夢の貌 ― ゆめのかたち ― 25




『園内のお客様に申し上げます。当園は午後5時をもちまして閉園となります。本日はご来園誠にありがとうございました。またのお越しをお待ちしております。・・・・・園内のお客様に申し上げます。当園は・・・』

もう間もなくの閉園を繰り返し知らせ続けるアナウンスを聞きながら、真島は密かに焦っていた。この後どうしたいのか、どうするべきなのか、答えを出すにはあまりにも時間が足りなくて。


「・・・・・そろそろ帰るわ。寒なってきたし、猛が風邪引いてまう。」

いや、どうしたいのか、自分の意思は明確に持っている。
だが、それに従う勇気がなかなか湧いてこなかった。


「・・・・ああ・・・・、そやな・・・・。」

どこかで晩飯でもと誘ったところで、は恐らく、遊び疲れてぐっすり眠っている猛を理由に断るだろうし、自宅と逆方向かつ子供の物も何一つ無いビジネスホテルに遊びに来ないかと誘うのは、それこそ不可能だ。
ましてや、今から二人の家に行きたいなどとは、口が裂けても言えない。
だから真島はすんなりと承知したふりをして、と共に立ち上がるしかなかった。


「今日どないして来てん?」
「電車。」
「ほなタクシーで送るわ。猛寝てんのに、電車は大変やろ。」
「でも起こしたら何とか・・・」
「こんなよう寝てんのに、起こしたんの可哀想やんけ。それに、お前も疲れたやろ。」

せめて二人の為に何かしてやりたい一心でそう申し出ると、は根負けしたように微かに笑った。


「・・・そやな、じゃあ、お言葉に甘えよかな。」
「おう、そうせぇ。」

正面ゲートはすぐそこだった。
もうあと少ししたら、二人と別れなければいけなくなる。
まだ他に言いたい事も訊きたい事もあるのに、このまま終わってしまって良いのかと、真島は自分自身に発破をかけた。


「・・・・明日は、また仕事か?」
「うん、そう。猛も保育園やし。」
「そうか・・・、大変やな。毎日朝早ようからやろ?」
「まぁでも、店もあれはあれで大変やったし。何したって大変なんは一緒やわ。」
「ああ、ま、そらそやな。」

ハハ・・と笑う自分の声が、自分の耳に虚しく響いた。
そんな事が訊きたいのではないのに。


「・・・・・お前は・・・・・」
「ん?」
「お前は誰ぞ・・・・、ええ奴出来たんか・・・・?」

しっかりしろと己を叱りつけ、真島は思い切ってそれを訊いた。
あの例の『若社長』の卯西稔とは、その後どうなっているのだろうか?身辺調査の結果を聞いた時から、ずっと気になっていた事だった。


「・・・・まぁ、色々と良くしてくれる人はおる・・・・、かな?」

程なくして、大体覚悟していたような答えが返ってきた。
最悪の想像が当たった訳ではないが、かと言って、取り越し苦労に終わった訳でもない、というところだろうか。
あの探偵事務所の所長が言っていた、深い関係になるのも時間の問題、という一言が真島の脳裏に蘇った。


「・・・・そうか・・・・」

地元で昔から営まれている不動産会社の跡取り若社長、にとってはきっと良縁なのだろう。
には子供がいる事を承知の上であんなに堂々とあからさまに好意を示しているのだから、猛の事だって勿論引き受けるつもりでいる筈だ。
だから、があの若社長の好意に応えようというのなら、二人の幸せの為に、勿論祝福しなければいけなかった。


「・・・・何で?」
「え・・・・?」
「何でそんな事訊くん?」

は不意に立ち止まり、その気丈な瞳で真島を見上げてきた。
厳しささえ感じる程に毅然としたその眼差しは、真島が心の中に隠し持っている勝手な願望を見透かしているかのようで、まっすぐに見つめ返す事などとても出来なかった。


「・・・・いや、別に・・・・」

あんないけ好かない男になびくな、いや、他の誰のものにもなるな。
猛だって俺の息子だ、俺とお前の子だ、他の男に父親面などされて堪るか。
そんな恥ずかしい位に手前勝手な心の叫びが、に聞こえている気がして。


「・・・・お前と猛には、幸せになって貰いたいと思とるから・・・・、ただ、それだけや・・・・。」
「・・・・そう。ありがとう。」

苦し紛れの誤魔化しが通じたのか、は微かに笑ってまた歩き出した。
正面ゲートを出ると、すぐ前の道沿いに、タクシーが何台か停まって客待ちをしていた。残り時間は本当にあと僅かだった。信号を待って、目の前の道を渡るまでの、ほんの僅かしかなかった。


「なぁ・・・・、また・・・、会えるか・・・・・?」

差し迫った別れの時に背中を押され、真島はやっとの思いでそれを口にした。
すると、はそのまっすぐで綺麗な瞳で、また真島を見上げた。


「・・・勿論。」

が浮かべた微笑みに、思わず胸が弾んだ。


「今はまだ何かと手ェ掛かって大変やから私も一緒について来なあかんけど、もうあと2〜3年もしたら、あんたと二人で一日遊びに行けるようになると思うわ。
そやから、またいつでも都合の良い時に会ったげて。私に遠慮する事なんかない。あんたもれっきとした猛の親やねんから。」

だが、一瞬膨らみかけた期待は、すぐに萎んでいった。


「・・・・・猛が・・・、望んでくれんねやったらな。」

期待したのも勝手なら、それが外れて落ち込むのもまた勝手というものだった。
そんなばかみたいな胸の内をに気取られたくなくて、真島はさも自分も元からそのつもりで訊いたかのように、調子を合わせて微笑み返した。


「それやったら大丈夫や、今日めっちゃ喜んどったもん。望むどころか、もう早速明日の朝にでも行きたがるで。この子の場合、『また今度』っていうのが今日・明日の話やから。ふふふっ。」
「へへっ、そうか。それやったら良かったわ。」
「ああそや、今日の写真も、現像出来たら送るわな。」
「おお、おおきに。」

猛との面会を快く許してくれただけでも、幸運だと喜ぶべきなのだ。
それ以上の手前勝手な願望は、やはり只の『夢』でしかない。
真島は自分にそう言い聞かせ、青信号になった横断歩道をと共に渡った。
渡りきって、一番近くに停まっているタクシーに近付くと、後部座席のドアが開いた。


「先乗れや。」
「うん。」

まずはを先に乗せ、落ち着いたのを見計らうと、真島は自分が抱いていた猛を注意深く車内のに渡した。
母親の腕の中に戻った猛は、まだぐっすりと気持ち良さそうに眠っていた。
目が覚めたら、『おめめのおっちゃん』がいなくなっている事に気が付くだろうか?
本当にの言う通り、またすぐにでも会いたいと思ってくれるだろうか?


「またな・・・。」

真島は猛の頭をそっと撫でてから財布を開き、自分が帰京する為に必要な分を除く有り金全部を、の荷物の中に滑り込ませた。


「ちょっ・・」
「ええから。」

は困惑を露わにして返そうとしてきたが、それをされては立つ瀬が無かった。
は相変わらずからかって笑ってくれたが、男のプライドは伊達ではないし、何より、行動や言葉で表す事の出来ないこの心の内をどうにかして形にしようと思ったら、これしかないのだから。


「ほな、またな。」

真島はスッと身を引いて距離を取り、車内のに軽く笑いかけた。


「・・・・・うん・・・・・、ありがとう・・・・・」

もまた、何とかぎこちない微笑みを浮かべ、真島に向かって軽く手を振った。
やがて車のドアが静かに閉まり、真島と後部座席の二人とを隔てた。
微笑んで手を振ってくれるに同じ仕草を返して見送ると、真島だけがただ一人、薄汚れた町にポツンと取り残されていた。
何となく煙草に火を点けて、真島は暮れゆく町並みをぼんやりと眺めた。
ここは所謂『オヤジの聖地』という町で、小汚くも美味い飲み屋が軒を連ねている。蒼天堀のキャバレーやキャバクラで豪遊するには全然足りないが、ここらの飲み屋で一杯引っかける程度の金は残っているし、揚げたての串カツや甘辛いどて焼きも、久しぶりに食べたいとは思う。けれども、やっぱりその気にはなりきれなかった。
そうかと言って、帰るかという気にもならなかった。
今すぐホテルに戻ってチェックアウトすれば、今夜の内に東京へ帰り着ける。何なら神室町で一遊びする事さえ可能だ。桐生か柏木でも探して、上手くすれば喧嘩の相手になってくれるかも知れないし、それが駄目でも酒の一杯ぐらいは付き合ってくれるだろう、などと考えてもみたが、それでもやっぱり気分が乗りきらなかった。
もうこれ以上ここにいたって何もする事など無いのに、まるで駄々をこねるガキのように帰りたがらない己に呆れながらも、真島は薄汚れた町の中を歩き始めた。


歩きながら考えるのは、もう過ぎてしまった事ばかりだった。
もっと上手くやっていたら、今頃さっきのタクシーに一緒に乗れていただろうか?
離婚した事をもっと早くに打ち明けていたら、今頃一緒にいられただろうか?
ばかみたいな考え違いを起こして他の女と結婚などしなければ、
情けなく寂しさに負けなければ、
そもそも決して諦めずに、をしっかりと抱きしめて離さなければ。
頭の中で己一人、どんどん時を遡っていくと、記憶の中に埋もれていたとの日々が次々と浮かび上がってきた。
猛が生まれるよりもずっと前、
東京と大阪を忙しなく行き来していた頃よりももっと前、
二人を閉じ込めていた『檻』と『籠』の扉が開かれるよりも更に前の、遥か遠い日々。
そう、と出逢ったばかりの、あの日々が。

あの頃の事を思い出しながら、真島は歩いた。飲み屋のひしめき合う横丁を抜け、大通りに出て、と出逢ったあの灰色の町を目指して。
あの頃は右も左も全く分からなかったのに、今では随分と土地勘がついていて、少なくとも大阪市街地の東西南北、どの方角にどの街があるのか位は分かるようになっていた。
苦い紫煙を燻らせながらあの町の方へ歩いて行くと、やがて見覚えのある店が見えてきた。あの頃、とよく買い物に来たスーパーだった。
誘われるようにしてスーパーに近付いて行くと、買い物袋を提げた若いカップルが店内から出て来た。まだらな金髪頭の絵に描いたようなドチンピラと、派手でイケイケな格好をした典型的な商売女だ。
同じなのは年頃ぐらいで、ルックスはまるで違うのだが、楽しそうに笑いながら寄り添っているその様子が、あの頃の自分達のようだった。
これから部屋に帰って、二人きりで食卓を囲むのだろうか?横を歩き去って行く二人にあの頃の自分達を重ねて見送ってから、真島も踵を返してまた歩き出した。
あの頃いつも通っていた道を歩いていると、ふと隣にがいるような気がした。
下らない話をして笑うの軽やかな声が今にも聞こえてくるようで、と一緒にあの部屋へ帰っているような気分になった。
佐川に束の間貸し与えられていた、薄汚れた狭小マンションの一室。と出逢って愛し合った、あの部屋へと。

何も考えなくても、足が道を覚えていた。心の奥深くに根付いている、あの大切な記憶に任せて歩いて行くと、また懐かしい風景が見えてきた。
灰色の町の中にある小さな公園。買い物の帰りによく立ち寄った、あの公園だった。
公園の中に人はいなかった。確か夕方には小学生位の子供達が何人も遊び転げていたものだったが、夕方と言っても今はもう暗くなってきているから、皆帰ってしまったのだろう。あの頃ここで遊んでいた子供達も、今はあの頃の自分達に近い年頃になっているのかと思うと、流れた時の長さをひしひしと感じさせられた。
いつの間にそんなに、長い長い時間が経ってしまったのだろうか?
自分の主観ではそんなに経った気はしていないし、この辺りの様子だって何も変わっていないのに。
思い出そのままの風景を眺めていると、公園のすぐ側にたこ焼きののぼりが出ているのに気が付いた。そして、それに気付いてハッとした瞬間、そこから人が出て来るのが見えた。
暗くて顔までは見えないが、小柄なその人影は、多分あの店の婆さんだった。
軒先に吊るしてあるたこ焼きののぼりを下ろそうとしている。もう店じまいするのだろうか?真島は思わず早歩きになってそこに向かった。
近付いてみると、そこはやはりあの駄菓子屋で、そこにいた人も、いつも店先でたこ焼きを焼いていたあの婆さんだった。


「おばちゃん、もう終いやのに悪いな。たこ焼き残ってへんか?」

真島が声を掛けると、婆さんは少し驚いたように目を見張ったが、嫌そうな顔はしなかった。


「ああ、あるよ〜。何個しよ?」
「ほな6個のやつ、1つくれ。」

あの頃いつも頼んでいたのと同じ物を一人分だけ注文してみると、急にとてつもない寂しさに見舞われた。
だが、一緒に食べてくれる人もいないのに二人分頼むなど、それこそ泣けてくる。
こんな所でたった一人、ばかみたいに未練がましい事をしている自分が虚しくなったが、今更注文をキャンセルする事も出来ず、頼んだ物が用意されるのを待っていると、婆さんがふと手を止めて、しげしげと真島の顔を見つめてきた。


「あれ?アンタ前にも買いに来た事なかったか?一時しょっちゅう来てくれとったやろ?ほんのちょっと間やったけど。」

まさか覚えられていたとは思わなかったので驚いたのだが、次の瞬間には何だか妙な嬉しさが込み上げてきた。


「ああ・・・・・、ははっ・・・・・、久しぶりやなぁおばちゃん。」
「ああ〜、やっぱりあん時の兄ちゃんや!髪短こなってるから最初分からんかったけど、あれぇ?どっかで見た顔やなぁと思ってなぁ。」
「そんな事まで覚えとったんかいな。よう覚えとんなぁ、ひひっ。」
「そらそうや。わて男前の顔は忘れへんねん、わはは。」

婆さんの顔の皺はあの頃よりも一段と増えて深くなっていたが、それでも笑った顔は元気そうにいきいきとしていた。


「あれ何年ぐらい前やろか?5年やそこらじゃきかんなぁ、もう10年ぐらいなるんとちゃうか?」
「ああ、そやな・・・・。」

数えてみると、9年だった。
瀕死の状態で『穴倉』から引き摺り出され、問答無用で連れて来られたこの町でと出逢ったのは、丁度9年前の4月だった。


「・・・アンタそのめばちこ、まだ治らんのかいな。」
「ああ、ちょっとしつこいやつやねん。もうかれこれ10年患うとるわ。」
「そうかぁ。そらまたどえらいしつこいめばちこやなぁ。」

そして、この左目を失ったのは、10年前の4月。
今になって思えば、その2度の『4月』が、己の人生における大きな転機だった。
冴島には悪いが、あの日、あの襲撃が計画通りに実行されていれば、とは出逢えなかった。に出逢えなければ、猛も生まれなかった。
それを思うと、あの2年間の4月に起きた出来事は、二つで一つの『転機』だった。


「あのお姉ちゃんはどないしたん?今日は一緒ちゃうんかいな?」
「ああ、さっきまで一緒やったんやけどな、先帰ったんや。子供が寝てもうてな。」
「そうかぁ!ええ!?チビちゃん出来たんかいな!」

それを聞くと、婆さんは嬉しそうに目を細めて、顔を益々皺くちゃにさせた。


「チビちゃん幾つやのん!?」
「今2歳や。今年の7月で3歳になる。」
「いやぁ可愛い盛りやがな〜!男の子!?女の子!?」
「男や。」
「そうかいなぁ!あんたそら可愛いて堪らんやろう!えぇ!?」
「ああ、まぁな。」
「お姉ちゃんは!?元気にしてやんの!?」
「ああ、元気やで。」

答えれば答える程に、後ろめたさが増していった。別に何も嘘は吐いていないのだが、当然と思われているであろう大前提が自分達には無い事を黙っているからだ。
しかし、だからと言って、そのバツの悪い事実をわざわざ明かす気にもなれなかった。


「そうかぁ・・・!あぁ、堪忍堪忍!ちょう待ってや、たこ焼きすぐ詰めるわな!」
「おう。」

婆さんは小さな舟に途中まで盛っていたたこ焼きを一度鉄板に戻すと、もっと大きな白いパックを出して、そこにありったけのたこ焼きを詰めていった。


「おいおいおばちゃん!俺頼んだん6個やで!?」
「ええねんええねん、全部持ってって!お金はええから!」
「ええ!?いやでも・・」
「どうせ今日はもう店じまいするとこやったし、このまま残しとったかて、わて一人じゃ食べきれへんねん。持って帰って、お姉ちゃんとチビちゃんと家族で食べ!」

家族、その言葉が真島の胸を切なく締めつけた。


「はいよ、お待たせ!おおきにな、また来てや!今度はお姉ちゃんとチビちゃんも連れて来て!顔見ぃたいわぁ!」
「ああ。すまんのう、おおきにな。」

白いビニールの手提げ袋に入れて貰ったたこ焼きを受け取って、真島はヘラヘラと愛想笑いを浮かべた。
嬉しそうに見送ってくれる婆さんの手前、帰るふりをするしかなかったが、こんな沢山のたこ焼きを持って帰る所など無く、真島はそれをぶら提げてまた先に進み始めた。
あのマンションは、公園のすぐ近くだった。再び記憶に任せて歩いて行くと、すぐに見覚えのあるマンションが見えてきた。ロイヤルパレス大黒町、入口のプレートもあの頃のままだった。
あの当時住んでいた302号室のポストには、全く心当たりのない苗字の表札がついていた。当然だ。あの頃の借主だった佐川は、もう何年も前に鬼籍に入っているのだから。
真島は建物の外から、あの部屋のベランダを見上げてみた。家人が在宅しているのか、部屋には灯りが点いていた。その灯りを眺めていると、ままごとのようだったあの束の間の甘い日々が、つい昨日の事みたいに鮮明に蘇ってきた。
何の力も無いくせに威勢だけは一丁前で、冴島ももと、ガツガツと欲を張っていたあの頃の自分を振り返って、真島は苦笑いを零した。

俺は義兄弟の誓いを破ってなどいない。お前を裏切ってなどいない。
あの時俺は、何を犠牲にしてでも、お前の元へ行こうとしたのだ。

そう言い訳をしてみっともなく赦しを乞う覚悟をもっと早くに持てていたら、は今もまだ隣で笑ってくれていただろうに。
冴島を助け出す事と己のプライドを守る事とはまた別の話で、そんなものよりもっと大事なものがあると、どんな無様を晒そうが何としても守らなければならないものがあるのだと、もっと早くに気付いていれば、猛は今頃『おとーちゃん』と呼んでくれていただろうに。
言い訳を重ねて見苦しく無実を訴えるより、筋を通して潔い死を、と考えていた過去の自分に言ってやりたかった。
お前のその考えは只のやせ我慢で、無理をしているだけだ、極道としての筋を通す事に拘って意地を張っていたら、本当に大切なものを失う事になるぞ、と。

真島はそっとマンションの側を離れ、来た道を引き返して行った。
また公園に戻ってみると、婆さんの店はもう完全にシャッターが下りていた。
ならばもう大丈夫だろうと、真島は公園に入って行き、ベンチに座ってたこ焼きを食べ始めた。残り物のたこ焼きはすっかり粗熱が取れていて、猫舌でもスムーズに食べ進める事が出来た。


「・・・うん、美味い。美味いけど、多いわぁ・・・・・」

ゆうに二人分以上もあるたこ焼きは、一人で食べるには多かった。
捨てる気にはなれないので、根性を入れて食べきるしかないのだが、やはり多かった。


― 失っちゃ駄目です、さんを。あんなに深く愛し合っていたんですから。

食べながら、真島は勝矢の助言を思い出していた。


― さんは、真島さんの言い訳を聞きたい筈ですよ。

確かに聞いてはくれた。が、にとってはやはり、それだけだったのだろう。
離婚後の美麗の話を聞かされた時の自分がそうだったように、一応聞いてはおくが、だからといって元には戻れないし戻る気も無い、という程度だったのだろう。
こんな手前勝手で愚かな男を、は決して責めず、それどころか優しく慰めてさえくれたが、それが出来たのは、もう何もかも完全に過去の事だと吹っ切れていて、未練の欠片も残っていないからなのだろう。


― 今ならまだ大丈夫、十分間に合います。今すぐさんと猛君の手をしっかり掴んで、そして、もう二度と離しちゃ駄目だ。

そう信じたかった。そうしようと思った。
だからこそ、恥を忍んで今更ノコノコとここまでやって来たのだが。


「・・・・やっぱり、もう遅かったみたいやで、勝っちゃん・・・・」

冷めてしまったたこ焼きを噛み締めながらぼんやりと見上げた宵の空には、もう星が瞬き始めていた。


















家に帰り着いても、猛はまだ起きなかった。
よっぽど楽しくて、よっぽど疲れたのだろう。靴や上着を脱がせても、布団に横たえても、グウグウと熟睡したままだった。
しかし、このまま朝まで寝続けるには些か時間が早すぎる。まだ夕方の5時半なのだ。このまま寝かせておいたら多分、夜になって充電100%の状態で起きてくる。そうなったらもうおしまいだ。
明日もまた朝から仕事と保育園だし、駅前に停めてある自転車も後で取りに行かねばならないし、やっぱり今すぐ起こさなければ。
・・・と、頭では分かっているのだが、なかなか行動に移せず、は猛の側に座り込んだまま、只ぼんやりとしていた。
一日中歩き回って身体もクタクタに疲れているが、心も何だか萎んだ風船のようになってしまっていて、気力が湧いてこなかった。

ぼんやりとした頭で考えてしまうのは、真島の事ばかりだった。
最後の最後で、どうしてあんな浅はかな事をしてしまったのだろう。
『ええ奴』なんていないのに、ふと頭に浮かんできた卯西の事を、如何にもそれらしく匂わせるなんて。
それをして、真島の方から押してこさせようとするなんて。


「・・・・あかんたれ・・・・」

どうして、『やり直そう』と言ってくれなかったのだろうか?
その気は無いというのなら、どうしてあんな事を訊いたのだろうか?
いや、どうして自分から言えなかったのだろうか。
真島の心の中は真島にしか分からないが、少なくとも自分は、別れてしまった事を後悔していて、出来る事ならもう一度やり直したいと思っているのに。
それなのにどうして最後の最後で素直になれず、線を引いて突き放すような事を言ってしまったのだろうか。
幾ら悔やんでも後の祭りで、心は萎んでいく一方だった。


「猛〜、もう起きや〜・・・・・」

後悔のどん底に沈んでいこうとする自分を辛うじて繋ぎ止めているのは、日々の現実だった。気が付くと、時間ばかりが無駄に何十分も過ぎていたが、やるべき事をさっさとやっていかなければ、しわ寄せは全て後々の自分に来るのだ。
どんなに落ち込もうが、明日はお構いなしにやって来るのだから。
とにかくまずは猛を起こそうとしたその時、電話が鳴った。


「っ・・・・!」

あの人だ。
一瞬にして身体中に漲った力に弾かれるようにして、は素早く電話を取った。


「はいっ、もしもし!?」
『あ、ちゃーん?僕僕ー。』
「あ・・・・、わ、若社長・・・・・!」

それと気付いた瞬間に襲ってきた脱力感ときたら、とてつもなかった。
てっきり真島からだと思い込んで一気に期待が膨らんでしまったが為に、落胆もまた激しかった。


『あれぇ?何かガッカリしてへん?』
「いっ、いえいえっ!全然!」

思いっきり声に表れてしまっていた感情をどうにか隠して、は慌てて愛想笑いを聞かせた。


「すみません、たった今帰って来たとこで・・・!電話鳴ってたから慌てて出たんです。」
『あ〜!やっぱりどっか行ってたんやぁ!何遍電話しても出ぇへんから、そうかなぁとは思ってたんやけど。どこ行っとったん?』
「え?あ、ああ、あの、子供と動物園行ってたんです。」

がそう答えると、卯西は電話の向こうで悔しそうに『えー!』と叫んだ。


『何やぁ、めっちゃ楽しそうやーん!僕も誘ってぇやー!』
「あ、の・・、すみません、急に思い立ったもんですから・・・」
『そんなん全然OKやでぇ!今から連れてって〜言うてくれたら、いつでも喜んで車出したんのにぃ!』
「いえいえそんな・・・!あ、あの、ところで、どうかしはりましたか?」

用件の見当は大体ついているが、もしかすると仕事に関する緊急の連絡事項があるのかも知れない。いや、そうであって欲しい。
はそう願いながら、卯西の返答を待ったのだが。


『いや、今日晩飯でもどうかな〜と思って。猛君も一緒に。』

願いも空しく、卯西は至って呑気な口調でそう答えた。
また一段と心が萎んでガックリきたが、しかし断るにもそれなりの言い方や態度というものがあった。


「あの・・・、すみません。申し訳ないんですけど、今日は遠慮させて貰えますか?子供が遊び疲れて寝てしまいまして。」
『え?まだ全然早いし、起きてからでも十分いけるやん。僕は全然、何時でも構へんから。』
「いえあの・・・、でもホンマに何時になるか・・」
『全然ええで〜!何時でも、起きた時に電話くれたら、すぐ迎えに行くし!』
「いえでも、こんなうるさい盛りの子供連れて食事なんて、若社長にもお店にもご迷惑をお掛けしますから・・」
『全然迷惑ちゃうてー!そんなん思とったら誘ってへんし!
店の事なんかそれこそ気にせんでええわ!向こうは客あっての商売やねんから!ほら、お客様は神様やてよう言うやろ?』

無い気力を何とか奮い立たせて、なるべく穏便にと懸命に頑張ってはいるものの、卯西は一向に諦めてくれず、次第に苛立ちが募ってきた。
そうかと言って、どんな打開策があるだろうか。
夜の店の経営者だった頃ならば、どうしても厄介な客は最悪、入店禁止にする事も出来たが、今のはこの人に雇われて給料を貰っている立場である。幾ら厄介でも、自分から拒絶する事は出来なかった。


「・・・でも、あんまり遅くなったら明日に差し支えますから。
明日はまた朝から仕事ですし、子供も保育園行かさなあかんので・・・」
『保育園の事は知らんけど、仕事に関しちゃあ決定権は僕にあるから心配せんでもええで。何やったら二人で半休でも取る?フヘヘッ。』

だが、のらりくらり逃げているのも、もう限界だった。
このままどんどん卯西のペースに巻き込まれて流されていって、いよいよ迫ってこられた時に、応じるのか?応じられるのか?
全て済んだ事だと区切りをつけて、この人を好きになれるように努力出来るのか?
それを考えると、答えは自ずから出た。


「・・・・若社長、それ、どういう意味で仰ってます?」
『え?』
「今晩の食事も、どういうおつもりで誘って下さってるんですか?」

は毅然とした口調でそう訊いた。
すると卯西は恥ずかしそうに、エヘヘ・・・と誤魔化し笑いをした。


『ええ〜?それ訊く?え?今?ええ〜?』
「実は前からお訊きしたいと思ってたんです。」
『ええ〜・・・・・。え、今言わなあかんの?後で会うた時じゃあかん?』
「今聞かせて下さい。」

一歩も退かずに強く迫ると、また卯西の誤魔化し笑いが聞こえた。


『そら・・・なぁ?何も思てへんのに、こんな風に誘う訳ないやん。』
「それは、私に好意を持って下さってるって事ですか?」
『そ・・、そんなんいちいち言わんでも分かるやろ〜!?いけずやな〜もう〜!ワハハハ!』

卯西は些か大袈裟な位に笑ったが、がそれに反応せずにいると、やがて笑うのをやめた。


『・・・ああ・・・、うん。いや、ホンマに・・・。分かるやろ?好きなんや。』
「・・・・」
『言うとくけど本気やで!?決して軽い気持ちなんかやない!ゆくゆくは猛君の父親になりたいとも思ってるんやから!』
「・・・・でしたら、すみませんけど、お気持ちにはお応え出来ません。」

は覚悟を決めて、率直にそう告げた。


『な・・・、何でや・・・・!?』
「私、若社長を恋愛対象として見た事はありませんし、この先も見られません。
それに、猛にはちゃんと父親がいます。他の人に、あの子の父親になって貰おうとは思ってませんから。」
『な・・・・、何やそれ・・・・、そんなもん、とっくに別れた男やろ!?』

卯西はそれまでとは打って変わって、電話の向こうで怒声を張り上げた。


『子供生まれる前に別れた言うとったやん!しかも東京モンやろ!?そんなもん、この先二度と会う事もないし、もう全然関係ない赤の他人やんけ!』
「赤の他人なんかじゃありません。猛の実の父親です。」
『それは血の繋がりだけの話やろ!?そんなもん関係あらへんわ!もう別れたんやから他人やろが!』
「いいえ、違います。」

何をムキになっているのだろうか。
思い通りになびかない女に腹を立てて怒鳴り散らすような狭量な男相手に、聞かせてやる話など何も無いのに。


「たとえ・・・・、とっくに別れてても・・・・、ずっと離れたままでも・・・・」

こんなしょうもない男に、情けない泣き声など聞かれたくない。
その一心で、はお腹にグッと力を込め、窓の外に目を向けた。


「猛の父親はたった一人だけ、あの人だけなんです。」
『な・・・・、何やねん・・・・。それじゃまるで、そいつに未練でもあるみたいやんけ・・・・』
「申し訳ありませんが、個人的なお付き合いは出来ませんので、今後はこれまでのようなお気遣いはどうかご無用に願います。
仕事はこれからも頑張っていきたいと思っていますので、他の方達と同じように、会社の一従業員として宜しくお願いします。」
『・・・・そ、そんな事・・・・、言われてもな・・・・』

外はもう暗くなってきていた。
真島は今頃、どこにいるだろうか?
仕事に向かったか、勝矢か誰か友人知人に会いに行くのか、それとも、もう東京へ帰る新幹線の中にいるのか。彼の居場所も心の中も、に知る術は無かった。


『今まで散々色々したったのに、そんな事言われて平気で割り切れると思ってんのか?オレの気持ちを何やと思ってんねん、酷い女やな・・・・』

卯西は傷付いたようにそう呟くと、一方的に電話を切ってしまった。


「・・・フン。何やの、小っさい男。恩着せがましいねん。」

ようやくキッパリと振り切れて清々したが、こうなったからには多分、正社員への昇格が取り消されるどころか、また何もかも一からやり直しになるだろう。
それを思うと、疲れと虚しさとがドッと押し寄せてきて、は受話器を置き、フラフラと猛の側に戻って横にゴロリと寝転んだ。


「猛〜、お母ちゃんやってもうたぁ〜・・・・。」

これもまた、失敗だっただろうか?
でも、こうなっても構わないと思ってしまったのだ。
また職探しから始めなければならない苦労よりも、恋愛感情も無ければ親として人としての価値観も合わない男を好きになろうとする事の方が、よっぽど辛いと。
折角得られそうだった暮らしの安定を諦めるばかりか、ばかみたいに一人で未練を引き摺り続けていく事になるのも承知で、それでも無理に心の中からあの人を追い出そうとするよりは、よっぽどマシだと。


「またイチからやり直しや・・・・。ごめんなぁ・・・・。」

不甲斐ない母親だと我ながら思うが、それでもには、自分を欺いてこの先を生きてゆく事は出来なかった。


「猛〜、もう起きようやぁ。晩ご飯食べてお風呂入らな。なぁ、猛〜・・・・・」

身体から力が抜けていくような空虚感にぼんやりと浸りながら猛の頬をプニプニとつつくと、猛は何か楽しい夢でも見ているのか、父親の面影が濃いその顔で、ヒヒ・・・と笑った。
















危惧した通り、への処遇は翌日から一変した。卯西が掌を返したように冷たくなり、厳しく当たるようになったのである。
中には指摘されて然るべき不手際もあったが、殆どはいちゃもんに等しく、この態度の変わりようには他の社員達も驚いて、若社長と何かあったのかと下世話な好奇心丸出しで口々に訊いてくる始末だった。
しかしは『別に何も』と答えたきり、自分の仕事に集中するようにして、淡々といつもの日常生活を送った。
そうしてあの日から3日が経つ今日、の正社員昇格の話は案の定、立ち消えとなったのだった。

「は〜いただいま〜!」
「たらいまぁ〜!」

夕方、はいつものように猛を連れて帰宅した。
退勤直前に昇格取り消しを宣告された上に、これからまた怒涛の家事育児ラッシュタイムなのだが、明日は日曜日で母子共に休みだからバタバタしなくても良いし、昇格取り消しも覚悟していた事だったから、別にイライラしてもいなければ、落ち込んでもいなかった。
ただ、それについての卯西のやり方、つまり、子持ちの女は子供を理由に残業も拒否するしすぐ休むからと、今までとはまるで真逆の嫌味を言い放ち、当てつけのように20歳そこそこの若い女の子を連れて来て、4月から彼女を社員として雇うからと宣った事に対しては、内心で腸が煮えくり返りそうになったが、それも考えようによってはラッキーだとも思えた。
向こうがそのつもりなら、こちらも遠慮なく自分の都合だけで動けるのだから。


「すぐご飯出来るから、それまで大人しくTV観といて!」

手洗いを済ませると、は居間のTVとビデオデッキを点けて、録画しておいた幼児番組を再生した。静かだった部屋の中に、たちまちにぎやかな音や声が流れ始めて、はそれをBGMに夕食の支度を始めた。
手を動かしながら考えるのは、今日これからの事だった。夕食とお風呂を済ませて猛を寝かしつけたら、今夜は3つ、書き物をする予定だった。
まずは退職願である。出す時期をいつにするべきか悩んでいたのだが、今日の一件で腹は決まった。月曜日に出して、今月いっぱいで辞めてやろう、と。
入社予定の女の子は現在キャバクラ勤務らしく、挨拶もそこそこに卯西といそいそ同伴出勤していき、他の社員、とりわけ卯西の母親である副社長を唖然とさせたが、には会社の行く末を案じてやる必要も無ければ、そんな余裕も無かった。
多少の蓄えはあるものの、それでいつまでも食べていける訳ではない。すぐにでも次の職探しをしなければいけないし、ブランクも極力短い方が良い。退職後と言わず、いつでもすぐ次の面接に臨めるように、履歴書も書いておくつもりだった。
そしてもう1つは、真島への手紙だった。
用件は、先日動物園で撮った写真の送付である。だから、それだけに終始したって別に構わないのだが・・・、いや、そうではないから悩んでいるのだ。その手紙に何を書くのか、何を書きたいのか、はあれからずっと悩んでいた。
猛を介して顔を合わせる事は、恐らく今後もあるだろう。それがどれ位の頻度になるかは分からないが、それを繰り返していく内に、どういう結果であれ、何年先であれ、きっとなるようになるのだろう。
それを静かに待つのが良い気もするが、一方で、本当にそれで良いのかという自問もあり、答えは未だ出ないままだった。
何はともあれ、やるべき事をやってしまうのが先決だった。
料理が一段落ついたところで、僅かな待ち時間の間にササッと片付け物をしてしまおうと、は後ろを振り返った。
すると、TVに首ったけだった筈の猛が、さっき受け取ってきたばかりの写真を荷物の中から引っ張り出して、豪快にばら撒きながら夢中で見ていた。


「あああぁぁ猛ーっ!何でそれ勝手に出してんのーっ!?」

は思わず叫びながら駆け寄った。


「みてみておかーちゃん!どーぶちゅえん!」
「うんそうやなぁ!あーあもう・・・・・!」

慌てて回収するも、少々手遅れだった。
全部台無しとまではいかないが、猛の小さな指紋がペタペタとスタンプされている物が何枚もあるし、中には折り目が入ってしまっている物まである。
幸いネガは無事だったから、また焼き増しすれば良いだけの話なのだが、何だかガックリきて脱力していると、悪気ゼロの猛が無邪気な笑顔でまとわりつきながら、の手元の写真を指さした。


「あ!おめめのおっちゃんやー!」
「え・・・・?」

猛が指さしたのは、時計台の前で猛に撮って貰った、真島と二人での写真だった。
多少斜めに傾いて、ちょっとピンボケしてもいるが、二人共一応ちゃんと写っている。二人で並んで座って、猛が本当にシャッターを押せるか気にしているのがありありと分かる、心配そうな顔でぎこちなく笑っている。
その写真を繰ると、次に出てきたのは、同じ場所で三人で写っている写真だった。


「あ!これタケルと、おかーちゃんと、おめめのおっちゃんやなぁ!」

猛を間に挟んで、今度は二人共、まっすぐ正面を向いて穏やかに微笑んでいた。
その写真を見た途端、はずっとしまい込んだままにしてあるポラロイド写真の事を思い出した。
猛が生まれた直後に撮った、初めての、たった1枚きりの、『家族』の写真の事を。


「おめめのおっちゃん、まてまてーしたなぁ!まてまてーって、グルグル〜って、おもろかったなぁ!」

今、手の中にある2枚目の『家族写真』を見ていると、次第に気持ちが昂ってきて、堪え切れない涙が滲んだ。


「きしゃポッポものったなぁ!またあしたのりにいくぅ?」
「・・・・ちゃうで、猛・・・・」

静かな幸せに満ち溢れているそれを見つめながら、は呟いた。


「『おめめのおっちゃん』ちゃう・・・・」
「えー?」

それを見ていると、ようやく、今ようやく、気持ちに整理がついたと思えた。


「この人はな・・・・・」
「おかーちゃん?どーちたん?」

このままなりゆきに任せるのではなく、結果がどうなれ、今、自分から、この気持ちを伝えるべきだと思えた。


「この人は・・・・・、あんたのお父ちゃんやで・・・・・!」

溢れた涙が頬を伝ったその時、電話が鳴った。
















今日もまた、神室町が目を覚ます頃になった。
今頃は煌々とネオンを瞬かせて、何処からともなく続々と集まってくる人々を受け入れ、愉しませる準備を整えているだろう。
しかし真島は今、ひっそりと静まり返った薄暗い自宅に一人でいた。
これから電話を掛けるのだ。組の事務所からは掛けたくない、誰にも聞かれたくない、大事な大事な電話だった。
もう遅いのかも知れない。けれども、まだそれを確かめてはいなかった。
この間のように下手な誤魔化しなどせず、今度こそこの想いをはっきりと言葉にして、ちゃんと伝えなくては。
強くなってくる緊張を深呼吸で和らげてから、真島は大阪のの家に電話を掛けた。


『はい、です・・・。』
か?俺や。」
『吾朗・・・・・!』
「こないだはおおきにな。楽しかったわ。」
『あ・・・、こ、こっちこそ楽しかったわ、ありがとうな・・・・・。猛もめっちゃ楽しかったみたい。案の定、次の日起きた途端に、今日も動物園行く行く言うて大騒ぎや。ほんで、今日は行かへんって言うたら、じゃあ明日?って。ふふふっ・・・。』
「そうか。」

この間の事を思い出すと、自然と微笑みが零れた。
楽しくて、温かくて、幸せで。あれが正に、ずっと無縁でありながらも永らく心の奥底で求め続けてきたものだった。
だから臆せずに、今度こそちゃんと伝えなければならなかった。
何が何でも諦められない、どうしても叶えたい、大切な『夢』なのだから。


『ほなまたすぐに会いに行くわ。猛と・・・・・、お前に。』

真島のその一言を聞いた瞬間、は言葉を失った。
確かに自分の気持ちを伝えようと決めはしたが、本当にたった今決めたばかりで、それも手紙に書き綴るつもりにしていたし、この電話もてっきり卯西か、或いは寝耳に水という顔をしていた副社長からだと思っていたので、まだ何も心の準備が出来ておらず、今すぐ返事を求められてもどう答えれば良いのか分からなかった。


『俺は猛にさえ会えたらええと思ってるんやない。俺は、お前にも会いたいんや。
時々都合のええ時に、他人行儀にええ顔して会うんやのうて、都合が悪かろうが、機嫌が悪かろうが、そんなもん関係無しにいつでも会いたい。お前ら二人と、一緒に生きていきたい。』

電話を取る前に一度は拭った涙が、またポロポロとの頬に伝い落ちてきた。


『猛が、親と動物園になんか行きたがらんぐらい大きなっても、一人前の大人になっても、俺は・・・・・、俺はこの先ずっと、お前と生きていきたいんや。』

今度はもう、拭っても拭っても後から後から溢れて、追いつかなかった。


「・・・・・さっき・・・・・、な・・・・・・」

お腹にしっかりと力を込めて、震える声を励まして、は何とか口を開いた。


「この間の写真、出来上がったやつ受け取ってきてん・・・。そやから、早速あんたに送ろうと思って、今日の晩に手紙書くつもりにしててんけど・・・、猛が勝手に開けてクチャクチャにしてもうて・・・・・」
『・・・おう・・・・・』
「でも、ネガは無事やから、また焼き増し頼んどくから・・・、そやから・・・」

どう言えば良いのか分からないまま、ただ感情に任せて喋っていると、伝えたい事からどんどん離れていってしまう。
本当に言いたい事は、写真の事なんかではないのに。


「そやから・・・・・」

本当に伝えたい事は、たった一つなのに。


『・・・・・また近い内・・・・・、家まで取りに来てくれへん・・・・・・?』

か細く震えているの声と息遣いが、真島の胸を熱く昂らせた。


「・・・・・おう・・・・・・!」

恥ずかしいと思う暇も無く、今頃の頬を濡らしているのと同じ熱い雫が、真島の視界を滲ませた。


「写真、出来たら連絡してくれ・・・!すぐ・・・、すぐ飛んで行くわ・・・!ほんでまた動物園行って、今度は帰りにたこ焼き屋寄ろうや・・・!」
『たこ焼き屋・・・?』
「覚えてへんか?俺らが出逢うたあの町の、あの公園の側のたこ焼き屋や・・・!」
『ああ・・・・・!あの店なぁ・・・・・・!』
「こないだ、あの後思い立って寄ってみたら、店のオバハン俺らの事覚えとったんや・・・!今度はお前と猛も連れて来てくれて頼まれたから・・・、今度は一緒に行こうや・・・!」
『うん・・・・・!ふふふっ、懐かしいなぁ・・・・・!』

嬉しそうに笑うの涙声を聞いていると、もどかしさが真島を激しく揺さぶった。
この距離が無ければ、今すぐを抱きしめられるのに。ふとそう思った途端、もう居ても立ってもいられなくなった。


『・・・よっしゃ、明日行こや!』
「ええっ・・・!?あ、明日!?」

ついさっきまで想像もしていなかった急展開に、は思わず戸惑った。


『お前明日仕事休みやろ!?何か予定あるんか!?』
「う、うん、いや、予定は別に無いけど・・・」
『ほなそうしよや!』

こっちは良いとしても、この人は大丈夫なのだろうかと案じていると、それまで勢い良く喋っていた真島が急に言葉を切った。


『・・・今からそっち行く。ええやろ?』

そんな真剣な声で、確かめないで欲しかった。
返事なんて、わざわざ聞かなくても分かっているくせに。
こんなにも、恥ずかしい位に胸が甘く疼いてしまっているのに。


『・・・・・それは、今日の晩、家に泊まるって事・・・・・・?』
「あかんか?」
『・・・あかんって言うたらどうする?』
「ほな野宿するわ。確か近くに公園あったやろ?」
『ふふふっ・・・・・、アホ・・・・・。冗談やっちゅーねん。こないだと違ごて、今日はこっちめっちゃ寒いんやで?そんな事したら一発で風邪引いて、明日動物園どころやなくなるわ。』
「分かっとるわ、ひひっ・・・・・。」

もうこれ以上、すれ違いも回り道も御免だった。
一刻も早くと猛の顔が見たい。二人をこの腕に抱きしめたい。今の真島の頭にあるのは、只々その事ばかりだった。


「これからすぐ出る。そっちに着くのは11時ぐらいになるわ。」
『家の場所分かる?どっかまで迎えに出よか?』
「分かるから大丈夫や。猛もおるんやし、家で待っとってくれ。」
『分かった、待ってる。・・・・・うわっ、しもた・・・・・!』
「あ!?どないしてん!?」
『明日動物園て言うてもうたん、猛に聞こえとったみたい・・・!』
「き、聞こえとったらあかんのか?」
『あかん訳じゃないねんけど、次の日楽しい予定があるって知ったら、興奮して晩なかなか寝ぇへんねん、ふふふっ・・・。
あっ、ちょ、ちょっと待って・・・・・!・・・・・あ、もしもし?ごめん、また猛が電話代われって。もう切ってくれてええから、最後ちょっとだけ喋ったってくれる?』

先を急いで気が逸っているところに足止めを喰らうというのは、暴れ狂いそうになる程腹立たしいものだが、今はその限りではなかった。


『もしもしぃ?』

相手が、この幼くて無邪気な可愛い我が子ならば。


「もしもし?猛か?」
『もしもしぃ?おとーちゃん?』

言葉に表せない喜びに、拭った筈の目頭がまたジンと熱く痺れた。


「・・・・・せや・・・・・!お父ちゃんや・・・・・・!」
『またどーぶちゅえんいくのー?あしたぁ?』
「ああ、明日また行こな・・・!」
『やったぁー!どーぶちゅさんたちまたあえるなぁー!ごはんもあげるー?』
「ああ、皆待っとるで。またエサやりもしよな・・・!」
『きしゃポッポものるー?タケルいっぱいのりたいー!』
「ああ、いっぱい乗ろな・・・!そやから夜更かしせんと、ええ子で早よ寝ぇや・・・!」
『うん!バイバーイ!』
「おう、バイバイ・・・!」

真島は一度電話を切ると、すぐにまた電話を掛けた。
本当は1分1秒も惜しいのだが、今日これから以降の事を考えると、1分1秒ぐらいは辛抱しておく方が得策だったのだ。


『はい、真島組です。』
「おう、俺や!」
『あ、親父!お疲れ様です!』
「今からちょっと留守にするから、明日・明後日の予定全部キャンセルしとけ!」
『え、ええーっ!?何スか急に!?留守にするって、どこ行くんスか!?』
「じゃかーしーっ!ええから全部キャンセルや!また適当に連絡するから、それまで全部キャンセルじゃ!わーったな!?」
『ちょっ、親父・・・!』

これで後顧の憂いは無くなった。
問答無用で電話を切ってしまうと、真島は今度こそ逸る気持ちのままに家を飛び出して行った。


「・・・・・猛、買い物行こっか?」

一方で、もまた、逸る気持ちに突き動かされていた。


「明日動物園に持っていくお弁当のおかず、買いに行こ!」
「やったー!あしたどーぶちゅえんたのしみやなー!」
「そうやなぁ!ほら、上着着て・・・!」

あと数時間であの人に逢える、そう思うと、もう居ても立ってもいられなかった。
買い物中も、料理や部屋の掃除をしている間も、途中で何度も時計を見ては、真島の事ばかりを考えた。
お風呂や布団の中で猛と動物園の話をしながらも、あの人は今どの辺りまで来ているだろうかと、そればかりを考えていた。


― 待ってろよ、、猛・・・・・!

大阪へ向かう新幹線の中で、真島も同じ事を考え続けていた。
横浜、静岡、と新幹線が停車する度に、は今何をしているだろうかと考え、大阪まであと何時間だろうかと時計を見た。
名古屋、京都、と着く度に、猛はもう寝ただろうかと考え、あと少しだとソワソワした。
そしてようやく新大阪の駅に到着すると、真島は転がり出るようにして新幹線を降り、そのままタクシーに飛び乗った。繁華街の煌びやかな夜景がどんどん流れ去って行き、やがて高速を下りると、二人の住むマンションはもうすぐそこだった。
以前一度来たきりだが、道順は分かり易かったから覚えている。もう間もなく、あの時と待ち合わせた大通りの交差点が見えてくる筈だった。
だが、いざそこに差し掛かってみると、今日は間の悪い事に道路の舗装工事の最中で、マンションへと続く道が通行止めになっていた。


「通行止めですなぁ。どないしましょ?グルッと回りましょか?」

幸い、通行止めは車道だけで、歩道は塞がれていなかった。
これならマンションまで迂回して貰うよりも、歩いた方が余程早い筈だった。


「いや、ええわ!ここで降ろしてくれ!」

真島はタクシーを降り立つと、以前と歩いた道を歩き始めた。
お腹の大きかったに合わせてゆっくり歩いてもすぐだったから、何もそう急がずとも良いのだが、足が勝手にどんどん速まっていき、早歩きが駆け足に、そして駆け足が全速力へと変わっていった。


― もうそろそろやわ・・・・・!

猛を寝かしつけ、諸々の準備を整え終わると、丁度深夜の11時になるところだった。
猛がぐっすり眠っているのを確かめると、はカーディガンを羽織ってベランダに出た。心はもっと遠くまで迎えに行っているのだが、幼い子を持つ身としてはこれが精一杯だった。
それでも、どうしても待ちたかったのだ。
たとえ僅かな距離でも迎えに出て、少しでも早くあの人に逢いたかった。
は冷たい夜風に身を竦ませながら、目の前の道の向こうを見つめた。今、道路工事をしているから、別の道から来るだろうか?それとも、事前に電話を掛けてくるつもりだろうか?工事中のランプを見つめながらソワソワしていると、暫くして、その赤い光に照らされながらこちらに向かって走って来る人の姿が見えた。


「ハァッ、ハァッ、ハァッ・・・・・!」

もうほんの目の前だからこそ、急がずにはいられなかった。
本気の全力疾走でその道を駆けて行くと、遂にマンションが見えてきて、2Fの一番手前の部屋のベランダに誰かいるのが分かった。近付くにつれて、その華奢な人影がこちらを見つめている事も、その顔形までも。
マンションのすぐ前まで来ると、真島は立ち止まって顔を上げ、その人、を見つめた。


「ハァッ・・・、ハァッ・・・、ハァッ・・・・・」

赤い光の射す方から凄い速さで駆けて来たその人、真島吾朗を、は息を潜めて見つめた。
ほんのすぐ目の前にいるから、荒い呼吸の音まで聞こえてくる。
肩を上下させて白い息を吐きながら、真剣な表情でこちらをまっすぐ見上げている真島にどんな言葉を掛けるべきか、は必死に考えた。
しかし真島は、が口を開くのを待たずして、マンションのエントランスに駆け込んで行った。
もまた、ベランダから玄関へと駆け出して行った。頭の中で考えている事はまだ何もまとまっていないが、もうそんな事など気にしていられなかった。


「・・・・・・!」
「・・・・・・!」

がサンダルを突っ掛けて外に飛び出したのと、真島がエレベーターから転がり出たのは、ほぼ同時だった。
互いにその場で立ち尽くし、呆然と顔を見合わせたが、その表情はやがてどちらからともなく微笑みに変わっていった。
話さなければならない事は沢山ある。何が何でも守らなければならない者達の為に、これから沢山の事を話し合っていかなければならない。
しかし今、二人の心に浮かび上がってきた言葉は、たった一つだけだった。


「・・・・・おかえり・・・・・」

ようやく帰って来てくれた愛しい人に今掛けるべき言葉は、これだけだった。


「・・・・・ただいま・・・・・」

愛する者達の元にやっと帰れた男が返すべき言葉も、これだけだった。


「・・・・・ふふっ・・・・・・」
「・・・・・ひひっ・・・・・・」

この先を見据える事も大切だが、何よりもまずは今、この瞬間。
長く別れていた道が今また一つに合わさったこの瞬間の歓びを、擽ったくなるようなこの甘い幸福感を、お互いの温もりと共に大切に抱きしめていたかった。




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後書き

はいっ!無事にハッピーエンドとなりました〜!!

・・・で、完結。めでたしめでたし。
というのでも良かったっちゃあ良かったんですけれども、やっぱりちょっと物足りない。まだちょっと書き足りない。
なので、もうちょっとだけ続きます。
ホンマにもうちょっとです。あとちょっとだけ。
あとちょっとなのに難航していて、年越してしまいそうな可能性が日に日に高くなってきてはいるんですけれども。エ、エヘヘ。

前作『檻の犬と籠の鳥』を書いていた時から、最終的にはここに帰着しようと考えていました。
前作のスタート地点が今作のゴールになる、長い時間をかけてグルッと1周する、みたいな形を想定していまして。前作と今作がそれぞれ半円形で、合わせて一つの円になる、みたいな。
でも、単なる円ではちょっと物足りないなという気持ちがどんどん湧いてきましてね。もうちょっとだけ書き足したいな、と。
マスコットとかぬいぐるみで言うと、頭のてっぺんについている輪っかと、ストラップとかチェーンに該当する部分を(笑)。

という訳ですので、もう少しだけお付き合い宜しくお願いします!