時を遡る事、少し前。
「ムウ様ぁーっ!女神が来ましたーーっ!!」
ムウの一番弟子・貴鬼が、さも一大事といった様子で白羊宮に駆け込んで来た。
いや、『さも』ではない。本当に一大事なのだ。
あの夜、城戸邸から戻ったサガの報告を受けた黄金聖闘士達は、それから今日までの間、沙織の『口を出すな』という命令に渋々従いながらも、内心では沙織が現れるのを今か今かと待っていたのである。
しかし、黄金聖闘士達はそれぞれに役目があり、全員で雁首揃えて日がな一日待ちぼうけを食う訳にはいかない。
そこでこの貴鬼が、師匠の命により、張り込みの大役を仰せつかっていたのである。
「貴鬼。『来ました』ではなく、『お越しになりました』でしょう。口の利き方には気をつけなさい。」
「ご、ごめんなさい・・・!女神が、お、お越しになりました。」
ムウに叱られた貴鬼は、たどたどしい口調ながらも素直に言い直した。
「宜しい。それで?」
「えと、今はお姉ちゃんの家に・・・」
「そうですか。」
ムウは目を瞑ると、各宮に居る黄金聖闘士達に向かって、テレパシーを飛ばした。
そして、ものの1〜2分もしない内に。
「その巨体で押さないでくれ、アルデバラン・・・・!」
「狭いんだから仕方がないだろ・・・・!カミュ、お前は細っこいんだから、少し位我慢してくれ・・・・!」
「二人共、ガタガタ言うんじゃねぇ!静かにしろ!」
「お前の声もデカいぞ、デスマスク。女神とに気付かれるだろう。」
の家の窓の外に、黄金聖闘士達が全員集結した。
傍から見れば、女の家をコソコソ覗いている変質者の集団なのだが、当の本人達は至って大真面目に中の様子を伺っていたのである。
「ええい、窓が閉めきってあるから、会話がちっとも聞こえん・・・・!」
が、実際には、アイオリアのこの言葉通り、二人の会話が全く理解出来ない状態であった。
馬鹿デカい声を張り上げてくれているのならともかく、女性が普通に話す声のトーンなど、閉めきった窓の外まで聞こえる筈がない。
テレパシーでどうにか出来るものでもなく、まさか踏み込む訳にもいかず、皆が苛々としている中。
「フッ、耳に頼るから駄目なのだ。」
ただ一人、シャカだけが余裕の笑みを浮かべた。
「黄金聖闘士たる者、常に己を高め、あらゆる技を磨くべし。平穏な暮らしにどっぷりと浸かっているせいか、君達は近頃、少々弛んでいるように思えるぞ。反省したまえ。」
「・・・・悔しいが尤もだ。だが今は、何よりあの二人の会話を聞き取る事が先決。何か良い方法があるのか、シャカ?」
幾ばくかの期待が篭ったサガの声を聞き、シャカは誇らしげに頷いた。
「読唇術だ。」
「なるほど!」
「そうか、それがあったわい!」
「シャカ、貴様、出来るのか!?」
「無論。」
自信たっぷりに請け負うシャカを見て、ミロや童虎やシュラの目が期待に満ちた。
「通信講座でかじったのだ。」
『通信講座か!!!』
が、その期待は早速砕かれそうな予感である。
「何かね、その不満そうなツッコミは。」
「当たり前だ!偉そうに言うからどんな修行をしたかと思えば、インチキくさい通信講座か!」
「何が『黄金聖闘士たる者〜』だ!君も立派に平和ボケしているではないか!」
シャカは、小声ながらも猛然と突っ込むカノンやアフロディーテに、憮然とした口調で言った。
「黙って見ているがいい。君達はいずれ、たかが通信講座と侮った事を後悔するだろう。」
そして、滅多に開かないその目を開き、沙織とを窓越しにじっと見つめ始めた。
「・・・・・もうさんが心配する必要はありません・・・・・」
二人の唇を読むシャカの声が聞こえ始めると、それまでざわついていた黄金聖闘士達もいつしか黙り込んだ。
「・・・・・・どういう事・・・・・?」
窓の向こうのは、シャカのこの通訳通り、怪訝そうな顔をしている。
そんなに、沙織は言った。
「・・・・・・今日限りで、貴女をカキコします。」
『・・・・・カキコ?』
沙織の言葉、いや、シャカの通訳を聞いた一同の目が、点になった。
「どういう・・・・・事?それってつまり・・・・、クビ・・・・って事?」
「解雇という言葉に、それ以外の意味がありますか?」
は、およそ冗談を言っているようには見えない沙織の真顔を、ただ呆然と見つめた。
「黄金聖闘士達も、新しい執務体制に随分慣れてきたみたいですし、もう大丈夫です。これまで協力して下さった貴女には感謝していますが、これからはもう、彼らだけで十分にやっていけます。散々手伝って頂きながらこんな事を言うのも何ですが、貴女の役目はもう終わりました。さんはもう十分、役目を果たして下さいましたわ。」
「・・・・・・・」
「それで、これからの話なのですが、解雇するからには、さんにはなるべく早くこの聖域を出て行って貰わなければなりません。急かすようで心苦しいのですけど。」
は、穏やかな微笑みを形作って、何度も小さく頷いた。
ただそれは、納得したという意味の行為ではなく、必死で平静を装おうとする為の無意識的なな仕草であった。
「至急、辰巳に手配させます。そうですね、2週間以内には帰国出来るようにさせますわ。詳しい日程はまた追ってご連絡差し上げますが、貴女もそのつもりで、急いで荷造りをしておいて下さい。執務にはもう出て頂かなくて結構ですから。」
口元が引き攣っているのが、自分でも分かる。
何か言おうと思っても、何を言えば良いのか分からない。
ただ無意味に頷く事しか出来ない。
「・・・・それから、貴女にこれを。」
「・・・・・何?」
沙織に差し出された封筒を受け取って、ようやくは口を開く事が出来た。
中を開けてみると、そこには一枚の紙切れが入っていた。
「これ・・・・・・!」
それは只の紙切れではなく、500万の小切手だった。
「これ・・・、何?」
「退職金と、当座の生活を凌ぐ為の費用・・・・、言うなれば失業保険のようなものですわね。それと、お餞別も兼ねて。」
「・・・・・こんなの、受け取れないわ。」
は震える手で小切手を封筒に仕舞い込むと、それをそのまま沙織に返そうとした。
「こんな大金、私、受け取れない。悪いけど、これは貰えないわ。」
「そう仰らずにお受け取り下さい。」
「困るわ!気持ちだけ有り難く受け取っておくから・・・・!」
何が何でも受け取らせようとする沙織と、頑なに拒否するの攻防戦は、少しの間続いたが。
「私が『差し上げる』と申し上げているのですから、黙って受け取って下さい!」
「きゃっ・・・・!」
やがて決着はついた。
些か強引な仕草で、沙織がの手に小切手を無理矢理握らせたのである。
「沙織ちゃん・・・・・・」
こんなに感情的な沙織を見るのは初めてで、は呆然と沙織を見つめた。
そして沙織は、の視線に耐えかねるように目を背けると、コートとバッグを掴んで立ち上がった。
「・・・・・話はそれだけです。これまでの間、ご苦労様でした。」
「・・・・待って、沙織ちゃんっ!」
そしてそのまま、呼び止めるを振り返りもせずに去って行った。
再び時を遡る事、少し前。
窓の外では、シャカの通訳した不可解な一語をどうにか理解しようと、黄金聖闘士達が首を捻っていた。
「・・・・カキコ、とはアレか?インターネット上の掲示板等に対して行う、所謂『書き込み』という行為の事か?」
「もしそうだったら、『貴女をカキコします』なんて言い回しは、文法的におかしくないか?」
「本当に『カキコ』と言ったのか?」
だが、カミュ・ミロ・カノンのこの質問全てに対して、通訳者であるシャカ本人は事も無げに答えた。
「知らん。」
「『知らん』とはどういう事だ!?お前が通訳したんだろう!」
「大きな声を出すのは止したまえ、カノン。大きな声を出せば女神とに聞こえると、先程君自身が言った事を、よもや忘れたのではあるまい?良いかね、良く聞きたまえ。読唇術とは、唇の動きを読み、それに最も近い音を発音する技なのだ。」
「つまり、間違っている恐れがあるという事だな。」
サガが、限りなく屁理屈に近いシャカの理屈を分かり易く解釈すると、皆が落胆の溜息を零した。
「そのような言い方をされると身も蓋もない。間違いではないのだ、ただ、読唇術というのは・・・」
「もう良い分かった、別にお前を責めるつもりはない。他に何か無いか?『カキコ』と音の似た日本語は?皆も考えてみてくれ。」
サガに言われて、黄金聖闘士達は皆一様に、真剣な顔で頭の中の辞書を繰り始めた。
だが、『音の似た言葉』などと漠然と言われても、そう簡単に浮かんで来ない。
そうして暫くの間、必死に考え込んだ挙句にやっと出て来た言葉は。
「そうだ!介護!『介護』じゃないか!?高齢者や病人の世話という意味合いの!」
「いや待て、『サイコ』かも知れんぞ!サイコ・サスペンスの『サイコ』!」
「いや、『ラリホ』だ!ドラ○エの呪文にあったじゃねぇか!」
アルデバラン・アイオリア・デスマスクがそれぞれに思いついた、この3つの単語であった。
三人共、柏手を打ったり、指を鳴らしたりなどして発言した辺り、それぞれ自分の答えに自信があったようだが。
「うむ。良い感じにアホな答えだ。そんな訳あるか。」
「礼を言うぞ、シュラ。私の代わりに突っ込んでくれて。」
シュラとサガの冷ややかな視線でサラリとあしらわれて終わった。
しかし、そんなこんなしている内に。
「あっ、女神が出て来た・・・、じゃなくて、女神がご出立奉られましたよ、ムウ様!」
貴鬼が慌てて指を指す方向には、の家から足早に歩き去って行く沙織の姿があった。
そう、黄金聖闘士達が無駄な事をしている内に、いつの間にか沙織とは話を終えてしまっていたのだ。
「貴鬼、何ですかその変な言い回しは。」
「何って、敬語でしょう?前に日本へ遊びに行った時、TVに出ていたサムライがこんな感じの言葉を使っていましたよ?」
「妙に難しい言い回しをして間違う位なら、普通に『出ていらっしゃった』と言いなさい。」
「はぁい、チェッ・・・・。でもムウ様、どうするんですか!?追いかけないんですか!?」
貴鬼に言われて、一同は急に焦り始めた。
沙織は、十二宮方面ではなく、聖域の玄関口の方に向かって歩いて行ってしまったのだ。
どうやら沙織は、黄金聖闘士達にはこのまま会わずに帰ってしまうつもりのようである。
果たして沙織は、に何を言ったのか。
沙織の考えとは、一体何だったのか。
それを知りたがっている黄金聖闘士達に、何一つ話さないまま。
「・・・・・追いますよ!」
ムウのこの言葉がきっかけになり、黄金聖闘士達は弾かれるようにして家の表側に回った。
無論、沙織の後を追う為である。
ところがその時、突然玄関のドアが開き、が外に出て来た。
「・・・・あれ、皆どうしたの?」
沙織を追う前にに見つかってしまった一同は、慌てて足を止めざるを得なかった。
「え?あ、あー・・・・・、うん。散歩だ、散歩。良い天気だったから。」
「やあ、今日は天気が良いね。」
明らかにどもっているミロも怪しいが、あからさまに口調が変わっているデスマスクも相当変だ。
普段のならば、ここで間違いなく突っ込んでいるだろう。
だが実際には、はただ笑って『そうね』と答えただけだった。
― 変 だ 。
明らかにどもっているミロも、あからさまに口調が変わっているデスマスクも怪しいが、この怪しい二人に突っ込まなかったが、誰よりも一番おかしく見えた。
「・・・・丁度良かったわ。今、サガに報告しに行こうと思っていたの。」
「報告・・・・・・?何の?」
アフロディーテが、口元に湛えた笑みを微かに引き攣らせながら尋ねると、は小さく笑った。
そして。
「・・・・・・私・・・・・・、クビになっちゃった。」
と言った。
「クビ・・・・・・?」
「クビとは・・・・・、どういう事だ?」
カミュとシュラが、唖然と目を見開いた。
いや、誰もが、よく事態が呑み込めていないかのように、呆然とを凝視している。
そんな彼らに対して、は事の顛末を要約して話して聞かせた。
「さっき、沙織ちゃんが来てね。今日付けで解雇されたの。もう執務に出なくて良いから、早く聖域から出て行ってくれって。」
この言葉に、黄金聖闘士達は驚愕した。
「・・・・・何と・・・・。カキコでも介護でもサイコでもラリホでもなく、『解雇』だったか・・・・・」
「何が『何と・・・・。』だ。お前の読唇術は金輪際当てにせんぞ。」
愕然としているシャカを軽く小突いた後、サガは痛ましげにを見つめた。
「それにしても、いつの間にそんな話に・・・・・・」
いつの間にと言っても、下らない論議をしていた間に決まっている。
『サイコ』だの『ラリホ』だの言っている間に、沙織の話の肝心な部分を聞きそびれただけだ。
「さあ。私も、今さっき突然言われたから。」
だが、サガ達が窓の外から覗いていた事など露程も知らないは、『いつの間に』の意味を少し取り違えて答えた。
「・・・・そういう訳だから、今日から手伝えなくなっちゃった。ごめんね。」
誰もが複雑な表情を浮かべて押し黙る中、だけが微笑んでいた。
迷いが晴れたようにすっきりとした、それでいて、何かを諦めた時のように少し寂しげな瞳で。