夢の貌 ― ゆめのかたち ― 17




程なくして、美麗とスタープリンセスプロダクションとの所属契約が無事に締結された。
12月にはレコーディングとCM撮影、年明けの1月にはデビューシングルの発売と幾つかのTV番組への出演、そして2月のバレンタインにはデビューライブの開催とファーストアルバムの発売が既に予定されていて、契約早々、美麗は念願叶ってプロのアイドルとしての仕事にまい進する事となった。
だがそれは、様々な偽りの上に成り立つ成功であり、砂上の楼閣のような危うさを孕んでいた。所属契約に際し、美麗は自分にまつわる幾つもの事実を隠したのだ。
韓国籍である事と朴美麗という本名、契約の場に同席した保護者が実の親ではなく里親である事、現在の住まい、そして何より、間もなく入籍予定の婚約者がいる事。
それだけ沢山の、しかも重大な秘密を抱えての契約は、事務所サイドから見れば騙し討ちのようなものだろう。しかし、それは夢を叶える為に必要な戦略だった。
最初は騙し討ち同然だったとしても、貫き通せばそれが真実になる。たとえ砂の上だろうが、その危うさをよくよく承知した上で慎重に積み上げていけば、必ずや立派な夢の城を築く事が出来る。美麗は勿論、真島も当然そう強く信じていたし、それを成し遂げる覚悟もあった。
幸い、事務所には何一つ気付かれる事も、疑われる事すらも無かった。
女友達と二人暮らしをしていたが、これを機に一人暮らしをすると言った美麗の話を受けて、事務所はすぐさま、所属アイドルの住居用に借り上げている部屋の内の一室を美麗に提供してくれた。
神室町から少し離れたハイソな街にある、オートロックと防犯カメラが備わっているセキュリティ対策万全の綺麗なマンションで、事務所から徒歩約3分というロケーション、そして部屋のマスターキーは事務所が所有と、期待の新人を悪い虫がつかないようにしっかりと管理下に置こうという事務所の思惑が窺い知れる物件である。
これでは一緒に暮らす事など到底不可能だった。が、それでも別段問題は無かった。美麗が引っ越してからほんの少しの間を置いて、真島も同じマンションに転居したのである。美麗が18歳になって間もない、1992年11月中旬の事だった。


「へ〜っ!あたしの部屋と間取りが一緒なんだね〜!面白〜い!」

引っ越し屋が引き揚げて行ったばかりでまだ何も片付いていない1DKの狭い部屋の中を、美麗は弾むような軽い足取りでキョロキョロと見て回っていた。随分としっかりして大人びた娘だが、そうしていると本当に年相応の無邪気な少女だった。


「新しい部屋に、新しい家具、新しい電化製品!ぜーんぶ新しくなっちゃうのって、何か凄い光景だね〜!よく考えたら、滅多にこんな状態にはならないわよね〜!うふふっ!」
「はは、そう言われてみればそやな。」

自分の衣類や貴重品等を除いて、前の部屋で使っていた物は全て、これを機に処分して新しく買い換えた。
荷物の梱包が面倒なのと、新婚だからという名目ではあったが、本当のところはこれもまた手前勝手な打算、己の心の内でとの事を清算する為だった。
が使っていた調理器具、と差し向かいで食事をしたテーブル、と抱き合って眠ったベッド。同じ事を美麗と何度繰り返しても、との思い出は結局塗り潰せなくて、未練を断ち切る為には手放すしかなかったのだった。


「きゃーっ!ダブルベッド広ぉ〜い!場所は塞いじゃうけど、やっぱりダブルにして正解だったね〜!」

美麗は歓声を上げて、寝室のベッドにダイブした。
そして、真新しいカバーが掛かったベッドの上を、小さな子供のようにゴロゴロと転がったかと思うと、不意にピタリと止まって、しおらしい表情になった。


「ごめんね、引っ越しの事。買い物も荷造りも掃除も、何もかも全部吾朗さんに任せちゃって。一人で大変だったでしょ?」
「いやいや、こんくらい全然大した事あらへん。それよかお前の方が大変やろ?休みも無しに、毎日朝から晩まで練習漬けで。
今日の休みかて、マネージャーに頼み込んでやっと半日だけ貰えたんやろ?」
「うん、まぁね・・・・・。ふふっ、ありがと。」

所属契約の日を境に、美麗の生活は激変していた。
契約とほぼ同時だった転居から始まり、以降は毎日ずっと朝から晩まで歌とダンスのレッスン漬けで休む暇も無く、真島が引っ越して来る今日、どうにか午後からの半休を貰うのが精一杯だった。


「ねぇ、暫くあたしに逢えなくて、寂しかった?」
「ああ。」

そう答えると、美麗は嬉しそうに笑って、誘惑的な眼差しを真島に投げかけた。


「・・・今日からここが、あたし達の愛の巣なんだね・・・・・」

そんな歯の浮くような台詞、ならとても言えないだろう。
もし言ったとしても、次の瞬間にはギャグにして笑い飛ばしてしまう。
それに対して自分もおふざけで返して、笑って、笑って・・・・・。
こんな風に、何かの拍子に反射的にとの事を思い出したり、と美麗とを比べてしまう自分とも、もう今日限り決別しなければならなかった。


「あたしと吾朗さんの、二人だけの・・・・・」

この心の内に隠している手前勝手な打算に、美麗は気付いていないだろうか?
いや、多分気付いている。気付いていて、気付かないふりをしてくれているのだ。


「ねぇ・・・・、こっち来てよ・・・・・」

しどけなく横たわっている美麗は、明らかに真島を求めていた。
そのしなやかで魅力的な肢体を前に、真島は先日の嶋野の言葉を思い出していた。
もしもこの娘に、やはり芸能界入りなど許さない、俺の女房として在れと求めたら、どうなるだろうか?
ふとそんな事を考えて、その滑稽さに笑いが洩れた。
お互いに多忙の身、そんな本末転倒な事を考えている暇は無いのだ。


「後でな。それよか先にやらなあかん事あるやろ。ほれ、早よこっち来いや。」

苦笑いで手招きすると、美麗はわざとらしく唇を尖らせ、は〜いと返事をして起き上がった。
ダイニングの、これもまた真新しいダイニングセットの椅子に美麗を座らせてから、真島は書き物の準備を始めた。
今日はこれから、手続きの二度手間を避ける為にわざと保留にしておいた婚姻届を書き上げて、二人で役所へ出しに行く予定だった。
美麗が何とか休みをもぎ取ったのも、この為だった。結婚式も披露宴も行わない、新婚旅行にも行かない、そんな二人にとって、たった一つのイベントがそれだからだ。


「あれ?ねぇ吾朗さん、ボールペンは?どの箱に入ってるの?」

書類も印鑑も出ているのに、肝心のペンが無い事に気付いた美麗は、小首を傾げながら立ち上がった。
そこに積み上がっている段ボール箱を開けようと思っているのだろうが、しかしその必要は無かった。


「・・・これ、開けてみ。」

キョトンとしている美麗の手元に、真島は綺麗にラッピングされたプレゼントの箱を差し出した。
薄く細長いその箱の中身は万年筆だった。美麗のような若い娘には少々渋すぎるデザインだが、一流メーカーのとびきりの一級品である。
ラッピングを解いて箱を開けた美麗は、それを取り出して一層キョトンとした顔になった。


「これ、ペン?」
「万年筆や。ボールペンと違ごて、これやったらずーっと使えるやろ。」
「それはそうだけど・・・・・」

そもそもこれが何の為のプレゼントなのか、何を意味するのか、美麗は全く分かっていないようだった。
狙いは正にそれ、人の意表を突く事にあったのだが、本人にまで気付かれないとは些か突飛すぎただろうかと、真島はまたもや苦笑した。


「それはお前のデビュー祝い兼、誕生日プレゼント兼、結婚の記念品や。まあ言うたら指輪の代わりやな。」

真島がそう説明して初めて、美麗はハッと目を大きくした。


「アイドルがまさか薬指に指輪なんかでけへんやろ?たとえプライベートの時だけやとしても、芸能人はいつ誰にどこから見られてるか分からんし、うっかり外し忘れて仕事に行ってしもたら大変や。
時計やネックレスかて、同じもんをいっつも着けとったら、そのうち勘繰られる恐れがある。そやからそれにしたんや。
万年筆なんて普通、男が女に贈らんやろ?女の子にそんなもんプレゼントすんのは、オトンかジーちゃん位やでな、イヒヒヒ。」

真島が笑うと、美麗も釣られるようにして少しだけ笑った。


「それを見て、あ、この娘結婚しとんなと思う奴はまずおらんて。いつも堂々と持ち歩いとったって誰にも疑われへん。もし誰かに何か訊かれても、お父ちゃんから貰ろたんですぅ〜言うたらしまいや。
どや?ええ思い付きやろ?ちょっと良すぎたか?何せお前も気ィ付かへんかった位やでな、イヒヒヒ!」

我ながら最高の思い付きだと思っていた。
美麗もきっとこの斬新な発想を面白がり、顔を輝かせて喜んでくれると思っていた。


「・・・・そっか・・・・、指輪の代わりか・・・・」

だが、美麗の微笑みは何処かぎこちなく、寂しげだった。
一瞬そう見えたのだが、しかし次の瞬間には、いつもの快活な笑顔が戻っていた。


「だね!これなら絶対誰にもバレないよ!安心してどこにでも持って行けるね!
じゃあもし訊かれたら、親からデビュー祝いに貰いましたって答えるようにする!」
「おう、そうせぇそうせぇ!」
「じゃあ早速使っちゃおっと!」

もしかしたら美麗は、本当に心底からは喜んでいないのかも知れない。
そんな懸念が薄い雲のように真島の心にかかったが、いそいそと書類を書き始めた美麗にそれを確かめる事は出来なかった。


「・・・・・書けた!これで良いんだよね?」

程なくして、美麗は自分の分のサインと捺印を終え、顔を上げて真島に笑いかけた。


「おう、ええと思うで。」
「じゃあ次、吾朗さんね。はい。」

渡されたペンを受け取り、真島は目の前の婚姻届を暫しじっと見つめた。
妻の欄に書かれている名前は、朴美麗。
もう今更消す事も、別の名前に書き直す事も出来ない。
考えてみれば、これも運命、縁というものかも知れなかった。
ならば、こんな極道者よりももっと良い男に愛される。
猛だって、どうせなら堅気の立派な父親の元で育つ方が幸せに決まっている。
と猛はもっと幸せになるべきだと、神様か誰かが決めたのだろう。
そして裏切り者のお前は、償いを果たすその日まで、大きな夢を花開かせようとしているこの娘を影となって支えろ、と。


「・・・・・」

そう。きっと、これが在るべき形なのだ。
これでいい。後悔はしない。
己自身にそう告げて、真島は婚姻届の夫の欄に署名をした。

















こうして、アイドルと極道者との、誰にも秘密の結婚生活は始まった。
皮肉な事に、同棲期間よりも晴れて正式に夫婦となった今の方が、顔を合わせる時間は少なかった。別居になった事も勿論その原因ではあったが、美麗が多忙になり、毎日のように朝早く出掛けて行っては夜遅くまで帰らなくなった事の方が、理由としては大きかった。
大体は事務所内のスタジオで歌やダンスのレッスンをしているようだったが、元々予定されていたレコーディングやCM撮影に加えて営業回りも徐々に始まり、TV局やレコード会社、出版社などに連れ回されるようにもなったのだ。それは都内のみに留まらず、時には泊まりで地方のローカル局などに行かされたりする事もあった。
そんなすれ違いの多い暮らしの中で、どうにか夫婦の時間を取る為に、二人はあるルールを作った。事務所から貸し与えられている美麗の部屋と、真島が住む夫婦二人の部屋、その日美麗がどちらに帰るか、真島のポケベルに毎日その部屋番号を送るというものである。
美麗の部屋なら『901』、真島の部屋なら『704』、そして、帰れない時には『000』。その3種類のメッセージが、夫婦のサインとなった。
『000』の時は勿論、『901』の時も、美麗は留守だと考えるようにしていた。
早朝と言わず深夜と言わず、マネージャーが部屋まで送り迎えに来る事もよくあるので、部屋に来たり電話を掛けてくるのはやめて欲しいと美麗に言われているのだ。だからこの場合は、真島も割り切って自分の時間を好きに過ごしていた。
しかし『704』の時には、出来るだけ早く帰って、美麗と夕食を共にした。
主婦としての役割は求めないとは言ったものの、家で食事をする時は、美麗が嬉々として料理をしてくれた。美麗のレパートリーの中には韓国の家庭料理も幾つかあって、それがまた新鮮だった。
美麗自身は太る事を気にして少ししか食べなかったり、サラダやフルーツといった別メニューを食べていたが、どんなに忙しくても、たとえ自分が食べなくても、真島一人の為に手間を厭わず作ってくれる、その気持ちが嬉しかった。
夫婦の部屋で過ごしている時の美麗は、可愛い新妻だった。
食卓を囲んでいる時、TVを見て笑い合っている時、ベッドの上で華奢な身体を艶めかしくくねらせて喘ぐ彼女を抱いている時、ああ、俺はこの娘を愛しているのだなと、ふと思うようにもなっていた。

そんな日々に慣れてきた頃、真島は意を決して一通の手紙を書き上げた。
に宛てた、結婚報告の手紙だった。
二人の関係はとうに終わっていて、お互い誰と付き合おうが結婚しようが自由である。
だが、理屈の上ではそうであっても、相手は血を分けた我が子を産み育てている女、不義理をする訳にはいかなかった。
転居して住所や電話番号が変わった事を報せずにいれば、父親としての責任を放棄して逃げたと思われる。や猛にそう思われるのは絶対に嫌だったのだ。
顔も名前も、生きているか死んでいるかすら分からない、己の実の父親と同じ穴の狢になる事だけは、絶対に。

熟考し、丁寧に書き上げた手紙を投函したその日は、『901』の日だった。
2〜3日もすればがあの手紙を読む、そう思うと、この期に及んで馬鹿みたいだが、どうしても気が落ち着かなかった。
今夜は美麗も帰って来ないし、思い切り羽目を外して遊ぶかと思った瞬間、ポケベルが鳴った。
『4910611029』、そのメッセージは個人のシノギで使っている中継会社からのものだった。


― 至急TEL・井戸塚、か・・・

その会社は平たく言えば電話番で、事務所を構えるだけの収益が無い零細事業主からちょっと人には言えない訳有りの連中まで、様々な人の電話取次を請け負っている。
嶋野組とは関係の無い仕事を色々と抱えている真島も、顧客としてそこを利用しており、社長の井戸塚という男とは、蒼天堀にいた頃からの付き合いだった。
人が折角遊ぶ気になった途端に仕事かと落胆しながら、真島は近くにあった公衆電話から井戸塚の会社に電話を入れた。


「ああ、もしもし?真島やけど。」
『あ、どうもお疲れ様です!井戸塚です!』
「おう。何や、急ぎの用件かいな?誰からやねん?」
『東京アクターズプロモーションの麻尾さんって方から、ついさっきお電話があったんです。大至急連絡が欲しいそうです。電話番号言いましょうか?それとも、ポケベルに番号送りましょうか?』

その男は確か勝矢のマネージャーだ。
名刺も貰った筈だと財布を探ってみると、記憶通りにそれが出てきた。


「いや、名刺はあんねん。一応番号だけ言うてみてくれるか?」
『分かりました。じゃあ言いますよ?03の・・・』

井戸塚が控えてくれていた連絡先の電話番号は、名刺に記載されているものと同じだった。真島は礼を言って電話を切り、今度は麻尾に電話を掛けた。
取り次いで貰っている間に、悪い予感がじわじわと湧いてきた。ちょっと顔を合わせて挨拶した程度の男が、大至急連絡をくれと言ってくるなんて、どう考えてもあまり良い想像は出来なかった。
だんだんと大きくなる不安を抑えて待っていると、少しして麻尾が電話に出た。


『あ、もしもし?お待たせしました、麻尾です!』
「真島です、その節はどうも。ところで、先程お電話頂いたようですが、どのようなご用件で?」

出来れば、想像より少しでもマシであって欲しい。


『勝矢の事です。本人には口止めされてたんですけど、実はあいつ、先月・・・・』

そんな神頼みのような希望は、残酷なまでに呆気なく、木っ端微塵に砕け散った。
















面会時間はもうあと数十分程しかないようだったが、それなら明日に改めようとはとても思えなかった。
心配で、気になって、居ても立ってもいられなくて、真島はすぐさまタクシーに飛び乗り、勝矢の入院している都内の病院に駆けつけた。
受付で部屋番号を聞き、面会は午後8時で終わりですからと嫌味のように念押しされるのを聞き流してその部屋に向かってみると、入口の所に、確かに勝矢直樹という札が掛かっていた。
どうしてこんな事になってしまったのか。
昂る感情をどうにか抑えて静かに病室のドアを開けると、探すまでもなく、ドアのすぐ手前のベッドの仕切りカーテンに勝矢の名札が付いているのが見えた。


「勝っちゃん、俺や。真島や。」

しっかりと引かれているカーテンに向かって、真島は抑えた声で呼び掛けた。


「・・・・真島さん・・・・?」

すぐに驚いたような勝矢の声が返ってきた。ここが相部屋である事を差し引いても、弱々しい声だった。
真島は一言、入るで、と断ってから少しだけカーテンを開き、そこから潜り込むようにして勝矢の側に行った。


「・・・・勝っちゃん・・・・」

ここに向かっている最中には、言いたい事も聞きたい事も山のようにあった。
しかし、勝矢の痛ましい姿を前にした途端、言葉が出なくなった。
勝矢もまた、何と言えば良いのか分からないという顔をしていたが、やがて気まずそうな顔をしたまま、真島に椅子を勧めた。


「麻尾さんから・・・・聞いたんですよね・・・・」
「さっき電話貰ろたんや。」
「美麗ちゃんは・・・・?」
「まだ知らん。電話もうてすぐ飛んで来たさかい。」
「そうですか・・・・。すみません、心配かけちまって・・・・」

暫しの沈黙の後、勝矢は虚ろな目をして微かに笑った。


「ビルの屋上から隣のビルの窓枠に飛び移るっていうスタントだったんですよ。
難しくはあったんですけど、飛び移りのアクション自体は何度も経験してるし、大丈夫だって引き受けたんです。
そしたら、俺の腕の長さがちょっとばかし足りなかったせいで窓枠をしっかり掴めなくて、手を滑らせて墜落。それで背骨を骨折です。
幸い、麻痺はありませんから、おいおい普通の生活を送れるようにはなるみたいですけど、アクション俳優としての活動を続けていく事は難しいそうです。ざまあないですよ、全く。」

勝矢は自責しているが、麻尾から聞いた話では、向こうの監督や製作サイドにも落ち度があるようだった。


「麻尾さんは、向こうも悪い言うとったで。あいつら当たり前のように、自分ら欧米人のタッパやリーチの長さで計算しよるからやて。こっちの経験不足・実力不足も無いとは言えんが、向こうも考え足らずで傲慢やて。」
「そうだとしても、文句なんか言えませんよ。出来なきゃ出来ないでOK、誰か他の奴にやって貰う、そう言われるだけですから。
俺みたいな一介の役者は、文句も注文もつけられません。グズグズしてたら、他の奴らにあっさりと役を持って行かれて終わっちまう。そういう世界なんです、芸能界って処は。」

力なく笑う勝矢の目は、もう諦めきっていた。
実際、そうするしかないのだろう。
折角進出したハリウッドのエンターテイメント業界からの撤退はおろか、アクション俳優としての道自体も閉ざされてしまったのだから。


「一時帰国からアメリカへ戻ってすぐやったて聞いたで。ほんで11月早々には、もうこっちに戻って来とったんやてな。
何でもっと早よ報せてくれへんかったんや?何で麻尾さんに口止めなんかしとってん?」
「・・・・すみません。色々と落ち着いてから報告しようと思ってたんです。
退院の日も決まってなけりゃあ、今後の身の振り方も定まっていない、こんな状態で報せる訳にはいかないと思って・・・・」

不幸中の幸いにも重篤な後遺症が残る事は避けられたが、アクション俳優としての再起は困難だという診断を下された勝矢は、引退という形で、今まで所属していた東京アクターズプロモーションを退所していた。
事務所としては一応、受ける仕事を選んだり方向性を変えるなどして細々と復帰させる心積もりもあったようだが、アクション俳優である事に生き甲斐と誇りを持っていた勝矢にとって、それはやはり生殺し以外の何物でもなく、敢えなく引退・退所という事になったのだという。
まるで見捨てるようで心苦しいのだが、事務所としてもどうしようもなかったのだと麻尾は言っていた。


「・・・事務所、辞めたんやてな。実はな、麻尾さんからの電話の主だった用件は、勝っちゃんの今後の事、突き詰めて言うと金の話やったんや。」

思った通り、勝矢は表情を固く強張らせたが、避けては通れない大事な話だ。
勝矢にとっては男のプライドを傷付けられるような話になるだろうが、プライドだけで生きていける世の中でもない。勝矢にどう思われようが、真島は己の意向を率直に伝える気だった。


「アメリカでの医療費、大分かかったらしいな。保険下りた分を差し引いても、これまで蓄えとった金全部消し飛んで、それでも足らんかった分と諸々の後始末代や帰りの旅費を、事務所が慰労金として支払ったって聞いたわ。勝っちゃんも事務所もそれでもう一杯一杯で、ここの入院費用もどないして工面しようか頭悩ませてるて。
ほんで麻尾さん、困り果てて俺んとこに連絡してきたんや。何とか勝っちゃんの力になったってくれへんかってな。」

麻尾の話では、勝矢は最悪、サラ金に借金してでも自分でどうにかするつもりでいるとの事だった。
大阪にいる父親を頼れば何とかなる筈なのだが、勝矢は断固としてそれを拒んでおり、父親には絶対に連絡してくれるなと、それこそ固く、固く、口止めしているようだった。


「ここの入院費は俺が出すから心配すんな。退院してから落ち着くまでの生活も面倒見る。これからリハビリもしていかなあかんやろ?すぐ働く事も出来ひんのに、借金なんかするもんやない。サラ金なんぞもっての外や。な?」
「・・・・そんな訳にはいきませんよ・・・・」
「アホ。大怪我して、金も仕事も住む所も無うて、一人でどないしてやっていけるっちゅうねん。大阪の親父さんにはどうしても頼りたないんやろ?ほんなら俺しかおらんがな。片意地張らんと、ここは開き直って甘えとけ。
まずは怪我を治すんが先や。身体さえ動くようになったら、また何なりとやっていける。勝っちゃん若いねんから、また幾らでも人生巻き返せるて。な?」

しっかりと引き結ばれている勝矢の口元が、小刻みに震えた。
もうすぐ面会時間も終わるし、今日のところはこれで引き揚げた方が良さそうだった。


「もう時間やし、今日はこれで帰るわ。また明日、改めて来る。
美麗も、スケジュールがどうなっとるか分からんから、一緒には来られへんかも知らんけど、でも絶対近いうち見舞いに来る筈やから。」
「・・・・美麗ちゃんは、今どうしてるんですか・・・・?」

これもまた、避けては通れない大事な話だった。
勝矢には次に会った時に報告しようと思っていたのだが、まさかこんな状況になってしまうなんて、予想だにしていなかった。
だが、後日に改めたところで、何の意味があろうか。
こんな事になってしまった以上、どのみち勝矢はショックを受ける。だったら今洗いざらい全て言ってしまった方が、ショックを受けるタイミングが1回で済む分、幾らかマシな気がした。


「美麗な、勝っちゃんがアメリカ戻った後すぐオーディションに受かって、スタープリンセスプロダクションっちゅうアイドル事務所と所属契約を結んだんや。
年明けにデビューも決まってる。そやから今は、練習と仕事で毎日ハードスケジュールなんや。」

それを聞いた瞬間、勝矢はまるで時間が止まったかのように、呆然と硬直した。
本来なら、誰よりも喜ぶのは勝矢だった筈なのだ。
祝福したくない訳ではない。妬んでいる訳でもない。勝矢はそんな男じゃない。
ただ、ただ、運が悪かっただけなのだ。


「・・・・それとな、俺ら、先月に結婚したんや。」
「・・・・え・・・・!?」
「美麗が事務所と契約するのに、里親がどうしても許してくれへんかってな。
美麗に迷惑掛けられたないっちゅうのがその理由やったから、せやったら俺が全責任を負うっちゅうて、そういう事になった。只ズルズル同棲だけ続けとんのも、けじめがつかんしな。
せやけど、義務や責任だけで結婚したんとちゃうで。ちゃんと気持ちもある。
事務所にも周りにも隠してコソコソしてる形にはなっとるけど、俺は後ろめたい事をしてるとは思ってへん。勝っちゃんにも、誰にも。」

そう言い切ってしまうと、勝矢は呆然としていた顔を、弱々しいながらもどうにか微笑ませた。


「・・・・それは・・・・おめでとうございます・・・・」
「こんな時に言うような事とちゃうのに、悪かったな。」
「いえ、それとこれとは別ですから・・・・。」

微笑む勝矢の表情が痛々しくてとても見ていられず、真島は目を背けるようにして立ち上がり、ほなな、と言い置いて病室を出た。
ドアを閉めるその瞬間、勝矢のベッドを覆うカーテンの向こうから、ほんの微かにだけ、息を吸う音が聞こえた。
か細く震えていたその音は、必死に抑えている嗚咽の音だった。
真島は音を立てないようにしてドアを完全に閉めると、勝矢と同じように息を殺した。


「・・・・っ・・・・」

こんな残酷な話があるだろうか。
幸せというやつはどうして、皆に同じタイミングで訪れてはくれないのだろうか。
どうして、どうして。
やり場のない悔しさに、真島も拳を握り締め、吐息を静かに震わせた。
















1992年12月。季節は冬の本番を迎えていた。
夏に生まれた猛はもうすっかり首が据わり、小さな前歯も生え始め、しきりに寝返りを打ったり可愛い声を上げて良く笑うようになっていた。
人生最大の激痛を味わった出産から待ったなしで怒涛の育児が始まり、嵐に翻弄されるような毎日を無我夢中で駆け抜けてきたが、5ヶ月経った今は生活のサイクルも次第に出来てきて、母親としての暮らしにも慣れてきていた。
ネオンの瞬く煌びやかな夜の街で、夜毎様々な人達と談笑していた華やかな日々がまるで嘘のように地味な毎日だが、我が子がすくすくと育っていく様を見ていられる今の暮らしは、他愛なくも静かな幸せに満ちていた。


「は〜いただいま〜。お家着いたよ〜。」

買い物から帰宅したは、ベビーカーの中の猛に話しかけつつ、エントランスの郵便ポストを開けた。
大抵はチラシばかりなのだが、今日は珍しく、手紙が1通入っていた。
一瞬、美麗からだろうかと思ったが、違う。美麗の手紙はいつもペン書きで可愛らしくカラフルなものだが、これは白無地の封筒に宛名が筆書きされていた。
畏まった感じの達筆なその字は確か、あまり目にする機会は無かったが、真島がちゃんと気を入れて書いた時の字の筈だった。封筒を裏返して見ると、やはり思った通り、『真島吾朗』と記されていた。


「お父ちゃんからお手紙やわ。何やろなぁ?」

のほほんと猛に話しかけながらも、内心では手紙の内容が気になって気になって仕方がなかった。
猛が生まれたあの日以来、真島とは会っていない。
月に一度、養育費を振り込んだ時に電話をくれるが、会いたいと言われた事も一度も無い。
生まれる前も生まれた日も、あんなに喜んでくれていたのに、もう猛の事になど興味は無いのだろうか?やはり重荷になってきたのだろうか?そんな寂しさや不安が、このところは日増しに大きくなってきていた。
しかし、だからと言って、それを真島に訴えていく筋合いはなかった。
彼のプロポーズを断って別れを告げ、猛を一人で育てると啖呵を切ったのは、他ならぬ自分なのだ。向こうから会いたいと言ってこない限り、こちらから無理に会いに来てと要求する事は出来ない。そう思って、真島からの連絡を只々待つばかりだった。

やっと会いに来てくれるのだろうか?
それとも、電話ではなくわざわざ改まってこんな手紙を寄越したという事は、もしや考えを変えてくれたのだろうか?
やっぱりお前と猛と、自分達の未来の為に生きていきたい、そう思い直してくれたのだろうか?

逸る気持ちをどうにか落ち着かせながら部屋に帰り着くと、まずは猛を居間の座布団の上に寝かせ、手を洗って買ってきた物を片付けてから、封筒を注意深く開封した。
それから、高まる期待に胸を弾ませつつ、手紙の文面を読み始めた。


『拝啓  

寒くなって参りましたが、貴女も猛もお元気ですか?
考えてみれば、貴女に改まってこのように手紙を出すのは、これが初めてです。貴女もさぞや驚かれている事でしょう。
実はご報告しておかねばならない事柄があり、こうして筆をとった次第です。
突然ですが、去る十一月中旬、私、真島吾朗は、朴美麗と結婚致しました。
それに伴い転居しましたので、新しい連絡先も併せてお知らせ致します。
また、貴店での仕事に関しまして、貴女がオーナーとして復帰されるまでは、現状通り不定期ながら続けて参りますが、貴女が復帰された暁には辞職させて頂きたく存じます。
なお、猛の養育費につきましては、約束通りに今後もお送りし続ける所存ですので、ご心配無きよう。
最後になりましたが、貴女と猛のご健勝を心よりお祈り申し上げます。

真島 吾朗』


「・・・・え・・・・!?」

心臓を銃で撃ち抜かれでもしたかのような、凄まじい衝撃だった。
読み間違いだ、目の錯覚だ、そんな風にも考えて文面を凝視してみたが、何度読んでもそこには確かに『朴美麗と結婚』と書かれており、真島の署名の下に覚えの無い住所と電話番号も書き添えられてあった。


「ど・・・・、どういう事・・・・!?美麗ちゃんと・・・・結婚って・・・・」

同姓同名の別人?いや、そんな訳はない。あの子の事だ。
一体、どうしてそんな事になったのだろうか?
一体、いつからそんな関係になっていたのだろうか?
突然送り付けられてきたこんな手紙では、何一つ分からない。
経緯も何も書かれていない、事後報告のみのこんな手紙だけでは、納得なんか出来ない。
激しい動揺と混乱に打ち震えながら、は受話器を取った。
だが、手紙に記されているその電話番号は、手紙の内容が事実であるならば、美麗と構えた新居のものだ。もし美麗が出たらと思うと、とてもではないが掛けられなかった。激しく動揺している今の状態で美麗と直接話す事など、とても出来なかった。
時刻は夕方の4時前、真島は事務所にいるだろうか?そこに電話を掛けた事は滅多に無かったが、新居に掛ける事を思えば、躊躇いは無いに等しかった。
慌ただしくアドレス帳を繰って嶋野組の事務所の番号を探し当て、そこに掛けると、すぐに応答があった。


『はい、嶋野組です。』
「あ・・・、あの、クラブパニエのと申します。いつもお世話になっております。真島さんはそちらにいらっしゃいますか?」
『ちょっとお待ちを。』

流れ始めた保留音を苛々と聞きながら、は真島の声が聞こえてくるのを待った。


『・・・もしもし?』

ややあって、真島が電話に出た。
その声を聞いた瞬間、の不安と動揺はピークに達した。


「あ・・・、私・・・・」
『・・・おう』
「・・・・手紙・・・・、今読んだ・・・・」

どう切り出せば良いか分からなくなって、その一言だけ呟くのがやっとだった。


『・・・すぐに掛け直す。一旦切るで。』

すると真島はそう答えて、電話を切ってしまった。
こうなっては待つしかなく、は電話の前に立ち尽くしたまま、それが鳴るのを只々待った。
さっき一瞬聞いた声は、まるで別人のように冷たく、素っ気無かった。
一体いつから美麗とそんな仲になっていたのだろうか?
5月に会いに来てくれた時には、そんな様子は全く無かった。
猛が生まれた日も、急だったにも関わらず、遠い所をすぐさま駆けつけてくれた。
猛が生まれるまでには、そんな様子は本当に、本当に、微塵も感じられなかった。
なのに一体いつの間に、あの子と結婚までする程の深い仲になっていたのだろうか?
思わず涙が零れそうになったその時、待ちかねていた音が鳴った。
は反射的に受話器を取り上げ、耳に押し当てた。


「もしもし・・・・!?」
『もしもし?俺や。』
「手紙読んだ・・・・。どういう事なん・・・・?」

形式的な挨拶も、猛の近況を話す事さえも出来なかった。
只々、事の次第を問い質す事しか頭になかった。


『・・・どうもこうも、書いた通りや。』
「それがどういう事かって訊いてんねん。まさか同姓同名の別人とちゃうやろ。あんた一体いつからあの子と付き合うてたん・・・・?」
『猛が生まれたすぐ後からや。』
「すぐ後て・・・・。ほな、付き合ってものの3ヶ月や4ヶ月で結婚したって事・・・・?」

それ自体は無い話ではない。
付き合って盛り上がり、その勢いのままスピード結婚するカップルは一定数存在するし、意図せずして子供が出来る事だって決して珍しくない。他ならぬ自分達だってそうだったのだ。
しかし、真島がそういう事をするとは考えられなかった。
温かい家庭を築いて可愛い我が子を育てていく幸せな未来よりも、自分の全てを投げ打つ事になる義兄弟への償いを選んだこの人が、そんなにも簡単に、それもよりによって二人の共通の友達だった女の子と新たに恋をしてのぼせ上がり、その勢いのまま結婚までするなんて。
ましてや、紆余曲折を経てようやく生まれたばかりの猛をよそに、すぐさままた同じ事を繰り返すなんて。


「・・・・そんな事・・・・!」

真島がそんな事をするなんて、考えられない。
かと言って、ずっと前から二股をかけられていたとは、それこそ考えられない。
真島は、から別れを告げる直前まで、お前と子供を幸せにすると言っていたのだ。あの時のあの話が、あの言葉が、嘘八百だったなんてどうしても思えないし、思いたくない。


「・・・・っ・・・・!」

いずれも考えられない。有り得ない。
だが、いずれもの主観に基く推測に過ぎないと言えば、その通りだった。
確かな事実はたった一つ、真島は美麗と結婚した、それだけなのだ。
はっきりと認識してしまったその事実に、堪え切れなくなった涙が零れ落ち、潜めた呼吸が震えた。


『・・・・違うんや、・・・・!』

その瞬間、それまで素っ気無い物言いをしていた真島が、急に必死な声になって訴えかけてきた。


『これには訳があるんや!実は・・』
「やめて!!!」

はヒステリックな叫び声を上げて、真島の話を遮った。
自分でも恥ずかしく思う程のその声が、僅かばかりの理性、いや、女のプライドを、ギリギリのところで保たせてくれた。
は震える吐息を静かに吐き出し、お腹にグッと力を込めた。


「・・・・そんな言い訳みたいな事やめて。そんなんする必要無いわ。
あんまり急な話やったから吃驚しただけ。美麗ちゃんも、何が何でもアイドルになりたい言うてあれだけ必死やったのに、まさかこんなあっさり大事な夢を諦めるなんて思いもせぇへんかったから。」
、ちゃうんや、聞いてくれ!確かに付き合い出してものの3ヶ月4ヶ月や!そやけど惚れた腫れたで軽はずみに結婚したんやない!そうせなあかん事情があったんや!実は・・』
「何やの?子供でも出来た?」
『違う!そうやない!そうやのうて・・』
「じゃあ私には関係無いわ。」

意識して冷ややかに言い放つと、途端に真島の声が止んだ。


「子供出来たって言うんなら、猛の腹違いの弟妹になるから満更関わり無くもないけど、猛に関係無い事やったら私にも関係無い。
あんまり吃驚したから、ついキツい言い方になってもうて悪かったなぁ。でも私の事やったら別に気にしてくれんでええで。
お互い誰と付き合おうが誰と結婚しようが別に勝手やんか。事情や何やって、いちいち言い訳する必要なんか無いやろ。私らもうとっくに終わってんねんから。」

瀕死のプライドがまるで自己防衛のように働いて、冷淡な言葉が次から次へと口を突いて出てきて止まらなかった。


「店の事も、何もわざわざ気ィ遣こて私の復帰を待ってくれんかてええで。何やったら今辞めたら?その方がお互い都合ええやろ。
あんたの後釜の宮本君なぁ、よう頑張ってくれてんねん。今は実質あの子が支配人やのに、いつまでも肩書がフロアリーダーのままやったら可哀想やわ。お給料も上げてあげられへんし。」
『・・・・分かった、ほな、そうさせて貰う・・・・』

こんな事、言いたくない。
店の経営に関しても、真島はずっと力を貸してくれていた。店の存続に関わる窮地も救ってくれたし、開店する前から密かな心の支えとなってくれていた。
それを忘れた訳ではないのに、いや、忘れていないからこそ、言わずにいられなかった。
思い出も、恩も、何もかも忘れたかのような酷い言葉をぶつけて、自分が今味わっているのと同じだけの痛みを、同じだけの苦しみを、真島にも負わせようとせずにはいられなかった。


「店に置いてあるタキシードどうする?送ろか?それともこっちで処分する?」
『・・・・処分しといてくれ・・・・』
「分かった。それと、今後は猛の養育費も無理に送ってくれんでええから。」
『それとこれとは話が別や・・・・!約束は守るて言うたやろ・・・・!』
「そうは言うても、この先途中で気ィ変わる事かてあるんちゃう?
それに、あんたがそのつもりでも、美麗ちゃんはどうやろな。」
『俺の気は絶対変わらんし、猛の事は美麗もちゃんと承知しとる・・・・!』
「それは愛だ恋だで気持ちが盛り上がってる今だけやろ。あの子はまだ若いから何にも分かってないだけや。
時間が経てばだんだん不満になってくる。いずれ子供が出来たらそれこそな。
何で自分とこのお金をいつまでも別れた女と子供に取られやなあかんのって、そのうち文句言うようになってくると思うで。」
『そんな事は絶対無い!とにかく金は受け取れ、ええな!?』

何をもってそう断言するのだろうか?
仮にも東城会の直系組織で若頭を張っている大の男が、恋に恋する年頃の女の子が夢見がちに語る綺麗事を、まさか真に受けているのだろうか?
そんなにも、あの子にのぼせ上がっているのか?
そう思うと、益々もって許せなかった。


「・・・・そう?そこまで言うんなら、ほなお言葉に甘えさせて貰うわ。
そやけど、こっちも何なりとやっていけるし、そっちに迷惑掛ける気も無いから、いつ打ち切ってくれても構へんで。言い訳も断りも要らんし。
送金の連絡も、今後はいちいちしてくれんでええわ。そんなん通帳つけたら分かる事やし、そんな野暮用にかこつけていつまでも私と連絡取ってたら、美麗ちゃんが気ィ悪くするで。
こっちからも、縁起でもないけど猛の命に関わるようなよっぽどの事がない限りは連絡せぇへんから、安心して。」
『・・・・分かった・・・・』
「ほな、最後になったけどご結婚おめでとうございます。どうぞお幸せに。」

こんな祝福の言葉はない。これではまるで惨めな負け犬の捨て台詞だ。
そうと分かっているのに、どうしようもなかった。
電話を切ると、必死に堪えていた涙が、次から次へと溢れてきた。


「・・・・うぅっ・・・・・、うぅぅっ・・・・・!」

実父も継父も初めて付き合った男も、男なんてどいつもこいつもろくなものではなかった。
店のお客達の中にも、正直、商売でなければ関わりたくないような酷い奴等が沢山いたし、パトロンだった佐川に至っては、人がどんな思いで尽くしていたか、その気持ちもお構いなしに、全く悪びれもせず堂々と何人もの女をとっかえひっかえしていた。
けれども真島だけは、あの人だけは違っていた。
あの人だけは裏切らない、あの人の愛情だけは本物だと思っていたのに。
あの人の為にと涙を呑んで身を引いたのに、こんな裏切りを受けるなんて。
そんな激しい怒りと絶望が心の中で嵐のように吹きすさび、を突き動かした。
は大粒の涙をボロボロと零し、啜り泣きながら、ゴミ袋を持ってきて片っ端から真島にまつわる物を捨て始めた。
これまでにプレゼントされたコート、バッグ、ネックレス。それらをゴミ袋に放り込んでいる右手の薬指に未練がましく光っているアクアマリンの指輪に気付いて、それも一思いに引き抜いて一緒に放り込んだ。
真島の衣類や身の回りの物もどんどん放り込んだ。以前、東京に送ろうかと訊いた時、手間も掛かるし処分しておいてくれと言われたものの、何となく捨てられずにそのままにしておいた物だ。
いや、何となくなんかではない。密かな期待があっての事だった。
佐川の死後に再会を果たした時のような事が、またあるかも知れない。いや、猛という二人の血を引く子供がいるのだから、きっといつかまた。そんなひとかけらの期待を、ついさっきまでは心の片隅に密かに抱いていたのだ。
だが結局それは、本当に単なる一方通行の未練に過ぎなかったという事だ。
そんなおめでたい勘違いをして勝手に期待していた馬鹿な自分にもどうしようもなく腹が立って、どんどん、どんどん、動作が荒くなっていった。
真島が置いていった物を全部ゴミ袋に詰め終わると、次はアルバムだった。棚から掻き出すようにして取り出したアルバムも、全てゴミ袋に投げ入れた。
あの人との思い出はもう全部、全部、葬ってしまわなければならない。
他には何か無かったかと顔を上げると、棚の上に飾ってある物が目に入った。


「っ・・・・!」

首に赤いリボンを結んだ、可愛い顔立ちの白いテディベア。
生まれてくる猛の事を想って、真島が贈ってくれたものだ。猛にとってはたった1つだけの、父親からのプレゼントだ。
そしてその隣にあるのは、ポラロイド写真が入ったフォトフレーム。
そこに写っているのは、半死半生の酷い顔をそれでも幸せそうに微笑ませている自身と、生まれたての真っ赤な顔をした猛を抱いて、気恥ずかしそうにはにかんでいる真島。
それがたった1枚きりの、家族の写真だった。


「・・・うぅっ・・・・・!」

そう、家族になる筈だったのだ。
長い間ずっと、疑いようもないほど一途に愛してくれていた。
幸せにすると、何度も何度も言ってくれた。
猛の誕生を、あんなにも望んで喜んでくれた。
そんなあの人を拒んだのは、他の誰でもない、自分だ。
今改めてその事実を噛み締めると、つい今しがたまでの激しい嵐のような怒りが、一気にの身体から抜け出ていった。


「エゥゥ〜・・・」

泣き濡れた目を声のした方に向けると、寝返りを打ってうつ伏せになった猛が、元気良く手足をバタバタと動かしながら、をじっと見つめていた。
何にも知らない、無垢で愛らしい目だ。
この子から父親を奪ったのは自分なのだ。
そう思うと、今更取り返しのつかない後悔がを強く責め苛んだ。


「猛・・・・・!」

は堪らずに猛を抱き上げ、しっかりと胸に抱きしめた。


「ごめんな猛・・・・・!ごめんなぁ・・・・・!」

別れを決めたのは真島の為だった。
あの人が自分の全てを投げ打ってでも貫き通そうとしている生き様を否定したくなかった。あの人の邪魔をしたくなかった。
猛を盾にあの人を縛り付けて、重荷になるつもりもなかった。
そう覚悟を決めて別れたのに、こんなにも憤り、ショックを受け、悲しんでいるなんて、本当にばかみたいだ。
ただ時期が思いのほか早かったというだけで、ただ相手が思いもよらない人だったというだけで、いずれはこういう事も起こり得ると理解していた筈なのに。


「お母ちゃんがアホやったなぁ・・・・!お母ちゃんが・・・・!」

覚悟を決めて腹を括ったつもりが、まるで駄目だった。甘かった。
佐川の愛人になった時もこうだった。頭では理解して毅然と自分の選択の結果を受け入れなければと思っているのに、気持ちがついて来なかった。
何度同じ事を繰り返せば気が済むのだろうか?
よくよく考えてみれば、真島よりも美麗よりも、こんなばかみたいな自分が一番腹立たしく、許せなかった。
あの時の苦しみや悲しみを、どうしてまた繰り返してしまったのだろう?
あんな思いはもう二度としたくないと思っていた筈なのに。
それを忘れる程、あの人の愛情に胡坐を掻いていた自分が、只々愚かだったのだ。


「ごめんな、猛・・・・・!うぅぅっ・・・・・・!」

あの人を憎みたくない、傷付けたくない、そんな自分の姿を猛に見せたくない。
そう思っていた筈なのに、結局はそれをしてしまっている。
何と馬鹿な女、何と愚かな母親だろうか。
裏切りも何も、こうなる選択をしたのは自分自身なのに。


「・・・・ごめ・・・・、ひっ、うぅぅ・・・・!」
「ウゥ〜・・・・、ヒッ、ヒクッ・・・、フギャアァ〜!」

今頃になって深い後悔に嗚咽する愚かな母親に釣られて泣き出してしまった猛を抱きしめて、はひたすらに謝り続けた。




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後書き

さあ、いよいよ韓ドラタイムがやって参りました(笑)!
まずは兄さんとヒロインとの決別という事で、今回のラストは悲しい終わりになってしまいました・・・・。
が、それはひとまず置いておきまして、引き続きストーリーへのツッコミをば。


朴社長の万年筆に関して。
あの謎の写真に比べればマシですが、あれはあれでツッコミどころがありますね。
アイドルのデビュー祝いに万年筆をチョイスするのがまず謎やし(笑)、デザインも女の子にあげるにしては渋すぎるなぁ、と。それならそれで、兄さんならもっと女の子ウケの良さそうな可愛い色のものとか選びそうなのに。
・・・という妄想から、文中の通りの設定にしました。
龍オンに、当時の結婚指輪を密かにまだ持っている事を匂わせるようなストーリーがありましたが、それもひとまず保留です。龍オンも自分ではプレイしていませんし。

それから、二人の結婚生活について。
これ私、普通に同居していたものと認識していたのですが、この回を書くに当たってふと、それ難しくない?と思ったんです。
だって、マネージャーに送り迎えして貰うじゃないですか。電話も掛かってくるでしょうよ、「起きろー!」とか。
時間に不規則なお仕事ですから、24時間いつマネージャーが家に来たり電話掛けてくるか分からないのに、バレないように同居するのはちょっと無理じゃないか?と思ったんです。実家住まいと嘘を吐くのも。
なのでこれについても、文中の通りの設定にしました。

まぁでもホントに、あれこれ隠してデビューというのは、やっぱりマズい。
もしダイナチェアにそういう女の子がいたら、朴社長はきっと容赦ない対応をするんとちゃいますか(笑)?
でも、それは百も承知だった筈です。バレたら只では済まない事ぐらい。
そんな事全然考えてへんかったわ〜、何も気付かれへんと思ってたわ〜、と、兄さんが能天気にヘラヘラしていたとは思えない。
別にバレたらバレたでええがな、ガタガタ言われたらアイドルなんか辞めたらしまいやとか、朴社長の夢を軽んじていたとも思えない。
そんな節があったら、朴社長はあんなに思い出を美化し続けていないと思うし、何より真島吾朗美化委員会といたしましては、くどいようですが、兄さんはそんなしょーもない無責任なアホ男じゃないと声を大にして言いたい。(←声の代わりにフォントを大きくしました)
だから、二人の結婚生活は、やっぱり兄さんの理解の上に成り立っていたと思うのです。


話は変わりますが、中継会社の社長の井戸塚は、龍0サブストのショルダーフォンの男です。
あのサブストのその後をちょびっと妄想してみました(笑)。
ママにショルダーフォン買って貰って、ママといつでも話せる〜と喜んでいたマザコン坊ちゃんが、真島の兄さんとの出会いを経て(どうにか)一人前の男に成長していると良いなぁ、と思いまして。
でも会社の資本金はママに出して貰っているに違いないんですけどね(笑)。