夢の貌 ― ゆめのかたち ― 19




目が覚めて、真島はぼんやりと目を開けた。
まだ眠くてまたすぐに目を閉じたが、今日はこのままズルズルと二度寝してはいけないという事は、寝ぼけた頭の片隅にも薄らと残っていた。
今日は昼までの間に、1日遅れの自分の誕生祝いをする予定なのだ。
とりあえず今の時刻を確認しようと再び目を開けると、美麗が隣で微かな寝息を立てているのに気が付いた。
昨日は一応『704』の日ではあったが、真島が起きている内に美麗は帰って来なかった。いつ帰って来たのか全く記憶に無いから、きっとかなり遅かったのだろう。もしかしたら朝帰りだったかも知れない。
それでもここへ帰って来たのは、今日の約束をちゃんと覚えてくれていたからに違いなかった。真島の誕生日である5月14日はどうしても時間が取れないが、その翌日は午前中オフだから、ご馳走を作って誕生日のお祝いをしよう、そう言い出したのは美麗の方だった。
デビューしてからというもの、美麗はとんとん拍子に売れていき、今ではすっかり多忙を極めていた。美麗がこの部屋に帰って来て一緒に食事が出来るのは精々週に1度ぐらいのもので、彼女の手料理はもうとんと食べていなかった。
主婦としての役割は求めないとは言ったものの、旦那さんのお誕生日ぐらいちゃんとしないとね、と照れ臭そうに笑って言われては、ついつい期待してしまう。無理に起こすのは悪いと思いながらも、でも早く買い物にも行かなければならないのだからと理由をつけて、真島は遠慮がちに美麗に呼び掛けた。


「美麗。おい、美麗。」
「・・・・・ん・・・・・」
「なぁて。もう9時回ってんで。」

美麗はまだ目を閉じたまま、少し顔を顰めて眉間に皺を寄せた。
当たり前だが、まだ眠いのだ。しかし、このまま寝かせておいたらおいたで、きっと後で『どうして起こしてくれなかったの』と怒られるのも目に見えている。
少々気は咎めるが、ここはやはり起こすべきだった。


「おい、もうそろそろ起きろや。買い物行くんやろ?」
「・・・・ぅ、ん・・・・・」
「早よせな時間無うなるで?」
「ぅぅ・・・・・」

美麗は益々険しく顔を顰めると、ようやく目を開けた。
まだ18だというのに、まるでくたびれ果てた大人のような、疲れきった顔をしている。
念願叶ってデビューした早々、まともに寝る暇も無い位の売れっ子アイドルになって、本人はこれでも望むところなのだろうが、こんな顔をされると、亭主としては手放しで喜ぶ心境にはなれなかった。


「おい大丈夫か?お前昨夜何時に帰って来てん?」
「・・・・さあ・・・・。多分、4時とか5時とか・・・・」

溜息が、思わず真島の口をついて出た。


「起こしといて何やけど、祝いとか別にええで。無理せんと、時間ギリギリまで寝といたらどうや?また今日もスケジュール詰まっとんねやろ?」
「・・・大丈夫よ・・・・。約束してたでしょ・・・・、今起きるから・・・・」

美麗は辛そうにベッドの上に身を起こした。
座り込んだまま動けないのは、それだけ疲労と睡眠不足が溜まっているからだ。
そう思って黙って見守っていたのだが、少しすると、美麗の様子に異変が出始めた。
多少目は覚めたようなのに、表情は益々辛そうになり、胸元を掌で押さえて、しきりと肩で息をし始めたのだ。


「・・・・おい、どないしてん?」
「・・・・ぅ・・・・・、うぇっ・・・・・・!」

美麗は突然手で口を塞ぐと、弾かれたようトイレへ駆け込んで行った。
これでは誕生祝いどころではない。そんな事は別にどうでも良いのだが、とにかく美麗の身体が心配だった。美麗が疲れ果てた顔でトイレから出て来たのを見計らって、真島は彼女の為に水を用意し、差し出してやった。


「ほれ。」
「・・・・ありがと・・・・」

グラスを受け取った美麗は、1口2口と水を飲んで、辛そうな表情を少しだけ和らげた。


「大丈夫か?」
「大丈夫・・・・。昨夜焼肉屋に連れてかれて、レバ刺し食べたの・・・・。多分それが当たったんだと思う・・・・。何かちょっと味が変だなって気がしたんだよね・・・・」
「アホか。気付いとって何でそんなヤバいモン食うねん。」

真島が叱ると、美麗は不機嫌そうにまた顔を顰めた。


「仕方なかったのよ・・・・。スポンサー企業の社長さんがこれ美味いぞって勧めてくる物を、食べられませんなんて言えないじゃない・・・・。」
「スポンサー企業?何のスポンサーやねん?」

いつの頃からか、美麗は仕事の事をあまり語らなくなっていた。
これまでは、それを多忙や疲れのせいだと思って追究しないようにしてきたが、こうして身体に不調を来たすとなれば話は別だった。


「・・・・コンサートよ」

美麗は疲れた声でボソリとそう答えた。


「日本ドームで、大規模なコンサートを企画しようって声が上がってるの。今年のクリスマス辺りに。」
「日本ドーム!?」

それは、デビューから僅か半年足らずの新人アイドルとしては、破格の待遇だった。
そんな大チャンスを掴める者はそうそういないのだから、勿論めでたいに決まっている。


「それを実現させるには、スポンサーの力がどれだけ重要か・・・・。吾朗さんなら分かるでしょ・・・・?」

しかしそれでも、喜んでやる事が出来なかった。
大喜びして頑張れ頑張れなんて、疲れ切った顔をしている今の美麗には、とてもではないが言えなかった。


「・・・・分かるけど、何事も健康あってこそやで。自分の身体大事にするのも仕事の内やぞ。お前がダウンしてもうたら、その日本ドームのステージに誰が立つねん?本末転倒やろが。
前から思っとったけど、お前ちょっと無理しすぎや。なんぼ忙しゅうても、ちゃんと寝て食うて、身体のコンディション整えなあかん。身体壊したら元も子もないやろが。」

真島がそう諌めると、美麗は決まりが悪そうに真島から目を逸らした。


「今日はもうええから、もっぺん寝直せ。時間なったら起こしたるから。」
「でも・・」
「ええて。そんな食あたりして腹の具合悪い時に、何も食われへんやろ。また今度に延期や。ほれ、早よ寝ろ。」

真島は美麗の肩を抱いて、半ば無理矢理寝室に追いやった。
約束の事を気にはしているが、やはり身体が辛いのだろう、美麗は大人しくまたベッドに潜り込んだ。


「・・・・ごめん・・・・」

美麗はベッドの中から、寂しそうな、弱々しい眼差しを真島に投げかけてきた。
本当に、無理をしすぎなのだ。心配といじらしさが混ざった気持ちで、真島も美麗に軽く笑いかけた。


「胃薬とスタミナンでも買うてきたるわ。他に何か欲しいもんあるか?」
「・・・・ううん・・・・」
「寝とけよ、分かったな?」

真島は服を適当に見繕うと、それを持って寝室を出て、ドアを閉めた。
日本ドームでのコンサート、それが実現すれば、美麗は押しも押されぬトップアイドルになれるだろう。
結婚する時にはまさしくそれを望んでいた筈なのに、そして今も望み続けているつもりなのに、心の片隅で日増しに大きくなっていくこの蟠りは一体何なのだろう?
世間一般の普通の家庭を作ろうなどとは、元々思っていなかったのに。
諦めの溜息が、また真島の口から小さく洩れた。
















『REMI』の人気は、その後もうなぎ上りだった。
彼女の笑顔と歌声が、街中に、東京中に、そして日本中に広がっていくにつれて、まるで反比例するかのように、真島の前から『美麗』の笑顔は消えていった。
結婚当初にはまだ何とか確保出来ていた夫婦の時間は、今はもう無いに等しく、折角同じ部屋の中にいても、どちらかが既に寝ていたり出掛けて行ったりと、まるで他人同士が偶々同じ家に下宿しているかのような、余所余所しいすれ違いの暮らしになっていた。
その原因の全てが、とは言わないが、原因の大半は美麗にあった。
美麗の生活は真島のそれ以上に不規則で、忙しくて、真島にはもう全く把握出来なくなっていたし、またそれに加えて、真島に対する美麗の態度が、近頃どんどん素っ気無くなってきていたのだ。
偶には外で食事でもと誘っても、ファンにバレたりスクープ写真を撮られたらどうするのと嫌がられる。
事実、マンションの周りには、どこで嗅ぎ付けたのか美麗のファンやゴシップ記者と思しき連中がいつしかうろつくようになっていたから、それなら部屋で一緒に映画でも観ようと言っても、他にやる事があるとか、そんな暇があったら寝ていたいなどと返されて、にべもなく断られてしまう。
会話もあまり弾まず、何か仕事の事を訊いても、煩わしそうな態度で言葉少なにざっくりとしか答えて貰えないし、一緒にベッドに入っても、大体は疲れているからと冷たく背を向けられてしまうようになっていた。

勿論、美麗がスキャンダル厳禁の売れっ子アイドルである事も、その絶大な人気の代償として、気力・体力の消耗が酷い事も分かっている。
分かってはいるが、頭で理解する理屈と、心で感じる感情とは、別のものである。
気が付けばいつしか真島の方も、もう必要が無い限りは美麗に何も訊かず、あれこれと誘う事もしなくなっていた。
亭主とは名ばかりで、何の興味も関心も示して貰えない自分がまるでピエロみたいで正直虚しいし、その気持ちを美麗にぶつけて無駄な喧嘩をするのも嫌だったからだ。

美麗は、一人の男の女房という器に納まる女ではない。
多くの観衆を魅了する人気アイドル『REMI』なのだ。
最初からそれを百も承知での結婚だったのだから、不平不満を垂れる筋合いは無い。心の片隅の蟠りが膨らみ、疼く度に、真島は己にそう言い聞かせていた。
そんな毎日が淡々と過ぎてゆくにつれて季節も移ろい、いつの間にか6月も半ばの、梅雨の真っ只中となっていた。


この日も朝からシトシトと雨が降っていた。
真島はその微かな雨音で目を覚ましかけていたが、薄目を開けてチラリと見た時計がまだ7時過ぎを示していたので、もう少し寝ていても良いかと再び目を閉じた。
その途端、隣で寝ていた美麗が突然ガバッと跳ね起き、口元を押さえて小走りに寝室を出て行った。


― またか・・・・・

完全に目が覚めた真島は、ベッドを出て静かに美麗の後を追った。
閉ざされたトイレのドアの向こうから、美麗が声を詰まらせつつ嘔吐している音が聞こえる。真島はそこをそっと離れて、戻って来る美麗の為に水を用意した。
このところ、美麗は度々こうして嘔吐するようになっていた。よくよく考えてみれば丁度1ヶ月程前、先月の真島の誕生日の翌日からだった。
あの頃から美麗はずっと体調が優れず、あの時に延期した真島の誕生祝いの約束も、まだ果たされていないままだった。
だがそれでいて、仕事は相変わらず精力的にこなしていた。
収録に撮影にイベントにと飛び回り、TV局のお偉方やスポンサー企業の社長・重役などとの会食もしょっちゅうで、時には酒の匂いを漂わせて帰って来る事もあった。
日頃は野菜と果物しか食べないくせに、夜遅くの会食で、酒と共にコッテリした脂っこい肉や生魚やよく分からない珍味などを食べるから、仕事のストレスとも相まって胃腸がやられてしまったのではと思っていたのだが、仕事中は元気でピンピンしていて、家でだけグロッキーになるという状態が1ヶ月も続くような事など、果たしてあるのだろうか?
幾ら仕事中は気が張っているとはいえ、こんなに長く体調不良が続けば、もういい加減仕事にも支障を来たしそうなものなのに。
何にしろ、こんな状態をいつまでも放っておく訳にはいかなかった。
やがて美麗がふらつきながらトイレから出て来ると、真島は水の入ったグラスを差し出した。


「・・・・ありがと・・・・」
「お前どっか悪いんとちゃうか?今日病院行こや。」

真島は美麗の顔を厳しく見据えながら、そう言い放った。
すると美麗は、いつもの如く煩わしそうに真島を睨み返した。


「いいわよ、大丈夫だから。」
「アホか、どこが大丈夫やねん。」
「そんな暇無いって・・・・!」
「ドアホ、暇は作るもんや。お前最近いつ会うてもゲーゲー吐いとるやんけ。それのどこが大丈夫やねん。」
「でも・・」
「デモもストもない。このまま朝イチで病院行くで。仕事なんかマネージャーに調整させろ。これ以上ガタガタ口答えすんねやったら、俺が直接お前のマネージャーに言うて休み取らせたんぞ?」

こんな脅しをかけたのは初めてだった。
狙い通り、効果はてきめんで、それを聞いた途端に美麗は血相を変えた。


「ちょっ・・!やめてよ、余計な事しないで!分かったわよ、行くから!一人で行けるからついて来ないで!」
「あかん。お前こんなん絶対普通とちゃうぞ?もし命に関わるようなどえらい病気やったらどないすんねん?すぐにでも入院や手術や言われたら一大事やろが。」
「そんなんじゃないって・・・・!」
「何でそない言い切れんねん?只の食あたりや二日酔いでこない長い事ゲーゲーせぇへんやろ。明らかに只事ちゃうやろが。」

仕事にのめり込み過ぎて仕事しか見えなくなってしまっている今の美麗を信用して、一人で送り出す事は出来なかった。病院へ行ったふりをして行かなかったり、病状を誤魔化したりする恐れが大いにあるからだ。
問答無用のつもりで美麗の出方を窺っていると、美麗は動揺したように目を泳がせた。


「・・・・病気じゃ・・・・ないわよ・・・・、多分・・・・」
「そら自分がそう思いたいだけやろ。気持ちは分かるけども。」
「そうじゃなくて・・・・!」
「何やねん?」

尋ねても、美麗は気まずそうに視線を逸らしたまま答えなかった。
誰だって自分が病気だと診断されるのは怖いものだ。美麗のような若い娘なら尚更。
このままここで押し問答を続けるだけ時間の無駄なので、真島は早々に諦めて、出掛ける支度をする為に踵を返した。


「・・・まあええ、とにかく病院行くぞ。行ったらはっきりするんや。気分マシなったらお前も支度せぇ。朝イチで診察して貰えるように行くで。」
「・・・・行くぞって、吾朗さんついて来れるの・・・・?」
「あん?」

洗面所へ行こうとした真島の背中に、妙に挑発的な美麗の声が飛んで来た。
振り返り、それはどういう意味かと訊く前に、美麗は続けてもう一言発した。
産婦人科に、と。


















もう何分経っただろうか。何分どころか、もう1時間は軽く越えている。
暇潰しと気を紛らわせる為の煙草も、これでもう何本目だろうか。
そわそわと落ち着かない気持ちのままに貧乏ゆすりをしながら、真島は車の運転席で美麗が戻って来るのをひたすら待っていた。
ここは都内某所の産婦人科クリニックである。自宅のすぐ側には美麗の事務所があるので、近所の病院なんかとんでもないと、美麗が離れた知らない町の病院をわざわざ電話帳で調べて決めたのだった。
それにしても、美麗が妊娠するなんて青天の霹靂だった。
まさか出来るとは、露程も思っていなかったのだ。
美麗を抱く時はいつもちゃんとコンドームを着けていて、泥酔状態だった初めての時でさえ忘れなかったし、結婚してから以降は更に気を付けていた上に、そもそもその回数自体がどんどん減っていく一方だったのだから。
しかし、幾らまさかの想定外でも、絶対にあり得ないとは断言出来なかった。
セックスの回数が減る一方だったと言っても完全に0ではなかったし、そうである以上、100%完璧と言い切れる避妊など無い。
何より、想定外の妊娠というものがある事を、真島は既によくよく知っていた。
良いか悪いかではなく、それが人の運命を大きく変えてしまう事を。
だから、同じ事は繰り返すまいと細心の注意を払っていたつもりだったのだが。


― 子供・・・か・・・・・

遠く離れた大阪にいる猛の事を、想わずにはいられなかった。
もしも美麗が本当に妊娠しているとしたら、その子は猛の弟か妹になる。
それが手前勝手な考えである事は承知していて、に対する罪悪感がまた頭をもたげてくるのだが、それでも子供に罪は無い。真島にとってはどちらも我が子、どちらの事も想わずにはいられなかった。
物思いに耽っていると、女が一人、駐車場に入って来た。
素朴なチェックのワンピースを着て黒縁の眼鏡をかけている長い髪のその女は、変装した美麗だった。デビューからあっという間に有名人になった美麗は、外に出る時にはこうしてカツラなどの小物や、『REMI』のイメージではない系統の洋服で変装するようになっていたのだ。
雨から逃げるように小走りでやって来た美麗は、辺りをサッと見回してから、車の助手席に素早く滑り込んだ。


「どないやった!?」
「・・・・今、3ヶ月で・・・・、来週には4ヶ月目に入るって・・・・」
「そ・・・・、そうか・・・・・!」

もう既にすっかりその気でいたのだが、いよいよ確定となると、やはり喜びもひとしおだった。


「そうか・・・・!そうか・・・・!はははっ・・・、そうかぁ・・・・・!」

浮かない顔をしている美麗には悪いとは思うが、真島にとっては、これはもう一度与えられたチャンスだった。
今度こそ温かい自分の家族を作れる、その喜びが、真島の心の中に溢れてきていた。
美麗とは違う。美麗は既に入籍済みの正妻で、極道としての真島の事を殆ど何も知らなければ、知りたがってもいない。この先、極道の女房として、真島の『本職』に関わる事も絶対に無い。
だから、冴島への償いも知る事は無いし、それで先々を悲観する事も無い。


「ほんで!?いつ生まれんねん!?」
「・・・・お正月頃・・・・」
「正月!そらまたえらいめでたいのう!ほな次の正月は二重にめでたいんやな、ひひひひっ!」
「・・・・早く帰ろう、吾朗さん。早く帰って着替えなきゃ、あたし仕事の時間が。」
「お、おう!ほな帰ろ帰ろ!そやけどお前、今日ぐらい休んだらええのに〜!」
「そうはいかないわよ!時間遅らせて貰っただけでもかなり無理言ってるんだから!」
「あー分かった分かった!そんな怒ったら身体に障るて!よっしゃ、ほな行くで!」

そう、美麗とは違うのだ。
美麗の夢は、のそれとはまるで違うのだから。
あんたと子供と過ごす時間がこの先の私の人生の全てやと言った、とは。
















妊娠が判明しても、美麗は少しも仕事をセーブしようとはせず、つわりで具合が悪いのに、病気じゃないんだからと無理を押して出掛けて行ったきりだった。
自分の意に反する事は一切聞き入れない女だというのはこれまでの付き合いと生活で分かっているから、ひとまずは煩く言わずに送り出したが、真島としては当然、美麗の身体を心配せずにはいられなかった。
美麗の身体は、もう美麗一人のものではないのだ。
お腹の赤ん坊を無事産む為に自分の身体を大切にする事が、今の美麗にとっては最も重要で優先するべき仕事の筈なのに、美麗にはそうしようとする気配がまるで無く、母親になる事よりも、アイドル『REMI』で在る事、そしてスターへの階段を駆け上っていく事を明らかに優先していた。
それを咎める事が出来なかったのは、身重の美麗と揉めるのを避けたい為ばかりではなく、約束を破ってしまった責任を少なからず感じていたからだった。
子供は作らない、美麗は夢を叶える事だけに専念すれば良い、そう約束したのに、自分が下手を打ってしまった。その負い目もあったから、病院から帰って早々、当たり前のように出掛けて行く美麗に説教をして引き止める事が出来なかったのだ。

結果として約束を破ってしまった事は、勿論、申し訳なく思っている。
だが、美麗のお腹に芽生えた新しい命は、慶び、祝福するべきものなのだ。
その事を出来るだけ早く美麗に告げて、諭さなければいけなかった。
アイドルとしての活動は暫く休止せざるを得なくなるが、今はお腹の赤ん坊を何より一番に考えるべきだと。
そして、約束は守れなかったが、これから本当の夫婦、本当の家族になっていこう、と。

しかし、世間に隠された存在である真島には、黙って美麗の帰りを待つしか術が無かった。
事務所に連絡して美麗の所在やスケジュールを尋ねる事はおろか、僅か2階上の美麗の部屋を訪ねて行く事も出来ない。そこに自分から電話を掛ける事も、ポストにメモを1枚入れる事すら許されていない。
結婚した時に夫婦の時間を作る為のルールとして毎日送ると決めた筈のポケベルのサインは、今ではもう美麗が真島の所に帰って来る時にしか送られなくなっていた。
これまでは、そんな小さな事を指摘するなんて男としての度量が狭くてみっともないと思って、美麗が何日家を空けようが連絡を寄越さなかろうが、別に気にしないようにして自分も好き勝手に過ごしてきたが、こうなると待たされるばかりなのが酷くもどかしく思えて苛々するし、自ら進んで買って出ておきながら滑稽ではあるが、日陰の身でいる事を今更ながらに惨めに思ったりもした。

そんな日々を4〜5日程も経て、ようやく美麗から『704』のサインが送られてくると、真島は喜び勇んでその後の予定を全てキャンセルした。
まだ昼を回ったばかりで、美麗が何時に帰って来るのかも分からなかったが、とにかく今日は家にいて、美麗を待とうと決めたのだ。
途中、スーパーに寄って食材を買い込むと、真島は早々に帰宅した。
思っていた通り、美麗はまだ帰っていなかった。
今日も多分、いつも通り夜遅くになるのだろう。だが、ポケベルを鳴らしてきたのが昼だったから、もしかしたら今日はもう少し早くに帰って来られるかも知れない。
そんな淡い期待を抱きながら、真島は箪笥の引き出しを開け、自分の服の下に埋めるようにして隠してあったプレゼントの小箱を取り出した。
その小箱の中身は、結婚指輪だった。
指輪の代わりに万年筆をプレゼントした時に、美麗が一瞬だけ見せた寂しげな表情をふと思い出して、美麗からの連絡を待っている間に急いで買い求めてきたのだ。
ごくごくシンプルなデザインで、部屋にあった美麗の手持ちの指輪を持参して測って貰ったからサイズも多分大丈夫だろうが、もしかしたらやっぱりサイズが合わなかったり、自分で直接好きなものを選びたかったと文句を言われてしまうかも知れない。
けれども、それならそれで、また直したり新しいものを買えば良いだけの話だった。プロポーズをするのに、形として自分が欲しかっただけなのだ。
真島は今日、もう一度美麗にプロポーズをするつもりだった。
よく考えてみれば、最初の時は約束や条件の話ばかりだったから、今度こそちゃんと、本物のプロポーズをするつもりだった。
そして、遅ればせながら今からちゃんと美麗と向き合って、本当の夫婦・本当の家族としての第一歩を踏み出すつもりだった。


「・・・・よっしゃ、ほな早いとこ始めるか!」

その為にはまず、今夜の夕食作りだった。
つわりの酷い美麗でも食べられそうな物を、無い知識と想像力をフル稼働させて考え、色々と買い込んできたのだ。
炊事などもう随分長い事まともにしておらず、きっとモタついて時間がかかるから、今から早速始めていかなければならなかった。




















「・・・・よっしゃ!でけたぁっ!」

悪戦苦闘の数時間を経て、ようやく一通り完成した夕食を前に、真島は思わず一人で歓声を上げた。
お酢の瓶のラベルに書いてあったレシピを見つつ作ったキュウリとタコとワカメの酢の物を味見してみると、初めて作った割にはまあまあだった。少々水っぽいのは、健康の為に敢えての薄味という事にしておこう、などと胸の内で言い訳をしつつ、それをなけなしの食器に盛り付けて、ダイニングテーブルの上に置いた。
テーブルの上には既に他にも色々と並べてあった。枝豆、冷やしトマト、冷や奴、それに焼きナス。美麗が一番食べたがるであろう野菜たっぷりのグリーンサラダも、冷しゃぶを乗せたスタミナ満点仕様で用意してある。
メインの冷やし中華の具材とタレの準備も万端整っていて、あとは美麗が帰って来たら麺を茹でるだけだった。


「うん、我ながら上出来や。なかなか美味そうやんけ、うん・・・・」

自分が作り上げた夕食をしげしげと眺めながら、真島は自画自賛した。
こうして見ると何だか全部酒のアテみたいで、ついお先に一杯やりたくなるが、今日は我慢・我慢だった。
冷たいビールの誘惑を何とか退けて、今何時だろうかと時計を見てみると、夜の8時を回ったところだった。美麗は何時に帰って来るだろうか?あまり遅くないと良いのだが。ふとそんな事を思った今の自分を客観的に考えてみると、まるで主婦、いや、主夫だった。
こんな事、親父にバレたら破門されるかも知らんな、と苦笑いを浮かべていると、不意に玄関の鍵が開く音がした。
ハッとして玄関の方を振り返ると、少しして、美麗がいつものように重い足取りでダイニングに入って来た。


「おう、お帰り!」
「た、ただいま・・・・って、どうしたの、そのご飯・・・・?」
「見ての通り、作ったんや。偶には俺の手料理もええやろ?ひひひっ。」

変装の帽子やサングラスを取りながら驚いたように食卓を見つめている美麗は、やはり今日も青白い顔色をしていて、少し前より顔回りや首筋が一段と細くなっていた。


「どうせ相変わらずろくすっぽ食うとらんねやろ。気分悪いんやろうけど、何とか騙し騙しでも食わなあかんで。
大体お前、元々必要も無いのにダイエットダイエットて気にしすぎやったんや。ずーっと葉っぱしか食うてへんかったら、誰でもフラフラなるわ!これからは腹の子の為に、肉も魚もしっかり食うて栄養つけやな!のう!」

真島は硬い表情をしている美麗の肩を抱き、ちゃんと目を合わせて明るく笑いかけた。
こんな風に美麗に笑いかけたのは、よく考えてみれば久しぶりだった。


「食欲無うても、こんなんやったら多少は喉通るやろ?あ!あと冷やし中華もあんねん!麺茹でたらすぐ出来るよってに、ちょう待っとれや、な!」
「・・・・折角だけど要らない。食欲無いの。」

いそいそとキッチンに向かいかけていた真島は、美麗のそのテンションの低い呟きに足を止め、彼女を振り返った。


「要らんてお前・・・・、ホンマに何も要らんのか?ほんのちょっと位やったら食えるんとちゃうんか?トマト1切れでも、豆腐1口でも・・・!」
「要らない、ごめん。」
「いや、ごめんやのうて・・・・。ほな何やったら食えんねん?何やったら食えそうや?何でも言うてみ?」
「本当に何も食べたくないの、勘弁して。」

取り付く島もない美麗の様子に、真島は絶句するしかなかった。
何でも良いから、とにかくお腹の赤ん坊の為にちょっとでも栄養を摂って欲しいのに、どうしてこうまで徹底的に拒絶するのだろうか?
困惑の余り、はそんな事なかったのにと思わず言いかけて、真島はその言葉を慌てて噛み殺した。


「そんな気分悪いんか?それやったら、また明日にでもこないだの病院行こうや、な?
なんぼ病気やない言うても、そない何も食われへん位つわり酷いんやったら、病院行ったらどないかしてくれるやろ。うん、そないしよ、な?」
「・・・・行ったって無駄よ」
「な、何でや?そんな事ないやろ、行ったらちゃんと診てくれるて・・」
「診て貰うものなんか何も無いもの。」
「・・・・へ・・・・?」

美麗の言った事の意味がまるで分からなかった。


「な・・・、何も無いって・・・・、どういう意味やねん・・・・?」
「・・・・子供、堕ろしてきた、今日。」

頭を鈍器で思い切り殴られたような、凄まじい衝撃だった。
そんな筈はない。そんな訳がない。
受けた衝撃が大きすぎて、とてもすぐには呑み込めなかった。


「・・・・い、今・・・・、何て言うた・・・・?」
「子供は堕ろしたって言ったの。今日の午後に手術受けてきた。」
「じょ、冗談やろ・・・・?お前、そんな冗談言うもんやないぞ・・・・?冗談っちゅうのは笑えてなんぼやで・・・・?」
「わざわざそんな冗談言ってる暇なんてないわよ。本当の事よ。」
「な・・・・、何でや・・・・?何でそんな事・・・・」
「何でって何よ、当然でしょ?」

当然?
こちらも当然だと思っていたのだ。
あの小さくて温かくて愛おしい我が子を、あと何ヶ月かしたら、またこの腕に抱けるのだと。


「・・・・俺はそんな事、許した覚え無いぞ・・・・?俺はそんな事、只の一言も相談されとらんかったぞ・・・・?」

呆然と呟くと、美麗は咎めるような目で真島を睨み据えた。


「・・・・吾朗さん、結婚する時に交わした約束、覚えてる?」
「あ・・・・?」
「普通の主婦にも極道の女房にもならなくて良い、子供も要らない、自分の夢を叶える事だけに専念しろ・・・、あの時吾朗さん、あたしにそう言ったよね?奥さん子供が欲しいんじゃなくて、あたしの夢を支えたいんだって、そう言ってくれたわよね?」

確かにそれはその通りで、そこを突かれると何も言い返せなかった。


「だから妊娠が判った時も、あたし吾朗さんはちゃんと分かってくれてる筈だと信じてた。だけどそうじゃなかった。喜んで、浮かれて、さも当然のようにあたしが産むものだと思ってた。
だから一人で決めたの。吾朗さんに相談するだけ無駄だって思ったから。」

あまりの言い草に、返す言葉も出なかった。
失望したような顔をして、相談するだけ無駄だなんて、誰に向かって言っているのだろうか?
俺は仮にもお前の亭主や、お前の腹にいた子は俺の子でもあった、その言葉が喉につかえたまま出て来ず、苦しくて堪らなかった。


「それと、手術代の事なんだけど、手持ちのお金が足りなかったから、悪いけど吾朗さんの金庫のお金借りた。ギャラが入ったらちゃんと返すから。
今日はそれを話しに帰って来たの。今、麻酔が切れた後で具合が悪いから、帰ってちょっと寝るわ。1時からラジオの生放送があるから、12時頃にまた出掛けなきゃいけないし。」

美麗が行ってしまう。
人の気持ちを踏み躙って、一方的に勝手な事ばかり言い捨てて。
折角授かった小さな命を暗闇に葬り去って、自分一人だけ、眩いスターの世界へと。


「・・・・・っ・・・・・・!」

自分でも抑えられない程の激しい怒りに突き動かされて、真島は美麗のか細い腕を強く掴んだ。


「なっ、何っ!?」
「このボケエーッッッ!!!」
「きゃあっ!!」

そして、その華奢な頬を、アイドルの命とも言うべき顔を、容赦なく張り飛ばした。
拳を固めなかっただけまだ僅かばかりの自制が働いたのだろうが、美麗に対する怒りと憎しみはとても抑えられなかった。


「何でそんな事した!!!何でそんな事したんだ!!!」

吹っ飛んで倒れ込んだ美麗の胸倉を掴み上げて、真島は荒れ狂う心のままに怒鳴りつけた。


「お前女だろ!?女なら自分の腹に出来た子、何があっても産みたいと思うのが当然じゃねぇのか!?それをどうして勝手に殺した!?どうしてそんな血も涙もない事しやがった!?ええ!?」

美麗を強く揺さぶりながら、関西弁も忘れて彼女を激しく罵った。
すると美麗は、涙に濡れて怯えていた目を突然鬼のように吊り上げて、鋭く真島を睨み返した。


「・・・何言ってんのよ!!!」

かと思うと、真島に一歩も引けを取らない激しい怒りの籠った怒声を張り上げて、真島の頬にその拳を思い切り叩き付けた。


「馬鹿じゃないの!?何が『女なら』よ!!女なら何があっても産みたいと思う!?勝手に決め付けないでよ!!」

美麗のパンチは、1発では終わらなかった。
女の細腕だからダメージは全く大した事はないのだが、やたらめったらに打ち付けられる拳骨が鬱陶しくて、真島も美麗の腕を掴み返し、取っ組み合いとなった。


「ふざけんじゃっ・・・・!ないわよっ・・・・・!」
「このっ・・・・!クソアマがぁっ・・・・!」

髪が思い切り引っ張られ、頬に爪が食い込む痛みが走る。
どちらの服か分からないが、布地の破れる音がする。
激しくぶつかった拍子にテーブルが大きく揺れて、料理が床にぶち撒けられ、グラスや食器が割れる。
それでもまだどちらの気も収まらず、真島と美麗は激しく争い続けた。


「あたしがっ・・・・!血も涙もない女ならねぇっ・・・・!」
「ぬぅぅっ・・・・・・!」
「だったらあんたは何なのよ、この嘘吐き男!!裏切り者ーッ!!!」

美麗の金切り声に、『裏切り者』というその言葉に、真島は心を射抜かれた。
真島が呆然となった隙に、美麗は思い切り真島の手を振り払い、真島の側から逃げるようにして離れた。


「言ったじゃない!!吾朗さん言ったじゃない!!あたしがトップアイドルになれるように支えてやるって!!あたしは自分の夢を叶える事だけに専念しろって!!あれ嘘だったの!?ねぇ嘘だったの!?」
「嘘やない!!」

美麗の泣き叫ぶ声に負けないように、真島も大声を張り上げた。


「だから実際お前を支えてきたやんけ!部屋に住ませて生活丸ごと面倒見て、金出してレッスン受けさせて、デビュー出来るように結婚までして里親を説得してやったやろうが!
お前がアイドルとしてデビュー出来たんは、俺の支えがあったからこそや!違うとは言わさんぞ!」

恩を着せる気など更々無かった。全部自分がしようと思ってしてきた事だからだ。
だが今、真島はそれをせずにいられなかった。


「デビューしてからかて、俺はずっとお前の夢を応援して優先してきた!
家の事あれせぇこれせぇなんて一遍も言うた事あれへんし、上の部屋には来んな、電話もすんな言われても、全部ハイハイ言うて大人しゅう従ってきた!
お前の邪魔にならんように、お前がどこで何してようが小言ひとつ言わんと、お前が仕事に専念出来るようにしてきたやろが!」

これまで騙し騙し放置してきた心の片隅の蟠りが、今激しい痛みに疼いていて、この怒りを、この苦しさを、どうしても美麗に知らしめてやらなければ気が済まなかった。


「そやけどなぁ、それとこれとは話が別じゃ!何が『ちゃんと分かってくれてる筈やと信じてた』や!誰がんなもん分かるかい!幾ら夢の為や言うたかて、子供に罪は無いやろが!
何も夢を諦めろなんて言うてへん!1年か2年、いやその半分でも良い!そのほんのちょっとの間だけ休業すれば済む話やったんや!ほんのちょっとだけ休んで、最低限産むだけでも産んでやれば、後はどうとでもなったんや!何でそれが分からん!?何でそれをせぇへんかったんじゃお前は!」
「冗談じゃないわよ!!!」

真島の怒りに触発されるようにして、美麗もまた一層激昂し、ヒステリックに叫んだ。


「あたしを誰だと思ってんの!?『REMI』よ!?今世間で一番ノリに乗ってるアイドルなのよ!?それをちょっとだけ休業!?何言ってんの!?あたしは今が一番大事な時期なのに、そんな時に1年も2年も休める訳ないじゃない!半分でも長すぎるわ!そんなに長い間休んでたら、あっという間に忘れ去られて終わっちゃう!!」

一息の下に叫ぶと、眩暈でもしたのか、美麗は足元をふらつかせて頭を押さえた。
だが、心配してやる気にはとてもなれず、只じっと美麗を睨みつけていると、やがて少し落ち着いたのか、美麗はまた鋭い目付きで真島を睨み返してきた。


「・・・芸能界って処はね、あっという間に何もかもが移り変わっていくのよ・・・・。ボケッと立ち止まってたら置いて行かれる、忘れられる、奪われる・・・・!
トップアイドルになる為にはね、長い長い階段を休みなく全力で駆け上がっていかなきゃいけないのよ・・・・。だからあたしは今まで必死に駆け抜けてきた・・・・。絶対立ち止まらず、振り返らず、どんな嫌な事だって逃げずに受けて立って突き進んで来た・・・・!
その結果が今よ!今この日本であたしの事を知らない人はいないわ!
歌番組にCMに引っ張りだこ、CDの売れ行きだって絶好調で、こないだ出したセカンドシングルは、初登場でランキングトップ10に入ったわ!
それに、まだマスコミには発表してないけど、クリスマスに日本ドームでコンサートをやる事だって内定した!収容人数5万5千人、そのチケットのソールドアウトが見込まれてるのよ!」

『REMI』の輝かしい軌跡を狂ったように喚き散らす美麗には、狂気じみた気迫が漂っていた。
怒りに我を忘れていたのは真島の方だった筈なのに、いつしか美麗の憤りの方が、真島のそれを凌駕しようとしていた。


「あともう少しなの!そのコンサートをやり遂げたら、あたしは押しも押されぬトップアイドルになるのよ!小さい頃からの夢だったスターになれるの!あたしを産むだけ産んでゴミみたいに捨てた親や、散々邪険にしてきた里親や周りの奴ら、どいつもこいつも皆あたしの足元に平伏させて見返してやれるのよ!!
それが何・・・・!?休業して子供産め・・・・!?次の正月は二重にめでたい・・・・!?冗談じゃないわ・・・・、吾朗さん・・・・、何にも分かってないじゃない・・・・!」

今、真島に向けられている美麗の目は、自分の亭主を見る目ではなく、この世で最も憎い敵を見る目だった。
大粒の涙に濡れながら、それでも燃え盛るような激しい怒りと憎しみを宿した目だった。


「吾朗さんが言ってる事はね・・・・、あたしに夢を捨てろって言ってるのと同じ事なのよ!!」
「だからって子供に罪は無かったやろ!!」

しかし真島には、美麗のその怒りと憎しみを受け入れる事など出来なかった。
二人の間の約束を違えた自分よりも、二人の間に芽生えた命を自分の勝手で葬り去った美麗の罪の方が重いとしか思えなかった。
これまでひたむきに追いかけてきた夢の原点が、純粋な憧れではなく、親や世間に対する復讐心だったというなら尚更、そんな不毛な怨念を成就させたいが為に、何の罪も無い我が子の命を当然の如く犠牲にした美麗が許せなかった。


「立ち止まったら忘れられる?終わってまう?それは自分次第やろ!
たとえ一時遠ざかっとっても、何が何でも戻ってみせる、何が何でも巻き返したる、本気でそない思て行動すれば道は拓けるんや!」

たとえ気の遠くなるような道のりだとしても、目標を見失わず突き進んで行けば、いつか必ず辿り着く筈。
真島はこれまでずっとそう思い続けてきていたし、目指す処こそ違えども、それは美麗にも当て嵌まると思っていた。


「どんな辛い事でもどんな難しい事でも絶対にやり遂げる・・・、そこまでの気概が己に有るか無いかの問題や!忘れられるだの奪われるだの、弱気な事を言うとる時点でお前にはその気概が無いんじゃ!
本気でスターになるっちゅう根性があったんなら、たとえ1年やそこら休もうが今の事務所辞める事になろうが、必ず・・」
「フッ・・・・、ックク・・・・・」

突然、美麗が声を詰まらせた。
初めは嗚咽かと思ったが、そうではなかった。


「フフフフッ・・・・、フフッ・・・・」

美麗は、笑っていた。
真島の本気の叱責を聞きながら、さも可笑しそうに。
人を馬鹿にしたようなその態度にまたぞろ激しい怒りがこみ上げて、何がおかしいんじゃと怒鳴りかけたその瞬間、真島は気付いた。


「気概・・・・?本気でスターになる根性・・・・?吾朗さん、本当に何にも分かってないわね・・・・」

笑う美麗の声が、顔が、異様な気迫を帯びている事に。


「何が何でも・・・・?どんな辛い事や難しい事でも・・・・?
バッカじゃないの・・・・?そんな事ねぇ・・・・、あんたに言われるまでもなくとっくにやってきてんのよあたしは!!!」

かと思うと、美麗は突然、一際太く荒々しい大声で叫んだ。
それは若い娘の嗚咽ではなく、まるで鬼の哭き声のようだった。


「何が何でも売れてみせる、何が何でもスターになってやる、そんな事皆思ってんのよ、芸能界って処にいる人間は皆!
地道に歌やダンスのレッスンに励んでじっと待ってるだけじゃ、スターになんて到底なれない!たとえどんな手を使おうが、周りの皆を出し抜かなきゃ駄目なのよ!
その為には何だってやったわ!使えるものは何でも使って、どんなに汚れたって必死に耐えて勝ち取ってきた!だから今の成功があるのよ!
デビュー出来たのは俺の支えがあったからこそ!?
恩着せがましい事言わないでよあたしの成功はあたしの努力と苦労の結晶よ!!」

美麗が帯びている気迫は、たった18の小娘とは思えないほど壮絶だった。
それは正しく鬼の気迫と呼ぶに相応しく、背中に鬼を棲まわせている真島をも呑み込んでしまいそうだった。
だが、寒気のするような戦慄を感じたのは、その気迫に対してだけではなかった。
激昂に任せて美麗が口走った言葉の一部、そこに真島はおぞましい違和感を覚えていた。


「・・・・ちょう待て・・・・。お前それ、どういう意味やねん・・・・?
使えるものは何でも・・・・?どんなに汚れたって・・・・?お前一体それ・・・・、どういう意味やねん・・・・?」

真島が呆然と問い質すと、美麗は一瞬ハッとしたが、すぐにまた真島を強く睨みつけた。


「・・・成功する為には、少しでも多くのチャンスを掴んでいかなきゃいけない。
有名な先生の作った新曲、TVのレギュラー出演枠、新しいCMの契約、コンサートやイベントに出資してくれるスポンサー企業・・・・。夢を叶える為には一つでも多く掴んでいかなきゃ・・・・」
「つまり、何や・・・・?それを勝ち取る為に、お前・・・・・」

黙ったまま真島を睨んでいる美麗の目は、真島のこのおぞましい想像が当たっていると暗に答えていた。


「お前・・・・、枕しとったんか・・・・!!」

枕営業。水商売の世界にも蔓延っている、暗黙の処世術。
表立って奨励される事は勿論無く、周りに敵を作る事も往々にしてある。
それでもやる者が決して少なくない事は分かっていたが、まさか美麗がそれをしていたなんて、これまで露程も思った事は無かった。


「ほな・・・・、ほなまさか・・・・、子供の父親は・・・・!?」

おぞましくて考えたくもないが、そう考えれば合点はいった。
いつだって美麗の意志を尊重して約束を守っていたつもりだったのに、夫婦とは名ばかりでどんどんすれ違っていく一方だったのに、何故美麗は妊娠したのか。
取るに足りないけれどもずっと心の片隅に引っ掛かっていたその小さな疑問の答えが今、直視したくもない残酷な事実となって真島の目の前に大きく迫っていた。


「・・・・分からない、自分でも・・・・・・」

美麗は擦り切れそうな掠れ声でそう呟くと、燃え盛るようなその目から涙の粒を点々と零した。


「・・・・でも・・・・、吾朗さんだけだった・・・・。アレ・・・、毎回ちゃんと着けてくれる人は・・・・」

まさかと思った瞬間に覚悟はしていたが、いざ答えを聞くと、やはりどうしようもない嫌悪感が吐き気のように込み上げてきて、真島は美麗から顔を背け、強く歯を食い縛った。


「・・・・これで分かったでしょ?産む訳ないじゃない、そんな子・・・・。やっと掴んだ夢を犠牲にしてまで、誰のだか分からない・・」
「黙れ!!!」

もうこれ以上何も聞きたくなくて、真島は美麗の言葉を鋭く遮った。
しかし美麗は、それでも黙らなかった。


「・・・・吾朗さんは、あたしも産むと思ってたんでしょ?あの人みたいに、たとえ自分の一番大切なものを諦めたって・・・・」

あの人、美麗にそう言われて、かつて愛した笑顔が浮かんできた。


「だけど言った筈よ?あたしはあの人とは違うって。あたしはあの人みたいには絶対なれないし、ならないって。」
「・・・・黙れや・・・・、もう何も聞きとうないわ・・・・」

いつかひとりでに薄れて消えてゆくようにと、必死に心の奥底に閉じ込めてきた、あの笑顔が。


「なのに吾朗さんは、あたしにあの人を重ねてた・・・・」
「黙れっちゅうとるんじゃ・・・・」
「・・・・あたしはさんじゃない!!!」

美麗が声を震わせながらその名を叫んだ瞬間、真島の忍耐は尽きた。


「っ・・・・・・!!」

もうこれ以上、1秒たりともここには居られなかった。
目の前に立ち塞がっている美麗を弾き飛ばすようにして横を通り抜けると、美麗は肩がぶつかった弾みでよろけて床に倒れ込み、それが引き金になったかのように、大きな声を上げて咽び泣き始めた。
真島はそれに構わず、財布と煙草とライター、部屋の鍵をズボンのポケットにさっさと捻じ込むと、床に伏して号泣している美麗に一瞥すらくれずに部屋を出た。

















行く所なんてどこにも無かった。
金はあるが、行きたい所もしたい事も何も無く、真島は只あてどもなく、寂しく静まり返った夜の町を彷徨い歩いた。


― あの嬢ちゃんはきっと、お前の手には負えへんで。

歩きながら、嶋野の言葉を思い出していた。
親父の言う通りだったと今頃思い知っても、もう手遅れだが。


― あの嬢ちゃんは、人を喰らう夜叉や。

嶋野は美麗の本性を最初から見抜いていた。
気付いていなかったのは、愚かな己だけだったのだ。
『夢』というのは、『欲望』をただ綺麗に飾り立てただけ。それもその通りだった。
夜空に輝く星のように綺麗な憧れだと思っていたものは、只のどす黒い復讐心と醜い自己顕示欲だった。初めて知ったそれに打ちのめされながらも、それなら全ての事が腑に落ちた。
愛情を示していたのは、金を出して、骨を折って、『夢』を支えてやっていたからだ。
それが無くなったのは、他にもっと強くて有益な『支え』を幾つも得たからだ。
何の罪も無い小さな命までもが巻き込まれ翻弄されてしまう事になったのは、その『夢』というものの正体が、ふわふわと宙に浮くような憧れではなく、心の奥底にまで根深く巣食っている怨嗟の念と欲望だったからだ。
嶋野の言っていた通り、美麗はか弱い雛鳥なんかではなかった。
『夢』という名の大きな欲望で、人の心も命でさえも容赦なく食い殺す冷酷な夜叉だったのに、それに気付かず、一端の漢になったつもりで、孤独で可哀想な女の救世主になったつもりで、良い気になって。
己の愚かさに打ちひしがれ、身体を引き摺るようにして歩く真島の頭上に、冷たい雨が降ってきた。
だが、家に帰る気など起きなかった。あそこにだけは帰りたくなかった。
今あの部屋に帰って、もしまだ美麗がいたら、そう思うと怖かったのだ。
今なら俺はあの女を殺してしまうかも知れない、そう考えている自分が恐ろしかった。
裏切りに傷付き、嫉妬に荒れ狂う己の中の鬼に突き動かされるようにして、雨に濡れながら歩いていると、小さな児童公園の側を通り掛かっていて、その入口にポツンと立っている電話ボックスが目に留まった。
寂しげに滲んだ光を放つそこに、真島はフラフラと引き寄せられて行った。
中に入って戸を閉めると、ありふれた緑色の公衆電話がやけに温かく見えた。


「・・・・・・・・」

この向こうにがいると思うと、自分を抑えられなかった。
あの優しい声が今、無性に聞きたくて堪らなかった。
優しい事を言ってくれなくて良い、思いきり罵って、蔑んでくれて良い、それでも良いからの声が聞きたくて、真島は財布の中から折り畳んだメモ用紙を取り出した。の今の住所と電話番号を書いてあるそれを開くのは、完全に決別したあの時以来だった。
小銭を入れて番号をプッシュし、コール音を聞いていると、少しして電話の繋がる音がした。


『・・・はい、です・・・・・』

の優しい声が、真島の耳を擽った。


『もしもし・・・・・?』

まだ覚えている。
少し低くて気だるげなその声は、の寝起きの声だった。
その声を聞いた途端、甘く温かい記憶が、真島の心の中に瞬時に蘇った。
狭いベッドで抱き合って眠り、目覚めた時に、ふと眠りの途切れた時に、いつもこの声を聞いていたのだ。
、思わず呼び掛けそうになったその瞬間、赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
猛だ。猛が泣き出してしまったのだ。


『もしもし・・・!?』

の声が苛立った感じになった。
迷惑を掛けてしまった、そう思った瞬間、真島は電話を切っていた。
咄嗟にそうしてしまった事を後悔したが、しかしもう一度電話を掛ける勇気は湧いてこなかった。
アホか、電話ボックスの壁にぼんやりと映る自分に向かってそう呟き、真島はメモをまた財布にしまい込んだ。
それを捨てずにいるのは、只々男としての責任を果たす為だけ。元に戻れる可能性などある訳がないのは重々承知していた筈なのに、何を血迷って電話など掛けてしまったのだろう。
と猛と家族になれる可能性を完膚なきまでに潰してしまったのは、血迷った選択をしてしまった愚かな己自身なのに。
真島は財布からもう1枚、別の折り畳んだ紙を出して開いた。


「・・・・猛・・・・」

可愛い顔でぐっすりと眠っている、生まれたばかりの猛。
が送ってくれた、1枚きりの我が子の写真。
それを見つめていると、美麗も相手の男共も皆残らず殺してやりたいと慟哭していた己の心の中の鬼が、次第次第に力を失っていった。


「・・・・罰が・・・・当たったんやな・・・・・」

そう、罰が当たったのだ。
写真を密かに肌身離さず持ち歩くほど愛しく思っていたこの子を、知らず知らずないがしろにしてしまっていたから。
この愚かな男を何処までも一途に愛してくれていた女を、酷く、深く、傷付けたから。
家族になる筈だった二人と道を違えてしまった事を、縁だ運命だと尤もらしく結論付けて己一人だけ過去へと流し去り、今度こそ自分の子供を得られる、今度こそ自分の家族を持てると浮かれていたから。


・・・・、猛・・・・」

猛の寝顔の上に、透明の雫がポツリ、ポツリ、と落ちた。


「・・・・赦してくれ・・・・・・」

赦されるどころか、この懺悔さえももう届かない。
もう全てが手遅れなのだ。
三人で家族になって温かく幸せな家庭を作りたい、が描いていたその綺麗な夢を叶えてやる事はしなかったのに、汚い復讐心と自己顕示欲を虚飾で彩った美麗の夢を支える事はした、こんな最低な男が今更どの面を下げて戻りたいと願えるだろうか。
身体中の力が抜けていくような虚無感に苛まれて、真島はその場にズルズルとしゃがみ込んだ。




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後書き

・・・・とまぁ、こういう事になった訳なんですけれども。(※私の妄想が)

本当にくどいですが、兄さんはそんな無責任な人じゃないと思うんですよ。
朴社長は当時、スターを夢見るアイドルで、結婚している事を事務所にも隠している状態だったのだから、子供が出来たからって手放しに喜べる状況じゃない事ぐらい、分かっていた筈だと思うんですよ。
独断は論外でしたが、彼女が中絶を希望する可能性が決して低くない事ぐらい、想像がつく筈だったと思うんです。
なのに、殴って即離婚?
んー・・・・、何だかなぁ・・・・。
そりゃ朴社長が非道なのは言うに及ばずですが、何もかも分かっていて、そんな一方的に激怒してすぐ去って行った兄さんもどうかと思うんです。まるで100%被害者みたいじゃないですか。犯罪を除けば、妊娠は男女両方の責任なのに。
頭で理屈は分かっていても、どうしても気持ちが許せなかったという事かも知れませんが、だから何でそもそも作るねんと・・(以下、無限ループ)
想定外やったとしても、だから朴社長は売り出し中のアイドルやと最初っから分かって・・(以下、無限ループ2)

でも、真島吾朗美化委員会といたしましては、兄さんはそんなアホで無責任な男じゃないと断言したい。
ちゃんと朴社長の夢を尊重していた筈だと思いたい。
けれどもあのように一発即アウトで破局したという事は、何かそれ相応の事情があったのだとしか思えない。

そんな私の切実な思い(※妄想)が、この作品の、この回です!


朴社長はあの性格ですから、きっと色々、手段は選ばなかったと思うんです。
目の前にチャンスがぶら下がっていれば、枕ぐらい・・・・するやろなぁ・・・・と(笑)。
そしてあの性格ですから、それをさも悲しく切ない物語のように語って聞かせる事ぐらい、平気やろなぁ・・・・と(笑)。
遥に昔語りをしていたあのムービー、如何にも美しく儚く物悲しげなストーリーになっていますが、私ねぇ、あれもちゃうと思うんですよ。



「子供、堕ろした。」
「な・・・、何やて・・・・!?」

パンッ!(←兄さんのビンタ)

「何でそんな事をした!?」
「・・・・・」
「・・・・別れよう。俺が傍におったら、お前の夢の妨げになる・・・・」(←兄さん出て行く)
「・・・・・うぅっ・・・・」(←一人密かに啜り泣く朴社長)



・・・って?

いやいやいやいや〜、またまたぁ〜(・∀・)
そんな大人しく殴られて、黙って捨てられるようなタマとちゃいますや〜ん?みたいな(笑)。
「私はそれも仕方のない犠牲だと受け入れたわ」の前に、彼女は絶対殴り返したと思っています。それもグーで(笑)。
きっと韓ドラも真っ青の修羅場を繰り広げた事でしょう(笑)。


しかし、ホントに何だかなぁ・・・な設定で、何だかなぁ・・・な気持ちです。
兄さんは破天荒でムチャクチャだけど、筋はまっすぐビシッと通っているし、人を尊重する気持ちを持ち合わせている人だから、そのギャップがすんごい魅力的なキャラなのに、どーしてこんな、何だかなぁな設定を背負わせたんだか・・・・。
朴社長はあの通り、ああいうトンデモなキャラなのだとしても、その人を変に絡めた事によって、兄さんのキャラクター性まで損なわれてしまった気がして、本当にガッカリしたんです。
朴社長に非があるのは言わずもがなですけど、あれでは兄さんも兄さんになってしまう。本当にやるせない。
そして私はこのやるせなさを、品田の尻を眺める事で誤魔化していた、と(笑)。