夢の貌 ― ゆめのかたち ― 11




クリスマス・イブから以降の怒涛の数日間が過ぎた後、『クラブ パニエ』は今年も無事、営業を終えた。
その翌日は日中から店内の大掃除をし、その後近くのレストランで忘年会を行ってから正月休みに入るのが恒例で、今年も例に漏れずそのようになった。
開店記念の祝賀パーティーからこちら、連日飲み詰めだった女の子達の健康や、全員それぞれにある年末年始の予定の事を考慮して、忘年会は食事とお年玉の配布で早々にお開きという流れになっており、2次会3次会と遅くまで飲み歩いたり、カラオケやディスコに雪崩れ込んだりというのは、それを希望する者達がめいめい個人的に行う事で、真島とは忘年会が終わればそこで皆と別れるのが常だった。
今年もやはり例年通りで、解散すると、真島とはそのまままっすぐ帰宅した。
これで店は暫く休みになるが、ならば明日からは惰眠を貪れるかというとそうではなく、真島はまたすぐにでも東京へ帰らなければならなかった。
大晦日から正月三が日にかけて、嶋野組・堂島組・東城会本部が入れ替わり立ち替わり主催する忘年会や新年会に出突っ張りになる予定なのだ。
下っ端の連中のように、事務所や組長宅など各所の大掃除や初詣のテキ屋の店番に駆り出されて、夜となく昼となく馬車馬のように働かされないだけ楽と言えば楽だが、4日間酒浸りもそれなりに辛いものがある。
酒量のコントロールはお手のものとはいえ、最後の方には流石に調子も悪くなってくるし、ろくにどこにも出掛けられない。
唯一救いなのは、その間、が東京にいてくれる事だった。去年も一昨年もそうだったので、真島としては今年も当然そうなるものと考えていた。


「そういや明日何時やった?」
「昼の3時。湖の広場で待ち合わせやねん。」

明日の夜の新幹線で、真島はを連れて東京へ帰る予定にしていた。
その前にの家族と食事をするのもまた恒例行事となっていて、彼らに初めて引き合わされたのも、その第1回目にあたる一昨年の年末だった。


「ふーん。ほなそっからゆっくり飯食うて、7時の新幹線で東京帰る、っちゅう感じやな。」

一応の確認を取っただけで、の返事には特に意識を向けてはいなかった。
それよりも、早く風呂に入ってのんびりしたいという考えの方が圧倒的に勝っていた。


「・・・・・その前に、話があんねん。」

が意外な返事をしたのは、その時だった。


「あん?話?」

突拍子もなくて何だかよく分からないが、がやけに真剣な表情をしているので、真島は脱いだジャケットを適当にして、とりあえずの方にちゃんと向き直った。


「何やねん?」
「・・・・・これ、見て。」

は唐突に写真のようなものを1枚、真島に差し出した。
薄くてペラペラしたそれは、普通の写真ではなかった。
白黒で、扇形のような背景の真ん中に、何だかよく分からない丸っぽい形の黒いものがある。穴のようにも見える。
とにかく、今までに見た事もない、不可解な画像だった。


「何やねんこれ?」

これが何なのかも皆目分からないし、こんなものを突然見せてくるの意図も分からない。何もかもこれ以上考えようがなくて、真島は首を捻った。


「これな、エコー写真ていうねん。レントゲンみたいなもんで、身体の中を超音波で写した写真やねんて。」
「あん?」

レントゲン写真も数える程度しか見た事がないが、それでも記憶の中にあるそれらは、こんな画像ではなかった。
肺でもなければ腕や脚の骨でもない、全く見た事のない形をしているし、それ以前に一体誰の身体の中だというのだろうか?


「レントゲンてこんなんやったか?っちゅーか誰のやねん?」

レントゲン写真など、そもそも家にある物ではない。それが赤の他人のものなら尚更。百歩譲ってもしもあるとすれば、それは自分のものか、身内など近しい人のものとしか考えられなかった。
まさか、本人か家族の中の誰かが、病気にでも罹ったのだろうか?
だから、このところの様子が何となくおかしかったのだろうか?
思わずそんな良からぬ想像をして身構えていると、は落ち着いた声で、私の、と答えた。


「これな、私のお腹の中を写したもんやねん。ほんで、この黒い丸の中にいてる小っちゃいの、分かる?」
「うん?」

の指先が示すものを改めて見てみると、確かに、黒い丸の中に小さな白い塊のようなものがあった。


「・・・ああ、おう、分かる。分かるけど何やねんこれ?」

真島が尋ねると、は一瞬躊躇うような間を置いてから、再び口を開いた。


「・・・それが・・・・・赤ちゃん・・・・・」

言われた事を理解するには、驚きがあまりにも大きすぎて、時間が掛かった。


「・・・・・・・・・へ・・・・・・・・・?」

ようやく口から出てきたのは、馬鹿みたいにマヌケな声だった。
しかしは、それを笑いも怒りもしなかった。


「先月、あんたが東京帰った後すぐ病院行って判ってん。こん時2ヶ月目の終わりでな、もうすぐ3ヶ月目に入るとこやってん。
ほんで、堕ろすんなら早よせなあかんて言われてん。4ヶ月目に入ったら、薬で陣痛起こして死産っていう形で赤ちゃんを出す処置になるから、身体への負担が比べものにならんぐらい大きくなるし、費用も跳ね上がるからって。
そやから早よあんたに相談したかったんやけど、あんたジャマイカ行かなあかんようになってしもたから・・・・」
「・・・・ほんで・・・・、ほんでお前、どないしてん・・・・?」

事が大きすぎて、まだ完全には理解しきれていなかった。
だが、満足に回らない呆然とした頭でも、漠然とは感じていた。
この何だかよく分からない小さなものが、今はもうこの世にいないのではないかという恐れは。


「・・・・・これも見て。」

息を詰めている真島に、はもう1枚、別のエコー写真を差し出した。
さっきのと同じような写真だったが、黒い丸がもっと大きくなっていて、中の白い塊も、そこが狭そうに見える位に、そして明らかに人の形に見える位にまで、大きく育っていた。


「こないだ、あんたが来た日の午前中、また病院やってん。そん時に撮って貰ったやつ。だいぶ大きなったやろ。こん時でもう4ヶ月目に入ってるねん。」
「・・・・・って、事は・・・・・、おんねんな・・・・・・?」

真島は恐る恐る、のお腹に向かって指を指した。
するとはそこに手をやり、はにかんで小さく頷いた。


「んなっ・・・・・、何やねーーーん!!」

真島は思わず大きな声を張り上げた。


「ビビらせんなやぁー!あービックリしたぁ!むっちゃビックリしたわぁ!
何やねんお前、早よ言えやー!俺来たん何日前やねん!?来た時すぐ言えやぁ!ちゅーかあの電話ん時に言えば良かったやろがー!」
「ごめん。でも、これから外国行かなあかんってややこしい時にそんな事言い難かったし、何より、怖かってん。もしあんたに迷惑がられたらどうしようって。」
「迷惑て・・・!アホかお前そんな事・・」
「あんたは自分の組持つ為に、今必死で頑張ってるやろ?
そんな時に妊娠したなんて言うても、あんたにとって迷惑になるんちゃうかと思ったら怖くなって、電話ではよう言われへんかってん・・・・」

視線を落とすの表情に、真島はハッとした。
誰よりも一番驚き、心配し、不安になったのは、本人なのだ。
仕事でやむを得なかったとはいえ、すぐに駆けつけてもやれなかった男が、まるで責めるかのように捲し立てるのは間違っていた。


「・・・いや、こっちこそすまん。別に責めてるんやないで。あんまり吃驚したから、ついキツい言い方になってしもただけや。」
「ううん・・・・・」

真島が謝って弁解しても、はまだ寂しそうな、曇った顔をしていた。
それですぐに笑ってくれるものとばかり思っていたのに、まだ何を思い煩う事があるのだろう?そんなにも不安になるものなのだろうか?男の身では分からない事だった。
とにかく、その顔を一刻も早く笑顔にしたくて、真島はの肩を両手で優しく包んだ。


「まぁもうそんな細かい事はええとして、それより、そういう事なら早よせなあかんな。」
「え・・・・?」
「え?って何やねん。結婚やんけ。早よせなあかんやろ?」

真島が笑いながらそう言うと、は呆然と真島を見つめた。


「・・・・・結婚・・・・・してくれんの・・・・・?」
「してくれんのって何やねんな、またそんな変に水臭い言い方しよってからに。当たり前やろ?子供出来てんから・・」

苦笑いしながらそう言いかけて、真島はまたもハッとした。
当たり前?
将来の事など一度も話した事がなかったのに、何が『当たり前』なのだろうか。
それに、子供が出来たのだから早く結婚しないとなんて、よく考えてみれば随分な言い草だ。
が冴えない表情をしたままなのも、きっと自分の言い方がまずかったからなのだと、真島は内心で己を叱責した。


「いや、ちゃうで。誤解すんなや。確かにこういう形にはなってしもたけど、何も責任や義務で結婚する言うてるんやないで。今更こんな事言うのも言い訳がましいけど、ホンマはずっと前から考えとったんや。」

胸の内にずっと温め続けてきた想いだった。
それを今、ようやく言葉にしてに伝える事が出来る。
きっかけもタイミングも考えていたのとは違ってしまったが、それでも、その想いにも伝えられる事への喜びにも、何ら変わりは無かった。


「せやけど、お前も知っての通り、なかなか親父に組持つ事を承知させる事が出来へんかった。今もやけどな。
とにかく金稼いで、誰の目から見ても分かる実績を作って、何とか認めさせようとはしてるけど、正直どうなるかは分からん。最悪、組持たせたる代わりに何年かムショ勤めしてこい言われる可能性かてある。
お前も自分の店の従業員と家族抱えて大変やのに、そんな状況で結婚して東京来てくれなんて、俺もよう言えへんかった。
せやから自分の組を持てたら、いや、せめて持てる目処だけでも立ったら、すぐお前にプロポーズしようと思ってたんや。」
「・・・・・ホンマ・・・・・?」
「ホンマや。」

この日が来るのを、どれだけ待っただろうか。
潤んで揺れているの綺麗な瞳に、真島は微笑みかけた。


「結婚しよう、。もうこれ以上、お前と離れていとうない。生まれてくる子供の為にも、一日も早よ結婚しよう。」

の瞳から涙の粒が零れ落ちて、白い頬を静かに伝い落ちていった。
思いがけず突然舞い降りた大きな幸せは、大きすぎてすぐには受け止めきれなかったが、静かに零れたの涙を見た途端、急に湧き出るような喜びを真島にもたらした。


「ほんで?子供はいつ生まれんねん?」
「・・・7月・・・・・、七夕の頃が予定日や・・・・・」
「そうか・・・・・。ほなあと半年ちょっとしかあらへんがな、こら大忙しになるなぁ、ひひひっ!」

ウズウズして、居ても立ってもいられないような、何とも落ち着かない、むず痒い気持ちだった。こんな気持ちになったのは、生まれて初めてだった。


「あのほら、あれ!式と届はどっちが先なんやろな!?お前知ってるか!?」
「それは確かどっちでもええねん。同じ日でも前後しても、大分ずれててもいけた筈・・・・・」
「ほ〜ん、そうなんか!ほなまぁそれはそれとして、新婚旅行!・・・は、あかんか。旅先で万が一何かあったらえらいこっちゃやしな。ほなその分、ごっついダイヤの指輪でも買うか!なぁ!?」

初めてで当然だ。
心から愛している女と夫婦になって、自分の血を分けた子供が生まれてくるのなんて、これが初めての経験なのだから。


「ああほんでいっちゃん大事なんがアレや、家やな!子供が生まれんのに、今の部屋じゃあ狭すぎるわな!もっと広い部屋引っ越さな・・・、いや、いっそ買うか!?広々した綺麗な新築のマンション!どや!?」
「マンション・・・・・?」
「いや、ちょう待て!それやったら更にいっその事、土地買うて庭付きの豪邸でも建てたろか!そしたら子供がのびのび遊べるやろ!ブランコとかジャングルジムとか置いたったりしてな!そや、それがええわ!なぁ!」

夢は膨らむ一方で、語れば語る程、次から次へと希望が湧いてきた。
はたと気付くとが置いてきぼりになっていて、困惑したようなその顔に己の舞い上がりっぷりを気付かされた真島は、急に気恥ずかしくなってせかせかと笑った。


「何やねーん!何か言えやぁ!お前も何かあるやろ、ああしたいとかこうしたいとか!」
「・・・・じゃあ、いっこだけお願い・・・・、聞いてくれる・・・・?」
「何やねん1個て!お前変な事に限って遠慮する癖あるよなぁ。前々から思っとったけど、ホンマ意味分からんわソレ。ほんで?何やねん?」
「・・・・親分さんの言う事、聞いてくれへん・・・・?」
「・・・・へ・・・・・?」

完全に浮ついていた真島の頭にその言葉が届くには、多少の時間を要した。


「親分さんって・・・・、嶋野の親父の事か?」
「うん・・・・・」
「親父の言う事って、何やねん・・・・?」
「例の水商売チェーンの会社の事。親分さんの言う通り、そこの副社長になって欲しい。」
「・・・・お前の『お願い』っていうのは、それなんか・・・・?」
「うん。」

その話は、もうとっくにケリをつけた。
がそれを忘れている筈はないのだが、だとすれば、何の意図があって急にこんな事を言い出したのだろうか。


「・・・・・その話は断ったて前に言うた筈や。」
「分かってる。それを承知の上で頼んでんねん。」
「アホ言うな今更そんな事・・」
「親分さんが店に来はってん、この間。」
「な、何やて!?いつ!?」
「あんたがジャマイカ行って1週間ぐらい経った頃。突然一人で来はって、私にあんたを説得しろって。」

それを聞いて納得がいくと同時に、怒りとも失望ともつかない感情が、真島を震わせた。
犬は何処までいっても犬だというのだろうか?
飼い主に命じられるまま、右を向き左を向き尻尾を振って手を舐める、そうやって生きていくしかないというのだろうか?
たとえそれが己の心に反する事であろうとも、殺さねばならないのは目の前の奴ではなく、己のこの心の方だというのか?


「言うた筈や・・・・。その話が俺にとってどういうもんなんかも、親父がどないな腹積もりしてるんかも、俺はお前に何もかも言うた筈や。
ほんでお前も、そんな話受ける必要無いって言うたやんけ。忘れたんか・・・・?」
「覚えてる。全部覚えてるわ勿論・・・・。その話受けたら、あんたは知りもせぇへん近江の人と兄弟盃交わさなあかん事も、近江の太鼓持ちとしてその会社にずっと縛り付けられるって事も、自分の組を持つ事は多分もう叶えへんようになるって事も・・・・」
「ほんなら・・・・、何でそんな事言うんや・・・・」

冗談じゃない。
心を殺して生きていく事など出来ない。
激しい憤りが、真島の身体の中を瞬時にして駆け巡った。


「そんな話受けんでも、お前と子供に絶対苦労はさせへん!ええ家住んで、ええもん食うて、ええ服着て、人より恵まれたええ暮らしさせると約束するがな!」
「家なんかアパートでいい!ご飯は食うに困らんかったらいい!服も安物でいい!式も指輪も何も要らん!私は贅沢がしたくてこんな事言うてるんとちゃう!」
「ほんなら何なんや!?」
「私はあんたに、組持つ事を・・・・、冴島さんへの償いを・・・・、諦めて欲しいんや・・・・!」

しかし、のたった一つの願いというのは、正にそれをしろという事だった。


「・・・・何やて・・・・?」
「あんたが組持とうとしてんのは、冴島さんの為やろ?冴島さんに償う為なんやろ?昔言うてたやんか、二人で大事な大仕事しようとしてた時に、土壇場で裏切ってしまったんやって。」
「・・・・ああ、そうや・・・・」
「その『大仕事』ってやつの事、親分さんから詳しく聞いたわ。東城会と敵対してた上野誠和会ってとこの組長を襲撃する計画・・・・」

久しぶりに聞いたその名前が、真島に6年前のあの事を思い出させた。


「親分さん、全部教えてくれはったわ。その事件が起きるに至った経緯も、あんたが冴島さんを『裏切った』時の事も、何でそうなってしまったんかも。
シマ拡大の為のその計画は、冴島さんのおった笹井組が直系に昇格するチャンスになる筈やったけど、ホンマは東城会を裏切っとった笹井組の親分さんと上野誠和会側の裏切り者とが手を組んだ、策略やった可能性が高かったんやてな。
だからあんただけが引き止められた。そう聞いたけど、この話、間違ってへん・・・・?」
「・・・・・ああ・・・・・・」

そんな筈はない、何かの間違いだ。
6年前、冴島との待ち合わせ場所に向かう直前に呼び出されて聞かされた時にはそう思ったが、それが間違っていたのかどうかなんて、今となっては考えても無駄な事だった。
たとえ間違いだったところで今更どうしようもない、もう手遅れなのだから。


「・・・・じゃあやっぱりあんた何にも悪くなかったやんか・・・・。そら何も知らんで一人で事件起こして捕まる事になってもうた冴島さんは気の毒やけど、でもしゃあないやんか、その当の冴島さんの親分が裏切り者やったんやから・・・・」

は声を震わせると、縋り付くように真島の両腕を掴んで揺さぶった。


「何にも知らんかったんはあんたかて一緒や!それでもあんたは冴島さんとの約束果たそうとして、その左目失くして、死んでもおかしないような目に遭うたやんか!
あんた何も悪い事ない!あんたも被害者や!悪いのはあんたと冴島さんを嵌めた連中や!冴島さんの親分と、相手方の裏切り者や!そやろ!?」

の言う通りだった。
あの襲撃が計画通りにいかなかったのは、陰謀を企てていた奴等のせいだった。
しかし真島には、それが笹井組組長・笹井英樹であるとは未だに信じられなかった。


「・・・・冴島の親は・・・・、笹井の叔父貴は・・・・、そんな人やなかった筈や・・・・」

笹井は、義理と人情に篤い、昔気質の極道だった。
極道である以上、決して聖人君子ではないが、それでも、何処にも行き場の無い社会のはみ出し者を何人も助けて、面倒を見てきた人だった。
子供の頃に両親を亡くし、寄る辺の無かった冴島兄妹もそうして彼に救われた身で、腎不全で余命幾ばくもなかった靖子が無事に移植手術を受けられて身体を治す事が出来たのも、喧嘩して巻き上げる以外に金を工面する手立ての無かった冴島に、『笹井組』という居場所と、靖子共々何とか食べていけるだけの稼ぎ口が出来たのも、全ては笹井のお陰だった。
だからこそ冴島は、懲役も死刑もその場で命を落とす事すら覚悟の上で、あの襲撃計画の鉄砲玉に自ら志願したのだ。


「他人の心の中なんか分かりようがないわ。ただ一つ確かなんは、あんたのせいちゃうって事だけや・・・・!」

だが、そんな事がに分かる筈もないし、真の黒幕の正体も分からない。
疑わしい奴がいる事にはいるが、そいつは今や曲がりなりにも東城会直系組織の組長で、迂闊に喧嘩を売っていける相手ではなくなっているし、疑い始めれば誰も彼もが疑わしく、信用出来なかった。堂島宗兵も、嶋野も。


「そやのに、何であんた一人が罪悪感感じてやんとあかんの!?何であんたが一人で償わなあかんの!?何であんた一人だけが自分を犠牲にして何もかも差し出さなあかんの!?
手柄首になる為に必死にのし上がって、死んで償おうとしてるあんたを、私とこの子はこの先ずっと黙って見てやなあかんの!?」

泣きながらそう訴えかけてくるに、真島は何も言う事が出来なかった。
己の贖罪ととは関係無い、これまでずっとそう考えてきた。いや正確には、まともに考えた事がなかった。
がその事に関して何か言った事も無かったし、真島自身もただ漠然と、その時はを危険に巻き込まず、路頭に迷わせなければ良いだろうという程度にしか考えていなかったのだ。
こんな風に、から過酷な選択を突き付けられる事になろうとは、今の今まで夢にも思わなかった。


「もうやめて・・・・・。もう忘れてぇや・・・・・。冴島さんの事はあんたのせいちゃう・・・・・。
冴島さんは死刑囚や・・・・。気の毒やけど、運命はもう決まってる・・・・。
そやからあんたももう全部忘れて、償いなんかやめて、これからは私と子供の為に生きてぇや・・・・・!なぁ・・・・・!?」

『穴倉』から引き摺り出された時の事が、真島の頭に蘇った。
あの時の嶋野も、同じ事を言っていた。
事も無げに笑いながら、もう何もかも忘れて、生まれ変わったつもりで堅気として出直せ、と。


「・・・・お前に・・・・」

涙で頬を濡らしているの顔を見つめながら、真島はきつく歯を食い縛った。
あの時の嶋野の言葉は、掛け値なしの真心から出たものだったというのだろうか?
だから言う事を聞いて、冴島への償いを、あの男との兄弟の絆を繋ぎ止める事を、諦めろというのだろうか?
そうすれば、代わりにずっとずっと求めていた、温かい自分の家族が手に入ると?


「・・・・お前に何が分かんねん・・・・・!」

真島は断腸の思いでそう呟き、の腕を引き剥がした。


「あいつは!冴島はなぁ!そんな弱い奴やない!
俺に仕返しもせぇへん内に、大人しゅう死ぬようなタマとちゃうんや!
運命なんかまだ決まっとらん!あいつは死なへん!死刑台なんかでは死ねへん!そんな死に方俺がさせへん絶対に!あいつは俺がいつか必ずシャバに連れ戻す!その為に今こないして必死になっとんねやないか!」

諦める事など、出来る訳がなかった。
兄弟盃を交わす時に、一度この世界に足を踏み入れた以上、義理は貫き通すと誓い合ったのだ。
それをもし裏切る事があったら、その時はたとえ兄弟であっても殺す、と。
義理堅いあの男は、いずれ必ずその誓いを守るだろう。いや、そうなるようにしなければならないのだ。
誓いの全てを破って、このまま諦めて見捨ててしまったら、冴島にとって真島吾朗という男は、兄弟どころか土壇場で逃げた汚い裏切り者になってしまう。
己のしでかした事への落とし前をつけずに全て忘れてしまったら、ただ自分一人シャバでのうのうと人生を謳歌しているだけの、外道になり下がってしまう。
それだけはどうしても嫌だった。
あの男に失望され、兄弟の契りも一緒に過ごした時間も、何もかもを全て否定されて忌まわしいものとされ、あの男の中から抹殺されてしまう事だけはどうしても嫌だった。
恨まれ、憎まれ、殺されるよりも、あの頃の自分達を消されてしまう事の方が、余程辛く耐え難い事だった。


「・・・・・・やっぱりな・・・・・・」
「あ・・・・・!?」
「多分あんた、そう言うやろなと思っててん。」

心が引き裂かれんばかりになっている真島に、は寂しげな顔で微笑みかけた。
自分でティッシュを取って涙を拭うは、何だかいやに落ち着いているように見えた。普通ならば更に感情的になって、腕を振り払った薄情な男を責める筈なのに。


「私、結婚はせぇへん。一人でこの子産んで育てるわ。」

一瞬感じた不安は、やはり的中していた。


「ちょ・・・、ちょう待てや・・・・!何でいきなりそんな結論出すねん・・・・!?」
「親分さんの話聞いて、私決めてん。もしあんたがどうしても冴島さんへの償いを諦められへんかったら、そん時は私が身ィ引こうって。」
「身ィ引くて・・・・、だ、だから何でそんな結論になるんや!?」

ずっと考えていたと言われても、真島にとってはやはり突然だった。いや、何もかもがそうだった。
突然舞い降りた幸せが、その途端にまた突然何処かへ行ってしまう。それを何もかも納得して受け入れろと言われても、それもまた出来る訳がなかった。


「極道なんぞ、どのみち長生きは出来ひん!そん時にこの首を冴島にやるってだけの話や!
何もかも差し出す言うたかて、お前と子供の事は別や!
たとえこの先俺がどうなろうが、お前らまで巻き添え食わすような事は絶対にせぇへん!金の苦労も絶対させへん!それじゃあかんのか!?」

昂る感情に任せて、真島は思わずまたの両肩を掴んだ。


「・・・・私な、別に結婚なんかせぇへんでも良かってん。」

縋り付くような真島の手を、今度はがそっと振り解いた。


「結婚も子供も要らん。売れ残りのクリスマスケーキだろうが行かず後家だろうが、あんたの側におれるんやったら、それで良いと思ってた。あんたが何を考えてどういう風に生きていこうが、ただ好き合って一緒におれるだけで十分満足やった。
そやけどな、この子が出来たって分かったら、私やっぱり嬉しくなってん。」

は優しい顔で微笑んで、おもむろに自分の腹を撫でた。


「今が最高に幸せやってずっと思ってたから、最初はそれがガラッと変わってしまうのが怖かってん。あんたに迷惑がられるんちゃうか、今のこの関係が壊れてしまうんちゃうかって・・・・。
でもやっぱり、どうしてもこの子諦められへんかった。
男の子やろか女の子やろか、どんな顔してんねやろ、私似やろかあんた似やろか、そんな事ばっかり考えてたらだんだん欲が出てきて・・・・・、気ィ付いたら、つい夢見てしもてた・・・・・。」
「夢・・・・・?」
「あんたと、この子と、三人で暮らす夢や。毎日しょうもない事で笑ろて騒いで、アホみたいにワチャワチャしながら暮らすねん。
ほんで、この子がだんだん大っきなっていって、あわよくばもう一人か二人生まれたりして、私らはだんだん歳取っていって、おっちゃんとおばちゃんになって、そのうちお爺ちゃんとお婆ちゃんになって・・・・・」

の微笑みを見ていると、胸が詰まって、息が苦しくなった。


「・・・・でも、私のその夢は、きっとあんたの邪魔になるんやと思う。」
「・・・・邪魔て何やねん・・・・・」

どうして邪魔になどなろうか。
それは正しく、真島の描いていた夢そのものなのに。
いつかとそんな家族を作りたいと、ずっとずっと望んでいたのに。


「私の実のお父ちゃんの事、昔ちょっとだけ話した事あったん覚えてる?」
「・・・・夢追いかけとったとか・・・・、言うとったな、確か・・・・・」

随分前の、出逢ったばかりの頃に、互いに身の上話を少しだけ聞かせ合った事があった。その時に、の実の父親は自分勝手に夢を追いかけていた人だったと聞いた記憶があった。


「私のお父ちゃんな、小説書いとってん。文芸誌に幾つか作品が掲載されたりして、一時期は小説家として成功しそうになってたんやって。
でも、私が物心つく頃にはとっくにスランプに陥っとったみたいで、仕事としてはもう全然成り立ってへんかったみたい。それでもお父ちゃんは、自分の納得いく作品が書きたいんや言うて、ろくに働いてへんかった。
それでいっつもお母ちゃんと喧嘩ばっかりや。怒鳴り合い、掴み合い、殴り合い、近所の人に警察呼ばれた事かて何遍もあったわ。
そらお父ちゃんが悪かったんやで。何もかも全部お母ちゃんに押し付けて、家族に不自由させて、自分ばっかり夢夢言うて好き勝手して。そんなんやったらお母ちゃんかてだんだん気ィ変わっていって当然や。苦労全部一人で背負い込まされたら、そら誰かて愛も情も尽き果てるわ。
でもな、今になって考えたら、どっちもどっちやったんやろうなと思うねん。」
「どっちもどっち・・・・・?」
「お父ちゃんは論外に自分勝手や。私かて大嫌いやったし、ずっと恨んでた。
でもお母ちゃんの話聞いてたら、お父ちゃんは元から小説の事しか考えてへん人やった。
そやから、別に肩を持つ気なんか無いけど、お父ちゃんからしたら、お母ちゃんも勝手やったんやろうなと思ってん。
だって、初めの内はお父ちゃんの夢支えたい言うて献身的に尽くしてたのが、ものの何年もせぇへん内に、しょうもない小説なんか早よやめてまえって、言う事コロッと変わってるねんもん。お父ちゃんにとっては掌返されたようなもんやろ。」

寂しそうなの微笑みを前にして、かけられる言葉など見つからなかった。


「私もな、同じようになりそうな気がして、怖いねん・・・・。
あんたが冴島さんへの償いを諦められへんように、私も多分諦められへん。
このままあんたと結婚しても、私はもう今までみたいに、あんたのやる事素直に受け入れられへんと思う。
現にこないだ、親分さんの話に凄い心が揺れたわ。
前に聞かされた時は、あんたの気持ちを曲げてまでそんな話受けんでいいって本心から思てたのに、こないだはもの凄い魅力的に聞こえた。あんたがあの話を受けてくれたら、私とこの子にとってはどんだけええやろかって思ったわ。
ううん、今でもや。今でもホンマはそれが一番ええと思ってる。あんたが冴島さんの事を諦めて、親分さんの言う事聞いてこっちに来てくれたら、皆万々歳で幸せになれるのにって思ってる。それがあんたにとってはどんだけ辛い事か、分かってる癖にな。」

そう思ったを、どうして責められようか。
と生まれてくる子供を幸せにするには、それが辿るべき最良の道だと己自身でも分かっているのに。


「こんな調子で、私はこの先どんどん、あんたの気持ちを汲まれへんようになっていくんやろうと思う。
ほんでその内あんたのやる事なす事全部気に入らんようになって、あんたもそんな私に嫌気差すようになって、うちのお父ちゃんとお母ちゃんみたいに、お互い掌返して、憎しみ合うて傷付け合うばっかりになって・・・・。
あんな風になりたないねん。あんたの事嫌いになりたないし、あんたに嫌われたない。お互いに我の張り合いばっかりする親の姿を、この子には見せたない。」
・・・・」
「だから私・・・・・、結婚はせぇへん。」

かけるべき言葉は、たった一つ。
それが言えない以上、真島にを引き留める事は出来なかった。

















翌日、家族との食事会を、真島はキャンセルしなかった。
通すべき筋は少しでも早く通さなければならないと言って、がまた日を改めてでも構わないと言ったのを断り、予定通りに出向いたのだった。


「吾朗さん、ごちそうさまでしたー!」
「お年玉もありがと〜!」
「おう!二人共、あんま遅ならん内に帰れやー!」
「はーい!」
「ほなまた〜!」

食事が終わると、の次弟・康二と妹・秋恵は、それぞれ友達との約束があると言って、早々に席を立った。
まだ何も知らずにウキウキと帰って行く二人を、真島は明るく笑って見送っていたが、個室のドアが閉まった途端にその笑顔はかき消え、痛々しい位の静けさが部屋の中に満ちた。
長弟の陽一は仕事で元々来ておらず、今この場にいるのはと真島、そしての母・光子の三人だった。
光子は不安そうな視線をにチラリと投げかけてから、沈痛な面持ちでいる真島にぎこちなく笑いかけた。


「赤ちゃんの事、から聞いてるわ。私の方が先に聞いてしもて、堪忍やで。」
「いえ。俺の方こそ肝心な時におれへんで、えらいすみませんでした。」

些かも和らがない真島の表情を見て、光子はまた不安げな眼差しをに向けた。


「・・・ほんで?どないするんか決めたんか?」

光子に妊娠を打ち明けたのは、真島がまだジャマイカにいる頃だった。
驚き、お腹の子の父親が極道であるという事に多少の懸念は抱きながらも、それでも一応は祝福してくれた光子に、はその時、まだ迷っていると答えていた。お腹の子を産むか否かではなく、真島との結婚に対して。


「・・・・・やっぱり、結婚はせぇへん事にした。」
「あんた・・・・!」

が結論を告げると、光子は困惑し、咎めるような目でを睨んだ。
結婚を迷う理由として、は光子に、お互い今の暮らしや生き方を変えられないからだと答えてあったのだ。
東京で自分の組を持ち、極道として出世していく事を望んでいる真島が、それをすっぱり諦めて大阪に来てくれない限り、恐らく結婚はしない、と。
もう決めたからと言い切ると、光子は居た堪れないような顔になって重苦しい溜息を吐いた。


「堪忍なぁ吾朗さん。お腹の赤ちゃんの事考えたら、ここはあんたが折れやなあかんて私も大分言うたんやけど・・・・。はしっかりしすぎてて、ちょっと意固地なとこがあるから・・・・」

食事会の前に、はこの事を真島に話し、調子を合わせてくれと頼んでいた。
極道の償い云々など、光子には理解出来ない話であるし、ましてやその相手が死刑囚だなんて、無用な混乱を招く事になるのが目に見えているからだ。
それに、真島には言っていないが、今まで良好だった自分の家族と真島との関係を出来るだけ守りたい為でもあった。
たとえ結婚はしなくても、真島はの子供の父親として、家の中にその存在をずっと残していく事になるのだから。


「・・・・いえ、俺が手前勝手に我を通したせいです。ホンマにすみません。」

真島が深々と頭を下げると、光子はやっぱり黙っていられないとばかりに、縋るようにして真島の手を取った。


「なぁ、ホンマにそない思てくれてんねやったら、やっぱり何とかならへんやろか!?
そらが悪いねんで!これから母親になんのに、生き方や何や、訳の分からん事言うてる場合とちゃうねん!普通は女の方が男に合わせてついて行って当たり前や!小難しい事グズグズ言うてんと、ホンマはがさっさと東京行かなあかんねん、それはうちもよう分かってんねん!
そやけどな、出産で痛い思いすんのも、子育てで難儀すんのも、女の方なんや!
身内も知り合いも誰一人おらん遠い所で、一人で子供産んで育てんのがどんだけ心細くて大変な事か、それもうちは同じ女としてよう分かんねん!」
「お母ちゃん!」

の制止を振り切って、光子はなおも続けた。


「それにな、この子やっぱりうちらの事も気に掛けてくれてやんねん!
そらいつまでもうちらが甘えて世話かけてるせいやねんけど、それでもこの子、うちらの事を先々まで心配してくれてやんねん!康二も秋恵も、慌てて就職させやんでも、将来的に安定してしっかり稼げるように、上の学校へやった方がええ言うてなぁ!
なぁ、どないかならんやろか吾朗さん!?これをええ機会やと思て、極道辞めてこっち来てくれへんか!?
こんなん言うたら何やけど、あんた身内の人もいてはらへんねんし、あんたも先の事考えたら、若い内に足洗ろといた方がええと思うねん!
組にしがみ付いとかな食うていかれへんような人ならともかく、あんたこっちでも色々仕事持ってるんやろ!?の店もある事やし、何も東京で自分の組なんか持たんでも、こっちでも十分やっていけるやん!
赤ちゃんかて皆で可愛がって面倒みれるし、その方が絶対ええて!あんたがこっち来てくれるのが、誰にとってもいっちゃんええ形やねん!」
「やめてやお母ちゃん!もう私らで決めた事なんやから!」
「そやかてあんた、女手一つで子供育てていくのは並大抵の事とちゃうんやで!どんだけ苦労して辛い思いするか!あんたもよう分かってるやろ!?何でわざわざお母ちゃんの二の舞になるような事するんや!?」
「二の舞になんかならへんわ!むしろそないなりたないから私は・・」

母娘喧嘩などしている場合ではないし、そんなところを真島に見せたくもないのだが、ギリギリのところで保っていた平常心が、もう崩れてしまいそうだった。


「ホンマに申し訳ありません!」

激昂しかけたその時、真島が母娘の諍いを止めるように突然大きな声を張り上げ、光子に向かって土下座をした。


「ちょ、ちょっと・・・・!そんなんやめてや・・・・!」

は慌てて真島の頭を上げさせた。
それでもすぐには上がらなかったが、暫くして顔を上げた真島は、思わず息を呑んでしまう程真剣な表情をしていた。


「・・・せやけど、たとえ一緒にはならんでも、これっきりやて縁切る気ィはありまへん。責任は必ず果たします。」

咄嗟に言葉が出なかった。
何と返せば良いのか戸惑っていると、光子の方が先に口を開いた。


「・・・・うちの最初の亭主も、その次の亭主も、それはもう無責任な男やった。うちはどんだけ苦しめられて泣かされてきた事か。あのアホ亭主らも、最初は散々調子ええ事ばっかり言うてたんやで。
それに比べて、が昔世話になってた人は、大した人やった。」
「お母ちゃん・・・・!」

突然佐川の事を持ち出されて、は思わず焦った。
佐川との事は真島も知っているが、だからこそ、今更真島の前で蒸し返して欲しくなどなかった。


「やめて!要らん事言わんとって!そんなん関係無いやろ!」
「関係無い事ないわ!うちら一家の今があるのは、全部あの人のお陰やろ!あの人があんたに対してどんだけの『責任』を取ってくれたか、ちゃんと言うとかんと!」

光子は止めようとするを無視して、一方的に続けた。


があない立派な店持てたんは、その人のお陰や。その人が全部お金出してくれたからなんや。
そればっかりとちゃう。アホ亭主らのせいで膨れ上がってもうたうちの借金も肩代わりしてくれたし、グレて高校辞めて家出したっきりどこ行ったか分からんようになってた陽一を、捜して連れ戻してくれたんもその人や。
康二が今こないして大学受験出来んのも、秋恵が高校出たら美容学校行きたい言うのを叶えてやれんのも、その人が弟妹の学費にせぇ言うてにお金を渡してくれとったからや。」

家出して名古屋で街金の使いっ走りにされていた陽一を助け出し、独り立ち出来るようにと車の免許を取らせて働き口を世話してくれたのも、康二と秋恵の学費を用立ててくれたのも、確かに全て佐川だった。
の個人的な感情を抜きにして客観的に見てみれば、佐川から受けた恩恵は余りにも大きく、家にとって彼は正しく救世主のようなもので、それは真島も重々承知している事だった。
だが、今現在の何もかもが、佐川の力だけで回っているのではない。
家族一人一人がそれぞれに出来る事を頑張っているし、真島も何かと協力してくれているのだ。
パトロンと愛人ではなく、純粋な恋愛感情だけで対等に付き合っている間柄だから、佐川と関係していた時のような一方的な金銭の授受は無いが、店の経営にも力を貸して貰っているし、佐川に当時世話して貰った仕事を結局ものの数年で辞めてしまった陽一に、今の温泉旅館の板前の仕事を紹介してくれたのも真島だった。
それなのにこんな言い方をするなんて、幾らとお腹の子を思っての事だとはいえ、余りにも真島に対して失礼だった。


「何もその人みたいに、私らにまで何かしてくれなんて言わへん。
そやけどとお腹の子に対しては、それ位の事して貰わな困るんやで。はこれから命懸けであんたの子産んで育てていくんやから。
子育ては綺麗事では出来へん。の人生はこれで大きく変わってまうし、子供もタダでは育たんのやで。
吾朗さんあんた、結婚せんでもホンマに大丈夫なんか?途中で知らん顔して逃げへんて、ホンマに約束してくれるんか?1年2年の話とちゃうんやで?この先20年の話やで?」

だが、光子への抗議の声は、の喉の辺りで留まってしまった。


「分かっとります。届出もちゃんとしますし、子供が一人前になるまで、金もちゃんと払ろていきます。」

20年、そんなにも長い約束を、どうして何の躊躇いも無くするのだろう。
それが出来るのならどうして、お前と子供を取ると言ってくれないのだろう。
喜ぶ事も怒る事も出来ずに、はただ、真島の真剣な横顔を盗み見ている事しか出来なかった。

















帰って行く光子を見送ると、次は真島の番だった。
19時の新幹線に乗る真島を見送る為に、は真島と共に新大阪へ向かった。
去年も一昨年も一緒について行って東京で新年を迎えたのだが、身重な上に今の状況ではとても一緒に行く事は出来なかったし、真島の方も来いとは言わなかった。
一人分の座席をキャンセルしてホームに上がると、19時発東京行きの新幹線が停まっていたが、発車までにはまだ多少の時間があったので、二人は真島が乗る予定の車両のすぐ側で足を止めた。


「・・・・・・何であんな約束したん?」
「あんな約束?」
「うちのお母ちゃんに。」

真島は小さく溜息を吐くと、俺の親父、と呟いた。


「嶋野の親父やのうて、ホンマの父親。何処の誰か分からんて、前に言うたやろ。」
「うん・・・・・」
「名前も顔も居所も、生きてるか死んでるかすら分からん、他人以下の奴や。今でこそもう何とも思えへんが、それでもガキの頃は、それなりに恨みも憎みもしたんや。
俺、施設育ちやったやろ。高校へ行く金出してくれる奴も、借金してまで勉強する気も無かった俺は、中学卒業したら即追い出された。
院長のオッサンが遠くのスクラップ工場の作業員の就職口を勝手に見つけてきよってな、問答無用でそこへ送り込まれたんや。
ド田舎のきったない工場で、毎日毎日朝早よから晩遅うまで力仕事ばっかりさせられて、寝床は乞食のバラックとなんぼも変わらんような掘っ立て小屋や。
やっすい給料から、その掘っ立て小屋の家賃だのクッソ不味い賄い飯の食費だの、ゴッソリ差っ引かれた上に、仲間内のしょうもない博打に無理矢理付き合わされちゃあド汚い手で巻き上げられて、社員っちゅうよりまるで奴隷やったわ。そんな生活にすぐ嫌気が差して、そこの奴ら全員半殺しにして、財布の金抜いて逃げたった。
ほんで東京に帰りはしたんやが、住む所も行く当ても無うてな、しゃあないから神室町でウロウロしながら喧嘩して日銭を稼いでた。そんな時に嶋野の親父に会うて、拾われたんや。」

真島が私生児だという事は出逢って間もない頃に聞かされて知っていたが、ここまで詳しい話を聞いたのは初めてだった。


「組で何とかやってけるようになるまでは、よう生みの親の事を恨んだ。俺みたいなモン、何しにこさえたんじゃ、ってな。
自分一人とっとと死んで逃げよったお袋も許せんかったけど、やっぱり父親の方が許せんかった。
こっちの事なんぞお構い無しに、己だけ今頃のうのうと人生楽しんどるんやろかと思ったら、殺したろか通り越してこっちが死にたなるぐらい許せんかった。
俺もお前と一緒や。親と同じになりたない。俺を作るだけ作った奴と同じ、無責任な卑怯者にはなりたない。それだけや。」

自分も子供時代にあまり幸せな思い出は無いが、この人はそれが本当に皆無なのかもしれない。
寂しげに遠くを見る真島の眼差しを見ながらそんな事を考えていると、真島はふと、その視線をへと向けた。


「そやけどお前、ホンマに一人で育てる気なんか?俺の事思てくれてんのは分かってる。せやけど子供の事考えたら・・」

そう言いかけて、真島はハッとしたように言葉を切った。


「・・・もういっぺん言うが、冴島の事はお前には関係無い。あいつの事とお前の事は別や。お前と子供は絶対に巻き込まへんと約束する。
冴島かて、俺の事は殺しても、お前や子供にまで手出しはせぇへん。あいつはそんな男やない。絶対や。
だからもっぺん考え直せや。お袋さんかてそない言うとったやろ?な・・・・?」

光子は帰り際、慌てて結論を出さずにもう一度よく考え直せと、と真島に対して言っていた。
それが母親としての心からの助言である事は勿論分かっているし、客観的に考えても正論だと思ってもいる。


「・・・そやな、お互いにな。」

がそう答えると、真島の顔が一瞬、強張ったように見えた。
その直後、真島の乗る新幹線の発車アナウンスが流れて、真島は諦めたようにまた小さく溜息を吐き、車両に乗り込んだ。


「身体、気ィ付けぇよ。」
「うん。あんたもあんま深酒せぇへんようにな。」
「おう。ほなまた連絡するから。」
「うん、私も。」

ドアが閉まり、と真島の間を隔てた。
が微笑んで小さく手を振ると、真島もドアの向こうでぎこちなく笑って軽く手を挙げた。
ゆっくりと走り出した新幹線は、滑り出るようにしてホームを出て行き、夜の街の向こうへと走り去って行った。
あっという間に見えなくなった新幹線をまだ見送りながら、はさっきの真島の表情を思い出していた。
真島はやはり、冴島への償いを諦める事は出来ないのだろう。
母親にも諭されたのだから、考えを改めるべきはの方だと思っているのだろう。
だが、真島が自責している『裏切り』の裏にあった事情を知り、嶋野の甘言に魅了されてしまった今のに、それは出来なかった。
一度夢に描いてしまった幸せな家庭の風景を破り捨てて、生まれてくる子供共々、真島の行く末を黙って見届ける事など。
これまでのように彼の生き様を決して否定せず、極道として生きる事はおろか、死ぬ事にさえ口を出さずにいる事など。




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後書き

真島の兄さんの生立ちとか、妄想し出すと止まりません。
妄想しすぎて、脳内で伝記みたいになりそうな勢いです(笑)。
それはさておき、この辺からはいよいよ込み入った話になってきます。
まずはプロポーズの巻でした。
これでもか!というような甘いやつを書きたかったんです。
ヒロイン、断ってますけど(笑)。