「・・・・・確かにこれは、の問題だ。」
遅れて来た童虎に改めて事の次第を話した後、サガは本題へ移ろうとしていた。
「・・・・・だがしかし!!!」
「うおっ、吃驚したーーッ!いきなり大声出すなよ!!」
「す、済まん;」
デスマスクの非難を浴びたサガは、何度か咳払いをすると、声のトーンを普通に戻して再び話し始めた。
「今回の件は、我々にとっても決して他人事ではない。何故ならは、この聖域の執務において、不可欠かつ貴重な人材だからだ。他ならぬの為、そしてこの聖域の為、どうする事が一番良いのか、それを考えてみようと思う。」
と、まるで教師のように問題提起したサガは、一同をぐるりと見渡した。
「とは言え、の母親が一緒に暮らしたいと言って来ている以上、答えは二つに一つだ。を日本に帰らせるか否か。諸君はどう思う?」
「・・・・・・・俺は・・・・・・・」
サガの問いかけに一番先に答えたのは、アルデバランだった。
「俺は、『帰らせる』に1票を投じる。」
アルデバランは、皿に盛られた小袋入りの煎餅を一枚取ると、袋から中身を出してテーブルの中央にポンと置いて言った。
「は天涯孤独じゃなかったんだ。母親が迎えに来たんだ。どういう経緯で別れたにせよ、過去がどうだったにせよ、血を分けた肉親がこの世に居るというのは何よりの幸せだと・・・・・、俺は思う。」
「・・・・・私も賛成に1票です。」
アルデバランの置いた煎餅の上に、もう一枚煎餅が置かれた。
それを置いたのはムウだった。
「確かに今更な話です。しかしそれでも、今更になってでも・・・・・、現れたという事は、恐らく親子の絆を完全に断ち切ってしまう事が出来なかったという事なのでしょう。を忘れきれなかったのでしょう。その気持ちは、汲んでやっても良いと思います。」
「・・・・・俺もそう思う。」
また一枚、賛成側に煎餅が増えた。
アイオリアの出した煎餅だった。
「捨てておいてまたひょっこり現れるなんて、酷い母親だと俺も思う。だがそれでも、は母親を憎んでいると言ったか?言っていなかったのだろう?昔、母親に買って貰った物を、今までずっと大事に持っていたんだろう?」
「・・・・・・そうじゃのう。」
アイオリアに同調するようにして、童虎も賛成側の山に煎餅を一枚追加した。
「・・・・・は、ずっと母親を待っていたのかも知れんのう。はそんなつもりでないと思っていたとしても、本人も気付かぬ程の心の奥底で、な。」
「・・・・・・馬鹿を言うな!!」
そこに一人の男が猛然と抗議の声を上げて、賛成側の煎餅をバリバリと食い荒らし始めた。
「ミロ!?何て事をするんだ!それは俺達の票だぞ!!」
「黙れアルデバラン!ええい、こんな物、全部食ってやる!!」
止める暇もなく、四枚の煎餅を瞬く間に噛み砕いて飲み込んでしまったその男・ミロは、新たな一枚を皿から取ると、テーブルの中央に置いた。
「どいつもこいつも、良い様に解釈し過ぎだ!!本当にの気持ちを考えているのか!?たった3歳で捨てられて、それからずっと一人でやってきたんだ!なのに、今になってノコノコと『母親でござい』と出て来られたんだぞ!の身になってみろ、許せるか!?」
「同感だ。俺も反対に1票入れる。」
ミロの置いた煎餅の上に、煎餅がまた一枚、カノンの手によって積まれた。
「今更すぎる。もうは一人前だ。親の必要な年齢ではない。いや、むしろ不要だ。親子の絆だの肉親の情だのと言うが、それが必要なのは幼子だ。一人前になってから手に入れても、下手をすれば重荷に、足枷にしかならん場合もある。」
「・・・・・一理あるな。」
反対煎餅の山がまた一枚分、シュラの出した煎餅で高さを増した。
「ずっと別れて暮らしていたのだ、言うなれば他人も同然だ。なのに今更、下手に一緒に暮らせば、もの母親も、却って余計に辛くなるかも知れん。の思い出が色褪せて、あの宝物が宝物でなくなるかも知れん。」
「言えてるね。」
大分勢力の強まってきた反対派に、もう一枚、アフロディーテの一票という新たな煎餅が加わった。
「それに、もし、母親の申し出を受ける気がにあったのなら、は迷っていない筈だ。仮に我々に遠慮しているとしても、『帰りたい』という雰囲気ぐらいは出していただろう。そうでないという事は、自身も心の何処かで分かっているのではないか?夢のままで終わる夢を見ている方が幸せな場合もある、と。」
「・・・・・そうだ、こいつらの言う通りだ。」
ここで、五枚目の煎餅が反対側の山に積み上げられた。
デスマスクの入れた一票によって、遂に反対派が賛成派を追い越したのである。
「俺も反対だ。今更すぎる。アイツはなぁ、ここに来る時、聖闘士の掟を破って来たんだよ。聖域や聖闘士の事を知った奴は生かしておけねぇって掟をよ。ありゃあ、前代未聞の特例だった。命も取られず、記憶も奪われず・・・・、アイツはそこんとこを自覚してなきゃならねぇ。」
「それは・・・・・!しかし、あの時の処遇は、女神のたってのご希望だったんじゃないか!あの時の話と今の話と、一体何の関係が・・・」
「良いか。良く聞け、馬鹿共。」
デスマスクは、アイオリアの反論を遮った。
「幾ら聖闘士じゃねぇからって、この聖域に来る以上、生半可な覚悟じゃ駄目だったんだ。アイツだけじゃなく、俺達もな。掟を破って連れて来た以上、アイツを二度とここから出さねぇ位の心積もりが必要だったんだ。それを帰るか帰らねぇか迷ってる、だと?帰すか帰さねぇか考えよう、だと?・・・・・・ハッ、どいつもこいつも今更すぎるぜ。」
デスマスクのこの言葉には、誰もが沈黙した。
デスマスクの言う事は、決して間違ってはいなかったから。
そして。
「・・・・・いつかこんな事になるんじゃないかと思っていたぜ。だからあの時、中途半端な仏心なんざ出さねぇで、さっさと殺しとけば良かったんだよ。今更帰す位なら、ハナッから生かしておかなきゃ良かったんだ・・・・・。」
サガを見据えて呟くデスマスクの顔が、その恐ろしい台詞とは裏腹に、苦悩に引き攣っていたから。
「・・・・・・デスマスクよ。確かに、あの時の事は私に責任がある。が任務中のお前を偶然目撃した時、掟に従い、彼女を殺めようとしたお前を止めたのは私だ。お前の言う通り、中途半端な仏心を出して、な。」
「・・・・・」
「だが、私が言うと無責任に聞こえるだろうが・・・・・、それも今更な話ではないか?」
サガは、小さく遠慮がちな声でそう言った。
サガのこの言い分に対して、デスマスクが更に反論し始めるその前に口を開いたのは、シャカだった。
「・・・・その通り。サガの言う通りだ、デスマスクよ。」
「・・・・・あぁ?」
「今更今更と言うが、君が重きを置いているポイントも、十分に『今更』な話だ。それでも、君の中においては過ぎた話でない、あの時任務を果たしきれなかった事に対し、未だに自責の念を感じていると言うのなら、仕方がない。『今更』になるが、あの時し損じた任務を遂行したまえ。」
「・・・・・」
「君の手で、を殺したまえ。」
シャカが口を閉ざした後、不気味な程の沈黙が流れた。
そのほんの一瞬の間に、デスマスクがみるみる表情を変えていき、そして。
「・・・・だからテメェはムカつくんだよ!!人の揚げ足を取って嫌味くせぇ事ばっか言いやがって!」
「デスマスクッ、止めろ!!」
アルデバランが止めようとするのを押し退けて、デスマスクはシャカに掴み掛かった。
「偉そうな事ほざくなら、テメェがやれよ!俺にばっか面倒臭ぇ事押し付けるな!」
「デスマスク!」
「シャカ!」
周囲の者達が、諍いを始めた二人を止めようと間に入ったが、シャカはデスマスクに胸倉を掴まれたまま、涼しい顔をして言った。
「構わん、捨て置きたまえ。蟹如きがこのシャカに勝てる筈がなかろう。その拳、一発たりとも我が身に当てる事は叶わん。蟹の動きなど、私には全てお見通しだ。」
「んだとテメェ!!!」
「君の心もな。何のかのと理屈を捏ねてはいるが、君の言っている事は、の国に伝わる、『鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス』という言葉と同じ事だ。の国で大ヒットした演歌の名曲にある、『誰かの手に渡す位なら、あなたを殺してしまいたい』という歌詞と同じ事だ。」
「それは・・・・・、『天○越え』じゃろう?微妙に歌詞が違っておるぞ、シャカよ;」
「さて、そうでしたか。」
シャカは童虎のさり気ないツッコミをさらりと流して、いつの間にか力の抜けていたデスマスクの手を軽く払い除けた。
「要するに、君の中で彼女は既に、決して小さくない存在になっているという事だ。」
「・・・・・」
「出来もしない事は口にするべきではない。だから私は、もしも彼女がここを出て行くと言い出しても、掟に則って彼女を殺すとは言わない。」
シン、と静まり返ったこの場に、シャカの静かな声だけが流れる。
「全ては次第だ。今後、私は一切意見しない。意見したい者だけすれば良い。つまり私は、賛成派にも反対派にもつかず、新しい派閥、『どちらともいえない派』を立ち上げる事にする。」
シャカはきっぱりとこう宣言した後、皿から煎餅を一枚取り上げて、おもむろに食べ始めた。
そして、欠片も残さず綺麗に食べきった後、空になった小袋を反対派の煎餅の山の隣に置いた。
「・・・・・私も、シャカの意見に賛成だ。」
シャカに倣い、カミュも煎餅を一枚手に取った。
「我々の考える彼女の幸福と、彼女が考える彼女自身の幸福は、異なるかもしれない。そうだった場合、我々の意見を押し付けられたら、はどう思うだろう?ただ混乱するだけではないのか?私は、私の個人的な意見で彼女の心を掻き乱したくない。私の考えによって、彼女の人生を変えるつもりはない。」
ピリピリと小袋を破ると、ほんのり焦げた醤油の馥郁とした香りが漂って来る。
「だから私は、今ここでこの煎餅を食う。そして、敢えて貝になろう。」
皆が黙って見守る中、カミュは何だか良く意味の分からない宣言をしてから煎餅を食べ、残った空袋をシャカの出したそれに重ねて置いた。
「・・・・この辺りで、一度集計しましょうか。」
沈黙を破ったのは、ムウの声だった。
「まず、賛成派が・・・・ああ、そうでした。私達賛成派の煎餅は、全てミロに食い尽くされてしまっていましたね。では新たに・・・・、1・・・、2・・・、3・・・、4・・・、と。」
ムウは賛成派の人数分の煎餅を新たに取り出すと、テーブルの中央に盛った。
「賛成・4票、反対・5票、どちらともいえない・2票・・・・、あと1票足りませんね。サガ、貴方の票が。」
ムウをはじめとする黄金聖闘士達全員の視線が、一斉にサガへと向けられる。
彼らの視線に無言の内に促されるようにして、サガは口を開いた。
「・・・・・私も、色々考えていた。全聖闘士を束ねる聖域の教皇としての立場から言わせて貰うと、が居なくなるのは、今後の執務に多大な影響が出ると容易に予測出来る故、非常に辛い。お前達は執務の事などいつも二の次三の次だから、そんな事はどうでも良い位にしか思っていないだろうが、執務の責任者である私としては、な。」
「それは、暗に私達を『怠け者』と責めているのか?」
「ストレートに責めているのだ、たわけ者。」
心外だと言いたげな顔をするアフロディーテに、フォローどころか追い討ちを掛けてから、サガは再び話し始めた。
「話を戻そう。つまり、執務の責任者である私としては、非常に困る訳だ。・・・・だがそこには、私達が努力する余地がある。全員がもっと気を引き締め、執務に対する責任感を強く持ち、これまで以上に向上心と意欲を持って積極的に取り組めば、何とかなる事だ。」
心なしか全員が嫌そうな顔をしているように見えたが、サガは敢えてそれに構わずに続けた。
「また、デスマスクの言い分だが・・・・・、確かに尤もな話だ。そして、聖域の教皇たる者、これ以上掟を破る事があってはならんだろう。だが、だけは別格と考える事が出来る。ここで長く我らと過ごしていたという事もあるが、彼女はあの星矢の身内も同然の人間だ。聖域や聖闘士の事が世間に知られるような事になれば、彼女が実の弟のように可愛がっている星矢に迷惑が掛かる。彼女はそれを十分に理解している。きっと大丈夫だ。私の命を懸けても良い、それは断言出来る。」
サガは一瞬、許しを乞うような目でデスマスクを見たが、やがてその視線を菓子皿に向けた。
次々と売れて残り少なくなった煎餅の横で、売れ残ったひよこ(饅頭)達が寂しそうに佇んでいる。
幼い頃のも、こんな風に待っていたのだろう。
誰かが手を差し伸べてくれるのを。
母親が迎えに来てくれるのを。
「・・・・最後に、私個人としての意見だが、それは賛成派の者達と概ね同意見だ。総括して私の結論を述べると、執務の事は我々が努力すれば何とか出来るが、親子の気持ちや事情には、我々が介入する余地などない。我々にはどうにも出来ない事だ。故に私は・・・・・、賛成に1票入れる。」
サガが賛成派についたその瞬間、反対派が険しい顔で抗議を始めた。
「賛成賛成と簡単に言うがな、お前達は本当にの気持ちを考えているのか?」
「分かったような事を言って、格好をつけているだけじゃないのか?」
「それと、そこの『どちらともいえない派』二人。私から言わせれば、君達はただ卑怯で臆病なだけだ。」
「『どちらともいえない』なんて反則だぜ。結局お前らは、面倒事を避けたいだけの日和見主義ってだけだろう?テメェの本音を曝け出すのが怖ぇんだろう?」
シュラ・ミロ・アフロディーテ・デスマスクの非難を浴びた賛成派及びどちらともいえない派は、皆それぞれに納得のいかないといった反応を返した。
ある者は厳しく唇を引き結び、またある者は反論しようと口を開きかけて。
だが、そんな彼らを制して、サガは静かに言った。
「私達は・・・・、私は、の為を思ってそう決めたのだ。色々な角度から考えた上での結論だ。お前達こそ、の気持ちを考えているのか?お前達はただ、に何処にも行って欲しくないだけではないのか?己の私的な感情だけで突っ走っているのではないのか?」
サガの冷静な声が、反対の声を上げていた者達に、針のように細く鋭く突き刺さる。
誰もが思わず沈黙し、辺りには気まずいムードが立ち込めた。
その時。
あひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!
うひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!
童虎が持って来た笑い袋が、これ以上ない程場違いな声で馬鹿笑いをし始めた。
いや、笑い袋が一人でに笑う筈はない。誰かが鳴らさねば。
「お前か、カノン!!!!」
笑い袋を握っているカノンに向かって、サガは怒髪天を衝く勢いで怒鳴った。
「何がおかしいんだ、人が真面目な話をしているのに!!」
「フフン、ちゃんちゃら可笑しいわ。可笑しすぎてヘソが茶を沸かすわ。」
「何だと!?」
「何が悪い?」
カノンは、急に真剣な口調になって言った。
「結局のところはの問題なんだ。俺達は俺達の気持ちを優先して考えるしかないだろう。それの何が悪い?」
「自己中心的だと言うのだ!」
「黙れ。物分りの良い振りをして格好をつけるのもいい加減にしろ。サガ、俺は分かっているんだぞ。お前も本当はを行かせたくないんだろう?」
「・・・・」
「他の連中もそうだ。本音は俺達反対派と同じなんだろう?どいつもこいつも、やせ我慢しているのが見え見えだ。フン、見苦しい。」
カノンは、反対派以外の者達を馬鹿にするかのように鼻を鳴らした。
普段なら、ここでサガ辺りが即ギレし、組んず解れつの大乱闘になるところなのだが。
「・・・・・何とでも言え。お前に何と言われようと、私は自分の意見を変える気はない。」
サガは、静かな、それでいてきっぱりとした口調で、そう言い返しただけだった。
ムウも、アルデバランも、アイオリアも、童虎も、無言でただ頷いただけだった。
それから一体どれ位の時間を、ただ黙って過ごしただろう。
誰も何も言わず、誰も動こうとせず、ただ時折、誰かの吹かす煙草の煙が部屋の中をふわふわと行き交うだけで。
この無駄な時間が、このまま永遠に続くのではと思われた頃。
「・・・・・票が割れてしまったな。」
やがて、アイオリアが独り言のように呟いた。
そう、サガが賛成に一票を投じた事により、賛成と反対の票数が同じ数になってしまったのである。
「この結果をそのままに伝えるべきか。それとも、が何か言って来るまで黙っているべきか・・・・。」
「・・・・いや、まだ早い。もう一人、意見を聞いておかねばならない人物が居る。」
その独り言に、サガが返答した。
「女神に・・・・・・・、ご報告せねば。」