夢の貌 ― ゆめのかたち ― 23




『はい、で・・』
か!?俺や!」
『・・・ご・・・、吾朗・・・・・!?』
「大丈夫か!?二人とも怪我ないか!?家崩れたりしてへんか!?」

電話が繋がった瞬間、真島は矢継ぎ早に捲し立てた。


『だ・・・大丈夫、私らも家も無事や・・・・・!』
「ほ、ホンマか・・・!!」
『朝、寝てたらいきなりもの凄い揺れて、それで吃驚して飛び起きてん・・・・!ほんでそれからすぐ、TVで地震やてニュースが流れ始めて・・・・。
でもこの辺は震源地から遠いから、どこもこれといった被害は無さそうやわ。実家も大丈夫やったし。』
「そ、そうか・・・・・!」
『ただ、電話だけが朝から全然繋がらんかってな、今になってようやく繋がり出したとこやねん。そやから、ぼちぼち方々に連絡取り始めとったとこ。』
「道理でな・・・・。俺が知ったんは10時過ぎやったんやけど、そっから何遍電話しても全然繋がらんかったんや・・・・。」

この数時間、TVで街の惨状を延々と見ていた為か、不安だけが随分と膨れ上がっていたようだった。ようやく生きた心地がして、真島はホッと息を吐き、知らず知らずの内に硬く強張っていた身体の力を緩めた。


『・・・・・心配してくれてんな、ありがとう。』

我に返ったのは、今この瞬間だった。


「い、いや・・・・、そんなん、別に礼言われるような事ちゃうやろ・・・・。」
『久しぶりやな。元気?』
「おう、まぁな。そっちは?」
『うん、皆元気やで。猛も2歳半になったわ。最近よう喋るようになって、毎日朝から晩までうるさいうるさい。』

微かな苦笑の混じったの声が、真島にまた新たな緊張をもたらしていた。
あまりの大惨事にすっかり気が動転して、全く意識していなかったが、するつもりの無かった事をとうとうしてしまったのだ。


「そ、そうか・・・・・」

そう、こうしてと話すのは、実に2年ぶりだった。
我に返ってみると、心の準備も何も出来ておらず、何をどう話せば良いのか戸惑うばかりだった。


『そう言えば、組立ち上げたんやったよな。去年のお正月に年賀状くれたやろ。』
「あ?あ、ああ・・・、一昨年の12月に、ようやっとな。」
『遅なったけど、おめでとう。あん時は返事も出さんと知らん顔しとって悪かったなぁ。ホンマはお祝い送ろうかとも思ったんやけど、私が下手にそんなんしても、美麗ちゃんが気ィ悪くすると思ってやめといてん。』

美麗とはとっくに離婚している事を、は未だ知らない。
この様子では、勝矢が報せているという事もなさそうだった。


「・・・そんなんええねん。ただ新しい連絡先を報せときたかっただけやから。
それよかお前は?もう店復帰してるんとちゃうんか?うまい事いってるか?」

話すつもりの無かった事を訊かれたくなくて、真島は話をさり気なくすり替えた。
するとは言葉を濁して、一瞬黙った。


『・・・実はな、お店、手放してん。』
「え・・・・?」
『猛の事とか、この先の事色々考えたら、やっぱり水商売はここらが潮時かなと思ってな。去年の3月いっぱいで、店の権利をゆかりちゃんに譲ってん。
ほんで、それからは猛を保育園に入れて、昼の仕事してる。』
「昼の仕事?」

思ってもみなかった事だった。
『クラブ パニエ』はにとって大事な自分の城であり、生業であった。
はあの店での仕事で、自分と猛のみならず親兄弟の生活をも支えていたし、逆を返せば、それが出来たのはあの商売だからこそだった。
とは言え、水商売で生計を立てている女が世間から色眼鏡で見られがちなのは事実であるし、子供がいるとなれば尚の事、口さがない周りの連中に母子共々傷付けられる事が往々にしてあるのも知っている。
何より、二人と遠く離れて全く別の人生を生きている真島に、本当にそれで良かったのかと問うたり、ましてや懐具合を心配するような差し出がましい真似が許される訳もなく、さり気なく今現在の状況を聞き出すのが精一杯だった。


「昼の仕事て、何やってんねん?」
『最初は近所のスーパーで、レジ打ちとか品出しのパートしとってん。
でも、最初は月曜から土曜の夕方までって条件やったんやけど、すぐに日祝とか遅番のシフトも入って貰いたいって言われるようになってな。
猛が熱出して急に欠勤なんて事もようあるから、嫌とも言われへんで、その度にお母ちゃんに猛を預かって貰ってどうにかしててんけど、やっぱりちょっと続けていかれへんなと思って、そこは半年程で辞めてん。』
「そうなんか・・・・。ほな今は?」
『今は隣町の駅前の不動産屋で、事務員の仕事してる。』
「不動産屋・・・・」
『昔からやってる家族経営の小さい会社で、今はパート扱いやねんけど、半年したら正社員登用も有りって条件やねん。入ったんが去年の10月やから、春以降からは正社員になれるチャンスもあるねん。』

その仕事に対してが意欲的になっているのは、声音から十分に伝わってきた。


「そうか・・・・・。良さそうやんけ。ええとこ見つかって良かったな。」
『うん。お給料は知れてるけど、勤務は朝9時から夕方5時、休みは水曜と日祝って固定されてるし、家からも近いし、残業出来ひんのも急な欠勤も、子供が小さい内はしゃあないわって許してくれるし。ホンマにラッキーやったと思ってる。』
「そうか・・・・・」

はもう新しい人生を歩んでいる。そこに自分の入り込む隙は無い。感覚的にそう悟ってしまうと、筋違いの寂しさに見舞われた。
こうなって当然だし、喜ぶべき事なのだ。
この寂しさは身から出た錆。流して、忘れて、己の人生を生きていくしかない。


「・・・まぁ、とにかく無事で良かったわ。もし何か困った事があったら、いつでも言うてくれ。」

二人の無事は確認できたのだから、これで用は済んだ。
これ以上筋違いの寂しさが募らない内に、真島は話を終わらせて電話を切ろうとした。
しかしそれに対しての返答は無く、代わりに小さな子供との何やら話している声が、少し遠くに聞こえてきた。


『・・・あ、もしもし?ごめんごめん。あんな、猛が電話代わって欲しがってるねんけど、ちょっと喋ったってくれる?』
「え・・・・・!?」

これもまた、思ってもみなかった事だった。
父親と話をしたいと思っているという事だろうか?
いやまさか、たった2歳の幼子が、そんな事を理解している訳がない。
そんな考えが頭の中をグルグル駆け巡り、返事も出来ずにいると、電話の向こうからの優しい笑い声が聞こえた。


『猛、電話大好きやねん。私が電話しとったらすぐ、だれだれ?代わって〜!言うて興味津々でなぁ。ちょっと喋ったらすぐ納得するから、ちょっとだけ良い?』

やはり、深い意味は何も無さそうだった。
猛は何にでも興味を示す年頃で、は只々そんな猛の好奇心を満たしてやりたいという母心から頼んだ、只それだけなのだ。


「あ、ああ・・・。」
『ほな代わるわな。』

寂しさと緊張とが入り混じった気持ちを抑えて待っていると、程なくして電話の向こうから、小さな息遣いがごく微かに聞こえてきた。


『もしもしぃ?』
「も・・・・・、もしもし・・・・・?」

自分でもばかみたいだと思う位、緊張していた。
相手はたった2歳の幼児なのだから、もっと軽い口調で明るく喋りかけてやらなければならないと分かっているのに、ガチガチに緊張してしまっていて、とてもそんな風には出来なかった。


『・・・だれぇ?』

甲高い声が、無邪気にそう尋ねた。
だが、何と答えれば良いのだろう?
生まれた日以来一度も会っていない男に父親と名乗る資格は無いし、この子の母親とも、とうに関係が終わってしまっているのに。
真島は何も答えられないまま、ただ苦い思いで猛の可愛らしい息遣いを聞いていた。


『・・・・・ちえたわ』

暫くして、電話の向こうで猛がそう呟いた。
何と言ったのだろうかと思っていると、再びが電話口に出た。


『もしもし?』
「あ・・・、もしもし・・・・?」
『あれ?何や、切れてへんやん。猛が電話切れたわって受話器返してきてんけど。』
「あ、ああ・・・。多分吃驚したんやろ。いきなり知らんオッサンの声がしたから。」

真島は曖昧に笑って話をはぐらかした。
猛と話したい気持ちは大いにあるけれども、父だと名乗る事も出来ず、何を話せば良いのかも分からないこんな様では、もう一度電話を代わって貰ったところで一層辛くなるだけなのが分かりきっていた。


「まぁとにかく、無事で何よりや。この非常時に長話も何やし、もう切るわ。他にも電話掛けたり掛かってきたりするんやろ?」
『あ・・・、うん、まぁ・・・・・』
「もし何か困った事があったら、いつでも言うてくれ。」
『・・・・・ありがとう・・・・・』
「ほなな。」
『身体・・・、気ィ付けて・・・。』
「ああ。お前もな。」

電話を切ると、どうにか堪えていた寂しさが一気に押し寄せてきた。
久しぶりに聞いたの声と、初めて聞いた我が子の声が、いつまでも真島の耳から離れなかった。
















とうの昔に過ぎてしまった事だった。もうすっかり諦めていた筈だった。
だが、そう思えば思う程、日増しに想いは募っていった。と猛に会いたいという、厚かましい願望が。
しかしそうかと言って、それを自ら直接に申し出たり、『クラブ パニエ』のスタッフや勝矢を介して伝える事はどうしても出来なかった。
かつて一度別れた、いや、別れさせられた時は、佐川の死を知って矢も楯もたまらず飛んで行ったが、あの時と今とでは事情がまるで違う。己の気持ちに正直になって、心のままに行動すれば、に一層軽蔑される事になるのが明白だった。
そこで悩んだ末に考えついたのが、全く関わりの無い第三者の力を借りる事だった。つまり、探偵事務所にの身辺調査を依頼する事にしたのである。
に対して後ろめたい気持ちはあったが、の『現在』をどうしても知りたかったのだ。第三者の公平な目で調べて貰えば、客観的な事実を間違いなく知る事が出来る。まずはそれを知った上で、どうするか考える事にしたのだった。
そうと決めると、真島は早速大阪で信用出来そうな探偵事務所を探し、約1ヶ月間に渡る身辺調査を依頼した。そして、その結果が届くのを、今か今かと待ち続けた。


「親父、〇〇探偵事務所の所長がお見えです。」

依頼した大阪の探偵事務所の所長が、神室町の真島組事務所を訪ねてきたのは、3月に入って間もなくの事だった。


「どうも。」
「おう、待っとったで。」

真島は待ち侘びた客人を社長室に招き入れて応接セットのソファに座らせ、若衆にコーヒーを持って来させた。
向こうも心得ているのか、落ち着くまではどうでも良いような世間話で誤魔化していたが、コーヒーを運んで来た若衆が出て行くと、すぐさま鞄から大判の茶封筒を取り出し、真島の目の前に差し出した。


「さて、ほなご依頼の件について、報告させて貰いますわ。
まず、こちらが調査結果です。どうぞ中見て下さい。それ見て頂きながら説明させて貰いますよってに。」

言われた通りに封筒の中身を取り出すと、表紙に『報告書』と印字されている冊子が1冊と、スナップ写真が入っていると思しき白い封筒があった。
少し迷ってから、真島は先に白い封筒を開けて、中の写真を全て取り出した。
一番先に目に飛び込んで来たのは、自転車の前の子供乗せに小さな子供を乗せて走っているを、側面から写した姿だった。その子は当然猛の筈なのだが、向こうを向いてしまっていて、顔は確認出来なかった。


「えー、今回の調査対象である、さん。現住所は事前にお聞きしていた通りでお変わりありませんでした。今もそちらにお子さんの猛君と2人で暮らしてはります。
さんの現在のお勤め先は、ご自宅から自転車で15分程の所にある△△町の卯西不動産株式会社という不動産屋で、これもまた事前にお聞きしてました通り、内勤の事務のお仕事をされています。
ちなみにお子さんはご自宅近くの◇◇保育園に通ってますが、今回お子さんの方は調査対象ではありませんでしたので、特にこれ以上の調査はしてません。」

所長の話を聞きながら何枚か見てみた写真は、ほぼ全てばかりだった。
猛の顔がはっきりと確認出来るものが無さそうなのは残念だったが、久しぶりに見たの顔は別れた時と何も変わっていなくて、それが嬉しくもあり、同時に胸が締め付けられるような切なさをも感じさせた。


「ほんで?どんな暮らししとるんや?」

真島は次に報告書を開きながら、それを尋ねた。


「至って堅実で単調なもんです。会社と家の往復ですわ。
朝8時過ぎにお子さんを保育園に送って行って、そのまま会社へ行って夕方5時まで仕事。済んだらまた保育園にお子さんを迎えに行って帰宅・・・、っちゅうのが大体でしたわ。
途中寄るとこ言うたら買い物か近くのご実家ぐらいのもんで、仕事が休みの日も、お子さんを置いて一人で遊びに出掛けるような事はありませんでした。詳しくはその報告書に書いとります。」

報告書には、調査期間内のの行動履歴が、簡潔なメモ形式で日記のようにしてまとめられてあった。それを読んでいくと確かに、は仕事と子育てだけの毎日を送っているようだった。
それは多分、この調査期間内に偶々何も予定が無かっただけの事なのだろうが、しかし約1ヶ月の間ずっとこの調子という事は、親しく付き合っているような男はいないと思って良さそうだった。


「仕事は問題無くやれてそうやったか?」
「はい。うちの調査員が客のふりして行きましたが、実に感じのええ方やったそうです。会社の人間ともうまくやれてるようでしたよ。」

ページを繰ってみると、務め先の不動産会社に関する情報も記載されていた。
社長は卯西茂雄(ウサイ シゲオ)69歳、副社長は妻の卯西敏子(ウサイ トシコ)63歳、そして夫妻の長男である卯西稔(ウサイ ミノル)38歳が専務となっている。の言っていた通り、家族経営の会社であるようだった。


「従業員の総数は9名・・・。ほな、雇われの社員があと5人おるっちゅう事か。」
「はい。それは全員男性で、外回りの営業マンですわ。あとは専務の姉に当たる娘さんがおるようですが、嫁に出とって家業の手伝いはしてません。
それと、社長も実質はほぼ引退してるみたいなもんで、会社には殆どおらず、気ままなもんですわ。副社長も、見てた限りあんまり仕事はしてませんでしたし。
今この会社を仕切ってるんは、どうやら専務のようです。専務っちゅうても、まぁ実質は『若社長』っちゅうところですな。周りにもそれで通っとるようですし。」
「若社長・・・・」
「写真ありますよ。」

写真の続きを見てみると、紺色の地味な事務員の制服を着たが、会社の玄関先を掃除しているものがあった。
そしてその次の写真には、親しげな笑顔をに向けて何やら喋りかけている男が一緒に写っていた。質の良さそうなスーツを着て、髪型も垢抜けた感じに整えて、パッと見は二枚目エリートサラリーマンという雰囲気だが、よく見てみると顔立ちも背格好も至って平凡な男である。
次の写真には、がその男に肩を抱かれるようにして写っており、更にその次の写真には、二人で連れ立って歩いて行く後ろ姿が写っていた。


「その人が『若社長』の卯西稔さんですわ。彼は写真の通り、さんに対して随分好意的に接していました。
その写真を撮ったんは丁度昼飯時で、さんを誘って、近くのうどん屋へ行ってましたわ。そんなんが大体週1位はありましたかいな。支払いも毎回卯西さんが持ってます。
それに仕事中も、事務所におる時には何やかんやようさんに話しかけてますし、肩揉ませたりもしてましたなぁ。」

暗い嫉妬の炎がたちまちの内に、真島の胸をじりじりと焦がし始めた。
真島はその苦痛を顔に出さないようにしながら、所長の言う通りの光景が写っている写真を次々と繰っていった。
それを何枚か続けていくと、また違うシーンの写真が出てきた。
パンツスーツで品良く着飾ったが、夜に卯西と二人で小洒落た店に入っていく写真だった。


「ああ、それは確か2月最終の土曜日でしたな。調査期間中その1回だけ、卯西さんと夜に食事に行ってましたわ。」

報告書を読んでみると、その日の夕方、は仕事が終わるといつものように猛を連れて帰宅し、少しして実家の母親が訪ねて来ると、午後6時過ぎに一人で家を出て電車で蒼天堀近くの繁華街まで出掛け、午後7時頃、とあるレストランの前で卯西と待ち合わせて、そのまま店に入って行ったと書かれていた。
二人が出て来たのはそれから約2時間後の午後9時前で、店の前で少し立ち話をして別れ、は一人でまた電車に乗り、午後9時40分頃に帰宅していた。


「・・・・これは、この時1回限りか?」
「ええ。」
「メシ食うとっただけか?」
「多少酒も入ってましたけど、まあそれだけです。近くの席からずっと見張ってましたけど、深い関係にありそうな様子は見受けられませんでしたわ。
尤も、これは調査期間の終了間際でしたから、その後どうなってるかは分かりませんけどね。」

巧い言い方をするもんだと、真島は内心で苦々しく思った。


「卯西さんの方は、こらどない見てもさんに好意を寄せてますわな。さんの方はそない乗り気やなさそうですけど、でも次第にジワジワと押されていってる。
これは私の予測ですけど、まぁ深い関係になんのも時間の問題っちゅう感じですね。長い事この仕事やってますと、大体予測がつきますねん。」
「・・・・・」
「更に踏み込んで調査してみましょか?卯西さんの身辺を詳しく洗い出して、会社の業績や内情、この一家の事なんかも、もっと色々調べてきますわ。何やったらお子さんの事も。」

期待を巧妙に隠している所長の目を一瞥して、真島は暫し沈黙した。
それからおもむろに立ち上がり、自分のデスクの引き出しから謝礼金の入った封筒を出してきた。


「おおきに、ご苦労さん。こんだけ分かったら十分や。」

所長は一瞬顔を強張らせたが、すぐに真島が差し出した封筒を受け取った。


「どうも、ありがとうございます。ほなちょっと失礼して、確認させて貰います。・・・・・はい、確かに。ほなこれ、領収証になります。」
「ああ。」
「ほな私はこれで。また何かありましたら、いつでもお申し付け下さい。」
「ああ。遠いとこご苦労さんやったな。」

所長が帰って行って一人になると、真島は改めて写真を見た。
二人でレストランに入って行く写真の次は、席に着いて、ワイングラスを片手に笑っているの写真だった。
肩に少しかかる長さの、艶やかな栗色のストレートヘア。考えてみれば、出逢った頃もこんな髪型をしていた。あの頃よりもぐんと女らしくなりながらも、笑った顔の無邪気さは、あの頃と何も変わらない。
この笑顔に心底惚れていたあの頃の自分がもしも今ここにいたら、不甲斐ない今の自分に激怒するだろう。この笑顔は俺のものだ、他の男に向けられているのを、何故みすみす指を咥えて見ているんだ、と。


「・・・・・・・・」

のその笑顔は、真島ではなく向かい側に座っている男、卯西稔に向けられていた。この写真には後ろ姿しか写っていないが、きっと他の写真に写っていたような、鼻の下の伸びただらしない顔でヘラヘラ笑っていることだろう。
それをつい想像して忌々しく思っていると、過去にも似たような事があったのをふと思い出した。
あれは確か、が東京で友達の結婚式に出席した時だった。同じ招待客の男にが粉をかけられているのを見たあの時も、こうして嫉妬に駆られたのだった。
だが、あの時と今とは違う。はもう、真島のものではない。
だからあの時のように、胸を焦がす嫉妬の炎を消す術は無かった。


― アホか、俺は・・・・

己を棚に上げて、にだけいつまでも一人でいる事を求めるなんて手前勝手が通る道理は無い。誰と付き合おうが誰と結婚しようが、の自由だ。
頭ではそう分かっているくせに、それでもお門違いの嫉妬に胸を焦がしているなんて、己の身勝手さにほとほと呆れた。身辺調査を依頼したのは、の現状を知りたかっただけで、やり直せる可能性なんて元々無いのも分かっていたのに。
なのにそれでもやはり、会いたいという望みを捨てられない。
写真の中で笑っているの顔に、真島はおずおずと指先で触れた。
















「どう?この店、なかなかええ感じやろ?」
「はい、凄く!」

その質問に対して、はワイングラスを片手に笑顔でそう答えた。
事実は事実だからだ。
雰囲気は良く、料理も美味とくれば、良い店である事には違いなかった。


「でも、こんな凄いお店にわざわざ連れて来て貰って、申し訳ないです。」
「何でぇな〜!こんなん、社員に対するほんのささやか〜な労いやん!福利厚生みたいなもんやて、ワハハ!」

入社してから4ヶ月、こんなやり取りをもう何度繰り返してきただろうか。
幾ら遠慮しても強引に押し付けてこられるこの『福利厚生』とやらに、実は内心げんなりしているのだが、まさかそれを顔に出す訳にもいかず、は目の前に座っている専務、いや、実質2代目の若社長である卯西稔に対し、意識して笑顔を保ち続けていた。


「他の奴らは結構飲みに連れてったってるけど、ちゃんとは全然ゆっくり飲んだ事ないやろ?年末は大掃除の後の納会だけで帰ってもうて忘年会は不参加やったし、新年会の時かて猛君が風邪引いて来られへんかったし。」

特に親しい人もいない上に給料も発生しない会社の飲み会は、にとって魅力のあるものではなかった。それでも仕事の一環と言えばそうなのだが、熱を出して苦しんでいる幼い我が子を預けてまで、出なければいけないものだとも思えなかった。
それに、それこそ通常の勤務でさえ、子供の突発的な病気で時々急な休みを貰っている立場としては、飲み会だけ毎回張り切って最後まで参加するというのも気が引ける。
だから、そういった宴会の誘いは極力遠慮するようにしているのだが、それをものともせずに押してくるのが、この卯西だった。


「でも、いっつもお昼もご馳走して頂いてますし、うちの子にも色々貰ってて、ホンマに申し訳なくって・・・・。」

卯西の好意は、日増しに激しくなっていた。
入社後間もない頃は、外回りからの帰りに甘い物やジュースなどの差し入れを買って来てくれたりする程度だったが、年が明けてからは、昼休みに昼食を奢ってくれたり、猛にとお菓子や玩具をくれたりもするようになって、その頻度も上がる一方だった。
卯西から猛に物を貰う理由は無く、昼食だって、毎日弁当を持参している。
しかし断ろうにも、突然はいどうぞと目の前に物を持って来られては受け取らざるを得ないし、昼食にしても、じゃあ明日行こう、明後日行こうと、先の『予約』を取られてしまい、結局週に1度位は不本意ながらもご馳走になってしまっている状態だった。
今夜の食事会についても同じで、ずっと前から再三誘われては断りを繰り返してきていたので、角が立たないように仕方なく応じたに過ぎなかった。


「全然全然!そんなん何も遠慮なんかせんでええって!僕がやりとうてやってるだけやねんから!
逆にこっちの方が悪いなぁ思てんねんで!僕が好きでやってる事やのに、わざわざ律儀にお返ししてくれて。こないだのバレンタインにくれたチョコレートとブランデー、ごっつい美味かったわぁ!」
「そうですか?お口に合って良かったです。」

勿論、甘えっぱなしでいる訳ではなかった。折に触れて缶コーヒーや煙草を差し入れたり、先日のバレンタインには、これまでの借りを返すつもりで、奮発して高級ブランドのチョコレートとブランデーを贈っている。
しかし、もうそろそろ頭打ちだった。お返しの品も他に思い付かないし、何より、クラブのオーナーだった頃とは経済事情がまるで違う。強引に押し付けてこられる好意に対して、それに見合う額のお返しを続けていくのは、正直なところ負担が大きかった。


「僕はちゃんが喜んでくれて、『よっしゃ、明日も仕事頑張るぞ!』って思ってくれたらそんで十分やねん!もうホンマ、お返しとかええからな!そんなん全然気にせんと、甘えて甘えて!な!」
「は、はぁ、ありがとうございます・・・・。」

それが出来たらこんなに悩んでへんわと言いたいのをぐっと堪えて、はそれを一口分のワインで喉の奥に流し込んだ。


「いやホンマに、ちゃんが来てくれてごっつい助かってるねん!
よう働いてくれるし、やる気もあるし、ホンマええ人来てくれたわぁて僕いっつも思てんねんで!」
「あ、あはは、ありがとうございます・・・・・。」
ちゃんやったら間違いないし、ちゃんさえ良かったら、4月から社員にならへんか?」
「え・・・・」

思いもかけないところで聞かされて、一瞬唖然としてしまったが、それは入社した時から密かに心待ちにしていた言葉だった。


「ほ、ホンマですか・・・・・!?」
「ああ。」
「あ・・・、ありがとうございます!是非宜しくお願いします・・・・・!」

間もなく30歳になる、スキルもキャリアも無い子持ちの女が安定した仕事を得られるのは、ほぼ不可能に等しい事である。
幾ら条件として『正社員登用有り』と提示されていても、実際に取り立てて貰えるとは限らない、むしろ可能性としては低いだろうと思っていた位だった。
だから卯西のこの申し出は、にとっては『奇跡』と呼ぶに相応しい吉事だった。


「年末の納会の時に発表した通り、今年いっぱいでうちのオトンとオカンが正式に引退しよるやん?ほら、オトンが70になる節目やでな。
そやから、僕もそのタイミングで正式に2代目社長になる予定なんや。ほんだら益々ちゃんのサポートが必要になってくると思うねん。」
「はい、精一杯頑張ります!」
「オカンが抜けたら、事務仕事は正味ちゃん一人に任せる事になってまうんやけど、お互いバックアップし合うて頑張っていきたいと思てるねん。宜しく頼むわな!」
「はい!こちらこそ宜しくお願いします・・・!」

入社してからのこの4ヶ月間、いや、思い切って店を手放して昼の世界に飛び込んでからの、この約1年間の苦労と努力が報われた喜びに胸を躍らせていると、ふと卯西の視線が妙に優しくなった。


「そやけど、僕個人的には、ホンマにそれでええんかなとも思うねんけどな。」
「え・・・・?ど、どういう事ですか?」
「いや、ちゃんには是非とも社員になって貰いたいねんで?
それはそうやねんけど、でもそないしたら、ちゃんがまた一層大変になるんちゃうか思て心配でなぁ。」
「い、いえ、そんな・・・」
「そやかて、女手一つで子供育てんのは、何かと大変やろ?」

卯西の言わんとするところが分かって、は内心で身構えた。


「前から訊きたい思ててんけど、猛君の父親とはいつ別れたん?」

入社面接の時に母子家庭である理由を尋ねられ、猛の父親とは別れたとだけ答えてあったのだが、それ以上に詳しい事は今まで訊かれた事が無かった。


「・・・・あの子が生まれる前です。お恥ずかしい話ですけど。」
「え、これから子供生まれるっちゅう時に離婚したん?」
「いえ、結婚は元々・・・・。これもまたお恥ずかしい話ですけど。」

は曖昧に笑いながら、言葉少なにそう答えた。
すると卯西は、痛ましげな表情でを見つめた。


「何で別れたん?」

その理由を卯西に説明する必要は全く無かった。


「・・・・一口に言うと、価値観の違いってところです。」
「価値観って具体的に何についての?金とか女とか?」

まともに答える気は無いのだが、かと言って面倒だからと肯定しても、それはそれで真島の事を悪し様に言われるのが目に見えていた。
あの人に対する気持ちは今もまだ整理がついていないままだが、それでも、関係の無い他人にどうこう言われたくはなかった。


「遠距離恋愛やったんです。ほんでお互い譲られへんかって。」
「あー!ハイハイそういう事か!どっちもが自分の地元離れられへんかったんや!」
「ええ、まあ・・・・」
「相手どこやったん?」
「東京です。」
「ハーイハイハイ、東京なぁ!」

幸いな事にそれで納得してくれたらしく、卯西は物知り顔に何度も頷いた。


「そやけど、そら相手の男が酷いわ。器が小っちゃい。どっちに住むかなんてそんなしょーもない事で意地張って。」
「お互いそれぞれに仕事持ってましたから・・・・。」
「そら要するに、そいつに嫁はん子供を食わせていけるだけの稼ぎが無かったっちゅうだけの話やろ?男に十分な稼ぎがあったら、女は何の迷いも無く安心してついて行けるんやからなぁ。
自分の稼ぎが悪いのがあかんのに、そんなしょーもない意地張って、自分の子を妊娠してる女を捨てるやなんて、男として無責任すぎるわ。有り得へんでそんなん。」

色々間違っているのだが、それを言えば、あの人との事を無遠慮に詮索されてしまう。それがどうしても嫌で、は薄い苦笑いを顔に張り付けたまま、黙って視線を手元に落としていた。


「・・・そやけど、僕はそいつに感謝せなあかんなぁ。」
「え・・・・?」
「そいつが器の小っちゃいしょーもない男やったお陰で、僕はちゃんに出逢えたんやから。」

チラリと一瞥した卯西は、やけに優しい微笑みを浮かべていた。
これが夜の店の客ならば、上手くあしらえた。店の売上・自分の利益の為に、気を持たせるような事を言って、良い気にさせて。それが仕事だった。
だが、昼の社会と夜の世界は違う。昼の社会には、夜の世界の流儀は持ち込めない。
それを弁えずに夜の世界と同じ振舞いをすれば、利を得るどころか、結果的にどんどん立場が悪くなっていくだけなのだから。
気を持たせず、かつ仕事に支障が出ないようにするには、どう返答するのが良いか。張り付けた微笑みの裏側で、はそれを必死に考えた。


「実は僕もバツイチやねん。」

すると、卯西はの反応を待たずして、突然にそう打ち明けた。


「え・・・・?あ、そ、そうなんですか・・・・。」
「僕の場合はな、3年前に離婚したんやけど、前の嫁が金にがめつい上にヒスも酷うてなぁ。世間知らずで仕事の苦労も何も知らんくせに、カネカネカネカネうるさいわ、やたら束縛して仕事の邪魔するわ、僕のやる事なす事何にでも文句垂れるわ疑うわで、もう手に負えへんかったんや。
その挙句に、勝手に子供ら連れて実家帰りよって、こっちの言い分は聞く耳持たずに離婚や。ほんでそれっきり。」

詮索を受けるのも嫌だったが、自分がするのも嫌だった。卯西と同じような真似はしたくないし、何より、そこまでこの人に興味が無いからだ。
ただ、それをあからさまに態度に出すのも感じが悪いので、少し位は話に乗る・・・、例えば、子供の事をチラリと訊く位の事はする必要があった。


「お子さん、お幾つなんですか?」
「あー、別れた時は確か6歳と3歳やったなぁ。」
「男の子ですか?それとも女の子?」
「両方女や。」
「そうですか・・・・。」
「そやから僕、猛君の事が何や可愛いてなぁ。自分の子と引き離されてもうたからかなぁ?何ちゅーか、他人とは思われへんねん。そやからついついお菓子や何やあげて、喜ばせたくなるねんけどな。
それに、『息子』っちゅうのにも憧れがあったし。息子と釣りとかキャッチボールとか、やっぱそういうのも男の夢やん?」

卯西はそう言って目を細めたが、は内心困惑していた。
その境遇は気の毒だとは思うし、猛を好意的に思ってくれているのも有り難いと思う。
だが、猛を卯西に会わせた事は一度も無いし、写真すら見せた事も無いのに、本当にそんな風に思えるものなのだろうか?
には卯西の言う事はどうも大袈裟に感じられて、素直に受け取る事が出来なかった。


「あ・・はは・・・、ありがとうございます・・・・。」

何にしろ、もうこれ以上込み入った話をしたくなくて、は料理を口に運んだ。


「う〜ん・・・!でもホンマ、ここのお料理どれも美味しいですね〜!ここにこんな良いお店が出来てたなんて、私知りませんでした。さすが若社長、お詳しいんですねぇ!」
「いやいやー!そんな言う程ちゃうてー!ワハハハ!」

程々に食べつつ飲みつつ、当たり障りのない話題で会話を程良く盛り上げて、は朗らかに振舞い続けた。そうしてどうにかこうにか時間を潰し、頃合いを見計らって腕時計に目を向けた。


「あ、もうこんな時間・・・・・。」
「おお、ホンマや!もう9時かぁ!」

卯西も自分の腕時計を見て、ほなそろそろ出よかと言い、すんなりと席を立った。
も当然それに従い、卯西の後について行った。
勘定はいつもの如く受け取って貰えなかった。卯西はいつも、こうした支出を全て会社の経費で落としており、払われる方が都合が悪いと言って、が幾ら自分の分を払おうとしても受け取らないのである。
かつて経営側の立場にいた者として、思うところは色々とあるのだが、今はしがない雇われパートの身。経営者の方針について余計な口出しをするような真似も出来ず、は今回も財布を引っ込め、頭を下げて礼を言うしかなかった。
店を出ると、卯西はこれもまたいつものように、さり気なくの肩に腕を回した。


「ほなもう1軒行こか!この近くにな、雰囲気のええショットバーがあんねん!ちゃんもきっと気に入るで!」
「あ・・・、すみませんけど、私はこれで失礼させて頂きます。」
「えーっ!?」

卯西は盛大に不満げな声を上げた。
すんなりレストランを出たのは、やはり場所変えを考えていた為のようだった。


「もう帰るん!?まだやっと9時やで!?」
「すみません。母に子供を預けてきてるんですけど、10時までしか見てて貰われへんので。」
「何でぇなー!?」
「仕事があるんです。今日は夜勤のシフトみたいで。」
「ええ〜・・・・」

嘘も方便でそう答えると、卯西は不満げな表情を取り繕おうともしないまま、何事か考え込むように微かな唸り声を洩らしていたが、やがてパッと顔を輝かせてを見た。


「あ、せや!ええ事思い付いた!猛君寝てるかどうか、電話して聞いてみたら!?」
「え?」
「寝とったら、ちょっとの間ぐらい一人で置いといても大丈夫やろ!ほんだら1杯ぐらい飲みに行けるやん!な!」
「え・・」
「軽〜く飲みに行って、11時頃に帰ったらいけんちゃうん!なあ!そやそや、そないしたらええねん!」

あまりに無責任なその発言に、呆れを通り越して、思わず腹立たしささえ込み上げてきた。
たった2歳の子を一人で放っておいて飲みに行こうなんて、本気で言っているのだろうか?猛の事を、可愛いだの他人とは思えないだの言っていたのは何だったのか?
さっきと今の発言の矛盾について思わず指摘してやりたくなったが、しかし実際には出来る訳もないし、そもそも卯西に猛を可愛がって欲しいとも思っていない。
は込み上げた不快感をぐっと呑み込み、うふふと笑って見せた。


「それがそうもいかへんのです。隣に誰もいてへんかったら、すぐ目ェ覚まして大泣きするもんですから。まだまだ赤ちゃんみたいで、何かと手ェ掛かるんですよ〜。」
「う〜ん、そうかぁ・・・・、そりゃ残念やなぁ・・・・。あ、ほなせめて家まで車で送るわ!な!」
「ああ、いえいえそんな、申し訳ないです!電車で帰りますから!」
「電車なんかめんどくさいやん!」
「でも若社長、結構ワイン飲んではったでしょ?」
「いやいや、全然いけるでー!僕全然酔うてへんし!」
「でも今日土曜ですから、そこら中で検問してますよ?危ないですって。若社長も今日はタクシーで帰りはった方がええと思いますよ。」
「う〜〜〜検問なぁ〜・・・・!それは確かに嫌やねんけど・・・・」
「じゃあ私はこれで!今日は本当にどうもありがとうございました!ご馳走様でした!」

多少押し勝ったところで、はすかさず頭を下げ、踵を返してそそくさと歩き始めた。
追いかけて来られる事を危惧しながら駅までの道を少し急ぎ足に歩いたが、幸いにもそうはならず、卯西の姿が完全に見えなくなった事を確認して、は物陰で立ち止まり、ホッと一息ついた。


「・・・・あ〜あ、しんど・・・・」

思わず独り言が口をついて出た。
料理の味自体は良かったが、正直、食べた気はしていなかった。これが家族や友達と一緒だったのなら、きっと大満足出来ていたのだろうが。
これまではなるべく考えないように、気にしないように、自分を誤魔化してきたが、それもそろそろ限界のようだった。
そう、は卯西が苦手だった。
寄せられる好意の数々は、有り難い事だと感謝するようにし、仕事中に長々と雑談に付き合わされるのも、いびられるよりは断然マシだと考え、どさくさに紛れて肩を抱かれたりマッサージを頼まれたりするのも、夜の店の客ならもっと酷いセクハラをする奴がいるのだからと諦めて受け流してきたが、彼に対する印象は一向に良くならない、むしろ日を追う毎に悪くなっていく一方だった。
卯西の方は恐らくあわよくばを狙っているのだろうが、には彼とどうこうなる気など毛頭無かった。
ただ、仕事を辞める訳には断じていかない。
卯西の好意の押し付けさえなければ、他にこれといった難は無いのだ。念願だった正社員への昇格を折角掴んだのだから、尚更辞めたくはない。
となると答えは一つ、やはり『忍耐』あるのみだった。


「はぁ〜〜〜・・・・!早よ帰ろ・・・・。」

は大きな溜息を吐いてから、地下鉄の出入り口を下りていった。



















それから10日ばかりが経ち、は30歳の誕生日を迎えた。
今年は節目の特別な誕生日だったが、生憎と当日は仕事だったので、祝って貰ったのはその翌日に当たる今日、3月8日だった。
祝ってくれたのは、実家の家族と猛だった。今日は会社が休みだったので、猛も保育園を休ませて、朝から実家の家族を自宅に呼び、ささやかなパーティーを催したのだ。
パーティーはとても楽しく、猛も大喜びだった。ただ、まだ2歳という幼さ故に、その体力や機嫌はあまり長持ちしない。猛が昼寝をしたタイミングでパーティーはお開きとなり、3時過ぎには皆帰ってしまっていた。
静まり返った家の中は、少し寂しいけれども、穏やかで、優しかった。
暮れ始めの夕陽がまろやかに射し込むダイニングで一人コーヒーを飲みながら、はその寂しく優しい一時に浸っていた。
仕事に子育てに毎日フル稼働で、こんな風に一人でホッと出来る時間はとても貴重だった。こんな何をするでもない時間がこんなに贅沢だなんて、猛を産むまでは分からなかった事だった。
昼寝もあまり長くさせると後が大変なのだが、もう少し、あと少しだけ。そう思った瞬間に電話が鳴って、はギクリとした。
もしかして卯西だろうか?雇い主という立場上、彼は履歴書からの誕生日を把握していて、例の如くの好意の押し付けが、ここ最近また激しかったのだ。
断って断って断り倒して、どうにか回避した筈なのだが、甘かっただろうか?
は内心で苛々しながらも、ともかく電話に出る事にした。


「はい、です。」
『あ・・・、か?俺や。』
「ご・・・、吾朗・・・!?」

しかし、電話を掛けてきたのが卯西ではなく真島だと分かると、その苛々は一瞬にして驚きに変わった。


『今ちょっと喋れるか?』
「うん、大丈夫・・・。あ、猛は昼寝してるけど・・・・・。」

そう答えると、電話の向こうで真島がほんの微かに笑ったのが分かった。


『いや、あれからどないやろかと思ってな。大丈夫か?』
「うん、大丈夫やで。普段通り暮らせてるから、安心して。」

1月に起きたあの震災の被害は甚大だった。
の住む地域には特に被害は無かったが、あれから以降、TVでも新聞でも震災関連のニュースが出ない日は無い。多分関東の方でも報道されているのだろう。
あの震災の日もそうだったが、真島がこうして心配して電話をくれた事自体は素直に有り難いと思うし、嬉しくもあった。


『そうか、それやったらええねんけど・・・・・。』
「うん、ありがとう・・・・・。」

だが、それ以外に何を話せば良いのか分からなかった。
気持ちの整理がつかないまま、2年以上もの時を重ねて、はもう自分でもどうにも出来なくなってしまっていた。
話したい事も確かめたい事も沢山あるのに、どう切り出せば良いのか、何をどう言えば良いのか、そして自分がどうしたいのか、考えれば考える程に分からなくなっていったのだ。
だから、真島の方から話してくれるのをずっと待ち望んでいたのだが、結局今に至るまでそれは無いままだった。
去年に送られてきた年賀状は、恐らく多数の関係者に向けて送ったのだろうと思われる事務的な印刷の物で、『転居しました』の一言と、自宅のものと思しき住所と電話番号が書き添えられていただけだった。
あの震災の日の電話も、不測の非常事態だったせいもあるだろうが、心配や気遣いはしてくれても、肝心な事には触れずじまいだった。
真島の方から話してくれない限り、自分には何も言いようが無い。この間のように切ってしまわず、今度こそ何か言って欲しいと願いながら沈黙を保っていると、のその切実な願いが通じたのか、真島が再び口を開いた。


『・・・・実はな、近々、大阪へ行く用事があるんや。あの、仕事の都合でな。』
「ああ、うん・・・・」
『ほんで、その・・・、折角近くまで行くよってに、良かったら、その・・・・・、どっかで飯でも食わんか・・・・・?』

ぎこちないその口調は、後ろめたさの表れに違いなかった。
実際、真島に対する蟠りは、まだ解けた訳ではなかった。
美麗からの手紙で、二人の間にあった出来事の一部始終は一応把握したが、一度捩じれてしまった感情はそうすんなりとは戻せない。少なくとも、真島からも話を聞いて事の真相を確かめ、彼の真意を知らない事には到底不可能だった。
だというのに、真島はただ決まりきったように猛の養育費を毎月振り込んでくるだけで、相変わらず頑なに口を噤み続けている。
どうして何も言わないのか、どうして何一つ説明しようとしてくれないのか、時間が経つにつれて、それもまたの中で新たな蟠りとなっていた。特にあの震災の日以降は、それがみるみる大きくなってきていた。
何も知らないふりをして、美麗の名前を出して鎌をかけてみたのに、それでも真島は何も言ってくれないままだったから。


「・・・・折角やけど、それはちょっと無理やわ。」

がそう答えると、真島は暫し沈黙した。


『・・・・・そうか・・・・・。分かった・・・・・。』
「猛を連れてやと、とてもやないけど外で落ち着いて食事なんか出来ひんねん。何かと手ェも掛かるし、すぐ飽きてグズグズ言うしな。
ほんで行ける店も限られるし。行けるとこ言うたら精々ファミレスかスマイルバーガーぐらいで、それもゆっくりなんかおられへんねん。
そやから、出来たらお店じゃなくて、猛を遊ばせられる所が良いねんけど。」
『・・・・・え・・・・・?』
「大きい公園とか・・・・・、そうや、動物園はどう?」

にはこれが精一杯の勇気であり、譲歩であった。
家に呼ぶ気にはなれない。けれども、会いたい。
精一杯の勇気を振り絞ってきっかけだけは作るから、会いに来て、自分から全て正直に話して欲しい。いつまでも私に何も知らないふりをさせないで欲しい。そう念じていると、真島はうろたえたように言葉を詰まらせた。


『え・・・・・、ど・・・、動物園・・・・・?』
「そう。あの子動物好きやし、あそこやったら安心して気兼ねなく遊ばせられるから、ゆっくり出来るし。あんたさえ良かったらどう?」
『お・・、おう、分かった・・・。俺は別に、それで構へん、猛が喜ぶんやったら・・・。ほな、動物園にしよや・・・・・!』

さっき一瞬沈んでいた真島の声は、打って変わって、今は何だか少し上擦っているように聞こえた。


「場所分かる?」
『お、おう、分かる、大丈夫や・・・!』
「いつが良い?仕事の都合あるんやろ?」
『ああ、いや、それはええねん、いつでも・・・。こっちの都合で合わせられるよってに・・・。』
「そう?ほな悪いけど、私の仕事が休みの日にしてくれる?水曜か日祝。」
『分かった。ほな、えーと・・・・・、ああ、来週とかどうや?来週の水曜・・・!』
「うん、いける。ほなとりあえず来週の水曜日、お昼11時に動物園の正面ゲートの前で待ち合わせでどう?もし雨やったり、何か都合悪なったりしたら、また延期って事で。」
『よっしゃ、分かった。来週の水曜日、昼11時に正面ゲート前やな?』
「うん。楽しみにしてるわ。」

がそう言うと、真島はまた一瞬黙り込んだ。


『・・・おう。ほな、また来週に・・・・・。』
「うん、じゃあ。」

電話が切れると、は受話器を置いて、猛の様子を見に行った。
猛はまだぐっすり眠っていて、今しがたの電話にも気付いていないようだった。


「来週の水曜日、か・・・・・」

こんなに早く、猛を父親に会わせられる日が来るとは思っていなかった。
将来、猛が自分の判断で物事を決められる歳になった時に、手つかずで貯めてある養育費を渡すと共に真島の連絡先を教えて、お金の使い道も父親と会うか否かも、自分の意思で決めて欲しいと言うつもりにしていたのだ。
しかし、今の猛はまだ半分赤ん坊のようなもので、ろくに物心もついていない。この人がお父さんだと言えば、今ならそれをすんなり素直に受け止めるだろう。
だが、肝心の自分がそれを出来るか出来ないか、どちらとも言えなかった。
真島と美麗の結婚を知ったばかりの頃は、もしもあの人が養育費の送金をやめたり払い渋りをするようなら、それがあの人の答えだ、あの人の中で私達親子はもう完全に亡き者となったのだと解釈して、自分もそうするつもりにしていた。
その時には、思い出の品を全て処分して、あの人との事にきっぱりとピリオドを打って、あの人は死んだものと思って、もう二度と振り返るまいと考えていた。
まるで金の切れ目が縁の切れ目みたいだが、それが唯一の繋がりだったから、あの人の気持ちを推し量る判断材料がそれしかなかったのだ。
そしてそれは、二人の離婚を知った後も変わらないままだった。
連絡を寄越すか送金をやめるか、どちらかをしてくれていたら、今頃とっくに気持ちの整理がついていただろうに。


― だから、その為に会うんやんか・・・・・

ずっと何も変わらないままだった状況が、今ようやく変化を見せたのだ。
来週、真島に会えば、きっと何らかの答えが出せる。
複雑にもつれたままのこの想いに、きっと決着をつける事が出来る。
父親にそっくりな猛の寝顔を見つめながら、は自分にそう言い聞かせた。




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後書き

案の定、長々と続いてきましたが、ようやく完結が近付いてきております。
当然、よっしゃこのまま一気に書き上げるでー!という心境なのですが、その意気込みとは裏腹に難航中です。
目指せ年内完結なのですが、いけるか!?どうか!?というところです。あかんかったらすみません(汗)。