夢の貌 ― ゆめのかたち ― 12




1992年の正月が明け、またいつもの日常が回り始めたばかりのある日の昼下がり、の店『クラブ パニエ』に一人の客が訪ねて来た。


「明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。」

この人、勝矢直樹に会うのは約半年ぶりだった。
今や順調にスターへの階段を駆け上っている立場なのに、この腰の低さは相変わらずだ。
約束の時間通りにやって来て、律儀に挨拶をしてくれる勝矢に嬉しくなりながら、は自分も彼と同じようにきっちりと頭を下げた。


「明けましておめでとうございます。こちらこそ、今年も宜しくお願いします。」
「すみません。すっかりご無沙汰していた上に、急に押しかけて来て。」
「ううん、全然!むしろこっちが申し訳ない位やわ、忙しいのにわざわざ挨拶に来て貰って。さ、どうぞどうぞ!」

形式的な挨拶が済むと、はすぐに勝矢をVIP席へと案内した。


「飲み物何しよか?シャンパンいっとく?」
「いやいやそんな滅相もない!そんな気を遣わせるつもりで来たんじゃありませんから!
それに、昨日電話でも言った通り、この後すぐ親父の所へ挨拶に行って、夕方の飛行機でまた東京へ戻らないといけませんから、本当にお構いなく。」

勝矢から、まもなく出発するのでその前に直接会って挨拶したいという旨の電話があったのは、つい昨日だった。
その電話も、11月にアメリカ行きの報告を受けて以来の事で、仕事や渡米準備に忙殺されているのであろう事は容易に想像がついていたが、どうやら実際はそれ以上らしい。
時間が無いとは聞いていたものの、もし可能ならば彼の門出を出来る限り盛大に祝いたかったのだが、残念ながらやはりそれは諦めるしかなさそうだった。


「そう・・・・?ほなコーヒー位やったらいける?」
「ええ、それなら。すみません、ありがとうございます。」
「ちょっと待っててな!」

は勝矢の側を離れ、キッチンで熱いコーヒーとチョコレートを用意した。
挽き立ての豆で丁寧に淹れた香り高いコーヒーと、とっておきの某有名店のチョコレート。せめてもと思って用意したそれらを、勝矢は嬉しそうな顔で喜んでくれた。


「うわぁ、良い香りですね〜!」
「どうぞ。」
「ありがとうございます。頂きます。」

ブラックのままのコーヒーを一口飲んで、勝矢は満足げな溜息を吐いた。


「美味いコーヒーですね。ちゃんとした喫茶店で飲む味だ。」
「そう?良かった。それブルーマウンテンやねん。」
「ああ、真島さんがジャマイカで買い付けてきたやつですか?」
「うん。」

真島の顔がチラリと頭を過ぎったが、は笑顔を崩さないようにして頷いた。


「遅くなったけど、ハリウッド進出おめでとうございます!」
「ありがとうございます!」
「これ、気持ちだけやねんけど、お祝いとお餞別。」

が差し出した熨斗袋とお守りを見た途端、勝矢は予想通り、激しく動揺しながら遠慮した。


「いやいやいやいや、そんなそんな・・・・・・!」
「私、祝賀会参加出来ひんかったから、ホンマに気持ちだけ。な?
それと、こっちは心願成就のお守り。勝っちゃんの夢が叶いますようにって願かけてきたから。色々大変やろうけど頑張ってな!」

もう一度差し出すと、勝矢は決まりの悪そうな、けれども嬉しそうな表情になって、ありがとうございますと呟き、それらを受け取った。


「お父さんにも挨拶行くんやね。」
「ええ。これから暫く海外暮らしになりますから、まぁ一応、報告していった方が良いかなと思って。」

言い方こそ消極的だが、それでもたった一人の肉親。全く情が無い訳ではないのだろうし、何より、輝かしいスターへの道を歩き始めた自分を見せて認めさせたいのだろう。複雑な関係だからこそ尚更。


「そやな、それがええわ。お父さんもきっと喜びはるわ。お父さんとこはここから近いの?」
「東逢坂です。」

東逢坂は、大阪中心部の市街地に隣接する大きなベッドタウンだった。


「そう。勝っちゃんが子供の頃に住んでたお家もそこなん?」
「はい。でも今日は家には行きません。会社の方にいるらしいので、そっちに行きます。」
「会社?」
「家の近くにあるんです。逢坂興業っていう、産廃処理の会社が。」

きっとその会社は、近江連合直参勝矢組のシノギなのだろう。
何か訊くのも躊躇われるので、は当り障りのない相槌を打って、その話をそっと流した。


「ほんで?出発はいつなん?」
「今度の土曜です。」
「そう、気を付けてな。」
「ありがとうございます。精一杯頑張ってきます。」
「撮影はどれ位の期間になんの?」
「端役ですし、それ自体はあまりかからないと思うんですけど、暫くは帰らないつもりです。本当に奇跡みたいな大チャンスですから、石に齧り付いてでもものにしないと。
まぁそうは言っても、ビザの関係で時々は一時帰国する事になりますけどね。」
「そっかぁ・・・・・。じゃあ当分会われへんねんなぁ。今でもあんまり会われへんけど、海外となると別次元やもんなぁ。電話もそうそう出来へんし。寂しなるなぁ。」
「そうですね、寂しいですけど・・・。あ、そうだ。これ、向こうでの連絡先です。」

勝矢から差し出されたメモには、現地での住所と電話番号らしきものが書き記されてあった。
余程の事でもない限り、実際に連絡を取り合う事は無いのだろうが、勝矢のその気持ちが嬉しかった。


「ありがとう。ほな貰ろとくわな。ほんで、東京のお家はどないすんの?」
「部屋は年末で引き払いました。丁度大家のお婆さんがアパートの土地を売りに出してて、春頃に取り壊される事が決まったので。」
「そう・・・・。ほんなら荷物全部アメリカへ持って行くん?」
「服とか身の回りの物は少ないから全部向こうへ持って行きますけど、家具や電化製品は思い切って全部処分しました。どれもこれも古くてボロボロでしたから。
他には、コレクションしてた映画のパンフ類や今まで出た作品の台本とかビデオもあるんですけど、それは事務所で保管しといて貰う事にしました。
よっぽどの大スターならともかく、俺なんて先がどうなるかさっぱり分からないのに、アメリカと日本でそれぞれ部屋借りて維持し続けていくなんてとてもとても・・・。」
「いやいや、そんなん誰かてそうやわ。」

幾ら大きなチャンスが巡ってきた為とはいえ、これまでの暮らしの何もかもが一気に変わってしまうのは大変な事だ。
勝矢の今の状況を我が身に置き換えて想像し、思わず圧倒されていると、勝矢がふと不安げな眼差しをコーヒーカップに落とした。


「・・・・本当は、もしアパートが無くなるんでなければ、どうにか部屋をそのままにしといて、美麗ちゃんに鍵を預けようと思ってたんです。勿論、堂々と又貸しする訳にはいきませんから、あくまで留守を頼むって形で。でもこういう事になって・・・・」

勝矢は自分の事よりも美麗の事を案じているのではと、は思った。


「俺がもっとしっかりしてたら、美麗ちゃんの力になれたんでしょうけど・・・・。
実は以前、仕事で知り合ったアイドル事務所の社長に彼女の事を頼み込んでみたんですけど、良い返事が貰えなくて・・・・。俺程度じゃ、まだまだコネとして弱いって事なんでしょうね。
結局、何の力にもなれませんでした。夢の実現に対しても、今現在の生活に対しても・・・・。」

勝矢とは対照的に、美麗は依然として燻り続けている。
同居しているルームメイトとの関係も、里親の元に帰る気が無いのも相変わらずで、夢を掴むどころか、寝起きするスペースも日に日に削られていくような毎日を送っているようだった。
何処にもやり場の無い苛立ちを受け止めて欲しいとばかりに手紙にしたためて送ってくる美麗の事を思うと、今の自分は人の心配が出来る状況でないと分かってはいても、とて不安を感じずにはいられなかった。


「ハリウッドデビューなんて言っても、それは偶々何かの拍子に転がり込んだ奇跡で、本当は俺なんかまだまだなんです。
なのにこんなチャンスが巡ってくるなんてまだ信じられなくて、勿論凄ぇ嬉しいんですけど、でもやっぱり美麗ちゃんの事が気掛かりで。
彼女の事を考えると、本当にアメリカへ行って良いんだろうかって、少しだけ迷ってしまうんです。今まで一緒に頑張ってきたのに、美麗ちゃん一人置いて俺だけ、なんて・・・・」

それは、盟友としての心配なのだろうか?
それとも、男としてなのだろうか?
不安げな勝矢の顔をそっと見つめながら考えていると、勝矢はハッとして取り繕うように明るく笑った。


「あ、美麗ちゃんには内緒にしてて下さいよ?こんな事グジグジ言ってるのが知られようものなら、俺がまた凄い剣幕で怒られちまうんですから。」
「ふふふっ、分かってる分かってる。」

が笑って請け負うと、少々わざとらしかった勝矢の笑顔が、ごく自然な感じに和らいでいった。


「ま、今更グズグズ言っても仕方ありませんし、やると決めた以上はやりますよ。じゃないと、今まで何の為に頑張ってきたのか分かりませんから。」
「うん!そやそや、その通り!折角チャンス掴めたんやから、全力でやらんと!頑張ってな!」
「はい!」

勝矢は力強く頷くと、ふとその柔和な目元を更に優しく和らげた。


「じゃあ、次は俺がおめでとうを言う番ですね。」
「え?」
「赤ちゃん、おめでとうございます。」

今日報告しようとしていた事が既に知られているのに一瞬驚きはしたが、何故知っているのか、誰から聞いたのかなんて、わざわざ確かめる必要は無かった。
現時点での妊娠を知っているのは、の家族と嶋野、それに真島だけなのだから。


「・・・ありがとう。」
「今、何ヶ月ですか?」
「4ヶ月。7月に生まれるねん。」
「そうですか。楽しみですね。」

嬉しそうに笑ってくれる勝矢に、も笑って、うんと頷き返した。


「いつ聞いたん?」
「本当についこの間です。暫く全然会ってなかったんですよ。俺も忙しかったんですけど、真島さんもジャマイカに行ってたりこっちに来てたりで、ずっと東京にいなかったでしょう?
それで留守電入れまくってたら、正月にやっと折り返しの電話が掛かってきて、ついこの間ようやく会えました。少しだけでしたけど。」
「そう・・・・」

年末以降、真島とはまだ連絡を取っていなかった。
彼の都合や体調を気遣っての事、という理由に嘘がある訳ではないが、決してそればかりではなかった。


「正月中、飲み会続きやった筈やねんけど、具合悪そうやった?」
「ええ、かなり。二日酔いでっていうか、精神的にね。」

やっぱりな、と笑って言いかけていたのが、その一言で引っ込んだ。


「何か様子がおかしかったんですよ。さんの話になると、妙に歯切れが悪いというか、ぎこちないというか。それで、これは絶対何かあった筈だと思って、しつこく問い質して聞き出したんです。」
「・・・・・そう・・・・・」
「プロポーズ、断ったそうですね。何でですか?」
「・・・・・吾朗は、何て?」
「極道の男が堅気の女を幸せにするなんて、所詮は無理な話なのかもな、とだけ。」

知った顔をして、真島の生き様を否定する権利は無い。
愛ゆえにそれをして、肝心のその愛が憎しみや憤りに変わってしまう位ならと、自分から身を引くつもりでいたのに、いざそう聞くとショックを受けずにはいられなかった。


「そんな曖昧な答えじゃあ、納得なんか出来ませんよ。でもあんまり食い下がってたら、しまいに真島さん怒り出しちゃって。
だから、それがどういう意味なのか、何があったのか、詳しい事は何にも聞けませんでした。」

そう、心の片隅で期待していたのだ。
真島が考えを変えてくれる事を。
お前と子供と幸せな未来を生きていきたいと言ってくれる事を。


さんは答えてくれますよね?まさか真島さん共々だんまり決め込んで、俺にこのままアメリカ行けっていうつもりですか?こんな納得出来ない、歯痒い気持ちのまんまで。」

苦労の末にようやく大きなチャンスを掴んで、勝矢は今が俳優として大成する為の正念場だ。
本当なら友人として激励し、勇気付けて送り出してあげなければいけないのに、逆に心配をかけて気を揉ませてしまうなんて、勝矢には申し訳ないとしか言いようが無かった。


「ごめん、大事な時に要らん事で心配かけて・・・・・」
「要らない事なんかじゃないですよ。二人共、俺の大切な友達なんですから。」

勝矢のその優しさが、沁みる程に嬉しく、辛かった。
真島はきっと人に知られたくないのだろうが、こんなに真摯に向き合ってくれている勝矢に対して適当にはぐらかすような真似をしたら、それは彼の友情を踏み躙ってしまう事になる気がして、どうしても気が咎めた。


「吾朗は自分の組を持って出世したがってんねんけど、私はそれを諦めて欲しいねん。お互いそこがどうしても譲られへんでな。」
「ああ・・・、真島さんに、足を洗って堅気になって欲しいって事ですか?」

出逢ったばかりの頃にはそれを望んでいたが、真島にその気が無い事をよくよく承知している今はもう、そこまでは望んでいなかった。


「ううん。確かに昔はそない思てた時もあったんやけど、それはもうええねん。
吾朗はあの通り、筋金入りの極道やし、そういう男と分かって好きになったんは私やしな。それはもう言うてもしゃーないから。」

軽い口調でそう答えて笑ってみせたが、勝矢の真剣な表情は些かも変わらなかった。


「それなら、どうして組を持とうとする事は許せないんですか?」
「・・・・・それが吾朗自身の為やのうて、人の為やから、かな・・・・・」
「人の為?一体誰の為だっていうんです?」
「吾朗にはな、大切な人がおんねん。多分、私よりも大切な人が・・・・・」

がそう答えると、勝矢は怪訝そうな顔になった。


「どういう意味ですかそれ?そんな筈ないでしょう?俺が知ってる限り、真島さんは本当にいつだってさんだけを・・」
「ちゃうねん。他に好きな女の人が出来たっていう意味じゃなくて。」
「じゃあどういう意味なんです?」
「吾朗には盃交わした兄弟分がおんねん。たった一人だけの、大事な兄弟が。」
「兄弟・・・・・」
「吾朗は昔、その人を裏切ってしもたんやて。勿論、そうしようと思ってしたんとちゃうねんで。私が聞いた限り、どうしようもなかった事やった。
だからホンマは裏切りなんかとちゃうねん。事実、吾朗かて生きるか死ぬかの目に遭うたんやから。
そやけど吾朗は、自分がその人を裏切ったて思ってる。ずっとそう思って自分を責め続けてて、その人に償いをしようとしてる。吾朗が自分の組持って極道の世界でのし上がっていこうとしてるのは、その為やねん。」
「償いって、何をする気なんです?」
「何もかも全部、その人に差し出すつもりみたい。」

これ以上詳しい事は、流石に自分の独断では話せなかった。
何もかもとはどういう意味か、その『裏切り』とは具体的に何なのか、もしも根掘り葉掘り訊かれたら、その時は正直にそう答えて勘弁して貰うしかないと思っていたのだが、そんなの胸中を察してくれているかのように、勝矢はそれ以上追究してはこなかった。


「・・・・それも元から分かってた事やねん。出逢った時から吾朗はそう考えてた。
そやから、それならそれでええわ、とことん付き合うたるわと思ってたんやけど、子供が出来た途端に、私の気ィが変わってしもてん。吾朗に、私と子供の為に生きていって欲しくなったんよ。」
「それで真島さんは、さんのその望みを聞き入れなかったって事ですか?さんと生まれてくる子供よりも、兄弟分への償いを取ったと?」

率直なその問いかけに思わず揺れてしまった心を、は軽い笑いで誤魔化した。


「・・・さぁ、どうやろ。考え直してとは頼んであるんやけどな。
でも、私も同じ事吾朗に言われてるからなぁ。自分ら兄弟の事に私と子供は絶対巻き込まへん、それとこれとは別やから考え直せって。」
「その兄弟分っていう人は、今どこでどうしているんですか?」
「・・・・刑務所に、いてはるんやて・・・・・」
「刑務所・・・・」

真島は今頃、どう考えているだろうか?
お腹の子は日々成長している。少しでも早く答えを出さなければならない。
しかし、だからと言って、流石に1週間かそこらで答えを催促するのは早急であるし、勝矢の話を聞いた限り、答えが出ているとも思えない。
それに、たとえ一人ででも産むと決めた以上、には他にも考えておかなければならない事やしておかなければいけない事が色々とあった。















1月半ばの土曜、勝矢は遥か遠いアメリカ・ロサンゼルスへ向けて、意気揚々と旅立って行った。
自分の部屋の窓から見える東京の空は、冴えない色をした雲で辛気臭く覆われていて、今頃勝矢の頭上に広がっているアメリカの空と同じものだとは思えなかった。
今は夕方の4時前。流石にもう起きていて、多分家にもいるだろう。真島は受話器を取り、の自宅の番号をプッシュした。


『はい、です。』

思った通り、は在宅していた。声もひとまずは元気そうだった。


か?俺や。」
『ああ、吾朗。』
「遅なったけど、明けましておめでとうさん。」
『ふふふっ、ホンマや。今更やけど明けましておめでとう。今年もよろしく。』

冗談めかしたの挨拶に対して、上手く笑う事が出来なかった。
今年もよろしくなんて只の決まり文句に過ぎないのに、つい深く考え込んでしまったのだ。結婚はせずに一人で産むと言っていたが、考え直してくれたのだろうか、と。
だが、いきなりその話に触れるのも躊躇われて、真島はどうにか平静を装い、軽い笑い声をに聞かせた。


「おう、よろしく。すまんかったな。色々バタバタしとって、連絡すんのえらい遅なってもうた。」
『ううん、それはこっちも一緒やから。』
「調子どうや?」
『うん、元気やで。あんたは?地獄の飲み会ラッシュ、大丈夫やった?』

思ったよりも元気そうなの声に、気が幾らか楽になった。


「ま、今年も何とか乗り切ったわ。」
『そう、良かった。あ、そうそう、こないだ勝っちゃんが店に来てん。お父さんとこへ挨拶行く前に寄ってくれて。』
「そうらしいな、聞いたわ。」
『出発、昨日やったよな。見送り行ったんやろ?』
「いや、行ってへん。」
『え、何で?』
「白沢監督や事務所の社長らも一緒や言うから、空港へ見送り行くんはやめといたんや。」

これから世界へ大きく羽ばたいていこうとしている新進気鋭の若手俳優が、こんな極道者と友達付き合いをしていると知れ渡るのは、勝矢にとって決してプラスにはならない。見送りに行かなかったのは、そう考えたからだった。


『ほな、会うたんはお正月が最後?』
「ああ。出発までにもっぺん会うて飯でもとは思ったんやけど、勝っちゃんの都合がつかんかってな。金曜の晩に電話でちょっと喋っただけや。」

勝矢からは、正月明けにの所へ挨拶に行き、祝いと餞別を貰ったとだけ聞いていた。
きっと子供の話にもなった筈なのだが、勝矢はその事には触れなかった。
正月に会って報告した時に、つい八つ当たりのようにして詮索を避けてしまったから、気を遣ってくれたのだろう。
だから真島もこれ以上勝矢に余計な気を遣わせたくなくて、その事については何も聞かず、ただ飛び立っていく勝矢を激励しただけに終わっていた。


「・・・子供の事、俺の一存で勝っちゃんに報告した。勝手に悪かったな。」
『ううん。どのみち私も報告する気でおったから。友達やのに、いつまでも内緒にはしてられへんしな。』
「まぁな・・・・。」
『美麗ちゃんには?言うたん?』
「いや、あの子には言うてへん。暫く会うてへんまんまや。時々留守電は入っとるけど。」
『そう。ほな美麗ちゃんには私から折見て報告するわ。』
「ああ。任せるわ。」

真島は最近、悪いとは思いながらも、意図的に美麗を避けていた。
ダンスバトルはともかく、一向に運が向いてこない事への憤懣や同居している女友達に対する愚痴を延々と聞かされても、協力のしてやりようも無ければ有効なアドバイスも思い付かず、次第に煩わしいと思うようになってきたのだ。
水商売という仕事柄、女の愚痴は散々、それこそ浴びるように聞いてきているが、今はとてもそれが出来るような状態ではなかった。
あれこれと抱えているシノギの事、先々の展望、そして、それと切っても切り離せない、とお腹の赤ん坊の事。
今の真島の頭の中はそれらで一杯で、間違いなく人生の大きな分岐点に立たされていると言える状況にあり、友人とはいえ他人の不平不満を受け止めて、解決を手伝ってやれるだけの時間も気持ちのゆとりも無かった。


「それはそうと、今月終わり頃にまたそっち行こ思てるんや。」

真島がそう切り出すと、ほんの少しの間だが、緊張にも似た沈黙が流れた。


『・・・そう。』
「店も出るつもりしとるけど、いつがええとか、何か都合あるか?」
『うん、そやな・・・・、都合はあるっちゃあるけど、あんたの気持ち次第になると思う。』
「ど、どういう事やねん?」

真島は身構えながら、の返事を待った。


『私、1月いっぱいで店引退する事にしてん。正確に言うと、2月1日の土曜日の営業が最後。』
「引退・・・・・」
『これから先、どんどんお腹目立つようになってくるから。大きいお腹抱えて、お客さんの前をウロチョロする訳にはいかんやろ。』

確かにそれはその通りだった。水商売の女の仕事は酒の販売ではない、客の男達を一時の楽しい夢で酔わせるのが仕事なのだ。
大きく膨らんでいく腹は、客を醒めさせて商売を妨げてしまうし、女にとってもその仕事は身体に障る。それは雇われホステスだろうがオーナーママだろうが、同じ事だった。


「ほなお前、店どうすんねん?畳むんか?」
『畳まへん。引退って言うても、表に出るのをやめるっていうだけや。そっから以降はオーナーとして、経理とか裏方の仕事に徹するつもり。
ほんで、私が引退した後はゆかりちゃんにママになって貰いたいと思って、打診しとってん。』
「ゆかりちゃん、引き受けてくれたんか?」
『うん。昨日OKの返事貰った。そやから私も丁度、今日あんたに電話しよと思っててん。店の事でな。』

店を畳まず、身重の体でオーナーとしての仕事を続けていくつもりという事は、やはり考え直す気は無いという事なのだろうか。
迷いの欠片も無いようなはっきりとした口調で淡々と話すの声に、真島はまるで突き放されるような寂しさを感じた。


『その事があったから、悪いけど、ゆかりちゃんにだけはホンマの事を話した。
他の子らにはまだ何も言うてへんけど、引退の日も迫ってるし、流石にもう明日明後日の内にも報告せなあかんと思ってる。
けど幾ら何でも、何の理由も無しにただ引退しますって訳にはいかんやろ?だから何て言おうか悩んでんねん。
そこであんたに訊いときたいんやけど、店の事、あんたは今後どうする?どうしたい?』
「どうしたいって・・・・」

突然訊かれても、今すぐには答えられなかった。
正直なところ、まだそこまで気が回っていなかったのだ。


『無理言う気は無いねん。あんたの良いように決めてくれたら良い。
もう辞めるんなら、妊娠の事は言わへん。私ら二人共店からおらんようになるんやから、他に何なりと適当な理由をつけて誤魔化そうと思ってる。
でも、もしまだ続けてくれるんなら、誤魔化すにも限度があるやろ?かと言ってホンマの事言うても、店に出ぇへん私はともかく、あんたに気まずい思いさせる事になるし。』

との仲は、店のバックヤードにおいては公然だった。
その状態での引退の理由について知らぬ存ぜぬはまず通用しないし、子供が出来た事を言えば当然、結婚の具体的な日取りや今後の生活についての詮索を色々と受ける事になる。
の言う通り、それもまた嘘や誤魔化しが通じるような話ではないし、かと言って、正直に結婚の予定は無いと言ってしまえば・・・・
となると、お互い一番楽なのは、今すぐすっぱりと辞めてしまう事だった。


『辞めて欲しいとか続けて欲しいとか言うてるんとちゃうねん。あんたにも都合があるのは分かってるから。
ただ、どっちにするか方針を決めて欲しいねん。それによって、店の子らへの説明を考えんとあかんから。急に言うて答え急かして悪いねんけど。』
「・・・・俺は・・・・・」

このタイミングで辞めてしまうのが、一番楽ではある。
だが、支配人として2年以上携わってきて、それなりの思い入れや責任もあるし、店を通じて作り上げてきた人脈や仕事の繋がりも、今すぐバッサリと切り捨てられるものではない。
それに何よりも、との縁を断ち切りたくない。
店を辞めると言えば、それを助長してしまいそうな気がするのに、どうしてそう言えるだろうか。
綻びつつあるそれをどうにか繋ぎ止められないだろうかと、今必死に模索しているところなのに。
















2月1日。
春まだ遠いこの日をもって、は『クラブ パニエ』の表舞台を降りた。
最後の営業を無事に終わらせ、最後の客を送り出すと、店の従業員達がいそいそと送別会の準備を整えてくれ、と真島をまるで高砂席の新郎新婦の如く、二人並べて座らせた。
あれよあれよという間にグラスが行き渡り、祝宴のムードが高まっていくのを、と真島は微笑みを交わし合いながら見守っていた。
但しその微笑みは、100%の幸せで満ち溢れているものではない。それを分かっているのはお互いと、そして、明日から『クラブ パニエ』の2代目ママとなるゆかりだけだった。


「皆グラス持った!?ほないくでぇ〜!ママ、長い間お疲れ様でしたー!アーンド、オメデタおめでとうございまーす!」

一番古株のボーイで、フロアリーダーとして真島の補佐役を務めている宮本が、グラスを掲げて乾杯の音頭を取ると、他の従業員達も皆それに続いた。


「おめでとうございまーす!」
「おめでとうママー!」
「ありがとう〜!」
「支配人もおめでとうございまーす!」
「おおきに。おおきにな。」

方々から飛び交う祝福の声に、と共に礼の言葉を返しながらも、真島の胸中では嬉しさよりも気まずさの方が勝っていた。
店での進退について、結局、辞めるとも続けるとも決断する事が出来ないまま、今に至っていたのだ。
何とか用意してこられたのは、東京での仕事が忙しくなってきた為に今後はあまり来られなくなるという、どっちつかずの曖昧な結論だけ。これで盛大に祝われて気まずくならない訳がなかった。
一方、で、弟妹の学業を全うさせる為と店の経営業務の引継ぎの為に、暫くは結婚を延期し、子育てをしながら裏方の仕事を続けていくつもりだと、従業員達に対して報告していた。
それら全て、確かに嘘ではない。の弟妹はまだ学生の身であるし、2代目ママとなるゆかりも経営の知識はまるで無く、明日からいきなり何もかもを一人でやっていく事など不可能なのだから。
だが、期限の無い『延期』は、即ち『予定が無い』という事である。それを隠していく事に対する気まずさに、も今、何とか耐えている筈だった。


「せやけど、めでたい事やとはいえ、寂しなるなぁ。ママは店出ぇへんようになるし、支配人もあんま来られへんようになるし。
何や僕、心細いですわぁ。支配人、ピンチの時は助けて下さいね!?来られへんねやったらせめて電話ででも!ね!?ね!?」

宮本が情けない顔で真島に向かって手を合わせると、ゆかりが気まずそうな視線を一瞬、真島とにチラリと向けた。
彼女はこの店の中で唯一、二人に結婚の予定が無い事を知っているが、それでもその理由の真意までは知らない。真島が何故、東京で自分の組を掲げて極道として成り上がっていく事に拘っているのかも、が何故、それを諦めて欲しいと思っているのかも。
しかしそこまで話さずとも、その表面的な理由だけでゆかりは理解を示し、二人、特にに対して全面的に協力してくれる気でいるらしく、今もわざとらしい膨れっ面になって、宮本の肩をバシッと叩いてみせた。


「ちょっとぉ宮本君、それどういう意味ぃ!?私じゃ頼んないって言いたいのぉ!?」
「いやいやいやいやっ、そんな滅相もない!ゆかりママがおってくれたら百人力ですぅ〜!」

ゆかりと宮本の掛け合いで周りが笑い、場の空気は一層明るく賑やかになった。
真島もその雰囲気に乗じて、これから実質的な支配人となっていくであろう宮本を励ます事にした。


「大丈夫や、もっと自信持て。お前やったら何やかんや言うてもやっていける。しっかり頼むで。」

真島がそう言って励ますと、No.2の美雪とNo.3の亜由美も、うんうんと力強く頷いた。


「そうやん!支配人もこれから色々忙しなるって言うてんねんから、こっちの事はうちらでしっかりやっていかんと!」
「支配人は東京でのお仕事をしっかり頑張って、ママとチビちゃんをいつでも迎えられるようにしといて下さいね!」
「ああ、分かっとる。」

真島がそう返事をすると、はノンアルコールカクテルのグラスを置いて、皆に明るく笑いかけた。


「皆ホンマにありがとう。でも何や申し訳ないわ〜!こんな盛大に引退祝いして貰ったら、来週からめっちゃ店来づらいや〜ん!今まだ5ヶ月やし、お客さんの前に出ぇへんってだけで、まだまだ働くつもりやのに〜!」
「何言うてるんですか〜!来るのは来ても、ママはドーンと座ってやんと!幾ら安定期やいうたかて、無理したら駄目ですよぉ〜!ちょっと無理したら急にお腹張ってきたりするんですから!」
「そうそう!元気でも普通の身体と違うのが妊婦ですよぉ!私なんかしまいに最後の方は息するだけでもしんどかったんですから〜!」
「え〜!?そんなん言われたら何か怖なってきたわ〜!」

皆と談笑するの笑顔は、真島の目には作っているように見えていた。
他にも誰かそれに気付いている者はいるだろうか?小奇麗な言い訳に騙されずに、真実を見抜いている者はいるだろうか?
ついそんな事を考えて気に病まずにはいられなかったが、だからこそ、このまま突き進むしかなかった。
の気持ちを今すぐ変える事は難しい、己の意志も変わらない、変えられる事があるとすればそれは状況だけ、つまり、一刻も早く自分の組を立ち上げる事だけなのだ。
それを成せば、状況は大きく変わる。少なくとも、今後どうなるとも知れない不安定な今の状況からは脱却出来る。
そうすれば、いずれが考えを変えるべきかと迷い始めた時に、きっと大きな後押しになる。
いずれその内、子供が生まれるまでには。
今の真島には、その可能性を信じ、それに賭けて突き進むより他になかった。

















祝宴が終わると、は真島と共にいつも通り帰途に着いた。
の身体を気遣ってタクシーで帰ろうと言う真島の提案を断って歩きたいと言ったのは、多分もうあと何度もない、もしかしたらこれが最後かも知れない『いつも』を、しっかりと噛み締めたかったからだった。
この道を何度こうして二人で歩いただろうかと考えながら歩いていると、の歩調に合わせてゆっくりと隣を歩く真島が、抱えている花束に視線を落としながらボソリと呟いた。


「・・・ぎょうさん祝い貰ろてしもたな・・・・・」

大きな花束を抱えているその腕には更に、プレゼントの入った大小様々な紙袋が何個もぶら下がっている。
従業員達が良かれと思って用意してくれたこの品々の重みは、たとえ自分の手で持ってはいなくても、にもひしひしと伝わってきていた。


「・・・仕事、いつまで続けるんや?」
「このまま順調やったら、4月いっぱいまで続けるつもり。それからすぐ今の部屋引き払って、実家の近くに引っ越す予定にしてる。病院も近くやし、産後に仕事復帰する時にも子供の事頼めるし。」

がそう答えると、真島は心配そうな顔でを見た。


「子供生まれてからも続ける気か?」
「店にはもう出ぇへん。実家に子供の事頼むとは言うても、それはあくまでも手伝い程度で、出来るだけ自分の手で育てたいし、そうなると、昼夜逆転する水商売の生活サイクルではやっていかれへんからな。
そやけど、オーナーとしての仕事自体は、昼間の時間帯で今後も続けていく。
子供が1歳になるまでは育児に専念したいから、今の内にある程度しっかりゆかりちゃんに仕事教えて、引継ぎしとくつもり。」

店の経営から手を引くつもりは無かった。いや、まだそのつもりは無い、というのが正しかった。
無知なりに四苦八苦しながら作り上げてきた店への思い入れも勿論あるが、やはりネックになるのは経済的な事情だった。
今後の子育てを考えると、水商売はこの先続けていける仕事ではないと思ってはいるが、そうかと言って、これから出産を控えている身で新しい仕事にありつく事など、まず不可能である。
だから、せめて子供が生まれてある程度落ち着くまでは、オーナーとして何が何でも店に齧り付いていなければならなかった。


「でも、体調悪なったり万が一の事態になったりしたら、その時は悪いけど、私に代わって店の事手伝うたってくれる?出来る範囲で構へんから。」

脅かすつもりは断じて無く、ただ万一の時の対策を立てておきたかっただけなのだが、がそう頼んだ瞬間、真島の顔が緊張に強張った。


「分かっとる。そんな事何も心配せんかてええ。それよか、無理せんとやっぱり早いこと店手放したらどうや?金の事なら俺が何とかする言うてるやろ。」
「それは子供の、やろ。私の生活費まであんたに出して貰おうなんて思ってへんわ。ましてや実家への仕送りなんか。」

可愛げなく聞こえてしまったのだろうか、真島は少し腹を立てたような顔で黙り込んでしまった。
そんなつもりは無かったし、こんな事で喧嘩したくない。
は立ち止まり、笑って真島の腕を軽く擦った。


「気ィ悪くせんといて。只あんたに迷惑かけたないだけやねん。
結婚して嫁としての役割果たす訳でもないのに、お金の事だけ頼る訳にはいかんやろ。それをしたいんなら、とっくにあんたと結婚してるわ。」

冗談めかして笑ってみせたが、真島は釣られてくれず、身体ごとの方に向き直り、をまっすぐに見つめた。


「考え直してはくれへんのか・・・・・?」

ハッとする程の真剣なその眼差しを、も同じように見つめ返した。


「そっちは?考え直してくれた?」

同じ質問を返すと、真島の口元がわなわなと小刻みに震えた。
かと思うと、真島は突然、を強く抱きしめた。


「なぁ、分かってくれや・・・・・!頼むから・・・・・!」

押し殺された低い呟き声は微かに震えていて、自分がどれだけこの人を苦しめてしまっているのかを、否応なく思い知らされた。


「分かってるわ・・・・、これでも分かってるつもりや・・・・。そやから私は・・・・!」

も真島の背中に腕を回し、強く抱きしめ返した。
真島の匂いに愛しさと寂しさとが掻き立てられて胸が詰まり、思わず込み上げた涙が真島のコートに滲み込んでいった。


「・・・・でもな、私の気持ちも分かって欲しい・・・・・。私はあんたと子供と、自分らの未来の為に生きていきたいねん・・・・・。子供と自分が巻き込まれへんかったら良いとか、お金の苦労せぇへんねやったら良いとか、そんなんとちゃう・・・・・。
極道なんかどのみち長生き出来ひんてあんた言うたけど、それもちゃう・・・・・。そら人間誰かていずれは死ぬし、極道が安泰にやっていける稼業やないのも分かってるけど、自分から死ぬ気で、最初から何もかも失う為に生きていくのは、話が全然ちゃうわ・・・・。」

真島の胸の中は、離れ難い程に温かく、居心地が良かった。
こうして抱きしめられていると、ここから離れようとしている事がやはり間違いなのだろうかと、自分の選択に不安を覚えてしまう。
けれども、二人の見据えているものが違う以上、いずれは離れていってしまう。
たとえどれだけ近くにいても、心が、離れてしまう。
私と同じものを見て、同じ事を考えてと、無理強いすればする程に。


「あんたにとって、私と子供と過ごしていく時間は、冴島さんに償うまでの間の事かも知らんけど、私にとってはそれがこの先の自分の人生の全てや・・・・。いずれその時が来たから言うて、はいさよならって切り離されたないわ・・・・・。」

はそっと腕を解き、真島が取り落としていた花束を拾い上げた。


「だから今・・・・、自分から『はいさよなら』っちゅう訳か・・・・?」

真島のその言葉に、哀しそうな声に、はハッと胸を突かれた。
色々と考え、悩み抜いた末に断腸の思いで出したつもりの結論だが、結局は只のおためごかしだと言われたような気がして。
お前は俺の事も子供の事も考えてなどいない、ただ自分が置いて行かれる悲しさや寂しさを味わいたくないだけだろうと、真島に思われているような気がして。
しかし、それを否定する事は出来なかった。
真島と一緒にいる時間が幸せだからこそ、いずれそれを失う時の悲しみや苦しみは如何ばかりかと恐れているのは確かなのだから。


「・・・・あかん、俺はやっぱりそんなん承知出来へん・・・・」

何も言えずにいるに、真島は強い眼差しを向けた。


「お前の言う事、否定はせぇへん。何もかもお前の言う通りか知らん。
せやけど、ほなどうせ死に別れるから一緒にならんっていうのが正解なんか?今こんなに好き合うてて、子供も出来たっちゅうのに、それが正しい事なんか?
それが正しい言うんなら、世の中に夫婦なんて一組もおらんのちゃうんか?」
「っ・・・・!それは・・」
「慌てて一人で勝手に結論出すなや、お前だけの問題とちゃうやろ・・・・!」

真島の鋭い声が、の身体を竦ませた。
本気で怒っている真島の剣幕に怯みもしていたが、そのせいばかりではない。
お前だけの問題じゃない、その言葉に、はまたも胸を突かれていた。
ただ呆然と真島を見つめていると、真島は我に返ったのか、激しい感情の篭っていたその視線を気まずそうに逸らして、が抱いている花束の辺りに向けた。


「・・・もう少し時間が要るんや、俺にも、お前にも。
お前もいっぺんに色々考えなあかん事が多すぎて、頭ワヤクチャになっとんねん。
一応引退もしたんやし、もう仕事はボチボチにして、腹の子の為にもゆっくりせぇ。そしたら頭ん中もちょっとは落ち着くやろ。」

真島はまるで言い聞かせるようにそう言うと、おもむろにの肩を抱いた。
無言でまた歩き出した真島に釣られて歩きながら、は今しがたの彼の言葉を思い返していた。
この人の為に、生まれてくる子供の為にと思って出した答えは、やはり間違っているのだろうか?自分勝手な独りよがりに過ぎないのだろうか?
しかし、ならばどうするのが正解だというのだろうか?
自分の望みに自分の人生全てを懸けているのは、二人共同じなのに。




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後書き

今回も込み入っております。
この先はだんだん、だんだん、暗雲が立ち込めて参りますが、ドロドロの韓ドラでも観るような感覚で、その暗雲をお楽しみ頂ければ幸いです。
まあそうは言うても、韓ドラみたいに相手の顔にコップの水バシャーッ!ってシーンは多分ないかと思いますが(笑)。