっぱりしている方が、少しは気が楽になる。
「さて、と。今何時だろ・・・・?」
片付けに一区切りをつけて時計を見ると、丁度昼を回ったところだった。
執務もそろそろ一区切りついている筈だ。
はエプロンを外すと、教皇の間へと向かった。
「お疲れ様〜。」
不自然にならないように意識しながら笑顔を形作ると、は休憩室に入った。
思った通り、そこには昼食を摂っている執務組が居た。
その中には、教皇であるサガも勿論含まれている。
サガに用があって来たは、すぐさま彼に呼びかけようとしたのだが、その前にサガがに声を掛けた。
「・・・・、頭。」
「え?」
「頭に大きな埃。」
「えっ?どこどこ?」
フォークを置いて口元を拭うと、サガはの頭を指差した。
慌てて頭に手をやってみれば、確かに、指先にふわりと軽い感触を覚える。
「取れた?」
「ああ。」
髪に絡まっていたそれを摘み取ると、なるほど、デカい。
苦笑する彼に釣られて、も苦笑した。
「有難う。ふふっ、大掃除していたら、凄い埃が沢山出て来ちゃって。」
「大変そうだな。何人か手伝いに寄越そうか?」
「ううん、良いの。それより、サガに訊きたい事があって。家にある家電って、どうしたら良いの?」
「家電?持って行かないのか?」
パンを齧りつつ横から尋ねてきたカノンに、は答えた。
「だって、私物じゃないもの。沙織ちゃんが揃えておいてくれた物だから。」
「・・・・ああ、そうだったかな、確か。」
「・・・・別に良いんじゃないか、持って行けば。あれは女神がの為にとご用意なさった物なのだし。まさか女神も返せとは仰らないだろう。」
「ううん。」
カノンの横で、カミュがコーヒーを啜りながら言ったが、は首を横に振った。
「仮にそうだとしても、日本じゃ使えないものばかりだから・・・・・。」
「ああ、そうか。規格が違うのか。」
「うん。だから、どうしたら良いのかなと思って、サガに訊きに来たんだけど・・・・。」
別に深い意味はない。
こういう事務的な話は、聖域の教皇であり責任者であるサガにするべきだと思ったからだ。
そしてサガは、その立場に相応しい、責任者然とした冷静な表情で暫く考え込んでから答えた。
「・・・・・取り敢えず、そのまま置いておくと良い。折を見て、我々が片付けておこう。」
そう、これは事務的な話なのだ。
こんな話はさっさと終わらせて戻らなければ。まだ荷造りと掃除が途中なのだから。
「・・・・・そう?有難う。」
だから、こんな話をした位で、いちいち感傷に浸っていてはいけない。
「あ、それと、家具とか食器とか日用品とか、誰か欲しい人居ない?」
「持って行かないのか?家電はともかく、それこそ全部お前の物だろう?」
「うん。でもほら、母の家に全部あるから。」
「あ・・・・・、ああ、そうか・・・・。」
そうと分かっているのに、シュラの気まずそうな表情が、胸をじわじわと締め付けてくる。
彼がそんな顔をする必要はないのに。
「それもまた今度にしよう。まだここに居る内は何かと必要であろうし・・・・・・・、後日、我々で適当に片付けさせて貰う。」
サガが言葉を選んで話しているのが分かって、泣きたくなってくる。
彼がそんな風に気を遣う必要はないのに。
「・・・・・・そう?」
「ああ。だから、不要な物はそのまま置いて行くと良い。」
「・・・・うん、分かった、有難う。じゃあ、まだ片付けが残ってるから、行くね。」
こんな話をした位で、悲しくなっていてはいけない。
この聖域から出て行く事はもう決まった事、もう決めた事なのだから。
沙織から解雇を言い渡されたあの日、は初めて母の名刺をまともに見た。
純白のカードに流麗な筆記体で書かれている英数字は、母の肩書きや連絡先を示していた。
『Venus Owner』、それが母の肩書きらしい。
業種や規模は分からないが、母が『Venus』という企業の経営者である事は間違いないようだった。
電話番号はその企業の代表番号らしく、名刺の裏に手書きの文字で携帯の番号が記されてあった。
わざわざ書き加えてあるという事は、恐らく印刷されてある番号にではなく、その携帯へ掛けるべきなのだろう。
その手書きの番号をゆっくりとプッシュしながら、は名刺に記されている母の名前を読んだ。
レイコ・。
それが母の名だった。
『同姓なんだ』と呑気な事を考えたのも束の間、すぐに胸がざわめくのを感じた。
これが親子の証の一つだと、そう訴えかけられた気がして。
プ、プ、プ、プルルルル・・・・
呼び出し音が聞こえて来た。
多分、間もなく電話に出るであろう彼女を何と呼べば良いのか、は困惑していた。
さん?レイコさん?
仮にも母親で、その上自分と同姓の彼女を名字で呼ぶのも躊躇われたが、名前で呼ぶのもしっくりこなかった。
ローマ字表記の為、読み方しか分からないその名前が、何となく人の温もりの伝わって来ない、無機質な文字の羅列に見えたからだろうか。
それとも、母の名前を覚えていなかったせいだろうか。
『はい?』
『・・・・・・あの・・・・、私です。・・・・です。』
しかし、電話が繋がったその瞬間、それまで頭の中で何度も呼び続けた彼女の名は、綺麗さっぱり何処かへ消えてしまった。
緊張の余り、頭が真っ白になってしまったのだった。
『・・・・良かった。連絡を待っていたのよ。それで、考えてくれた?』
『・・・・・・はい。あの話、お受けする事にしました。』
それでも何とか用件だけは伝えたところ、電話の向こうから彼女がクスクス笑う声が聞こえて来た。
笑える話をしているつもりはない、こんなにも息苦しい緊張感を味わいながら大事な決断を伝えているのに、彼女は何故笑うのかと、は不愉快になった。
しかし、彼女に対して抱いたこの反感が、皮肉な事にを少し冷静にしてくれた。
『どうして笑うんですか?』
『ふふっ、ごめんなさい、ついホッとして。本当言うとね、断られるんじゃないかと思っていたの。』
落ち着きを取り戻して尋ねたに、彼女は詫びて弁解した。
そして。
『・・・・・・・断られたら、どうやってあなたを連れ戻そうかと考えていたわ。』
『・・・・じゃあ、もし私が断っていても・・・・』
『そうね。どんな手を使っても、連れ戻すつもりだった。』
冗談のようにも、本気のようにも聞こえる口ぶりで、こう言った。
『・・・・そうですか。』
『でも、あなたが自分の意思で帰って来てくれるに越した事はないものね。良かった、安心したわ。それで?いつ戻って来られるの?』
『・・・詳しい日程はまだ決まっていませんけど、多分、2週間以内には。』
『そう。思っていたより早くて助かるわ。』
だが、それが冗談か本気かなど、実際にはどうでも良い事だった。
現実には、は彼女の申し出を受け、帰国を決めたのだから。
『それで、あの・・・・・・、私はどうしたら・・・・?』
『前にも言ったと思うけど、あなたはただ帰って来れば良いのよ。これからは私の家に住むのだから、部屋を探す必要は無いし、家財も車も要らないわ。洋服や細々とした物なんかも、全部こっちで新しく買い揃えれば良いから、必要最低限の物だけ持って帰ってらっしゃい。』
『・・・・・』
何もかもを手放して身一つになるのは、切なく不安だった。
どれもこれも決して高価ではないが、コツコツと働いて稼いだ金で買い揃えてきた物だ。
それらがこれまでの暮らしを構築してきていると言っても過言ではない。
それらの全てを捨ててしまうという事は、これまでの人生や思い出も捨ててしまうという事になる、そんな風に考えたら大袈裟だろうか。
『日程が決まったら、また連絡して。空港まで迎えに行くわ。』
しかし彼女は、が密かに感傷的になっている事にも全く気付かなかった。
或いは、敢えて気に留めなかったのか。どちらかは分からない。
『・・・・・・はい。』
『じゃあ、また。』
とにかく、彼女は自分の用件だけを述べ終わると、さっさと電話を切ってしまった。
だから、は結局、彼女を呼ぶ事が出来なかった。
名字でも、名前でも、
そして、『お母さん』とも。
「・・・・・早く片付けてしまわなきゃ・・・・・」
間もなく始まる彼女との生活に、不安が無いと言えば嘘になる。
それでも、もう決めた事なのだ。
その不安は、今となっては心の奥に押し込めてしまうしかなかった。
が出て行った後、執務組は昼休憩を終えて午後の執務を始めていた。
昼食を摂って腹が膨れた直後というのは、労働意欲が低下するものである。
食欲が満たされると次は睡眠欲が湧いてくる、人間の身体というのはそういう風に出来ているのだ。
その生理的な欲求に抗う事は難しい。
しかし今、執務組のテンションが低いのは、そのせいだけではなかった。
「・・・・・やはり漢字の書類は面倒だ。がやってくれたら楽だったんだがな。」
スペイン人のシュラにとって、やはり漢字はとっつき難い文字であった。
今までなら、こういう日本語の書類の処理は、が一手に引き受けてくれていた。
「お前のはまだマシだ。俺など、サガの来月のスケジュール表を作っているのだぞ。何が悲しくて、俺がこいつの秘書みたいな真似をせねばならんのだ。」
その隣では、カノンがブツクサと文句を言いながら、嫌々兄のスケジュール表を作成していた。
こういう仕事も、今まではが片付けてくれていた。
だが、これからは。
「・・・・・女神がお決めになった事だ。」
サガは書類から目を離さずに、独り言のようにそれだけを言った。
これからは、もうはいない。
もう間もなく、は聖域を去っていく。
無論、最終的にそれを決めたのは自身だが、迷っていたの背中を押したのは沙織だ。
些か強引なやり方だったが、主君である彼女に逆らう事は、黄金聖闘士達には出来ない。
たとえ抗議したところで、沙織がの解雇を取り消す事はきっと無かっただろう。
臣下に窘められて取り消す位なら、最初から追い出したりはしない筈だ。
「・・・・・ちょっと行って来る。」
「・・・・・何処へ?」
「まだ執務中だぞ?」
不意に立ち上がったカミュに、カノンとシュラが注目した。
その視線に、ほんの微かな驚きと期待のようなものを見て取ったカミュは、小さく溜息をついた。
二人が何を想像しているのか、大体見当はつくのだが。
「ここのトイレットペーパーの買出しだ。雑用も執務の内だろう?」
僅かにガッカリした表情をする二人を見て、カミュは一瞬、苦笑を浮かべた。
「・・・・・もうに頼む訳にもいかんからな。」
「・・・・・そうだな。」
「・・・・・さっさと帰って来いよ、まだ他にも仕事はあるんだからな。」
その想像と期待は、決して現実のものにはならない。
それはシュラもカノンも分かっている。いや、黄金聖闘士達全員が分かっている事だった。
沙織は、考え無しに気まぐれな言動に及ぶような性格ではないし、に対して篤い信頼を寄せていた。
それを知っている黄金聖闘士達は、敢えて何も反論せず、沙織の意思に従った。
皆、内心でそれぞれに思うところがあっても、表面上はただ黙って・・・・・・。
そして、更に数日が経過したある日。
の帰国する日が遂に決まった。