夢の貌 ― ゆめのかたち ― 9




「何じゃそりゃあ〜!?」

事の一部始終を聞いた真島は、買い足してきたコーラを飲みつつ、呆れたように素っ頓狂な声を上げた。


「ほんでクソ親切に3時間も面倒みとったんかいな!?アッホやの〜!何をしとんのやホンマに!」
「面目ない。姐さんのお陰で本当に助かりました。」

『キリュウ』は改めてに向き直り、頭を下げた。


「俺、堂島組の桐生一馬といいます。組は違いますが、真島の兄さんにはいつも何かと良くして頂いています。」
と申します。という名前で、大阪でクラブをやっています。どうぞ宜しく。」

キリュウ改め桐生は、が差し出した名刺を礼儀正しく受け取り、上着の胸ポケットにしまうと、からかうような笑みを真島に向けた。


「しかし驚きましたよ。まさかあの『嶋野の狂犬』に恋人がいたなんて。
いつ見掛けても、物騒な連中を引き連れて街を練り歩いているか、誰かを血祭に上げているか、喧嘩しろって迫ってくるかのどれかなんで、普通にちゃんと恋愛してるなんて意外です。」
「うっさいわい、ほっとけ。桐生ちゃん、お前要らん事人にペラペラ言い触らすなや?」
「そんな事しませんよ。」

要らん事とは随分な言い草じゃないかと思ったが、それを言う真島の苦々しい顔は明らかに照れの裏返しだったので、不問に付してやる事にした。
それよりも気になるのが、普段の素行である。
がチラリと目を向けると、真島はフイと目を逸らした。桐生の話が事実である事を認めたも同然のリアクションだ。


「喧嘩、かなり売ってます?」
「ええ、会えばほぼ必ず。」
「それはどうも、いつもご迷惑をお掛けしましてすみません。」
「いえ、慣れてますから。」

真島にとって、喧嘩は仕事であり、趣味娯楽であり、生き甲斐であり、同じ相手と繰り返す場合には、その相手に対する並々ならぬ友好の証でもある。
つまり、この桐生一馬という人も、真島のダーツの的の◎に突き刺さっている希少な漢だという事で間違いなさそうだった。
桐生と頭を下げ合っていると、真島は開き直ったようにふんぞり返って煙草に火を点けた。


「フン、やかましわ。お前かてホンマは満更でもないやろが。えぇ?『堂島の龍』よぉ。」
「堂島の龍?・・・って何?」
「コイツの通り名や。その名の通り、ごっつい極道やで、こいつは。」

真島は煙草の煙を面倒臭そうに吐き出すと、隣にいる桐生を横目でチラリと一瞥した。


「そのくせ、呆れる位のお人好しや。一銭の得にもならんような事、しょっちゅう引き受けとる。ほんでそのガキの母親っちゅうのはどこの女やねん?」
「俺がケツ持ってるヘルスの女です。」
「どこにおんのか見当ついとんのか?」
「多分パチンコ屋です。どうもどっぷりハマってるらしくて。パチンコだったら承知しねぇぞって言ったんですけど、急用だって言うから・・・・。けど、こうも遅ぇって事は、やっぱ打ってやがるな。」
「何じゃそりゃ。そんな口先で適当に言うとる事信じて、そんな赤ん坊に毛ェ生えた程度の小っこいガキを、押し付けられるままホイホイ預かったんかいな。甘いのう桐生ちゃんは。アマアマや。」

小さくても、自分の事を言われていると何となく理解出来ているのだろう。女の子は怯えながら、顔色を窺うように真島を見た。


「けど、ガキに罪はありませんから。母親に置いて行かれたのを、俺まで置いて行っちまったら、このガキがどうなるか分かったもんじゃありませんからね。」
「そやからって、それと桐生ちゃんと何の関係があんねん?他人がちょこっと子守りしたった位では、根本は何も解決せんやろが。」

女の子の視線を受け止める真島の目は、優しかった。
傍から見れば、赤ん坊同然の幼子にも情け容赦のない非道なヤクザ以外の何者でもないのだろうが、真島の言っている事はこの上ない正論だった。
この子の母親の居所が桐生の言う通りだったとしたら、問題の本質はそこにある。
それをどうにかしない限り、この子は明日も明後日もその先もずっと、このような日々を繰り返していく事になる。
真島が他人事ながらもそれを真剣に案じているのが、にはちゃんと見えていた。


「兄さんの仰る通りです。自分でも呆れていますよ。けど、どうもこれが俺の性分みたいで。」

桐生にも、多分見えているのではないだろうか?
薄く笑って立ち上がる桐生を見上げながら、はそう思った。


「そろそろ行きます。このガキ、母親に突っ返してやらねぇと。流石に今日という今日はきつく言ってやりますよ。」
「おう、そうせぇそうせぇ。何やったらしばけ。まだ一人でションベンも出来んような小っこいガキを、店のケツモチの極道なんぞに平気で預けていきよるやなんて、何ちゅう無責任なオカンや。」
「はは、考えておきます。じゃあ俺はこれで。姐さん、今日は本当にどうもお世話になりました。」
「いいえ、こちらこそご馳走様でした。しーちゃんもバイバ〜イ。」
「バイバ〜イ。」

桐生は『行くぞ』と女の子を促して、店を出て行った。
振り返り、またバイバイと手を振る女の子に、笑顔で手を振り返してから、は溜息を吐いた。


「・・・よう言うわ。どの口が偉そうに言うんかなぁ?あんたもホンマは似たり寄ったりのお人好しのくせに。」
「むぐっ・・・!」

あと少しだけ残っているポテトを何本かまとめて口に突っ込んでやると、真島は決まりの悪そうな苦い顔でムシャムシャとそれを食べた。


「・・・フン、お前こそどの口が言うねん。見ず知らずのヤクザに自分から声掛けて、他人のガキの世話したるなんて、お前こそとんだお人好しやないか。」
「んっ・・・・!」

お返しとばかりに口に突っ込み返された最後2〜3本のポテトをモグモグと食べつつ、はさっきの男、桐生一馬を思い返した。
まだ若そうな割に随分と落ち着いた、並々ならぬ貫録のある男だった。ただ粋がっているだけの雑魚ではなく、本物の、筋金入りの極道だという事も分かる。
だがそれにしては、あの人は随分と優しそうだった。


「・・・『堂島の龍』なぁ・・・・」
「何やねん?」
「何か凄そうな渾名やん、あんたの『嶋野の狂犬』に負けず劣らず。あんたよりもうちょっと若そうやのにな。極道の割には穏やかそうに見えたけど、見かけによらず結構イケイケな人なん?」

真島は如何にもそういう攻撃的な渾名が付きそうだと見た目からして納得出来る極道だが、あの桐生という男は、さっきの一件での印象のせいか、あまり荒々しく暴れ回りそうな人には思えなかった。
しかし、真島に負けず劣らずのアグレッシブな渾名が付いている以上、それ相応の武勇伝の一つや二つはあるという事なのだろう。
それをきっと、真島は面白おかしく聞かせてくれるとばかり思っていたのだが、予想に反してそうはならなかった。


「・・・・・例の、3年前の神室町の一坪の土地の件・・・・・」
「え?」
「あの抗争の時、俺の他にももう一人、暴れた奴がおったんや。それまで天下取っとった堂島組に三人おった若頭補佐のうち、二人をぶっ潰した。
それがあの桐生や。まあ尤も、あいつは佐川はんとは関わりなかったけどな。」

真島は憂いを帯びたようなその眼差しを、トレーの上に落としながらそう話した。


「あん時、あいつはあいつで、あの土地の持ち主を守ろうとしとったんや。」
「土地の持ち主って・・・・・、目の見えへん、女の子・・・・・?」

真島がかつて密かに想いを寄せ、それを伝えぬままに別れた女性。
以前一度聞かされたきりずっと聞いていなかったが、もまだその人の事を忘れてはいなかった。


「ああ。あいつは当時、その娘の生き別れの兄貴と繋がりがあってな。神室町の不動産会社の社長やったその兄貴の下で働いとったんや。」
「生き別れのお兄さん?」
「その兄妹は、中国の残留孤児の二世やったんやと。兄貴が日本へ密航して、ガキの頃に中国で生き別れたそうや。
ほんで妹の方も何年か後に日本へ来て、それを兄貴も知って・・・・。お互いがお互いをずっと捜しとったらしいわ。
あいつはその二人を何とか引き合わせたろうとしとったんや。結局、兄貴の方は殺されてしもて、それは叶わんかったけどな。」
「・・・・そうやったんや・・・・・」

さっき初めて会って、ほんの一時喋っただけの人だが、何となく、あの桐生一馬という男の人となりが見えたような気がした。外見や系統は違うが、きっと基本的な性分、人としての本質が真島と良く似ているのだろう。
そう、程度の差こそあれども、根本が情に篤くてお人好しなのは、何だかんだでこの人も一緒なのだ。そして、そんな人だからこそ、こうして一緒にいる。
口に出すのは少し恥ずかしいそんな想いを、は残り少ないオレンジジュースと共に飲み干した。


「・・・あんた、あの人の事本気で好きやろ?」
「せやからそういう変な言い方をすなっちゅーねん。人に誤解されるやんけ。」

真島は周囲を少し気にする素振りを見せつつも、本心から楽しそうな、嬉しそうな笑みを、その口元に浮かべた。


「桐生ちゃんはなぁ、ごっついんや。ホンマにごっつい。ありゃホンマもんの『龍』や。」
「あははっ!ごっついごっついって、何やのそれ?何がどうごっついの?」
「喧嘩の強さもごっついし、度を越したあのお人好しもまたごっつい。極道のくせして馬鹿正直というか裏表が無さすぎるというか。あんな奴、他におらんで。」
「ふふふっ、そうなんやぁ。」
「今はまだ堂島組の若衆の一人やが、上からの信頼も厚いし、下のモンにもよう慕われとる。ありゃあ今後間違いなくのし上がっていくで。」

桐生の事を語る真島の表情は、実にいきいきとしていた。
勝矢の事も随分と気に掛けて肩入れしているが、それとはまた次元の違う感じがした。勝矢は堅気の人間だが、桐生は同じ極道だからだろうか?
極道は仲良しこよしでやっていく世界ではなく、裏切ったり裏切られたりという事も堅気の世界以上によくある事だが、真島は多分この先もずっと、あの桐生という人の事を語る時はこうして笑っている、にはそんな気がしてならなかった。
















11月もそろそろ半分近くが経とうかという頃の土曜日、真島はまたいつもの如く大阪を訪れていた。
今回は滞在期間中の大半をシノギで飛び回らなければならないが、今日と来週末はと共に店に立つつもりだった。
午後の新幹線で大阪に着くと、真島はそのまままっすぐ『クラブ パニエ』に向かった。
も今頃はもう店にいて、開店準備を始めている頃だろう。テキパキと働くの姿を思い浮かべると、自然と口元が綻んだ。
新大阪からの店があるキタの街は近く、真島を乗せたタクシーはすぐに『クラブ パニエ』の前に到着した。
シャッターも表のドアの鍵も開いていたので、真島はそのまま表のドアから店内に入った。


「おう、ー。おるかぁー?」

呼び掛けながら事務室の方へ歩いて行き、一応という程度のノックをしてからドアを開けると、デスクで書き物をしていたが顔を上げて、ああ、と笑った。


「お疲れ様。早かったなぁ。」
「おう、お疲れさん。早よ来て準備手伝うたろと思ってな。」
「ふふっ、ありがとう。」

の手元を見ると、メモ用紙にジャガイモだの人参だのと書いてある。それを何となく読んでいると、メモを書き終わったがペンを置いた。


「丁度今からスーパー行こうと思ってたとこやねん。」
「ほな一緒に行こか。荷物持ったるわ。」
「うん、ありがと。」

うん?と、真島は首を軽く傾げた。
今日は何だかの笑顔に元気が足りない気がしたのだ。


「お前何や今日元気無いのう?しんどいんか?」

やはり気のせいではなかったようだった。
真島がそう訊くと、はみるみる内に冴えない表情になり、疲れたような溜息を吐いた。


「うん・・・・、何かなぁ、ちょっと調子出ぇへんねん、今日は。」
「あん?どれ・・・・・」

真島はの額に手を当てた。


「・・・・・うん?お前ちょっと熱ないか?」
「え、そう・・・・?」
「何となーくデコ熱い気ィすんで?」

身体が丈夫でバイタリティのあるは、大体いつも元気である。
だがとて人の子、偶には体調を崩す事だってある。滅多にない珍事ではあるが。


「風邪ちゃうか?ここんとこ急に朝晩寒なったからなぁ。」
「あ〜、そうかも・・・・。」
「鬼のかく乱やな、イヒヒ。」
「鬼はあんたの背中のサブローやろ。」

ツッコミにも、いつものキレが無い。
やはり気のせいではなく、本当に調子が悪そうだった。


「今日は休んで、家帰って寝といたらどうや?店は俺らで回しとくよってに。」
「そうはいかんわ。今日は忙しいもん。予約も何件か入ってるし。」
「おい無理すんなよ。店ん中で倒れたりしたら、そっちの方がよっぽどえらい事になるぞ。」
「分かってるー。どうしてもしんどかったら、そん時はあんたに全部押し付けて帰る事にするわ。」

笑って立ち上がり、買い物行こ、と真島を促すは、さっきよりは幾らか元気が出てきたように見えた。
きっと疲れが溜まっているのだろう。それが季節の変わり目で体調のバランスを崩して、噴き出してしまったというところか。
明日は定休日だからどこかへ出掛けようと誘うつもりにしていたのだが、この分では家でゆっくり寝かせてやる方が良さそうだった。












無事に週末の営業を終え、ようやく訪れた週に一度の定休日。
昨日調子が悪そうだったの事を考えて、今日はゆっくり過ごそうと、二人は心ゆくまで朝寝坊を満喫した。
これはこれで悪くなかった。考えてみれば、真島自身もこのところ何かと忙しく、時間を気にせず好きなだけ寝るというのは随分久しぶりだった。
とはいえ、二度寝・三度寝と繰り返せば、流石に目も覚めてくるし腹も減る。もうそろそろ色々と限界で起きてみると、昼の3時を回っていた。
真島はベッドを抜け出し、トイレを済ませてから、乾いていた喉を冷たい水で潤した。久しぶりに長時間寝たからか、身体はもう早速にも動けそうな位スッキリしていた。
だが、はまだベッドの中でぐっすりと眠っていた。
珍しい事もあるものだ。気持ち良さそうなの寝顔をチラリと覗きながら、真島は朝飯の事を考えた。
いつも大体はの方が先に起きるし、そうでなくても、真島が起きてゴソゴソしだすとその気配で起きるのだが、今日はまだ起きそうな気配が無かった。
叩き起こして飯を作れと催促する気は勿論無い。しかしながら、自分が何かを作るのも億劫だ。少し考えてから、真島は簡単に身支度をして、近所にあるお気に入りのパン屋まで買い物に出た。
そこでパンを何個かとジュースを買い込んで戻ってみたが、はまだ眠っていた。


「おい。朝飯、パン買うてきたで。」

流石に少し心配になって、肩を軽く揺すって起こすと、は重たそうな瞼をどうにかこうにかといった様に開けた。


「・・・パン・・・・・?」
「おう。お前の好きなやつあるで。しかも焼きたてや。」
「ホンマ・・・・?」

それを聞いたは、まだ寝ぼけている顔を嬉しそうに微笑ませながら起き上がった。
昨日の不調をまだ多少引き摺っていそうではあるが、食欲はあるから大丈夫だろう。そう思って安心しかけたのだが、買い物袋から取り出したあったかいパンを手にした瞬間、はまたその表情をげんなりと曇らせた。


「何やねん?」
「・・・・ごめん、折角やけどこれいいわ・・・・。」
「ええ?」

別に気を悪くはしないが、只々驚愕の一言に尽きた。
一番好きな種類の、しかも焼きたてのパンを目の前にして、がそれを食べも喜びもしないというのは、出逢ってから今までに一度も無かった大珍事である。真島は昨日のように、またの額に手を当てた。


「・・・・・んん〜?やっぱりちょっと熱いか?」
「そう・・・・?」
「食欲無いんか?」
「ん〜・・・・、食べたい気ィはあるっちゃあるねんけど・・・・」

はっきりしない感じに言葉尻を濁しながら、は冴えない顔で買い物袋の中をチェックし、全く焼きたてではない別のパンを取り出した。


「私これ貰って良い?」
「おう、ええけど・・・・」
「ありがと。いただきまーす。」

本来ならば確実に一番喜ぶ筈の物を敬遠して、すっかり冷えているパンをボソボソと食べているが、不思議でならなかった。
首を傾げている真島を他所に、はそれを完食し、紙パックのオレンジジュースを飲み干して、何だか疲れたような溜息を吐いた。

「は〜、ご馳走さまぁ・・・・。オレンジジュースが死ぬ程美味しい・・・・。」
「死ぬ程て。」

別に高い物でもない、どこにでも売っていていつでも飲んでいるような物なのに、えらく大袈裟な喜び方だ。
だが、それに苦笑したのも束の間、はまたトロンと眠そうな顔になって欠伸をした。


「お腹落ち着いたら眠たなってきたわ・・・・・」
「はぁ?」
「あかん、めっちゃ眠い・・・・。ごめんやけど、もうちょっと寝かしてな・・・・。」
「え?」
「歯ぁだけ磨いてこよ・・・・・」

は、唖然としている真島の前をノソノソと通り過ぎて行き、少ししてからほんのりと歯磨き粉の匂いを漂わせつつ戻って来て、また真島の前を通り過ぎてベッドに潜り込んだ。
初めの内は、そうは言ってもいざとなると目が冴えて眠れる訳がないと思っていたのだが、それは完全に読み誤りで、ものの数分と経たない内に、はまた本当に寝入ってしまった。


「・・・嘘やろオイ。どんだけ寝んねん。冬眠中のクマかいな・・・・・。」

誰がクマやとツッコむ事もせず、気持ち良さそうに寝ているを起こす事は出来なかった。
今日も何となく熱っぽいし、やはり風邪の引き始めなのだろう。きっとここがダウンするかしないかの分かれ目なのだ。そう結論付けた真島は、仕方なく自分もその場に寝転がった。折角の休みではあるが、どうやら今日はに付き合って寝続けるしかなさそうだった。

















今回も10日間程大阪に滞在した真島は、週明けの昼に東京へと帰って行った。
帰って行く真島を見送る時はいつも内心寂しいが、今回は一緒にいられた時間を、それもプライベートな時間を、ほぼダラダラと寝て過ごしてしまった事に対する後悔と罪悪感があったので、別れの寂しさもひとしおだった。
だが、の心に引っ掛かっていたのは、寂しさや後悔ばかりではなかった。
仕事には何とか差し支えないものの、暇さえあればウトウトと眠ってばかりのを、真島は終始『冬眠中のクマみたいやな』と笑っていただけだったが、は途中からとても笑える心境ではなくなっていた。日を追う毎に、そんな自分の体調の変化が本気で気になりだしていたからだ。
ずっと続いている微熱。時々感じる胸焼け。自分でも異常だと思うような眠気。
それに何より、毎月来る筈のものが、今月は未だ来ていない。
ふとそれに思い当たってから、そろそろ今日位には来るだろうと毎日思い続けていたが、結局、今に至るまで来ていないままだった。
それを真島に言わなかったのは、不確実な事で彼を振り回したくなかったからだった。
大阪へ来る時、真島はいつもの店を最優先に考えてスケジュールを組んでいる。それを重々承知していて、感謝しているからこそ、想像や勘だけでものを言って、真島の都合をひっかき回すような事をしたくなかったからだった。

けれども、本当にそれだけだろうか?
は今、漠然とした恐れを感じていた。
もしもこの予感が当たっていれば、二人の関係は今後、大きく変わってしまう。
その事に、は今、確かに不安と恐れを感じていた。
しかし、これはいつまでも目を背けていられるような事ではない。
は意を決して、目の前の建物、産婦人科の病院のドアを潜った。


「こんにちはー。」

受付窓口にいる事務員が、すぐに気付いて声を掛けてきた。


「こんにちは。あの、初めてなんですけど・・・」
「はい。では問診票を書いて下さいねー。あちらで座ってお書き下さい。」

保険証と引き換えに渡された問診票のバインダーを持って、は待合ロビーのソファに向かった。
周囲にはお腹の大きな女性が沢山いて、その状態で更に小さな子を1人2人連れている人も珍しくなかった。考えてみればごく自然で当たり前の事なのだが、今のには緊張を更に煽るような光景だった。
ソファに腰を落ち着けて、問診票の記入を始めようとした途端、は密かに息を呑んだ。
『今日はどうしましたか?』の質問に対する回答群の先頭にあった、『妊娠検査』という言葉。その言葉がまず真っ先に目に飛び込んできて、の心を射抜いた。


「・・・・・・」

は深呼吸をして心を落ち着けると、名前や住所、年齢などを順に書いていき、その項目にチェックを付けた。
すると、続きの質問があった。
最終月経の日付や期間、性交経験の有無や妊娠・出産・中絶の回数、未婚か既婚か、そして。


― 出産か、中絶か・・・・

もしも妊娠していた場合、出産を希望するか、中絶を希望するか。
その質問に、はすぐさま答える事が出来なかった。














その夜、店の営業が終わって一人になってから、は電話を手に取った。
暫し躊躇った後で真島の自宅の番号をプッシュすると、すぐに真島が電話に出た。


『はい。』
「あ・・・吾朗?私。」
『おう、か。お疲れさん。店もう終いか?』
「お疲れさん。うん、さっき皆帰ったとこ。」
『そうか。俺もたった今帰って来たとこやねん。』
「そうなんや。ごめん、もうちょっとしてから掛け直そか?」
『いや、構へん。俺も今丁度お前に電話しよと思っとったんや。ちょっと色々話があってな。』
「そうなん?」

は今さっきまで見ていた写真に、もう一度目を向けた。
白黒で何が映っているのかよく分からないペラペラしたその写真は、説明を聞いていても、何度見返してみても、やっぱりよく分からないままだった。
それを見つめながら、は思い切って口を開いた。


「・・・・・実はな、私もちょっと・・」
『おい聞いて驚くなや、何と勝っちゃんがアメリカへ行く事になったんや!』

タイミングが悪い事に、勇気を振り絞って発したの呟き声は、同時に喋り出した真島の高揚した声にかき消された。
しかしその内容は、驚くなという方が無理な位のビッグニュースだった。


「えぇっ!?ど、どういう事!?」
『映画監督の白沢昭夫って知ってるか?』
「あぁ・・・、あの有名な監督やろ?」
『せや。その監督が勝っちゃんのアクションをえらい高う評価してくれたらしくてな、何とハリウッド映画に出演させて貰える事になったんや!』
「えぇーーっ!?凄いやんかそれ!!」
『そやねん!凄いやろ!』

その話は勝矢にとって恐らく一世一代ともいうべき大チャンスで、真島がこうして興奮するのも無理はなかった。
とて、思わず自分の状況をすっかり忘れてはしゃいでしまう位だったのだから。


『台詞無しのほんの端役で、実質スタントマンや言うて謙遜しとったけど、ハリウッド進出やで!?大した大出世やろ!』
「うん!ホンマホンマ!で、どういう経緯でそうなったん!?」
『何や向こうに白沢監督の友達の映画監督がおるんやと。アジア人、特に日本人でこんだけのアクションが出来る奴はホンマ珍しい、お前やったら向こうでやっていけるんちゃうか言うて、勝っちゃんの事を推薦してくれたらしいわ。さすが天下の白沢監督、人見る目があるやんけ!なぁ!?』
「うん!」
『勝っちゃんも、ガチガチに緊張しとるがやっぱり喜んどってなぁ。色々不安はあるけど、どこまでやれるか自分を試してみたいって張り切っとるわ。』
「そっかぁ・・・!良かったなぁ勝っちゃん・・・!ほんでいつ行くん!?」
『早かったら1月か、遅うても2月中には行く言うてたわ。実はさっきまで勝っちゃんと美麗ちゃんと一緒やったんや。今日、勝っちゃんから会われへんかて連絡貰ろてな。ほんでその話聞かされたもんやから、三人で祝賀会やっとったんや!』
「そうやったんや〜。」
『二人共、お前がおらんのが残念や言うとったで。特に勝っちゃんが気にしとってなぁ。あいつ律儀やからのう、色々世話になったお礼方々、自分の口からちゃんと報告したいて言うとったから、近々お前んとこに電話あると思うわ。』
「ふふっ、分かった。楽しみに待ってる。」
『ほんで?』
「え?」

ほんで?と訊かれて、はようやく自分の置かれている現実に立ち返った。


『お前の方は?さっき何か言いかけとったやろ?』
「あ・・・・・」

勝矢の話は、勿論喜ばしい。
だが今のには、他の誰かの事を深く気に掛けている余裕は無かった。


「うん・・・・・、あの・・・・・」
『何やねん?』
「あのな・・・・・」
『うん、何や?』
「・・・・・近いうち、こっち来られへん?」

言おう言おうと思っていた事が、いざとなるとどうしても切り出せなかった。
考える時間はあまり無く、一日でも早い決断を求められているというのに。


『あん?近いうちっていつ?』
「明日でも、明後日でも、なるべく近いうちに。」
『明日明後日て。つい昨日一昨日までそっちおって帰ったとこやんけ。』

何も気付いていない真島は、電話の向こうでただ可笑しそうに笑っただけだった。


『何や、どないしてん?店に何かあったんか?』

けれどもその笑いはすぐに引っ込み、後に心配そうな声が続いた。


「ううん、店の事とちゃうねん。ただ・・・、ちょっと・・・・」
『ちょっと、何やねん?』
「・・・・・・」
『・・・・、まさかお前・・・・・』

真島は一瞬の間を置いてから、さっきよりも一層明るい声でからかうように笑った。


『そんなに俺が恋しいて恋しいてしゃーないんかぁ?イヒヒヒッ!』

その笑い声に、不覚にも涙が滲みそうになった。
今すぐ告げてしまいたい。告げて、真島の気持ちを確かめたい。
しかし、こんな遠く離れた所で電話越しにそれをして、もしも、大好きなこの笑い声が凍りついてしまったら。
ずっと抱え続けている『罪滅ぼし』という名の望みを叶えようと、がむしゃらに上を目指して突き進んでいる真島に、俺にはそんな気は無いと、困惑されてしまったら。
そう思うと、怖くて、不安で、とても言い出せなかった。


「・・・・・うん・・・・・」

がポツリと呟くと、真島は狼狽えたように言葉を詰まらせた。


『んなっ・・・、何やねーん!調子狂うのう!何素直にうんとか言うとんねん!ここはお前、何でやねーん!てツッコむとこやろが!こら明日は槍でも降るんとちゃうか?ウヒャヒャヒャ!』

案の定、真島は困惑してしまっていた。
だが、避けて通れる話ではない。
一日も早く決断しなければならない以上、一刻も早く真島に会って話さなければいけなかった。


「・・・・会いたいねん・・・・・」

は手元の写真を見つめながら、祈るような思いでそう呟いた。
すると、真島は笑うのをやめて、真剣な声になった。


『・・・・すまん。悪いけど、行かれへん。』
「何で・・・・・?」
『実はその事でも話があんねん。俺、急遽ジャマイカへ行く事になったんや。』
「ジャ、ジャマイカ!?」

またしても突拍子もない話で驚かされ、滲みかけていた涙が一瞬で引っ込んだ。


「・・・って、どこの!?」
『どこのってお前、ジャマイカ言うたら外国のジャマイカに決まってるやろ。どこやアレ、ほらあの、アメリカ?メキシコ?あの辺の、中南米みたいな所。』
「そんなとこ・・・・・!何しに行くん!?」
『何しにって、シノギに決まっとるやんけ。』
「シノギ?」
『アレの輸入をするにあたってな、色々と話をつけに行かなあかんのや。』
「ア、アレ・・・・?アレって何やの・・・・・?」
『ジャマイカでアレ言うたら決まっとるやろ。』

ドスの効いた剣呑な低い声が、否応無しに悪い想像をかき立てた。
中南米の国々と言えば、どうしても危険なイメージが付き纏う。
極道がそこへ行き、『アレ』を輸入するシノギをやるなどと言われては、何をどう考えても平和な発想には至らなかった。
真島は以前から、幾ら金になろうが胸糞の悪くなるようなシノギはやらない主義だと言い張っているが、もしも親に命じられれば、もしも背に腹代えられぬ事態に陥れば、如何にその主義が強固と言えども貫き通せるかどうかは分からない。は密かに覚悟を決めながら、真島の答えを待った。


『コーヒーやがな。ブルーマウンテン、ジャマイカの名産品やんけ。』
「何や、コーヒー・・・・!」

一時はとんでもなく不吉な想像をしていたものの、実際に返ってきたのは、意外と予想外に平和な回答だった。心底安堵して、はホッと胸を撫で下ろした。


『何やって何やねん?何やと思っとったんや?』
「いや、別に・・・・・!」
『ほれ、あの例の新しくこっちでオープンするカフェ。あそこで出すんや。
他のサ店とは違う、本格派の専門店的なカフェを目指そうっちゅうんで、わざわざジャマイカからコーヒー豆を直輸入する事になったんや。ほんでその契約やら何やらでな。』
「そうなんや・・・・・。いつ行くん?」
『12月1日や。』
「12月1日・・・・」

12月1日は、クラブパニエの開店記念日である。
毎年恒例で行っているその祝賀パーティーを、今年は日曜日である為に一日前倒しで企画していて、真島も勿論来てくれる事になっていたのだが、そういう事ならとても来られる筈がなかった。


『そういう訳やから、今から出発までの1週間ちょっとは、その準備でてんてこ舞いになんねん。
店の5周年記念パーティーも、手伝いに行くって約束しとったけど、あれもすまんが行けんようになってしもた。何とか1日でも出発をずらせんかと思ったんやけど、どうしても無理やったんや。』

真島が次に大阪に来られるのは、いつになるだろうか?
きっと1週間や10日では無理だろう。
2週間か、3週間か、下手をすれば1ヶ月以上先になってしまう事だって有り得る。
思わず絶句していると、真島はすまそうに、悪いな、と言った。


『急に決まった事でな、ホンマにすまん。こんな状態やなかったら、明日にでも行ってやりたかったんやけど。』
「・・・・・ううん、ええねん。」

は意識して、普段通りの明るい声を出した。


「ごめん、忙しい時に。ちょっと我儘言うてみたくなっただけやねん。こっちは大丈夫やから、色々気にせんといて。それよか気ィつけて行っといでな。」
『・・・おう、おおきに。』

その甲斐あって、真島の声のトーンも安心したように和らいだ。


「生水飲んだらあかんで?あと食べ物にも気ィつけや?特に生モノ。お腹壊してえらい目に遭うで?」
『おう。』
「それと、人にも気ィつけや?泥棒、スリ、引ったくり。女の人も危ないで。美人局とかいっぱいおりそうやし。
誘いに乗るのは当然論外やけど、ただ話するだけとかでも気ィつけや?後ろから『本職』の男が出て来るかも知らんし。本職なんはお互い様やねんから、タカ括って油断したらあかんで?」
『おう。』
「あと、ヤバい薬とか怖い葉っぱとかあかんキノコとか。そういうの絶対したらあかんで?」
『分かっとるわい。』

色々と注意事項を重ねて言い渡していると、真島は呆れたように笑った。


『ヤイヤイうるさいのう。お前はオカンか。』

真島が笑いながら何気なく発したその言葉に、小さく心臓が跳ねた。


『多分2〜3週間、遅うても絶対年内には帰って来る。やっぱり正月は日本で迎えな、何や締まらんやろ。』

真島の笑う声を聞きながら、は思わず自分の下腹部にそっと手を触れていた。


『帰って来たらすぐにでも会いに行く。そやからちょっとだけ待っとってくれ、な?』
「・・・うん・・・・・」

そんな慌ただしく大変な状況下で、打ち明ける事はやはり出来なかった。
真島に告げる事が出来るのは、いつになるだろうか?
そしてその時、真島はどんな反応をするだろうか?
このお腹の中に、新しい命が芽生えたと知ったら。
不安に揺れている心を、は一人、じっと抱え込むしかなかった。




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後書き

・・・とまぁ、こういう展開になりました。
前作後の二人のラブラブ交際期間を書きたかった事もあって、イチャイチャ&ダラダラした前置き的な部分が長くなりましたが、この辺から流れが変わってくるかと思います。
それはそうと、兄さんのシノギ遍歴が気になります。
一番気になるのは当然!ジャマイカからアレの輸入。
普通はヤバいブツを想像するところ、意外とまともな物というのがお約束かな、と(笑)。