夢の貌 ― ゆめのかたち ― 21




「は〜いただいま〜!」

ヨチヨチと歩くようになった猛の手を引いて、は近くの公園から帰宅した。
エントランスの郵便ポストを開けようとすると、の足元で猛が『アー!』と甲高い声を張り上げた。自分が開けたいという意思表示である。
面倒くさいのだが、開けさせてやらないと泣き喚かれてもっと面倒くさくなるので、はヨイショと猛を抱き上げてポストを開けさせてやった。


「はい。ほなほら、中のやつ猛が全部取って。」
「アー」

1歳を少し過ぎて、猛は単語らしき言葉を幾つかポツポツと話すようになり、大分意思疎通が出来るようになってきていた。
とは言え、ポストの中身を1つ1つ取り出してはに手渡し・・・てはくれず、そのままポイポイと床に捨てていくのだが。
は諦めの境地でそれが終わるのを待ってから、猛を下ろして散らばった物を拾い集めた。大半はチラシで即ゴミ箱行きなのだが、今日は珍しく、その中に手紙が1通混ざっていた。
どこかの店のダイレクトメールではない。控えめな小花柄の封筒に手書きで宛名が書かれた手紙で、宛名の字にも覚えがあった。まさかとは思いつつも、は恐る恐る封筒の裏を見た。


「っ・・・・・」

差出人はそのまさかだった。
朴美麗、それだけが書かれている封筒の裏を、は息を呑んで見つめた。
今頃何の用だろうか?それを考えると、胃がギュッと縮まるような感じがした。
真島と彼女との結婚を知らされてから、もう10ヶ月が経つ。子育てに追い立てられる慌ただしい毎日のお陰で、あの時受けたショックは一応薄れてきてはいた。
だがそれでも、忘れた訳ではない。こんな事をされては、折角塞がりかけていた傷を掻き毟られるようなものだった。


「ア〜!マンマァ〜!」
「あぁ〜、はいはい・・・!」

猛の声で我に返ったは、少し迷ってから、チラシだけをゴミ箱に捨てた。


「ほら猛、エレベーターのボタンは?これもポッチンしたいんやろ?はいポッチン。」
「ッチ!」
「帰ったら先お風呂入ろな〜。お砂塗れで真っ白やん!」

見なかった事にして捨ててしまうのは、まるで逃げたみたいな気がして嫌だった。
しかし、今すぐに読む事もまた出来なかった。
片時もじっとしていない1歳児がいると、ほんのちょっとした事でも自分の思うようには出来ないのだ。何の用か知らないがまたそのうち時間が出来たら、などと自分に対して言い繕いながら、は猛を連れて部屋に帰って行った。
実際、それから以降も息つく暇も無かった。入浴に夕食の支度、それから夕食に歯磨きに寝かしつけと、やる事が目白押しで、猛が寝息を立てる頃にはもうクタクタだった。
いつもなら釣られて一緒に寝てしまうのだが、しかし今夜はどうしても眠りに就く事が出来なかった。固く目を瞑っても、何度寝返りを打っても、あの手紙の事がずっと気になっていて、身体は疲れているのに頭ばかりが覚醒していく一方だった。


― ・・・・あかん、やっぱり気になるわ・・・・!

何の用件にしろ、読めばきっと古傷が疼いて、今夜眠れなくなるだろう。
だが、このまま悶々としていたって、どのみち眠れやしない。
は意を決して目を開け、猛を起こさないようにそっと布団を抜け出した。
そして、棚の引き出しに放り込んであった美麗からの手紙を出して、ダイニングの椅子に腰を下ろした。
改めてちゃんと見て気付いた事だったが、手紙にしてはやけに分厚かった。紙以外の物が入っている感触ではないから、恐らく便箋の枚数が多いのだろう。或いは何かの書類でも同封されているのか。それを思うと、また胃がギュッと縮まった。
用件として考えられるのは、猛の養育費の事か、さもなくば彼ら夫婦の間に子供が出来たという報告ぐらいだった。
だが後者なら、何故夫婦の連名ではなく美麗一人の名前で、それも旧姓のままで手紙を送ってきたのだろう?
その点が些か解せないが、しかし考えてみれば、それも結局主旨としては前者と同じ、自分達の子供が出来たから、昔の女との間の子供に使う金が惜しくなったという話になる筈なので、それなら美麗の単独名である事にも納得がいった。
今の時点では、真島からの送金は滞りなく続いているが、本当はもうやめたいのかも知れない。ただそれを自分の口から言うのは男のプライドが許さないから、美麗を矢面に立たせただけで。
我が子の父親、そしてあんなにも深く愛した人の人間性をそんな風に疑う自分が嫌になるが、そうかと言って、もう以前のようにあの人を全面的に信じる事も出来なかった。

とにかく、手紙を読んでみない事には始まらない。
それで思った通りの内容だったならば、その時はお望み通り、承知してやるだけの話だ。心配しなくても貴方達のお金など最初から当てにはしていない、猛は私が一人で育て上げる、そう答えて、これまで受け取ってきたお金を全額耳を揃えて毅然と送り返してやるだけの事なのだ。
は自分を奮い立たせると、思い切って手紙の封を切り、中の便箋を取り出した。
思った通り、便箋は何枚もあった。こんな枚数が送られてきたのは初めてだった。
養育費の送金をやめたいというだけの話に、何をこれ程つらつらと書く事があるのだろう?怪訝に思いながらも、は便箋にびっしりと書かれている文字を目で追い始めた。




 

お久しぶりです。お元気ですか?
あたしはとりあえず元気です。色々あったけど。
さんはきっと、こんなもの読みたくはないでしょう。今更何なのって思っているでしょう。でも、どうしても書きたかったのです。今までずっと一人で抱えていた事を、さんに聞いて欲しかった。
だからこうして手紙を書きました。読まずに捨てられちゃうかもしれないし、もしかしたらさんは今頃もう引っ越していて届かないかもしれないけど、どうか読んでもらえますように。』

どういう意味か分からず、怪訝に思ったのも束の間だった。


『まず、もう知っているでしょうが、あたしと吾朗さんは離婚しました。
去年の11月に結婚して今年の6月に離婚、たった7ヶ月の結婚生活でした。
結婚もそうだったけど、離婚も本当に突然で、あっという間に決まった事でした。』

「えぇっ!?」

は思わず驚愕の声を上げた。
知っているでしょうがと書かれているが、は知らなかった。何も知らされていなかった。昨年12月のあの電話を最後に、真島からは一切音沙汰が無いままだったのだ。


『そもそも、あたしと吾朗さんが付き合い始めたのは、さんが猛君を産んだ直後からでした。
さんからの手紙を読んで、猛君が生まれた事と二人が別れた事を知ったあたしは、どうしても吾朗さんの事が気になって会いに行きました。
その時、吾朗さんは足元がフラフラになるほど酔っ払っていました。ザルみたいにお酒に強い吾朗さんがあんなに酔っ払っているところを見たのは、後にも先にもあの時だけでした。
夢を叶えられなかった自分を卑下してヘラヘラ笑う彼を、あたしは見ていられませんでした。痛々しくて、辛くて、とても放ってなんかおけなかった。せっかくこんなに深く愛してくれる人がいるのに、自分のワガママで彼を捨てたさんが許せなかった。だからあたしは自分から吾朗さんを誘いました。吾朗さんもあたしを受け入れてくれました。
彼に愛されているわけじゃないのは分かってたけど、それでも構わなかった。身代わりでもさびしさを紛らわす為でも、何でも良かった。彼はもうあたしのものになった、その事実だけであの時のあたしには十分でした。
あの時のあたしは、さんに対して罪悪感どころか、優越感を抱いていました。
吾朗さんとそういう仲になって、あたし初めて気が付いたの。あたしさんの事をずっと大好きだったけど、心のどこかでライバル視してもいたんだって。
二人の間に入り込むすき間なんてこれっぽっちもなかったから、それまでは自覚してなかったけど、あたしは吾朗さんと出会った時から、彼に恋してたんだって。』

言い様のないショックが、またを襲った。
やはり二股をかけられていた訳ではなかったという安堵感も確かにあったが、自分の知らないところで真島がそれ程傷心していた事、そして美麗の本心をも同時に知ってしまった今、決して喜べる心境にはなれなかった。


『あたしはすぐに、吾朗さんの家に住み着くようになりました。さんに散々グチったあの友達とは、その時スッパリ縁を切りました。
吾朗さんはあたしを迎え入れてくれたばかりか、練習やオーディションに専念できるようにと、あたしにバイトを辞めさせて、ダンスやボイストレーニングのスクールに通わせてくれました。
お金も全部出してくれました。スクールの費用も、生活費も、おこづかいまで。
勝っちゃんがアメリカへ行っちゃって一人ぼっちになってしまったあたしにとって、吾朗さんはあたしの夢を理解して支えてくれる、たった一人の人でした。
その頃は毎日が楽しくて、とても充実していました。あんな日々は、それまで生きてきた中で初めてでした。』

はそれを読んで、丁度1年ほど前に、勝矢が突然訪ねて来た事を思い出した。
あの時はあまり深く考えなかったが、今になって思えば、あの時の勝矢の言動や気持ちが理解出来た。
勝矢もきっと、その頃に真島と美麗の関係を知ったのだろう。
そして多分、少なからず動揺してしまい、自分一人では抱え込んでいられなくなったから、口実にわざわざ美麗と連名のお祝いを用意してまで訪ねて来たのだろう。
勝矢は今、どうしているだろうか?
彼は真島と美麗が離婚した事を知っているのだろうか?
大阪にいる筈なのに全くの没交渉となってしまっている彼の今現在の気持ちを、知れるものなら知りたかった。


『それから少しして、あたしは遂にオーディションに合格し、デビューのチャンスを掴みました。
でもあたしは未成年だから、事務所との契約には保護者の同意が必要でした。保護者が身元保証人になって契約書にサインをして、契約の場にも同席しなきゃいけない決まりだったの。
なのに里親は、あたしがどれだけ頭を下げて頼んでも引き受けてくれませんでした。その話をサギだと決めつけて、自分達がお金を取られたり面倒事に巻き込まれるのはごめんだって。
悔しくて泣きついたあたしに、吾朗さんは結婚しようって言ってくれました。ちゃんと結婚すれば、今後は自分が全責任を負う事になるから、それであの人達を説得できるって。
あたしはとても驚いたし、本当言うと、怖いとも思いました。
だって、事務所の決まりで恋愛は絶対禁止で、兄弟ですら二人きりで会っちゃいけないってきつく言われてたから。
だから結婚なんてして、もしそれがバレたらと思うと、とても怖かった。
でも吾朗さんは、芸能界入りしたら忙しくなって、家で一緒にご飯を食べるヒマもなくなるだろうし、隠し通すのは多分そんなに難しくないと平気な顔で言って、せっかく夢を叶えるチャンスをつかんだあたしを支えたいんだって言ってくれました。
普通の奥さんにはなれないって言ったあたしに、普通の主婦にも極道の女房にもならなくていいし、子供もいらない、お前は自分の夢を叶える事だけに専念しろって、そう言ってくれました。言葉にならないくらいうれしくて、この人の事が心から好きだって思いました。』

真島が言いかけていた『事情』というのは、この事だったのだ。
ずっと胸につかえていたものが取れた気がすると同時に、そこまで献身的に、いや、殆ど自己犠牲と呼べる程に美麗を支えようとしていた真島が、何だか憐れだった。
最後の電話で話した真島の声が、もしも終始冷たいままだったなら、きっとそうは思わなかっただろう。その当時はそれだけ美麗に惚れ込んで夢中になっていただけの事だと考えて、あっという間に迎えた破局を良い気味だとさえ思ったかも知れない。
だが、追い縋るように必死で弁解しようとしていたあの時の真島の声を思い出すと、傷付いたのは自分だった筈なのに何だかやけに胸が痛んで、そんな風に悪く思う事が出来なかった。


『吾朗さんがあたしに求めたのは、たった2つでした。
結婚の報告の為に組の親分にあいさつをする事と、さんと猛君の事です。
猛君が一人前になるまで養育費を送るから、さんとの縁も完全に切れる事はない、それだけは理解してほしい、そう言われました。
あたしはその約束を守りました。特に猛君の事は、イヤだなんて全然思わなかった。
自分の勝手で産んだ子を、死んだっていいとばかりに無責任に捨てる親だっているのに、会いもしない子供にずっと親の責任を果たしていくつもりの彼がますます好きになったし、心から尊敬しました。』

美麗のその気持ちは、にも良く分かった。ずっと同じ思いでいたからだ。
自分の事ばかりで子供の事など知らん顔、実父も継父もそんな男だったから、猛に対して父親としての役割を果たそうとしてくれる真島の事を心から有り難く思い、尊敬していた。
その気持ちは、美麗と結婚した事を知った時に大きくひび割れてしまったが、しかしまだ完全に砕け散ってはいなかった。憤り、悲しみ、絶望さえしたが、あの人を心底から本当に憎みきる事は、結局未だ出来ずにいたのだ。


『事務所との契約とほぼ同時に、あたし達は籍を入れました。
知っているのはあたしの里親と吾朗さんの親分だけで、誰にも秘密の結婚でした。
式も挙げない、新婚旅行も行かない、指輪もない、誰にも祝ってもらえない。あたし達の結婚は、世間一般のそれとは意味も形も全然違っていました。
おまけに、あたしが事務所から部屋を借りる事になって、一緒に暮らす事さえできませんでした。
でも吾朗さんは、同じマンションの下のフロアに部屋を借りて住んでくれて、あたしがその部屋に通う形で、あたし達なりの新婚生活を始めました。
バレないようにするのが大変だったけど、でも楽しかったし、幸せだった。
約束通り、吾朗さんはあたしに奥さんとしての役割を何も求めませんでした。
ご飯を作れともシャツにアイロンをかけろとも言わなかった。
組や仕事の事も何も話さなかったし、手伝いや付き合いをしろとも言わなかった。
あたしが帰れなくても、連絡さえできなくても、怒った事なんて一度もなかった。
だからあたしは本当に自分の夢に専念する事ができて、アイドルのREMIとして心おきなくスターへの階段を駆け上がっていきました。』

今年に入ってから以降、彼女の存在感は街中に溢れ返っていた。
避けても避けても何かで目にしてしまう程、あれだけ大々的に売り出されていたのに、しかしよく考えてみれば、最近はとんと見掛けていない気がする。
離婚した事と何か関係があるのだろうかと考えながら、は続きの文に目を走らせた。


『あたしは愛されていました。
吾朗さんはあたしの事をちゃんと理解して、愛してくれてる。そう思っていました。
でも、やっぱりそうじゃなかった。
それを思い知らされたのは、妊娠が発覚した時でした。』

その一文に、は思わず息を呑んだ。
そんな事は二人の結婚を知った時にすぐさま考えたし、それなら猛の腹違いの弟妹だなんて強がりな皮肉も飛ばしたが、いざこうしてその事実を目の前に突き付けられると、やはり動揺せずにはいられなかった。


『5月になって、あたしは生理が遅れている事に気付きました。
でもあたしはデビュー直後から売れて、その頃にはもうまともに寝る時間もないほど忙しくなっていました。吾朗さんの待つ部屋にもあまり帰れなくて、週に1度夕食を一緒にできたら上出来、そんな毎日でした。
そんな時に妊娠だなんて、考えられなかったし考えたくもなかった。
きっと疲れとストレスで遅れているだけだと思っていたけど、でもその内に気分が悪くなるようになって、あたしはだんだん怖くなってきました。
病院に行かなきゃいけないのは分かってたけど、行くヒマもないし、行ったら恐れている事が現実になってしまうと思って、どうしても行けなかった。
そしてあたしは、ますます仕事に没頭していきました。もっともっと忙しくなれば、そのうち勝手に流れてくれるだろう、なんて考えて・・・・。』

確かめるのが怖かったのは、かつてのも同じだった。
真島が極道としてどのような生き方をしようとも、自分一人ならとことんまで付き合っていける。ただ好き合って一緒にいられるだけで幸せを感じていられる。
けれど、もしこのお腹に新しい命が宿っているというのなら、その決意が、今の幸せが、二人の関係が、何もかもガラリと変わってしまう。猛を妊娠している事に気付いた時に、も真っ先にそれを案じ、恐れたのだ。


『でも、そうはなりませんでした。そうこうしている内に吐き気がどんどん酷くなって、6月のある日、とうとう吾朗さんに怪しまれました。
必死にごまかしたけど、大変な病気だったらどうすると強引に病院へ連れて行かれそうになって、もう言い逃れができず、あたしは仕方なく妊娠してるかもしれない事を打ち明けました。そして、吾朗さんに連れられて、しぶしぶ病院へ行きました。
初めて行った産婦人科の待合室には、お腹の大きな女の人が沢山いて、怖くて怖くて仕方がありませんでした。
あんなお腹になってしまったら、とてもアイドルなんか続けられない、ダンスもできないし衣装も着れなくなる、そんな事ばかり考えて、どうか違いますようにと祈り続けていました。
でも診察の結果は、やっぱり恐れていた通りでした。妊娠3ヶ月目の終わりで、出産予定は来年のお正月頃になると言われました。』

今は10月中旬。もし妊娠が継続されていれば、あと2〜3ヶ月で生まれてくる。
その子はどうなったのだろうか?何があって離婚に至ったのだろうか?
は息を詰めながら、更に続きを読んだ。


『マスコミにはまだ発表していなかったけど、あたしはその時、クリスマスに日本ドームでコンサートをやる事が内定していました。
とびっきりおしゃれな衣装を着て、5万5千人の観客の声援を浴びながら、日本で一番輝いているトップアイドルになるはずなのに、あの待合室の女達みたいにダサいワンピースを着て、風船みたいなみっともないお腹を抱えて、すごすごとステージを下りなきゃいけないなんて冗談じゃないと思いました。
そりゃ、望んで出来たんじゃなくても、自分の子供に変わりないのは分かってた。
それを殺す事になるのかと思うと、それはそれで怖かったし罪悪感もあった。
でも、あたしはまだ年もうんと若いし、何より大事な夢がある。あたしの事を何万人ものファンが待ってる。あたしにとってどっちが大事かなんて、比べるまでもなかった。
だからあたしは、その場ですぐ中絶したいと言いました。
でも医者には、初期中絶ができるのはこの2〜3日以内で、それを過ぎると4ヶ月目に入ってしまうから、中期中絶の手術になって何日か入院もしなきゃいけないし、役所にも届け出て、火葬もしなきゃいけないと言われました。
その2〜3日中はどうしてもスケジュールが調整できなかったし、その医者に責められるような言われ方をしたせいもあって、その場では何も決めずに帰りました。
でもあたしの心の中では、答えはほぼ決まっていました。吾朗さんもきっと分かってくれてると思っていました。
だって、結婚する時に約束したんだから。
さんの代わりにはなれないと言ったあたしに対して彼は、自分が奥さん子供が欲しくて結婚するんじゃない、あたしの夢を支えたくて結婚するんだって、そう言ってくれたんだから。』

そんな約束までしたあの人が、どうして離婚などしたのだろうか?
いやそれ以前に、どうして望んでもいない妊娠をさせたのだろうか?
たとえ思いがけない事だったとしても、それがどういう結果に繋がるか、忘れている筈はないのに。
自分との別れにそれ程深く傷付いていたというのなら尚更、真島が目先の快楽に流されて迂闊な事をするとは、には信じられなかった。


『でも吾朗さんは、結果を聞くと、それまで見た事もないほどうれしそうな顔をして喜びました。いつ生まれるんだと当たり前のように聞いて、めでたがって浮かれていました。
そんな彼を見て、あたしは裏切られたような気持ちになりました。
あたしが心から信頼していた彼はいつの間にかいなくなって、今目の前にいるこの人は同じ顔をした別人だとまで思えて、一人でやるしかないと思いました。
それから5日後、あたしは何とかスケジュールを調整して、一人で病院へ行きました。
最初に行った所とは別の病院、ううん、ちゃんとした病院じゃありません。表向きは会員制エステサロンの看板を出して違法に商売している闇医者です。
そこはワケ有りの女達が来るモグリの産婦人科で、芸能界の女の子達の間でひそかに知られていました。実際、あたしの知り合いのアイドルの中にも、そこで中絶した子が何人かいました。
お金さえ払えば秘密厳守で何でもしてくれる所で、法律で決まっている期間を過ぎての中絶や、生まれた赤ちゃんをその場でこっそり始末する事まで引き受けてくれるという話も聞いたし、社会的地位のある男が妊娠させてしまった女をだまして連れて来て、薬で眠らせて中絶させるという話も聞きました。
怖かったけど、でもあたしにはそこが一番都合が良かった。スクープされる心配がなく、普通の病院と違って名前も住所も何も知られず、事情も聞かれず、面倒な処理もなく、秘密厳守で後くされがないから。
その代わり、手術代は普通の病院よりうんと高かったけど、それも仕方がありませんでした。あたしは吾朗さんの金庫からくすねたお金で、そこで手術を受けました。』

その恐ろしい話にゾッとした。
芸能人にとってスキャンダルは致命傷になるから、どうにか内々で解決を図りたかったのは分かるが、それにしてもそんな酷い所で中絶手術を受けたなんて、あまりにも短慮に過ぎるとしか思えなかった。


『麻酔が切れて目が覚めると、頭もお腹もすごく痛くて、気分も悪くて最悪だったけど、手術は無事に終わったと言われて、あたしは吾朗さんのいる部屋に帰りました。隠しておける事じゃないから、早い内に報告しておかなきゃいけないと思って。
帰ってみると、吾朗さんが夕食を作ってあたしを待っていました。
彼がそんな事をしてくれたのは初めてで、あたしは酷いショックを受けました。
だって、彼があたしに優しくしてくれるのは、子供の為だったから。
この人はあたしの大切なものを踏み台にして、自分が欲しいものを手に入れようとしてるんだって気付いたから。』

あの人が欲しかったもの。
その言葉が、の心に棘を刺した。


『その証拠に、あたしが中絶してきた事を報告すると、彼は激怒してあたしの顔を思いきり殴りました。
そして、何でそんな血も涙もない事をした、女なら自分のお腹の子を何があっても産みたいと思うのが当然じゃないのかと責めました。
許せなかった。あたしの大切なものを当たり前のように踏み台にしようとした上に、当たり前のように勝手な決めつけまでする彼が憎かった。あの時吾朗さんはきっと、春実さんの事を思い浮かべてた。あたしを春実さんと比べてた。
だからどうしようもなく腹が立って、あたしも彼を思いきり殴り返して、ウソつき、裏切り者と責めました。お互いに相手を責めて、取っ組み合いの大ゲンカをしました。』

それもまた、にとっては信じられない話だった。
何年も付き合っていれば、良い事ばかりある訳ではない。時には喧嘩になる事だってあった。
けれども真島は、たとえ派手に怒鳴り合ったとしても、只の一度たりともに手を上げた事は無かった。上げそうになった事さえ無かった。


『夢を支えてくれるって約束したじゃないと言ったあたしに対して吾朗さんは、夢をあきらめろなんて言ってない、たった1年か2年仕事を休めばすむ話だっただろうと言い返してきました。
とてもショックで、悲しかった。
殴られた事よりも、彼が何も理解してなかった事の方が辛かった。
だってそうでしょ?スターへの階段を駆け上がっている途中に1年も2年も休業なんて、そこから転がり落ちるのと一緒じゃない。あたしに夢を捨てろって言っているのと同じじゃないの。』

そんなあの人が手を上げるなんて、余程許せなかったのだろう。
だがそれはきっと、美麗も同じだったのだ。
美麗のした事自体はとても擁護出来ないが、彼女の身になってみれば、その時感じた彼女の絶望は分かる気がした。


『でも彼は、それすらも分かってくれなかった。
たとえ1年ぐらい休んでも、事務所を辞める事になっても、何が何でもと本気で思って行動すれば道はひらける、その根性がお前にないだけだと言って。
それを聞いた瞬間、あたしは吾朗さんに対する失望と怒りと憎しみでカッとなって、つい口をすべらせて、絶対に言う気のなかった事を言ってしまいました。』

その一文に、は嫌な予感を覚えずにはいられなかった。


『芸能界という所は、あたしの想像以上にまぶしく、同時に汚い世界でもありました。
どれだけ厳しいレッスンをこなしても、ただ受け身で待ってるだけではスターになんてなれない。デビューしてすぐ、あたしはその事に気付かされました。
売れたければ分かるよな?と言わんばかりにあたしに迫ってくる業界やスポンサー企業のえらい人達が、何人もいたのです。
最初の内は拒否していました。でも拒否すれば、あたしのものになるはずだった仕事が、他の子のものになっていく。きれい事ではダメなんだと、否応なく思い知らされました。』

何処の世界だろうが、男が女に求めるものは所詮同じ。
美麗が直面した事は、夜の世界にもよくある話だった。実際に自身も、そういう色と欲との駆け引きを持ち掛けてくる客に遭遇した事が何度もあった。自分にそれ程の野心が無かった、後ろで守ってくれる存在があった、だから乗らなかったというだけで。


『その内に、あたしは覚悟を決めて誘いに乗るようになりました。
これは成功をつかむ為の戦略、夢を叶える為に必要な仕事なんだと考えて、浮気なんかじゃないんだから、吾朗さんもきっと許してくれると信じて。
だって吾朗さんは、さんの全てを受け入れて、あんなに深く愛してたんだから。
パトロンの男に持たせてもらった店ごと、さんの事を大事にしてたんだから。
だからきっとあたしのしている事も許して受け入れてくれるはず、そう信じていました。もちろん、彼に対しての罪悪感はあったし、だからこそ、この事は絶対に言わない、死ぬまで秘密にしようと思ってたんだけど。』

は思わず息を呑んだ。そんなつもりで話して聞かせたのではない、ただ自分が過大評価されるのを避けようと思っただけだった。
そんなつもりじゃなかった、決して。
だが、今更自分の心の内で幾ら弁解したところで、彼らに届く事も無ければ、もう取り返しもつかなかった。


『でも怒りと絶望のあまり、あたしはついそれを匂わせるような事を口走ってしまって、吾朗さんに問いつめられました。
ごまかす事だってできた。でもあたしはその時、彼の気持ちを確かめたくなりました。
何も理解してくれてなくても、せめて少しでもあたしに対して愛があるのか、どうしてもそれが知りたくなって、あたしは思いきって全部正直に打ち明けました。
売れる為に何人もの相手と枕営業してきた事も、子供の父親が誰だったのか自分でも分からない事も、それに、その中でも吾朗さんだった可能性が一番低いって事も・・・・。
あたしは吾朗さんが気付いてくれる事を望んでいました。
あたしがどんな思いでそれをしていたか、あたしが彼に対してどんな気持ちでいるか、気付いて察してくれる事を期待していました。
そして、さんと同じようにあたしの事も全てを受け入れて、許して、愛してくれる事を願っていました。
でも吾朗さんはそれを聞いた瞬間、あたしから顔を背けました。
もう殴ってさえくれずに、ただ見るに耐えない汚いもののようにあたしから目を背けて出て行き、そのまま1週間帰って来ませんでした。』

淡々と綴られているその文章が、幾つもの棘となっての心に突き刺さった。
罪悪感という名の、鋭い棘となって。
私は関係無い、私のせいじゃない、幾ら自分にそう言い聞かせても、何の罪も無い小さな命がいたずらに創り出され、そして摘み取られてしまったという残酷な事実がを苛んだ。


『吾朗さんはさんの所に行ったんだと思っていました。結局答えてくれなかったけど、あたしは今でもそう思っています。
だって彼が愛していたのは、最初からずっとさんだけだったから。
彼はずっと、あたしにさんを重ねていただけだったから。
1週間ぶりに帰ってきた吾朗さんは、あたしを突然部屋に呼び出して、離婚してくれと言いました。もう引っ越し先も見つけてたみたいで、自分の荷物も運び出していた後でした。
この人は一刻も早くさんと猛君と新しい生活を始めたいんだ、もうそれしか考えてなくて、ジャマなあたしの事なんかさっさと捨ててしまいたいんだろうなと思いました。あたしをゴミみたいに捨てて行った、実の親と同じように。
あたしは別れたくないと言って、離婚を拒否しました。可愛く泣いてすがるんじゃなくて、脅すようなイヤな言い方しかできなかったけど。
そんなあたしに対して吾朗さんは、今のあたしに自分は必要ないと言いました。
あたしの夢の事を分かってるつもりで何一つ理解してなかった自分が側にいてもジャマになる、あたしの夢の妨げになる、と。
そして、あたしの夢を理解して受け入れる器なんかなかったのに、自分ならあたしの夢を叶えさせてやれると思って、自分を買いかぶってた、そもそもが考え違いだったと、ためらいなく言い切りました。』

美麗は誤解しているが、真島とは猛が生まれてから以降、本当に一度も会っていないままだった。
電話で話したのも、二人の結婚の事を聞いたあの時が最後だった。
そんな事を思い返している内に、は不意にある些細な事を思い出して、手紙の冒頭をもう一度確認した。
二人が離婚したというのは今年の6月、確かに丁度その頃のある夜、無言電話が掛かってきた事があった。
あの時は、寝ていたところを猛共々起こされてろくに頭も回っておらず、ただ腹が立っただけでそれ以上何も深く考えなかったのだが、もしかするとあれはいたずらではなく、真島からの電話だったのかも知れない。
深く傷付いて打ちのめされたあの人からの、救いを求める声無き声だったのかも知れない。
電話はすぐに向こうから切られてしまったけれども、もしあの時もう少しマシな応答をしていれば、もしかしたら・・・、そう思うと、あの時の自分が恨めしかった。


『そこまではっきり言われたら、もうあきらめるしかありませんでした。
だからあたしは吾朗さんの言う通りに、離婚届にサインしました。
あたしは最後にもう一度、吾朗さんの気持ちを確かめようとしました。それを持って出て行く彼に、さんの所に戻るの?って聞いたんです。
それで、言ってやりました。あなたはさんの事を、さんと作るはずだった温かい家庭を、あきらめきれてなかっただけだって。
あたしの夢を支える為に結婚したみたいに言ってたけど、自分だってあたしを利用して、さんと別れたさびしさや悲しみを埋めようとしてたじゃないって。
そんな事を聞いたって自分が傷つくだけだって分かってたけど、どうしてもそれを彼に認めさせたかった。
だって、彼がさんの所に戻ろうとするのなんて分かりきってるのに、自分の本当の気持ちを正直に認めずに、結婚したのも離婚するのも全部あたしのせいにして行っちゃうなんてズルいじゃない?
でも吾朗さんは、もう全部終わった事だと言って、最後まで認めませんでした。
そして、これから自分の組をはたあげするから、後ろをふり返っているヒマはないと言って、出て行きました。』

だがそんな考えは、すぐに萎んでいった。
美麗がどう思っていたとしても、自分がどう考えようとも、事実として真島からは養育費の送金以外、何の音沙汰も無いままなのだ。
父親として猛に対する責任は果たすが、あの人の心はもう全く違う処に、極道の高みに向いていても何ら不思議ではなかった。
それこそがあの人の元々の望みであり、だからこそ、こんな思いをしてまであの人と別れたのだから。


『あたしにも後ろをふり返っているヒマはありませんでした。
朴美麗としての幸せは失ったけど、あたしにはREMIとしての幸せがある、5万5千人のファンがあたしを待ってる、そう思って、相変わらず毎日ハードスケジュールをこなしていました。
でも、具合はずっと悪いままでした。出血と腹痛と熱がなかなか治まらなくて、あたしは毎日何回も痛み止めを飲んでごまかしながら、どうにか仕事を続けていました。
そして7月なかばのある日、あたしはTV番組のリハーサル中にとうとう倒れて病院に担ぎ込まれ、中絶手術を受けていた事を事務所に知られてしまいました。
事務所がまず真っ先にした事は、会社の保身でした。面倒な事にならない内にと、キャンセルできる仕事をたちまち全部キャンセルしてしまったのです。
中でも一番先にキャンセルされたのが、日本ドームでのコンサートでした。
沢山の企業が絡む大きなイベントだったので、途中で何かトラブルが起きた場合、とんでもない額の違約金が発生する事になるからです。
コンサートはあたしの夢でした。まもなくマスコミにも発表されて、いよいよ実現するはずでした。実現すれば、もしかしたら吾朗さんも見に来てくれるかもしれない、そんな望みも持っていました。
それがあっさり中止になって、本当に、ショックなんてもんじゃなかった。
でも泣くヒマさえありませんでした。それからすぐにあたしは里親共々呼び出されて、社長をはじめ事務所の人達みんなに、かなり厳しく問いつめられました。まるで刑事ドラマによくある取り調べのシーンみたいに。
あたしの味方は一人もいなくて、あたしはもう全てを白状するしかありませんでした。両親と言ってたのが里親だった事も、実は韓国人だって事も、それから、所属契約を交わした直後に結婚して、つい半月ぐらい前に離婚した事も。』

真島はその事を知っているのだろうか?
知っていて、俺にはもう関係無いと無視しているのか、或いは何も知らなかったのか、この手紙からはどちらとも判断出来なかった。


『それまで事務所で一番の期待の星だったあたしは、一転して、事務所で一番厄介な爆弾になりました。いくつもの重大な事実を隠して事務所をだました、厄病神になってしまいました。
特に、結婚と離婚の事がネックになりました。枕営業の事も言いましたが、その事はうやむやにされて、悪いのは全部里親と吾朗さんとあたし、ううん、結婚するくせに事務所をだまして契約したあたしだという事にされました。
共犯者扱いされて事務所の人達に責められた里親も、あんなタチの悪いヤクザの言う事なんかまんまと信じたお前が全部悪いんだと、あたしをメチャクチャになじって殴りました。』

事務所は確かに騙された側になるし、立場的に美麗が関係した相手の連中を責めていけないのも分かるが、都合の悪い事はしれっと揉み消して、一番責め易い美麗一人に全ての非を押し付けるそのやり方は些か冷たいと思うし、美麗の里親に至っては、会った事も名前すらも知らない人達だが、憎しみすら湧く程に許せなかった。
美麗の芸能界入りに対して、賛成するなら最初からしてやれば良かったし、反対なら反対で、その意思を毅然と貫き通せば良かったのに、美麗の事など何も考えずに自分達の損得でしか判断しなかったから、そんな事になったのだ。
本来なら自分達が負わなければいけなかった責任を、その『タチの悪いヤクザ』に転嫁しておきながら、問題が起きたら途端に掌を返すなんて、どこまで無責任で卑怯な人達なのだろうか。
根本的には美麗の自業自得だとはいえ、周囲の大人達もあまりといえばあまりに冷酷で、溜飲が下がるどころか胸が痛んだ。


『その後あたしは、どんどん干されるようになっていきました。
こんないつ爆発するか分からないスキャンダルを抱えたアイドルに大金なんてかけられないと、事務所が手のひらを返したのです。
予定されていたイベントは、次々に中止されました。
シングルもアルバムも、続々とリリース予定があったのに全部白紙になり、9月に発売予定だったサードシングルなんかは、もうレコーディングも終わってたのに直前で生産がストップされ、オンチな新人アイドルの下手な歌で録り直されて、その子のデビュー曲にされてしまいました。
CM契約もどんどん打ち切られていって、TV出演もどんどん減っていきました。
どんどん、どんどん、仕事がなくなっていって、9月にはもう実質、引退してるような状態になっていました。
さんも気付いてたんじゃないですか?それまで目ざわりなぐらい世間に出まくってたあたしが、今年の夏以降、全然出なくなってた事。』

その自虐的な表現は痛々しいが、事実は事実だった。
取り返しのつかない多大な犠牲を払ってまで叶えようとした夢が木っ端微塵に砕け散った、一人の女としてもアイドルとしても、幸せと呼べるものを全て失った、そんな美麗が幾ら何でも不憫だった。
しかし、彼女の身に降りかかった悲劇は、それだけではなかった。


『その同じ頃、経過観察の為に診察を受けた病院で、あたしは子宮内腔ゆ着症と診断され、この先もう子供は産めないと言われました。
中絶手術を受けた時に子宮の中が傷だらけになったせいで全体的に酷いゆ着を起こしていて、まず妊娠できないだろうし、仮にできても流産してしまうだろうと。
ここまでの状態には普通ならない、一体どこの病院でこんな酷い手術を受けたんだと、これもまたかなり問いつめられました。
そりゃあそうですよね。だって、お金次第で生まれた赤ちゃんまで殺すような、酷い闇医者だったんだから。
でも、そこで手術を受けようと決めたのはあたしです。
本当なら何日か入院して、出産と同じやり方をしないといけなかったのに、その人でなしの酷い闇医者に無理を言ってまで、日帰りですむ初期中絶のソウハ手術を要求したのもあたしです。
だからあたしは何も答えませんでした。答えたところでどうせあたしの自業自得だと言われるのは目に見えていたし、何より、それであたしの体が元に戻るわけじゃないから。』

確かに、美麗の事は許せなかった。筋違いは百も承知で、少なからず憎みもした。
けれども、ここまでの目に遭う事など、決して望んではいなかった。
こんな、幾つもの不幸をこれでもかと積み上げられて押し潰されてしまうような、後味の悪い結末など。


『そして今月、10月になってすぐ、あたしはとうとう事務所をクビになりました。
大人しく退所して芸能界からも引退し、今後マスコミや同業者に一連の出来事を一切言わないと約束すれば、違約金までは取らないと言われたのだけが幸いでした。
所属契約から丸1年、10月末付で退所という事になって、借りていた部屋からも今月中に出て行くように言われました。
出て行けと言われても、あたしには行く所なんてありません。
里親とは契約トラブルの事でもう決定的にダメになって、縁を切られました。
勝っちゃんも、自分の事で精一杯だから、頼れない。
だからあたしはこれから、東京を離れて一人で遠い街へ行きます。
準備はもうすっかり終わりました。この手紙を書き終えたら、荷物と一緒に持って出て、すぐポストに入れてそのまま行くつもりです。
今のあたしには、吾朗さんが置いて行った手切れ金と、ボロボロになった夢の残りカスしかありません。でもあたしはこりずに、その残りカスからまた新しい夢を形作っていきたいと思っています。
その為の旅立ちです。行先や新しい住所は教えません。
さん、どうかお元気で。あたしが言うのも何だけど、子育てがんばって。
さんに育てられる猛君は、きっと幸せな良い子になると思います。』

手紙の文字に、頬を伝った涙の雫が落ちて、滲んでぼやけた。


『ここまで長々と読んでくれてありがとう。
さんは今きっと、あたしの事をなんてみじめな女だろうって思ってる事でしょう。さんを傷つけ、猛君から父親を奪おうとしたバチが当たったんだと思っているでしょう。
でもあたしは、悪いけど何も後悔していません。
吾朗さんとの事も、仕事の事も、子供の事も、どれも全部あたしがその時そうしようと自分で決めてしてきた事だから。
ほんの一瞬だけだったけど、ずっと大事にしてきた夢を叶える事ができたから。
でも1つだけ、悲しく思う事があります。
あんなに優しくしてくれた、大好きだったさんに、もう二度と会えなくなった事です。直接謝る事さえできなくなってしまった事です。
あたしの為だけを思って優しくしてくれたのは、吾朗さんじゃなくてさんだった。
さんは、誰かの身代わりや自分のさびしさを埋める為じゃなく、純粋にあたしの為に優しくしてくれた。
・・・なんて、今頃気付いてももう遅いけどね。

ごめんなさい。

朴 美麗』




「・・・・何でよ・・・・」

どうして、こんな事になってしまったのだろう。
あの子との楽しかった思い出を振り返って、もうどうにもならなくなってしまった今を悔やんで、は声を殺して静かに涙を流した。
そうして暫くの間泣いて、少し落ち着くと、立ち上がって玄関横の洋室へ行った。
いずれ猛の部屋にしようと思っているその部屋は、今のところは日用品のストックなどをちょっと置いておく程度にしか使っておらず、ほぼガランとしている。取り立ててある物と言えば、クローゼットの中に2つ3つ仕舞ってある衣装ケース位だ。
ケースの中身は、結局葬れなかった愛の残骸だった。
あの人が着ていた服、あの人と撮った写真、あの人にプレゼントされた物。あの人のした事を裏切りだと嘆き、憤り、美麗共々憎みもしたが、いざ何もかも捨ててやろうと思うとやっぱりどうしても出来なくて、いつか自分の気持ちにちゃんと踏ん切りがつくまでと、ここにこうして眠らせておく事にしたのだった。
その中には、あの人が送ってきた手紙もあった。
この手紙だけは、いずれその時が来ても捨てずに取っておくつもりだった。未練云々ではなく、将来、大きくなった猛がもしも父親に会いたがる事があれば、その時に連絡を取る為の手段として。
個人的にはもう二度と読み返したくはない。しかしは今、その手紙をもう一度開かずにはいられなかった。そして、そこに書かれている番号に電話を掛けずにはいられなかった。
あの人がそこに住んでいたのは美麗と離婚するまでの事で、今はまた住所が変わってしまっているのは承知しているが、電話番号はもしかしたら変わっていないかも知れないと思ったのだ。
どうしたいのかは自分でも分からない。ただとにかく今は、あの人からも話を聞きたかった。美麗の手紙に書いてあった事が本当なのかどうかを、一つ一つ確かめたかった。


『おかけになった電話は、現在、使われておりません。』

だが、程なくして聞こえてきたのは、無機質な自動音声だった。
抑揚のないトーンで繰り返されるそのメッセージを何度か聞いてから、は仕方なく電話を切った。
他に連絡がつく所と言えば嶋野組の事務所だが、そこへ掛けるには今一歩の押しが足りなかった。
自分がどうしたいのか、もっとはっきり心が定まっていればその勇気も湧いただろうが、今はまだ自分でもどうすれば良いのか、本当に分からなかった。


「吾朗・・・・、あんた今、どこで何してんの・・・・」

美麗との離婚を機に、あの人はいよいよ本当に極道の高みへと昇っていくのだろうか?
あの子に告げた通り、本当に後ろを振り返りはしないのだろうか?
だから、離婚した事も、新しい連絡先も、何も報せてこないのだろうか?
もうこれで完全に、あの人との縁は断ち切れてしまうのだろうか?
手紙の文字を指先で撫でながら、は今何処で何をしているとも知れない真島の事を想った。




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後書き

今回は、ヒロインへの告白文という形での、朴社長サイドの妄想となりました。
この人を主人公にした話を書こうという気には今一つなれないのですが、ついつい癖でガッツリ妄想してしまったので(笑)。

客観的に見ると『自業自得』の一言に尽きる朴社長エピソードですが、彼女の主観では違うと思うんですよ、私。
この人、根本的に自分を悲劇のヒロインやと思ってるなというのが、私の率直な感想ですので(笑)。
「スターを夢見て犠牲にしてしまった過去への償い・・・、それが今、私がアイドルを育てようとしている理由なのかもね・・・・」なんて遥に言っていましたが、実際にやっている事は、自分が叶えられなかった夢の押し付けですしね。
そんなん言うてる自分に酔ってない?みたいな(笑)。

でも確かにこういうタイプの人いますよね。ここまで尖っている人は珍しいかも知れませんけど(笑)。
龍6の遥にしろこの人にしろ、「あぁぁぁ〜おるおるこういう人・・・ヽ(´Д`;)ノ」というリアルさはめっちゃ出てると思うので、そう思わせるのが目的であんなキャラ設定にしたのだとすれば、それはそれである意味奥深くて凄い(笑)。

しかし、事務所にバレてから以降、芸能界を去るまでの転落の過程に関しては、客観的に見てもなかなか悲惨だったのではないかなとも思うのです。
そうなってしまったのは自業自得だとしても、掌返しが容赦ないというか、落ちぶれ方が無惨というか・・・。まぁ単なる勝手なイメージですけど。

彼女、ある意味ではまっすぐで純粋な人なんでしょうね。
だから、目的以外のものは見えず、それを達成する事だけしか考えられない。
そしてその結果、手段を選ばず突っ走り、龍5のシナリオの通り、何かにつけてやり方を間違えていく訳なんですけれども(笑)。
枕営業バリバリ設定にしたのは、真島吾朗美化委員会としての使命感(笑)からだけではなく、そんな考えからでもありました。
何というか、哀しい女性だなと思ったのです。素直な意味でも皮肉な意味でも(笑)。