夢の貌 ― ゆめのかたち ― 16




「うわぁ〜!可愛いなぁ〜!」

腕の中にすっぽりと収まっている猛の顔を覗き込んで、勝矢は元々柔和な目を更に優しく細めた。


「俺、赤ん坊抱っこしたの初めてなんですよ〜。こんな小さいんですねぇ。うわぁ、ほっぺたプクプクだぁ。手も足もムチムチしてる・・・。あっ、笑った・・・!」

初めてだという割には、赤ん坊を抱いてあやす姿がなかなか様になっている。
勝矢の腕の中は居心地が良いのか、猛もご機嫌だ。
思いがけず訪ねて来てくれた友人と我が子との微笑ましい交流を眺めながら、はダイニングでお茶の支度をしていた。


「勝っちゃん、赤ちゃんあやすの上手やなぁ〜!」
「そうですか?ああでも、ヒーローショーの仕事の経験が活きてるのかも。ショーの最後に、チビっ子達を抱っこして記念撮影とか握手会とか、よくやってたんで。でも流石にこんな小さな赤ん坊は抱っこした事ありませんでしたよ〜。」
「あ〜、そっかぁ!そう言えばそんな仕事してるって言うてたもんなぁ。」

熱い紅茶とケーキや焼き菓子をトレーの上に用意すると、はそれを勝矢のいる居間へ運んで行った。


「は〜いお待たせ〜!お茶どうぞ〜!女子供のおやつタイムみたいになってもうて悪いんやけど。ふふふっ。」
「いえ、甘い物も好きなんで嬉しいです、ありがとうございます。すみません、気を遣わせて。」
「ううん、全然!猛貰うわ。抱っこしとったらお茶飲まれへんやろ?」

猛を抱き取ってベビーラックに寝かせてから、はその隣に腰を下ろした。


「そやけど、こないだ電話貰ろた時は吃驚したわ〜!まさかそっちから連絡貰えるとは思ってなかったから、もうちょっとしてから年賀状代わりに、ここの住所や電話番号も含めて色々報告の手紙書こうと思っててん。手間かけさせてごめんなぁ。」
「こっちこそ、何もかも急ですみませんでした。向こうじゃ忙しくて、なかなか手紙書く余裕も無くて。」

勝矢が一時帰国している事を知ったのは、数日前だった。
店を任せているゆかりから、勝矢という人から連絡を取りたいという電話が掛かってきたが、の自宅の番号を教えても良いかという取り次ぎの電話があったのが発端だった。
それからすぐに勝矢から電話が掛かってきて、互いの近況報告から猛の顔を見たいという話になり、今日の来訪に至っていたのである。
勝矢は紅茶を一口飲むと、バッグから祝儀袋を取り出して、の手元に差し出した。


「これ、俺と美麗ちゃんからの出産祝いです。本当に気持ちだけなんですけど。」
「ああ・・・!ありがとう、気ィ遣わせてごめんなぁ!」

表書きは『勝矢』と『朴』の連名になっていた。
暫く目にしていなかったその名前を見た時、ずっと心の片隅でモヤモヤと蟠っていたものが薄らいでいくような気になった。


「美麗ちゃんは元気?最近どないしてやる?」
「ええ、元気ですよ。相変わらずみたいです。」
「そう。」

美麗とは暫く疎遠になっていた。7月に猛の誕生報告を兼ねて今の連絡先を知らせたのだが、それに対しての返事も無いままだった。
手紙を出せば1週間と経たない内に返事が返ってきていた今までの事を思えば、何より、彼女と最後にやり取りした時の事を考えれば、それがわざとであるのは容易に察しがついた。
しかし、こうして勝矢に祝いを託してくれたという事は、美麗もあれからずっと気にしていたという事だろうか?だとすれば、仲直りのきっかけに、これは丁度うってつけだった。


「勝っちゃんはいつまで日本におれんの?いてる間に内祝い送りたいんやけど、どこに送ったらいい?美麗ちゃんとこに二人分一緒に送ってええんかなぁ?」
「え・・・・?」

のその質問に、勝矢は一瞬、動揺したように目を泳がせた。
そんなような気がしたのだが、気のせいだっただろうか?次の瞬間には、勝矢はもう元通りの穏やかな微笑みを湛えていた。


「そんなのいいですよ。ホントに気持ちだけなんで、気を遣わないで下さい。美麗ちゃんもそう言ってたんで。」
「でもそんな訳には・・・」
「いえ本当に。気持ちは有り難いんですけど、俺もまたすぐアメリカに戻りますし、美麗ちゃんも都合が悪いみたいで。
あの例のルームメイトの子が色々とうるさく言うそうで、電話は勿論、郵便物が届く事にも良い顔しなくなって、喧嘩になるらしいんです。」
「そう・・・・・」
「ですから、本当にどうかお構いなく。美麗ちゃんの事は、彼女から連絡があるまでそっとしておいてやって下さい。」

そういう事なら、無理に義理を通そうとする方が却って迷惑になる。
美麗との仲直りは、また別の機会を待つしかなさそうだった。


「・・・分かった。ほな、貰うだけになって申し訳ないけど、有り難く。美麗ちゃんにも宜しく言うておいてな。」
「はい。」
「そやけど、暫く連絡取ってへんかった間に、また一段と厄介な事になってたんやなぁ・・・・。美麗ちゃん大丈夫?そんなんでまともに暮らせてやんの?」
「・・・・何とかなってはいるみたいですよ、一応・・・・・。」
「そう、それやったらええんやけど・・・・」

美麗には何の力にもなってあげられないままだった。
最後のやり取りが後味の悪いものになってしまい、出来ればそれをすっきりさせてまた以前のようになれたらとは思うが、女手一つでの子育てを始めたばかりの今、以前のような友達付き合いをする余裕はとても無い。
たとえ何らかのタイミングで仲直りを図っても、結局はやはり疎遠になっていってしまうのだろうと思うと、改めてあの最後のやり取りが悔やまれてならなかった。


「・・・・暫く連絡取ってなかったって、どれ位ですか?」
「もう半年ちょっと位になるかな・・・・。2月早々に店引退してすぐ、妊娠した事を手紙で報告したら、電話が掛かってきてな。その時のやり取りが最後。」
「その時のやり取りって、どんなだったんですか?」
「実はちょっと揉めたっていうか・・・、私があの子の事を怒らせてもうてん。」
「怒らせたって、何で?」
「私その手紙にな、多分結婚はせぇへんと思うって書いてん。
ほんでその事で電話が掛かってきて、何で結婚せぇへんのって訊かれてな。
吾朗と私の望んでる事が食い違っててお互い譲られへんねんって説明したんやけど、納得して貰われへんかってん。
そら美麗ちゃんの言うてた事は正論やったんやけど、私も自分なりに色々悩んだ末に出した結論やったから、あんまりガーガー言われると、だんだん辛なってきてな。これは私と吾朗との事やからって突っぱねてしもて。」

あの時、もっと上手くやれていたら。
幾ら気持ちに余裕が無かったとはいえ、十も年上なのだから、もっと何か上手い言い方を冷静に考えるべきだったのに。
後の祭りではあるが、そう悔やまずにはいられなかった。


「・・・美麗ちゃん、何て言ったんですか?」
「吾朗が自分の組持って出世したがるのは当然や、それを店とか実家の親兄弟とか、私の我儘の為に諦めて欲しいなんて思うのは間違ってるって。」
「でも、真島さんが自分の組を持って出世したがっているのは、自分の為じゃなくて真島さんの兄弟分の為だって、さん言ってましたよね?真島さんが昔裏切ってしまったというその人への償いに、自分の何もかもを差し出すつもりなんだって。
それって金とか地位とか、そんなものだけの話じゃないんじゃないですか?
俺も、ほんの数年ばかりでしたけど、極道の親父の元で育ちましたから、少しは知ってるんです。極道の『けじめ』ってやつがどういうものか。」

正に図星だった。
勝矢の知っているそれは一体どんなものだろうか?
聞かせてと口に出す事は恐ろしくて出来ないが、かと言って聞かずに済ます事も出来ず、は自分の消極的な意思を視線に込めて勝矢に向けた。


「俺が中2の時です。一度だけ偶然見ちまった事があるんです。うちの親父の目の前で、組の人間がけじめをつけるところ。」

勝矢はのそんな気持ちを汲んだかのように、静かに語り始めた。


「その人は当時の若頭でした。何があったのか、詳しくは知りません。ただ、立ち聞きした話から考えるに、何か組の重要な情報を敵対組織に洩らし、親父を裏切ってそっちに寝返ろうとしていたようでした。
俺が今でもはっきり覚えているのは、その時のその人の顔です。」
「顔・・・・?」
「その時、そこには親父とその人しかいませんでした。歳だってその人の方が断然若くて、手には拳銃も持っていた。
だけどその人はそれを、じっと立っているだけの親父じゃなく、自分の頭に向けた。
その時の顔が、何というか、壮絶な気迫に満ちていたんです。ヤケクソになって取り乱すでもなく、震え上がって命乞いする訳でもなく、ただ落ち着いた顔でじっと親父を見据えながら、その人は引き金を引きました。
それで思わず声を上げちまって、隠れていた事が親父にバレました。
目の前の状況も怖ぇし、こっちに近付いて来る親父も怖ぇし、その場でガタガタ震えて泣いてると、親父は俺を殴ったり怒鳴ったりせず、ただ一言だけこう言ったんです。よく覚えとけ直樹、これが極道の『けじめ』だ、って・・・・」

思わず息を詰めてしまう程の恐ろしい話だった。
そんな凄惨な光景をまだ子供の時分に見てしまった勝矢が心の底から気の毒になると同時に、その当時の勝矢につい猛を重ねてしまって、背筋が凍りつくようだった。


「・・・・さんが本当に譲れないと思っているのも、それなんじゃないですか?
真島さんが兄弟分に対して、極道としての『けじめ』をつける事。それをやめて欲しいんでしょう?」

真島がそんな風になるところを見たくない。猛にも見せたくない。
この思いはきっと、真島も分かってくれている筈だった。
けれども真島は、それを分かった上で、極道として自分の生き様を貫く事を選んだのだ。


「どうしてそれを美麗ちゃんに言わなかったんですか?その本当の思いを話していれば、美麗ちゃんもさんの事を責めなかったんじゃ?」
「・・・言われへんわ。勝っちゃんにはつい口を滑らせてもうたけど、そんなん吾朗自身も誰にも言うて回ってないのに、私が誰彼構わずペラペラ言い触らしてええ事とちゃうもん。
ましてや美麗ちゃんはまだ子供で、極道の世界とは何の関わり合いもないやろ。そんな話、とても出来へんわ。」

人の気持ちは変えられない。
誰が何と訴えかけようが、その人自身が変えない限りは変わらない。
それは真島だけに限った事ではなく、自身にも言える事だった。


「それに、美麗ちゃんの言う事もホンマやねん。吾朗な、組の親分さんから、大阪に新しく作った会社の副社長になれって言われとってん。」
「会社?」
「うちとこみたいな夜の店をチェーン展開する会社やねんて。ほんで、今後はずっとこっちでその会社の仕事に専念してくれって頼まれとってん。
吾朗は自分の望みが叶わんようになる言うてその話を断ったんやけど、私はそれを引き受けてって言うてん。
妊娠する前に初めて聞かされた時には、吾朗の意思が一番大事やと思っとったのに、猛がお腹におるって分かった途端に気が変わった。
これから子供産んで育てていく身にとっては、物凄い魅力的な話やってん。吾朗にとっては、自分の夢を断たれるのも同然の残酷な話やのにな。
そやから美麗ちゃんの言う通り、私の我儘でもあるねん。そこは否定出来ひんもん。」

がそう言うと、勝矢は辛そうに眉を顰めた。


「・・・・それで、真島さんと別れたんですか・・・・?」
「うん。お互い色々考えはしたんやけど、猛が生まれる直前に私から言うた。」
「本当にそれで良かったんですか?」
「え・・・?」
「真島さんと別れた事、本当に後悔していないんですか?」

お互いにどうしても譲れない思いがあった。
別離はその結果。自分で選んだ道だ。
双方それぞれに色々と考え、悩み、その上で出した結論だ。後悔などある筈もない。


「・・・・ふふっ、えらいどストレートに訊くなぁ。」

平然とそう言い切ってしまわなければならないのだろう。
だが頭では分かっていても、の心はまだ真島を愛していた。


「全然後悔してない・・・、って言うたら嘘や。
そやけど、もし結婚しとっても私は多分、吾朗の邪魔になってたと思う。
吾朗の生き様を否定して、自分の望みを押し付けて、掌返したように吾朗のやる事なす事に不満を持つようになってたと思う。
そんなんなって、吾朗に嫌われて憎まれる位なら、お互い嫌いにならん内に別れたのは正解やったと思ってる。猛の為にもな。
たとえ一緒には暮らされへんでも、滅多に会われへんでも、両親が穏やかな関係でおれる方がこの子にとってもええと私は思ってるねん。うちの実家は、狭い家の中で仲悪い親が顔突き合わせて毎日大喧嘩しとったような家やったから。」

自分の気持ちの問題は、自分で解決をつけるしかない。だから断じて勝矢に心配をかけたり、同情を引こうなどという気は無かった。
しかしふと気が付くと、勝矢はまた辛そうな、切なげな目をしていた。


「・・・・本当に・・・・それで良いんですか・・・・?」
「え・・・・・?」
「本当はまだ好きなのに、その気持ちに蓋をして・・・・、本当にそれで良いんですか?さんも、真島さんも・・・・」

まるで彼自身が傷ついているかのような勝矢の様子に、は内心で戸惑った。
そうさせてしまっているのは自分だと分かってはいるが、それにしても友人としての程度を些か超える位に辛そうな顔をしているのは、どうしてなのだろうか?


「・・・・例えば、もしもさんが他の男のものになったら・・・・、あの人はどう思うでしょうね・・・・」

全く分からなかった。
何故勝矢がこんなに辛そうな顔をしているのかも、そんなおかしな事を訊くのかも。
店に出ていた頃ならいざ知らず、色気ゼロの今の自分のどこをどう見ればそんな発想に至るのか不思議でならず、は思わず笑ってしまった。


「あはははっ!それは無いわー!見ての通り、四六時中この子とベッタリやねんで?
もーホンマに猛が生まれてからというもの、行くとこ言うたら近所のスーパーか実家か小児科だけやで!?こんなんで新しい出会いなんかある訳ないや〜ん!」
「そんな事ありませんよ。」
「え?」
「今、さんの目の前にいるじゃないですか・・・・」

を見る勝矢の眼差しは、女を掻き口説く時の男のそれだった。
大人しくて気の良い好青年、出会った時からずっとそんな印象だった勝矢が初めて見せた『男』の顔に、驚かずにはいられなかった。
店の客なら上手くあしらってかわせるが、相手が弟のように思っている友人となれば話は別で、はただ呆然と勝矢のその真剣な眼差しを受け止める事しか出来なかった。
すると、勝矢は突然またその表情をコロリと一変させ、いつもの温和な笑顔になった。


「・・・なんてね。ウソウソ、冗談です。」
「な・・・、何やもうー!ビックリするやーん!ビックリしすぎておもろい返し出来ひんかったやんかぁー!もー!」

悪ふざけをするようなタイプではない筈の勝矢が、何を思って急にあんな事を言ったのか、気にはなるが追究する事は出来なかった。
今は猛を育てるのに必死で、他の事など何も考えられないし、考えたくもない。
この心の中には、まだ真島に対する愛情が燻っているのだから。
今しがたの勝矢のハッとするような眼差しを無かった事にしてしまいたくて、は大袈裟な位に明るく笑い飛ばしてみせた。

















勝矢が再びアメリカへ飛び立ったのは、10月半ばだった。
彼がその報告をくれたのはフライト直前の電話で、真島がそれを知ったのは自宅の留守番電話の録音を聞いた時だった。
親しげな口調、行ってきますという元気な声、以前の勝矢と何も変わらないそのメッセージが、少し遠く、余所余所しく聞こえたのは、きっと自分が変わったからなのだろう。自分が何もかもを変えてしまったからなのだろう。真島はそう考えていた。
が去り、勝矢が去り、今の真島の側にいるのは朴美麗ただ一人だった。
部屋に彼女が住み着いた事の他には何ら変わりの無い相変わらずの日々を、真島は何処か諦めの境地で淡々と過ごしていた。
時折、この生活は一体いつまで続くのだろうかと思う事はあったが、自分から変化を起こす必要性も感じられず、なるようになるだろうと、只なりゆきに任せて。
ところが、そんな日々に大きな変化が訪れたのは意外にも早く、勝矢が再び渡米してほんの数日ばかりが過ぎたある日の事だった。


「吾朗さん!」

いつも通り、夜遅くになって帰宅すると、部屋から美麗が駆け出して来て、そのままの勢いで真島に抱きついてきた。


「うぉっ!何や、どないしてん?」

こんな熱烈な出迎えを受けたのは初めてで驚いたが、甘えているのかと思うと悪い気はしなかった。
だがそれは、恋人に甘えたいという女心からの行動ではなかった。


「吾朗さん・・・、あたし・・・、オーディション受かった・・・・・!」
「え・・・・・?」
「こないだ受けた、スタープリンセスプロダクションっていうアイドル事務所の新人発掘オーディション、あれに受かったの、今日合格の連絡が来たの・・・!そこに所属して、年明けにはデビュー出来るって・・・・・!」
「ホンマか・・・・・・!!」

純粋で大きな喜びが、真島の心の中にもすぐに湧き上がってきた。


「やったー!良かったやんけー!おめでとうさん!よう頑張ったよう頑張った!」

真島も同じように美麗を抱きしめ返し、ようやく念願叶った彼女を心から祝福した。
しかし、真島の胸から顔を上げた美麗は、どういう訳か辛そうな表情をしていた。


「だけど、事務所と契約するのに、身元保証人が必要なの・・・・。」
「身元保証人?」
「要するに親よ。あたしは未成年だから、親の同意が必要なんだって・・・・。
だからあたし、すぐ里親のとこに頼みに行ったの。だけどあいつら、あたしがどれだけ頭を下げて頼んでも、好き勝手して出てった奴の頼みなんか聞いてやる義理は無いって・・・・!」

美麗はわなわなと唇を震わせたかと思うと、大粒の涙をボロボロと零し始めた。


「やっとチャンスを掴んだのよ・・・・!やっと、やっとだったのに・・・・!
ねぇあたしどうしたら良いの吾朗さん・・・・!諦めたくないよ・・・・!あたし絶対諦めたくない・・・・!」

美麗が顔を歪めて号泣するところなど、今まで見た事が無かった。


「な、泣くなやぁ!当たり前や、諦める事なんかあらへん!身元保証人?んなもんどうとでもなるやろが!」

痛々しいとさえ思えるようなその泣き顔に胸を酷く締めつけられ、何とかしてやりたい、俺がどうにかしてやらねば、そんな気持ちが自然と湧いてきた。


「んなもんバカ正直に頼む事なんかあらへんがな!その保証人の欄に里親の名前を書いたらしまいやろ!?印鑑もそこらですぐ買えるんや!
何やったら俺の名前を書いたって構へんねん!身内とでも親戚とでも適当に言うたらしまいや!そやろ!?」
「ダメ・・・・!それじゃダメなの・・・・!」

しかし美麗は、益々泣きながら首を振った。


「ただ書類にサインするだけじゃなくて、契約書を交わす時に、親にも同席して貰わなきゃいけない決まりなの!親に内緒で勝手に契約してトラブルになる子がいるから、それを避ける為にって・・・・!」
「チッ、そういう事か・・・。ほなやっぱり俺の名前を書けや!その契約にも勿論一緒に行ったるし!な!?」
「それも無理なの・・・・・!」

美麗はまたも首を振った。


「オーディションを受ける時の経歴書に家族構成を書く欄があって、もうそこに里親一家の事書いちゃってるの、両親と姉2人って!
吾朗さんじゃその家族構成に合わないのよ!どう見たってあたしの父親には見えないし、兄もいないのに・・・・!」
「うぅっ・・・・!」
「それに、契約する条件として、まず第一に恋愛は絶対禁止って言われてるの・・・・。彼氏は勿論、男友達もダメ、たとえ兄弟や親戚だって、誤解されるような年齢の男の人とは二人きりで会っちゃいけないって・・・・。
最初からそうやって釘を刺されてるのに、契約の時に吾朗さんを連れて行ったらきっと怪しまれる・・・・!そしたらデビューの話どころか、契約そのものだってどうなるか・・・・!」
「ぬぅぅ・・・・」
「悔しいよぉ・・・・!こんな事で諦めなきゃいけないなんて、悔しすぎるよぉ・・・・!」

己の胸にしがみ付いておいおいと咽び泣く美麗を抱きしめてやりながら、真島は必死に考えを巡らせた。
どうしても里親でないと駄目だというなら、彼らを説得するしか道は無い。
問題はそれをどうやるかだ。


「お前の里親は、何で引き受けてくれへんのや?お前の頼みなんか聞く義理は無いって、それは本気でそない言うてるんか?それとも、お前を心配して反対しとるんか?」
「本気に決まってるじゃない!あいつらはあたしが邪魔なのよ、只それだけ・・・・!」

美麗は真島の胸から顔を離すと、泣き濡れた瞳に怒りを湛えて真島を見上げた。


「泣いて土下座までしたあたしに、あいつら何て言ったと思う?お前みたいなブスがアイドルになんかなれる訳ない、どうせ詐欺に違いない、騙されてAVにでも出演させられるのがオチだって・・・・!そんな胡散臭い契約の保証人なんかになって、借金や警察沙汰なんかに巻き込まれでもしたら堪んないから、絶対お断りだって・・・・!」
「ほな、お前が騙されてえらい目に遭う事を心配してる訳やないんやな?それを心配して、契約に反対してる訳やないんやな?」
「そうよ!あいつらはあたしがどうなろうがどうでも良いの!自分達にさえ迷惑かからなきゃそれで・・・・!」

今、目の前で泣きじゃくっている美麗は、孤独だった。
この娘には俺しかいない、美麗を助けてやれるのは俺しかいない、そう思うと、不意に亡き佐川の事が思い出された。
本当に、最低最悪の男だった。
心底惚れ合っている若い二人を年甲斐もなく残酷に引き裂き、親子程も歳の離れた堅気の娘を容赦なく寝取って自分の情婦にした、鬼畜のような男だった。
だが、もしかするとあの時の佐川も、こんな気持ちだったのだろうか?
組を追われた半端者のガキとままごとをしていたってこの娘は救われない、家族を背負って夜の世界で必死にもがいているを助けてやれるのは俺しかいない、と。
別にあの男を美化してやるつもりは更々無いのだが、そんな考えが今突然、ふと真島の頭を過ぎった。


「・・・・泣くなや・・・・」

今ならまだ、引き返そうと思えば引き返せる。
何の力にもなれない役立たずの男になって、ただ弄んだだけの酷い男になって、美麗の失望と憎しみを甘んじて買えば、今ならまだ傷は浅く済む。
美麗との関係を知っているのは遠く離れたアメリカにいる勝矢ただ一人で、は多分まだ何も気付いていないから、何なら最初から何も無かった事にさえ出来るかも知れない。
それでも、本当にやるのか?
頭の中に閃いた考えを口にする前に、真島は己の胸にそう問いかけた。


「・・・・・一つだけ、解決出来そうな方法を思い付いたわ。」
「え・・・・・?」
「結婚しよや。」

真島のその言葉を聞いた途端、美麗はピタリと泣くのをやめて、悔し涙に濡れていた瞳を小さな子供のように丸く見開いた。


「ちゃんと籍入れて、正式な夫婦になるんや。ほんならそっから以降は、お前に何かあっても全責任は亭主の俺が負う事になる。借金やろうが警察沙汰やろうがな。それやったらお前の里親も文句は無いやろ?」
「・・・・・・え・・・・・・・?」
「お前の里親には、結婚の承諾と事務所との契約の事を俺から頼む。必ず説得するから心配すんな。向こうの都合さえつくんなら、明日にでも早速行こうや。」
「ちょ・・・・、ちょっと・・・・、待って・・・・・?」

とんでもない急展開に、流石の美麗も呆気に取られていた。


「結婚って・・・・、本気なの・・・・?恋愛だけでも厳禁なのに結婚だなんて、そんな事がもし事務所にバレたら・・・・!」
「それは隠し通すしかないやろ。そやけど、そない難しないと思うで。俺も時間に不規則な稼業やし、お前もこれから芸能界入りするとなったら忙しなるやろ。二人で出歩くどころか、家で一緒に飯食う暇も無くなるんとちゃうか。」
「・・・・そうよ・・・・、あたしはこれから芸能界入りするの・・・・・」

美麗は小さな声でそう呟くと、いつもの強気な眼差しに戻った。


「あたしはトップアイドルになるの。その辺の普通の主婦と同じにはなれない。炊事洗濯掃除して、毎晩家で吾朗さんの帰りを待ってる事なんて出来ないのよ?」
「そんなんして欲しいなんて思てへん。お互い忙しいんやから、そんなもんはお互い適当にしたらええ。」
「吾朗さんの仕事にだって協力出来ないわよ?任侠映画の極道の妻みたいな役割をあたしに求められても無理だから。」
「分かっとる。大体、俺らの関係は絶対隠し通さなあかんねんから、そんな事させる訳ないやろ。」
「子供だって作れないわよ?一生産まないかも知れない。それでも良いの?
あたしはさんとは違う。あたしはあの人みたいには絶対なれないし、ならない。それでも本当に良いの・・・・?」

いつもの強い瞳が、真島を鋭く射抜いた。
美麗は多分、の代わりにされる事を恐れているのだろうが、それは思い違いだった。
真島が心の片隅に隠し持っているのは、美麗をの身代わりにしようという企みではなく、これでへの未練を完全に断ち切る事が出来るのではないかという、手前勝手な打算だった。


「・・・当たり前や。俺はな、嫁や子供が欲しゅうてこんな事言うてるんやない。俺はお前の夢を支えたいんや。」

牽制するような美麗の瞳を見つめて、真島は微笑みかけた。


「夢なんてもんはな、見るのはタダやが叶うとは限らん。アイドルなんてそれこそ難しい。そのチャンスを折角掴んだお前の力になりたいねん。只それだけや。
お前ならきっとトップアイドルになれる。そうなれるように、俺が支えたる。」

と別れた辛さから逃れるようにして、なし崩しに始まった関係だった。
それを只ズルズルと惰性で続けていても、への未練と罪悪感がずっと燻り続ける。それではに対しても美麗に対しても不実だ。
だから、美麗との関係にきちんとけじめをつける事で、それをすっぱりと断ち切る。
と美麗、どっちつかずの中途半端な己の気持ちに、きっぱりとケリをつける。


「猛の事があるから、との縁は完全には切れへん。には毎月猛の養育費を送ってて、猛が一人前になるまで続けていく気や。
その事と、俺の立場上、組の親父にだけは報告と挨拶をせなあかんから、その時だけはお前にも親父に会うて欲しい。
俺がお前に理解して欲しいのはその2つや。他には俺に対してどうこうして欲しいなんて一切求めへん。
普通の主婦にも極道の女房にもならんでええ。子供も要らん。お前は自分の夢を叶える事だけに専念したらええ。お前がスターになった姿、俺に見せてくれや。な?」
「・・・・・吾朗さん・・・・・!」

そんな手前勝手な打算を隠し通す代わりに、星の如く輝こうとしているこの娘を、影となって支えよう。
再び大粒の涙を零しながら胸の中に飛び込んできた美麗を抱きしめながら、真島は今、そう決意していた。















誰にも秘密の結婚とはいえ、どうしても報せておかなければならない人はいた。
まず第1は、美麗の里親夫婦である。
プロポーズの翌日、真島は早速美麗と共に彼らを訪ねて行った。
彼らは神室町近くのコリアンタウンで小さな食料品店を営んでいた。随分と年季の入ったお世辞にも綺麗とは言い難い店で、軒先の冷蔵ケースの中には何種類ものキムチや惣菜が並び、店内には乾物や調味料などが所狭しと置いてあった。
そして、肝心のその里親夫婦はというと。


「昨日は芸能事務所と契約するから保証人になれ?
で、今日は結婚するから婚姻届の証人になれ?
ふざけんじゃないよ毎日毎日!こっちは休む暇もなく働いてクタクタだってのに、よくもまあプラプラやって来ちゃあそんな寝言ばっかり言えるもんだわ!」

残念ながら、概ね美麗から聞いていた通りの人物だった。
美麗の生みの母親の実兄、つまり美麗の実の伯父にあたる養父は、ろくに物も言わない不愛想な男で、その女房である美麗の養母は、亭主の分を補って余りあるほど口の立つ、性格のきつそうな女だった。


「2年ぶりに顔見せたと思ったら、やれ芸能界だのやれ結婚だの!嘘でももうちょっとマシな話持ってこれないのかお前は!」

養母は美麗を憎らしげに睨みつけて捲し立てると、今度はその目を真島にも向けた。


「よりにもよってこんなタチの悪そうなヤクザなんか連れて来て!こんな胡散臭い男がお前みたいな小娘と本気で結婚しようと思ってる訳がないだろ!美麗、お前は騙されてんだよ!
もしかしてこの男、その事務所の奴じゃないのかい!?うちに入ったら芸能人になれるなんて上手い事言って世間知らずのバカな小娘を騙して、親からガッポリ契約料取ってんだろ、ええ!?そうだよ、そうに違いないよ!ねえアンタ!?」
「ああ。どうせそんなこったろ。」
「私達から大金巻き上げて、美麗はいやらしいビデオにでも出させて、金儲けしようって魂胆だろうがそうはいかないよ!
残念だけどね、うちにはお金なんか無いよ!こんな厄病神みたいな貰いっ子に使う金なんかホントにもう1円だって無い!
真島って言ったっけ?あんた知ってんのかどうか分かんないけどね、美麗はうちの子じゃないの!うちの人の妹が昔捨ててった子を、引き取ってうちで育ててやったんだよ!うちだって貧乏で娘も2人いて大変なのにさ!
それを有り難いとも思わないでワガママ放題好き放題して散々迷惑を掛けた挙句に家を飛び出してって、かと思えば突然こんなろくでもない男連れて来て・・・・!母親そっくりのアバズレだよ全く!」

美麗が何か言い返そうと口を開きかけたが、真島はそれを制した。
歓迎などされない事は最初から分かっていたし、ここでカッとなって彼らと揉めても何にもならない。大切なのは自分達の感情ではなく、目的の達成なのだから。


「確かに俺は仰る通りのヤクザ者ですが、美麗ちゃんが契約しようとしている芸能事務所とは無関係ですし、その話も詐欺なんかやありまへん。
美麗ちゃんはちゃんとしたアイドル事務所のオーディションに合格して、見事にデビューを勝ち取ったんです。ホンマに芸能人になるんですよ。
そやけど、その為には親の同意が要る。書類にサインするだけやのうて、実際にその契約の場に出向いて同席して貰わなあかん。それをどうしてもお宅はんらにやって貰わなあきませんねん。」
「分かんない奴だね!だからうちはそんな事・・」
「それさえやって貰えたら、美麗ちゃんの事は今後、俺が全責任を負います。亭主として。」

真島がそう言い切ると、それまで激しい剣幕で喚き立てていた美麗の養母は、驚いたようにようやくその口を噤んだ。
この隙にこちらの話を聞かさなければならない。真島は間髪入れずに話を続けた。


「お宅はんらにやって貰いたい事は3つあります。
まず1つめは、美麗ちゃんの親として事務所との所属契約に立ち合って、書類の身元保証人の欄にサインする事。
2つめは、この婚姻届の証人の欄にサインする事。
ほんで3つめは、俺と美麗ちゃんの結婚の事を、今後ずっと誰にも言わんと黙り通す事。」

真島は美麗の里親夫婦の目の前に、役所で貰ってきたばかりの未記入の婚姻届を差し出した。


「この3つだけ、親としての最後の仕事やと思って、やって貰えまへんか。
この3つさえやって貰ったら、今後は一切お宅はんらに何の迷惑も面倒も掛けまへん。もう二度とお宅はんらとは関わらへんと約束します。
これが詐欺なんかやないっちゅう証拠として、結婚の支度金も持って来ました。どうぞお納め下さい。」

金の入った封筒も差し出すと、里親夫婦はそれだけをすかさず手に取り、中身を取り出してハッとした顔を互いに見合わせた。


「ひゃ、百万も・・・・!」
「アンタ・・・・!」
「その3つの頼み事に対する手数料やと思って貰って結構です。何分極秘なもんで式も何も一切しまへんし、所帯道具や何かも全部こっちで揃えますよってに。」

真島がそう言い添えると、里親夫婦はまだ幾らかの警戒を残しつつも、明らかに乗り気になった目を真島に向けた。


「ほ・・・、ホントに、ワシらが金を取られる事は無いのか・・・・?」
「絶対にありまへん。」
「も、もしその事務所が悪い所で詐欺だったとして、警察沙汰や何かになったら、うちが巻き込まれる事になるんじゃないの・・・・?」
「それも絶対にありまへん。心配せんでも、ホンマにちゃんとしたアイドル事務所ですわ。俺も美麗ちゃんからよう話聞いて確かめましたから。
でももし万が一、騙されてどうこうなんて事になった場合には、当然俺が解決をつけます。お宅はんらはあくまで里親であって、戸籍上の繋がりは無い。繋がりがあるのは俺になるんですから。」
「・・・・そ・・・・、そういう事なら・・・・・、ねえアンタ・・・・!?」
「あ、あぁ・・・・!」

里親夫婦のその言葉を聞いた瞬間、美麗が顔を輝かせて真島の方を見た。
まずは1つクリアだ。
嬉しそうに瞳を潤ませている美麗に、真島は微笑んで頷いた。
















第2は嶋野だった。
美麗の里親夫婦と話をつけた後、間髪入れないタイミングで、真島は事務所の社長室にいる嶋野の元に出向いた。


「失礼します、親父。今ちょっと宜しいでっか?」
「何や?」
「ちょっと折入ってご報告したい事があるんです。」
「何や?」

言葉は同じでも、二度目のそれにはもっと明確な関心が篭っていた。


「実は俺、近々結婚する事になりましてん。そやけど式も披露宴もやりまへんよってに、せめて親父に女共々ご挨拶だけでもと思いまして、一席設けさせて貰いたいんです。急で申し訳ないんですが、なるべく近い内に都合つけて貰えまへんか?」

真島の話を唖然とした顔で聞いていた嶋野は、話が終わると、まるで呆れでもしたかのように鼻を鳴らして笑った。


「何や、今頃ようやっとかいな。まあ目出度い事で何よりや。
そやけど、わざわざまた改まって結婚の挨拶なんかええで。お前らちょっと前にガキが無事生まれた言うて内祝いを寄越したとこやんけ。順番メチャクチャでワケ分からんようなるわ。
それに、今はそれだけの為に大阪まで行く暇も無いんや。また今度、何かの都合が出来た時に覗くわ。」

嶋野は完全に真島の結婚相手をだと信じきっていて、クラブパニエに招待されていると思い込んでいるようだった。
無論、それで当然だ。だからこれしきの事で気まずいなどと思っていては、この先の話が進まなかった。


「いえ、それがちゃいますねん。相手はあの大阪の女やのうて、また別の女なんですわ。」

真島は何気ない風を装って、飄々とそう言ってのけた。
すると嶋野は小馬鹿にするような薄笑いを消して、片方の眉をピクリと引き攣らせた。


「何やと?」
「あの大阪の女とはもう別れたんですわ。ほんで今はその女と。」
「何モンやその女は?何処の女やねん?」
「こっちで生まれ育った韓国人の女です。堅気の娘ですけど、実はちょっと込み入った事情のある奴でして。」
「込み入った事情?何やっちゅうねん?」
「それを説明させて貰いたいんです。何分極秘の話なもんで、ここではちょっと。他の奴等には聞かれとうないんですわ。」

真島がそう言うと、嶋野は一瞬不機嫌そうに真島を睨んだが、おもむろに傍らにあった手帳を取り上げてページを繰った。


「・・・・今日の晩、9時頃なったら空くわ。」
「ありがとうございます。ほな今夜9時、神室庵でお待ちしております。」

神室町にある嶋野行きつけの料亭の名前を出すと、嶋野は返事代わりにフンと鼻を鳴らした。この反応を見る限り、多分すっぽかされる事は無いだろうと思われた。確実に面倒がられてはいるけれども。
勿論、大喜びで祝って貰えるとは思っていないし、そもそもが誰にも知られてはいけない秘密の結婚、知る人は一人でも少ないに越した事はない。だがそれでも、渡世の子として、親に対する礼儀を欠く事は出来なかった。
夜になると、真島は手配しておいた料亭の座敷で、美麗と二人、嶋野の到着を待った。嶋野がやって来たのは、約束の9時を少し過ぎた頃だった。


「親父、お待ちしてました。来て頂いてありがとうございます。」

真島が立ち上がって深く頭を下げると、美麗もそれに続いた。
緊張に強張った表情でぎこちなく頭を下げる美麗は、嶋野の目には多分、想像以上に若く、いや、幼く見えたのだろう。嶋野は呆れたような視線を真島にチラリと投げ掛けてから、座布団の上にどっかりと座り込んだ。


「紹介します、朴美麗です。美麗、この人が俺の親父の嶋野組組長や。」

真島が紹介すると、美麗は『初めまして・・・』と呟き、もう一度頭を下げた。


「嶋野や。まあ二人共、座って楽にせぇや。」
「失礼します。」

真島は美麗を先に座らせてから、店の者に酒と料理の配膳を始めるよう頼んだ。
準備は既に万端整えられていたようで、多彩な会席料理や豪華な舟盛り、良く冷えた瓶ビールがたちまちの内に続々と運ばれて来た。
全てが出揃うと、真島は美麗にチラリと目配せをした。事前に伝えておいた『酌をしろ』の合図である。
美麗はこういう店にまだ不慣れな為、店の予約から配膳の采配まで全て真島が担ったが、本当に何一つさせずにいれば、嶋野の美麗に対する心証を悪くしてしまう。それを避ける為だった。


「どうぞ・・・・」

美麗は一段と表情を固くさせながらも、ぎこちない手付きで嶋野のグラスに酌をした。
嶋野は黙ったまま、注がれたビールを水の如く飲み干すと、値踏みするような目を美麗に向けた。


「何や、思とったよりか大分若いネーちゃんやのう。幾つや?」
「17です。来月で18ですけど・・・」

ジュウシチ、と鸚鵡返しにする嶋野の声が、静かな座敷の中にやけに響いた。
小馬鹿にするような感じに聞こえたのは気のせいではなかったようで、美麗は一瞬、ムッとしたように眉をひそめた。


「ほーん・・・・。で、何しとんねん?こんな極道者と結婚しようっちゅうからには、まさか高校生やないんやろ?ほんで韓国人やて聞いたけど、日本語は満足に出来るんかいな?」
「国籍は韓国ですけど、生まれも育ちも日本です。勿論、高校生じゃありません。高校は1年の時に中退して、それからはファミレスでアルバイトしながら、アイドルを目指してきました。」
「何やて?」

嶋野は思いっきり怪訝な顔で美麗を凝視した。多分、予想とはまるでかけ離れていた話だからだろう。


「事情というのはその事なんです。実はこいつ、芸能事務所に所属して、アイドルとしてデビューする事が決まりまして。数日中にもその契約をする事になっとるんです。」

唖然としている嶋野に対して、真島は自分達の事情を説明し始めた。


「ただ、その条件として、男関係は絶対あかんっちゅう決まりがあって、俺らの関係は絶対に隠し通さなあかんのです。実際、この事を報告したのは、こいつの親と親父にだけです。
こいつの親にも、秘密を守って貰うように頼みました。そやから親父にも、そのようにお願いしたいんです。組の連中にも余計な詮索をされとうないんで、俺が結婚する事自体、誰にも内緒にして頂きたいんです。お願いします。」

深く頭を下げると、美麗もそれに倣った。
すると、少しの間を置いて、嶋野が自分でライターを点ける音が聞こえた。


「・・・・なるほど。その事情っちゅうのは分かったわ。心配せんでも、お前の個人的な色恋沙汰を言い触らしとる暇なんぞ、儂にはあらへん。この話は聞かんかった事にしとくわ。」
「ありがとうございます。恩に着ます。」
「あ、ありがとうございます・・・・。」
「・・・・そやけど。」

嶋野はそこで言葉を切ると、いやに緩慢な動作で煙草を一吸いした。
この後に続くのは、あまり良い話ではない。真島は感覚的にそう悟った。


「そないな事情があるんやったら、何でわざわざ結婚すんねん?要らんリスクを背負うだけで、何の意味も無いやんけ。」
「意味ならあります。」

案の定、否定的な事を言った嶋野に対し、美麗は即座にそう言い返した。


「ほう?どないな意味や?」
「あたしは未成年だから、その契約には保護者の同意が必要なんです。
でもあたしの里親は、何も知らないくせに詐欺だって決めつけて、自分達が巻き込まれて迷惑するからって、あたしが幾ら頼んでも全然聞く耳を持ってくれなかったんです。
だから、吾朗さんがあの人達を説得してくれたんです。あたしと結婚して、今後は自分が全責任を持つから、親としての最後の仕事だと思って契約書にサインして欲しいって。」
「里親?」
「あたしを産むだけ産んで捨てていった実の母親の兄夫婦です。あの人達にとって、あたしはずっと厄介者でした。愛してくれる人もいない、居場所も無い、そんなあたしがたった一つだけ持ってたものが、アイドルになるっていう夢でした。
吾朗さんはそんなあたしの気持ちを良く理解してくれて、支えてくれてるんです。
練習やオーディションに専念出来るようにって、生活にかかるお金全部出してくれて、その上、ダンスレッスンやボイストレーニングも受けさせてくれて。
吾朗さんがいなければ、あたしの夢は叶いませんでした。この人はあたしの夢を支えてくれる、たった一人の大切な人です。だからずっと一緒にいたいんです、たとえリスクを背負う事になったって。」

誰もが竦み上がるあの嶋野を相手に、美麗はたじろぎもせず堂々と言い切った。


「・・・・フン、なるほど。」

美麗の話を聞き終わると、嶋野はもう一口煙草を吸ってから、それを揉み消した。


「まあそういう事なら精々仲良うやれや。これは祝いや。ほんの気持ちだけやよってに、返しは要らんで。」

嶋野は、懐から取り出した祝儀袋を卓の上に置いて立ち上がった。
ビールをグラスに1杯飲んだだけで、料理には一切箸をつけていない。それは、この宴席を楽しむ気は無いという意思表示に他ならなかった。
その退屈そうな白けた顔を見る限り、まるで興味が無いというところだろう。


「ほな後は二人で夫婦水入らず、ゆっくりせぇや。」
「親父、もうお帰りですか?」
「ああ、この後またちょっと用事が出来てな。」
「それやったら車の手配しますよってに、もう少し待っとって貰えましたら・・・」
「いや、ええわ。今日は自分で運転してきとるさかいな。」
「そうでっか。」

勿論、祝って貰えるとは思っていなかった。
そんな期待は最初からしていなかったし、祝って欲しいとも思っていなかった。
ただ子分としての義理を果たす為に報告しただけであり、この宴席も、それに必要な体裁を整えただけに過ぎなかった。
後は帰って行く嶋野を丁重に見送れば、それで終了である。
真島は美麗をその場に残し、座敷を出て行く嶋野の後について行った。
店の駐車場には確かに嶋野の車があり、運転手やお付きの連中はいなかった。一応は真島の意向を汲んで、本当に嶋野一人で来てくれていたようだった。


「親父、今日は急にお呼び立てしたにも関わらず、来て貰ろた上にあのようなお気遣いまで頂いて、ホンマにありがとうございました。」

真島が深々と頭を下げると、車に乗り込もうとしていた嶋野はふと立ち止まって、真島にニヤリと笑いかけた。


「まあ驚いたわ。お前がまさかあない乳臭い小娘と結婚とはなぁ。」
「仰る通りです。まだまだ未熟で世間知らずですよってに、行き届かんとこが多々ありましてすみませんでした。」

形ばかりに詫びると、嶋野はまた含み笑いをした。


「・・・夢を支えてくれる、たった一人の大切な人、か。女にそない言われるようになるやなんて、お前も偉なったもんやのう。
神室町の路地裏で、腹空かせて誰彼構わず食い殺すように喧嘩しとった野良犬みたいなガキが、いつの間にか一丁前の漢になったやないか。ええ?」
「親父のお陰です。親父に拾ろて貰われへんかったら、今の俺は在りません。」

嶋野は満更でもなさそうにフンと鼻を鳴らすと、煙草を咥えた。
そして、真島の差し出したライターの火を受け取ってから、美味そうに紫煙を燻らせつつ再び口を開いた。


「・・・・せやけど、あの嬢ちゃんはきっと、お前の手には負えへんで。」
「え・・・・?」
「夢なぁ。確かにええ響きや。そやけどそれは、『欲望』っちゅうもんをただ綺麗に飾り立てただけの言葉や。
現にあの嬢ちゃんの言うとった事は、全部我の事ばっかりや。金出して、骨折って、自分の『夢』を支えてくれるお前やからこそ大切や・・・、儂にはそない聞こえたで。
もしお前が、芸能界入りなんて許さん、極道の女房として内助の功を尽くせっちゅうとったら、あの嬢ちゃんは果たして好いた惚れただけでお前と結婚したかのう?」
「・・・・それは・・・・」
「お前はあの嬢ちゃんの事を、一人では何も出来ん、自分が護ったらなあかんか弱い雛鳥みたいなもんやと思とるんやろうが、ありゃ大したタマやで。
あの嬢ちゃんは雛鳥どころか女狐、いや、人を喰らう夜叉や。」

その言葉に、妙に冷たい恐怖を帯びた嶋野のその声音に、真島は思わず凍りついた。


「お前に対する愛情はあるんやろうが、それを上回る欲望を持っとる。本人は自覚しとらんようやがな。愛情が前に出とる内はええが、その大きい欲望がいつ牙を剥くか分からん、怖い女やで。
それに、どっちか一方が己を押し殺して辛抱する関係っちゅうのは、うまい事いかんと相場が決まっとる。あの大阪の女と別れたっちゅうのも、大方それやろ?
お前がいつまでも冴島の事を引き摺っとんのを、あの女は辛抱しきれへんかった。
お前もお前で、たとえ女が我の子孕もうが、冴島の事をよう諦められへんかった。
結局、お互い自分を押し殺して辛抱する事が出来へんかったんや。ちゃうか?」

たったの一言さえも言い返す事が出来なかった。
相手が親だからではない、嶋野の言う事を何一つ否定出来なかったからだ。


「・・・・ま、精々幼な妻の若い身体を愉しめや、亭主の特権や。
今はまだ色気の欠片もあらへん乳臭い小娘やが、器量はええ。ありゃこれからどんどんええ女になるやろ。サラピン同然のウブなオナゴを自分好みの女に仕込んでいく愉しみを考えたら、乗り換えたんは正解やったかも知れんな。ガキを産んでとうが立った女より、将来性と新鮮味がある。
まあ良かったやんけ。女房と畳は新しい方がええっちゅう言葉もある位やでな。」

嶋野は喉に籠るような低い笑い声を洩らしながら煙草を足元にポイと捨てて、車に乗り込みドアを閉めた。
走り去って行く車を、真島はただ頭を下げて見送った。

そう、乗り換えたのだ。
古い車を新しく買い換えるように、散々抱き古して飽きた女を新鮮な若い女に換えた。面倒なコブのついた年増の女を捨てて、若くて可愛いアイドルと面白おかしく人生を愉しもうとしている。
人から見れば、そうとしか思えない事なのだ。
どんな言い訳を連ねたところで、今のこの状況は、あくまでも己の選択の結果なのだから。


「・・・・っ・・・・」

だから、固く握り締めた拳をぶつける先など、何処にも無かった。
己以外の、何処にも。




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後書き

遂に触れてしまいました。
兄さんと朴社長の極秘結婚。私個人的に龍が如く史上最大の謎設定。
真島吾朗美化委員会(★★会員募集中★★ 笑)としましては、本当に納得がいかないのです。

二人の結婚は朴社長のデビュー前でした。
まあ仮に、普通に好き好き〜で深く考えずに結婚したとしましょう。
で、その後、朴社長にデビューのチャンスが訪れた。
これからって若手アイドルが既に人妻なんて論外ですから、そら当然結婚してる事は内緒ですよね。という事で、事務所に秘密にして、ついでに国籍や生まれ育った家庭事情も秘密にして、念願のアイドルデビュー。

・・・・・なら分かるやろ!!!

と、声を大にして言いたい。
それなら普通の家庭は望めない。子供なんてもっての外。
最初からあれこれ隠して騙すみたいにしてデビューしているのに、事務所が理解を示してうまく事を運び、結婚や出産を世間に認めさせてやりつつ、アイドルとしての活動も続けていけるようになんて、してくれる訳がない。
そんな都合の良い見通しアマアマな事を、真島の兄さんが能天気に考える訳がない。
兄さんはそんなアホじゃない。
それに、芸能界入りを反対していたり、嫌々渋々認めてやっていた訳でもなかった。
朴社長の語るエピソードから考えてもそんな気配は無いし、兄さんは彼女の意思に反する事を押し付けて無理やり縛り付けるような真似はしない。
真島吾朗美化委員会としては、そう考えてしまうのです。

好きなら尚更、アイドルになる夢を一生懸命追いかけていた朴社長を妻にはしなかった。
龍0で、好きだからこそ自分では幸せにしてやれないと思ってマコトちゃんを諦めた兄さんならば、絶対に。(←順番的に龍5の方が先でしたけども)
それでも結婚したからには、それ相応のやむを得ない事情があったとしか考えられない。
じゃあそれが何なのかと妄想したのが、この文中の設定です。

兄さんも最初はそんなつもりじゃなかった。
朴社長の夢を支える為に必要だったから結婚という形を取っただけで、本当に純粋に彼女の為であり、自分が妻子のいる普通の家庭を欲した訳ではなかった。
でも、人の気持ちはだんだんと変わっていくもの。
兄さんも、そして朴社長も、お互い知らず知らずの内にだんだんと・・・・
そんな気持ち(というか私の勝手な妄想ですが 笑)の移り変わりを、この続きとして書いていっております。


それと、勝矢と朴社長の関係について。
同じ事を思う方はきっと沢山いらっしゃると思いますが、私は、勝矢は朴社長の事をずっと密かに想い続けているんじゃないかなと思っております。
二人がまだ只の『勝っちゃん』と『美麗ちゃん』だった頃から、ずっと。
若かった美麗ちゃんは真島の兄さんに恋をして、勝っちゃんはその事に人知れず傷付き、二人それぞれに対して複雑な気持ちを抱いたりもしたけど、でも結局、やっぱり二人の事がそれぞれに好きだから関係を断ち切れず、自分の気持ちに折り合いをつけて、20年間それぞれと付き合い続けてきた・・・みたいな。

まあその割に、朴社長が死んだ時の勝矢のリアクション、えらいあっさりでしたけどね(笑)。
秋山さんの前では演技していたんだとしても、一人になった時に悲しんでいるシーンぐらい作っておいてあげれば良かったのになと思います。
フルチンで筋トレしてるシーンを作るぐらいなら、朴社長との写真でも見て泣いたってくれ(笑)。
そうしたら、固い絆で結ばれた3人の友情とやらにも、もう少しは信憑性があったんじゃないかな、と・・・。