檻の犬と籠の鳥 20




空に月が浮かぶ頃、『籠』の扉は開かれる。
浮世の憂さを晴らしたい人、非日常の一時を楽しみたい人、孤独な夜が嫌な人、様々な人がこの店を訪れる。
扉は誰にでも等しく開かれていて、どんな人でも受け入れる。
・・・というのはあくまでも建前であって、実際にはどなた様でもという訳にはいかないのが実情だ。
『お客様は神様です』などというフレーズはあるが、営業に支障を来たすような客は『お客様』ではない。
その最たる例が、金払いの悪い客や女の子に過剰なサービスを要求する客、そして、他の客の迷惑になるような振る舞いをする客である。
比較的客筋の良いクラブパニエでも、そのような招かれざる客が現れる事は往々にしてあり、その場合は店や従業員を守る為に、毅然と対応するのが常である。
しかし今夜は、いつもとは様子が違っていた。


「わはははは!!」
「ぎゃはははは!!」
「オラオラー!もっと盛り上がれやー!」

今夜のクラブパニエは、開店直後から満席となった。
だが、客席を埋め尽くしているのは、チンピラのような風貌の男ばかり。
連中が馬鹿騒ぎしている様を、は苦々しい思いで見ている事しか出来なかった。
開店早々、ガラの悪い男達が大勢でゾロゾロと詰めかけて来た時から嫌な予感はしていたが、予感だけで入店拒否する事も出来ず、やむなく通したのが運の尽きだった。
瞬く間にテーブル席からカウンター席まで全てを陣取られてはや2時間、男達はビール1杯ずつで大きな顔をして居座り、ずっと騒ぎ続けていた。
席を埋め尽くされているせいで、後から来た客は断らざるを得ない。
かといって、その分この連中が売上に貢献してくれる訳でもない。
暴れ出したり女の子達に指1本でも触れようものなら、それを理由に退店を迫れるが、内輪でただ笑って騒いでいるだけなのでそれも出来ず、歯痒い思いをしながら連中が自発的に帰ってくれるのを待つしかなかったのだ。
しかし、時間が経てば経つ程連中のテンションは上がる一方で、幾ら待っても帰ってくれそうな気配は無かった。
幾ら何でも、もうこれ以上目を瞑っている事は出来ない。
は意を決すると、馬鹿騒ぎの渦中へツカツカと踏み込んでいった。


「失礼致します、お客様方。お楽しみのところ恐れ入りますが、そろそろお引き取り頂けますでしょうか。」

がそう願い出ると、今の今まで騒がしかった店内が一気に静まり返り、まるでこうして対峙する事を待ち侘びていたかのように、男達が嬉々としてに絡んできた。


「はぁ?何でやねん?」
「他のお客様がお待ちですので、お席を空けて頂きたく存じます。」
「他の客なんか誰も待っとらんやんけ。」

アンタらのせいで皆帰ってもうたんや、と怒鳴りつけてやりたいが、それはやはり出来なかった。


「これから来られますので。」
「ほ〜お。来るか来ぇへんか分からん客の為に、今おる客に帰れてか。」
「それはちょっと酷いんとちゃうか。なぁネエちゃん。」
「どうかお引き取り下さい。お願い致します。」

はどうにか平常心を保ち、男達に対して深く頭を下げた。
しかし連中は、そんなを一笑に付した。


「そうはいかんわ。ワシらこの店めっちゃ気に入ったんや。」
「せやせや。閉店までおるでぇ〜。」
「明日も開店時間ピッタリに来たるからなぁ?」

は頭を上げ、男達をじっと見据えた。
嫌な予感がした時から見当はついていたが、やはりこの連中は岩下の手の者達のようだった。


「・・・・・岩下さんのご命令ですか?」

男達はその質問にはっきりとは答えなかったが、嫌な含み笑いを浮かべたその顔が答えも同然だった。
仮にもオーナーだというのに、あの男はこの店を潰す気なのだろうか?
そんなにまで執着されている事に内心で恐怖を覚えたが、それを悟られぬよう、は気丈に男達を睨み据えた。


「どうぞお引き取り下さい。どうしてもお引き取り頂けないようでしたら、営業妨害で警察に通報します。」
「おう構へんで?ワシらなーんも悪さしてへんからなぁ。」
「せやせや。俺らはただ楽しゅう飲んどるだけじゃ。ポリ公でも何でも呼んだらええわ。」
「ほれ、呼んでみろや。えぇ?」

最終手段だと思っていた脅しでさえ、連中は鼻で笑い飛ばした。
これまで力不足を感じた事なら何度もあったが、これ程の無力感に苛まれた事はなかった。
私は結局、一人では何も出来ないのだろうか?
自分では精一杯やっているつもりでも、実際には何ひとつ通用していないのだろうか?
悔しさに歯を食い縛ったその時、それまでじっと黙っていた真島が、と男達との間に割って入ってきた。


「ではお客様方、こういうのは如何でしょうか?
これから私が皆様全員をお相手致します。皆様方の勝ちならば、どうぞ引き続き当店でお楽しみ下さい。
ビール1杯と言わず、お好きなだけ飲んで頂いて結構です。お代も頂戴致しません。」
「ちょ・・・、ちょっと、そんな事・・・・!」

は思わず真島の袖を引いた。
何しろ向こうは30、いや、40人近くいるのだ。
真島が自分の強さに絶大な自信を持っているとしても、無謀だとしか思えなかった。
しかし真島はの手を振り払いこそしないまでも、不敵な笑みを連中に向けたまま、には目もくれなかった。


「何やワレ、ケツモチか?」
「大変よく間違われますが、ボーイでございます。」
「おもろいやんけ。一人で俺ら全員相手しよっちゅうんか。えらい自信やのう。」
「こらこの店の酒、今夜中に全部のうなってまうなぁ!はははは!」

多勢に無勢とは正にこの事で、男達は早くも勝ち誇った笑い声を高らかに上げた。
だが真島は、その落ち着き払った態度を些かも崩さなかった。


「結構でございます。ただし、私が勝ちました暁には、お代として皆様方全員の持ち金を全額貰い受けましたうえ、当店へのご入店を今後一切ご遠慮頂きます。宜しいですか?」

この瞬間、男達は気圧されたように、揃って顔を強張らせた。
真島だけがただ一人、終始変わらぬ余裕の笑みを保ち続けたままだった。
や店の従業員達が固唾を飲んで事の成り行きを見守っている中、真島は連中に向かって完璧な一礼をして見せた。


「それでは早速始める事に致しましょう。恐れ入りますが皆様方、店外までご足労願います。」
「じ、上等じゃ!やったろやないけ!」
「後で泣き入れんやなぁ!」

てこでも動かなかった連中が真島の後についてゾロゾロと外へ出て行くのを、は茫然と見ていた。


「・・・な、何かおもろそうやなぁ、ちょっと見に行かへん?」
「行く行く!」
「あ、私もー!」

女の子達が何人か、恐怖よりも興味が上回ったような顔で後をついて行った。
巻き込まれて怪我でもされたら大変だ。我に返ったは、慌てて彼女らの後を追って行った。
店の外に出てみると、既に目の前の路上で真島が連中と対峙しており、その周りを大勢の野次馬が塀の如く取り囲んでいた。
拳を振り上げてはやし立てる者、口笛を吹き鳴らす者、反応は様々だが、その中の誰も真島の身を案じてなどいない。
ただ刺激が欲しいだけ、騒げる理由が欲しいだけ、の目にはそのようにしか見えなかった。


「真島さんやめて!そんな危ない事せんといて!」

は人だかりを掻き分けて無理矢理入り込み、真島を止めようとした。
しかし、にチラリと目を向けた真島は、その余裕めいた笑みをまだ崩さぬままだった。


「私の事はご心配なく。それより、ママの方こそ下がっていて下さい。
あまり近くに来られますと危険ですので。店の女の子達も連れて、もっと離れて・・」
「女よりおどれの身を心配せんかいボケェ!!」

気の荒そうなチンピラが一人、喋っている真島に不意打ちで殴りかかった。
は反射的に悲鳴を上げ、真島がその一撃をまともに受けて吹っ飛ぶ様を想像してしまった。
しかし、実際にはそうならなかった。


「・・・・・え・・・・・・?」

真島はまるでそれを予知していたかのように、チンピラのパンチを腕でガードし、逆に鋭い蹴りを繰り出した。
それをまともに受けて派手に吹っ飛んだのは相手の方で、真島は涼しい顔のまま身体を揺らし始めた。
その動きは喧嘩というよりはまるでダンス、ディスコで踊ってでもいるかのようだった。


「ふ、ふざけやがって!」
「いてこましたれやぁ!」

何十人といる男達が、我先にと真島に襲い掛かっていった。


「ィ〜〜〜ヤッハァァッ!!」

突然、甲高い奇声が上がった。
男達ではない、野次馬でもない、その声を上げたのは真島だった。
真島が素っ頓狂な奇声を張り上げながら、楽しそうにブレイクダンスを踊り出したのだ。


「ヤッホーゥッ!」

いや、そうではない。
それはダンスであって、ダンスではなかった。


「がはぁっ!」
「ぐえっ・・・!」

一斉に襲い掛かっていった筈の男達が、逆に凄い勢いで弾き飛ばされていく。
そう、真島は連中を確実に潰しにかかっていたのだ。
時に激しくリズミカルに、時に流れるような滑らかな動作で相手に絡みつき、見ているこちらの目が回る程身体を回転させては、何人もの男達を同時に蹴散らす。
おもむろにアクロバティックなポーズを決めたかと思うと、側にいた奴の脳天に強烈な踵落としを喰らわせる。
目を見張る程鮮やかな宙返りで野次馬達を一層沸き立たせておいて、次の瞬間、容赦なく振り下ろした脚の一撃で目の前の奴にとどめを刺す。
一見ブレイクダンスのショーにしか見えない光景だが、やはりそれは喧嘩以外の何物でもなかった。
今、目の前にいるのは、の知っている真島ではなかった。
水を得た魚のようにいきいきと、愉しげに笑いながら『踊って』いる真島に、は只々圧倒されながらも、何かが見えかけたような不思議な感覚に捉われていた。
真島が貫くと決めた生き方は、この事なのだろうか?
プロ顔負けのこのダンスで身を立てていきたいとか、そういう具体的かつ表面的な事ではなく、もっと漠然とした、けれども本質的な何かが、今の彼の姿から滲み出ているような気がしてならなかった。


「う・・・うおおおお!」
「凄ぇぇぇ!」
「カッコええーーっ!!」

気が付くと、『ショータイム』は終わっていた。
拍手が鳴り響き、あれだけの人数で息巻いていたチンピラ達は、今はもう全員地べたに昏倒していた。
その中央でピタリと立ち止まって背筋を伸ばした真島は、さっきまでの弾けっぷりが嘘のように、野次馬達に向かって恭しく一礼をした。


「お騒がせ致しまして大変申し訳ございませんでした。
ご覧の通り、当店の営業を妨害なさっていたお客様方がお帰りですので、店内只今空いております。
どうぞ皆様、『クラブ パニエ』にお越し下さい。心よりおもてなしさせて頂きます。」

まだ興奮冷めやらぬ野次馬達の内の何人かが、真島の呼び込みに応じて集ってきた。


「兄ちゃん、アンタごっついなー!」
「ありがとうございます。お店はあちらです。どうぞ。」
「いやぁおもろいモン見せて貰ろたわ〜!こんな変わったケンカ見たん初めてやでぇ!」
「ありがとうございます。どうぞ、あちらへ。」

真島は集まって来た客に店の女の子達をつけて、次々と店内へ送り込んでいった。
そして、最後の客を送り出すと、まだ伏したままの連中に歩み寄り、威圧的な目で彼等を睨み下ろした。


「俺の勝ちや。約束守って貰うで。全員有り金全部出せや。」
「う、うぅ・・・・・・・!」
「まさか今更泣き入れる気とちゃうやろな?近江直参の岩下組の皆さんは、己の落とし前ひとつようつけられへんヘボ揃いか?」
「だ、誰がヘボじゃ・・・・・・!」
「だ、出しゃあええんやろ、出しゃあ・・・・・!」

真島に挑発された男達は、血だらけの顔を歪めてヨロヨロと身を起こし、それぞれ財布の中身を全て真島に差し出した。


「クソッタレ・・・・・!おどれ一体どこの組のモンじゃ・・・・!?」
「お前らの親父に言うといたやろが。どこの組のモンでもないわってな。」

真島は連中の手から毟り取るようにして金を回収し、もう一度連中を冷ややかに睨みつけた。


「帰って岩下に伝えとけ。女一人口説くのにもいちいち組挙げんと出来んのか?ってな。」
「ぐっ・・・・・!」
「おんどりゃあ、覚えとれよ・・・・・・!」

連中が捨て台詞を吐いて半死半生の身体を引きずりながら逃げ去っていくと、真島は回収した金をまとめてほれ、とに手渡した。


「・・・・・ありがと・・・・・・」

それ以降、言葉が続かなかった。
あの凄いダンスをさっきの野次馬連中のように称賛したいのに、お陰で助かったと感謝したいのに、逆にどんどん心が重くなってくるのは何故なのだろう。


「・・・・そやけど、もうあんな危ない事はせんといて。あんな人数相手に・・・・無茶やわ・・・・・」

が呟くと、真島は一瞬きょとんとしてから、事も無げに笑って見せた。


「俺の事なら心配要らんて言うたやろ。あれが俺の『本職』や。あないな雑魚がなんぼ程束になったかて、負ける気せんわ。」
「『本職』は向こうも一緒やろ。」

ヘラヘラと笑っていた真島が、ピタリと口を噤んだ。
きっと今、鏡を見たら、凄く嫌な顔をしているのだろう。
だが、止められなかった。


「もし刺されでもしたらどないする気やったん?店の女の子らやお客さんらが巻き込まれたら、どないする気やったん?」
「・・・・それは・・・・」
「うちの店の事を思ってくれるのは有り難いけど、危ない事はせんといて。」

口をついて出てくる正論とは別の、もっと利己的な感情が、の心の中に蟠っていた。
真島が手伝ってくれるようになってから数日、彼は日に日に店に溶け込んできている。
さっきの乱闘も、物騒な荒事を、人目を惹き付けるショーに仕立て上げて客の呼び込みにまで結びつけるなんて、見事としか言い様がなかった。
店の者達はこれでまた一段と真島に好感を持ち、彼を頼りに思うようになるだろう。
誰よりも自身がそうなりかけているのだから、間違いなかった。
東京に帰らないで、このままずっとここにいて欲しいと、言ってしまいたくなっているのだから。


「・・・すまん。ちょっと出しゃばり過ぎたわ。」

だから、そんな風にしおらしい顔をして謝らないで欲しかった。
真島は何も悪くない、悪いのは自分なのだ。
この人とはもう同じ道を歩めないと分かっているくせに、日に日に諦めきれなくなってきている自分が悪いのだ。
中途半端に一緒にいたらこうして後が辛くなる事も、最初から全部分かっていたのに。


「・・・・・ごめん・・・・・言い過ぎた・・・・・」

真島の顔をまともに見ていられずに俯くと、大きな掌がの頭にポンと乗っかった。


「んな景気悪い顔すんなや!お前がそんな顔しとったら、女の子らが皆不安がるし、客かて逃げてまうわ!」

真島はもう笑っていた。
何も気にしていなさそうに、明るく、平然と。


「ほれ、店戻るで!今日もバリバリ稼がんとなぁ!」
「・・・うん・・・・・!」

だからも、同じように笑って頷いた。
もうこれ以上、真島に余計な心配をかける訳にはいかないのだから。



















様、お待たせ致しました。ご用意が出来ました。」

あの乱闘騒動の翌々日の午後、は銀行に出向いていた。
それ自体は両替や支払いの為に定期的に行っているルーティンワークなのだが、今日の一番大きな目的は、纏まったお金を引き出す事だった。


「どうぞご確認下さい。」
「はい。」

目の前に積み上げられている札束を見つめていると、覚悟を問われているかのような気がした。
必ずうまくいくという保証はないが、それでも本当に構わないのか、と。
だが、他にどんな方法があるだろうか。
保証はなくとも、これに賭けるより他に手段はなかった。


「・・・はい、確かに。」
「ありがとうございます。では、お包み致しますね。」

封筒に入れて貰った札束をバッグの底にしまい込み、抱き抱えるようにしてしっかりと持って、は銀行を出た。
連日のように続いていた嫌がらせが、あれからぱったりと止んでいる。
あれだけの人数を送り込んだのにまるで歯が立たなかった事で、流石に向こうも怯んだのかも知れないが、だからと言って、もうこれっきり何もしてこないと安心出来る訳ではなかった。
このままずっと受け身でいては、いつまた妨害をされるか分からない。
これ以上の被害を出さない為には、思い切ってこちらから先手を打つしかなかった。
そう、開店資金の残額を全て支払って、今すぐあの店を買い取るしか。
従業員を抱え、家族を支えているにとって、それは背水の陣とも言うべき最終手段だった。
これで自分の蓄えはほぼ全て吐き出す事になってしまうが、それで店を守り、元の平穏を取り戻せるのなら、迷う余地はなかった。
銀行を出たは、組に電話を入れに行った真島の姿を探して、辺りを見回した。
すると、丁度電話BOXから出て来る彼が見えた。に気付くと、真島は小走りで駆け寄ってきた。


「おう。何や、もう用事済んだんか?」
「うん、今終わったとこ。組の方は?どないやった?」
「変わりなしや。」

真島は煙草に火を点けて、煙を一口吸い込んだ。
別に取り立てて何の感情も表れていないその顔に何となく予感を覚えたのは、の勘が特別鋭いからではなく、元から決まっていた事だったからなのだろう。


「・・・予定通り、明日までこっちおって、日曜に東京帰る事にしたわ。」

予感は案の定当たっていた。
週末の夜が最も忙しいと分かっていて、そこまで付き合ってくれるつもりのその気遣いが、寂しくも嬉しかった。


「そやけど、何かあったらいつでも連絡せぇや。岩下の事だけやのうて、単に男手足らんから手伝いに来てくれっちゅうのでも構わんから。な?」

社交辞令だろうか?でも多分、そうではないのだろう。
情の深いこの人は、もしも実際にそうしたら、きっと本当に来てくれる。
けれども、どんな顔をして会えば良いというのだろう。
恋人にもなれず、友達にもなれず、一方的にただ面倒をかけるだけの女なんて、邪魔にしかならないのに。


「うん、ありがと。」

真島の目をまっすぐに見つめ、は明るく笑って頷いた。
今考えるべき事は、店の事と、残りの2日間を如何に楽しく過ごすかという事だった。
涙を呑んで別れた悲しい記憶の上に楽しい思い出を塗り重ねて、これから先を、前を向いて歩いてゆけるように。


「帰りの時間決めてんの?」
「いんや、そん時起きた都合で適当にしよと思っとるけど?」

楽しい思い出作りと言えば、どこかへ遊びに行く事がまず頭に浮かんだ。
それに、よく考えてみたら、真島とはデートらしいデートをした事がない。
これだと閃き、は手を打ち鳴らした。


「ほな明日の夜、店閉めたらパーッと夜遊びせぇへん?店の子らも皆誘って!」

二人きりのデートでなくても良い。
いや、むしろ大勢でワイワイ騒ぐ方が、きっと後で寂しい影が差す事もなく、純粋に楽しい思い出になってくれる。
そんなの思い付きを、真島も楽しそうな笑顔になって喜んでくれた。


「おっ、ええのう!楽しそうやんけ!」
「何がええかなぁ?カラオケ?ボウリング?それともディスコ?」
「言うとくけど、そのどれを選んでも俺が勝つで。」
「あははっ!『勝つで』って何やねんな!何で勝負になってんねん!」
「何言うてんねん、勝負せなおもろないやんけ!」

春の日差しの降り注ぐ明るい街を、楽しい計画を練りながら、真島と連れ立って歩いた。
この陽気と相まって、足取りも心も自然と軽く、弾んでいた。
店に着いたその瞬間までは。


「・・・・あれ?」

はいつも通りに、勝手口のドアに鍵を差し込んで捻った。
しかし、鍵が回らなかった。
そんな筈はないのだが、もしかして回し方が逆だったかと反対側に回してみると、鍵が閉まった。


「え?」
「何や?どないしてん?」
「うん、鍵がな・・・・・」

もう一度、いつも通りに回してみると、鍵が開いた。


「・・・・なぁ、私昨夜帰る前、ちゃんとここの鍵閉めたよな・・・・?」
「あ?おう、閉めとったと思うけど。」

嫌な予感がして、は急いで中に入った。
特に異常は無さそうなキッチンを素通りし、フロアに駆け込んでみると。


「あぁっ・・・・・!?」

フロアがめちゃくちゃに荒らされていた。
一歩入るなり突然見せつけられた衝撃的な光景に、は思わず悲鳴を上げた。


「な・・・何やこれ!?」

後を追って来た真島も、驚愕の声を上げた。
テーブルはひっくり返り、革張りのソファは切り裂かれ、壁やカーペットにはスプレーペンキで酷い落書きをされ、バーカウンターの棚に陳列してあった酒のボトルやグラスはほぼ全部、床の上で粉々に砕け散っている。
昨夜店を閉めた時にはいつも通り綺麗だったのに、一体いつの間にこんな事になってしまったのか。
大切に大切に作り上げてきた店が、どうしてこんな事になってしまったのか。


「そんな・・・・・・・」
っ・・・!」

急に足の力が抜けて、床にへたり込みそうになったを、真島が咄嗟に抱き止めた。


「大丈夫か?」
「だ、大丈夫、ちょっとよろけただけ・・・・。とにかく、警察・・・・、警察に電話せな・・・・・!」

しっかりせねばならない。
この店の主として、しっかりしなければ。
その一念で動揺を抑え込み、は真島の腕から離れて一人で駆け出した。












の通報を受けて、警察がすぐに駆けつけて来た。
表のドアやシャッターには異常が無かった事から、犯人は恐らく空き巣がよく使う手口で勝手口のドアの鍵を開けて侵入したのだろうと判断された。
しかし、派手に荒らされていたのはフロアだけで、他にこれといった被害はなく、金庫を開けようとした形跡さえも無いようだった。
その状況から、盗み目的の泥棒の犯行ではなく店を荒らす事自体が目的の犯行、つまり、性質は悪いが只の嫌がらせだと見立てた警察は、恐らく犯人を特定するのはほぼ不可能だろうという、実に消極的かつ非情な結論を告げて引き揚げていった。
防犯カメラも無く、目撃者も今のところおらず、証拠らしい証拠が何も無いというのがその理由のようだったが、それはにとっては、諦めて泣き寝入りしろと言われているようにしか聞こえなかった。
一応指紋は採っていってくれたが、不特定多数の人間が出入りしている飲食店だからという事で、それもあまりあてにはならないようだった。
だが、うちしひがれる暇さえ無かった。
修理屋を呼んで鍵の取替をして貰い、荒れ果てた店の中を大まかに片付け、店の従業員達や出入りの業者に電話をして当面の休業を知らせ、この店を作る時に内装を任せた工務店に改修依頼の連絡をしたりと、やらねばならない事が山積みで、事態が一応収束したと言える頃にはもうすっかり夜になっていた。


「・・・・何とか一区切りついたな・・・・・・」
「うん・・・・・」

壊滅状態のフロアでは休憩もままならず、二人は事務室の応接セットのソファにそれぞれ腰を落ち着けた。
すぐさま煙草を吸い始めた真島の表情は、苦々しかった。
当然だ。最後の最後まで面倒をかけてしまったのだから。
は居た堪れない思いで、真島の手元にガラスの灰皿を差し出した。


「・・・・クソッタレが、やってくれるやんけ・・・・・」

が詫びるより一瞬早く、真島が先に言葉を発した。
その低い呟き声には、思わず竦んでしまいそうな程の怒りが漲っていた。


、岩下の事務所どこや?」
「そ・・・、そんな事訊いてどうする気・・・・?」
「決まっとるやろ、カタつけに行くんや。このまま放って東京帰れるかい。」

その意味は、にもすぐに理解出来た。


「あかんてそんな事・・・・・・!」
「何があかんねん。こんな事されて黙っとれるかい。
俺も元同業者やから、お前の立場や気持ちは分かる。そやから、これまではお前の言う通りに黙って引き下がってきた。
せやけど、もうこれ以上は黙っとれんわ。」
「そやから一人で岩下さんとこ殴り込むっちゅうんか!?そんなん無茶やわ!」
、俺は・・・!」

真島の強い眼差しに射抜かれ、は密かに息を呑んだ。


「・・・・・俺は・・・・・、ずっとここにおれる訳やない。じきに東京帰らなあかん。
そら何か力になれる事があるんなら、いつでも飛んで来る。
そやけど、この街に住んで、ずっとお前の側におって、お前を守ったれる訳やない。」

どうしてそんなに真剣な目をするのだろう。
そんな目をされたら、断ち切れるものも断ち切れなくなってしまいそうなのに。


「せやから、俺にはこれしか出来んのや。場所教えてくれ。」

はぐっと奥歯を噛み締め、身体に力を込めた。


「嫌や!」
「あぁ!?」
「こないだも言うたやろ!『本職』は向こうも一緒や!
こないだのは向こうから仕掛けてきた事やし、人目もぎょうさんあったからあれだけで済んだけど、こっちから殴り込みに行くのは話がちゃうやろ!?
銃でも向けられたらどないすんの!?私はあんたに、そんな目に遭って欲しくないんや!」

佐川がそうだったように、真島もまた、極道の道を歩み続けている限り、常に危険がついて回る。
ならばせめて、彼をそれ以上の無用な危険には晒したくなかった。
初めて出逢った時のような惨い姿に、もう二度となって欲しくない。
もう二度と、大切なものを失って欲しくない。
だから今、彼の目の前で、自ら断ち切らなければならなかった。
彼への想いを、日に日に募る一方だった未練を。


「・・・あんたの気持ちは嬉しいわ。そやけど、私はあんたに守って欲しくてここにおって貰ったんとちゃう。
私は、あんたにまた逢えただけで嬉しかったんや。
あんたが私の事を覚えてて、気に掛けて来てくれただけで、十分やったんや。
それ以上の事なんか、最初から何も考えてないわ。」

の意図が伝わったかのように、真島は一瞬、表情を固く強張らせた。
そんな彼に、は微笑みかけた。


「ありがとう。あんたにはホンマに感謝してる。でも、この店を守るのは私の仕事や。
だって自分の店やねんから、自分で守るのが当たり前やろ?」
「・・・・・・・・・」

真島は何か言いたげに口を開きかけたが、やがて唇をぎゅっと引き結ぶと、微笑みを浮かべた。


「・・・・・分かった。せやけど、一人で無理すんなや?にっちもさっちもいかんようになる前に、相談ぐらいせぇよ?」
「うん、分かってる。」

優しい、けれど何処か寂しげな真島の微笑みは、が明るく笑って頷くと煙のようにかき消えて、代わりに素っ頓狂な程の大きな溜息が、その口から飛び出した。


「はぁ〜あ!何や腹減ったのう!」
「ホンマやなぁ。」
「帰りがてら、何か食いに行こか?」
「うん・・・、でも私はもう少しここにおるわ。片付けとか帳簿とか、もうちょっとやっときたいし。先帰っててくれてええで?」
「いや、それなら何か買うて来るわ。パパッと食べて、二人でチャッチャと片付けようや。その方が早いやろ?」
「ふふっ・・・、うん。ありがと。」

が笑って頷くと、真島は煙草をもう一口吸ってから灰皿に押し付け、跳ねるように身軽な動作で立ち上がった。


「よっしゃ!ほなちょっと行って来るわ!お前何がええ?」
「何でもええわ。」
「あぁぁ!?」

真島が突然、ドスの効いたガラの悪い大声を上げた。


「それがいっっっちゃん困んねん!!女の『何でもええわ』程、信用出来んもんはないんや!!」
「ビックリしたぁ・・・・・!何急に怒ってんの?」
「蒼天堀におった頃に、いっっっつもそれで店の女共に振り回されとったんや!
飯でも差し入れでも、何でもええわ〜言うてた割に、いざっちゅうたら『コレの気分やない』とか言いよんねん!」

怒っている真島には悪いが、そうして振り回されている彼の姿を想像すると、何だか笑えた。
怖い見た目の割に意外と親切で優しい人だから、女の子にしてみれば安心して我儘が言えたのだろうと想像がついた。


「あ〜、あはは。女の子はそういうとこあるなぁ。」
「アレは何なんやホンマ!?何でもええ言うてた癖して何で文句言うねん!?」
「何でって、そのまんまやん。特に何が食べたいって希望がある訳とちゃうねんけど、出されたものを見たら、ソレの気分じゃなかったっていうだけ。」
「何やねんそれ!ワッケ分からんわ!ほんなら最初から候補挙げとくとかしてくれや!俺はエスパーちゃうっちゅーんじゃ!」
「分かった分かった。そんな怒らんといてぇや。」

は声を張り上げて憤慨している真島を笑って宥めながら、何を食べようか考えた。
本当は何か食べようという気分ではないのだが、こんな時だからこそ、無理にでも何か食べて元気を出さねばならなかった。


「ほな、サンドイッチにしよかな。」

考えた末にそう頼むと、真島は疑るようなジト目でを見つめた。


「卵か?ハムか?それともカツか?」
「ん〜、じゃあミックスで。あ、それとオレンジジュースも。」
「よっしゃ。」

真島は何だかやたらに尊大な顔付きで頷くと、一人で出掛けて行った。
行先は恐らく近くのコンビニだろう。きっとすぐに帰って来る。
それまでに、やってしまいたい事があった。
はひとまず煙草に火を点け、薄荷の香りのする煙を深く吸い込んだ。
まず、怒りと不安と緊張とでバラバラに張り裂けそうになっている心をそれで鎮めると、デスクの椅子に腰を下ろし、引き出しから名刺のファイルを取り出してページを繰った。
そして、岩下の名刺を探し当てると、そこに書かれてある番号に電話を掛けた。
何回かの呼び出し音の後、野太い男の声が『岩下組です』と応答した。


「もしもし、夜分に失礼致します。クラブパニエのと申します。岩下さんはおられますか?」

男はまるで威嚇するような声音で、ちょう待っとれ、と答えた。
暫く待っていると、やがて電話の向こうからまた声が聞こえてきた。


『もしもし?ワシや。』
「こんばんは、クラブパニエのです。いつもお世話になっております。」
『珍しいやんけ、アンタから電話くれるやなんて。』
「実は、折入ってお話があるんです。近い内にお時間頂けませんか?」
『ああ、構へんで。今からどうや?』
「今から・・・ですか?」

数日中のアポイントを取るつもりが思わぬ展開になり、は少しの間考え込んだ。


「・・・・分かりました。では、今からお伺いします。」
『おう、待っとるで。』

電話を切ると、はもう一口煙草を吸って火を消し、金庫から店の権利に関する書類一式が入った大判の封筒を取り出した。
元々数日中にも話をつける気でいたのだから、それが少々早まっただけの事で、悩む余地はなかった。
少し考え込んだのは、買い物に行っている真島を締め出してしまう事になるのが気に掛かっただけで、それも解決策を思い付いたから、もう何の心配も無かった。


― ・・・・吾朗・・・・・・

言われた側から相談もせずに一人で行ったら、怒るだろうか?
けれども、真島が大阪にいる間に決着をつけた方が、彼も安心して東京に帰れる。安心して、また元の暮らしに戻っていける。
今は怒らせてしまうかも知れないが、それでもその方が、結果的に彼にとっても良い筈だ。
自分にそう言い聞かせながら、はメモ用紙に真島宛てのメッセージを書いた。
それから、身支度をする為に控室に行き、ワードローブハンガーに掛かっている沢山のドレスやスーツの中から、一番地味に見える黒系のアンサンブルスーツを選び出した。
毎夜やっている事だから、支度に時間はかからない。着替えと簡単な化粧直しを含めても、ものの10分とかからずに終わった。
後はジャケットを羽織れば、すぐにでも出掛けられる。
だというのに、まだそれが出来ずにいるのは、怖気づいているからだろうか?
真島が帰って来るのを待って、ついて来て貰った方が良いのではないかと考えているからだろうか?
しかし、それは甘えというものだった。
真島はきっと、こんな修羅場を幾つも幾つも乗り越えてきた筈だった。
たった一人で、その身体ひとつで、自分の道を切り拓いてきた筈だった。
その身体に刻まれた刺青を、冗談めかして自分専属の用心棒だと比喩していたいつかの彼をふと思い出して、は微かに笑った。
真島はきっと、もうとっくに忘れてしまっただろう。そんな話をした事も、それよりもっと遠くて小さな、他愛ない思い出も。
はその辺に転がっていたボールペンを手に取って、自分の左腕に描き始めた。
たとえ真島が忘れていても、の記憶に残っていたそれは、に勇気を与えてくれるようだった。
彼のように、一人で立ち向かっていく勇気を。




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後書き

バトルシーンを文章で表すって難しいです。
書きすぎてもテンポが悪くなるし、かと言って言葉足らずでも伝わらない気がするし。
結局いつも『まぁ主旨はバトルじゃなくてラブやからいっか☆』となって、楽な方に流れて(諦めて)終わるんですけれども(笑)。
そんなこんなで長々と続いて参りましたこの作品、いよいよ佳境に入ってきました!
あともう少し、最後まで是非お付き合い下さいませ!