檻の犬と籠の鳥 21




コンビニの買い物袋をぶら提げて、真島はネオンの光で溢れ返っている街を歩いていた。
今夜は金曜の夜、所謂『花金』というやつで、いつにも増して人が多い。
水商売にとっては週末の夜が書き入れ時で、本当ならば今頃は忙しく働いている筈だったのにと思うと、また怒りと悔しさがこみ上げてきた。
の店も、との最後の夜を飾る楽しい計画も、何もかもぶち壊しにされたのだ。
の覚悟を汲んで、分かったふりをして引き下がりはしたが、本心では決して納得などしていなかった。


― それ以上の事なんか最初から何も考えてない、か・・・・・

さっきに言われた事が、真島の中でまだ尾を引いていた。
これ以上は踏み込んで来るなと、目の前に線を引かれてしまったような気がして、ショックだった。
だが、線を引いたのは真島も同じだった。
女の身になってみれば、ずっとお前の側にいてやる事は出来ないと言い切った男に、一体何の期待が出来ようか。
それでも、そんな男の身を案じ、感謝までしてくれたを思うと、胸が苦しくて仕方がなかった。
にも自分にも、それぞれの居場所となすべき事があるのは重々承知していた筈なのに、未練をすっぱりと断ち切れないのは、あの時、生木を裂かれるような別れ方をしたからだろうか。


― 結局、何しに来たんや、俺は・・・・・

結局、何の力にもなってやれず、己の気持ちに決着をつける事さえ出来ないまま東京へ帰ろうとしている自分が、ばかみたいだった。
と再会出来た事は嬉しかったが、こうなってしまうと、果たしてそれが良かった事なのかどうか分からなくなる。
佐川に死なれたが、もし何か困っているのなら助けたいと思って意を決してやって来たのに、その目的も果たせず帰るのなら、それはただお互いの古傷をいたずらに掻き毟っただけの事なのではないだろうか。
しかし、肝心のが手出しされるのを頑なに拒む以上、真島にはどうする事も出来なかった。
してやれる事といったらもう、こうして飯を買って来る事ぐらいしかない。
虚しさを噛み締めながら店に帰り着き、真島は勝手口のドアノブに手をかけた。
だが、開いている筈のそのドアには鍵が掛かっていて、折り畳まれたメモ用紙がテープで貼り付けられていた。


「あん?何やこれ・・・」

真島はメモを取り、開いて文面を読んだ。


「吾朗へ、ちょっと岩下さんの事務所へ行ってきます。
すぐ帰るので、先に家に帰ってて下さい。家の鍵は隣の花屋さんに預けています。
急に決まった話なので、相談する暇がなくてごめんなさい。
詳しい事は帰ったら話します、・・・・・・」

不吉な予感が、真島を凍りつかせた。
殆ど恐怖のような焦燥感、この感覚に覚えがあった。


・・・・・・・」

そう、マコトの時と同じだった。
堂島組長の元へ単身乗り込んでいった彼女を必死に追いかけた、あの時と。


「あのアホッ・・・・・!!」

コンビニの袋ものメモも全て取り落とし、真島はすぐさま駆け出した。
しかし、岩下の事務所がどこにあるのか全く分からない。
何らかの手掛かりが欲しくて、ひとまずメモに書かれていた隣の花屋に駆け込むと、店番をしていたおばさんが『いらっしゃいませ〜』と真島に愛想の良い笑い顔を向けた。


「すんまへん!隣のクラブパニエのモンやけど・・・・!」
「ああ〜はいはい!!」

おばさんは手を打ち鳴らすと、親しげな態度で真島に近付いて来た。


「あんたアレやろ、真島さんやろ?ちゃんから聞いてるわ。
そやけど名前聞いとかんでも、あんたは見たらすぐ分かるなぁ!
まぁここら辺も色んな人がおるけど、あんたみたいなけったいな人はそうそうおらんからなぁ、あっはっは!」

この大変な時に、またもオバタリアンに遭遇するとは苛立たしい。
誰がけったいな人やねんと反射的に突っ込みかけたが、しかしそれを口に出している暇も惜しかった。


「オバちゃん、あんな・・」
「あんたこないだ店の前でえらい人数相手に喧嘩しとったやろ!?見とったでぇ〜!?あんだけの人数相手に大したもんや!ごっつカッコ良かったわぁ!」
「いや、そんな事より・・・」
「それはそうとアンタ!お店えらい事になったんやて!?ちゃんに聞いたで〜!
何やおまわりさんが何人も来とったからどないしたんて訊いたら、店荒らしやて!?
まあな〜、何も盗られへんかっただけ不幸中の幸いやったけど、悪い事しよる奴がおんねんな〜!?ホンマえらいこっちゃでぇ〜!」
「ちょっ、オバちゃん!すまん!」

真島は大きな声を出して、脈絡なく延々と続きそうなおばさんの話を無理矢理遮った。


「心配してくれてるとこ悪いんやけど、俺急いどるんや!」
「あぁはいはい、鍵やろ?ちょう待ってやぁ。」

おばさんは意外とすんなりお喋りをやめて真島の側を離れ、レジを開けて鍵を取り出してきた。
見覚えのあるキーホルダーの付いているその鍵は、確かにの部屋の鍵に間違いなかった。


「はいこれな、預かってた鍵!」
「お、おおきに・・・っていうか、いっこ教えて欲しい事があるんや!おばちゃん、岩下組っちゅうの知っとるか!?」

真島が尋ねると、おばさんは怪訝な顔をして首を捻った。


「岩下組?さぁ〜知らんなぁ。うちは花屋やからなぁ。飲み屋さんと違ごて、お客さんとゆっくり喋る訳とちゃうから、どこのどちらさんかなんて分からんわぁ。」
「そ、そらそやな・・・・、ほな、誰か知ってそうな奴に心当たりないか!?」
「そない言われてもなぁ〜。そらうちのお客さんにはクラブのママとかも多いけど、世間話程度にチョロッとお店の話ぐらいは聞いても、いちいちそこのお店のお客さんの話まではせんからなぁ。」
「そうか・・・・・」

もうこれ以上、ここにいても仕方がなかった。
岩下組の場所については、また別の方法で調べるしかない。
そこら辺を歩いているチンピラを片っ端から締め上げてみるか、或いは最悪、新しく取り替えたばかりではあるが、勝手口の鍵を力ずくで壊して店の中に入り、名刺か何かがないか探してみるか。
とにかくここを出ようと考えた瞬間、おばさんがふと思いついたように、ああ、そや、と声を上げた。


「それやったら寿司正さんに訊いてみたら?」
「寿司正?」
「あそこはお客さん連れのホステスさんがよう行くし、色んな店に出前もしてはるからなぁ。うちよりかは何か分かるんとちゃうか?」

寿司正ならば、真島も知っていた。
あの悪戯出前の一件で店員の顔もちゃんと覚えているから、そこになら話を聞きに行ける。


「おおきにオバちゃん!ほな寿司正の店の場所、教えてんか!?」

まだ間に合う。きっと大丈夫だ。
真島は自分にそう言い聞かせ、高まる一方の焦燥感を必死で抑え込んだ。














花屋のおばさんから場所を聞くと、真島は急いで寿司正へ走った。
走って来たその勢いのまま店の戸を開け放つと、店の中にいた人々が一斉に驚いた顔を真島に向けた。
その中にはこの間出前を届けに来た若い板前もいて、真島の顔を見た途端、あっと声を上げた。


「アンタ、こないだの兄さんやないか!」
「そういうアンタはこないだの兄ちゃん!良かった、おってくれて!」

真島はすぐさま、顔見知りのその板前に駆け寄った。
彼は丁度客に料理を出そうとしているところだったが、彼の手が空くのを待っている暇は無かった。


「ちょっと訊きたい事があるんや!岩下組っちゅうのを知らんか!?」
「な、何ですのんいきなり!?」
「ええから答えてくれ、急いどんのや!知ってんのか知らんのか、どっちや!?」

真島が声を張り上げると、カウンターの奥にいた店主らしき年配の男が板前に向かって、おい、この兄さんどちらさんや?と訊いた。
板前が、パニエさんとこの人ですわ、と答えると、店主は眼光鋭く真島を見据えた。


「兄さん。見ての通り、うち今営業中ですねん。お客さんやないんやったら、外出て貰えまっか?」
「アンタとこの商売の邪魔する気ィはない。聞いたらすぐ帰る。知ってんのか知らんのか、どっちや?」
「出て貰えまっか?」

まるで取り付く島もなかった。きっと営業妨害だと思われてしまったのだろう。
そうではないと重ねて説明したところで、この様子では分かって貰えるかどうか分からないし、そうまでしたところで、岩下組の事を教えて貰えるかどうかも分からない。
そんな不確実な事に長々と時間を割いてはいられず、真島は歯噛みしながらも『邪魔したな』と呟き、諦めて店を出た。
それが早とちりだったと気付かされたのは、閉めた筈の戸がまた開いた時だった。
その音で振り返ると、店主が外に出て来ていた。
店主は呆然としている真島に歩み寄って来て、まるで独り言のように喋り始めた。


「・・・岩下組の連中がここら辺で急に幅利かすようになったんは、この何ヶ月かや。佐川組の親分さんが亡くなったのと入れ替わりみたいにしてな。」

思いがけず耳にしたその名前につい驚いて、そんな場合ではないと分かっていながらも、訊かずにいられなかった。


「大将、アンタ佐川はんの事知っとるんか?」
「佐川の親分さんには、長い事贔屓にして貰ろとった。パニエさんとも、親分さんの紹介で付き合いするようになったんや。」

店主はまた、その鋭い目を真島に向けた。


「おたく何ぞあったんかいな?昼間、何や騒動があったみたいやないか。こないだの出前も、あんな事初めてやったしな。」

目付きが悪いのは、どうも顔の造り上の問題らしかった。
愛想も悪くて口調もぶっきらぼうだが、心配してくれているのだというのは、こうして話してみるとちゃんと伝わってきた。
だが、事情を詳しく説明している暇は無いし、の了承も得ていないのに店の内情を他所にペラペラ喋るような真似も出来なかった。


「・・・済まんが、詳しい事は俺の一存では話されへん。とにかく今すぐ岩下組の事務所に行かなあかんのや。場所教えてくれ。」
「事務所の場所までは知らん。そやけど、このところちょいちょい岩下組の親分さんと食いに来るネェちゃんの店なら知ってる。
案内させるよってに、そこ行って聞いてみ。多分分かるやろ。」

店主はおもむろに店の戸を開け、中に向かって『おい!』と呼びかけた。
すると、それに応じて、あの若い板前がすっ飛んで来た。


「この兄さんをグレースに案内して、店の人らに声掛けたってくれ。」
「分かりました!」
「アンタら・・・・・」
「こないだはちゃんにえらい大損させてしもたから、その詫びと言うたら何やけどな。」

真島と目が合うと、店主はほんの一瞬だけ、その厳めしい顔に初めて笑みのようなものを浮かべてみせた。


「何か知らんが、兄さんアンタ、ちゃんの事助けたってくれな。」
「・・・・・分かっとるわ・・・・・・!」

だから真島も、笑ってそう答えた。
すると店主は『頼んだで』と言い残し、一人で店に戻って行った。


― 、無事でおれよ、すぐ行くからな・・・・・!

他人に言われるまでもない。
と、の大切なものは、この手で守ってみせる。
今度こそ、必ず。
その決意を宿した拳を、真島は固く、固く、握り込んだ。















を乗せてキタの街を出たタクシーは、そこからほんの少し北へ行った所にある、とある歓楽街で停まった。
ラブホテルの群立する通りを女一人で歩いていると、カップルから変な目で見られたり、それだけならまだしも、ニヤケ面の気持ち悪いオッサンからネエちゃんなんぼやと声を掛けられたりして、益々気が滅入ってくる。
だが、逃げる訳にはいかない。
『岩下ビルヂング』という表札のかかっている目の前のビルを見上げて、一度深呼吸をしてから、は意を決して扉を開いた。
このビル全部が岩下組のものなのだろうが、中には組員どころか人っ子一人見当たらなかった。
シンと静まり返った人気の無いエレベーターホールが、否が応にも緊張感を掻き立てる。
大丈夫、大丈夫、心の中でそう繰り返しながら、は自分の左腕をそっと擦った。
それからすぐにエレベーターに乗り込んで、事務所のある4Fに上った。
岩下の事務所を訪ねるのはこれが初めてだったが、さほど大きくはない建物で、ドアの数も知れていたので、事務所を探し出すのに苦労はなかった。
事務所のドアを前にもう一度深呼吸をしてから、はそのドアをノックした。


「失礼します。」

ドアを開けると、ガラの悪い男達の威嚇するような視線が、一斉にへと向けられた。
肌を突き刺すようなその視線に耐えながら、は彼等に向かって軽く頭を下げた。


「お約束しておりました、クラブパニエのです。岩下さんにお取次ぎ願います。」
「・・・こっち来いや。」

一人の男が、面倒くさそうに椅子から立ち上がった。
大きな絆創膏を貼っているその顔には見覚えがあった。この間、店に来てどんちゃん騒ぎを起こした連中の内の一人だ。
他にも見覚えのある奴が何人もいる。皆それぞれにあの時真島に痛めつけられた痕をまだ残していて、側を通り抜けていくを殺気立った目付きで睨んできた。
は封筒を抱え直すふりをしてまた自分の左腕に、そこに描きつけた真島との思い出に、手を触れた。
そうしていると、勇気が湧いてくるようだった。
大丈夫、私にはあの人がついている、そう自分に言い聞かせながら案内役の男について行くと、男は事務所の奥にあったドアの前で立ち止まり、ノックをしてから開け放った。


「失礼します。親父、女が来ましたで。」
「おう、通せや。」
「へい。」

案内の男は、刺々しい目付きでを一瞥し、中に入れと顎をしゃくった。
客扱いされていない事は最初から分かっていたが、組員達の刺々しい態度を見ていると、ちゃんと話が出来るのだろうかと不安がこみ上げてくる。
左腕に触れている手に知らず知らず力を込めながら、は部屋の中に足を踏み入れた。


「こんばんは、失礼します。」
「おう、来たか。待っとったで。」

社長椅子にふんぞり返っていた岩下は、を見るとニヤリと笑って立ち上がった。


「まあ座れや。今コーヒーでも持って来させるわ。」
「いえ、どうぞお構いなく。」

遠慮はしたが、無駄だった。
岩下は部屋のドアを開け、事務所にいる組員達に向かって、おいコーヒーや、と言い付けてから、応接セットのソファにどっかりと腰を下ろした。
は軽く頭を下げて、その向かい側のソファに座った。


「ほんで?折入って話したい事っちゅうのは何やねん?」
「今日、店が荒らされました。フロア中ボロボロにされてて、改修に随分お金がかかりそうです。
詳しい事は、来週業者さんに見積りに来て貰ってからしか分かりませんけど。」
「ほ〜う、そうかぁ。そら難儀なこっちゃなぁ。」

恐らくこうして他人事のようにしらを切られるであろう事は、予測がついていた。
だから、腹を立てるだけ無駄だと自分に言い聞かせ、はこみ上げてくる怒りをぐっと抑え込んだ。


「ほんで?ワシにその金を用立てて欲しいっちゅう訳か?」
「いいえ、逆です。」

は書類の入った封筒とバッグから取り出した現金入りの封筒とを、テーブルの上に並べて置いた。


「何やこれは?」
「開店資金の残額です。残りを一括でお支払いしたく、用意して来ました。
こちらの封筒の中身が、契約書とこれまでの返済の履歴を記した書面です。
残額ピッタリ入っている筈ですので、どうぞお改め下さい。」

が勧めると、岩下は気のない態度で金の入った封筒を手に取り、中をチラリと覗いた。
そして、わざとらしい溜息を吐いた。


「残念やけどなぁ、これでは全然足らんわ。」
「おたくの組員さん達の治療代の事を仰っているのでしたら、生憎ですがお支払いする気はありません。
うちの店も相当な痛手を負いました。なので、痛み分けとさせて下さい。」

嫌がらせをしに来た連中の治療費と店の改修費用を相殺など、本当は到底納得出来る事ではなかったが、佐川が弟妹の先々の進学費用にと最期に残してくれたお金を一時的に使わせて貰えば改修費用は工面出来るので、これで岩下とすっぱり手を切れるのなら、敢えて被る甲斐のある損害だった。
だが、譲れるのはここまでが限度だった。


「開店資金を完済すれば、店の名義を私に変更して頂く契約です。お手続きの方、速やかに宜しくお願い致します。」

これ以上は一歩たりとも退く気はない。
その意思を視線に込めて、は目の前の岩下をじっと見つめた。


「・・・黙って聞いとったら、随分一方的な話やのう。痛み分けって何や?アンタとこの店が荒らされたんとワシの組と、何の関係があるんや?」
「この期に及んでとぼけるのはやめて下さい。そちら様の仕業なのは分かってるんですから。
今日の店荒らしだけやなくて、このところ続いてた営業妨害、あれ全部そちら様の仕業でしょう。」
「言い切るからには何ぞ証拠でもあんのんか?」
「事務所の方に、こないだうちに来とった人が何人もいてはりました。さっき案内してくれた人もそうです。私ちゃんと顔覚えてますよ。
それに、うちのNo.1の娘を引き抜いたのも岩下さんですよね。彼女本人がそう言うてました。」
「それはヘッドハンティングっちゅうやつや。正当なビジネスや。営業妨害なんて言い方されるような事やないで。
こっちは誘っただけ、受ける受けへんは本人次第や。そんな事、どこの店でもどこの業界でも普通にある事や。」
「彼女の事だけとちゃいます。ボーイ2人も脅して辞めさせたでしょう?それに、うちの店を騙って高額の出前を取ったり・・・」
「そやから証拠があんねやったら見してみぃて言うとるんや。早よ出してみろや、えぇ?」

悔しいが、そこを突かれると返す言葉が無かった。
証拠は無くても岩下の差し金だという事は分かり切っているのだから、強気で言い切れば認めるだろうと思っていたが、岩下の押しの強さと面の皮の厚さは、どうやらその上をいくようだった。


「・・・言うとくけどな、こっちには『証拠』があるんやで。
うちの連中はただ楽しく飲んでただけやのに、邪魔やっちゅうて叩き出されたらしいやないか。おまけに全員怪我までさせられた。あの例の眼帯にのう。」
「っ・・・・・・!」
「うちの連中は、あの男に公衆の面前でやられとる。目撃者がようけおるっちゅう訳や。
そやけど、アンタとこの店荒らしだの営業妨害だのっちゅうのがうちの仕業やという証拠は無い。それで何で痛み分けになるんや?ああ?」

真島に迷惑をかける訳には、断じていかなかった。
店の事と家族の事、両方の先々を考えるとこれ以上の身銭は切れないと思っていたが、背に腹は代えられなかった。


「・・・・ほな、あと幾らお支払いしたら、うちの店から手ェ引いてくれるんですか?」
「そやのう、ひとまずあと5千万てとこかのう。」
「5千万て・・・・!」

無理難題とはこの事だった。
どう逆立ちしたって、そんな金は出て来ない。
銀行から借り入れられる額でもないし、胡散臭い街金などから借りてしまったら、それこそ家族諸共破滅する。
もう少しで掴みかけていたものが遥かに遠ざかってしまう悔しさに、今まで必死で保っていたの平常心はとうとう崩れ落ちた。


「そんなんムチャクチャやないですか!そんなお金一括でなんてとても・・・・!」
「ワシは何も一括で返せなんて言うとらんやないか。ワシは今の調子で、ボ〜チボチやってくれればええと思っとるんやで?」
「ボチボチて・・・・!それじゃいつまで経っても店の名義は・・・・!」

それはつまり、今のこの地獄が、この先無期限に続くと宣告されたも同然だった。
絶対に回避したかった最悪のパターンにまんまと嵌められた絶望感に愕然とするを、岩下は鼻で笑った。


「名義だの契約だの、そんなモンに拘っとるんがそもそもおかしいんや。
それはアンタが佐川と交わした契約やろ?ワシはそんな契約を交わした覚えはない。」

岩下はおもむろに封筒から書類を出すと、の目の前で破り捨てた。
相手が極道なのは百も承知しているが、それでも、これはあまりにも横暴だった。


「あぁっ・・・・!何するんですか!?」
「こんなモンは只の紙クズや。何の効力もあらへんわ。」
「佐川さんの後を引き継いだって言うたやないですか!新しいオーナーや言うてやって来て、好き勝手毟り取っといて、今更そんな事言わんといて下さい!卑怯やわ!」

が声を荒げたところへ丁度2人分のコーヒーを持って入って来た組員が、『おうコラネーちゃん、ワレ誰に向かってクチ利いとんじゃ!』と凄んできたが、岩下がひと睨みすると渋々といった様子で口を噤み、テーブルの上にコーヒーを置いて出て行った。
岩下はカップを取り上げてコーヒーを一口啜り、憤慨しているがおかしいかのような呆れ顔で鼻を鳴らした。


「毟り取るとは人聞きが悪いのう。言うとくけどな、むしろ今のが正当な額やねんで。」
「どこが正当なんですか!?うちの儲けを実質8割も持っていってんのに、それのどこが・・」
「アホンダラ!ワシらの業界ではこれが相場じゃ!アンタが佐川に払ろとった額が安すぎたんや!女の特権っちゅうやっちゃ!その身体に覚えがあるやろが!」
「っ・・・・!」

身が竦んでしまったのは、突然大声で怒鳴られた為ばかりではなかった。
女の特権、その言葉が、の胸を深く刺し貫いていた。


「あの業突く張りの佐川も、流石に我のオンナは可愛いかったみたいやな。
せやけど、ワシとアンタは何の関係もない。佐川が金の代わりに受け取っとった『役得』は、ワシには一切あらへん。
そやのに、何で『正当な取り分』を減らさなあかんのや?ええ?」

否定する事は出来なかった。
本来、金の貸し借りに付き物である利子を、佐川は受け取っていなかった。
更には、開店資金の返済自体がからどうしてもと言い出した事だったにも関わらず、その返済分も含めて利益が折半になるように計らってもくれていた。
その見返りに当たるものといえば、それは岩下の言う通り、自身だった。
何をどう言い繕ったところで、それは確固たる事実で、覆しようがなかった。


「・・・そやから言うたやろ?ワシのオンナになれて。」

岩下はニヤニヤと笑いながら、勢いを失くしたの隣に座りに来て、の肩を強引に抱き寄せた。


「ワシは佐川みたいな銭の亡者やない。愛人割引なんてセコい事はせん。
あんな小さい店に必死こいてしがみ付かんでも、うんと贅沢させたるがな、な?」
「っ・・・・!」

生臭い息が耳元に吹きかけられる不快感に、思わず身体が震えた。
それを勘違いしたらしく、岩下は気を良くしたように、益々を強く抱き寄せた。


「一人で意地張って強がっとっても、お前は所詮、何から何まで佐川に守られて甘やかされてきたんや。
そやけど、それはいっこも悪い事やない。お前は女やねんからな。
こないやって、男に可愛がられて生きていくんが『オンナ』っちゅうもんや、なぁ?」

肩を抱いていた手が下りてきて、服の上からの乳房を掴んで無遠慮に揉みしだき始めた。


「・・・・そう・・・・ですね・・・・・」

は身を震わせながら、小さな声で呟いた。


「フヘへ・・・、やっと素直になりよったなぁ。せや、ハナからそないしとったら良かったんや。安心せぇ。あんな負け犬の事なんか、すぐに忘れさしたるからなぁ。」

恐怖以上の、屈辱と怒りにうち震えながら、胸を弄る岩下の手を掴んだ。


「・・・・岩下さん・・・・、勘違いしてはるわ・・・・・」
「あん?何をや?」
「私、佐川さんの事なんか大っ嫌いやったわ・・・・・。
最初っから最期まで、ずっと・・・・、今でもや・・・・・」

少しの間を置いて、岩下がさも愉しげな笑い声を小さく上げた。
もしも幽霊なんてものが本当に存在するのだとしたら、是非とも出て来て欲しかった。
あんたなんか大嫌いだと、百万回言ってやっても飽き足りないのだから。
恨み言も、礼も、何ひとつ聞いてくれないまま勝手に死ぬなんてどこまで自分勝手なんだと、詰ってやりたいのだから。


「・・・そやけど、それでもあの人は・・・・・」
「うん?何やねん?」
「・・・・アンタとは比べもんにならん位、巧かったわ。」
「・・・何やと?」

岩下の手が止まった瞬間、は掴んでいたその手を力任せに振り払って立ち上がった。


「岩下さん、アンタの言う通りやわ。所詮私は『オンナ』や。全部佐川さんにおんぶに抱っこでやってきた。
せやけど、女にかて『オトコ』選ぶ権利はある。
死んだ人のお零れ貰って勝った気ィでおるような負け犬の『オンナ』になんか、死んでもなりたないわ。」
「・・・・言うたな、このクソアマ・・・・」

岩下の顔付きが変わった。どうやら本気で怒らせてしまったようだった。
怖くはあるが、しかし不思議と後悔はしていなかった。只のヤケクソというやつなのかも知れないが。
今後どうすれば良いかは分からない。ただとにかく、今はすぐさまここから逃げなければいけなかった。
もしも逃げ切れなければ、ただでは済むまい。
は岩下を睨みつけて牽制しながら、一瞬のタイミングで自分のバッグと金の入った封筒を取り上げた。


「待てコラァッ!!」
「きゃあぁっ!」

が動くと同時に、岩下が掴み掛かってきた。
それを運良く紙一重で避ける事が出来たは、目についたコーヒーを咄嗟に岩下の顔に向かってぶち撒けた。


「あぢゃあぁぁぁぁっ!!」

まだ湯気を立てていた熱いコーヒーをまともに被ってのたうち回る岩下を突き飛ばすようにして、はドアへ向かって駆け出した。
しかしそのドアは、岩下の絶叫を聞いて駆けつけて来た岩下組の組員達の手によって、向こう側から先に開けられてしまった。


「親父ィッ!!どないしましたんや!?」
「お前らその女捕まえとけ!くぁぁぁっつぅっ・・・・!」
「あ・・・、あぁ・・・・・!」

前後を挟まれ、は絶体絶命に陥った。
この部屋の出口は2つ、組員達が詰めかけて来ている目の前のドアか、後ろにある4Fの窓か。
どちらを選んでも、ただでは済みそうにない。
極限の恐怖と緊張の中、は一瞬の判断に従ってそのまま突き進んだ。


「待てコラァァッ!」
「きゃああっ!」

しかし、逃げる事は出来なかった。
無理矢理にでも突っ切ろうと全力を出したつもりだったが、何人もの男達を弾き飛ばすような力も、僅かな隙間を巧みにかい潜れるような運動神経もには備わっておらず、はあっという間に捕まり、羽交い絞めにされてしまった。


「暴れても無駄や!逃げられへんぞ!」
「じっとせんかい!」
「いやあぁぁっ!!放して、放してぇっ!!」

岩下が火傷で赤くなった顔を恐ろしい形相に歪めて、の目の前にやって来た。


「ようもやってくれたなぁ・・・・・!」
「あぁっ・・・・!」

頬を平手打ちされて、首がもげそうな程の衝撃を受けた。
頭の中がグランと揺れるのを必死で堪えて、はすぐさま岩下を睨み返した。


「ええ度胸しとるやんけ。ほなその意地、張り通して貰おやないかい。」
「な・・何する気・・・・!?」
「お前には何本かビデオに出て貰う。全部丸見えのやつや、高う売れるでぇ?ほんでその後は、椿園で稼いで貰おかの。」

ポルノビデオに売春宿なんて冗談じゃない。
が目を見開くと、岩下は口元を歪めて凶悪な笑みを浮かべた。


「安心せぇ。恥も怖いも何も分からんで済むように、気持ちよぉ〜なるクスリ・・・・使こたるからな?」
「っ・・・・!」

その一言は、刃物や銃を突き付けられるのと同じ位、死を間近に感じさせた。
いや、薬漬けにされる位なら、むしろひと思いに撃ち殺されでもする方が幾らかマシというものだった。


「まずはキレイな内にたっぷり愉しませて貰おか。言うとくけど、今更泣こうが媚びようが、もう遅いぞ?」
「誰が・・・・!」

恐怖に凍りついた身体はもう動かず、声すらもまともに出なかった。
だが、泣いて許しを乞うつもりは更々無かった。ましてや尻尾を振る気など。
もう二度と、籠の鳥にはならない。
たとえ死んだって、こんな卑劣漢に屈服などしない。
自分でも不思議だったが、その意地だけがを支えていた。
ただひとつ気掛かりなのは、家族の事だった。
自分がいなくなった後、残される家族はどうなるだろうか。
それに、岩下には佐川程の周到さは無さそうだとはいえ、調べて家族を探し当て、危害を加える事が絶対に無いとも限らない。
それを思うと不安でならないが、かと言って、もうにはどうする事も出来なかった。
自分の選択を後悔はしていないが、結果としてまるで力が及ばなかったのが無念でならなかった。
に出来る事はもはやただ一つ、大切な人達の無事を祈る事だけだった。
家族と真島の事を強く思い、彼等の無事だけを祈りながら、は全てを諦めかけた。
その時、事務所のドアが突然、凄まじい勢いで吹き飛ぶように開いた。


ーーっ!!!」

ドアを蹴り破って駆け込んで来たのは、真島だった。
必死の形相を浮かべて乗り込んで来た彼の姿を見た瞬間、挫けかけていた心に急速に力が漲ってきて、は声を振り絞って叫んだ。


「ご・・吾朗ーーっ!!!」
!!おどれら、を放さんかい!!」

そこら辺の物を蹴散らしながら駆けて来る真島を迎え撃とうとするかのように、岩下組の組員達が素早く散開した。


「おんどりゃあ、事務所までカチコミに来るとはええ度胸やないけ!」
「ここでこないだみたいに好き勝手出来ると思たら大間違いやぞ!」
「ブチ殺したるわぁ!!」
「退けやこのボケがぁーーっ!!」

たちまちの内に、また先日のような激しい乱闘が始まった。
しかし、この間とは決定的に違うものがあった。真島の顔付きだ。
岩下組の連中を叩きのめしていく彼の顔は、愉しげに笑って踊るように闘っていたこの間とは違い、まるで牙を剥いた獰猛な獣のように殺気立っていた。
そのあまりの気迫には思わず身を震わせたが、それはだけではなかった。


「うぐぐ・・・・!」

鬼の如き真島の姿に恐れをなしたのか、岩下は顔を引き攣らせていた。
そして、と目が合うと、力任せにを抱え込んだ。


「きゃあっ!いやぁっ!」
「じゃかぁしいっ!!大人しゅうせんかい!!」
「うぅっ・・・・・!やめてっ・・・・!放し・・・・!」

必死にもがいたが、首を絞めるようにガッチリと抱え込まれてしまっていて、振り解く事は叶わなかった。


「やぁっ・・・・、吾朗ーっ!!」

またさっきの部屋の中に連れ込まれていくその間際、は声を振り絞って叫んだ。
だが、その呼びかけに真島が応える前に、ドアは無情にも閉ざされてしまった。




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後書き

龍0ホンマにハマりすぎて、1巡目したところでサントラを買いました。
迷った末に好きな曲を数曲買い、丁度同時期に激しい発作(妄想)が起きてこの作品を思い立ちましたので、それらを聴きながら夢中で書いておりました。
で、更にどんどん深みにハマっていきまして、結局残りの曲も全部、というかアルバムを買い直しました。
我ながらアホやと思いました(笑)。
そんなこんなで、いよいよクライマックスを迎えました!
あともう少し、お付き合い下さいませ。