檻の犬と籠の鳥 22




― 、今行くからな・・・・・!


タクシーを降りるや否や、真島は見知らぬ街の中を無我夢中で走り出した。
グレースとかいうクラブの女から教えて貰った住所をタクシーの運転手にそのまま伝えたところ、それならこの辺だと言われたので、岩下の事務所はすぐ近くにある筈だった。
無事でいてくれ、どうか、どうか。
只々そればかりを願いながら、べったりとくっついて歩くカップルの横を走り抜け、けばけばしいラブホテル群の中にそれらしい建物を探していると、程なくして教えて貰った通りの名前のビルを見つけた。


「あった!岩下ビルヂング、これや・・・・・!」

人気の無い薄暗いエントランスが、酷く不吉だった。
数ヶ月前の出来事が蘇ってきて、否応なしに最悪の結末を想像させた。


「・・・・・・・・・!」

もうあんな思いはしたくない。
身体中の血が凍りついてしまうような、あんな恐ろしい思いは。
頭の中にチラつく最悪の想像を無理矢理振り払って、真島はビルの中に乗り込んでいった。
そして、エレベーターのボタンを連打して飛び乗り、事務所のある4Fまで上った。
さほど大きくはないビルだが、ドアは幾つかあった。表札の類が無いので、どれが事務所なのかはパッと見では分からなかった。
ならば片っ端から開けてやろうと思った瞬間、近くのドアの方から人の声が聞こえた。


「そこか!」

真島は声のしたドアへ駆け寄り、力任せに蹴り開けた。


ーーっ!!!」

室内には人相の悪い輩が何人もいて、よってたかってを囲み、羽交い絞めにしていた。


「ご・・吾朗ーーっ!!!」

真島に気付いたは、声を震わせて真島を呼んだ。


!!」

捕われているを目にした瞬間、真島は冷静さを完全に欠いた。


「おどれら、を放さんかい!!」

もうの姿しか目に入らず、真島は最短の距離を一直線に駆け抜けようとした。
だが岩下組の連中が、それを阻もうと真島の行く手に立ち塞がった。


「おんどりゃあ、事務所までカチコミに来るとはええ度胸やないけ!」
「ここでこないだみたいに好き勝手出来ると思たら大間違いやぞ!」
「ブチ殺したるわぁ!!」

この間は店の評判や人目を気にして、パフォーマンス性の高いスタイルで闘ったが、が向こうに捕われている今、何かを考慮したり喧嘩を楽しむ余裕などは一切無かった。


「退けやこのボケがぁーーっ!!」

剥き出しになった狂犬の牙を目の当たりにしたが、どれ程怯えるだろうかという事にも思い至らなかった。
只々一刻も早くを無事に取り戻したくて、その事で頭がいっぱいで、自分の身体がどう動いているかなど、とても気にしていられなかった。
身体が勝手に動くのに任せて、かかって来る連中を殴り、蹴り飛ばし、叩き付けていると、絹を裂くようなの悲鳴が真島の耳に届いた。


「吾朗ーっ!!」

その声で我に返った真島は、前を塞いでいる邪魔な奴を急いで殴り飛ばして、声のした方を向いた。
しかしその時には既に、は部屋の中に引きずり込まれていくところだった。


っ・・・・!」

目の前でバタンと音を立てて閉ざされたドアに、恐怖が益々煽られた。


「おっどりゃあ・・・、邪魔じゃボケェェェェッ!!!」

まだまだ湧いて出て来る岩下組の連中を相手に、真島は暴れ狂った。
椅子や調度品を振り回し、そこら辺の物を全て武器にして、手当たり次第に殺す気で潰していった。


「オラアァァァッ!!!!」
「ぐぶえぇぇっ・・・・!!」

目の前で凶弾に倒れたマコトの姿が、頭から離れなかった。
あの時も、ようやく彼女の居所を掴み、駆けつけたその瞬間だった。
あの時マコトが助かったのは、マコト自身の運と生命力、そして、駆けつけて来た世良が速やかに病院へ運んでくれたというタイミングの良さが重なって起きた奇跡だった。
だが、奇跡はいつでも起きるものではない。
もしも今またあの時と同じ事が起きたら、そう考えただけで気が狂いそうな程怖かった。


「どけコラァァーーーッッ!!!」
「なっ、何やコイツ!?」
「バ、バケモンや・・・・!」

己の手が恨めしかった。
こんなにも力があるのに、大切なものをしっかりと掴んでおく事が出来ない、この不器用な手が。
ぶち壊す事はこんなにも得意なのに、守る事にかけてはまるで無力な、役立たずのこの手が。
これまで一体何度、守り損ね、掴み損ねてきただろうか。
冴島も、靖子も、マコトも。だってそうだ。
3年前のあの時、佐川にを奪われたのも、要は己の手に大切なものを守る力が無かったからだ。
だから、今度こそは何としても守りたかった。
大切なものがこの手をすり抜けていく恐怖を味わうのは、もう沢山だった。


「ぐわぁぁっ!!」
「ひっ、ひぇっ・・・!やめっ、やめてくれ・・・!やめ・・」
「っしゃぁっ!!」
「がっ・・・・・!」
「でぇぇぇぃっ!!!」
「うあぁぁーーっ!!」

思い切り殴り飛ばした敵から奪い取った金属バットで最後の一人の頭をかち割り、顔面にフルスイングすると、随分と静かになった。
聞こえるのはぶちのめした連中の呻き声だけで、が連れ込まれた部屋からは、何の音も声も聞こえてこない。
嫌な予感のする静けさだ。
真島は側で昏倒している組員の一人を引っ張り上げて立たせると、そいつを引きずりながら静かにドアに近付いた。
そして、一呼吸置いてから勢い良くドアを開け、連れて来た男を室内に向かって思い切り突き飛ばした。
その瞬間、サイレンサー銃の微かな銃声が立て続けに数発聞こえて、男の断末魔との悲鳴とが重なった。


「なっ、何っ・・・!?」

真島を撃ったつもりが自分の子分を撃っていた事に気付いた岩下は、狼狽してから手を放した。
その一瞬の隙を突き、真島は一気に駆け寄って岩下との距離を詰めた。


「なっ・・・!?うわっ・・・・!」

まずは銃身を掴み、岩下の顔面に一撃を入れて、銃を奪い取った。
岩下がそれを取り返そうと掴み掛かってきた瞬間に引き金を引くと、岩下が叫び声を上げて腕を引っ込め、がまた悲鳴を上げた。

「う、うぅ・・・・・!」

負傷した腕を庇って苦痛に顔を歪めている岩下に向かって、真島は銃口を向けた。


「ま、待て!待ってくれ、分かった、話そうやないか、な・・・・!?」
、こっち来い。」
「・・・う・・・うん・・・・・・」

は怯えた顔こそしていたが、パニックを起こしたり腰が抜けて立てないという事はなく、すぐに荷物を拾い集めて、小走りで真島の側に逃げて来た。
それでひとまず安心は出来たが、しかし、まだ事が終わった訳ではない。
真島は些かも気を緩めず、ジリジリと岩下に歩み寄って行った。


「ひっ、ひぃっ!ま、待て!待ってくれや!な!?」
「待ったなしで先に仕掛けてきたんはそっちやろ。今更何を言うとんねん。」
「ま、まあワシの話を聞けや!な!?」
「何やねん。」
「お前、何ぞ訳有りなんやろ!?大方、組追い出されて、金も行くとこも無うて、昔の女んとこ転がり込んだんやろ!?ちゃうか!?え!?」

岩下は額に脂汗を浮かべて、喚くようにそう言った。
なるほど確かに、それは当たらずといえども遠からずだった。尤も、3年前の事ではあるが。


「ワシんとこで面倒みたろやないか、近江連合直参の岩下組でな!
今丁度デカい儲け話があるんや!何やったらお前に任したってもええ!
うまい事ものに出来たら、うちの若頭にしたろやないか!ゆくゆくは自分の組持つ事かて夢やないで!
どや!ええ話やろ!?女の店でヘーコラ頭下げてチマチマ小遣い貰う生活なんぞより、よっぽどええやろがい!」
「フン・・・・、自分の組なぁ。」
「そや!お前程の男がフラフラ腐っとんのは勿体無いで!ここらで一発、ドーンとデカい夢に賭けたれや!」

夢。
組を追われ、身一つで右も左も分からぬこの大阪に連れて来られた3年前は、夢どころか生きる意味すらも見失っていた。
あの時、もしもと出逢っていなかったら、どうなっていただろうか。
きっと佐川に飼われる事を頑なに拒み続けて、何処かへ放り出されるか消されるかしていただろう。
いやそれ以前に、あのまま衰弱の一途を辿って、早々に死んでいた可能性だってある。
何にせよ、東城会に戻れる事は無かった筈だ。
極道の世界から足を洗って欲しいと願った女が、極道の世界へ戻る道に立たせてくれたようなものだ。
改めてそう考えてみると、人の縁とか運命とかいうやつはつくづく不思議で、皮肉で、面白くて、真島は思わず笑いを零した。


「生憎、今は餌にも寝床にも不自由はしとらんのや。
それに、俺は飼い主を強さで選ぶタチでな。なんぼ鼻先に旨そうな餌をぶら下げられようが、俺より弱い奴に尻尾振る気は無いわ。」
「何やと・・・・・!?」

真島の返答を聞いて、岩下は顔を歪めて激怒した。


「ほ、ほんだらその『飼い主』っちゅうのは誰なんじゃ!?おどれ一体どこのどいつや!?えぇ!?言うてみぃ!」
「しつっこいのう。そないに聞きたいんかいな。」

真島は大きな溜息を吐いた。


「俺は・・・・・・」

嶋野の言い付けを破る事は出来ない。
どうしたものかと考えながら意味もなく視線を彷徨わせると、床に転がっている般若の面が目に留まった。
壁にでも飾ってあったものが、さっきの銃撃で落ちたのだろう。
鈍い金色の目を光らせている般若の半面を見ていると、ふと妙案が浮かび、真島はおもむろにそれを拾い上げて被った。


「・・・俺は、般若組のハンニャマンや。」

湿っぽい木の匂いのする面の内側でそう名乗ると、不思議な事に、自分の声が自分のものでないように聞こえた。
まるで、別の誰かが自分の口を借りて喋っているかのようだった。


「・・・・はぁ!?」

岩下は一瞬唖然とした後、顔を真っ赤にしてより一層激昂した。


「ふ、ふざけとんかわりゃあ!!」
「ふざけとらんわい、大真面目じゃ。」

真島は改めて、岩下の額の辺りに銃口を向けた。すると途端に、岩下はまた顔を強張らせて黙った。


「前にも言うた通り、俺は個人的な用で来ただけや。他所とドンパチ起こす気なんぞ元々あらへん。
せやから、アンタがこの女と店から完全に手ェ引いてくれるっちゅうんなら、これ以上何もする気は無い。」

部屋が静か過ぎるせいだろうか、岩下が固唾を呑む音が、真島の耳にもはっきりと聞こえた。


「せやけど、手ェ引かんっちゅうんなら、このままアンタを殺る。それが近江との戦争の火種になるんは百も承知でな。」
「・・・お前・・・・、たかが女一人の為に、そこまでする気やっちゅうんか・・・・?」
「そらこっちの台詞や。たかが女一人、店一軒の為に、今この場で死んでも構へんのか?」

暫くの沈黙の後、岩下が恐る恐る両手を上げた。


「・・・・わ、分かった・・・・。手ェ引く。その女からも店からも、完全に・・・・」
「・・・それが得策や。」

真島は手の中で銃を回転させると、机の上にそれを置いた。
に目を向けると、は青ざめた顔を強張らせて立ち尽くしていた。
この状況でパニックを起こしていないだけ大したものだが、それでもやはり、相当に怖い思いをさせてしまったのは確かなようだった。


「帰るで、。」

踵を返したその瞬間、後ろで人の動く気配がした。


「若造がナメくさりよってぇぇ!死にさらせボケがぁぁぁっ!」

岩下が机の上の銃をひったくり、真島に向かって躊躇いなく引き金を引いた。
それは一瞬の事で、避けようとする暇も無かった。


「・・・・・あ・・・・・・・!?」

いやそもそも、避ける必要自体が無かった。
弾の尽きた銃は、何度引き金を引こうが虚しい音を繰り返し発するばかりで、人を殺傷する事など出来やしないのだから。
それを知っていたのは、ひとえに竜虎飯店での経験のお陰だった。
あそこで武具探索に勤しんでいる内に、気が付くと武器に対する知識が随分と培われていて、大抵の武器は見ればその性能が分かるようになっていたのだ。
装弾数と発砲の回数から残りの弾数を割り出すのは、今の真島にとって造作もない事だった。
振り返った真島は、唇を吊り上げて岩下に笑いかけた。


「・・・残念、弾切れでしたぁ!」

真島は腰に忍ばせていたドスを抜きながら、岩下に躍りかかった。


「うっ、うわぁぁぁっ・・・・!!」

そして、勢いに押されてひっくり返った岩下の上に馬乗りになりながら、その顔を目掛けて思い切りドスを突き立てた。


「・・・う・・・・うぅ・・・・・・・」

正確には、岩下の顔の横すれすれの床に。
滝のような脂汗を流して硬直している岩下に向かって、真島は腹の底から咆哮を上げた。


「俺は般若組のハンニャマン、『クラブ パニエ』のケツモチじゃ!この女と店に手ェ出す奴は誰だろうとぶち殺す!よう覚えとけ!」

床に突き立てていたドスを引き抜くと同時に立ち上がると、そこはかとない異臭が鼻についた。
それが岩下のスラックスの股間にじわじわと滲み広がっていっている液体によるものだと分かると、真島は顔を顰めてその場を飛び離れた。
東城会と同じく、近江連合も複雑に膨れ上がりすぎた巨大な組織、それを構成しているのは必ずしも本物の極道ばかりという訳ではないのだろう。
ほんの数ヶ月前に、たった1坪のちっぽけな土地を巡って起きたあの事件に関わり散っていった奴等を思うと、他所の事とはいえ、何だか心が乾いていくように虚しかった。


「・・・行くで。」
「あっ・・・・・」

鞘に納めたドスを元の通りにしまうと、真島は呆然としているの手を掴んで歩き出した。
















幸いな事に、死人は出ていないようだった。
岩下に撃たれていた男も、何とか息はあるようだった。
許せない連中だが、揃って床にぶっ倒れて半死半生で呻いているのを見ていると、流石に若干心配になってきて、はチラリと救急車を呼ぶべきかどうか考えた。
けれども、その答えを出す前に真島がズンズン歩いて行ってしまうので、彼に手首を掴まれているもまた必然的に、とっとと事務所を出てしまう事になった。
エレベーターに乗り込んでも、真島は無言のままだった。
振り返ってもくれず、ただ手だけはしっかりとの手首を掴んで離さない。
そんな真島の態度は、には怒っているように感じられた。
しかし、それも当然だった。幾ら自分なりに色々考えた末の行動だったとはいえ、結果的にはまるで考えが甘く、真島に多大な迷惑をかけてしまったのだから。
もしも彼が来てくれなかったら今頃どうなっていたかと思うと、改めてゾッとする。
だが、礼を言おうにも謝ろうにも、こんな風にむっつりと口を噤まれていたら、どう切り出して良いか分からない。
そうこうしている内にエレベーターが1Fに着き、はまた問答無用で真島に手を引かれて、ビルの外に連れ出された。


「・・・・・吾朗・・・・・」

ビルの外に出ると、真島の背中にの遠慮がちな声が掛かった。
はきっと、また水臭い詫びの言葉を口にしたいのだろう。
だが、どう返事をすれば良いのか分からなかった。
どう言えば、胸の中いっぱいに蟠っているこのゴチャゴチャした気持ちをに伝えられるのか。


「吾朗・・・・・、吾朗・・・・・・」

もつれた糸のようなこの気持ちは、に話し掛けられれば話し掛けられる程、考えれば考える程に、複雑に絡まり一層もつれていく。


「なぁって・・・・・」
「・・・何やねん」

ようやく出た声は、自分でも呆れる位あからさまに不機嫌だった。
しかし、口から出てしまったものはもう引っ込みがつかず、真島は立ち止まり、が何か言うのをじっと待った。


「それ・・・・・、いつまで被ってんの?」

の言う『それ』というのが、被りっぱなしだった般若の面である事に気付いた瞬間、真島はずっこけそうになった。
うっかりすっかり忘れていたが、言われてみれば確かに、まだ被ったままだった。
他人に見られて騒がれる前に指摘して貰って、助かったと言えば助かった。
だが、のこの呑気な一言で、辛うじて保っていた真島の平常心は、木っ端微塵に消し飛んだ。


「・・・・・・・」

真島は般若面を取ると、ようやくの方を振り返った。
予想していた通りの仏頂面が、を睨み据えていた。
やっぱり、怒っている。
まずは謝ろうと口を開きかけたその時、真島が突然、般若のようにカッと目を見開いた。


「このどアホ!!!!!」

凄い剣幕と声のボリュームに、は思わず震え上がった。


「そっ・・・・、そんな怒らんでも・・・・・!」
「何言うとんじゃ!!!お前自分が何したか分かっとるんか!!!」
「な、何したって・・・」
「俺のおらん間にコソコソ目ェ盗むみたいにして出て行きよってからに、こらどういうこっちゃねん!!」

通りすがりのカップルが、下世話な好奇心丸出しの目で見てくる。
ホテル街というロケーションに真島の台詞が相まって、きっと何かとんでもない誤解を招いてしまっているのだろう。
恥ずかしくて堪らず、は狼狽しながら真島に詰め寄った。


「ちょっ・・・!そんな大っきい声出さんといてぇや恥ずかしい!人に変な目で見られるやんか!」
「じゃかぁしわ!!んなモン関係あるかい!!」

しかし、の抗議の声は、真島の怒声にいとも容易くかき消された。


「お前さっき俺に何て言うた!?一人で岩下んとこ殴り込みに行くんなんか無茶や言うたやろが!!ええ!?」
「そ、それはそうやけど・・・・!」
「ほんで何でお前が一人でカチコミかけとんねん!!あぁ!?」
「そっ、そんな物騒な言い方せんといてぇや!そんなんちゃうねんて!
別にコソコソするつもりもなかったし、置き手紙に書いといたやろ、後で詳しく話すって・・・・・!」

真島の剣幕に怯みながらも、は釈明を始めた。


「あんたが出掛けた後に、岩下さんとこに電話したんや・・・・・!
近い内に会う約束を取り付けるだけのつもりが今からどうやって言われて、考えてみたら、あんたがこっちにおる間に決着つけた方が、あんたも安心して東京帰れるんちゃうかと思って、それで・・・・!」
「決着て、どないしてつける気やったんや!?」
「そんなん決まってるやんか、開店資金の残りを全部返して、店の名義を私に変えて貰おうと・・・思って・・・・・」

は尻切れトンボで言葉を濁すと、まるで顔色を窺うように、おずおずと上目遣いに真島を見た。
今となっては、自身も甘かったと思っているのだろう。
しかし真島にしてみれば、甘いどころか甘々だった。
昔ならいざ知らず、今となっては極道というのがどんなものか知らない訳ではあるまいに、店一軒の為にこんな危険を冒すなんて、アマアマの大アマの、大バカだった。
もしも駆けつけるのがあと少し遅ければ、もしも事務所の場所が分からないままだったら、今頃どうなっていたか知れたものではないのに。


「・・・・・ッマにお前は・・・・・」

人の気も知らずに只々決まりの悪そうな顔をしているを見ていると、昂る感情をどうしても抑えられなくなってきて、真島は再び怒声を張り上げた。


「このアホ!!バカ!!おたんこなす!!チンチクリン!!そんなんやからお前はあかんのんじゃこの大ボケがーっ!!」
「なっ・・・」

それまでしょぼくれていたの表情が、この瞬間に一変した。


「そっ、そんなに言わんでもええやろ!?人が悪かったと思って大人しく聞いとったらボロカス言うてからにこのドチンピラ!!」

流石に腹を立てたのか、は目を吊り上げて真島に詰め寄ってきた。


「私かて私なりに、あんたに迷惑かからんようにと思って色々考えたんや!そら結果的には大迷惑かけてしもて悪かったと思ってるけど、でも私は・・・」

は堰を切ったように、凄い勢いで喋り出した。
しかし生憎と、弁解らしきその内容は、真島の頭にはまるで入って来なかった。
今の真島には、ギャーギャーやかましいの姿しか目に入っていなかった。
怪我ひとつない、いつも通りの元気なの姿しか。



「大体そもそもなぁ、今頃になっていきなり訪ねて来るってどういうつもりやねんな!今までずっと電話の1本もくれへんかったくせに!こっちが一体どんな気で・・・」

そこから先が、突然言えなくなった。
どうしてなのか自分でもすぐには分からず、はただ呆然と瞬きを繰り返した。


「・・・・・・・・」

そして、ワンテンポ遅れて、自分が真島に強く抱きしめられている事に気付いた。


「・・・・・・ご・・・吾朗・・・・・・?」
「・・・・・なや・・・・・・」
「え・・・・・?な、何て・・・・・?」
「・・・・・ビビらせんなや・・・・・・・」

彼の声が、息遣いが、まるで泣いているかのように微かに震えている事にも。


「・・・・・泣い・・てんの・・・・・・?」

いつかも、こんな風に抱きしめられた事があった。
あの時感じた、胸が締め付けられるような切なさを、は思い出していた。
この人といられるのなら、女として当たり前の憧れや幸福を捨てても構わないと思った、あの時の自分を。


「・・・吾朗・・・・・・」

この数日間、何度考えただろうか。
もしもあの時引き裂かれていなければ、今頃どんな風になっていたのだろうと。
あの時途切れてしまった夢を、もう一度見ても良いというのだろうか?
あの日に戻って、もう一度やり直せるというのだろうか?
望めない事だとずっと押し殺してきた想いが抑えられなくなってきて、はおずおずと真島の背中に腕を回そうとした。
しかしその時、突然真島がの両肩を掴み、ガバッと引き離した。


「あかん!!もうホンマあかんわお前!!」
「なっ・・・!何いきなり!?あかんわって何が!?」
「やかましい!!ええからもうお前は黙って俺の女になれ!!」

真島は勢いに任せてそう言い放った。


「・・・・・はぁ〜!?!?何やのそれ!?!?」

するとは、潤んだ瞳を呆然と丸く見開き、腹の底から呆れたような声を出した。
尤もだ。こんな口説き文句で喜ぶ女がいる訳ない。
肝心な時に下手を打ってしまった自分に我ながら呆れたが、かと言って今更引っ込みもつかず、真島は暫しそのままと睨み合った。


「・・・・・最っ低・・・・・、何その言い方・・・・・・」

先に目を逸らしたのは、の方だった。


「怒ってんのか何なんか・・・・・よう分からんやんか・・・・・・」
「怒っとるんやからしょうがないやろが。」
「だから何をそんなに怒ってんねんな、アホみたいに・・・・・」
「アホはお前や。人の気ィも知らんと無茶しくさりよって。お前みたいな危なっかしい女、ほっとけるかい。」

ようやく自由になれたを、また普通の幸せから遠ざけてしまうのではないか?
そんな資格が俺にあるのか?
この1週間、真島はずっとそう考えていた。
考え込む事は性に合わないのに、延々と考えては葛藤していた。
しかしそんな葛藤は、今さっき一瞬にして綺麗さっぱり吹き飛んだ。
の人生を狂わせてしまったという罪悪感も、の幸せな未来を奪ってはいけないという自制心も、何もかもが見事なまでに消し飛んで、残ったのはたったひとつの感情だけだった。
が好きだという、極めて単純な、己の本心ひとつだった。


「・・・何やそれ・・・・・、そんな理由で言われても・・・・、全然嬉しないし・・・・・」

拗ねた子供みたいに唇を尖らせていたの顔が、ふと気弱な翳りを帯びた。


「・・・・っていうか、どういうつもりなんかも・・・・よう分からんし・・・・・」
「どういうつもりって、どういう意味やねん?」
「どうもこうも・・・・、だから・・・・・」

は気まずそうに口籠っていたが、やがて腹を括ったように真島をまっすぐ見据えた。


「あんた、東京にええ人おるんちゃうの?」
「・・・は?」

全く想定もしていなかったその一言に、真島は思わず面食らった。
そんな事を言った覚えもなければ匂わせた事もないし、そもそもそういった存在自体が無いのに何故そんな発想になるのかが本気で分からず、只々ポカンとの顔を見つめていると、は急に目に見えて動揺し始めた。


「だ、だって、この1週間ずっと一緒におったのに、あんたそんな気ィあるような素振り全然見せへんかったやんか・・・・!
そやからきっと東京にそういう人がおるんやとばっかり・・・・・!」

別れてから後も、俺はずっとお前だけを想っていた。
今のこの状況なら、そんな風にでも言うべきところなのだろう。
だが真島の心の片隅には、未だマキムラマコトが留まり続けていた。
普通に考えれば、彼女の事はに話すべきではない。女を口説いている最中に別の女の話をするなんて、全世界共通のタブーなのだから。
しかし、己の心の片隅にひっそりと棲み続けている彼女の事を無いものとして、偽りではなくとも多少都合良く膨らませた想いでを口説き落としたとしても、それは真に結ばれる事にはならない、そんな気がしてならなかった。


「・・・・・好きな女なら、ちょっと前までおった。」

真島が正直にそう答えると、はハッと息を呑んだ。


「おった、って・・・・・、過去形なん・・・・・?」
「ああ。」
「別れた・・・って事・・・・・?」
「それ以前や。最初からどないもなっとらん。向こうは何も知らんままや。俺の気持ちも、俺の名前や顔さえもな。」
「え・・・・・?ど、どういう事・・・・・?」
「目の見えん娘やったんや。裏社会の男らに散々酷い目に遭わされた精神的なショックのせいでな。
その挙句に、たった1坪の土地の為に命まで狙われる破目になった、可哀想な娘やった。」
「ちょっと待って・・・・、1坪の土地って、それもしかして・・・・」
「そや。こないだ話した神室町の土地の事や。そこはその娘の土地やったんや。」

の瞳が一瞬悲しげに揺れたのを、真島は見逃さなかった。
多分、は今、佐川の事を考えているのだろう。
面白くはないが、それはきっとお互い様だし、何より、佐川を恨んでいるけど憎んではいないと言ったの気持ちを考えると、妬く気にはなれなかった。


「あの娘は絶対幸せにならなあかん。その為には、もう決してこっちの世界に関わったらあかん。そう思ったから俺は・・・・」

マコトを思い出そうとすると、悲しい顔しか浮かんでこないのは、悲しい事しかなかったからだ。
今はもう、幸せになっただろうか?
あの医者に愛され、守られて、普通の、いや、それ以上の幸せを掴んでくれただろうか?
何としてもそうなってくれていなければならなかった。
それはも同じで、かつて全く同じ事をに対しても願ったのだが、しかしもう遅かった。
さっさと彼氏の1人や2人でも作ってくれていれば身を引けたかも知れないが、今となってはもう手遅れ、たとえどれ程立派な男が現れたとしても、を渡す気は無くなってしまった。
手前勝手は百も承知で、それでももう、好きな女をみすみす他の男の手に委ねるのは御免だった。


「・・・言うとくけどなぁ、俺はあん時お前に対しても、同じ事を思っとったんじゃ!!
それがどやねん!?久しぶりに会うてみたら、お前はまーだ性懲りもなくあの店続けとってからに!!
そんな事しとるから、いつまでも極道の男と縁が切れんでこないな目に遭うんじゃアホンダラ!!」
「なっ・・・、何その言い草!?」

真島がまた怒り始めた。
それだけ心配をかけてしまったのだという事は、自身勿論自覚していたし、悪いとも思っていたが、しかしこうも一方的にどやされてばかりだと、流石に腹が立つ。
それに、俺の女になれという言い方も気に入らなかった。
まるで籠の鳥のようで、またそこに囲い込まれるかのように思えて、気に入らなかった。


「性懲りもなくって何やねんな!人の気ィも知らんとって言いたいのはこっちの方やこのアホ!!ボケ!!スカタン!!私があの店に拘る理由なんか何も知らんくせに!」
「おう知らんわい!お互い様じゃ!こっちはなぁ、あん時、いつかまともな男と幸せになって欲しいと思ってたんじゃ!
そやのにお前ときたら、後生大事に佐川はんの遺した店なんぞ守りよってからに!
まさかお前、佐川はんに操立てなんかしとるんやないやろな!?
別れ際に俺がやったワイン、まさかあのオッサンと飲んだんちゃうやろな!?」
「そんな訳ないやろ!あの人に見つからんようにずっと大事にしまってたし、飲む事もないと思っとったわ!だって・・・・・!」

そこまで捲し立てて、急に胸が詰まった。


「一緒に飲みたいと思える人なんか・・・・・、他に・・・・・おらんねんから・・・・・」

堪え切れない涙が、ポロポロと零れての頬を伝い落ちていった。
一緒に歩く筈だった道を見失ってから以降の事は、幾ら言葉を尽くして語り合ったところで、共有する事は決して出来ない。
違えてしまった道の途中でそれぞれに得たものも、もう無かった事には出来ない。
真島はきっと、その盲目の女性を今もまだ大切に想っているし、もまた、佐川の事を忘れられる気はしていなかった。
好きとか嫌いという次元ではなく、良くも悪くも自分の人生にとてつもなく大きな影響をもたらした人として、きっとこの先もずっと、生涯忘れる事はないだろう。
それでも、真島に対する気持ちは、3年前と何も変わっていなかった。
流れ者の野良犬と落ちこぼれホステスだったあの頃と同じままで、何ひとつ変わっていなかった。


「・・・なら、帰ったら飲むか?」

真島の指が、の頬に伝う涙をそっと拭った。
視線を上げると、穏やかな微笑みがを優しく見つめていた。
あの冬の夜の別れ際にもこうして真島に涙を拭われたが、あの時とは涙の種類が違う。
冷たい雨のような悲しい涙と違って、温かい喜びの涙は、無理に頑張らずとも自然とを微笑ませてくれた。


「・・・・その前に、ひとつ言い直して欲しいわ。」
「何をや?」
「俺の女になれって、何その乱暴な口説き文句。
佐川さんといい岩下さんといいあんたといい、極道の男って何で皆そうなん?もうちょっと気の利いた事言われへんの?」

からかい半分に甘えてねだってみると、真島は少しムキになったような顔をした。


「分かったわ、言うたろやないか。」

真島は咳払いをすると、真剣な表情になって、その大きな手での両肩を優しく包んだ。
そして、考え込むかのように暫く黙り込んだ後、静かに口を開いた。


「・・・、お前は俺の、愛しい24時間シンデレラや。」

真島の甘く優しい声で囁かれたその台詞を聞いた途端、はまるで鳩が豆鉄砲を喰らったような顔になった。
そしてその後、憚ることなく吹き出した。


「ブフーッ!」
「いや何で笑うねん。ここは真面目にチューするとこちゃうんかい。」
「いやいや、何それ?」
「何それて、とっておきの口説き文句に決まっとるやろがい。」
「なーんかどっかで聞いた事ある気ィすんねんけど。」
「『24時間シンデレラ』の歌詞や。ええフレーズやろ。」
「あ〜、あの真島JINGIっちゅうアイドルの歌?」
「せや。ええ曲やろあれ。俺の十八番やねん。」
「あんたそのガラの悪さでアイドルて!あはははは!」
「何やねん、そない笑わんでもええやろ!?」
「なあちょっと、その般若のお面被ってもっかい言うてみてや。プププッ・・・!」
「・・・馬鹿にしとんなお前。」
「してへんしてへん。純粋におもろいと思っただけやん。」
「やかましわ!もうええ、早よ帰るぞ!」
「きゃっ!ちょっともうっ!急に手ェ引っ張らんといてや!」

通りすがりのカップル達の奇異の視線を気にも留めずに、真島とはギャーギャー騒ぎながら歩き始めた。
二人が歩いていく長い道を、柔らかい月の光が優しく照らしていた。




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後書き

・・・・・っはい!
これでめでたくハッピーエンド!
お・し・まいっ☆

・・・・・っていうのもどうかと思いまして、続きがあります。
24時間シンデレラで爆笑して終わり、ではちょっとねぇ(笑)。
そう言えばあのカラオケ、初めてやった時は笑いすぎで悶絶して惨敗でしたね〜(笑)。
さてさて、次が最終回です!最終回なのに何ですが、裏有りです。
もし苦手な方がいらしたら、前半を読み飛ばして下さい。
さあ、では、どうぞー!