夢の貌 ― ゆめのかたち ― 13




「先月分のアガリです。」

真島は持参した銀色のアタッシュケースをデスクの上に置き、留め具を外してケースを開けた。
これは毎月定例の、組員としての最も重要な仕事である。
組に入ったばかりの三下だった頃は、薄っぺらい封筒を兄貴分に差し出すだけだったのが、今や組員全員分を取りまとめて組長の嶋野に納める立場になっていて、ケースの中に詰まっている札束の大半も、真島の懐から出したものだった。
嶋野はそれに目を向け、慣れた手付きで札束の数を確認すると、腹に響くような低い声で一言、うむ、と呟いた。これもまた定例の如く、毎度同じ反応だった。


「・・・親父、あの例の大阪の会社、景気はどないでっか?」

そう切り出すと、嶋野はその威圧的な眼差しをゆっくりと真島に向けた。


「・・・・何や急に?」
「気になりましたもんで。」
「それは、あの話を呑む気になったっちゅう意味か?」

真島は曖昧な笑みを口元にほんの僅かばかり浮かべてみせた。これで意思は伝わる筈だった。
煙草を咥えた嶋野にライターの火を差し出しつつ出方を窺っていると、やがて嶋野は紫煙を吐き出しながら、小さく鼻を鳴らして笑った。


「・・・危ないとこやったのう。もうちょっと遅かったら、ガキが生まれるのに間に合わんかったとこや。なあ?」

その事はきっと、一人でクラブパニエを訪れた時に知ったのだろうが、どうやって知ったのだろうか?が自分から打ち明けたのか、それとも嶋野が鎌をかけたのか、偶然気付いただけなのか。
少し気にはなったが、経緯を確かめたところで意味は無かった。真島は努めて無表情を保ち、唇の片側を吊り上げる嶋野の顔をじっと見つめた。


「早よ行ったれや。オンナが心細い思いして待っとんぞ。」

親の許しを得られて安堵し、これで幸せになれると喜んで、寛大な親に感謝と忠義の念を示しながらも、すぐにでもすっ飛んで行く。それが当然かつ嶋野の望んでいる反応なのだろう。
しかし、いつまで経ってもそれをしない真島に気付くと、嶋野は怪訝そうに眉を顰めた。


「何や?」
「あの話を引き受けるに当たって、一つ、親父にどうしてもお願いしたい事があるんですわ。」

嶋野はきっと、調子に乗った飼い犬が己の過ちにようやく気付いて許しを乞うてきたと思ったのだろうが、そうではない。真島の望みは何も変わっておらず、許しを乞う気など更々無かった。
そう、これは『取引』だった。


「何や?」
「俺の組を今すぐ旗揚げさせて下さい。そしたらすぐにでも大阪行かして貰いますわ。」

嶋野の顔が、一際険しくなった。
親を相手に子が取引を持ち掛けるなど言語道断であるし、まず成り立たない。
親が一言、命令だと言えば、それで終わりなのだから。
だが、子が命令に背けば、親はそれを掟破りとして処罰しなければならなくなる。破門か、或いはまた『穴倉』に叩き落とすか。いずれにせよ、その途端に嶋野組は資金・武力の両面において、目に見えて弱体化する。それを嶋野がやむなしと判断するとは、どうしても思えなかった。


「・・・・アホ抜かせ。旗揚げ早々から組長がずーっとおらんまんまの組がどこにあるんや。」

案の定、嶋野は不機嫌を露わにしながらも、『命令』とは決して言わなかった。


「他に組任せられる奴もおらんのに組長がおらなんだら、下の組員共も全員宙ぶらりん、組として成り立たん。
たとえ形ばかり組構えたところで、あっちゅう間に解散になるのが目に見えとる。そんなもん、やるだけ金と手間の無駄や。」
「それなら大阪で事務所構えますわ。そしたら我の組の切り盛りと嶋野組若頭としてのシノギ、両立出来まっしゃろ。」
「何やと?」

嶋野はその太い眉を、今にも激怒する寸前のように微かに痙攣させた。


「・・・・真島、ワレ何言うとんか分かっとんか?」

勿論、分かっている。
近江連合の膝元である大阪に、東城会の代紋を堂々と掲げる事がどういう事か。
そもそもそんな事が可能かどうか。
これは何もかも承知の上での取引、いや、策略だった。


「俺は『嶋野の狂犬』です。敵地のど真ん中だろうか何処だろうが切り込んで、シマ拡げてきまっさぁ。嶋野組の為、東城会の為に。」

冴島への償いを諦める事など、絶対にしない。
そして、と生まれてくる子供の事も、絶対に。
その強固な意志を胸の奥底に秘めて、真島は不敵に笑ってみせた。

















事務所を出た後、真島は夜の神室町に背を向けて歩き出した。
星の数ほどある飲み屋や風俗店の客引きが次々と追い縋って来るのをことごとくかわしながら、ネオンの楽園の外に出てまっすぐ家路を辿っていくうちに、狂犬は次第に元の男へと立ち戻っていった。
『嶋野の狂犬』は何も恐れてなどいない。しかし、『真島吾朗』は恐れていた。
心から愛している女とその腹に宿っている我が子、盃を交わして誓いを立てた生涯ただ一人の兄弟、そのどちらかを失ってしまう事を恐れていた。
泣き言など垂れている暇があったら、現状を打破する為に少しでも動けと己に鞭打ってはいるが、一人になってふと気が緩めば、たちまちこうして不安に駆られ、恐れてしまう。もしも己の力が及ばず、どちらかを失ってしまったら、と。
今日もまたそんな事を考えながら歩いていると、いつの間にか自宅のあるマンションまで帰り着いていた。それすら目の前まで来てようやく気付いた位だったから、そこに人がいる事になど全く気付いてもいなかった。


「吾朗さん!やっと会えた!」
「うおっ!」

マンションのエントランスから飛び出して来た美麗に驚いて、真島は思わず声を上げた。
不意を突かれたせいもあるが、美麗が真島のマンションを訪ねて来た事自体も随分と久しぶりで驚いたのだ。勝矢は何度か遊びに来ているが、美麗が来るのは初めて会ったあの日以来だった。


「な、何や美麗ちゃんかいな、吃驚したぁ!どないしてん急に!?ちゅーか女の子が夜遅うに一人でこないなとこおったらあかんでぇ!危ないやろが!」
「何言ってんのよ、吾朗さんがちっとも捕まんないからじゃない!ここんとこダンスの練習も全然付き合ってくれないし、電話も出てくれないし!あたし何度も留守電入れてんのに、何で無視すんのよ!」

それを言われると、ぐうの音も出なかった。
まさか本音を言える筈も無く、真島は苦笑いを浮かべてすまんすまんと謝った。


「ここ暫く仕事がえらい忙しゅうてな。時間が取れんかったんや。」
「今日、さんから手紙が来た。妊娠したんだってね、さん。」

美麗の鋭い視線と口調に、真島は思わず息を詰めた。
練習に付き合わない事を責めに来たのかとばかり思っていたが、どうやらそうではないようだった。


「最初は良い意味で吃驚した。でもその続きに、結婚はせずに一人で育てていく事になると思うって書いてあって、今度は悪い意味で吃驚した。
だからあたし、すぐさんに電話したの。それで、どうして結婚しないのか問い詰めたら、吾朗さんは東京で自分の組を持って出世したがっているけど、さんはそれを諦めて欲しくて、お互いどうしても譲れないからだって言ってた。本当なのそれ?」
「・・・ああ。」

真島は己の感情を隠して、一言そう返事をした。
すると美麗は、元から不機嫌そうだった顔を更に険しくさせた。


「ああって何よ?まさかそんな理由で納得して引き下がろうとしてるんじゃないわよね?そんなの絶対間違ってるのに。」
「間違い?」
「だってそうでしょ?上を目指したいと思うのは誰だって同じ、当然の事じゃない。
アイドルだって俳優だってそう。ろくに名前も知られていないような惨めったらしいのじゃ意味が無い。有名になって、トップスターと呼ばれるようになってこそ価値があるのよ。
ヤクザだって同じでしょ?下っ端のチンピラのまんまじゃ、只の社会のダニじゃない。出世して富と権力を掴んでこそでしょ?」

美麗は、が話した理由の真意に気付いていないようだった。
何も知らないのだから、当然、気付く筈もなかった。


「だからあたし、それはさんが間違ってるって言ったの。吾朗さんが出世したいと思うのは当然の事よって。赤ちゃんも生まれるんだし、早く吾朗さんと結婚して東京に来なきゃダメって。
だけどさんってば、お店がどうとか家族がどうとか、苦笑いして言い訳するばっかりで、あたしだんだん苛々してきちゃって、つい・・・・」
「つい、何やねん?」

何も知らない、何も関わりの無い美麗が、に何を言ったのだろうと思うと内心穏やかではいられなかったが、真島はそれを抑え込み、どうにか平静を保った。


「・・・つい言っちゃったのよ。お店なんてたださんの我儘でやってるだけでしょ、家族の人だってさんに甘え過ぎだし、はっきり言ってさんの幸せを邪魔するお荷物じゃない、って。」

思わず唖然とすると、美麗は気まずそうな表情になりながらも、ムキになって捲し立て始めた。


「だ、だってそうでしょ!?どうしてさんが自分の結婚を諦めてまで、親兄弟の生活を助けなきゃいけないの!?
そんなにお金に困ってるんなら、さんのお母さんがもっと働くべきだし、弟や妹も進学なんて贅沢言ってないでとっとと働くべきでしょ!?
血の繋がりが何だっていうのよ!そんなもの、売れもしなけりゃ食べられもしない、ゴミみたいなもんよ!そんな理由で自分達ばっかり我儘言って許されると思ってんの!?
そんな身勝手な人達の為に、昔のパトロンに持たせて貰ったお店にいつまでもしがみつこうとするなんて、さんもおかしいわよ!」

昔のパトロン、その言葉に、当時の事が否応なく蘇った。


「・・・・そんな事言うたんか・・・・?」
「だって前にさん本人が言ってたもん!昔パトロンがいて、あのお店は自分の我儘でその人に持たせて貰ったものだって!
吾朗さんだって知ってるんでしょ!?それもさん言ってたわよ、吾朗さんとはそもそもその人を通じて知り合ったって!」

確かにその通りだった。
佐川司、との出逢いはあの男がもたらしてくれたものだったし、今よりもっと厳しい状況で必死に家族を背負っていたを助けてくれたのもあの男だった。


「なのにさんてば、これは自分と吾朗さんとの事だからごめんなんて言って・・・・!ごめんって何よ、要するにあたしに引っ込んでろって事でしょ!?そんなのないわよ!」

けれどもあの男は、決して純然たる恩人ではなかった。
あの男は二人の仲を無理矢理に引き裂き、容赦無くを奪い取っていったのだ。
日頃はわざわざ思い出さないが、きっと生涯消える事は無いあの屈辱の記憶を無遠慮に呼び起こされ、真島は密かに拳を握り締めた。


「大体、吾朗さんは何とも思わないわけ!?自分の彼女が他の男の愛人だった時に持たせて貰ったお店なのよ!?
そんなのいつまでもやってたら、まるでさんがずっとその男に縛り付けられてるみたいじゃない!そんなの許せるの!?それともまさかさんがまだその男の事を・・」
「美麗ちゃん!」

それ以上聞くに堪えず、真島は思わず大声を張り上げた。
すると美麗はビクリと肩を震わせた。その瞳はまだ負けじと真島を睨みつけているが、怯んでいるのは確かだった。


「な、何よ・・・・!?」

との絆は、他の誰にも分かりはしない。
共に過ごした日々も、歩いてきた道も、離れ離れになっていた空白の時も。
それを分かったような口ぶりで詮索されるのは、たとえ相手が誰であろうと我慢ならない。
こんなうんと年下の女の子相手に大人げないとは分かっているが、これ以上美麗の好きに言わせておく事は出来なかった。


「そんなんもう全部昔の事や。今更許すも許さんもない。
それに、あの店はが一生懸命作り上げてきた、の店や。たとえ最初は人に持たせて貰ろたんやとしても、それから5年間、一生懸命切り盛りしてきたんはなんや。その努力を無いもんみたいに言うのはやめたってくれ。」
「そっ・・・、そんなつもりじゃ・・・・!」
にはの事情がある。俺にも俺の事情がある。の言う通り、これは俺らの事やさかい、口出しは無用や。」

真島は努めて冷静に、かつ毅然とそう言い切った。


「あ、あたしはただ・・・・、二人にずっと一緒にいて欲しくて・・・・!」

美麗の唇がわなわなと震えているのを、真島は苦々しい気持ちで黙って見ていた。
泣かれてしまうだろうかと思っていたが、しかしそうはならず、美麗は再びキッと眉を吊り上げた。


さんの事愛してるんでしょ!?何でそんな弱気なのよ!お店なんてどうとでもなるじゃない!東京でだって幾らでも出来るわよ!神室町でも六本木でも銀座でも!
さんの努力の結晶だっていうのは分かってるけど、でもお店なんて所詮は物でしょ!幾らでも替えが利くじゃない!そんな物の為に、吾朗さんもさんも本当にお互いの事を諦めちゃう気なの!?そんなのおかしいわよ!
絶対諦めちゃダメ!吾朗さんがもっと強く出なきゃ!あんなお店とっとと辞めさせて、強引に攫ってでもさんを連れて来なきゃ!」
「俺らの事を考えてくれてる気持ちは有り難いと思う。せやけど、にも責任っちゅうもんがある。俺の気持ちだけで一方的に振り回すような事は出来ひん。」
「だからそれが弱気だって言ってんのよ!間違ってるのはさんよ!絶対にさんがこっちに来るべきなんだから!」

激しい感情をぶつけるようにして訴えてくる美麗の主張は、よくよく聞いていると、微妙にずれているような気がした。
美麗がこんなに感情的になっているのはそのせいなのだろうか?一度気になってしまった以上、確かめずにはいられなかった。


は俺に大阪へ来て欲しがっとる。俺がそれを呑んだら俺らは一緒になる、あっちでな。そしたら美麗ちゃん、祝福してくれるか?」

そう訊いてみると、案の定、美麗はショックを受けたように黙り込んだ。


「・・・・・何でよ・・・・・」

ふと感じ取れた違和感はやはり思い違いではなかったと、真島は確信していた。
美麗の顔には今、それがはっきりと浮き出ていたのだ。『寂しさ』という影となって、くっきりと色濃く。


「何で皆バラバラになっちゃうの・・・・?あたし達ついこの間まで、あんなに楽しくやってたのに・・・・。
勝っちゃんはアメリカ行っちゃって、吾朗さんは仕事仕事って全然会ってくれなくなって、そのうえさんまで、仕事とか引っ越しとか言い訳して、また落ち着いたら連絡するからなんて、遠回しにあたしの事避けて・・・・」

そう、美麗は寂しいのだ。
俯いて、傷付いたように声を震わせる美麗の姿を、真島は一段と苦々しい思いで見つめた。


「どうしてよ・・・・、勝っちゃんが遠くへ行っちゃっても、吾朗さんとさんが側にいてくれるんなら、あたし頑張れると思ってたのに・・・・」

だが、寂しさを訴えられたところで、真島にはどうしてやる事も出来なかった。
己の寂しさも持て余しているのに、美麗のそれを取り除いてやる事など、どうして出来ようか。
今でも十分、頭と心が破裂してしまいそうな程に悩んで苦しんでもがいているのに、他の誰かを助ける余裕が何処にあると思っているのだろうか。
そう思うと、沸々と苛立ちが沸いてきて、抑えきれなくなった。


「・・・・・勝っちゃんは、自分の夢を掴みに行ったんや。」

抑えきれないその感情のままに、真島は冷淡な声で言い放った。
すると美麗はハッと顔を上げて、見開いた目で真島を凝視した。


「俺もそうや。俺も今、自分の夢を一日も早よ実現させようと必死になっとる。
も自分の夢や考えを持って、子供産んで育てていこうとしとる。
結局、皆一人や。自分の夢を叶えてくれんのは、自分一人しかおらんのや。
美麗ちゃんは美麗ちゃんの夢を叶える為に頑張り。いつまでも仲良しこよしでやっとったかて、夢は叶えられへんで。
誰かに側におって貰わな頑張られへんような甘ったれでは、トップアイドルになんて絶対なられへん。芸能界はそない甘い世界とちゃうで。」

自分で自分が止められず、真島は美麗に対して辛辣な言葉を浴びせた。
しかし美麗はさっきまでとは打って変わって一言も言い返さず、ただ凍りついたようにその場に立ち尽くすばかりだった。


「すまんけど、明日早いし、今日は部屋には上げられへん。タクシー通るとこまで送るわ。嫌や言うんなら勝手にしてくれ。」

最後にそう言い捨てると、いつも気丈な美麗の瞳に涙の粒が盛り上がるのが見えた。
やがて美麗は悔しそうに唇を噛み締め、真島を睨みつけてから、踵を返して走り去って行った。
美麗の姿が完全に見えなくなると、重苦しい溜息が真島の口をついて出た。


「・・・・・何やっとんねん、俺は・・・・・」

美麗の為に敢えて手厳しい事を言って発破をかけたのだという言い訳は、たとえ万人に通用したとしても、己自身には通じなかった。
さっきのは叱咤激励などではない、只の八つ当たりだった。
図星と分かっていて、そこを突けば美麗が傷付くと分かっていて、容赦無く責めたのだ。
三十路も近い大の男が、まだ二十歳にもならない少女を相手に、自分の苦しみをぶち撒けただけなのだ。


「・・・・最低やんけ・・・・」

我ながら何と狭量で情けない男だろうか。
行く所も頼れる者も何も無い、無力で孤独な子供の気持ちは、誰よりもよく知っている癖に。
















『クラブ パニエ』の華やかな表舞台から去って、一月が経った。
それまでの賑やかな生活から一変した、地味で静かな毎日だが、仕事にプライベートにそれぞれやる事が山積みで、は相変わらずの忙しい日々を送っていた。
宅急便でフラワーアレンジメントとぬいぐるみが届いたのは、そんなある日の朝だった。
差出人は真島で、『Happy Birthday』と印字されたメッセージカードが添えられてあった。はそれを見てようやく、今日が3月7日、自分の27歳の誕生日である事を思い出した。
春らしいピンク色を基調にした綺麗なアレンジメントと、首に赤いリボンを結んだ、可愛い顔立ちの白いテディベア。これで幾つめのプレゼントだろうか。服、バッグ、アクセサリー、真島にはこれまで幾つもプレゼントを貰ってきた。全て大切に使っているし、去年の誕生日に貰ったアクアマリンの指輪は特に、いつも肌身離さず身に着けている。
だが今年のプレゼントは多分、の事だけを考えて用意したという訳ではなさそうだった。何しろこんな系統のプレゼントは初めてなのだから。
この可愛らしいクマちゃんを買い求めた時の真島の姿や表情を思い浮かべてクスクスと笑いながら、はそれをアレンジメントと共に並べて棚の上に飾った。
棚には細々とした雑貨の他に、アルバムを何冊か収納してある。その中の一番新しいものを取り出して開いてみると、去年の3月7日、26歳の誕生パーティーの写真が目に留まった。
白いドレスを着て、黒いタキシード姿の真島と寄り添って立ち、二人で幸せそうに微笑んでシャンパングラスを掲げているその写真は、ゆかりが撮ってくれたものだった。
その次には真島の27歳の誕生日を二人で祝った時の写真、更にその次には夏に勝矢と美麗が店に遊びに来た時の写真、秋に東京で出席した級友の披露宴の写真、美麗の誕生祝いの写真、クリスマスパーティーの写真と続き、最後は先月の引退祝いの写真で終わっていた。
並んで座り、楽しそうな笑顔を作っている写真の中の二人を暫し見つめてから、はアルバムを元通りに片付け、意を決して電話の受話器を取った。
朝の10時過ぎ、真島がまだ部屋にいる可能性はまずまずというところだった。すっかり指に馴染んでいる番号をプッシュすると、暫くして真島が電話に出た。


『はい。』
「あ・・・吾朗?私。おはよう。」
『おう、か。おはようさん。』
「プレゼントありがとう。今さっき届いた。クマちゃんめっちゃ可愛いやん。お花も凄い綺麗やし。」

まずはプレゼントに対する礼を言うと、真島は電話の向こうではにかむように少し笑ってから、誕生日おめでとうさん、と言った。


『それやったら、赤ん坊にも遊ばせてやれるやろと思ってな。』
「うん。絶対気に入ると思う。」
『そうやとええねんけどな。すまんな、直接渡しに行けんで。』
「ううん、ええねん。あんたも忙しいんやから、そんなん気にせんといて。」

真島とは、店を引退した後から会っていなかった。
電話は時々しているが、真島はいつもの体調とお腹の子を気遣うばかりで、肝心な事に触れようとはせず、の方も訊かれた事に答えて、多忙の真島の体調を気遣うだけだった。


『それはそうと、調子どないや?』
「うん、元気やで。赤ちゃんも順調。今6ヶ月で、もう少しで7ヶ月目に入るわ。」
『そうか。』
「あ、そうや。こないだの検診でな、赤ちゃんの性別が分かってん。」
『えっ!?そんなんもう分かるんか!?』

思った通り、真島は大いに驚いてくれた。その反応に思わず笑いながら、はうん、と返事をした。


「知りたいですかって先生に訊かれてな、めっちゃ迷ってんけど、聞いてん。
生まれてからのお楽しみに取っておきたい気持ちもあったんやけど、ベビー用品の準備とか名前考えたりとかの事を思うと、やっぱり聞いときたいなぁと思って。」
『ああ、そらそうやなぁ・・・・・。ほんで、どっちやってん?』

電話から聞こえてくる真島の声は、明らかにソワソワしていた。
その反応に擽ったくなるような嬉しさを感じると同時に、それを告げたところで何になるという自嘲がの胸を切なく苛んだが、はそれをどうにか振り切って明るい声を保った。


「・・・男の子やって!」
『男・・・・・!』
「エコーで見たらな、お股のところにちっちゃ〜いおちんちんがピョコッとついとったわ。ふふふっ。」

が明るく笑うと、真島も釣られるようにして電話の向こうで笑った。


「女の子って言われた場合はな、隠れて見えてへんかっただけで実はついてましたって事が割とあるらしいねんけど、男の子って言われたら、結構な確率で当たってるらしいわ。そやから多分男の子でしょうって。」
『そうか・・・・・、男か・・・・・・』

しみじみと呟く真島の声は、心なしか嬉しそうに聞こえた。
そうであって欲しいという、只の願望だろうか?
一人で育てると決めた癖に、この期に及んで甘ったれるなと自分を戒めてみても、真島がお腹の子の存在を喜び、誕生を楽しみにしてくれていると思うと、理屈では抑えきれない嬉しさが込み上げてきた。
それを密かに噛み締めていると、まるでに同調するように、お腹の子がポコンと動いた。
どんどん活発になってくるその動きは、に『もうあまり時間は無い』と警告しているかのようだった。


「・・・・・なぁ、吾朗・・・・・」

人から見ても分かる位にお腹の膨らみがはっきり目立つようになってきたというのに、いつまでも先送りにはしていられない。
は改めて意を決し、自分を奮い立たせて口を開いた。


「前にあんた、一人で勝手に結論出すなって言うたやろ。お前だけの問題とちゃう、お互い時間が要るって。あれ、どうなった?今はどない思てんの?」

ストレートに尋ねると、真島は電話の向こうで暫し黙り込んでから、ああ・・・と、沈んだような声で呟いた。


「だんだん時間の猶予も無くなってくるし、そろそろはっきりさせたいねん。」
『・・・・分かっとる・・・・』
「私な、あんたの正直な気持ちが知りたいねん。
そもそもあんたのプロポーズ断って、一人で産むって言うたんは私や。
あんたは責任取るって約束してくれたけど、それを当然みたいに要求する筋合い無いのは分かってる。
だから、お金にしろ届にしろ、約束や言うてあんたを縛り付ける気はホンマに無い。
恨みも憎みもせぇへんから、あんたの正直な気持ちを聞かせて欲しいねん。
責任とか義務とか、一度約束した手前仕方なくとか、そんなんじゃなくて、ホンマのホンマに、あんたの正直な気持ちが聞きたいねん。」

は可能な限りの言葉を尽くして、自分の気持ちを真島に伝えた。そのつもりだった。
自分達の事情は生まれてくる子供には全く関係が無い事で、そんな事で子供に父親という存在を与えない・知らせないというのは、只の身勝手なのかも知れない。
けれどもには、義務や責任だけを仕方なく果たされる形になるのが幸せな事だとも思えなかった。子供にとっても、そして真島にとっても。
側で成長を見ていく訳でもないのにそんな約束はやはり荷が重いと、もしも真島が少しでも思っているのであれば、その時は快く彼を解放する所存で、は真島の答えをじっと待った。


『・・・俺の気持ちは何も変わっとらん。約束は必ず守る。』

少しの沈黙の後、真島ははっきりとそう答えた。
それを聞いた瞬間、また身勝手にも安堵感を覚えたのは事実だった。


「・・・・ありがとう・・・・」

だがそれ以上に強く感じたのは、真島に対する罪悪感だった。
自分の勝手で真島の将来を縛り付けてはいけないと考えて言ったつもりの事だったが、私生児として生まれついた真島にしてみれば、自らが卑怯者と蔑んでいる彼の実の父親と同類にされたような気になってしまったのかも知れない。元々、当然のように結婚して一緒に育てていく事を望んでくれていた真島を、却って更に傷付けてしまったのかも知れない。そう思うと、謝るにも謝れなかった。
真島の気持ちをこれ以上掻き乱さないようにする為にも、そして子供の為にも、ここは真島を信頼して、頼むべき事を素直に頼むのが一番良さそうだった。


「それやったら、この子の事、法的に認知してあげて欲しい。
調べてみたらな、生まれる前にも認知届を出せるんやって。生まれてからでも別にええけど、また話が先延ばしになるし、あんたも忙しいやろうけど、私も子育てで今以上にバタバタしてるやろうし。
それに、それをしたら子供の戸籍には勿論、生まれた時に出す出生届にも、父親としてあんたの名前がちゃんと載るんやって。
そやから、あんたさえ良いんなら、妊娠中に手続きしてしまいたいねんけど、どうやろ?」
『・・・分かった。』

の提案を、真島は拒まなかった。


「ありがとう。その手続きの事やねんけどな、あんたにうちの近くの役所へ出向いて書類出して貰わなあかんから、悪いけどこっちに来て貰いたいねん。いつ頃やったら都合が良い?」
『すまんが、すぐには無理や。来週からまたもういっぺんジャマイカ行かなあかんねん。帰って来んのは4月の半ば頃の予定や。』
「そう・・・・・」

4月の半ばには、妊娠8ヶ月になっている。
初めての妊娠で何もかもが未知の体験、今はまずまず元気だが、その頃に自分やお腹の子の状態がどうなっているかは分からない。
だから、出来るだけ早い内にと思っていたのだが、お互い他にも外せない大事な予定がある以上、多少後ろ倒しにするのはやむを得なかった。


「・・・分かった。ほな5月のGW以降はどう?」
『5月?』
「4月は私も忙しいねん。まだ仕事もあるし、引っ越しの準備もせなあかんし。
ほんで5月になったらすぐ引っ越しして、入院の準備や赤ちゃんの物も色々用意するつもりにしてるから、GW明け、ううん、あんたの誕生日の辺りやったら、一通り全部片付いて落ち着いてると思うねん。
それに、面倒な事言うて悪いんやけど、あんたにも戸籍謄本を準備してきて貰わんとあかんから。そやから、それ位の時期でどう?」
『分かった、それでええ。ほな5月の中頃、そっちへ行く予定にしとく。』
「うん、ありが・・」
『そやけど、その認知届っちゅうのを出すとは限らんぞ。』

思いもよらなかったその一言に驚いて、言いかけていた礼の言葉が消えた。


「・・・・え・・・・?ど、どういう事・・・・・?」
『お前の気が変わったら、そんなもん出す必要無くなるやろ。普通に結婚したら終いやねんからな。』

それを言う真島の声は、真剣そのものだった。


『俺はまだ諦めとらん。今は堂々巡りでも、状況が変われば気も変わる。人間そういうもんやろ。』
「・・・・・どういう、意味・・・・・?」
『近々、組の旗揚げが決まるかも知らん。』
「えぇ・・・・!?」

嶋野は真島に組を持たせようとは考えていない筈なのに、どういう事なのだろうか。は驚き、不安に駆られずにはいられなかった。


『親父の意向通りに大阪へ行っても、このまま神室町に齧り付いとっても、どっちみち状況は何も変わらん。そやから俺は、思い切って賭けに出たんや。』
「賭け・・・・・!?」
『うまくいくかどうかは分からん。せやけど俺は賭けてみたいんや。今用意されとる選択肢のどれでもない、全く別の選択肢を作り出す事にな。』

真島の話は抽象的で、の不安を掻き立てるばかりだった。
賭けとは一体、何の事だろうか?
真島は一体、何をしたのだろうか?


『次お前に会いに行く時には、何かしらの進展があると思う。』
「なぁ・・・・、賭けって、あんた一体何したん・・・・?」
『心配すんな、大した事やない。次会うた時に話すわ。』

真島は事も無げに答えたが、それを信じて楽観的に構える事など出来なかった。


『たとえ相手が親父やろうが、もう人の言いなりにはならん。俺は俺の思た通りにやる。そしたらきっとお前の気も変わる。変えてみせる。』
「・・・・吾朗・・・・・」

真島の声には強い意志が篭っていて、が口を出す余地は無かった。
そして、そんなにも強く想われている事に、戸惑わずにはいられなかった。
やはり自分の選択が間違っているのだろうか、先の事など考えずに、今この人の愛に応えて、この人の言う通りにするのが正解なのだろうかという迷いと、こんなにもひたむきに想ってくれるのなら何故、誰もが当たり前にしているように、自分達の未来だけを見てくれないのだろうかというやるせなさとに挟まれて。
















賭けに出たと言ったが、それこそ博打に喩えて言うならば、今は『壺を振った』というところで、後は嶋野がどう出るかだった。
あの条件をすんなり呑んで貰えると考えるのは流石に甘すぎるし、ましてや大阪で東城会の代紋を堂々と掲げる事など絶対に許されない。だが、交渉の余地が出てくる可能性は十分にあると真島は踏んでいた。

例えば、何年かの『お勤め』で大阪を引き揚げて、その後東京に戻って組を持つ、そんな流れに持っていけたとしたらどうだろうか?

大阪に行きさえすれば、近くにいるのに敢えて別々に暮らすという事にはなり難い。
何となくでもなし崩しでも一緒に住む事になるだろうし、そうこうしている内にも子供が生まれてくるのだから、これもまた何となくでもなし崩しでも、正式に結婚する事になる。それがごく当然の筋道で、手間暇の面を考えても一番楽な筈だからだ。
とにかく一緒に暮らすところまで漕ぎ着けられたら、その後は幸せな日々に優しく押し流されて、の気持ちもきっと変わっていく。
そうしたら、今が抱えている先々への不安も薄れていくかも知れない。
そうならなくても、幸せな日々を過ごしながら敢えて辛い別離を選ぶとは考えられない。
また犬扱いされて、嶋野と近江の両方から良いように使われるのは虫唾が走るが、期限付きならムショ勤めと思って耐えられない事はないし、兄弟盃さえ固辞し続ければ、他の事は割り切ってどうとでもやってやれる。
そうなれば、と子供の事も、冴島の事も、どちらも諦めなくて済む。

それが今、真島の思い描いている夢の形だった。
多少回り道をする事にはなるが、それが自分との望みにそれぞれ最も近い形になる、ベターな方法だと考えていた。
それを実現させるに当たって、今の真島に出来る事は、目の前の仕事に打ち込む事だけだった。がむしゃらに金を稼ぎ出すのは、それで嶋野の機嫌を取る為ではない。脅しをかける為だった。嶋野がこちらの要求を無視出来なくなるように、札束を積み上げて拵えた壁で、あの人を追い込んでいく為だった。
幸い、仕事だけは順調に回っていた。
真島の単独で手掛けているコーヒー輸入の契約にも問題は起きていないし、嶋野組のシノギとして抱えているジャマイカンマフィアとの武器売買の取引も、決して気は抜けないが今のところは問題無く続いていて、今回もなかなかの利益を生み出す事が出来ていた。
それをとどめの一押しにするつもりで、真島は内心勇んで毎月定例の仕事に赴いた。


「失礼します、親父。先月分のアガリ持って来ました。」
「うむ。」

今回、嶋野の前に差し出したアタッシュケースは2個だった。
それを見た嶋野は、その太い眉をピクリと動かした。まずまず、期待していた通りの反応だった。


「・・・何や、えらい景気ええやんけ。」
「お陰様で。」

真島は形ばかりに頭を下げると、早速にも話を切り出す事にした。


「ところで親父、俺の組の旗揚げの事、考えて貰えましたやろか?」

嶋野はギョロリとしたその双眸で真島を睨んだかと思うと、不意に口元を薄く笑わせ、ああ、と気が無さそうに呟いた。


「その事なぁ。その事やったらもうええわ。」

あまりと言えばあまりにもあっさりとした掌返しだった。
真島は咄嗟に取り繕う事も忘れて、ただ呆然と嶋野を見つめた。


「お前の代わりに行かせた吉川、最初はお前を遣るまでの繋ぎのつもりであんま期待しとらんかったんやがのう、これが意外とやれるようになってきよったんや。
いや大したもんやで、あの徹底したプライドの捨てっぷりは。
お前も佐川に飼われとった頃は、えらい出来がええと評判の『犬』やったみたいやけど、犬の真似だけやったらもう吉川の方が上かも知らんなぁ。」

蒼天堀に閉じ込められていた不遇の時代が、佐川の飼い犬として心を殺して生きていたあの時の自分が、否応無しに蘇ってきて叫び出したくなった。


「そういう訳やから、あの話はもう白紙や。わざわざお前が行かんでも、吉川で十分事足りとる。
お前は引き続き、こっちで若頭として気張ってくれや。ジャマイカとの取引、あれこそお前の力が必要や。『嶋野の狂犬』の力がな。」

理不尽で惨めな思いの連続だったあの2年間を耐え抜いたのは、何の為か。
一度はの事さえ諦め、血の滲むような努力どころか生き血を搾るかの如くだった苦しみを幾つも重ねて、堪えて、堪えて、堪えて、やっとここまで来たのに。
あともう少しで、長い間望んできた事が叶う筈だったのに。
ずっとずっと長く続く幸せも手に出来る筈だったのに。


「ああそうや真島。ほんでお前、あの大阪のオンナとはいつ一緒になんねん?ガキが生まれんの、もうすぐとちゃうんかい?」
「・・・・その予定は・・・・、まだ・・・・」

打ちひしがれている己の心にどうにか喝を入れて、真島はやっとの思いでそれだけを呟いた。


「・・・・・ほ〜う、そうかぁ。そらまたえらい悠長やのう。」

すると嶋野は、すっとぼけた口ぶりで飄々とそう返し、おもむろにアタッシュケースの片方を開けて、札束を一つ、真島の目の前にポイと放り出した。


「ほなとりあえず、祝いだけでも先渡しとくわ。その分やと、式に呼ばれる日ィは当分来そうにないさかいな。」
「・・・・・ありがとう・・・・ございます・・・・・・」

頭を下げて投げ渡された金を受け取っている自分と、心の中で声にならない叫びを上げている自分とがせめぎ合って、今にもバラバラに張り裂けてしまいそうだった。




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後書き

真島の兄さんハッピーバースデー!
58歳!いよいよ還暦に近付いてきましたね〜!
でも兄さんは衰え知らずの筈!
龍5で弱体化してたのは、男性更年期じゃなくてちょっとおセンチ(笑)になってただけなんだぁぁぁー!
龍1の時の嶋野の親父が、丁度そんな位の歳でしょうか?
同じ年頃で比較したら、兄さんの方が嶋野の親父よりも断然若くてパワフルなんじゃないかと思います!
そう言えば、前作の『檻の犬〜』に比べて、今作は嶋野の親父が大活躍しています。
この回なんて、親父で始まり親父で終わってますし(笑)。
いや〜、親父書くの楽しいな〜!