夢の貌 ― ゆめのかたち ― 14




5月になり、28歳の誕生日を迎えた数日後、真島はとの約束通り、大阪にやって来た。
向かう先は、つい先日越したばかりだというの新居だった。
場所はそれまで住んでいたキタの繁華街の近くではなく、蒼天堀よりもまだ南の方に位置するとある下町で、の地元である。真島はそこへはほんの1〜2度しか行った事がなく、今も土地勘はほぼ無いままだった。
新幹線を降り立つと、真島はタクシーに乗り込み、から聞いていた新しい住所の町名と、待ち合わせ場所にしている大通りの交差点の名称を運転手に告げた。
そこからどう行くのかは運転手に一任して、流れてゆく車外の景色をただぼんやり眺めていると、タクシーは高速と下道を合わせて20分程走った後、目的地の交差点にまで辿り着いた。
聞いていた通り、そこには中古車の販売店があって、その店先で既にが待っていた。そこに着けてくれと運転手に頼むとほぼ同時に、がタクシーの中の真島に気付き、微笑んで軽く手を振った。


「・・・久しぶりやな。」

タクシーを降りた真島は、にぎこちなく微笑みかけた。


「久しぶり。」

ゆっくりと歩み寄って来たの微笑みは、今までと何も変わっていないのに、何だかまるで別人のように思えて、つい戸惑ってしまったのだ。


「髪切ってん。めっちゃ短かなったやろ。どう?似合う?」
「おう。なかなかええやんけ。」

長かった筈の髪が、軽やかなショートカットになっている事にも驚かされたが、何より目に付くのはやはり、前に大きくせり出したお腹だった。
3ヶ月前にはまだ下腹が少しふっくらしている程度で、服を着てしまえば目立たない位だったが、今は季節的に薄着だという事を差し引いても、はっきり妊婦だと分かる位に大きくなっている。ゆったりしたワンピースの腹部を大きく盛り上げているその丸い膨らみに、どうしても戸惑わずにはいられなかった。


「調子どないや?」
「うん、赤ちゃんは順調やで。今9ヶ月。でも見ての通りこのお腹やから、私の方は流石に色々しんどなってきたわ〜。
とにかく重たいし、ご飯もちょっとずつしか食べられへんし、仰向けで寝られへんし。立ち座りも寝返りも足の爪切るのも一苦労やねんで〜。おまけに10キロも太ったし!」

は苦笑いしながらお腹を擦った。
その中に我が子がいるのだという事は、頭では理解出来ているのだが、男の身では体感出来る訳もないし、我が物顔に触れる事などそれこそもっと出来ず、愛想笑いを浮かべて無難な相槌を打つのが精々だった。


「ほな行こか。うちすぐそこやねん。」
「おう。」

爽やかな5月の陽射しを浴びながら、真島はと並んでゆっくりと歩き始めた。
運送会社の倉庫や小規模の会社の事務所がちらほらと混在しているが、その割に静かでゆったりとした、良さそうな住宅街だった。
の新居は、大通りに背を向けて5分足らず歩いた所にあった。こじんまりとしているが、各部屋のベランダにさんさんと太陽の光が射している温かそうな雰囲気の5階建てマンションで、すぐ近くに立派な木々がこんもりと生い茂っている公園らしきものも見えた。


「あれ公園か?」
「そう。結構大きいねんで。ジョギングしている人が何人もおるし、グラウンドもあって、よう野球とかサッカーとかやってるわ。」
「ほ〜、そらええなぁ。」
「そやろ。この子のええ遊び場になるわ思て。さ、入って入って!」

今はまだのお腹の中にいる赤ん坊が、そこで遊び転げたり野球やサッカーをしたりするようになるのは何年先だろうか?その頃には、今の状況もどうにかなっているのだろうか?
瑞々しい新緑を眺めながらついそんな事を考えてしまっていると、がエレベーターの前で早く早くと手招きしたので、真島はそこから目を離してまたの後をついて行った。
の住まいは2Fの角部屋だった。外から見た通り、良く日の当たる明るい部屋で、前の部屋より格段に広くなっていた。


「ええ部屋やんけ。」
「そやろ。全体的にちょっと狭めではあるんやけど、静かやし、日当たりも良いし。間取りも3DKやねん。ダイニングと、和室2部屋に洋室1部屋。これやったら十分やろと思ってな。
さ、好きなとこ座って!今冷たいお茶でも淹れるわ。喉乾いたやろ。」

ダイニングか居間らしき和室か、少し考えてから、真島は和室の方に上がり込んだ。
ふと目を向けると、奥の方にまた和室が続いていた。そこには優しい色合いの木のベビーベッドやクリーム色の揺り椅子、パステルカラーの小ぶりのチェストが整然と置かれてあり、チェストの上には先日のの誕生日に贈った白いクマのぬいぐるみが座っていた。
はそれを、生まれてくる子供へのプレゼントだと思っている事だろう。確かにその通りなのだが、しかしそれにはへのメッセージを密かに込めていた。
何か子供の為の物をと思ってデパートへ足を運んだ時、おもちゃ売り場に展示されていたそれを見て、以前が描いたクマの絵をふと思い出したのだ。
出逢って間もなく甘い恋に浮かされていた頃の些細な思い出に過ぎなかったそれを、はずっと覚えていて、一人で窮地を切り抜けようとした時に、御守りのつもりでそれを自分の腕に描いていた事を。
それからまた更に時が経ち、次々と重なっていく思い出の数々に静かに埋もれてしまっていたが、それは真島の心の中にはっきりとした形で残っていた。

こんなにも深く、長く、愛し合ってきたのだ。
俺はまだ忘れていない。お前もきっと忘れていない。
俺達はきっと、これからも・・・・・

そんなメッセージを込めてそれを贈った時には、必ずうまくいくという自信があった。
けれども今はもう、せめてそのメッセージがに届いている事を祈るしかなかった。


「すっかり準備万端やろ?っちゅーても、何とかこないして整ったんは、ホンマついこないだやねんけど。」

は微笑みながらそう言って、テーブルの上に茶を置き、真島に座布団を勧めた。
ひとまずそこへ座り、が大きなお腹を抱えながら同じように腰を落ち着けるのを待ってから、真島はバッグを開けて封筒を2つ取り出した。


「先に渡しときたいもんがあるんや。」
「何?」

少し構えたような表情になったの前に、真島はまず、ごく普通の茶封筒を差し出した。


「中・・・、今見てええの?」
「ああ。」

その中には、三百万の現金を入れていた。
恐る恐る封筒を開いて中身を出したは、驚いたように見開いた目を真島に向けた。


「何やの、このお金・・・!?」
「差し当たっての金や。出産費用と当座の生活にでも充ててくれ。勿論これとは別に、今後毎月ちゃんと渡していくよってに、心配すんな。」
「そら出産は何かと物入りやけど、なんぼ何でもこんなにかからんわ!それに、私にかて仕事も多少の蓄えもあるんやし・・」
「ええから受け取ってくれ。これは俺が通さなあかん男としての筋なんや。」

金銭的に頼るつもりは無いとは言っていたが、それとこれとは話が別だ。
一歩も退く気は無いという気概でを見つめ返していると、それが伝わったのか、は複雑な表情ではあるものの、ありがとうと呟き、金を元の通りに封筒に納めた。
それを見届けると、真島は次にもう一方の封筒、表書きの無い祝儀袋を差し出した。


「それと、こっちは嶋野の親父からの祝いや。」

思い付きのようにポイと渡された札束をまさかそのまま持って来る事も出来ず、一応は形ばかり祝儀袋に包んでみたのだが、表書きまではとても書けなかった。
何に対する祝いなのか、そして自分はどの立場にいるのか、自分でもはっきりと答えられないのにそんなものを書ける訳がなかった。
何か訊かれるだろうかと思って暫く待ってみたが、は何も訊かず、黙ったまま祝儀袋を開いた。


「・・・・じゃあ、遠慮無く。」

は2つの封筒を前に、礼を尽くすかの如く頭を下げると、祝儀袋に包んであった百万のうち半分を茶封筒の方に移し、残りをまた元の通りに包み直して、丁重な手付きで真島に戻した。


「残りは内祝いに使って。義理は欠かれへんやろ。」
「そんなんお前が気にする事やない。こっちも全部取っとけ。」
「ええからホンマに。その代わり言うたら何やけど、親分さんに失礼の無いようにちゃんとお返しして、くれぐれも宜しく伝えておいて。悪いけど私はこの状態やし、距離もあるし、ご挨拶に行く事もお返しの手配も何も出来ひんから。」

今度はの方が退かなかった。
真島は仕方なく、分かったと答え、祝儀袋をバッグに戻した。
それから、の淹れてくれた茶を飲んだ。程良く冷えた麦茶が、どうしても蟠ってしまう口を幾らか滑らかにしてくれるようだった。


「・・・・・もうすぐ、やな。」

思い切ってそう切り出すと、は穏やかに微笑んで頷いた。


「うん。予定日は7月5日やねんけど、その3週間前からいつ生まれてもええ時期に入るから、6月中に生まれる事かて十分あり得るねん。そやから、6月中旬から7月中旬までの間・・・、ってとこかな?」
「ほ、ほな、あと1ヶ月したらいよいよ・・・、って事か?」
「そう。」

あとたったの一月、そこまで差し迫っていた事を今更ながらに知って思わず緊張したその瞬間、が急に小さく呻いて顔を顰め、お腹を押さえた。


「ど、どないしてん!?大丈夫か!?」

まさかもう産気付いたのではと慌てかけたが、は顰めた顔のまま苦笑いをして、お腹を擦っただけだった。


「大丈夫大丈夫。アバラ蹴られただけ。」
「ア、アバラ??」
「そう。よう動くし力も強いし、急にボカーン!ってやられるから吃驚すんねん。」
「な、何や、そうかいな・・・・・!」

お腹を擦りながら笑っているの様子に安心して、真島も安堵の笑みを零した。


「しっかしアバラ蹴られるって、内側からって事やろ?外側から蹴られる感覚はよう知っとるけど、内側から蹴られるて一体どんなんや?」

安心して気が緩んだ拍子についポロリと口をついて出ただけの、独り言も同然の他愛ない疑問だった。


「・・・触ってみる?」

しかしそれに対して、は思いがけない反応を返した。


「え・・・・・!?」

当たり前だが、妊婦の腹を触った経験など、今まで一度も無い。とてつもない気恥ずかしさに襲われて、真島は思わず狼狽した。
しかし、だからと言って断るのも酷いようで気が引けて、真島は恐る恐る手を伸ばし、のお腹の真ん中の辺りにそっと掌を当てた。


「・・・・・・な、何やよう分からんねんけど、動いてるんかこれ?」
「動いてへん。今急に止まった。」
「な、何やねん、動いてへんのかい・・・・・。」

そのまま暫くじっと待ってみるも、それらしい感覚は無い。


「・・・・・動けへんやんけ。」
「あれぇ?おっかしいなぁ。今さっきまでボコボコ蹴ってたのに。」

が首を捻ったので、もう止んでしまったのだろうと思い、真島は諦めて手を退けた。ところがその次の瞬間。


「あ、動いた。」
「えっ?」
「ほら。」

は真島の手を取って、自分のお腹に当てた。
けれどもやっぱり、真島には何も分からなかった。
のお腹の上で、と手を重ね合わせたまま、掌の感覚だけに神経を集中させてみたが、どれだけ待っても何も分からないままだった。


「・・・やっぱり分からんで?」
「うん、だってまた止まってるもん。」
「何じゃそりゃ・・・・・」

多分こういうのは身籠っている本人にしか分からないものなのだろうと結論付けた真島は、再び諦めて手を退けた。
するとまたその次の瞬間、が『あ、また・・・』と呟いた。


「えっ!?どれっ!?」

こうなってくると、こちらも何だかムキになってしまう。
真島は素早く手を伸ばし、のお腹に触れた。しかしやはり向こうの方が内側にいる分有利なのか、真島が手を着いた時には既に何の感覚も無かった。
思わずガッカリすると、は可笑しそうに吹き出した。


「これ多分わざとちゃう?手の感触が私のと違う事が分かってんねんで。ビックリしてんのか恥ずかしがってんのか、それともおちょくってんのか。何やろなぁ?ふふふっ。」
「な、何やねん、おちょくっとんかいな、ひひひっ・・・・」

まだ生まれてもいない赤ん坊にそんな悪戯心がある訳ないとは思いながらも、何となく、不思議な喜びがじんわりと真島の心を温めた。
その時、のお腹に当てていた真島の掌を、小さな何かがグイ、と押した。


「あ・・・・・」

それが手なのか足なのかは分からない。
ただ、手応えは確かに感じていた。
掌をグイグイ、ボコボコと元気に突き上げるその感覚は、もうすぐそっちに出て行くからなという我が子からの挨拶のようだった。


「・・・・・分かる・・・・・?」
「ああ、分かる・・・・・」

出来れば、この子が生まれてくるまでに、望ましい状況に変えておきたかった。
だが、もう時間切れだった。
のお腹の中で健気に動いている我が子に対し、己の不甲斐なさを心の中で詫びていると、が遠慮がちに、なぁ・・・と真島に呼びかけた。


「前に言うてた事、教えてぇや。次会うた時に話すって言うてたやろ。」
「・・・・・ああ・・・・・・」

勿論、忘れてはいない。今日は当然その話もするつもりで来ていた。
は約束通り、答えを急かさず今日まで黙って待っていてくれたのだから、どんなに悔しかろうが情けなかろうが、誤魔化さずにちゃんと話さなければならない、と。
真島は元の位置に座り直し、改めてに向き合った。


「親父に取引持ち掛けたんや。あの例の会社の話、今すぐ組持たせてくれんねやったら引き受けるってな。」

それを聞くと、はハッとしたように一瞬目を見開いた。


「・・・・ほんで、親分さん何て・・・・?」
「話自体、白紙になってしもた。今行かせとる奴で事足りとるから、お前はもうええわって。」

望みが無くなってしまった事が勿論一番辛いのだが、自分の代理に過ぎなかった筈の奴に負けた事に対しても、真島は密かに打ちのめされていた。
内心、絶対的な自信があったのだ。嶋野も相手方の連中も、『夜の帝王』の手腕を何としても欲しがる筈だと。
それが、何もかも劣っている格下の男と比べられて負けたなんて、血が沸騰してしまいそうな程の屈辱だった。


「・・・・でも、仮にその条件を呑んで貰えとったところで、口約束やったかも知らんやん。実際ホンマに組持たせて貰えるかどうかは分からんかったやろ。
それに、そもそもそれが言葉通りとは限らんやんか。親分さんはその会社の事とあんたに組持たせる事とを比べて、自分の損が少ない方を取りはっただけとちゃうの?」

真島が屈辱にじっと耐え忍んでいる事を気取ったかのように、はそう言った。


「・・・・すんなり持たせて貰えるとはハナから思てへんかった。それやったらとうに持たせて貰えとる。
ただ、交換条件ぐらいは出せるようになると思ったんや。そこで何年か働く代わりに、年季が明けたら東京へ戻って組を持つ、せめてそれ位は・・・・」

慰めてくれるの優しさが、却って辛かった。
仮にの言う通りだったとしても、プライドに傷が付き、現状を好転させる為の唯一の望みが断たれてしまった事には変わりないのだから。


「・・・・せやけど、あかんかった。完全に振り出しに戻ってもうたわ。」
「・・・・なぁ、どうしても諦められへんの・・・・?」

自嘲する真島に、はそう問いかけてきた。


「親分さんは、よっぽどあんたに組持たせたくないんやろ。それやのに組持つ事に拘り続けとっても、親分さんに盾突いてると思われて、あんたの立場がどんどん悪くなっていくだけやで。」
「分かっとる。そやけど、自分の組を持たん事には話にならんのや。極道なんぞ、のし上がってナンボ、己の組持ってナンボや。極道は昇り詰めてこその極道なんや。」
「・・・・・それやったらいっその事、組抜けたら?」

その言葉にハッとして、真島はを見た。


「このままやったらあんた、いつまでも親分さんのええように使われて飼い殺されるだけや。
それじゃ話にならんって言うんなら、いっそ堅気になったら?どっちみちあんたが思てるような『償い』は出来ひんねんから。」

落ち着いた、けれど何処か哀しげな瞳が、真島をまっすぐに見つめていた。


「出逢った頃にも私、似たような事言うたやろ。覚えてる?」
「・・・・ああ・・・・」
「あん時は私、何も知らんかったから、後になって自分勝手な事を言うてしもたって悔やんだけど、今敢えてもういっぺん言うわ。
そんなんやったら、いっそ足洗ろて堅気になったら?」

忘れていない。忘れられる訳がない。
何もかもを失った冷たい絶望のどん底で、たった一つの救いだったのが、の温かい愛情だったのだ。
血生臭い極道の世界の事など何も知らなかったがあの時語った綺麗な夢物語は、決しての身勝手などではなかった。


「佐川さんのマンションでコソコソ会うだけしか出来ひんかったあの頃には、私ら何にも持ってなかったけど、今は違う。
今の私らには仕事も人脈もある。店もある。多少の蓄えもあるし、何より、この子がおる。」

半端者の惨めな負け犬とうだつの上がらない雇われホステスだったあの頃には、お互い相手への愛情しか持ち合わせていなかった。
それが気付いてみれば、の言う通り、沢山のものを手に入れていた。
独りぼっちで薄暗い路地裏を彷徨っていた野良犬には到底手の届かなかった眩しいものを、沢山。


「冴島さんの事は、気の毒やけど、もうどうにもならへん。
極道の世界でのし上がって、あんたそのどうにもならへん事をどうにかするつもりなんやろうけど、でもうまくいく保証は無いやんか。
結局どうにも出来ひんかも知らんし、そもそもあんたがそれだけの大物になる前に、刑が執行されてしまうかも知らん。あんたが自分の命懸けてでもやろうとしてる事は、何の保証も無いんやで?
それでもあんた、ホンマに自分の人生全部注ぎ込む気?
私とこの子と三人で家族になって、自分らの未来の為に生きていく事は、どうしても出来ひんの・・・・・?」

拾われた恩は生涯忘れぬと誓ったのに、どうして仁義にもとるような事が出来るだろうか。何もかも全部俺のものだと欲を張り、一人だけ幸せになる事など、どうして出来るだろうか。
親子、兄弟、どちらの盃にも、己の命を浮かべて飲み干したのに。


「・・・・・出来へん。組抜ける事も、冴島を諦める事も・・・・・」

の大きなお腹を見つめながら、真島は力なく首を振った。


「親父は俺に、初めて夢見せてくれた漢やった。
喧嘩だけは誰にも負けた事なかった俺に、上には上がおるっちゅうのを見せつけて、ごっつい夢見せてくれた・・・・・。
金も身寄りも何も無い、野垂れ死に寸前の野良犬みたいなみすぼらしいガキでも、己の拳一つで成り上がっていける、何でも欲しいもんを掴み取れる、そんな世界がある事を教えてくれたんや・・・・・。」

その出会いがなければ、『嶋野の狂犬』は生まれなかった。
何の夢も見ないままに、何の楽しみも喜びも知らないままに、真島吾朗という男は名も無き野良犬のように、とうの昔にそこらでくたばっていた筈だった。


「親父に拾われて、親父に追いつきたい一心で必死に食らい付いて、ようやく親子の盃交わして貰った時に、俺はこの先何があっても親父の子で居続けるて誓ったんや。
あん頃の純粋な思いはもう擦り切れてしもてても、それでも俺は、その誓いを破る気は無い。それが極道としての通すべき筋やし、俺に生まれて初めて『夢』を見せてくれたあの人への、唯一の恩返しなんや。」

目指す処は、もう嶋野の隣ではない。嶋野の背中など、もう追いかけてはいない。
けれども、あの人の広い背中で雄々しく牙を剥く猛虎の姿に生まれて初めて心が震えた、その圧倒的な強さに憧れていつか自分も同じようになりたいと夢を見た、そんな昔の自分を完全に忘れてしまう事は、真島には出来なかった。


「冴島も同じや。あいつと兄弟盃を交わした時に、一度この世界に足を踏み入れた以上、義理は貫き通すと誓い合うたんや。それをもし裏切る事があったら、その時はたとえ兄弟であっても殺す・・・・、てな。
そやから、あいつは必ず俺を殺しに来る。俺はそれを待っとかなあかん。それを忘れて、見捨てて、己一人だけのうのうと生きてなんかいかれへん。
それをしたら、俺は腐れ外道になってまう。俺の何もかもが全部、全部、腐ってまう・・・・」

嶋野が生まれて初めて夢を見せてくれた人ならば、冴島は生まれて初めて得られた家族だった。
誰かに心を許すという事が出来たのは、あの男が初めてだった。
常に孤独で暗く冷えきったそれまでの人生において、冴島と兄弟として過ごした時間だけが唯一、明るく温かい光に包まれていたのだ。
それを忘れる事は、それこそもっと出来なかった。


「・・・俺には、この生き方を変える事は出来へん。何が何でも極道としてのし上がる。そんで、必ず冴島に償いを果たす。」

あの男の大きな背中で猛々しく吼える猛虎の姿を、もう一度見たい。
縛めの枷を外し、狭苦しい檻の中から解き放って、あの圧倒的な強さに相応しい処へ、極道の高みへと、昇らせてやりたい。
その一念だけで、あの『穴倉』での苦痛と恥辱に塗れた時間を耐え抜き、生き延びたのだ。


「その間までと言うたら、その通りや。そやけどその間に、お前と生まれてくる子を必ず幸せにする。」

その先で、失った筈の光をまたもたらしてくれたのは、だった。
愛し愛されるという事を教えてくれたたった一人の女と、間もなく生まれてくる血を分けた我が子。愛しくない訳がない。大事じゃない訳がない。軽んじてなど決していない。
だが、選べないのだ。
どうしても、選べないのだ。


「・・・・・俺にはもうそれしか言えん。後はお前の判断に任す。」

故に真島は、に判断を委ねた。
只々、愛しているという気持ちを押し付ける事しか出来ない、手前勝手で卑怯な男だというのは重々承知の上で、に全てを任せた。
それをすれば悲しい結果になるかも知れない事も、覚悟の上で。


「・・・・・分かった。ごめん。」

やがては静かな声でそう呟き、微かな笑いを零した。


「お互い我の張り合いするところをこの子には見せたないとか言うときながら、結局我の張り合いになってもうたな。
あんたの事を苦しめたかったんとちゃうねん。そんな事したくなかった。結局苦しめてもうたけど・・・・。でもそれだけは信じて。」

言われなくても、が悪いとは思っていない。
自分だけが苦しめられたなんて、思っていない。
もまた、ずっと苦しんできた筈なのだから。
子を産み育てていく母親として当たり前の幸せを求める気持ちと、この情けない男に対する女としての愛情、その板挟みになって苦しんできた筈なのだから。


「もう何にも言わへん。これ以上あんたの事を苦しめたないし、私ももう出産間近や。これからはこの子を無事産む事だけに専念したい。そやから、もうこれでおしまいにしよ。」

の望む通りにしてやれない以上、真島が男として出来る事はたった一つ、の決断を尊重する事だけだった。


「・・・・・分かった・・・・・」

せめてこれ以上、を苦しめないようにする為に。















予定通りと言えば予定通りだった。だから、後はさほど時間は掛からなかった。
必要な書類を書き上げ、真島と共にタクシーで役所に出向いてそれを提出、途中手間取る事は何も無く、一連の用が全て終わってもまだ昼時だった。


「なぁ、これからちょっと出掛けへん?」

役所を出ると、は真島を振り返ってそう誘った。


「ちょっと遅なったけど、あんたの誕生日のお祝いにご飯食べに行こうや。どっか美味しくて豪華なお店に、パーッと!」

いつもの通りに、明るく笑って誘った。
しかし真島は済まなそうに苦笑して、軽く頭を振った。


「いや、すまんけど、これからあっちこっち顔出しに行かなあかんねん。最近こっちの方のシノギが、ついつい人任せになってしもとったからな。」
「・・・・・そう・・・・・・」
「それと、店にも顔出そうと思ってる。2月のあん時以降、電話でちょいちょい指示出しとった位で、ずっとほったらかしやったからな。」

真島が嘘を吐いているとは思わなかった。今年に入ってから東京でのシノギが一段と忙しくなっているようだし、3月から4月にかけての一月程はまたジャマイカへ飛んでもいたから、こちらでのシノギにあまり時間を割けていなかったのは事実なのだ。
それに加えて店の事まで気に掛けて貰っているとなれば、少しぐらい時間を作ってくれと我儘を言う事は出来なかった。
ましてや、次の約束を取り付ける事など。


「・・・ありがとう。忙しいのに世話掛けて悪いなぁ。
重ね重ね申し訳ないねんけど、実は誕生日のお祝い、それのつもりにしてたから他に何も用意してないねん。ごめんな。」

はごく軽い感じに笑って謝った。
真島は物をあげた・貰ったの損得勘定に拘る人ではないから、それで笑って終わりになる筈だった。


「・・・・・それやったら、祝いの代わりに一つだけ、頼み聞いてくれるか?」

しかし真島は真剣な顔をして、そんな事を言い出した。
次の約束ももう出来ないのに、頼みとは一体何だろうか?
密かに戸惑いながらも、は真島のそのまっすぐな眼差しを受け止めた。


「何・・・・・?」
「子供の名前、俺に付けさせて欲しいんや。」
「え・・・・・?」

真島はおもむろにバッグの中から折り畳んだ白い紙を取り出し、に差し出した。
広げてみると、半紙ぐらいのサイズの上質な紙にたった一文字、『猛』という字が、力強く美しい筆跡で墨書きされていた。


「・・・・・タケル・・・・・?」
「せや。猛虎の猛で『タケル』。猛虎のように、強うて誇り高い男になって欲しいて願いを込めた。」

そう呟くと、真島は真剣だったその表情を不意に優しく崩して、いつも通りに笑った。


「男や言うとったから、これしか考えてきてへんねんけどな。もし女の子やったら、また考え直すわ。」

にも、候補として考えていた名前があった。
真島の名前から一文字取り、自分なりの願いを込めて考えた名前だった。
考えるのにもそれなりの長い時間を要したのに、不思議とそれを諦める事に抵抗は感じなかった。それどころかむしろ、自分の考えていた名前よりも真島が考えてくれたこの名前の方がしっくりくるとさえ思えた程だった。


「・・・ええ名前やな。分かった、男の子やったらこの名前にする。」
「・・・おおきに。」

強くて誇り高い男。
真島は誰かを思い浮かべて、その名を考えたのだろうか?
しかしにとって、それは真島だった。
自分がどれだけ苦しむ事になったとしても決して退かず、自分の信念を貫き通す、誰よりも強くて誇り高い男。出逢った時から真島はそんな男だった。
そんな男だからこそ心惹かれて、こんなにも深く愛するようになったのだ。


「・・・・・生まれたら、会いに来てええか・・・・・?」

恋人としては今日で終わりでも、間もなく生まれてくる我が子、『猛』の父親は、この人の他にはいない。名実共にこの人だけなのだ。
は真島に微笑みかけ、きっぱりと頷いた。


「勿論。生まれたらちゃんとすぐ報せるから、心配せんといて。」

がそう答えると、真島も安心したように微笑んだ。


「何かあったらいつでも連絡せぇよ。水臭い遠慮はすんな。な?」
「分かった。ありがとう。」

約束を交わすと、もうこれ以上ここに立ち止まっている理由は無くなった。
出掛ける前に家まで送るという真島の申し出を受けて、はまた真島と共にタクシーに乗り込んだ。何なら歩いてでも帰れる距離なので、雑談すらろくにする暇も無く、またあっという間に自宅に帰り着いた。


「身体、くれぐれも大事にな。無事に元気な子産めよ。」

一人でタクシーを降りると、車内から真島が声を掛けてきた。
心から案じてくれていると分かる優しいその眼差しに、も微笑みかけた。


「うん、ありがとう。あんたも身体気を付けて。」
「ああ。ほなな。」

後部座席のドアが閉まり、真島が窓の向こうで微かに笑って軽く手を挙げた。
も笑って手を振り返すと、タクシーはまた静かに走り出し、どんどん遠ざかって行った。
タクシーが完全に見えなくなってから、は家に帰った。部屋の中には、真島が吸っていったハイライトの匂いがまだ少し残っていた。散々嗅ぎ慣れている筈のその匂いが悲しく感じるのは、ふと6年前の事を思い出したからだろうか。
は棚の引き出しを開けて、小箱を取り出した。きっちりと綺麗にラッピングされているそれは、真島に贈るつもりの誕生日プレゼントだった。もしも真島の気が変わっていれば渡そうと、賭けるような気持ちで用意した物だった。
中身はジッポである。6年前の誕生日にあげた物とは比較にならない程、洒落たデザインの高級品だった。
無難というポイントだけで選んだ安物を6年間も愛用し続けてくれている真島に、改めてこの心を捧げよう。新たな気持ちで、永遠の愛を誓おう。そんな願いを密かに込めていた。


「・・・・私も、負けてもうたな・・・・」

だが、その願いも空しく、賭けに負けた。
真島共々、二人揃って負けてしまった。
は自嘲の笑みを薄く浮かべて、もう贈る宛ても使い道も無くなってしまったプレゼントを、ゴミ箱の中にそっと滑り落とした。
こうなったのは全て、自分の意思だ。
6年前の別離よりももっとはっきりした意思で、誰に支配される事もなく、自分自身で下した決断だ。
だから、失恋の悲しみに泣く事なんて許されない。
これからは母親としてお腹の子を無事に産んで育てていく事に専念すると決めたのだから、そうしなければこの子に申し訳が立たない。
そう分かっているのに、自分勝手な涙がポロポロ、ポロポロと、零れ落ちてはの頬を濡らしていった。















毎日があっという間に過ぎていき、季節は梅雨時の真っ只中になった。
相変わらずの忙しい日々だが、真島はこの頃、朝から晩まで落ち着かない気持ちで過ごしていた。
特に、が言っていた『いつ生まれても良い』という時期に突入してから以降は、外を出歩いている間に電話が掛かって来るんじゃないかと思うと気が気でなく、出先から事務所に何度も連絡しては電話がなかったか確認したり、用が無ければなるべく自宅にいるようにしたりと、からの出産報告をソワソワと待ち続けていた。
あの日、もうおしまいにしようと面と向かってにはっきり言われたが、その実感はあまり無かった。それよりも今は、が無事に出産を終える事、子供が元気に生まれてくる事、そればかりが気に掛かって仕方がなかった。
そんな日々を幾日も幾日も過ごして、遂に事務所の電話が鳴ったのは、出産予定日を1日過ぎた7月6日の夕方だった。


「兄貴、電話です。何か、とかいうババアからなんスけど・・・」

の母親の光子だ。
反射的に慌てかけたが、真島はそれをぐっと堪えて、落ち着いた動作で電話に出た。


「もしもし?真島です。」
『ああもしもし、吾朗さん!?うち!の母親やけど!』
「どうも、ご無沙汰してます。どないでっか・・・?」

周りの奴等に聞かれたくなくて、はっきりと明確な言葉で尋ねる事は出来なかったが、かけてきた用件はたった一つなのだから、真島の意図もこれで十分伝わる筈だった。


『それがまだやねん・・・・!昨日陣痛が始まって、午後に入院したんやけど、そっからなかなか進まへんで・・・・・!』
「ほんで今は・・・・?」
『じわじわとは進んでるみたいやけど、まだ生まれそうにないねん・・・・!昨日入院した時点では、今日の午前中には生まれてるやろて言われたのに、全然やで・・・・!もう丸1日以上経つのに・・・・!
あの子一睡も出来んで、ずっと陣痛で苦しんでやんねん・・・・!ご飯もまともに食べれたんは昨日までで、今日は朝に無理矢理ちょっと食べたけどすぐ戻してしもて、そっから後は何にも受け付けへんで・・・・!
どないかならんかって助産婦さんになんぼ頼んでも、もっと陣痛が進まん事にはって言うばっかりで、お腹切る事になるんかって訊いてもはっきり答えてくれへんし、先生も全然来てくれへんし・・・・!』

電話の向こうで、光子はかなり取り乱していた。


や赤ちゃんにもし万が一の事があったら、うち一人でどないしたらええか・・・・!なぁ吾朗さん、あんた今すぐ・・』
「場所教えて下さい、すぐ行きまっさ・・・・!」

しかし真島もまた、内心で激しく動揺していた。
当然のように無事誕生の報せが入るものとばかり考えていた自分が、酷く呑気に思えて腹立たしくなったが、今はとにかく一刻も早くの元に駆け付ける事だけを考えるべきだった。


「・・・・分かりました。ほなこれからすぐ向かいますよってに。」

電話を切ると、真島は病院の住所や電話番号を書き記したメモを手に立ち上がった。


「これから大阪行って来る。親父には適当に言うとけ。」
「えっ、ちょっ、兄貴・・・・・!」

周りの奴等にそう言い捨ててから、真島は事務所を出た。
組の連中の目がある所までは落ち着くように自分に言い聞かせていたが、外に出て一人になると、もう抑えられなかった。
早歩きが駆け足に、駆け足が全速力になって、真島は自宅まで文字通りに駆け戻った。1分1秒でも早く新幹線に飛び乗りたいのは山々だが、いつものヘビ柄ジャケットと黒い革パンツという極道丸出しの格好で産婦人科の病院へ駆けつける訳にはいかないという理性が辛うじて働いたのだ。
一度帰宅して、地味な茶系色のシャツとスラックス、医療用の白い眼帯という服装に着替えてから、真島は改めて大阪を目指した。


― 、頑張れよ!今すぐ行くからな・・・・!

早く、早く。
気ばかりが焦る数時間を経て、ようやく目的の病院に辿り着いたのは、深夜11時過ぎだった。
正面玄関は当然ながら既に閉まっていてシャッターが下りていたが、すぐ横に通用口があり、守衛が立っていたので、真島はそこへ駆け寄って行った。


「すんまへん!今ここに入院してるの身内のモンやけど・・」
「ああ、さんですね。はいはい、お聞きしてますよ。どうぞ、こちらからお入り下さい。」

光子が話を通しておいてくれたのだろうか、守衛はすんなりと真島を中に通した。
ドアを潜って僅かな通路を抜けると綺麗なロビーに出て、そこのソファに光子が座っているのが見えた。それとほぼ同時に光子の方も真島に気付き、立ち上がって小走りに近付いて来た。


「ああ、吾朗さん!堪忍なぁ、遠いところ急に呼びつけて・・・!」
「それよりは!?赤ん坊は!?」
「2時間ぐらい前にようやく分娩室に入ってん!もういよいよやで!」
「ほ、ホンマでっか!?」
「とにかく案内するわ、こっちや・・・・!」

真島は光子の誘導で、上階の分娩室へと駆けつけた。


「ここやねん・・・・・!」

指し示された分娩室のドアは、ピタリと閉ざされていた。
その向こうにがいる、産みの苦しみと必死に戦っている、そう思った瞬間、ドアの向こうから泣き叫ぶの声が聞こえてきた。
のこんな声は今まで聞いた事がない。思わず身が竦んでしまうような凄まじいその絶叫に、真島の不安は頂点に達した。


っ・・・・・!」

だが、真島に出来る事は何も無かった。代わってやる事は勿論、今のの苦痛を慮る事も。
怪我や病気によるものならまだ想像も理解も出来るが、子を産む女の痛みは、男の身では幾ら考えようとて分かりようがなかった。


「大丈夫や、大丈夫や、きっともうすぐ元気なええ子が生まれるわ、な・・・・・!?」

光子に宥められながら、真島は分娩室前のソファに座り込んだ。
光子の口ぶりは、まるで自分自身にも言い聞かせるかのようだった。
不安なのはこの人も同じなのだ。だから堪りかねて組事務所にまで電話を掛けてきたのだ。そう思うと、幾らか落ち着きを取り戻す事が出来た。


「・・・・はい・・・・・」

たとえこのドアを開け放って中に駆け込んだところで、を助けるどころか迷惑にしかならない。今の真島に出来るのは、と赤ん坊の無事を信じて、祈って、誕生の時をここで待つ事だけだった。
光子と並んでソファに座り、真島はじっと待った。いやに進みの遅い壁の時計の針を見つめながら、黙って待ち続けた。
のろい長針がゆっくりゆっくり進んでいく間に、何度の痛ましい叫び声を聞いただろうか。その度に何度無駄に立ち上がっては、己の無力さを歯痒く思っただろうか。
そうこうしている内に日付が変わり、7月7日になった。
その後間もなく、ようやく動きが見えた。これまでチラホラと出入りしていた助産婦ではなく、明らかに医師と思われる手術着を着た中年の男がやって来て、足早に分娩室の中に入って行ったのだ。それを見送った光子は、顔を輝かせて真島の方を向いた。


「やっとやわ!やっと先生来てくれはった!もうすぐ生まれるわ!ホンマもうじきやで!」
「そ、そうなんでっか・・・・!?」

何が何やらさっぱり分からないが、4人も子供のいる光子がそう言うからにはそうなのだろうと思うしかなかった。
これまでよりも一層強く祈りながらソワソワと待つ事暫し。


「・・・・・ギャ、ホギャアッ・・・!ホギャアッ・・・!」

遂に分娩室から赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
甲高い声を一生懸命に張り上げるようなその産声を聞いた瞬間、真島は飛び跳ねるようにして立ち上がった。


「生まれた!生まれたで吾朗さん!あぁぁ良かった〜!」
「ああ・・・!良かった・・・!良かった・・・・・!」

思わず光子と手を取り合って喜んでいると、分娩室のドアが開いて助産婦が出て来た。


「おめでとうございます!元気な男の子が生まれましたよ!お母さんも無事ですからね〜!」
「ありがとうございます!やっぱり男の子やったんですねぇ!いやぁ最近の技術は凄いねぇ!うちらの頃は生まれてみるまで何にも分からんかったのに!」
「うふふ、そうですねぇ〜。最近のエコーは結構はっきり見えますねぇ。」

助産婦は光子にそう返事をすると、ふと真島に愛想の良い笑顔を向けて、あ、お父さんですかぁ?と当然の如く訊いた。
向こうは慣れっこで別に何とも思ってはいないのだろうが、こちらは何分初めての事である。思わず戸惑ってしまって、まともな返事が出来なかった。


「あ、え、ええ、はい・・・・!」

硬直状態の真島に代わって返事をしたのは光子だった。


「何とか間に合って駆けつけてくれましてねぇ・・・・!」
「あらぁ良かった〜!赤ちゃんのお父さんだけ特別に中入って抱っこ出来るんで、良かったらどうぞ!」
「ど、どうぞって・・・、え・・・!?な、中って、そこ・・・・!?」

完全に想定外の事を言われて、真島は狼狽しながら分娩室を指さした。
そこは女の聖域で、医師でもない男がノコノコ入って行ける場所ではないとばかり思っていたのだが、どうやら違っていたらしく、助産婦はニコニコ笑いながら当たり前のように『はい♪』と答えた。


「うちの病院、ご希望の方はお父さんの立ち合い出産も出来るんですよ。さ、こちらへどうぞ♪赤ちゃん抱っこする前に、手を洗って前掛けを着けて貰いますんでね。」
「え、あ、えぇぇ・・・!?」
「ほな吾朗さん、うちはこれで帰るわな!早よ帰って皆に報告したらんと!
に、おめでとう、よう頑張ったなぁって言うといて!また昼に皆で改めてお見舞いに来るからって!ほな悪いけど、あと宜しゅうね!」
「え、あ、ちょっ、お、お母はん・・・・!」
「はい、こちらですよ〜。ついて来て下さいね〜。」
「あ、ああ、はい・・・・!」

逆らい難い流れに押し流されるようにして、真島は別室へと連行されて行った。

















石鹸で念入りに洗った手に消毒液を吹き付けられ、割烹着みたいな白い上っ張りを着せられた真島は、の処置が終わるのを待って分娩室へと通された。
そこへ足を踏み入れるまでは、冷たく機械的な手術室の台上で意識を失っているの姿を想像してしまっていたのだが、実際に入ってみると何もかもが想像と違っていて、温かい雰囲気の明るく綺麗な部屋の中央の分娩台に、が上掛けを被って横たわっていた。
確かに随分やつれてはいるが、意識はちゃんとあるようで、トロンと眠そうな瞳が真島を見て驚いたように少しだけ見開かれた。


「・・・嘘やん、何でおんの・・・・・!?いつから・・・・・!?」
「何でって何やねんな・・・・・。」

想像していたよりも元気そうな様子に安心して、真島は苦笑を洩らした。


「夕方、お袋さんから事務所に電話があったんや。そっからすぐ来て、11時過ぎにここへ着いた。」
「そう・・・・・」

はくっきりと隈が出来ている目元を笑わせた。


「万が一の時の為にな、あんたの連絡先、お母ちゃんに一応教えといてん。でもホンマに万が一、生きるか死ぬかの一大事になったらって言うといたのに・・・・・。」
「そんだけ心配やったんやて。」
「お母ちゃんは・・・・・?」
「さっき帰った。昼に皆でまた改めて見舞いに来るて。おめでとう、よう頑張ったなて言うてはったで。」
「そう・・・。」

は嬉しそうにまた目を細めて微笑んだ。
酷い隈が出来て血の気も失せて、今まで見た事が無い程疲弊しきった弱々しい顔をしているのに、今まで見た事が無い程幸せそうに輝いているのが不思議だった。


「・・・・・無事に生まれて良かった、ホンマに・・・・・」

『おめでとう』も『ありがとう』も、しっくりこなかった。
只とにかく、無事でいてくれた事への安堵で胸が一杯だった。


「は〜い、お待たせしました〜。赤ちゃんの処置終わりましたよ〜。」

そこへ白いおくるみに包まれた赤ん坊を抱いた助産婦が入って来て、真島に近付いて来た。


「はじめましてぇお父さ〜ん、可愛いボクちゃんで〜す♪」

緊張して思わず固まってしまった真島に、助産婦は至極呑気な口調で話し掛けながら赤ん坊を差し出してきた。
だが、痛い思いをして産んだ母親を差し置いて、自分が先に抱いても良いのだろうか?ふと気になって、真島はの方を見た。
すると助産婦は、まるで真島がそう考えている事を見通しているかのように笑って、大丈夫ですよ〜と言った。


「お母さんは生まれた直後に一番に抱っこしてますからね〜。遠慮せんとどうぞどうぞ♪」

もう一度目を向けると、も微笑んで頷いた。
それに後押しされるようにして、真島は今度こそおずおずと手を差し出した。


「首がグニャグニャやから、後ろしっかり支えて、そう・・・」

やがて、ぎこちなく戸惑うばかりの真島の腕に、赤ん坊が預けられた。
生まれたばかりの小さな命は、未知の感覚を真島にもたらした。
柔らかくて、温かくて、軽いのに重い。
そんな不思議な感覚をひしひしと味わいながら、真島は腕の中の赤ん坊の真っ赤な顔をじっと見つめた。


「良かったねぇボクちゃ〜ん♪お父さんに抱っこして貰ってご機嫌やねぇ♪」

助産婦がニコニコと笑いながら、赤ん坊にそう喋りかけた。
するとが、もう名前決まってるんですと言った。


「あらホンマぁ!何ていうの?」
「猛です。猛虎の猛でタケル。この人が付けてくれたんです。」
「いやっ、男前な名前や〜ん!あ、もしかしてお父さん、熱烈な阪神ファン?」

助産婦は談笑しながらもテキパキと動き、どこからか出してきたポラロイドカメラを真島とに向けた。


「はい、じゃあ記念撮影しますからね〜。お二人共こっち向いて下さいね〜。お父さんは赤ちゃんのお顔が写るようにこう向けて・・・そう。はいじゃあいきますよ〜、はい、チーズ!」

軽快な音がして、シャッターが切られた。


「暫くこのまま安静にして貰いますんでね、親子3人でごゆっくりどうぞ。」

助産婦は出てきた写真をに手渡し、の側に置いた椅子を真島に勧めてから出て行った。
真島はひとまず、そのまま椅子に腰を下ろした。


「・・・今日は迷惑掛けたな。急に呼んでごめん。」

性格というのはなかなか変えようがないらしい。
こんな半死半生の状態でも、この変な癖は健在かと、真島は苦笑いを零した。


「何言うてんねん。水臭い遠慮すんなって言うたやろが。」
「ホンマは生まれてから報せて、退院してから家に来て貰おうと思っててん。」
「これはこれでええやんけ。そうそう体験出来る事とちゃうしな。それに、お袋さんもよっぽど不安やったから電話してきたんやろ。大分長い事かかったんやてな。」
「うん・・・。ふふふっ・・・、正直言うてナメとった。想像してたより百万倍痛かったし、時間もかかったわ。
でも不思議なもんでな、本気で死ぬかと思うぐらい痛かったのに、生まれた途端に嘘みたいにピターッと痛みが治まってん。
あんだけ苦しくて怖くてしゃあなかったのに、この子が・・・、猛が生まれた途端に、頭ん中が一瞬でお花畑満開みたいな気分になってなぁ・・・。」

当たり前のように赤ん坊をその名前で呼ぶに、こんなにも可愛い子を命懸けで産んでくれただけでなく、勝手な男の我儘を何処までも受け入れてくれたに、感謝の念というものが湧いてきて、さっきはしっくりこなかった言葉がどうしても言いたくなった。


「・・・・・、おおきにな・・・・・。」
「ん・・・?何が・・・?」
「何・・・っちゅうか・・・。ほれ、名前とか。俺の頼み聞いてくれたやろ。」
「別にそれだけとちゃうで。私もええ名前やと思ったから賛成しただけやで。」

はそれを、優しく笑って軽く受け流してしまった。


「あ〜あ・・・!ホンマ痛いの治まってスッキリ爽快やわぁ・・・!何やったら踊れるで、ふふふっ・・・。」

が本当はどう思っているのか、それは分からない。
ただ、冗談を言って笑うの笑顔は、今までと何も変わっていなかった。


「・・・ひひっ、アホ言え。そりゃそんな気ィがするっちゅうだけやろ。顔は死んどんぞ。」
「やめて見やんとって、自分でも鏡見たないのに・・・!
もうホンマに死ぬかと思たんやでぇ・・・!しまいに佐川さんが迎えに来てんちゃうかって本気で怖なった位や、あはははっ・・・!」
「やめぇや縁起でもない!んなモン俺が塩撒いて追っ払ったらぁ!のぅ猛?」

真島は苦笑しながら腕の中の赤ん坊に話しかけた。の笑顔と笑い声に釣られるようにして、ごく自然にそうしていた。
自分達で下した決断を忘れた訳ではないのに、今はと二人、我が子の誕生を慶ぶ事以外に何も考えられなかった。
この幸せに水を差すような事は何も考えたくないと、ただ現実逃避しているだけなのかも知れない。
それでも今はただ、不思議で優しい夢のようなこの一時に、身を委ねていたかった。




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後書き

改めまして、真島の兄さんハッピーバースデー!
遂に誕生させてしまいました、真島Jr.!
やりたい放題書きたい放題、何でもアリの妄想ドリームですみません、ホントに<(_ _)>
おチビの名前変換もできず、重ね重ね申し訳ないです。文中にある通りの理由から、固定名という事でご理解頂ければ幸いです。