夢の貌 ― ゆめのかたち ― 20




公園の土管の中で夜を明かし、朝になると、真島は家に帰った。
昨夜は着の身着のままで飛び出して来たから、流石にずっとこのままでいる訳にはいかないし、美麗もきっともういない筈だった。
家に帰ると、思った通り美麗はいなかったが、昨夜荒れた食卓が綺麗に片付いていた。てっきりそのままだと思っていたから、これには少しだけ意表を突かれたが、しかし真島の気持ちが動くまでには遠く及ばなかった。
冷蔵庫を開けてみると、昨夜の難を逃れた料理が残っていて、今ならまだ食べられるだろうが、真島にとってはもうゴミだった。
真島はゴミ袋を取り出して、冷蔵庫の中の物を全て放り込んだ。昨夜の料理も器ごと、買ったばかりの食材や調味料もそのまま、良く冷えた缶ビールさえも全てシンクに流した。朝飯どころか、この部屋で何か飲み食いする事はもう二度と無いからだ。
冷蔵庫の中を空にすると、真島はダイニングを出て風呂場に行った。
洗面台の鏡に映る自分をふと見ると、Tシャツの襟元が伸びていて、頬に細い引っ掻き傷が何本か付いていた。情けない面を長々と見ていたくもなく、真島はさっさと服を脱ぎ、シャワーを浴び始めた。
自分の気持ちをしっかりと見つめ直して再考する為の時間はその間で十分だったし、それをしたところで気持ちや考えに変化も生じなかった。

シャワーを浴び、髭を当たって歯を磨き終えると、真島は脱いだ衣服や使ったタオルもさっきのゴミ袋にぶち込んで、寝室に行った。
下着と靴下を履き、クローゼットから適当なシャツとスラックス、それにボストンバッグを取り出して、服を着終わると、バッグに当座の荷物を詰めていった。
表をうろついている美麗のファンやゴシップ記者達の注意を惹かない為に、暫く着用を控えていたトレードマークのヘビ柄ジャケットと黒の革パンツ、黒革の手袋と眼帯、少しの寝間着と下着と靴下、それに手帳と貴重品。取り敢えずはこれだけを持ち出し、他の物はまた後日に片付ける事にした。
そう言えば、金は幾ら残っているだろうか?ふと気になり、真島は金庫を開けた。
この金庫には夫婦の生活費などの個人的な支出の為の金を入れてあり、残りが少なくなれば真島が適当に補充するようにしていたのだが、つい先日足しておいたばかりの百万の中から半分程が消えていた。
それを高いとも安いとも思わなかったし、惜しくもなかった。美麗はギャラが入ったら返すと言ったが、別に受け取る気も無かった。

そのまま金庫の扉を閉めると、真島は何となく部屋を見回し、溜息を吐いた。
昨夜は心に嵐が吹き荒んでいたのに、今は不思議と落ち着いていて、美麗に対しての怒りや憎しみが引いていた。
そうかと言って、許せた訳ではない。むしろその逆だった。
昨夜のあの瞬間まで、これから本当の夫婦としてちゃんと向き合っていこうなどと寝ぼけた事を考えていた甘っちょろい自分が、そして、たったの一晩でコロリと掌を返したように冷めきっている自分が、今はちゃんちゃら可笑しかった。

砂漠の蜃気楼のように、何もかもが幻だったのだ。
夫婦の愛の巣とやらも、意外とうまく回っていた結婚生活も、美麗への愛情も。
何もかも全て、自分がそうだと思い込んでいただけなのだと気付いたら、まるで夢から醒めたように全てが消えて、何の執着も無くなった。
後はただ粛々と、この幻の残骸の後始末をするだけだ。
時間は掛けたくないから、これからすぐ行動に移していかなければならない。ここで後悔を噛み締めている暇も惜しかった。
真島はサングラスをかけ、ボストンバッグとゴミ袋を手に、振り返る事なく部屋を出て行った。













それからの1週間、真島はビジネスホテルで寝泊まりしながら、するべき事だけを淡々とこなした。つまり、いつもの通りシノギに奔走し、嶋野組若頭としての役目をこなし、そしてその合間を縫って、人知れず新しい生活の為の準備を整えていったのである。
新しく借りた部屋は、以前住んでいた所とは東西逆方向にはなるものの、神室町のすぐ側にあった。1階に飲み屋のテナントが入っている、ちょっと古くて何となく煤けた印象の狭小マンションで、当然、セキュリティ対策のセの字もない。だが、その古くて小汚い感じが何だか妙にホッとして気に入り、そこに決めたのだった。
不動産屋に1日も早い入居を要求して、何とか月が変わる前にその部屋の鍵を受け取った翌朝、真島は1週間ぶりに美麗と暮らしていた部屋に出向いた。
見た感じ、部屋の中は先週出て来た時と何も変わっていなかった。
冷蔵庫の中は空っぽのまま、ゴミ箱にも新たなゴミは増えていない。多分この1週間も、美麗はろくに帰らなかったのだろう。いや、もしかしたら全く帰っておらず、真島が家を出ていた事にも気付いていないかも知れなかった。
真島はシャツの袖を肘まで捲り上げて、まずは窓を開け、湿気が籠ってどんよりとした部屋の空気を入れ替えた。まだ梅雨は明けていないが、今日は何とか天気が持ちそうで、絶好の、とは言わないまでも、引っ越しするには比較的良い日和だった。
だがその前に、先にやっておかなければならない事があった。
午前9時過ぎ、果たして美麗は今どこにいるだろうか?
真島は受話器を取り上げ、美麗のポケベルにメッセージを送った。『70449106(704・至急TEL)』、初めて送るメッセージだが、ちゃんと伝わる筈だった。尤も、もしこれでこちらの作業が終わるまでに連絡が来なければ、上階の部屋にでも事務所にでも押しかけるつもりではあるが。
ともかく、ひとまずは電話が鳴るのを待つ事にして、真島は荷造りを始めた。
といっても、衣類や装飾品、靴ぐらいのもので、他は家具・家電から使いかけのトイレットペーパーに至るまで全てここに置いて行き、業者に処分して貰う予定だった。
僅か半年程の間に2度も引っ越しをして、その度に全てを一掃・一新するなんて馬鹿げた無駄遣いと言えばそうなのだが、馬鹿げた事をしでかした代償だと思えばそれも妥当であるし、何より、家中の物を選別・梱包・搬出するなんて面倒で仕方がない。それに費やす時間の方が余程貴重だった。
真島はクローゼットを開け、必要な物を持参した段ボール箱に詰め始めた。
その途端、思いのほか早く電話が鳴った。


「もしもし?」
『あたし。至急って一体何の用?』

電話の向こうの美麗の声は、相変わらず素っ気無かった。
先日の事などもう何とも思っていないかのように聞こえたが、しかし、別に今更どうこう思って欲しい訳でもない。
反省や謝罪の言葉を聞きたくて、連絡を求めたのではないのだ。


「話がある。お前今日いつ帰って来れる?」
『今日じゃなきゃ駄目なの?』
「帰って来る暇無いんやったら、俺の方からどこへでも出向いたるで。」

そう返すと、電話の向こうで美麗が溜息を吐くのが聞こえた。


『・・・・今日はお昼の2時頃で一区切りつく事になってる。だから、多分3時頃には帰れると思う。でも長くはいられないわ、抜けてくるだけ。精々1〜2時間位しかいられないから。』
「そんで十分や。ほな部屋で待ってる。3時より遅なりそうなら、また連絡せぇ。連絡なく帰って来ぇへんかったら、事務所の方に話通しに行くからそのつもりでな。」
『分かってるわよ。』

美麗は不愛想に返事をし、それとほぼ同時に電話を切ってしまった。
真島も受話器を置くと、中断していた作業を再開した。
つい半年程前にも同じ作業をしたばかりだから、選別する物など殆ど無い。捨てるべき物は前回で捨てており、今ここにある物は、必要な物か捨てられない物かのどちらかだった。
その中には、蒼天堀にいた頃の僅かばかりの思い出の品と、過去にからプレゼントされた物も含まれていた。
蒼天堀の思い出の品は、情が籠ってしまって何となく取ってあるだけだが、からプレゼントされたスーツやベルト、財布、時計、そしてライターは、ずっと使い続けていたから今や実用品、それも必需品の域に入っていた。
持って行く物としてそれらをまとめてしまってから、真島は次に箪笥を開けた。
この中に入っている衣類も全部持って行くつもりでゴッソリと抜き出すと、中身が無くなった引き出しの隅に、すっかり忘れていた指輪の小箱がポツンと残っていた。
真島はそれを取り上げて包装を解き、箱を開けた。
紺色のベルベットの宝石箱に納まっている大小ペアのリングを見ていると、改めて己の浅はかさを知らしめられた気がして、乾いた笑いが洩れた。
こんな物を交わした途端に本物の夫婦になれるのなら、世の中の夫婦は皆最期まで添い遂げている。何より一番大事な、肝心要となるものをお互い持ち合わせていなかったのに、形ばかりを幾ら作って整えたところでうまくいく訳がない。
もし今回の事が無くても、きっと早晩自分達は駄目になっていただろうと、今は心底思えてならなかった。

クローゼットと箪笥が空になると、次は棚だった。
棚にしまってある雑貨類も基本的にはこのまま持って行く物ばかりなのだが、それらをゴッソリと抜き出す前に、真島はそこからCDを3枚と薄い封筒を1通取り出した。
CDはこれまで発売された『REMI』のシングルとアルバムで、封筒の中身はいつぞや撮って貰った勝矢と美麗と3人での写真だった。
真島はそれらを束の間眺めてから、ゴミ袋に入れた。
本当は同じ写真がもう1枚、写真立てに入ってこの部屋のダイニングに飾られているのだが、それは美麗の分だから、勝手に処分する事はやめておいた。
勝矢への報告をどうするかは、まだ考えていなかった。
大阪へ移って行ってから以降、勝矢はリハビリと逢坂興業での仕事と芸能事務所設立に向けての準備の為に多忙を極めていて、ここ暫くは全く連絡を取り合っていないが、いずれは何かのタイミングで報告しなければならないだろうし、その前に美麗が先に言うかも知れない。
何にしろ、知った時に勝矢がどう判断するか、真島としては只それを受け入れるしかなかった。たとえ今度こそ勝矢との友情が終わる事になったとしても。
もしも彼に、人の気持ちも考えずに手前勝手な事ばかりする最低な男だといよいよ軽蔑されるとしても、それでも真島にはもう美麗との結婚生活を続けていく事は出来なかった。
愛しても、愛されてもいない女と、この先一生夫婦として生きていく事など。

恩どころか愛も無い女だった。
目的の為には手段を選ばず、どんな犠牲も厭わない、恐ろしい女だった。
あれだけの事が出来る女ならば、もうこんな男の支えなど必要無いだろう。
夢も、気持ちも、何一つ理解出来ないこんな馬鹿な男は、むしろ側にいるだけ邪魔になる。
だから綺麗さっぱり目の前から消えてやろう。
真島はそう自嘲しながら、指輪の入った宝石箱もゴミ袋に放り込もうとして、ふとその手を止めた。


― 邪魔になる・・・・か・・・・

同じ事を言って、自ら去っていった女の顔が、真島の脳裏に浮かんだ。
今はもう、気持ちはすっかり変わってしまっているだろう。
だがあの時の彼女は、は、真剣にそう思ってくれていた。
この愚かな男の夢を、悲願を、自分のそれと同じ位に大切に思って、尊重して、それ故に去っていったのだ。
同じ事を思ってはいても、その意味合いが全く違う。
あの時のの気持ちを今更ながらに慮ると、何もかも美麗だけが悪かったのか、自分には本当に非は無かったのか、次第に自分でも分からなくなってきた。


「俺はどうしたら良かったんやろうなぁ、・・・・・・」

こんな事、訊けた義理ではないし、訊く機会も永遠に無い。
それでも、指輪の箱を握り締めたまま、真島は思い出の中のに問いかけずにはいられなかった。
















荷造りが終わってもまだ時間がたっぷりあったので、荷物を新居に運び込み、昼食を済ませてから、真島は時間を見計らって改めて出直し、美麗の帰りを待った。
美麗が帰って来たのは、電話で言っていた通り、午後3時頃だった。
玄関の鍵とドアの開く音がした後、少ししてダイニングに入って来た彼女は、今日はまるで男のような格好をしていて、ダイニングセットの椅子に腰掛けている真島の顔をチラリと一瞥すると、目深に被っていたキャップとサングラスを取った。


「・・・・今までどこ行ってたの?」

美麗は真島を冷ややかな目で見据えながら、開口一番そう訊いた。
初めて女房らしい事を言ったのがよりにもよって今かと思うと可笑しくて、真島は思わず鼻を鳴らした。


「何や、俺がおらんかったん知っとったんか。てっきり気ィ付いてへんと思っとったわ。」
「連絡も無しに1週間もどこにいたのよ?」
「ホンマに知りたいんか?お前そんなに俺に興味あったか?」

真島がそう訊き返すと、美麗は呆れたような溜息を吐いて、真島の向かい側の椅子に座った。


「で、何?話って。」

その平然とした顔は、芝居なのか本心なのか。どちらにせよ、テーブルの上の物は目に入っている筈なのだから、何となく察しもついている筈だった。
真島は自分の傍らに置いていた封筒を手に取り、中の書類をテーブルの上に広げた。


「離婚してくれ。」

まずは一言、結論だけを率直に言い放ってから、続いてペンと印鑑も差し出した。


「今ここでこれにサインせぇ。この後すぐ役所へ出しに行くから。」
「・・・随分勝手なのね。」

美麗は落ち着き払った態度で、非難するような眼差しを真島に向けた。
本当につくづく大した根性だと半分本気で感心しながら、真島は美麗の言い分を軽く一笑に付した。


「お前に言われたら世話ないわ。勝手はお互い様やろ。」
「嫌だって言ったら?」
「そしたら出るとこ出るしかないわな。俺は別にそれでも構へんけど、お前はええんか?今をときめく人気アイドルの『REMI』が、ヤクザの亭主から離婚裁判起こされたなんて知れたら、どえらい事になるんとちゃうんか?」

大人げないと責められようが、薄情だと泣かれようが、一歩も退く気は無い。
そんな真島の意思を感じ取ったのか、美麗は責めるようなその眼差しを伏せて微かに笑った。


「・・・・フフッ、流石プロね。脅しはお手のものってわけ?」
「お前の出方によっては、只の脅しやなくなるぞ。」
「あたしの事に対して全責任を負うって約束したの、たった半年前よ?
あたしの里親にだって同じ事を約束したじゃない。その約束まで破る気?
あたしは吾朗さんとの約束、ちゃんと全部守ってるのに。」

減らず口を叩くなと怒鳴りそうになるのを、真島はどうにか堪えた。
美麗の言う事それ自体は、確かに本当の事だからだ。


「嶋野さんに挨拶もしたし、猛君の養育費だって、とやかく言った事なんか一度も無いわ。ちゃんと理解して、吾朗さんの思う通りにさせてあげてたじゃない。
吾朗さんが言ったのよ?その2つ以外には、あたしに対して何も求めないって。
あたしはあたしの夢を叶える事に専念したらいい、俺がそれを支えてやるって。」

勝ち誇ったように取り澄ましているその小奇麗な顔が、心底憎らしかった。
この顔を見るのは何が何でも今日で最後にしたい、そう思うと、この間のようにまたその顔を張り飛ばしそうになる衝動を抑える事が出来た。


「・・・・状況っちゅうのは変わっていくもんや。現にお前もいざデビューしてみたら、地道なレッスンの積み重ねだけではあかん事に気ィ付いて、売れる為に誰彼構わず股開いたんやろ?」

皮肉を飛ばして嘲笑ってやると、ツンと澄ましていた美麗の顔が、負けを認めたように険しくなった。


「今のお前に、俺はもう必要無い。こないだお前が言うた通り、今のお前の成功は、お前の努力と苦労の結晶や。
確かに俺は、お前の夢の事をなーんも分かっとらんかった。分かってるつもりになってただけで、実際には何一つ理解してへんかった。
こんな男が側にへばりついとっても、お前にとって何の役にも立たん。むしろおるだけ邪魔になる。お前の夢の妨げになる。」

険しい顔を凍りつかせている美麗に、真島は淡々とそう告げた。


「夢に対するお前の情熱・・・、いや、『執念』と言うた方が合うてるやろな。
それを理解して受け入れる器なんかあらへんかったのに、俺ならお前を支えて夢を叶えさせてやれると思っとった。自分を買い被っとったんや。そもそもが考え違いやったんや。」
「考え違い・・・・?」
「ああ。」

美麗を許した訳ではない。むしろ許せる日などきっと一生来ないだろう。
だが、よくよく考えてみれば、破局の原因は美麗だけにあるのではなかった。
ちゃんと向き合った事が無く、朴美麗という女の事を何も理解していなかったのに、この娘には俺しかいないと勝手に決め付けていた己のその傲慢で浅はかな考えが全ての発端、そもそもの間違いだったのだ。
それは愛でも情でもなく、只の庇護欲、己の心を満たしたいという欲望に過ぎなかったのに。


「俺の荷物はもう全部運び出した。この部屋は来月末で引き払う。そん時にここに残ってるもんも全部業者に処分して貰う事になっとる。そやからそれまでに、お前も自分の要るもん全部上の部屋に運んどけ。それと、金庫の中の金もな。」
「お金・・・・?」
「これも確かにお前の言う通り、約束破ったんはあくまでも俺の方や。それもたった半年やそこらでな。それに対する慰謝料・・・、とでも思ってくれや。手術代も別に返さんでええ。それも込みや。」
「・・・・慰謝料?手切れ金の間違いでしょ?」
「何とでも思えや。額に不服があるんなら、出るとこ出て話つけようやないか。
何やったら里親にも出て来てもろたらええ。全部まとめて受けて立ったるわ。」

その庇護欲は、今はもうすっかり消失していた。
金を渡すのは、それが己のつけるべき『けじめ』だからであって、美麗の今後の生活を心配してやるつもりは一切無かった。
後は美麗がどう出るか、その反応を待っていると、やがて美麗は強張っていたその表情を幾らか和らげた。


「・・・・フフッ、別に不服なんか無いわよ。」

美麗は微かに笑ってテーブルの上の書類、即ち離婚届を、自分の手元に引き寄せた。
大半はもう既に記入済で、残す所は妻の欄、美麗が書くべき箇所だけとなっている。真島は無言のまま、改めてペンと印鑑を差し出してやったが、美麗が受け取ったのは印鑑だけだった。


「ペンはいいわ。安物のボールペンって書き難いのよ。一度良い物使っちゃうと駄目ね、もうレベルを落とせなくなっちゃう。まあ、ペンに限った話じゃないけど。」

美麗は自分のバッグから万年筆を取り出し、それで離婚届を書き始めた。
その万年筆が何なのか、勿論忘れてはいない。だが、何のつもりかなんて、もう考える気にもならなかった。
当て擦りだろうが情に訴えかけているのだろうがどうでも良かったし、案外美麗の方も同じ気持ちで、ただ単純に言葉通りなのかも知れなかった。
そう思える位、美麗は取り乱したり渋る様子を全く見せず、記入から捺印に至るまで終始落ち着いていて、事は実にスムーズに運んだ。


「これで良い?」
「ああ。」

離婚届の書面に並んだ二人の名前を、真島は暫し見つめた。
僅か半年程度の結婚生活、交際期間を含めても、1年ともたなかった。
様々な事が立て続けに起こっては一瞬で過ぎていった、目まぐるしい嵐のような期間だった。
それに翻弄される日々も、これで終わり。
思い返せば悪い事ばかりではなかったけれども、寂しさや懐かしさよりも、解放感や安堵感の方が遥かに大きかった。
己の心に蓋をして、見て見ぬふりをして、己を欺き続ける辛さからこれでようやく解放される、そう思うと、背負っていた重荷が取れたような清々しささえ感じていた。
真島は離婚届を元通りに折り畳んで封筒にしまい、ペンや印鑑と共にバッグに入れてから、それを手に立ち上がった。


「ほな、今から役所に出してくるわ。もうお前とは二度と会う事も無いが、せいぜい達者でな。」

最後にそう言い置いて、真島は部屋を出て行こうとした。


「・・・・あの人の所に戻るの?」

だが突然、真島の背中に美麗の淡々とした声が投げかけられた。


「あたしと別れて、あの人の所に戻るの?」

は今、どうしているだろうか?
もうすぐ1歳になる猛は、どれくらい成長しているだろうか?
遠く離れてしまった二人を想って、真島は薄く笑った。


「何や、やきもちかいな?今更しょうもない事すんなや。」
「誤魔化さなくて良いのよ。別に止めるつもりも無いし。だって最初から分かってたもの。吾朗さんが愛してるのは、あたしじゃなくてあの人だって。」

美麗のその言葉に、余裕めかした笑みはすぐに消えた。


「今回の事だけじゃないわ。吾朗さんは最初から、いつだって、あたしにあの人を重ねてた。
あなた結局、あの人の事を諦めきれてなかっただけよ。
あの人と作る筈だった温かい家庭を、諦めきれてなかっただけ。」

そう、その通りだった。結局、最初から最後までずっと。


「吾朗さん、あたしの夢を叶えてやる為に結婚したみたいに言うけど、違うわ。
自分だってあたしを利用してたじゃない。あの人と別れた寂しさや悲しみを、あたしで埋めようとしてたじゃない。
本当は自分でも分かってるくせに、何もかもあたしのせいにしないでよ。素直に全部認めなさいよ。」

だが、それを認めたとして、どうなるというのだろう?
俺が間違っていた、美麗とはもう別れた、やっぱりお前ともう一度やり直したい、そう言い寄っていったとして、それを言われた方は一体どういう気持ちになるか。


「・・・・もう全部終わった事や。何もかもな。」

もうこれ以上、他の誰かを己の人生に巻き込んではいけない。
それをしても、己自身を含めて誰も幸せにはなれない。
見据えるべき目標は、進むべき道は、やはり一つしかないのだ。


「俺はこれから自分の組を旗揚げする。後ろを振り返ってる暇は無い。」

真島は美麗に背を向けたままそう告げて、束の間暮らした張りぼての『愛の巣』から去って行った。

















1993年7月某日、今日は毎月定例の東城会幹部会の日だった。
直系嶋野組組長・嶋野太は今日も当然出席しており、若頭である真島もまた当然の如く、お供として東城会本部に来ていた。
今日この日は、真島にとって勝負の日だった。やると腹を括ってから、この日が来るのを指折り数えて待っていたのだ。
幹部会の終了予定時刻が迫ってくると、真島はトイレへ行くふりで待機場所のロビーを離れ、人目につかないように会長の控室を目指した。今年になって東城会三代目会長を襲名した、世良勝に接触を図る為である。まだ幹部連中が広間から出て来ておらず、警備が手薄になっている今が、忍び込むには絶好のタイミングだった。
周囲に誰もいない事を確認すると、真島は素早く控室に忍び込んだ。ここであと数分ばかり待てば、会議を終えた世良が一人で入って来る筈だった。単なる性分か、それとも己の強さに余程の自信があるのか、世良はあまり厳重な警備を好まず、警備の奴らは皆ドアの外で待機させられるのが常なのだ。
だが実際、世良はとんでもなく強い。カラの一坪を巡る争いの中で、あの男と戦った時の事を暇潰し代わりに思い出していると、ややあって部屋のドアが開き、世良が入って来た。
少し緊張を解いたような表情で入って来た彼は、真島がいる事に気付くと一瞬僅かに目を見張ってから、すぐに緊張を取り戻した顔になった。


「何だ?こんな所で何をしている?」
「驚かせてえらいすんまへん、三代目。」

真島はまず、世良に向かって頭を下げた。


「悪さする気やありまへん。実は折入って三代目にご相談したい事があって、お待ちしとりました。」
「俺に相談?」

世良はその凛々しい眉を怪訝そうにひそめた。


「それは、お前がという事か?それとも嶋野組として、という意味か?」
「俺個人ですわ。この事はくれぐれも内密にして頂きたい。嶋野の親父には特に。」
「フン・・・、内容は?」
「俺の組の立ち上げ・・・、今はそれだけ言うときます。ここで長々話し込むのは都合悪いですよってに。」

真島が唇を吊り上げてみせると、世良もそれに応えるように、薄い笑みを浮かべた。


「今夜8時、向島の『水月』という料亭に来い。話を聞こう。」
「おおきに。」

話が無事についたのなら、これ以上の長居は無用だった。
そろそろ嶋野もロビーに下りて来ていて、そこにいない真島に苛ついている頃だった。


「ほな俺はこれで。」
「これでって、どうやって出る気だ?ドアの外には警備の連中がいるぞ?」

真島は窓辺に近付いて、そこから外の様子を窺った。
人はおらず、今なら誰にも気付かれずに済みそうだった。


「こっから行きまっさ。すんまへんけど、あと窓だけ閉めといて下さい。」

真島は自分の身幅の分だけ窓を開けると、窓枠にヒョイと登り、世良を振り返った。
そして、呆れた顔をしている彼に向かって、また唇を吊り上げてみせた。


「ほな今夜8時、向島の『スイゲツ』で。失礼します。」

そこからヒラリと飛び下りて、真島はまた館内へと小走りに駆け戻って行った。












その夜、真島は世良に指定された向島の水月という料亭に出向いた。
彼とサシで関わったのは5年前、カラの一坪を巡ったあの抗争の折だけで、それから以降はほぼ会う事も無く、偶に本部で顔を合わせても挨拶のみという状態だった。
だからきっと訝しがられているだろう。いや、警戒されていてもおかしくない。真島自身、こんな事をしようとはつい最近まで全く考えてもいなかったのだ。
しかし、己の道を突き進むしかなくなった今、もうなりふり構ってはいられなかった。
『夢』というのは『欲望』をただ綺麗に飾り立てただけ、綺麗事だけでは叶えられない。どうしてもそれを諦められないのならば、裏切りだろうが反逆だろうがやるしかないのだ。俺にはもう、これしかないのだから。
真島は改めて覚悟を決めて、世良がいる座敷の襖を開けた。


「来たか。時間通りだな。」

既に寛いだ様子で一服していた世良は、真島に目を向けると薄く笑った。


「まあ座れ。まずは一杯やろうじゃないか。」
「失礼します。」

世良に誘われるまま、真島は座敷に上がり、彼の差し向かいに腰を下ろした。
それを見計らったかのような絶妙なタイミングで、酒と料理の膳が運ばれてきた。
手際良く配膳を済ませて店の仲居が出て行くと、世良は徳利を取り上げた。
真島は頂きますと頭を下げ、傍らの盃を手に取り、世良の酌を受けた。そしてそれを一息で飲み干してから、世良に酌を返した。
お互いに一杯ずつの酒で口を湿らせると、世良は探るような視線を真島に向けた。


「それで?お前が組を立ち上げるに当たって、俺に一体何を相談しようというんだ?」
「口添えをして貰いたいんですわ。三代目の口添えがあれば、親父も認めるしかなくなる。」
「そんな筋違いの頼み事をしてまで、何故自分の組を持ちたい?」
「俺の夢の為・・・・、いや、『欲』の為や。」

真島はその視線を真正面から受け止めて、そう答えた。


「俺は何が何でも東城会でのし上がる。あの殺しても死なん親父がおらんようになるのを長々と待ってなんかおられへんし、何より、『嶋野』の名ではあかんのや。
俺のこの名前・・・、『真島』の名を冠したどデカい組を、東城会の中にブッ建てたる、俺はずっとそう考えてきたんや。」

それを聞き終わると、世良は静かに笑った。


「・・・・フフフッ、威勢の良いこった。個人的には嫌いじゃねぇぜ、お前のような野心にギラついた気骨のある奴は。それでこそ極道だ。
だがな、生憎と俺がお前のその頼みを聞く筋は無ぇんだ。残念だが他の方法を考えるんだな。」

手酌で二杯目の酒を注ぐ世良を、真島はじっと見据えた。


「・・・・そうやろか?ホンマにそない思とったら、アンタは今日、俺をここへ呼んでへん。多少なりとも話聞く気はある筈や。もうちょっと詳しい話をな。」

世良は何も答えず、ただ静かな笑みを湛えて盃を傾けた。
その様子は、話の続きを促していると受け取って間違いないようだった。


「親父は今また、近江との新たな繋がりを作っていってる。」
「・・・どういう事だ?」
「例のカラの一坪の件・・・、あの時に損のうた近江の信用を回復させようっちゅう腹や。向こうのある組と手ェ組んで、関西で水商売のシノギを大々的にやっとる。
今んとこ着々と店舗数も増えて、順調に回っとるみたいやで。あちらさんのご機嫌も、ボチボチ良うなってきた頃とちゃうか?」

カラの一坪を奪い合ったあの抗争を、世良が忘れている筈は無かった。
あの時に嶋野が密かに近江連合と結託し、東城会の乗っ取りを企てていた事を。


「他人事みたいな口ぶりだが、お前は噛んでないのか?」
「俺はノータッチや。気ィ乗らんかったから断った。」
「ほう?」
「そやけど、順調に回してどんどん手ェ広げていけとんのは、そんだけ商売のアガリがデカいからやない。親父が組の金を派手に注ぎ込んどるからや。
ほんでその金の大半は、俺の稼ぎから出とる。俺が嶋野組の稼ぎ頭やっちゅうのは、アンタの耳にも届いとるやろ?
俺がこのまま嶋野組に縛り付けられて稼ぎを吸い取られっぱなしやったら、親父は益々肥え太り、近江との繋がりもどんどん太く強くなっていく。
そうしたら、いつまた5年前のような事が起きるとも限らんし、次も阻止できるとも限らん。」

あの時それを水際で阻んだのは、他ならぬ真島自身と、この世良だった。
無論、そうしようと思ってした訳ではない。それこそそんな筋合いは無かったが、図らずもそうなっただけだった。
だから、次にまた嶋野が己の野望に動き出せば、その時はどうなるか分からない。
嶋野の謀略が己の邪魔になるものでなければ、子分である真島にそれを阻む理由は無く、むしろその成功の為に尽力せねばならないのだから。


「・・・・フフ、親を売る気か?益々良い度胸だ。」
「滅相も無い。売る気やったら相手の組の名前も出しとるわ。」
「よく言うぜ。そんなもん、そこまでの話を聞きゃあ、ちょっと調べればすぐに分かる事だ。」

そんな事を、東城会の三代目ともあろう漢が分からない筈はない。
不穏な企みを隠し持つ大幹部の首根っこをそれとなく押さえて勢力が肥大していくのを防ぐ事と、一介の中堅どころに過ぎない極道にささやかな独り立ちの機会を与えてやる事、それを比べての損得勘定が出来ない筈がない。
涼やかな笑みを浮かべている世良をじっと見つめ、返答を待っていると、やがて世良は徳利を取り上げ、真島に2度目の酌をした。


「・・・・・今の東城会は些か齢を取り過ぎている。古参の幹部共が道を譲らず、いつまでも幅を利かせているせいでな。
無論、それが100%悪い事だとは言わねぇ。連中にはそれだけ、長い時間を掛けて築き上げてきたものがある。
だがそうかと言って、それにしがみ付いているだけでは先細っていくばかりだ。
どれだけ凄まじい伝説を築き上げようとも、人間誰しも老いには勝てねぇ。1人、2人と消えていく一方だ。朽ちかけた老木だらけの森と同じで、遠からずの内に枯れ果ててしまう。
その時に若い『木』が育っていなけりゃ、その『森』はどうなる?」

真島の頭に真っ先に浮かんできたのは、堂島組の組長・堂島宗兵の顔だった。
カラの一坪を巡る抗争で失脚したあの男は今、まさしく朽ちかけた老木と形容するに相応しい状態だった。
力を失ってしまった事から目を逸らし、何かにつけて過去の栄光にしがみ付いては虚勢を張るばかりで、その無様な事と言ったら、見ている傍の方が惨めな気持ちになる位だった。


「俺が37歳という異例の若さで三代目を襲名したのは、その懸念ゆえだ。二井原代行も同じ事を危惧しておられた。
このままだと、東城会に未来は無い。今の東城会には何よりも、新たな伝説、新たな歴史を作っていける若い力が必要だ。」
「新たな伝説、新たな歴史・・・・・」
「・・・と、丁度俺も考えていたところなんだ。」

世良は不意に、不敵な笑みを見せた。


「それをどう形にしていこうか悩んでいたんだが、お前のお陰で良い考えを思い付いた。
なるほど、傘下組織の拡充なぁ。なかなか良い案だ。
見所のある『若木』は嶋野の狂犬だけじゃない。そいつ等が一人でも多く育つように土壌を整えてやるのも、三代目会長としての俺の仕事だろうな。」

世良のその返答は、真島にとって非常に望ましいものだった。
注がれた酒を再び一息で飲み干してから、真島もまた世良に酌を返した。


「・・・おおきに。三代目のご期待に必ず応えてみせますわ。」
「フッ・・・、期待しているぞ、真島。」

相手も極道、それも天下の東城会の三代目。
こんな口約束だけで己の望みが叶ったと喜ぶのはまだ早いが、少なくともこの漢が見据えているものは、真島の目にも見えていた。















世良の行動は早かった。あの料亭での密談から2週間ばかりが過ぎた頃、次回の幹部会に真島を出席させろという本部からの通達が、組に届いたのである。
東城会の勢力を拡大する為に傘下組織の拡充を考えており、直系組織の若頭の中から目ぼしい者を募って、幹部会という公の場で本人と直系幹部達の意向を問うというのがその名分だったが、真島には世良が自分の頼みを聞いてくれたのだと思えていた。
無論、彼にとっては、三代目会長として己の考えを形にしていく事や、信用の置けない嶋野を抑え込む事が重要なのだろうが、世良にどんな考えがあろうが、真島は己の組さえ立ち上げる事が出来ればそれで良かった。
そして、1993年8月のこの日、真島は初めて東城会幹部会に出席したのだった。


「さて今回は、傘下組織の拡充について話し合いたいと思う。
近年の東城会の勢力は、衰えてきているとまでは言わないにしろ、伸び悩みが見え始めている。調べてみたところ、その原因の1つとして、新たな組の立ち上げが減ってきている事が分かった。」

幹部席に威風堂々と腰掛けている直系組長達と、その背後に立ち控えているそれぞれの組の若頭達を前に、世良は良く通る明瞭な声で話し始めた。


「東城会の屋台骨を直接支えているのは無論、各々がたの構えておられる直系二次団体だが、三次や四次といった傘下組織の数もまた必要不可欠なものだ。
裾野が広がらないピラミッドは、どうしたってこじんまりと小さくなっていく。
それではいずれ、西の近江連合に押し負けて呑まれてしまう日が来る。5年前にはまだ何とか食い止める事が出来たがな。」

世良のその一言は、明らかに嶋野に対する牽制だった。
きっと不快に思って機嫌を悪くしているだろう。今日も今日とて綺麗に剃り上がっている嶋野の後頭部を何とはなしに見つめながら、真島はそんな事を考えた。


「そこで今日は、各々がたの組の中から、こちらにも評判が聞こえてきている有望な若い者を連れて来て貰った。
事前に書面で通達した通り、傘下組織の立ち上げについて、本人と各々がたの意向を今この場で聞いた上で、1つでも多く新しい組を立ち上げていきたいと思う。
ではまず、堂島組から。」

堂島組の組長・堂島宗兵の後ろには、他の組とは違って二人の漢が立っていた。
一人は風間組組長・風間新太郎。
そしてもう一人は風間組の若頭・柏木修だった。


「各々がたも良くご存知の通り、堂島組は既に幾つもの傘下組織を抱えていて、それ単体でもかなりの規模を誇っている組もある。
そこで、この堂島組に限っての特例として、今回は堂島組傘下組織のトップである風間組の若頭、柏木修を連れて来て貰った。」

会長席のすぐ手前に座っている堂島の横顔には、堪え切れない屈辱感が滲み出ていた。
ピラミッドの構図としてはあくまで堂島組の下に位置しているが、今や風間組は堂島組の中枢、実質的な力関係は完全に逆転している。稼ぐ金の額においても、そして組長の器においても。
それは誰も表立って口にこそ出さないが、堂島本人も含めた周知の事実だった。


「この柏木はすこぶる評判の良い男だ。信用の置けるその人柄で組の内外問わず人望を集めていて、シノギの実績も十分ある。おまけに腕も相当立つ。
どうだ、柏木?お前は自分の組を持つ気は無いのか?お前なら十分に組の頭を張っていけると思うが?」

この場にいる全員の視線を一身に受けた柏木は、眉一つ動かさず平然とした表情のまま、一歩前に出て礼儀正しく頭を下げた。


「有り難うございます。三代目にそう仰って頂けるのは身に余る光栄です。
ですが、俺は自分の組を持とうとは考えていません。
俺は風間の親父に心底惚れ込んで極道になり、親父の力になりたい一心で今日までやってきました。そしてこれからも、その気持ちは変わりません。
折角勿体無いお声掛けを頂きましたが、謹んでご辞退申し上げます。」

柏木がもう一度深々と頭を下げると、誰からともなく拍手と感嘆が湧き起こった。
しかし当の柏木はそれを他所に、俺の出番はもう済んだとばかり、元の通りに一歩下がった。
真島は少しだけ彼の方に顔を向けて、ほんの僅かに唇を吊り上げてみせた。
すると柏木も真島を見て、同じように微かな笑みを浮かべた。


「ううむ・・・、流石は風間組の柏木だ。つくづく風間さんが羨ましいよ。」
「全くだ。どーしてウチにはこういう奴がいないのかねぇ。」
「そりゃ組長がオメーだからだよ。」
「何だとぉ!?どーいう意味だそりゃあ!」

周囲の羨望の声や軽口を治めるかのように、風間は静かな笑みを湛えて口を開いた。


「三代目、並びに皆様方のお心遣いに感謝致します。
生憎うちの柏木は、お聞きの通り些か野心というものに欠ける奴で、折角のご厚意に応える事が出来ませんでしたが、若い力を育てたいという三代目のお考えには、私も全面的に同意しております。
今回は残念ながらここに来られませんでしたが、先の楽しみな若い連中は他にもまだまだいる。そういう奴等を一人でも多く育てていけるよう、及ばずながら私も尽力する所存です。」

再び拍手の嵐が湧き起こり、堂島の横顔がまた引き攣るのが見えた。
だがそれに気付いている者は、いや、気に掛けている者は、この場には只の一人もいなかった。


「では次、〇〇組の若頭の□□だ。この男も若くてシノギの才覚に定評がある。どうだろうか?」
「へいっ!ありがとうございます!俺は・・」

負け犬は置き去りのまま、話はテンポ良く進んでいった。
喜び勇んで受ける者、柏木のように固辞する者、様々だったが、やはり受ける者の方が多かった。それだけ独立のチャンスを求めていた者が多いという事なのだろう。一人一人の反応を見届けながら、真島はひたすらに己の番を待ち続けた。


「では次、嶋野組の若頭、真島吾朗。」

やがて、遂に真島の番が回ってきた。
昂る心をどうにか抑えながら、真島は一歩前に出て、周囲から湧き起こるざわめきを黙って聞いていた。


「嶋野の狂犬・・・、この名を知らない奴は東城会にはいないだろう。
化け物みたいな腕っぷしの強さと常人離れした度胸、そして類まれな商才を併せ持つ、一級品の極道だ。流石、嶋野組の若頭を張るだけの事はある。」

少々わざとらしく誉めそやすと、世良はその鋭い眼差しで真島を見た。


「この男なら東城会の裾野を存分に広げていってくれると俺は思うのだが、各々がたはどうだろうか?」

幹部連中の視線が、一斉に嶋野へと向けられた。
他の組ならいざ知らず、東城会で一二を争う武闘派組織の頭に迂闊な事は言えないと、誰も彼もが恐々と様子を窺っているのが手に取るように分かった。


「・・・・同感だ。俺もそう思う。」

口火を切ったのは、意外な人物だった。


「そいつの肝の据わりっぷりは半端じゃねぇ、この俺が請け合う。そのうち親をも凌ぐ器になるんじゃねぇか?なあ、嶋野。」

仏頂面でそう呟く堂島の顔を、真島はじっと見つめた。
5年前、命を取りに来た奴の事を何故擁立するのだろうかと最初は驚いたが、少し考えればこの男の魂胆は窺い知れた。
堂島はきっと気付いているのだ。嶋野が仮にも兄貴分である己を陰で見下し、もはや眼中にも無いほど舐めきっている事に。
そして、無様にも朽ちかけた老木と成り果てた今、この男は己が再びのし上がる事よりも、誰かを妨害する事に執心しているのかも知れない。己が再びのし上がっていく苦労を背負うよりも、誰かの足を引っ張って引き摺り下ろす方が楽だからだ。


「・・・そうだな、俺もそう思う。実際、真島は極道として大した器だ。」
「俺も賛成だ。こいつの二つ名は伊達じゃねぇ。」
「むしろもっと早くに組を立ち上げていたっておかしくなかっただろうよ。」

真島のその考えを裏付けるかのように、堂島に賛同する声が次々と上がり始めた。
きっとどいつもこいつも、多少なりとも嶋野の力を削ぎたいと思っているのだろう。
同じ組織に属しているとはいえ、極道など所詮は皆己の欲と野望に生きる者ばかり。今は味方となってくれているこの連中も、いつまた敵となるか知れたものではない。世良でさえも。


「・・・有り難うございます。東城会の為、三代目や直系組長の皆々様のご期待に沿えるよう、この真島吾朗、全力で突き進んで参ります。」

だが、そんな事は真島にはどうでも良かった。
誰であろうが、敵となるならその時叩き潰すまで。
道を阻む奴は誰だろうと潰し、俺は俺の目指す処へ必ず辿り着いてみせる。
その揺るぎない一念を胸に秘めて、真島は深々と頭を垂れた。

















幹部会が終わると、真島は嶋野と共に嶋野組事務所への帰途に着いた。
運転手の若衆は今日は連れて来ておらず、車のハンドルを握っているのは真島だった。


「・・・・お前もいよいよ組長か」

幹部会の後、ずっと不機嫌な様子で黙り込んでいた嶋野は、間もなく神室町に着くというところで、固く閉ざしていたその口をおもむろに開いた。


「有り難うございます。身の引き締まる思いです。」

真島は視線を真正面に固定したまま、淡々とそう答えた。


「ようやく夢が叶った・・・、っちゅうところか?ああそうや、『夢』言うたらお前の女房のあの韓国娘、えらい人気やないか。ええ?」
「はあ、そうみたいでんな。」
「芸能人になりがってる女なんぞ神室町だけでもウジャウジャおるよってに、正直、あの嬢ちゃんでは鳴かず飛ばずやろと思とったんやけどな。意外な誤算やったわ、まさかあない売れっ子になりよるとはのう。」

さり気なく覗いたバックミラーに映る嶋野の顔には、いつの間にか不穏な笑みが浮かんでいた。


「今や誰でも知ってるその売れっ子アイドルが、まさか極道の女房やなんて、まあ誰も思とらんやろうなぁ。こんな事がもし世間にバレたら、きっとどえらい事になるでぇ。のう?真島ぁ。」

嶋野の含み笑いを聞きながら、真島はあの料亭での世良との会話を思い出していた。


― 俺が思うに、嶋野の奴はお前を恐れている。今までお前の組の立ち上げを頑として許してこなかったのは、恐らくその為だろう。

あの夜、帰る間際に世良はそう言った。
蒼天堀に追放していたお前を再び組に迎え入れた時には、思ったよりも使える手駒に成長したという位にしか思っていなかったのだろうが、そんな嶋野の想像を超える位に、その後のお前が大きくなってしまったのだ、と。


― お前がこれ以上極道として大きくなれば、お前は奴にとって一番の脅威となる。いや実際、今でも既にそうかも知らねぇ。奴にとって、お前はもはや只の子分じゃない、自分を脅かす敵となりつつあるんだろう。

嶋野にとって、自分は何処までいっても飼い犬に過ぎないのだとは前々から思っていた。それ以上の存在にしたくないから、あの人は俺を抑え付けるのだ、と。
それが世良の話で確信を持ち、そして今、真島は嶋野から明らかな敵意を感じ取っていた。
後部座席でほくそ笑んでいる今のこの人は、恩義をもって尽くすべき渡世の親ではなく、真島にとってまごう事なき敵だった。


「・・・・ああ、えらいすんません、親父。」
「あ?」
「言い難いんですけど、実は俺、あの女と別れたんですわ。」

真島は飄々とした口調でそれを告げた。


「・・・・何やと?」

それを聞いた嶋野は、真島の思った通りの反応を示した。


「別れたってお前、そらどういうこっちゃ!?」
「そのまんまですわ。離婚したっちゅう事です。」

唖然としている嶋野の表情をバックミラー越しに確認しつつ、真島は平然とそう答えた。
この人がいずれ美麗の事を何かの切り札に使ってくるであろう事は、最初から想定していた。だから、その切り札に対する切り札として、敢えて離婚の報告をせずにいたのだ。


「離婚てお前、結婚したんついこないだやろが!それが何でまた急に離婚やねん!?」
「それを言われると面目ないですわ。祝いも貰ろてたのにホンマすんません。
せやけど、やっぱり親父の言う通りでしてん。あの女は俺の手には負えませんでしたわ。ちょっと人気が出たからってチヤホヤされてええ気になって、女房のくせして晩飯のひとつも作りよれへんよってに、愛想もクソも尽き果てたんですわ。」

真実をこの人に明かすつもりなど当然無かった。
美麗の事はもはや脅しのネタにはならない、そんな事で脅したところで俺は止まらない、その意志を伝える事さえ出来れば良かった。


「・・・・いつ離婚したんや?」
「もう1ヶ月以上前になりますやろか。色々バタバタしとって報告がすっかり遅れてしまいまして、えらいすんませんでした。」

思惑が外れてまた不機嫌になった嶋野の顔をまたミラー越しに一瞥して、真島は勝利の笑みを人知れず浮かべたのだった。




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後書き

離婚、そして真島組旗揚げへ!の巻でした。

龍オンでチラッと匂わされている指輪について、チラッと文中のように妄想してみました。それは一度も嵌められる事なく、その存在すら知られないままだった・・・、的に。
アイドルの極秘結婚で、指輪なんか当然着けられないからその代わりの万年筆だと思っていたので、まさかの指輪の出現にビックリでしたけどもね(笑)。

そしてその後としましては、

そのまま何となくそこらにしまい込んで、そのまますっかり忘れて月日が流れる

桐生ちゃん出所に際してどこでも真島企画をぶち上げるに当たり、昔の思い出の品を久しぶりに引っ張り出した時に出てきて、「うわこんな所にあったんやコレ、子分らの目に留まらん内にどっか隠さな・・・・!(金庫にin)」

別に全然要らんし捨てても構へんねんけど、でも今すぐ直ちに置き場所に困っている訳じゃないし、どうせやったら売った方がなんぼか金になるし、そうやそうしよ今度えびすやに売りに行くわまたそのうち、とか自分に言い訳してそのまま金庫に入れっぱなし

捨て時を見失ったまま更に月日が過ぎて、龍5のストーリーが発生し、朴社長死亡

指輪があった事をまた思い出していた矢先に、あの龍オンイベントが発生


という感じかなと考えてみました。

未練じゃないけど、でも全然どうでもいいと本心から思っている訳ではなくて、彼女の身になってみたら自分にも非はあったという戒めの気持ちもあるし、何というか、うまく言えないんだけど・・・・・、とにかくおセンチになるんじゃい!!みたいな(笑)。

そしてちょっと落ち着いた頃、四十九日過ぎた頃か春のお彼岸の頃にでも、きちんと処分して、朴社長とちゃんとお別れ出来ていたら良いなと思います。
えびすやに売っ払って金にするんじゃなくて(笑)。
いやでも、それも有りかもしれませんね。
供養代わりに、そのお金を街角で歌っているアイドルとか歌手志望の女の子へのおひねりとして、無造作にポイと入れてくる、とか。


そしてそして、真島組の旗揚げについて。

すったもんだした割には、何やあっけなく組の立ち上げが決まりました(笑)。
まあ『LOVE』がテーマの夢小説ですから、こういう堅苦しい話はまぁ、ササーッと、サササーッと・・・・(笑)。
でも、これは(私の妄想の中での)兄さん的には、外道すれすれの手段だったのです。
こんなやり方は、これまで全然頭を掠めもしなかった。
それが、夢破れ、大切な愛を失い、失意の内に美麗との結婚や離婚で迷走した挙句にまた一人になり、ここに至ってこのすれすれの禁じ手を遂に思い付いてしまった・・・・、みたいな感じで。
ほんでそれを落ちぶれた堂島組長が推したら良い感じとちゃうか?と。
ほら、昨日の敵は今日(一瞬だけ)の友とか、敵の敵は(一瞬だけ)味方、的な感じで(笑)。